「人生を変えた時代小説傑作選」と題して、山本一力・児玉清・縄田一男の3人が”人生を変えるほどの衝撃を受けた”短編小説を二編ずつ選んだアンソロジーが文春文庫に収められています。6つの小作品のどれも楽しく読みましたが、とりわけ菊池寛作「入れ札」が面白かった。
ときは江戸時代末期。主要登場人物は国定忠次(忠治とも:ここでは忠次で)。所は上州は利根川付近の高原。そこに、赤城を追われ、隣国信州への国越えを試みる忠次一行12名の姿がありました。赤城に籠った当座50人近くいた乾児(こぶん)も今は11名。しかし代官を斬り、関所破りをした忠次が10余名の乾児を連れて他国を横行することは出来ない相談です。
手ごろな2・3人を連れて行くとしたら誰にしようか、心のうちでは既に顔ぶれを定めた忠次ですが、その名を言い出せず、自分ひとりで信州へ落ちて行く積りだと、切り出します。これには子分たちが大反対。「お前さん一人を手放すことは出来ない。お前さんが此奴だと思う野郎を名指ししてお呉んなさい」と言われてしまいます。
暫しの沈黙が続くなか、籤引きにしようと十蔵が妙案とも思える案を口走りますが、最後には「入れ札」に落ち着きます。
11名各自が一票づ投票し、得票の多い順に3名を選ぼうと決まります。「入れ札」とは今で言う選挙です。いよいよ投票が始まります。ここまで読んできて、私には「自分に投票するのはありかな」とツマラナイことが一瞬頭を過ります。
ここからは本物語の主人公九郎助の心理描写です。彼はこの集団の長老ですが、最近の喧嘩場での不始末から自分への声望がめっきり落ちている事を実感していました。長老たる自分が選挙で落ちるような事があれば、面目丸潰れです。思いあまって自分の名前を書いてしまいます。日頃面倒をよく見ていた弥助は「お前さんに入れたよ」と言わんばかりの微笑を九郎助に向けます。
内心、九郎助は自分に投票したことを恥じますが 開票の途中結果は、浅太郎が4票、喜蔵が4票、嘉助が1票、自分が1票。残り1票の段階まで開票が進んで、九郎助は、”自分が入れた1票と弥助が入れた1票の合計2票で”自分が3位で、選に入ったと確信しホットします。がどっこい、最後の1票は嘉助に。九郎助は落選しました。
かくして忠次一行4名と別れる段がやってきて、九郎助は、落選した失望より自分の浅ましさを恥じます。が秩父へ落ちようと山を降りかけると、弥彦が後を追いかけてきます。「11人中、お前の名前を書いたのは俺ひとりだったな」と。この野郎嘘つきやがってと抜き打ちに斬ってやろうと刀の柄を握りしめますが。しかし、その訳を口にすることは自分の浅ましい行為を語らねばなりません。
暗い気持ちの九郎助とは対照的に、行く手に蒼々と聳え榛名の山を描いて物語は終わります。
”自分には投票しない”。このへんが、かっての日本人の心の敷居だった。それが今は下がって来ていると山本一力は座談会で嘆きました。
これと似たような仕組みを体験したことがありました。かって、学校内では各分掌の主任を選挙で選んでいました。苦労だけ多い主任などに誰もなりたくはありません。ですから自分に投票する行為は殆どなかったでしょう。ただ面子とかを考えればそれもあったかも知れません。
又初任校で、組合の本部委員を選ぶ直前に、自分などその柄ではありませんよと公言していた人が、満票10票の得票を得て落ち込むのを思い出しました。斬り合う場面も登場しないこの異色の時代劇を大変面白く読めたのはその影響があったと思います。