かっこうのつれづれ

麗夢同盟橿原支部の日記。日々の雑事や思いを並べる極私的テキスト

3..維盛 悩乱 その1

2008-04-13 20:08:11 | 麗夢小説『麗しき夢 屋島哀悼編』
 普段は遠く耳について離れない波の音が、珍しく今日は静かであった。そのためか、風に乗って聞こえてくる今様や笑いさざめく御所の声が、より間近くはっきりと聞こえてくるような気がする。小松三位中将平維盛は、天にかかる満月のような明るい音に顔をしかめ、一人黙然と濁り酒に口を付けた。
 酒は嫌いな質ではない。御所の女房や公達達と明るく遊び歌うのも良い。だが、今は駄目だった。あの八ヶ月前の都落ち以来、維盛は心の底から楽しむということができない。代わりに胸を満たすのは、頭を締め付けるような耐え難い哀しみと、やもすれば止めどなく涙を溢れさせる、深い後悔の闇であった。
 何故連れてこなかったのか。
 どのような恥辱を受けようとも、生まれは違えど死ぬときは同じとまで誓い合った大事な女(ひと)を、どうして都へ置いてきてしまったのだろう。
 この八ヶ月というもの、何万回思ったかもしれないその繰り言を、維盛はひたすら続けている。そして、幸せだった頃の婉然としたその微笑みや、別れ際に見せたくしゃくしゃに泣きつぶれた顔を思い出し、自分もまた新たな涙におぼれるのである。
 妻だけではない。幼い子供達も、笑い、泣きして維盛の嗚咽を絞らせる。何度都で再会する夢を見て、うれしさに目覚めた事か。そして、あれ、どこに? と彷徨う目が、都の屋敷とは似ても似つかぬ黒木作りの柱を見たときの言いしれぬ虚無。それが夢であったことを、夢に過ぎなかったことを理解するしかない胸苦しさ。会いたい。一目でいいから夢でない姿を見たい。幻ではない暖かく柔らかな体を抱きしめたい。だが逢えない。ここは讃岐国屋島。寿永二年七月の都落ち以来、半年以上に渡って帝の坐す「都」として居を定めた、西国の辺地である。ここから、源氏の手に落ちて久しい京の都に戻るなど、夢でも叶う物ではない。
 その絶望がかえって維盛の妄念を膨らませる。
 会いたい。
 話を交わしたい。
 手を握りたい。
 抱きたい。
 抱きしめたい! 
 不意に怒りが心の表面に躍り出て、維盛は杯を床に叩きつけようと手を振り上げた。そして、そのまま力つきたように座へへたり込むと、今危うく難を逃れた杯に、次の濁り酒をついだ。勢い余って狩衣にこぼれるのも構わず、その酒を口に注ぎ込む。
 そう、維盛には判っていたのだ。もともとどう望もうとも、愛する家族を同伴することなど到底不可能だったことを。
 平氏は都落ちするに際して女子供を全て残していったわけではない。むしろ、清盛の正室であり、宗盛、知盛ら首脳陣の生母でもある二位の尼こと平時子や、彼らの妹で今上帝の母である建礼門院徳子を始め、おのおのの奥方、側室や、幼い子供達、帝の世話をする女官や日々の慰みにと白拍子などまでごっそりと連れて、平氏は瀬戸内の海に浮かんだのである。維盛のように捨てるがごとく妻子を残していった者の方が、極めて稀だった。
 維盛の正室は、治承元年(1177年)夏に起きた鹿ヶ谷の陰謀の首謀者、新大納言藤原成親の愛娘だった。
「平氏にあらずんば人にあらず」
 平大納言時忠が当たりはばかることなく豪語した、平氏の権勢絶頂期のことである。ほんの足元で突としてわき起こった平氏追い落としの密議。影の首謀者である後白河法皇こそ難を逃れたものの、その罪を一身に着る羽目になった成親には、何の容赦も加えられなかった。いや、日頃目にかけ、大事な嫡孫の正室に娘を貰い受けるほど近しい関係を取り結んでいた相手の裏切りだ。終生人に対して激しい愛憎をぶつけてきた清盛に、その裏切りが許せようはずもない。清盛は、桓武帝以来守られてきた「貴族に死罪無し」の不文律すら踏み潰して、成親を極刑に処した。それも、崖の下にたくさんの菱を植え付け、上から突き落とすという残酷な処刑方法だったという。維盛の妻は、そんな平氏に徒なした謀反人の娘なのである。よくその時に離縁されなかったものだが、これは、父重盛の尽力のおかげであった。天皇家の外戚となり、権勢の絶頂を極める清盛も、嫡男である重盛の言葉だけは耳を傾けたのだ。だが、辛うじて守られた維盛の幸せも、重盛と清盛、この傑出した父と祖父が亡くなるまでの事だった。清盛亡き後、その後を襲ったのは、清盛の三男坊、宗盛である。兄重盛の訃報に、「世の権勢は、今こそこの手に入る」と喜んだという、いわく付きの人物は、当然のごとくその遺児達を暖かく遇そうとはしなかった。

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