かっこうのつれづれ

麗夢同盟橿原支部の日記。日々の雑事や思いを並べる極私的テキスト

3..維盛 悩乱 その2

2008-04-13 20:08:06 | 麗夢小説『麗しき夢 屋島哀悼編』
 もともと宗盛は、九才年長の兄とそりが合わなかった。それに身分が違う。重盛の母は左大臣藤原頼長の家司、高階基章の娘である。一方宗盛の方は兵部権大輔で死後正一位左大臣を追贈された、平時信の娘、時子だった。つまりまるで格が違うのである。当時、兄弟の序列は年齢よりも、母親の家格の高低の方が重んじられた。ただ重盛と宗盛では年が開いており、清盛もこの長男を何かと立てたが故に、宗盛はこの自分より身分卑しい出自の兄に対し、頭を上げることが出来なかったのだ。その鬱憤が、残された重盛の子供達、小松一門に向けられた。維盛や弟の資盛は、しばしば困難な戦に大将軍として出征するよう強要され、そして当然のように何度も敗けた。北陸遠征では木曽義仲の奇襲に為す術もなく撃ち破られ、命からがら逃げ帰ったことすらある。それでも維盛には、都落ちの際離脱した池大納言頼盛のような真似は出来なかった。平氏を離れて生きていくなど、祖父と父の厳しくも愛情溢れる庇護の元、宮廷人として出世した身には想像すら出来るものではない。だから今や一門主流と化した時子の息子達に邪険に扱われ、その無能ぶりを嗤われようとも、黙ってついていくしかないのだ。
 今維盛は、あの時祖父の怒りのままに、すんなり離縁していた方が良かったのではなかったろうか、と真剣に悩むことがある。もちろん、比翼の鳥、連理の枝とその仲睦まじさを例えられた維盛に、そんなことが許せるはずもない。でもそれなら、ただ祖父を恨み奉るだけで済んだかもしれない。あの威厳と力に満ちあふれ、法皇すら歯牙にかけない権勢を振るった恐ろしい祖父。全てをこの祖父のせいにして、気持ちを整理し諦めることも出来たかもしれない。そうすれば、今、何の希望も見いだせず、近い将来きっと訪れる討ち死への恐怖と、絶対に会うことはない妻子への未練に溢れるこの生き地獄を味わわずに済んだかもしれない。
 いっそ自ら命を絶とうかと思ったこともあった。酔いの勢いに任せて、目の前の海に身投げすれば、それで楽になれる。現に弟の左中将清経は、九州を追い落とされ、この屋島に流れ着く途上で入水して果てているではないか。
 だがそれでも、妻子への慕情が後ろ髪を引いていた。頭では二度と会えないと理解しているはずなのに、心の隅に、「ひょっとして、もしかして」と思う未練が残っているのだ。そのために維盛は、自らの出処進退を定めることが出来ないまま、日々鬱々とした酒浸りを続けるしかないのだった。
 やがて、維盛の右手でほとんど垂直に傾けられた銚子から、最後の一滴がぽたり、と下に待ち受ける杯に落ちた。維盛は軽く舌打ちして、酒に曇りつつあった目を杯から上げた。
「誰やある、酒を持ってたも」
 言いながら、辛うじて半分ほどを濁り酒で埋めた杯を、かつて都の女性に夢見させたというその端麗な唇へと持っていった。
 ?
 右手が、ちょうど胸の前で静止した。ふと見上げた瞳に、あり得べからぬ光景が映ったのである。
「お代わりをお持ちしました」
 維盛の耳までが、あるはずのない声を拾い上げた。
「……おことは……」
 維盛は惚けたように一言呟くと、慌てて杯を放り出し、目を瞑って頭を殴った。一度そうやって夢から無理矢理覚めたことがある。これも夢だ。それも極めつけの悪夢だ。奥が、愛する家内が、土の地面を踏んだことすらない深窓の令嬢が、どうして京の都からこの屋島まで足を運ぶことが出来ようか。こんな夢は早く覚めるがいい! 目覚めて深い落胆に陥るくらいなら、いっそ今の内に醒めてくれ!
 だが、維盛の必死の叫びを嘲笑うかのように、衣擦れの音が耳をくすぐり、香を焚きしめた匂やかな懐かしい気配が、鼻孔から心へと忍び込んできた。
「おやおや、お召し物が汚れてしまいますよ」
 維盛は恐る恐る目を開き、そこに変わらず婉然と微笑み続ける想い人の姿を見た。夢ではない・・・。これは、夢ではない! 
「ど、どうした、何時参ったのだ? 何故、何故参る前に一言なりと手紙を寄越さなかったのだ?」
 すると愛しき奥方は、相変わらず微笑みつつも少しすねたような色を閃かせて維盛に言った。
「殿は一向に使いも参らせなんだゆえ、斉藤殿に頼んで連れてきて貰いました」
 維盛はかつて、「落ち着きどころが定まったら、必ず迎えを使わす」と別れの際に申し述べた言葉を思い出した。斉藤とは、維盛子飼いの郎党で、その忠義を信じ、妻子の後事を託した男である。そうか、斉藤が連れてきてくれたのか。もはや維盛は、これを夢と疑うこともなく、久しく浮かべなかった笑みを満面に湛えて言った。
「まさか、屋島のきつねがこの維盛をたぶらかさんとして参ったのではあるまいな?」
「殿はいじわるでございます」
 ぷいと向こうを向いたその横顔が、片時も忘れることが出来なかった記憶と、貝あわせの貝のようにぴたりと合わさった。

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