いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

外交の本を読んでみた

2005年05月05日 23時45分56秒 | 俺のそれ
少し前に読売新聞の書評欄「本のよみうり堂」にも出ていて、ガ島通信さんやbewaad さんが取り上げていた『国家の罠』を読んでみた。私のような浅学の人間にとっては難しい内容の本であったが、外交の前線に立たされる人の考えが少し理解出来たかもしれない。書評ができる程の読解力がある訳でもありませんが、感想などを書いてみたい。


特捜部の国策捜査についても、内側から見たものとして書かれていた。国民の知らない物語があるのだな、と思った。著者は国策捜査の犠牲となったということを言いたいのかな、とも思った。頭脳明晰な人間ならばもっと違う見方をするのかもしれないが、一国民としての意見を敢えて書くとすれば、霞ヶ関と国民の間には非常に大きな溝が横たわっている気がした。世論の矛先が目標を探し求めることで、以前には組織の誰もが「違法などとは考えていなかったこと」を国策捜査によって有罪に追い込まれるという認識は、多くの国民の支持を受ける感覚とは私には思えない。国民は知らなかったから、単に世論の矛先が向けられなかっただけかもしれない。スケープゴートを必要とされ、その通りに組織から差し出されたようなものであるのかもしれないが。


外務省の組織風土・体質、統治システムとともに、上層部や外交官達の腐敗・私欲とか権力闘争などといった、不明瞭な「霞ヶ関システム」が無かったら、矛先を向けられたりはしなかったかもしれない。そういう深淵なる官僚機構の闇の一部に強力な光を当てられ、少しばかり闇が垣間見えたことによる特捜部捜査であったのかもしれない。組織自身が変わることが出来ずに、強い外力によらざれば変革が起こらないという組織風土であるなら、外力を加えざるを得なかったのではないか。まるで、西武王国の崩壊と似ているようにも思う。


一般に、本書から窺い知る著者の評価が低いとは思えないし、むしろ「国益」を信じそれに従い行動したことに畏敬さえあるかもしれないが、組織にとっては切り捨てる対象でしかないことなのだろう。当事者や関係者という登場人物に違いがあるし、信念の次元や内容にも違いがあるだろうが、似たような現象は他の分野でもあるかもしれない。勿論、受ける罰が刑事罰などではなく、もっと軽い罰であるかもしれないけれども。


著者や担当検事の人物像について否定的な捉え方は少ないと思うが、登場人物の評価をするのが捜査や事件の本質ではないだろうし、外務省の罪が帳消しになるわけでもなく、検察の国策捜査の肯定になるわけでもない。霞ヶ関の組織は、トップが代わろうが、中の人物に入れ替えがあろうが、組織風土や体質には大きな影響がなく、官僚機構の闇は依然として残されたままということが現状なのではないか、ということが、本書を通じて感じ取れたように思う。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。