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日本国憲法と第9条に関する論点整理~2

2016年05月16日 13時21分30秒 | 法関係
続きです。

2 憲法改正の過程

 1)主な経過
日本の政治体制を大幅に変更する必要性が認識されていたことは間違いなく、天皇制を継続するか否かという大きな問題点も抱えたままであった。
恐らくはマッカーサー元帥の憲法改正の必要性があるとの認識の下、当時の幣原内閣に対し憲法改正への段取りを開始するよう、水面下での要請があったものと見てよいであろう。軍国主義に染まり切った日本を根底から変革したいという、政治勢力があったであろうことも想像できよう。

【1945年】

10月13日 憲法問題調査委員会の設置決定(幣原内閣)
10月   アチソン大使から12原則の指示が東久邇宮へ
10月27日 同委員会 第一回会合(担当 松本大臣)
11月1日 憲法改正指示を日本政府に実施した旨、総司令部声明
   (以後、東久邇宮、近衛らの憲法改正調査活動は頓挫)

【1946年】

1月7日 SWNCC-228
1月9日 松本大臣により松本私案
2月1日 松本草案 甲案 毎日新聞がスクープ報道
2月3日 マッカーサーノート(3原則)を尊重した草案作成命令
    (ホイットニー民政局長へ)
2月8日 松本大臣が「憲法改正要綱」をGHQに提出
2月10日 民政局作成の素案が完成し、元帥承認を受ける
2月13日 マッカーサー草案が日本政府に手交さる
2月22日 マッカーサー草案の採用を閣議決定
3月6日 「憲法改正草案要綱」を政府公表、GHQも賛意
4月10日 新方式の衆院選
4月17日 憲法改正草案の公表
4月22日 枢密院で憲法審議開始
6月8日 憲法改正草案、枢密院可決
6月25日 衆議院、政府提出案の審議開始
8月24日 衆議院 修正可決
8月26日 貴族院 審議開始
10月6日 貴族院 修正可決
10月7日 衆議院 貴族院修正に同意
10月29日 枢密院 可決
11月3日 公布


 2)手続の正統性と「1週間で」の批判が無効の意味

6月20日に国会召集された帝国議会の衆議院で審議されているので、手続上は法的に問題があるようには思われない。憲法改正は明治憲法73条に従い、実施されたものである。
また、GHQが一週間で作った(決めた)押し付け憲法である、という批判も、数か月に及ぶ帝国議会審議を経たものであるから、当たらないとしか思えない。

何故民政局が「不眠不休」でマッカーサー草案をこれほど急いで出したのか、ということの理由は、定かではない。連合4国の対日占領政策の最高意志決定機関となる極東委員会設置が決まっていたことと、その初回会合は2月26日だったのであり、マッカーサーないし米国の一部政治勢力がこれを知らなかったわけではないのかもしれない。
(後日談としては、マッカーサーも民政局内でも、極東委員会の件は承知していなかった、との証言が得られているが、当時(1950年代)には言う訳にはいかなかった、という事情があっても不思議ではないだろう)

米ソ関係からすると、米国が対日政策上でソ連より先行しておきたい、ということは確実だったわけであり、その為には親米的政治勢力の維持と西側体制に親和的な法体系を構築しておきたかった、という思惑があったとしても不思議ではない。つまり、極東委員会での2月末の会合前までには、日本政府の合意を取り付けておきたかったはず、ということである。


実際、極東委員会においては、中華民国が日本の軍備や政治面での軍人関与について、強い拒否を示していたことからして、日本の憲法制定に介入ないし干渉を極東委員会決定として指令してこないとも限らないわけである。そうした「米国以外の中ソの意向反映リスク」というものを回避しておこうと思えば、兎に角、既成事実としての憲法改正草案を日本政府に決定させておきたかった、ということではないか。


松本甲案の拒否は極東委員会の権限は及ばず、その日からマッカーサー草案を日本政府へ手交するまでたったの5日、マッカーサー草案作成着手から元帥承認まで7日という電光石火の早業は、どうしても26日までには政府決定を事実としておいて欲しかったからではないか、というのが個人的感想である。

毎日新聞のスクープは、旧体制の維持に過ぎない松本甲案など、反吐が出そうだという官僚諸君が存在していたとしても不思議ではなく、早々に断念させる(GHQに叩き切ってもらう)必要があったから、ということが考えられよう。
或いは、決定でも何でもないものなのに、こうなって欲しいという願望を込めて、打ち上げ花火として漏れ出た、ということもあるかもしれない。


いずれにせよ、この報道があったことにより、マッカーサーが「このまま日本人に任せておくと、全然ダメだわ」と確信し、なら自分でやるわということで、民政局の部下に命じて突貫工事で作らせることになったわけである。時間的にはギリギリだったわけで、8日に政府案を受け取ってから民政局で作業開始だと26日には間に合ってたかどうか。

マッカーサー草案がいかに短時間で作成されたにせよ、その後の議会審議時間は長かったわけであり、修正が不可能だったものでもないから、何らの問題も生じないだろう。


 3)自由な議論を封じたり世論の制限はあったのか

例として、9条に関する文言(党の意見)を見てみることにする。


①政府提出案

第二章 戰爭の抛棄
第九條 國の主權の發動たる戰爭と、武力による威嚇又は武力の行使は、他國との間の紛爭の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。
  陸海空軍その他の戰力は、これを保持してはならない。國の交戰權は、これを認めない。


②自由党修正案

 戰爭の「抛棄」を「否認」と改む


③社會黨の憲法改正草案修正意見(社會黨憲法改正案特別委員會)

草案第九條の前に一條を設け「日本國は平和を愛好し、國際信義を重んずることを國是とする」趣旨の規定を挿入。第九條と共に之を總則に移すも可。


④協同民主黨案

第二章 削除する


⑤帝國憲法改正案委員會において可決された共同修正案及び附帶決議

第二章 戰爭の抛棄
第九條 國の主權の發動たる戰爭と、武力による威嚇又は武力の行使は、他國との間の紛爭の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。
 ○陸海空軍その他の戰力は、これを保持してはならない。國の交戰權は、これを認めない。



衆議院の委員会審議及び採決を経た時点でも、政府提出案と同じだった。実際の制定された文言とは異なっていたわけである。


帝國憲法改正案(確定案)

第二章 戰爭の放棄
第九條 日本國民は、正義と秩序を基調とする國際平和を誠實に希求し、國權の發動たる戰爭と、武力による威嚇又は武力の行使は、國際紛爭を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戰力は、これを保持しない。國の交戰權は、これを認めない。



1項に挿入された前段の文言(「~希求し、」)は、社会党の修正案に似たものだったことが分かる。協同民主党案などでは、削除せよという修正案も出されていたし、当時の共産党でも「民族自決の権利放棄に繋がるから」として、自衛権(戦争)放棄はできないから反対だ、と主張していた。政府提出案に反対することは、いくらでもできたということであり、修正も可能だった。



別の参考例として、枢密院の審議開始以降の毎日新聞世論調査があった(1946年5月28日付)。

文化水準(当時、「文化」というキーワードがトレンドだった)から2千人の男女の有識階級(当時の呼称、今で言う有識者って人だろう)を選び、戦争放棄の条項について尋ねたものである。

  質問「戦争放棄の条項を必要とするか?」

  回答  必要 1395人
      不要  568人

必要の回答者中、戦争放棄条項の「修正の必要ありや」に修正不要が1117人で、草案そのままに賛成が過半数だった。残りの278人は修正すべし、で、国際連合或いは不戦条約など国際条約で定められている侵略戦争放棄の規定を国内法に取り入れたもので、自衛戦争を含まないとの解釈の下にこの草案を承認しており、自衛権保留規定の挿入すべき、という理由からである。

不要と回答した者のうち101名が侵略戦争は放棄すべきだが自衛権まで捨てる必要がない、という理由だった。他に、一方的宣言は無意味だ、余りにもユートピア的過ぎる、国際条約によるか日本が永世中立国になるかした上でこれを国際連合が保障しない限り、折角の戦争放棄規定も空文に終わる惧れが多いから、というのが72名、とのこと。


これらは、最近でもよく見かけたものであり、進歩なきままでこの何十年かが過ぎてきたということがよく分かるだろう(つまりは、年寄りからの受け売りで、同じ話を蒸し返している無益な論者がいかに多いか、ということか)。


いずれにせよ、議論が封じられていたわけでもなければ、国民に秘密にして改正過程や手続が進められたわけではなかったのである。賛成者が多い、というのが、当時の日本の世論だったようである。


※要点

※2  憲法改正手続は、明治憲法73条に則り正当に行われた。改正内容についての議論の期間も機会も概ね確保されていた。






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