経済学者である田中先生のお書きになっているブログ(クールビズにみえる小泉改革の奇妙さ)を興味深く読ませて頂いている。私は田中先生の人なりなどについては、よく存じあげないのであるが、経済学的観点からの辛口評がなかなか面白い。だが、一方では、経済学者としてどのような名声や地位や信用を築いておられるのか知る由もないのであるが、一面的な見方でしか辛口評が発揮されていないことも残念である。もっと生産的な記事を期待していたのであるが、残念ながらそれは空疎な願望に過ぎなかったと思えてしまう。
何度か書いてきたが、そもそも、経済論争とは何の為にあるのであろうか?経済学者の自己満足を満たすため?自己の正当性を最終的に確認したい為?それとも、国民の為になるような経済政策を実行出来るようにする為?単に高橋洋一氏の言論の誤りを探し出して打ちのめし、自己の優越感を得る為?よく判りません。ノーガードの記事を見たときに、非常にガッカリしました。私には、経済学的素養も基礎的知識も全く持ち合わせていませんから、経済学者に知識や言論で上回れるなどとは思っておりませんが、あまりに稚拙な内容に囚われておられるような気がして、もっと有用なご意見をうかがえるものと思っていたのに、期待ハズレでした。
記事中には、クールビズへの批判と、それを拡大して適用し、政府介入・小泉改革の異常さと、高橋氏の言説の誤りについての指摘をしているのだと思いますが、私のような素人が書く記事と大して違いのないような内容に終始しているようです。「クールビズの経済効果」に関する算出方法の誤り(疑問?)と、そこから小泉政権のプロパガンダへ直結させて非難することが、本当に学者さんのするべき重要なことなのでしょうか。
何だか下らないですね、経済学って。
そもそも、クールビズの狙いは田中先生もご指摘のような「温室効果ガス」を削減することです。が、文中には「ネクタイを締めるとフロンガス削減が進まないという実証があるんでしょうか?」という明確な指摘があるわけですが、これが根本的に誤りなんではないでしょうか?経済学の専門家というのは、「京都議定書」の新聞記事などを読んだりはしないものなのでしょうか?「フロンガス」はクールビズの主眼とは思えないのですが。
CO2(2が小さく書けないです、ゴメンね)削減をどのように考えていくか、というのは、ウチの子の教科書にも出てくるお話です。私も環境問題には無知ではありますが、このCO2削減を考えた政策であろうことは容易に予想がつきます。しかし、経済学的には「フロンガス」問題の方が重要なようで、それについての経済学的問題を田中先生が詳細に検討されても結構なのですが、政策の捉え方をご自身の勝手な解釈でのみ考察するというのは、正しくはないように思います。工業・産業部門の温室効果ガス排出削減政策とは別に、家庭・オフィス部門の削減政策の実施が必要で、近年この部門のCO2排出量が増加トレンドなのであろうと推測され、それを昔のレベル(バブル期頃かな?)を目標に削減していこう、という政策として「クールビズ」が出てきたのではなかろうかと思います。まあ、私は専門家でもございませんので、田中先生に「絶対に誤りである」などとは申せませんけれども。
温室効果ガスへの認識に乏しい国民に対する、より身近で簡単な事例を通じて啓蒙することが環境省の本来の目的であろうとも思いますので、田中先生の誤認はある意味、この啓蒙の目的が十分意味があったことの証明とも言えるでしょう(笑)。なぜなら、一般国民などに比べても、十分知的水準や社会的評価が高い人をもってしても、このような基本的誤認を続けていたわけですから。
私がこのような指摘をしてみたところで、CO2は削減出来ませんし、解決策を模索することにも繋がらないことは明白です。田中先生の「クールビズ批判&小泉改革の非難」が、政策決定の一助となったり有用な助言とならないことと同じです。他人の誤りだけをいくら指摘しても、問題解決の為には一歩も前進しないのです。経済学的評価を行うのであれば、先生がご指摘の事柄もあるでしょうし、貯蓄に回さず衣服の消費支出に回そうとする消費行動への影響もよく判らないでしょう。政府が支出した微々たる広告費以上に重要な評価と思われるのは、京都議定書の目標値が達成出来なかった場合に日本(政府)の被る国際社会での信用低下による経済学的損失の評価がどうなのか、CO2取引市場での売買総額はどうなのか、などといったことであると思えますが。これらは経済学の範疇にはないのでしょうか?私にはよく判りませんけれども。
田中先生が高橋言論(私はこの高橋氏という方についても全く存じ上げませんけれども。記事や論文も読んだこともありませんし)の非難を意図していたのかどうかは存じ上げませんが、他人の言説の否定のみを目的とするならば、同じように自分の言説について非難を甘受するものと思います。しかしながら、非常に不毛な感じがします。このような議論には、何か生産的なものがあるでしょうか?私にはそのようには到底思えません。自分でこの記事を書いていて、虚しくなります。いつまでも個人的論争に拘泥されているならば、その貴重な知識とか知的資源も、時間も労力も無駄に費消されてしまうように感じます。
もっと、高度な、私のような平凡な人間の考えでは及びもつかないような専門的レベルでの、意義のある討議・論争を望みます。そういう専門家の人達の叡智の結晶といえる結論を導き出せるならば、かなり経済学的精度の高い政策実現へ繋がるものと期待する次第です。
何度か書いてきたが、そもそも、経済論争とは何の為にあるのであろうか?経済学者の自己満足を満たすため?自己の正当性を最終的に確認したい為?それとも、国民の為になるような経済政策を実行出来るようにする為?単に高橋洋一氏の言論の誤りを探し出して打ちのめし、自己の優越感を得る為?よく判りません。ノーガードの記事を見たときに、非常にガッカリしました。私には、経済学的素養も基礎的知識も全く持ち合わせていませんから、経済学者に知識や言論で上回れるなどとは思っておりませんが、あまりに稚拙な内容に囚われておられるような気がして、もっと有用なご意見をうかがえるものと思っていたのに、期待ハズレでした。
記事中には、クールビズへの批判と、それを拡大して適用し、政府介入・小泉改革の異常さと、高橋氏の言説の誤りについての指摘をしているのだと思いますが、私のような素人が書く記事と大して違いのないような内容に終始しているようです。「クールビズの経済効果」に関する算出方法の誤り(疑問?)と、そこから小泉政権のプロパガンダへ直結させて非難することが、本当に学者さんのするべき重要なことなのでしょうか。
何だか下らないですね、経済学って。
そもそも、クールビズの狙いは田中先生もご指摘のような「温室効果ガス」を削減することです。が、文中には「ネクタイを締めるとフロンガス削減が進まないという実証があるんでしょうか?」という明確な指摘があるわけですが、これが根本的に誤りなんではないでしょうか?経済学の専門家というのは、「京都議定書」の新聞記事などを読んだりはしないものなのでしょうか?「フロンガス」はクールビズの主眼とは思えないのですが。
CO2(2が小さく書けないです、ゴメンね)削減をどのように考えていくか、というのは、ウチの子の教科書にも出てくるお話です。私も環境問題には無知ではありますが、このCO2削減を考えた政策であろうことは容易に予想がつきます。しかし、経済学的には「フロンガス」問題の方が重要なようで、それについての経済学的問題を田中先生が詳細に検討されても結構なのですが、政策の捉え方をご自身の勝手な解釈でのみ考察するというのは、正しくはないように思います。工業・産業部門の温室効果ガス排出削減政策とは別に、家庭・オフィス部門の削減政策の実施が必要で、近年この部門のCO2排出量が増加トレンドなのであろうと推測され、それを昔のレベル(バブル期頃かな?)を目標に削減していこう、という政策として「クールビズ」が出てきたのではなかろうかと思います。まあ、私は専門家でもございませんので、田中先生に「絶対に誤りである」などとは申せませんけれども。
温室効果ガスへの認識に乏しい国民に対する、より身近で簡単な事例を通じて啓蒙することが環境省の本来の目的であろうとも思いますので、田中先生の誤認はある意味、この啓蒙の目的が十分意味があったことの証明とも言えるでしょう(笑)。なぜなら、一般国民などに比べても、十分知的水準や社会的評価が高い人をもってしても、このような基本的誤認を続けていたわけですから。
私がこのような指摘をしてみたところで、CO2は削減出来ませんし、解決策を模索することにも繋がらないことは明白です。田中先生の「クールビズ批判&小泉改革の非難」が、政策決定の一助となったり有用な助言とならないことと同じです。他人の誤りだけをいくら指摘しても、問題解決の為には一歩も前進しないのです。経済学的評価を行うのであれば、先生がご指摘の事柄もあるでしょうし、貯蓄に回さず衣服の消費支出に回そうとする消費行動への影響もよく判らないでしょう。政府が支出した微々たる広告費以上に重要な評価と思われるのは、京都議定書の目標値が達成出来なかった場合に日本(政府)の被る国際社会での信用低下による経済学的損失の評価がどうなのか、CO2取引市場での売買総額はどうなのか、などといったことであると思えますが。これらは経済学の範疇にはないのでしょうか?私にはよく判りませんけれども。
田中先生が高橋言論(私はこの高橋氏という方についても全く存じ上げませんけれども。記事や論文も読んだこともありませんし)の非難を意図していたのかどうかは存じ上げませんが、他人の言説の否定のみを目的とするならば、同じように自分の言説について非難を甘受するものと思います。しかしながら、非常に不毛な感じがします。このような議論には、何か生産的なものがあるでしょうか?私にはそのようには到底思えません。自分でこの記事を書いていて、虚しくなります。いつまでも個人的論争に拘泥されているならば、その貴重な知識とか知的資源も、時間も労力も無駄に費消されてしまうように感じます。
もっと、高度な、私のような平凡な人間の考えでは及びもつかないような専門的レベルでの、意義のある討議・論争を望みます。そういう専門家の人達の叡智の結晶といえる結論を導き出せるならば、かなり経済学的精度の高い政策実現へ繋がるものと期待する次第です。