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デフレ偏愛者が多い不思議

2011年08月20日 19時28分21秒 | 経済関連
どうして、経済や貨幣の話になると、まるで見当外れなことを言い出す人たちが出てくるのかな、と疑問に思うわけです。
昔の江戸時代の「そろばん侍」(映画の『武士の家計簿』で出てくるようなお侍さん、今で言う財務官僚みたいなものだな)の方がよく理解できていたのではないかと思えるほどです。

元気なリフレ派: 大石英司の代替空港

インフレにはできない、現実の方法がない、とか、言い募るわけですが、だったら、即座にオレを日銀総裁にしろ、と言ってやりたい。ホント、方法はあるよ、と百万回言ってるのに、それを実行せずに「できない、方法がない」と言い訳するのはおかしい。
「そこの角を右に曲がって下さい」
と言ってあげてるのに、「右には曲がりたくない、他の人が曲がってないからヤダ、右にハンドルを切る方法がない、右にハンドルを切ると即衝突事故なのでできない、切りたくない」とかずーっと言ってるだけなんですよ?
オレに運転代われ、と言いたくもなるでしょう?
こんなタクシー運転手だったらどうするんですか?
右に曲がれば目的地に着くというのに、それを「信じることはできません」と盲信している方々が大勢いるので、困ってしまいます。
これほどまでに思考力がない、というのが、不思議でならない。


とりあえず、説得可能な方法を考えてみました。
あくまで私の理解で書きます。

貨幣と財という交換が行われるのが基本ですが、今は、江戸時代に倣って米粒で価値を表すものとしましょう。税金が米というのも同じ意味合いですね。給料が石高で表示されていたのも、よく分かりますね。

財の代表例として、かんざしを想定してみます。
 かんざし= 米粒 5000粒
という交換比率であるとします(かんざしが5千円と表記するのと変わらない、米粒が1円玉であれば貨幣経済と変わらない)。


デフレというのは、毎年、毎年、かんざしの価格が下がってゆくので、交換比率が4000粒、3000粒と連続して下がってゆくという経済環境のことです。このまま行くとどうなるかと言えば、ゼロに収束することになりますね。アキレスと亀みたいなものです(笑)。米粒はマイナスの粒を想定できないので(まさかかんざしを買うのに、売る側が買い手から米粒を貰うことにするというのもヘンでしょう?)、名目値しかなく、それはプラスの値でなければなりません。

インフレの世界というのはどうなのかというと、毎年毎年、上がってゆくので米粒の数は増えてゆくのです。交換比率が6000粒、10000粒、というふうに、増えてゆく、ということです。

で、社会全体の米粒の増加というのが、「経済成長」ということです。生産高が増えますよ、と。GDP増加と同じ意味合いです。つまり、経済が成長してゆくと、社会全体に出回る米粒は増加し、それに伴って他の財の価格(米粒との交換比率)は上昇するということです(他の財の変化がなければ)。

(ちょっと寄り道:
作家さんで言えば、原稿1枚につき1万円の執筆料だったものが、何の理由もなく(自分のせいとかではなく)、単なる経済現象として、毎年原稿料の引き下げが行われる社会、それがデフレです。別に仕事の手抜きをしているわけでもなく、自分の作家としての価値が下がったわけでもなく、何か原稿料を下げられる理由というものが存在していないにも関わらず、毎年毎年下げられて、1万円だったものが5千円になる社会、それが日本ということです。)


経済成長が起こっている(=米の生産量全体は増加している)にも関わらず、米管理の幕府(今でいう政府や日銀)が「米が出回るとバブリーになる不届き者が増えて困るから、米を出さん」と言って、米蔵に死蔵させているようなものです。リフレ支持というのは、「もっと米粒を世の中に出しましょう」ということを言っているのに、「いやいや、米粒は需要がない」とか「出すと、ハイパーインフレになってしまう」とか「シニョリッジは邪道だ、悪魔的手法だ」とか、そういうことを言う人が後を絶たないわけです。

いっそ石高制にして、兌換紙幣を用いるとすれば、貨幣量は増加していなければならないはずです。どうしてかといえば、日本経済は実質成長を遂げてきたからです。
つまり、兌換紙幣制度でなら、生産高(GDP)に比例して貨幣量を増加できるはずなのに、不換紙幣制度(紙幣発行の裏付け(実物)がない)をとっていると、「貨幣量を増加させることまかりならん」とか言い出すわけですね。
少なくとも、「かんざし=米5000粒」という水準が達成できるように、米粒を増やす(ひいては「物価の安定」という目的に適う)ことがどうして悪いことなのか、その疑問には誰も(日銀や反リフレ派の人々)答えていないわけです。かんざしが米3000粒とかに下落していることは、事実です。CPIという指標があるわけですから、明々白々なのです。


もうちょっと考えてみましょう。
米粒で直接取引するのは大変なので、米粒1000粒につき1枚の紙を発行するとしましょう。これを「米札(こめふだ)」と呼ぶことにします。
 米札1枚=米1000粒
となります。そうすると、かんざしは米5000粒だったので、
 かんざし=米5000粒=米札5枚
ということになります。かんざしは米札5枚で買える、ということです。

デフレ経済が続いて、暫くすると、かんざしの値段は下がっていますね。米3000粒に下がっていると
 かんざし=米札3枚
ということになるわけです。数年後のかんざしの値段の予想を人々に尋ねると「米札2枚かな」といった予想を抱くようになります。これがマイナスのインフレ期待、すなわち「デフレ期待」ということになってしまいます。

更に、稼ぎが米10000粒だった人は、デフレによって賃金が低下するので8000粒とかに下がるわけです。そうすると、賃金低下というのが

 米10000粒=米札10枚  ⇒ 米8000粒=米札8枚
といった具合になるわけです。かんざしも値段が下がっているから、実質賃金に変化はないよ、とか言われたとて、これで「ああ、稼ぎが増えた(不変)だな」みたいな実感を抱ける人間なんて、そうそういるもんじゃない。

こういうデフレ経済が続くと、人々の経済予測を「撹乱」ないし「混乱」させることになるのです。

もっと酷い場合もある。
これまでは、米粒1000粒につき1枚の米札を発行していたのが、米粒1500粒とか2000粒で1枚の米札を発行します、みたいに言うのである。日銀というのが米札発行の権限を持つわけだが、これまでの発行比率から変えるとどうなると思うか?
かんざしの価値が米5000粒すなわち米札5枚だったものが、米粒5000粒が同じであるとしても、米札1枚を2000粒で発行ということにしてしまうと、かんざし=米札2.5枚ということになり、見掛け上かんざしの値段が下がったような錯覚を抱くことになるわけである。

米札の発行を増やしてくれ、と言っているのに、それは絶対だめだという立場が日銀なのだ。どうしてダメなのか問うと、米が多くなるとバブリーになるからだ、と。なので、米札で吸収しちゃる、ということで、米蔵に死蔵させることを続けているのだ。
ヨソの国では、「小麦札」というのがあって、小麦1000粒で1枚発行だったものが、長年のインフレで800粒で1枚とか500粒で1枚とか価値が下がり、今では100粒で1枚の発行となっている。
そうすると、かつて米札1枚につき小麦札1枚の交換比率であったとすると、
 (小麦1000粒=)小麦札1枚=米札1枚(=米粒1000粒)
となる。これが小麦1000粒と米1000粒を交換する場合、インフレで小麦100粒で1枚になった世界とデフレで米2000粒で1枚になった世界であれば、
 (小麦1000粒=)小麦札10枚=米札0.5枚(=米粒1000粒)
ということになるのです。実質は、あくまで小麦1000粒と米1000粒の交換であるのに、米札と小麦札という媒介によって、見掛け上では大きく変化するということです。為替というのは、例えば日本と米国とを考えると、こういうようなことがあるわけです。

米札の発行比率というのは、日銀が決定権を握っているわけです。米の生産量が増加すると発行比率が一定でも米札は増えます。同時に、以前には米1000粒につき1枚の発行だったものを、今年獲れた米からは、米2000粒につき1枚の発行という比率に変えてしまうとどうなると思いますか?米札の発行は抑制されますよね。この比率低下こそ、マネタリーベースの伸び率低下と同じようなことなのです。

通貨供給の伸び率を大きく変えるということなると、こうした米札の発行比率を意図的に変えることになるので、かんざしと交換する際の米札の枚数減少となってしまうのである。

今話題の金価格上昇というのがあるので、これを参考に考えてみたい。
1ドル360円時代の金1トロイオンス当たりの価格が35ドルだった。日本円だと12600円に相当する。40年後に、同じく1トロイオンス当たりの価格が1820ドルだとして、日本円が1ドル76円であれば138320円になる。この40年前の12600円と今の138320円が等価であると仮定し、インフレ率が一定だったとすると、大体年平均6.2%に相当することになる。当時100円だったものは、40年後には1100円くらいになっていることになる。
米ドルだけで考えると、35ドルが1820ドルになったのだから、52倍である。インフレ率が一定であれば、年平均で大体10.4%くらい、ということになるわけである。日本円よりも若干は高いが、そんなに何十%も違うわけじゃない。5%程度の差だけである。ところが、これが40年後ともなると、11倍と52倍という風に、大きく変わるわけである(中国の経済規模というのは、まさしくこの理屈で増やしてきたということになる)。

同じように、年平均の貨幣供給の伸び率が6%であると、10年後には約1.8倍に増大する。元のマネタリーベースが50兆円だったとすれば、10ターン後には90兆円になっているということだ。
ならば、20年後ではどうか?
約3.2倍である。元が50兆円なら、160兆円に増加していなければならない計算なのだ。供給比率をおおよそ一定に保つというのは、上で見たように新たに生産される米粒に対する米札の発行比率を保つのとほぼ同じようなことなのだ。勿論、景気の良い時と悪い時では違いがある(米粒生産量が少ない時には減るし、多ければ増える)。だが、もっとちょっと長い目で見た時に、以前は1000粒に1枚の発行だったものを、1200粒で1枚の発行比率くらいに抑制してしまえば、世の中に回る米札は増えてはいかない、ということを言っているのである。

これが平均で7%ということになると、もっと大きく成長する。
10ターン後には約2倍、20ターン後には約3.9倍となる。
50兆円だったものが、100兆円に、20年後だと195兆円になっている、ということだ。日本のマネー成長がどの程度乖離しているかで、その経路に戻すという「補正」が必要なんだ、と以前から言い続けてきたのに、それをやろうとはしないのだな。だから、ダメなんだ、って言ってるのである。

参考>日銀の自慢?




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