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医療過誤と責任・賠償問題についての私案~その1

2007年04月26日 18時26分06秒 | 法と医療
大袈裟なタイトルで申し訳ないのですが、これから数回に分けて、医療過誤の問題とか、医療裁判や責任追及の問題、賠償の問題等について、あくまで私見を述べていきたいと思います。最終的には「望ましい制度」というところまで、個人的見解を続けていけたらな、と思います。で、初回は業務上過失致死罪というものについて考えてみたいと思います。

◎医療における業務上過失致死罪

1)刑法第211条

医療過誤に関する刑事責任の追及が続いている。このような状況が続き、深刻な事態を招いていると言えよう。医療崩壊の要因の一部となっていると思われる(参考記事)。
今回は、業務上過失致死罪の適用が果たして妥当性のあるものであるかどうかについて、考えてみたい。

刑法第211条の条文を見ると、次の通りである。
『業務上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者は、五年以下の懲役若しくは禁錮又は百万円以下の罰金に処する。重大な過失により人を死傷させた者も、同様とする。
2  自動車を運転して前項前段の罪を犯した者は、傷害が軽いときは、情状により、その刑を免除することができる。』

条文から見れば、前段部分は①業務上必要な注意を怠る、②その因果関係をもって死傷に至る、ということであろう。後段に書かれている、もう一点の「重大な過失により人を死傷させた者」というのは、「重大な過失」についての認定が問題になってくるであろう。これらについて、それぞれ考えてみることにする。


2)前段部分について

業務上過失致死傷罪 - Wikipedia

Wiki から引用すると、
『本罪にいう「業務」は社会生活上の地位に基づき反復継続して行う行為であって、生命身体に危険を生じ得るものをいう(最判昭和33年4月18日刑集12巻6号1090頁)。』となっている。
医療過誤における業務上過失致死罪が成立する為の「構成要件」とは何か?構成要件を満たさない場合には、適用にならないとすれば、犯罪の成立が構成要件によって決まるということであろうか。

構成要件 - Wikipedia

『罪刑法定主義の観点から、構成要件は条文に一般人が認識可能な形で定められていなくてはならないとされる。』とあるが、医療過誤における構成要件が「条文中に一般人が認識可能な形で定められている」とは思い難い。どの行為が該当するか、というのは、「解釈次第」ということであろう。そうした判断を行っているのは、警察であったり、検察であったり、裁判所であったり、という司法権力を持つ機関であって、そもそも「解釈」が正しく行えるかどうかは無関係かつ罪刑法定主義には反した「恣意性」ということが広く行われている、というのが現状ではないか。言ってみれば、司法権力側の「胸ひとつ」ということでもある。やろうと思えば、いくらでも「こじつけ」が可能である、ということだ。こうしたことが現実に可能であるというのは、先の鹿児島で起こった冤罪事件を見れば明らかであろう。

法的解釈として、「注意を怠る」ということの定義がなされていないのではないかと思われるが、どうなのであろうか。例えば「過失」と「リスク」との境界が曖昧であり、そのことを判定する能力が「裁判所にはない」ということでもある。全知のような能力が備わっている時、全ての事柄について事前に「注意」することは可能であるが、普通の人間にはそのようなことはできない。しかし、裁判所の求める注意義務のレベルは、普通に考えられる人間のレベルをはるかに超えているとしか思われない。極めて稀な事象をも「注意せよ」「事前に判定せよ」ということを求めているのである。現実的に不可能な水準を求めているとしか思われない。


かなり変な例で申し訳ないが、具体的に考えてみたい。

Aはゴムボートで川下りをする専門の人である。Aは川下りを熟知しており、川のどこにどのような危険性があるのか知っている。今、全くの素人であるBという人がやってきて、Aの操るゴムボートで「川を下りたい」と同意したとしよう。

事例1:Aの操縦するボートが岩場に激突し、Bは転落して溺死した。

この時、川をゴムボートで下るのであるから、ボート転覆とか乗客の転落という危険性は予め容易に想像でき、「注意」とはこれら予見可能な危険性に見合う対策を講じておくべき、というものであろう。具体的には、ア)搭乗者にライフジャケット及びヘルメットを装着させる、イ)サポート専用のボートを常に随伴させる、ウ)50m間隔で監視所を設置し救命員を配置しておく、といったものが考えられるとしよう。
仮に、社会的に可能な水準とはア)であって、イ)やウ)といった対策を講じることは理論的に「不可能ではない」としても、現実社会においてはそうした体制をとることが実質的に不可能である、というものである。裁判での判断の際に求められる水準とは、こうした「社会的に可能な水準」であれば適用された側の反発は少ないであろうが、裁判所の判決の中にはイ)やウ)のレベルでやるのが当然である、というものが含まれるのである。医療裁判などでの反発が多い部分というのは、こうした現実には達成が困難である水準を求められることであろう。ウ)の対策を講じることが最も望ましいことは誰しも判っており、しかしそれが実行可能かというと「無理だ」としか言えないのである。それは川下り業者であれば自由に営業可能であるから、ウ)の監視所を設置してその人員とか設備にかかった費用を価格転嫁すればいいかもしれないが、医療ではそれができないからである。ここに司法判断と医療側及び行政との乖離を生じることになる。ウ)の水準の対策が講じられていれば「助かる可能性はあった」という認定を行うことは、裁判所が社会的な状況を無視しているとしか思われないのである。

事例1の因果関係を見てみると、「川下りをしなければBが死ぬことはなかった」、と言えるであろう。「手術をしなければ死ぬことはなかった」というのも同じである。具体的な構成要件となると、どうなのであろうか。ゴムボートの操縦をする人が1000人いる時、平均的な能力を有する人が操縦していた場合、「激突を避けることは可能であった」かどうかが問題となろう。つまり「操縦技術」ということであり、操縦ミスの有無が問題となるであろう。裁判所が判断する場合に、「名人クラスの人間ならば回避できた」という理屈を持ち出すことは多い。それは意見を求める相手として、技術ランクの低い人間ばかり選ぶことはないと思われるからである。

1000人のゴムボート操縦手がいて、「そのうち○%が回避可能であれば、操縦ミスと呼ばざるを得ない」という具体的指摘を、裁判所は行うべきである。半分以上が「回避不可能である」と思うような状況について、「操縦ミスであった」と認定するので、他の操縦手にとっては「恐るべき判決」としか思われなくなるのである。不幸にして、もしも次に自分がその立場に置かれたら間違いなく「操縦ミスであった」と認定されてしまうからだ。Aが操縦するボートではなく、他のボートに搭乗していたなら死ぬことはなかった、という可能性の大きさを判断するべきであろう。その確率が半々程度でしかない時でも、「半分は助かるのであるから、Aのケースを操縦ミスと呼ぶ」では、判定される方ではたまったものではないのである。しかも捜査を行う為に判定するのは、一度もゴムボートを操縦したこともない(乗ったことさえない?)、何の知識も有していない警察や検察という司法権力を持つ人間が行うのであり、操縦技術について判断などできないに決まっているのである。そういう程度でしかない司法権力に「令状」を与えているのも「裁判所」なのである。

もう一度構成要件に戻って考えてみると、ア)の対策を取っていれば「助かったかもしれない」ということについては、「注意を怠った」と認定できよう。社会通念上、容易に予見可能であった危険性については「対策を講ずるべき」ということである。これならば、判定を受けた側にも、対策の立てようがあるし、注意義務を果たせるであろう。内容が具体的であるからだ。しかし、「Aの操縦ミスがあった」ということを認定する場合には、「操縦技術に関して求められる水準」というものについて、極力曖昧さを排除して具体的判断基準を示すべきである。罪刑法定主義などと言いながら、それが誰にも客観的に判らないからである。所詮、裁判官の主観でしかないのである。

例えば発電所にスイッチMとNがあるとして、Mを押すと大変な危険性があることが判っている時、Nを押すべきところを誤ってMを押してしまった、というのは明らかに「過誤の存在」が認定できる。行為内容が具体的であるし、客観性もあるからである。ボートの操縦という行為に過誤があった、ということを認定する場合、「船外機を誤って作動させ、スクリューの逆回転をさせた」とか、「オールを使うべきでない状況で、誤って向けるべきでない方向に船首を向けた」とか、具体的な行為について過誤を認定するべきであろう。ところが、「いつもより川の流れが早く、ゴムボートが思いのほか流され岩場に激突した」という時にも、「操縦ミスだったからだ、岩場は回避できたハズだ」という曖昧な理屈で過誤を認定される、ということなのです。どの行為が過誤であったのか何も示されず、「回避可能であったはず」という憶測のみで認定されるのです。「岩場に激突するのを回避するべき義務があったにも関わらず、その注意を怠った」という主張には、具体的な過誤が入っているでしょうか?


事例2:Aの操縦するゴムボートに流木が激突し、ボートが破裂して空気が抜けBは転落死亡した。

Bにはライフジャケットもヘルメットも装着して注意していたのに、このような不幸な結果を招くこともある。こうした場合にありがちな指摘として、「流木が流れてくることは予期できた」とか、「ゴムボートであったから」というものがある。川のことも、川下りのこともよく知らない人間が言いがちなことかもしれない。

社会的に見て、多くの人々がゴムボートで下っている場合、「ゴムボートであったことが過失である」ということを証明するのは容易ではないだろう。しかし、裁判所の認定とは、必ずしもそうした社会的背景や影響などを考えているものばかりとも言えない。「ゴムボートではなく、木製・金属製・グラスファイバー製の船体であったならば、ゴムボートが裂けることもなく、空気が抜けなかったはずで、そうであればBは死亡するに至らなかった」という理屈を適用されるというものである。現実の社会で取られている手段として「ゴム製」が一般的であるとしても、「グラスファーバー製の船体は存在している」というような非現実的な理屈を適用されることで、過失を認定されるということである。その為のコストは行政の問題なのであり、裁判所としては行政制度の事情を斟酌して判定するのではなく、単純に「もっと取り得る手段は存在する」ということを示す、ということである。「グラスファイバー製の船体が存在する」ことは正しく、そうであれば空気が抜けることもなかったのも事実であるが、それを実現できる制度・社会体制であるかどうかについて、裁判所が適切に判断した上で判決を出すべきであろう。上記対策のウ)を実施せよ、というようなものと同じであろうか。現実には取り得ないような対策を求めている、ということである。

もう1つの、「流木が流れてくることは予期できたはず」という指摘は有り得るのであるが、その確率の問題なのであって、流木が流れてくることはA自身も熟知しており、たとえ予期していたとしても「必ず回避できる」とは限らないのである。このことは、手術における大量出血のようなものであろうか。手術というものについては「出血する」のは当然であるし、「大量出血する場合もある」ということは誰しも知っているのであるが、通常であれば「回避できる」「対処できる」という前提の下に手術を行うのである。そうであっても、想定外の事態に見舞われるからこそ、不幸な転帰を辿るのである。つまり「流木が流れてくる」ということは殆どの場合で想定されているし、それに対しては「回避できる」だろうという予測で(そして事実「これまで回避してきた」のである)川下りが行われているのである。それでも、どんな流木が、どのように流れてくるか、周囲の流れの状況とか、川のどの地点で接近してくるか、といったことを、事前に全て正確に知ることはできない。それでも、「他で回避できているのであるから、避けられたはずだ」という後付けの理屈で責任追及がなされるのである。通常の回避技術をもってすれば回避できることは多いのだが、全部を完璧に回避できるかといえば、不可能なのである。中には神業師的な操縦技術によって「奇跡的に回避」できることもあるかもしれないが、それはあくまで「神業」なのであって奇跡の一部に過ぎず、確率的に言えばそちらを期待する方が困難に決まっているのである。そうであっても「流木が流れてくることが予期できたのに、川を下ったことが誤りだ」と主張するのであれば、川下りを全面禁止とするしかないであろう。


事例3:川下り中に突然のスコールに見舞われ、Bは落雷を受けて死亡した

川下り中にスコールが発生すること、スコールと伴に雷の発生があること、2点が事前に知られていたとしよう。こうした場合に、「スコールや雷発生が知られていたにも関わらず、落雷の注意を怠った」という認定がなされる、ということである。雷発生を知っていたとして、避雷針を設置しておかねばならなかったのか、それとも、スコールが過ぎるまで雷の落ちなさそうな場所に退避しているべきであったのか、正確には判らないのであるが(これまでそういう理由で逮捕に至るケースがなかったから)、際限なき注意義務を課せられる、ということである。雷が発生することは予期できるとしても、落雷で死亡することは極めて稀であり、その注意義務を求められるのは妥当なのか、という疑問がある。

台風の通過した翌日で増水していることが容易に想像できたのに、危険を承知であえて川を下った、ということなら、「注意を怠った」という認定をするのは判らないでもない。増水期間を避けて、危険の少ない時期を選択することは可能であるからだ。スコールとか雷が、「相当の確率で」発生することが予想されたのに危険を承知で下るのも、判断の誤りがあったのではないか、という主張をするのは理解できない訳でない。だが、多くの操縦手にとって、「回避するべきリスク」とは考えられていない危険性についてまで、「判断に誤りがあった」「回避すべきであった」という後付けの理屈を言われると、「何故なのか」という反発を招くのではないかと思う。天候がやや曇りで、「ひょっとしてスコールに合うかもしれない」と内心思っていたとしても、落雷の危険性を回避するべきと判断しない人の方が多いのである。スコールの事前予想確率は20%以下、雷発生は5%以下、ましてや落雷となればずっと低い、というようなリスクだとすれば、「今日は曇りだ」という理由で川下りを回避せよ、とはならないはずなのだ(それを実行すれば、川を下れない人々が大勢出てくることになる)。運悪く途中で予想以上のスコールに見舞われ、雷まで発生し、最悪の落雷となってしまった時、「空があれほど曇っていたのにスコールが来るのがなぜ判らなかったのか、スコールに伴って雷が発生することも判っていたのに何故雷を回避しなかったのか」と事後的に追及されてしまうのである。

ある場面での危険性というものについて、99.7%が回避したのだが、回避できなかったもの(例えば「流木」とか「落雷」とか…)が0.3%である時、「他の99.7%は回避しているのだから、回避できなかったのはおかしい。本来全て回避できて当然なのだから、回避できなかったこと自体が『注意を怠った』証拠なのである」という論法を用いられているとしか思われないが、どうだろうか。


3)後段部分について

「重大な過失」とは何か?

医療過誤に限らず「重大な過失」の認定は有り得るわけだが、「重大な」という言葉は非常に曖昧な基準であり、誰が重大と考えるかよく判らない。少なくとも捜査段階では警察や検察が「重大」であると判断すれば捜査は行われるであろうし、その為の令状は裁判所が与えているであろう。つまり裁判所は「重大かどうかは判らないし、その判断は別にして」令状を与えている、ということである。いい加減な令状でいい、ということだ。その結果として、社会的には大きく評価が下がるとか、容疑者としてマスメディアに吊るし上げられたり、仕事を辞めねばならないといった不利益を実質的に蒙ることになる。ここで、建前論的に「容疑段階では犯罪は確定していないから、仕事を辞めたりするのは裁判所の責任ではない、警察や検察捜査の責任ではない」などという理屈は、止めてもらいたい。いくら建前論を並べられても、実質的に社会生活上で「大損害」を覚悟せねばならないのだし、実際に結果として家庭崩壊とか冤罪などが生み出されていることは事実であろう。

そもそも「重大な過失」というものがごく簡明で客観的なものとして一般に認識されているのであれば、警察官であろうが検察官であろうがその他一般人であろうが「重大な過失」なのだな、と判るはずなのである。ところが、警察とか検察が「重大な過失」と勝手に認定しているものが、本当に「重大な過失」なのかどうかは誰にも判っていないのである。路線バスが制限速度をはるかに超えて暴走していれば、それは誰(多くの一般人)が考えても「重大な過失」と判るのであるが、医療行為の中で何が「重大な過失」なのかは不可解なことが多いのではないだろうか。医療過誤事件において、「重大な過失」が要件で業務上過失致死罪が認定されることがあるかどうかはよく知らないのであるが、仮に薬剤Xを投与するべきところ、誤ってYを投与し尚且つ投与量が致死量を超えていた、とか、そういう過誤であれば「重大な過失」というのは理解できるかもしれないけれども、「大量に出血した」というような基準の曖昧なものについて「重大な過失」として認定されると、その適用範囲や定義の疑問が生じることになるのではないか。


4)小まとめ

無駄に長々と書いてしまったが、要するに「構成要件」というものについて、警察も検察も裁判所も「明示していない」というところに根本的な問題があるのではないかと思われる。行為者である医療側の多くが「認識できない」のに、「構成要件を満たしている」との理屈を後付けで行われることが「そもそもオカシイ」ということではないだろうか。法学的な考え方ではどうなっているのか不明なのだが、検事や弁護士などで「判断が分かれる」ということから見て、「構成要件」なるものが本当に規定されているとは到底考えられないのである。

更に、「監視員を50m毎に配置すれば、防げたかもしれない」「グラスファイバーの船体を用いていれば防げた」などといった、社会的には有り得ないor現実世界では条件を満たすことが極めて困難な対策を講じる義務を認定することが起こっている、ということなのではないか。

殆どは防げるものについて、残りのごく僅かな部分に「過誤」認定することの是非がある。不可避的なリスクについて、「多くが避けているのだから、流木は避けられる」とか「落雷が予想できたので回避できたはず」との論法を用いられていることが疑問なのではないか。スイッチの押し間違いのような「明確な過誤」というものではないものについては、過失を認定するのであれば客観性のある定義や基準に基づくべきではないか。


全然まとまっていないが、とりあえず一区切りとしたい。




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