いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

イランの通貨下落暴動

2012年10月04日 19時31分15秒 | 外交問題
経済制裁がじわじわ効いて、政権維持の障害となりつつある、と。


>http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYE89300J20121004


[ドバイ 3日 ロイター] イランの首都テヘランで3日、通貨リアル急落に抗議するデモがあり、機動隊と衝突した。また、闇の両替市場では業者らが逮捕された。目撃者が明らかにした。リアルの対ドル相場は過去1週間で約40%下落している。

デモ隊は、アハマディネジャド大統領を「売国奴」と非難しながら抗議。警察側はデモ隊制圧に催涙弾を使用した。闇の両替業者への取り締まりも行われ、多数が逮捕されたという。

核開発疑惑をめぐる経済制裁でイランの原油輸出収入が減少し、中央銀行が相場を下支えする能力も低下する中、リアルはこのところ、対ドルでほぼ連日最安値を更新している。

在テヘランの西側外交官は、誰もがドルを入手したがっていると指摘し、「両替商や投機家の取り締まりに警察を動員するという大統領の発表は何の役にも立たない。市民の不安はさらに大きくなっている」と語った。


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イランの方には、こちらの忠告が届かなかったみたい。
だから、濃縮はやめておいた方がいいよ、って言ったでしょ?


2/9 >http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/74f0ea3dca0551bbb546a318d956430b


(再掲)

それから、イランに忠告しておく。
届くかどうかは、判らんが(笑)。

核兵器は国を守るのに、役立たない。心の内なる不屈の精神こそが、唯一の盾となる。

日本は、滅びの業火であるところの核技術を用いて、不幸を味わうことになってしまった。それは、「他の誰かが核を持ってるから、我々も持ちたい」というような不純な動機がどこかに潜んでいたからなのかもしれない。いつかは、しっぺ返しを食らうことになってしまう、ということだ。

ソ連は核兵器を大量に持ったが、内側から崩壊していった。兵器が国を守るのではなく、そこにいる人々の活動や心が守るのだ。だから、核兵器開発は止めた方がいい。

(中略)

なので、イランが核開発をすればするほど、アメリカを喜ばせるだけとなる。
イランの行っている核開発は、利敵行為に他ならない、ということだ。よって、すぐさま止めるべき。IAEAの査察を受け入れて、濃縮を止めるのが一番だ。アメリカやイスラエルに、何一つの口実も与えないようにすること、これが肝要である。

長期的には、例えばイラクと連携をとり、資源開発で協調する、とかだな。産出量もさることながら、埋蔵量においても、サウジを凌駕できるのは、この両国だから、である。そうすると、中国やロシアの支援なども継続されるだろうし、日本との関係も維持されることになる。アメリカにとって、一番厄介なのは、「手出しし難くなる」ということだ。イラン自身が孤立化戦略にハマっていくなら、最も与し易い相手ということになる。誰も助けてくれようとはしなくなるから、である。

なので、核濃縮は技術的に実現できたとしても、これまで以上に国を危険に晒すことにはなりこそすれ、守る手段とはならない。それよりも、アメリカが最も困ることを選択することだ。それは、経済発展を実現することが最も近道なのである。資源競争で勝てる国を作ることなのだ。イラン・イラク両国が力を合わせれば、それは大きな勢力となるだろう。

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な?
核兵器を作ることに精力を注いだって、国を守れんのだよ。

まず、アメリカという強国と争うには、人心の安定というものが必要。国が貧乏だと必敗である。アメリカ自身がこのことをよく知っている。戦争とは、まず「金」なのだ。戦争に勝利するのは、金の力が保てるかどうか、である。戦費が枯渇すると、それは必然的に敗北となる。

イランが目指すべきだったのは、アメリカの資金力を枯渇させることだった。
それには、エネルギー供給で競合することだったのだよ。


もう一度言う。
核兵器で国は守れない。



人を動かすのはpassion

2012年10月04日 13時41分47秒 | 俺のそれ
生きてきた年代によって、受け止め方が若干変わるかもしれない。

>http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51828694.html


断固ガイ氏の記事を取り上げるのは久々ですが、触発されたので。

丁度『ヒューゴの不思議な発明』をレンタルで観たばかりだったというのもあるかもしれない。特撮のない時代に、当時の人々がどれほど頑張っていたのか、ということが伝わるものだった。映画(映像)への愛と先人たちへの敬意があった。特撮博物館に関わる人々も、そういうのと同じなのではないのかな、と思う。


昔の技術や工夫なんかを知ると、何かの拍子に別なアイディアを生み出すヒントを与えてくれるかもしれない。或いは、自分の知らなかった世界がそこにあって、驚きをもたらすかもしれない。昔の何かを見たり学んだりするというのは、現実世界でも思わぬ効果があるかもしれない。

現代の水準からすると、確かに「ショボい」かもしれない。大抵のことは、そうだ。電算機だってそう。スポーツとか、何かの競技とかもそうかもしれない。


ただ、どの時代であっても、それに情熱を傾ける人々がいて、それが強ければ強い程、人々を惹きつける何かとなってゆくのではないだろうか。古典と呼ばれるものの多くがそうだろう。文学でもそう。音楽とか、その他芸術とかもそう。

映画などの映像技術は、クラッシック音楽みたいなものからすると、まだ歴史が浅い。文学と比べても、全然新種のものでしかない。だから、古典という領域にはまだ到達していないのであろう。今後、もしも人々の興味が失せていくなら、いずれ衰退して消滅することになるだろう。参加人数がどんどん減ってゆくから、人々の記憶から忘れ去られてしてまうことになる。そう、人々の記憶から消えると、興味を持たれることがなくなるので、消滅危機となるのだ。

興味が失せないようにするには、常に参加者を確保し、面白さを伝道したりする人間が必要なのだ。古い映画にしても、その解説をしたり、面白さを伝える人が必要なのだ。薄れそうになる記憶を再び誰かが掘り起こし続けると、それが持続してゆくことになるのだ。
『ヒューゴ~』の中で登場してきたヴェルヌやウェルズにしても、子供の頃に読んだ経験のある人は多いだろう。それは、古典の定着作業のようなことが行われている、というのと同じ効果を持つ。時代を超えて、その時々の人々に記憶され、ある一定以上の数が維持されれば、次の時代へと引き継がれてゆく、というようなことである。

だから、映画もきっと同じなのではないかな、と思う。オリジナルも大事だし、リメイクなども同じく大事だ。次の時代に引き継ぐには、記憶を残し続けていかねばならないのだから。何が残るかは、人々の興味による。その時代ごとに、人の情熱がどのくらいあるかによる。作品への愛が深ければ、遠くの未来までも伝わる可能性が高まる。


因みに、『ヒューゴ~』は割と好みの映画だった。時計職人という設定が好ましいというのもあったけれども、ヒューゴが友達の少女に言う「機械には、不必要な部品はない」というのがとても良かった。自分には、きっと何かの役割がある、世の中には必要でない人間なんて、いないんだ、という肯定感がいい。後に本好きの少女が分かったことは、文章を書く、という大役だった。


映画は色んな面で向上してきて、特撮技術も進歩を遂げたが、常にあったのは、ベタなpassionだった。現場でのリアルな汗、最後の最後はガッツと力仕事、みたいなアナログ的世界のはずだ。例の『バトルシップ』で描かれたのは、精密誘導のミサイル全盛にあってなお艦砲射撃という時代遅れの技術と、決定打を与える砲弾は何の妙案もなく「単に人力で運搬」というものだった。特撮博物館や古い映画の撮影現場と似た、しょぼい「前時代的」技術と個々の人間の頑張り、というアナログ全開の「血と汗と涙」への讃歌だ。


いつの時代においても、人々の情熱がある限り、記憶が消えることはないだろう。だが、それが失われないことの保証はないことも事実であり、伝承者たちが存在しなければいずれ消え去ることになるだろう。