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沖縄集団自決を巡る抗議集会から学ぶこと

2007年10月06日 15時53分12秒 | 社会全般
見逃していたのだが、また朝日と産経がケンカしてた(笑)。何かの大会みたいに、隔年くらいで行われる定例行事みたいなものかもしれない。これはこれで意味がある。全部が同じ報道よりも危険性が減じられる(笑)。


今回の1件から、ケーススタディのように考えてみることにする。まずは産経抄の記述から。

【産経抄】10月3日 - MSN産経ニュース

拝復 朝日新聞論説委員室さま。9月28日付夕刊の「『産経抄』の良心」と題されたコラムを拝読しました。安倍退陣について「靖国神社参拝や村山、河野談話の見直しを求め続けたあなた方の身びいきこそ、(安倍氏に)重荷だったのではないか」とご指摘いただきましたが、物は言いようだとつくづく感心致しました。

 ▼「事実の確認だけはくれぐれもお忘れなく」ともご忠告をいただきましたが、その言葉はお返ししなくてはなりません。そう、先月29日に開かれた沖縄戦での住民の集団自決をめぐる教科書検定への抗議集会の報道ぶりです。

 ▼貴紙は1面で「沖縄11万人抗議」と大見出しをとり、きのうも「県民大会に11万人が参加した」と書いておられます。でも、11万人は主催者発表の数字です。記者は何の疑問も持たなかったのでしょうか。

 ▼抄子は宜野湾市内にある会場を何度か訪ねていますが、会場の面積は約2万5000平方メートル、つまり160メートル四方に過ぎません。当日の航空写真を見ると空きスペースもあり、どう数えれば11万人にもなるのでしょう。

 ▼もったいぶってすみません。関係者によると、参加者は最大で4万3000人だそうです。沖縄の警察は、主催者の反発を恐れてか真実を発表できないのです。江藤淳先生が生前、指摘された「閉された言語空間」がなお存在するようです。

 ▼主催者発表通りに集会の規模を2・5倍も誇大に報道する姿勢は、戦時中に大本営発表を垂れ流し続けた貴紙の過去とだぶってしまいます。そうそう、貴紙は論調の異なる読売、日経とネット事業や販売部門で提携されるそうですね。思い切った決断に拍手を送りますが、新聞でもネットでも事実の確認だけはくれぐれもお忘れなく。 敬具




こうした一連の出来事を後日見ていく時、どのようなことが起こってしまうのか、ということを考える上では中々良いケースだと思う。

仮に、「沖縄集会事件」と呼ぶことにする。事実(=真実でない)を単純に書けば
・起こった出来事:沖縄集会事件
・公式(主催者)発表及び報道:参加者11万人
ということ。

これを歴史的に検討するという時、論争というか争いにありがちなものを書くと、
①沖縄集会事件の有無
②11万人は正しいか
みたいなものです。これを検討していく際に、どうなるかということです。

◇①に関して◇

報道資料がある、写真(動画も)が残っている、何らかの主催者側文書が残っている、多くの参加者や目撃証言がある、などによって「沖縄集会事件」があった、と後日になっても推定できる。しかし、参加者証言などをいくら拾ってきても、11万人だったことは確認する術がない。なので、「沖縄集会事件」があったであろうことは、十分確からしいと判断できるが、その実態というのは必ずしも正確に判る訳ではない。更に、「あったか、なかったか」論争というのは決着のつけようがあるが、これを「沖縄集会事件」と呼べるほどのものなのか、といった主張は残り得る。ただのデモ集会にすぎない、みたいに言う人もいるが、これを否定する(肯定も)言い分というか、うまい説明というのは多分ない。「沖縄集会事件」という名称だけが広く知れ渡っていれば、「沖縄集会事件が無かったというのか!」みたいに怒り出す人たちも多数いる。「沖縄集会事件」と呼ぶか、「ただのデモ集会」と呼ぶかは、歴史観っぽい話になる。「薔薇戦争なんてなかった」論争(そんな論争が本当にあるかどうか知らない)みたいなものかもしれない。

後日になって、「沖縄集会事件は無かった」と主張する大規模デモが起こり、100万人集会が開かれたとしても、沖縄集会事件が無かったことにはならない。起こってしまった事実は消えないし、消せるわけでもない。その上、沖縄集会事件に参加していた人数は、100万人デモが開かれる前と後であっても、全くの不変である。これは政治的運動や何らかの示威目的でデモを開くことには無関係に、「沖縄集会事件の参加者はいた、正確に数えてないが特定の人数だけ存在していた」という事実は変わりようがない。真実を本に書こうと思えば、100万人デモの有無には無関係に、沖縄集会事件の人数が記述される。


◇②に関して◇

当たり前のことだが、11万人説を否定できても、①の否定にはならない。沖縄集会事件が消え去るわけではない。後日になって、より確からしい証拠と考えられるのは公式発表や報道資料などであるが、これは必ずしも真実であるというわけではない。これに参加当事者たちの証言を組み合わせても、より真実に近い数字が割り出せるとも限らない。
客観的情報として、集会場所の面積、航空写真などがあり、ここから推定するという手法は、「11万人と書かれた複数の資料」よりも価値が高いかもしれない。1平方メートル当たりに立っている人数というのは、物理的制約を受けるからだ。例えば、満員電車の人数と比較する、ということで可能性を絞り込める。
従って、報道記事や文書が後日残っているとしても、真実性が担保されているわけではない、ということを知った上で資料に接するべきということだろう。後日になってから資料を読んで検討するということは、多くの誤りを含んだものとなっているかもしれない、ということ。



あれこれと書いたが、一番まずいのは、「11万人という公式発表、報道資料がこれだけあるのだから、これが正しい」という意見だけが採用され流通すること。これに対して、産経抄が出しているように、「いや、面積判るよ、航空写真もあるよ」→最大でも43000人という意見を出せるということ、このような対抗意見を封殺しない道を用意しておくこと、これが必要なのだと思う。
これを政治的活動で100万人デモを開いて「沖縄集会事件はなかった」という意見に統一することが本当に望ましいのか、ということ。「公式発表が11万人だから、これが絶対的に正しい真実だ」と統一することが過去の出来事の真実を伝えることになるのか、ということ。何かの数的圧力が有効に作用するとなれば、「いや、もっと少なかった、せいぜい4万人くらいだ」という異なる意見を全て封殺することになる、そちらの方が問題だ、ということ。
11万人説を信じる人たちが大勢いても、それはそれでやむを得ないだろう。4万人説を唱えるのが社会で少数派であるとしても、それを言える自由、その意見を聞ける立場の自由はあるべき、ということ。多数派の政治的圧力によって、これを封じ込めることが問題ってこと。「オレは11万人だと信じてる」と頑なに主張する人の存在を許容しない、ということを言っているのではない。「せいぜい4万人くらいだ」という意見を聞ける立場を選びたい人は、その自由が残されるべき、ということ。


この前、教科書検定問題について思うことを書いたのだが、「南京大虐殺が否定できたらみんながハッピーになれる」なんてことは誰も言ってないわけで、過去の起こった出来事はデモだの、政治闘争だの、そういうもので変わるわけでない、って言ってるのが判らんらしい。

本土に比べれば小さい社会だ。島や村みたいな、小さい世界だろうと思う。
そこでは、軍関係側というか体制側というような立場の人たちも、自決したり殺されてしまった人たちも、両方いたんだよ。苦しみを一方だけに背負わせることが、今となってもなお必要なことなのか?その当時、たまたま体制側にいた人たちは、或いはその遺族は、これからどんな苦しみを負わねばならないのか?自らの手で肉親や親しい人たちの命を奪う結果をもたらしてしまった人たちは、十分苦しんだんだよ。この上、もっと責め苦を彼らに与えねばならない、などと、私には到底考えられない。そこまで私自身強くはないからだ。