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いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

神との盟約~2

2012年12月09日 17時56分28秒 | 俺のそれ
(つづき)



福島原発が次々と爆発し、いよいよ観念かと思ったのが、2011年3月15日だった。
>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/5f9954d2b1cd8dc023a3e9ea0d1d8612


2度目の真剣な祈りは、この時だ。


ぼくは、15日未明から気が気ではなかった。胸が早鐘のように鳴った。どうしてこれほど不安なのか、理由ははっきり分からなかったが、兎に角福島原発の状況にただならぬものを感じていた。


正確な情報がないまま、政府も無策、東電も手の打ちようがない、そんな雰囲気だった。1号機に続いて3号機が爆発し、2号機も危機的状況ということだけが報じられていた。そして、4号機にも火の手が上がっている、というような報道が出ていた。

このまま行けば、日本は本当に人の住めない場所になってしまうのではないか、日本は大変なことになってしまうのではないか、そういう危機感が襲ってきた。頼るべき人が、どこにもいない。誰もいないのだ。

どうすればよいか、的確に答え、正しい対処方法を示せる人間が、政府の偉い人たちの中にも、専門家たちの中にも、どこにもいないんだということを知った時、圧倒的無力を痛感した。どうにもできない、抵抗すらできない、ただただ無力。事態が悪化してゆくのを、黙って見ているのみ。


事故現場で作業を続ける人々がいるということが、奇跡といってもよかった。しかし、次々と砦を失って退却を続ける戦場のような感じだった。残されたのは、ほんのわずかの砦一つで、ここを失えば総崩れとなってしまう、そんな状況だったはずだ。


ぼくには、なんにもできない。何の手助けもできない。
ただ祈るのみだった。

だから、神様にお助け下さい、と祈った。
どうか現場にいる彼らを守って下さい、日本をお守り下さい、と祈った。


こんな真剣な祈りは、あの小学1年生以来だった。



偶然にも、その後に4号機の鎮火が伝えられた。そして、消防庁はじめ放水部隊が水をかけに行くことができて、事態はどうにかギリギリで小康状態に押しとどめられたわけである。現場の、死をも覚悟した人々がいなかったら、本当に日本は終わっていた。

ぼくには、あの長靴の時と同じように、神様に祈りが届いたのではないか、と思えたのだった。
忘れていた、小学1年の時の、あの真剣な祈りの記憶は、福島原発事故の時に呼び覚まされた。勿論、長靴を拾ってきたのはぼくの母だったし、水をかけて冷やしたのは現場の作業員たちや消防や自衛隊の人々だったろう。

けれど、もうダメだ、と思った後に「偶然長靴が流木に引っ掛かって流されずに済んだ」とか、「偶然4号機の鎮火が起こり更なる惨事に至らずに済んだ」というのは、不思議としか言いようがない。



ぼくには、約束があったんだ。
それは、祈った時に誓った、「鎮まって後に糺す」ということだ。これは神様に誓うと心から思ったことだ。だから、ぼくにはその盟約を守らねばならない義務がある。
たとえ神様がいないと言われようとも、ぼくの心の中の盟約に背くことはできない。ぼくは無知な傍観者であった、そのことが日本の原発政策を誤らせてきたのだ、と反省せねばならないのだ。

以前と同じように再稼働させよう、などという愚かな選択を二度と彼らにさせてはならないのだ。ぼくの中にある、固い盟約なのだから。神様との約束だから。



神との盟約~1

2012年12月09日 16時13分51秒 | 俺のそれ
ぼくはこれまで、神様に、純粋に心の底から、真剣にお願いをしたことが2度ある。一度目は、小学1年生だった6歳の冬の時、二度目は、福島原発事故のあった3月15日だった。

ぼくは早生まれだったから、1年生になってもまだ7歳の誕生日は来ていなかった。冬は雪が積るからゴム長靴と決まっており(当時はそれ以外の選択肢はなかった)、ぼくもそれに倣って長靴だった。それは、今シーズンに買ったばかりのまだ新しい黒い長靴だった(銭湯なんかに行くと非常によく似ているもんだから、間違えて履いていったりすることがよくあったものだ)。

母は、成長してすぐに履けなくなるのはもったいないから、という理由で、いつもわざと大きめの靴を買うのだった。そうすれば、来年のシーズンにも履くことができるからだ。となると当然のことながら、今はサイズが大きすぎるわけである。だから長靴はガフガフして、すぐに脱げ易いのだった。雪の中を歩くと足が埋まって、スポッと抜けてしまう。そんな大きめの長靴ではあったけれども、気に入っていたのだった。

ある日、近所の友達数人と外で遊んでいて、近くにある小さな川に行ってみたのだった。母には、危険だから、川の近くには行くなと言われていたが、何となく友達の後をついて行ってしまったのだった。川までの雪は深く(勿論道なんかない、田んぼの上を横切るだけ)、時々ズボっとぬかってしまい、度々長靴が脱げた。

川は一部凍っていたが、雪の乗った氷の下には、水が勢いよく流れていた。水田なんかに使われる灌漑用水の水路だったのかもしれない。深さはさほどではなかったが、流れの速さはそこそこだった。

ぼくは当時まだ小さかったので、川の上に飛び乗るだけのジャンプ力がなかった。でも、水の見えるギリギリまで近づいて氷の塊(中島みたいになっていた)に飛べるかどうかを算段していた。そうしたら、足がズボっと雪の中に落ち、右足が冷たい水に突っ込んでしまった。

雪庇みたいに川の上に張り出していただけの部分に、右足が乗ってしまっていたのだった。そうすると、長靴は下に落ち、川に流されていってしまった。水面を浮き沈みしながら、黒い長靴はまさしく「どんぶらこどんぶらこ」と流れていき、見えなくなってしまった。ずっと下流の方にある、流れの速い急傾斜(45度くらいの滝ふうになっている所)のある方へと行ってしまったからだった。

ぼくはずぶ濡れになった右足で雪の上を歩いた。
家までの道のりは、足が凍るほど冷たかった。濡れた靴下で雪道を歩いたのだから、それまで経験したどんな状況よりも冷たかった。

家に着くなり、濡れた靴下を脱ぎ捨て、半べそになりながら仏壇の前に座った。「ごめんなさい、どうか長靴を返して下さい、長靴が戻りますように」
礼拝(らいはい)を何度も続けた。
まるでイスラム教徒が聖地に向かって何度も礼拝するかのように、何度も何度もひれ伏した。そうして、長靴が戻りますように、どうかお願いします、と祈った。


あまりの真剣さで後ろに母が立っていることに、全く気付かなかった。外出先から戻った母は、ぼくの真剣で異様な祈りの現場を黙って見ていたらしく、怒ることもなく、どうしたのか尋ねたのだった。

ぼくは、最初、ウソを言った。雪の中に埋まってしまったんだ、と。
だが、ウソを言い続けるには、非常に苦しい状況だった。ぼくは母と一緒に、長靴が流された現場へと戻った。どこにも長靴が埋まってなどいなかった。それはそうだ。川に流されたのだから。

そうして、川に辿り着いた時、母は明らかに怒っていた。川には行くなと言っておいたのに、ここで遊んでいたのだから。母はゴム長靴が流されたという下流の方をしばし見て、帰るよと言った。既に日暮れで薄暗くなっていた。


次の日、とりあえず夏靴で学校に行った。脚絆をして行けば、雪の中をどうにか歩くことはできたから。

学校から家に帰ると、ストーブの前には、いつもの見なれたぼくの長靴が2つ並んでいた。長靴の中に雪が入ると冷たいので、濡れた内側を乾かせる為にストーブの前に並べて干しておくことがよくあったものだ。
その光景がぼくを驚かせた。突然、小躍りして「神様が戻してくれたんだ」とぼくは心の中で叫んだ。どうやって戻ってきたんだろう?奇跡が起こったのかな?誰か持ってきてくれたのかな?それとも買ったのかな?

どうしたの、これ、買ったの?と尋ねたら、母は笑いながら言った。
「神さんが持ってきてくれたんだよ」
どうやって?と問い返すと、母は下流に行って長靴を見つけてきたのだと言う。流木みたいなのが溜まっている部分に、引っ掛かって残っていたのだそうだ。


ぼくは、やっぱり神様が取り戻してくれたんだ、と思った。きっと、ぼくの願いを聞いてくれたに違いない、と。


このことは、誰にも話すこともなく、ずっと記憶の片隅に仕舞い込まれたままだった。自分でも思い出すことなど、これまでなかったことだった。原発事故が起こるまでは。




自民党のスローガンを過去の記事に書いていた件

2012年12月09日 14時15分46秒 | 俺のそれ
今日、原発関連の記事を書こうと思って、当時の記事を遡って読んでいたら、非常によく似たスローガンみたいなのを書いてしまっていた。


11年3月>日本をダメにした老人から、政治を取り戻そう



当時の都知事選に関連して、石原の再選断固拒否、ということだったわけだ。そして今も拒否、だな。


で、終わりの所に、


日本を取り戻そう。

取り戻そう、ニッポン!




って書いていた。
自民のやつは「日本を取り戻す」らしいが、偶然似たスローガンになっていた。

別に、どうだっていいけど。
書き足したわけではないですよ、本当に。


因みに、自民には戻したくないわ。
タコすけどもが原発を再開する、と豪語してるからな。


退化している政党に、何故政権を託さねばならんのか。
断固拒否。



禅僧?プリースト?~新世代の大いなる可能性

2012年11月08日 21時39分27秒 | 俺のそれ
以前に、別な記事で書くと言っていました(栗原裕一郎氏の古市憲寿氏に対する指摘に疑問あり )が、約束を果たしていなかったので、思うところを書いてみたいと思います。



ぼくが最近の若者たちを見て、よく感心させられることがある。
少なくとも自分が同じ年齢の時、彼らよりも立派な人間だったか、マシな生き方をしていたか、そう考えてみると、到底彼らには及ばないことに気付くのである。


勿論、世の中全体からの批判は色々とある。仕事ができないとか、自ら考えて行動できないとか、コミュニケーション能力がないとか、所謂「ゆとり」で学力が落ちたとか、陰湿な「ネットいじめ」があるとか、欠点を見つければ、それは色んなことが出てくるだろうと思う。だって、その世代全体だから、少数だけ存在していてもあたかも同学年の生徒全部がそうであるかのような言われ方をされてしまう。


だが、世代の特徴や欠点のようなものを言うなら、年長者たちにだって色々と問題点があったとしか思えないわけである。以前にも、そういう記事を書いたことがある。
コレ>今の高齢世代は平成世代よりも恐らく『愚か』で『粗暴』


そういう感触を得ていることもあって、若者世代がそんなに他の世代に比べて悪いとは思えないのである。


昔と違って、ギャンブルにハマったりは、あまりない。
パチンコ狂いになってパチンコ業界に貢いだりして、それに付随的に消費者金融での借金を重ねる、というような愚かさはかなり少ない。競輪、競馬、競艇も、ほとんどやらない。だから、昔のような強盗・殺人といった凶悪犯の動機となってきた「ギャンブルに狂って、金に困り、やった」というような事件は結構減っていると思う。特に、20代以下の若年世代では、かなり少ないと予想している。


酒もあまり飲まない。
アル中みたいになって、昼間っからヘベレケになってる「おっさん」みたいなのは昔見たことがあったが、近年ではほぼ見なくなった。若年世代での酔っ払いを見かけた経験は、かなり少ない。会社の上司からの飲み会のお誘いを断る、とか、そういうことを問題視されたりすることもあるが、あまりに非礼・無礼ということでもなければ、大問題ということもないのでは。付き合いとか、話すというのは、そんなに飲まなくても可能ですから(笑)。タバコも吸わない人が圧倒的に多い。


結婚できないというのが問題にはなっているけれど、風俗とかにハマるというのも少ないようで、童貞さんは少なくなかったりするらしい。貞操を守る若年層は結構多い、ということだろうと思う。草食系だのと揶揄されたりもするが、別に派手な異性交遊がある必要性はないから(笑)。


つまり、最近の若い人たちは、昔に比較すると、どちらかと言えば「禁欲的生活」を実践できている、ということである。無闇に高額な商品を欲しがったりせず、車やバイクも我慢でき、賭け事もやらず酒もあまり飲まず、贅沢というのをそれほど欲してはいない。ネットや萌え系だのアニメだの鉄道マニアだのといった趣味で、それなりに満足できてしまう。

まさに、僧侶の如き欲望の制御ができてしまうのではないか、ということだ。実際そこまで抑制的ではないだろうけれども、ぼくが過去に見てきたどんな時代の人よりも禁欲的状態に耐えられる世代だろうと思う。
だから、若年層はルールを守る。ほぼ守る。破るのは、高齢層。


例えば、ぼくが学生時代なんかだと、授業をサボって雀荘に向かったり(スマン)喫茶店に入り浸っていたり、どこかに遊びに出掛けたり、といったことがあった。しかし、ぼくよりも下の世代になるにつれ、大学の授業は「出欠管理」が厳しくなって代返(誰かが友達の返事を変わって行う仕組みのこと)がきかないという事情もあるかもしれないが、授業をサボる人はほぼ見ないようだ。真面目である。


そういうわけで、日本の若者たちは段々と聖人君子に近づいているのではないか、と本当に感じるわけである。酒もタバコもギャンブルも女もやらない、と。

真面目に学校に通い、授業もサボらず、きちんと過ごす。たとえ学力が低いぞ、とか言われようとも、真面目に学校に行くのだから、それは評価してあげるべきでは。


しかも、若年世代はどちらかといえば、経済的成功を極端には追い求めてはいないように思えるのだ。昔の人たちみたいに、カネ、カネとがっついてはいないように見えるわけである。ここが何より、マジに聖人君子ですか?って思うところ。


ひとサマに迷惑をかけてはいけない、他人を不幸に陥れてまで自分が幸せになろうとは思わない、そういう意識が年長世代に比べると浸透しているように思えるのである。だから、大金持ち目指して、阿漕なことをやったり、不正をやってみたり、というのを昔の人たちみたいには選ばない。
寧ろ、世の中の人たちの為になりたい、とか、友達の役に立ちたい、とか、名誉を求めるタイプの人の方が多いんじゃないかな、と思うのだ。まさに「ワンピース」的価値観が受け入れられていて、それがしっかりと浸透している、ということである。これが、うわべだけのキレイごとなら、所詮は漫画や物語の世界の出来事でしかない、ということで片付けられるだろう。

昔だと「世間は違う」とか「そんなキレイごとを言っても通じない」とか、裏表があることは間違いのない大前提として語られてきた。人間なんて、腹黒いんだから、口では綺麗事を言っても、どうせ現実は違うんだ、と。理想と現実は違って当然なんだ、と。本音と建前があるんだ、それが大人であり社会なのだと、それが当たり前だった。


しかし、最近の「超進化」世代は、必ずしもそうではないのではないか、と思うようになった(比較的若い聖人君子みたいな人たちを超進化世代と呼びたい)。彼らの多くは、大金持ちになれることよりも、誰かの役に立てればそれで満足できる、という方を選ぶのではないかと。昔なら、金よりも大事なものがある、なんて言おうものなら、歯が浮くとか言われただろう。だが、今の若い人たちは、真剣にそう言うのである。大真面目に、そう言ってのけるのである。その真摯さは、ある意味新鮮な驚きだった。ぼく自身が、子供くさいことを言い、正義を信じるだのといったロマンみたいなことを言うタイプの人間だから、妙に共感を覚えてしまうのかもしれない。


それから、思考も論理的な人の割合は他の世代よりも多いと思える。NHKなんかの討論番組なんかでも、一般の若者が発言する内容は論理的思考型が多くて、高齢世代になるほど「過去の栄光」的な成功体験に基づく理念っぽい意見が多いように思う。

ネット上で見かける若年層の意見の方が、ヘンな新聞社説(恐らく高齢の論説委員なんかが書いているものだろう)なんかに比べて論理的で優れたものが少なくない。若い軍オタ(笑)なんかでも、かなり論理的思考ができているように思う。


金銭的成功は高望しているようには思えないが、一方では素直に才能を伸ばそうと地道に努力するタイプの人が多くて、目標が縮こまることもなくしっかりと「世界」を見据えたものは多い。スポーツの世界なんかで、日本選手が活躍するようになって、世界に通用する選手が増えたのは若年世代のお陰だとしか思えない。競技人口の多い、例えばサッカーとか水泳で五輪での活躍は記憶に新しい。プロスポーツ選手で、世界レベルに到達して海外で活躍しているのは、若い世代である。スポーツに限らず、音楽とかバレエといった芸術分野でもそうである。


勿論、それを支える指導者、先人、諸先輩方の経験のお陰、というのはある。それでも、今の若い世代が世界一といった高い目標を目指して頑張っている姿は、昔の日本ではあまり見られなかったものだ。かつては、臆するようなところがあったけれども、今は、本気で勝負しに行っている。


だから、若い世代が他の年長世代に比べて劣っている、なんてことは、到底考えられないということだ。より好ましいことは多い。


論理的に考え、禁欲的で静かに行動する。
高い志と目標を持ち、他人の為に貢献することで自己の存在意義を見いだせる。
金銭よりも名誉を重んじ、礼儀正しく規律を守る。
勝てばいい、結果さえ良ければどんな手段でもいい、という傾向は少なく、欺くような裏技は非難されこそすれ称賛されない。
思いのほか素直である。


これで、何が悪いのか、と思う。
ホント、昔に比べたら、聖人君子の域に達するよ(笑)。世界から日本への評価が高まったのは、こうした若年世代のお陰があったからだとぼくは思っている。


素直というのは長所でもあるが、場合によっては従順過ぎて何でも言う通りにしてしまうとか、指示待ちになってしまって自ら行動することが躊躇われる、というようなことが出てきてしまうこともあるだろう。

誰かが言ってた、短所は長所、と思えばいい。
昔の野獣みたいな、欲望に振り回されていた人たちと比べると、今の若い世代は僧侶なみの人格を備えていると言える。まあ、戦後の生存そのものの厳しい時代だったら、野獣化してしまうのも無理もないかもしれない。若い世代の暴走族がほぼ絶滅したというのも、傾向が顕れているんじゃないかと思う。過激な暴力よりも、もっと別なことにエネルギーを費やすようになった、ということだ。


超進化世代の人たちには、これまでにはない可能性が秘められていると、ぼくは思っている。彼らが活躍すれば、世界の尊敬を集められる国になれると、ぼくは信じている。だから、若者よ、思い切ってやれ。君達は、正しい。
何より、邪悪に敢然と立ち向かえる資質を持っている。以前にはなかった、聖者の如き価値観を持つ人たちは多くいる。


そういう君達に、未来を賭けたい。
ぼくはそう思う。


日本シリーズ第4戦は凄かった

2012年11月01日 16時55分01秒 | 俺のそれ
巨人対日ハムの対戦は、09年以来です。ハムの選手は、当時と随分変わっているかもしれませんね。


昨日の試合は、本当に痺れるような緊張感のある試合でした。
最後の飯山のサヨナラヒットは、ホント涙が出そうになりました。何と言うか、ベテランの味ですね。
ちょっと雰囲気に飲まれてしまって、リズムが狂ってしまった第1戦は、大味な展開となってしまいました。ハムは大敗を喫しました。


この嫌な流れを断ち切ってくれたのが、やはりベテランの武田勝でした。技ありの投球術で奪三振の山を築いたものの、初回の事故のような先頭打者HRが決勝点となってしまい、敗戦となりました。勝は6回10奪三振と、気迫の投球でした。
このゲームは負けはしましたが、シリーズの流れを手繰り寄せたと思いました。最終回にも山口に連打を浴びせて降板させ、あとひと押しという所まで行きましたが、惜しくも負けでした。何といっても、投手陣の頑張りが光りました。後は、打線が目覚めてくれるのを待つ、ということになったのです。


第3戦は、ホームの北海道に戻り、稲葉の一発で打線が奮起し、栗山監督にシリーズ初勝利をもたらしました。ここでも、苦しい時のベテランが光りました。金子誠のタイムリーで追加点を奪って、攻略の流れを作りました。


打撃戦となった前日とはうって変わって、第4戦は息詰まる投手戦となりました。若い中村と宮国の投げ合いで、共に零封。幾度か得点圏にランナーを送るも、決定打を許さず。

9回、武田久がヒット2本を繋がれ、四球で満塁のピンチを背負う。2アウト満塁の場面で、巨人は代打石井。打球は、前進守備体形を敷く外野へと飛んだ。中田は背走してランニングキャッチ!ナイスプレーだった。ピンチを救った。

9回裏のハム攻撃で、稲葉が2アウトながら山口から2塁打。続く小谷野は、第2戦と同様にライト前ヒットを放つ。2塁走者が稲葉さんだったのと、打球が速くて本塁に帰ってこれず。あれが、ゴロだったらサヨナラの場面だった。1、3塁となって、代打二岡。この前と同じ。2戦では、マシソンが登板したが、今回は山口続投で敬遠策だった。続く代打の杉谷を2ゴロに打ち取り、サヨナラの危機を脱した。

9回の攻防は、共に凌いだ。


10、11回はハムが増井がピシャリ、巨人は10回が山口、11回は高木が抑えた。
12回はハムが宮西の登板。第1戦で失点した借りがあったが、昨日は3者連続3振という圧巻の投球を見せた。これが再び流れを引き寄せた(中村―石井―武田久―増井―宮西の完封リレー!)。

12回裏、先頭の小谷野がヒットで出塁。これまでと同じように、送りバントのサインだったが、途中出場の中島がすんなり決めることができない。2球ファールの後、3バントとなって、投手真正面へのゴロとなってしまう。この回からマウンドに上がっていた西村は、2塁へ送球。ショートバウンドになってしまったが、坂本が好補してアウトとなった。送りバント失敗。またしても、チャンスを逸してしまうのか。

そんな雰囲気が漂う中、次のキャッチャー大野の打席でも、再び送りバントのサイン。栗山監督の執念というか、次打者の飯山で勝負だ、と腹を決めていたということだった!
2アウトになるにも関わらず大野に送らせる、ということは、飯山の打撃に賭けた、ということを意味した。

この大野のバント処理で、ファーストが落球というミスを犯したのは確かだが、飯山のバットに託した栗山監督からすると、当然勝負の「打て」だった。飯山勝負に賭け、大野にバントをさせた時からの栗山監督の決断だった。


飯山は守備の人であって、強打者ではない。打撃成績は、決して良い方ではない。
それでも飯山のバットに賭けた監督の思いが、痛いほど伝わった。
巨人の外野は、当然前進守備。
2塁ランナーが帰ったら、負けだから当然だった。しかも打者は飯山だったから、「長打は殆どない」と判断していても不思議ではなかった。その飯山が快打を見せたわけだ。2塁ランナーに残っていたのが、偶然にも俊足の中島(さっきバントを失敗したばかり)だったことも幸いした。


ハムは9回の守備で、レフト中田が好捕でアウト。
12回は、巨人のレフトが捕れずに抜かれてしまった。この外野守備が勝敗を分けた。それほど、飯山の打撃は意外性の高いものだったのだ。


若い力とベテランの力ががっちり噛み合った、素晴らしい試合だった。
問題は東京ドームでの試合だ。ホームでは強さを見せる日ハムだが、アウェーの東京ドームはやりにくそう。けれど、シリーズの試合の雰囲気に慣れて、1、2戦よりも良くなるだろう。


ちょっと酷いのが、東京ドームの巨人応援団。
普通、攻撃側のチームが応援するのを優先させていることが殆どだと思うが、東京ドームではハム攻撃時の応援歌をかき消すように、意図的に大合唱の音を重ねて応援の邪魔をしていたのだ(まあ、その「山口」大合唱も、まんまと降板になってしまったがな)。
こんなマナー知らずの球場は、他でも見たことがない。
相手チームに失礼だろう。阪神が攻撃している最中に、しかも得点の大チャンスの場面(1、3塁とか)で、阪神応援団が歌ってる時、巨人の応援団が邪魔したりするもんなのか。他でやらないで、日ハムに対してのみやっているのだとすると、なお一層悪いわな。礼儀知らずの讀賣巨人軍応援団は、球団と同じ性向ということなのだろうか。


残り試合、吉川と勝でサクッと連勝して、リベンジを果たしたいところだ。



落札した日本人の豪気

2012年10月25日 17時57分49秒 | 俺のそれ
世の中には、変わった人がいるし、お金が余っていて、面白そうだからという理由でワケの分からんものに使ってしまう人がいるということなのかも。

>http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2909190/9733694



20歳の女性の初体験が何と、78万ドル!
何がよくてそんなもんに大金をつぎ込むのか、理解できない。

映画の宣伝の一環か何か?


他の「ほぼ無料」の女性陣から、批判の声が出そうな気も。


当方には理解できないものであっても、例えばレアなカードとかフィギュアとか蒐集系の人と同じ気質ということなのかな。その人にとって価値のあるものであっても、判らない人間にとってはゼロ円に等しいようなもの、ということかと。


ただ、女性の立場からすると、それは「キレイな想い出」のようなものであって欲しい、という願望のようなものがコミになっているかもしれず、そういう「神聖なもの」にお金の値段を付けるなんて、という批判もあっても不思議ではないのかも。


ワタシの、初体験、捧げます。
当然、『priceless』!!

でなければならんのよ、と。多くの女性はそんな風に思うのかもしれません。




深夜の轟音

2012年10月15日 13時46分24秒 | 俺のそれ
オスプレイが無理矢理やってきて、夜間の飛行訓練を増やすということらしい。


>http://www.asahi.com/special/futenma/SEB201210130072.html?ref=chiezou


【木村司】米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)に配備された新型輸送機オスプレイ12機の本格運用が近く始まる。旧型の輸送ヘリと比べると、普天間飛行場では夜間や早朝の使用が3.7倍に増え、訓練の回数は伊江島で2.3倍になる。そんな実態が、米海兵隊の環境審査報告書から浮かび上がった。

 報告書は配備後の環境への影響について米側がまとめ、防衛省が6月に公表した。その内容を詳しく見ると、オスプレイが拠点とする普天間飛行場では全機種の年間訓練数が11%減の2万780回になる。だが、旧型ヘリとオスプレイでは、午後10時~翌午前7時の離着陸訓練回数は年76回から280回に増える。

 深夜や早朝の普天間の使用について、日米政府は96年に「必要最小限にする」とする騒音防止協定を結んだ。今年9月の安全宣言でも同じ文言を繰り返した。県幹部は「夜間や早朝に4倍近く増えるのに、『必要最小限』と言えるのか」と疑問をはさむ。


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もうごり押し以外のなにものでもない。
嫌がらせを意図的にやっているだけ。


正体はよく判らないが、今日の深夜1時すぎくらいだったか、飛行機の爆音が聞こえていた。
ヘリの音ではない。これは間違いない。
かといって、ジェットではなく、確実にプロペラ機の爆音だった。


深夜の貨物便の飛行ということはあり得ないわけではないかもしれないが、飛行ルートとしておかしいし、低空を飛ぶというのもほぼ想定できない(加えて、ジェットでないことも)。


あり得るとすれば、自衛隊機か米軍機だろう。


自衛隊機であると、プロペラ機が住宅地の上空を「比較的低高度で」飛行する、なんてことはほぼ想定できない。
日中に飛行機の轟音は遠くから聞こえてきたことはあるけれども、それは屋外にいるから聞こえる程度のものであり、肉眼で飛行機を発見するのもかなり難しい、というくらいに遠いはずだ。かなり注意をこらしていないと発見が難しい、という程度のものだろう、ということ。


しかし、今日の深夜の飛行音は全然違った。
地鳴りのするような、グウォーンというくぐもった音と、ブーンというプロペラ機によくあるパターンの音が混ざりあったような低い轟音だった。それは、室内にいて、テレビ等モニターからの音声があるにも関わらず、はっきりと聞き取れる音だった。ドップラー効果が実感できる、段々近づいて遠ざかってゆくという音の変化もきちんとあった。


自衛隊や報道?ヘリが飛ぶ時にも、室内にいて音が聞こえることがあるが、そういう「低い飛行高度」じゃないと普通は聞こえない。なので、あのプロペラ機の正体が気になる。

まさか、沖縄のオスプレイがこんな遠くにまで飛んできた、ということを言うわけではないけれども、あり得なくはないかな、と思う。だって、姿さえ見られなければいいはずだしね。燃料を入れて戻れば、何の問題もないわけだから。米軍がこっそり何をやっているのか、というのは、知る由もないわけだが、もし日本全国をくまなく飛ぶ訓練をやるとなれば、それは何の為なのだろうか、とは思う。

実際、示された訓練ルートは、全国のあちこちに設定されており、日本の国土のかなりの部分をカバーしているからね。


>http://www.jiji.com/jc/v?p=ve_pol_seisaku-anpoboei-beigun20120723j-01-w360


海兵隊は、日本占領計画でも持っているのか?(笑)



『MAZDA CX-5』に乗り換えてみた

2012年10月06日 15時57分34秒 | 俺のそれ
これまで幾度か記事にも書いてきましたが、ハリアーハイブリッドから乗り換えることにしました。理由は、ハイオクが高いから、ですね(笑)。

ハイブリッド車の燃費について、6年乗った当方の経験的な数字でいえば、夏場のいい時でも12~13弱(km/l)でした。高速を使うと、若干悪くなります。気温が下がると、モーターパワーが落ちるのとエンジン始動が多くなるので、燃費が落ちます(今年の夏は非常に暑く、燃費向上には大きく貢献)。
冬期間の不利はかなりあり、回生ブレーキの効果は激減、暖房(解凍)の為にエンジンが動く時間が長くなる、車重がアダとなる、といったデメリットが大きかったのです。


そこで今度は、ディーゼルを選択してみました。燃費向上と熱効率の高さで、文句なく本車CX-5を選びました。いくつか気付いた点について、書いてみたいと思います(車種は、2.2ディーゼルのXD4WD Lパッケージ)。


試乗した時にも感じた、あの独特のエンジン音は馴れが必要です。ハリアーのエンジン音や振動が静かだったこともありますが、やはり当初は気になります。ドロロロロロという、何というかちょっとガチャガチャ?したような感じ(音のガチャガチャではなく、「がさつ」というか「うるさい」というか「ザラザラ」というか、そういうこと)です。バイクみたいに音自体が大きくても、ガソリンエンジンの音であると受ける印象がちょっと異なるタイプのものです。ああ、ディーゼルだね、って感じのものかな、と。これは人によって好みや気になる度合いが異なるので、あまり重要ではないでしょう。


運転開始から約700kmくらいですが、燃費実績は約13.5~14km/l、です。
遠出するとか高速利用であると更に伸びると思われます。殆ど街中での使用でも、前車より向上しています。普通に走っているだけだと、14km/l以上は行けます。落ちる理由というのは、後述します。
5速以上のギアでの燃費は殆どの場合平均燃費以上に良く、高速道路で一定速度を維持する場合には、20km/l以上で走行できます。以前のハイブリッド車との決定的な違いはここにあります。

走行感は、重さを感じず(前は非常に重かったから)、トルクが420N・m(!)と高級高出力車と遜色ないので、パワー不足でストレスを感じることは殆どないでしょう。2段階目のターボが利く瞬間は、割とはっきり体感できます。ググっと盛り上がるエンジンは、本来持つ能力が開放されて、一番良い感触を発揮します。「ディーゼル音的ドロロロ感」(しつこくてゴメン)は殆ど解消され、若干うるさいけれども、気になる度合いは低下します。恐らく、ソフトに走る時にはドロロロ感が最も気になり、高速になるほど度合いは低下してゆく、ということかと思います。

燃費とパワーに関しては特に不満はなく、ハイブリッド車からの燃費向上は評価できます。冬になると、更に差がつくことになると思います。


残念な点としては、後部座席の居住性はハリアーに比べ悪くなっていることです。サスの拾い感も振動が伝わりやすいですが、それ以上に不満なのは狭いことです。ホイールベースの長さが若干短いのかもしれませんが、シートの移動が不可能になってしまっていることが、最大の要因かと思います。後部座席のシート位置を後退させられないのです。固定のまま。トランクルームが満杯になるほどの荷物を積む機会など、普通の人ではそう多くないでしょう。大型の荷物を積む場合には、後部座席に人は座らず、シートを倒せばいいわけで、普段の生活でトランクルームを広々とっておくことの意義が判らない。特にファミリーユースということなら、人が座る機会は多くても、トランクを目一杯使いたいという機会の方が少ないとしか思えない。

喩えて言えば、日常最も使う居間が8畳なのに、滅多に来ない来客用に客間8畳を取るようなものです。そんなことをするくらいなら、居間に10畳とか12畳とか広くとって、いっそ稀な利用の客間をなくしてもいいくらい、ということですよね。トランクルームはあった方がいいですが、今のような配分である必然性というものが理解できない、ということです。実際、家族からは不満の声が出ました。
価格を下げる、重量を軽くする、ということを優先した結果ではないかと思われますが、後部座席の狭さと居住性は犠牲になったかな、という気がします。普通の乗用車の感覚であれば、そう問題ないのかもしれませんが。


ATの設定にも疑問点があります。
マニュアルモードというのがついているのですが、ギアの選択は速度の制限域が厳密に決まっており、その範囲内にある時だけにしかギアを選べません。速度域の設定は、燃費とかディーゼルのエンジン特性とか、色々な要素で決められたのかもしれませんが、大きなお世話的なところがあります。エンジン回転数を優先しなかったことの理由もよく分からないです。

例えば、4速から5速に上げたい時には、速度が62km/h以上くらいじゃないと5速にシフトアップしません。つまり4速の速度域が広く取ってあり、エンジン回転数が2000rpm弱くらいになって、通常なら5速でも走れそうなのに、入らない。速度が60km/h以下だから、という理由で、だ。走行の殆どの場合、1500~2000rpmで走れるので、ハイギアを使って走行する方が燃費は向上するんじゃないかな、と思うのですが、60km以下では4速しか使えないというのはワケわからん。日常運転の殆どが60km以下なのに、5速を使わせろよ、とは思う。

マニュアルモードじゃなく、普通のATの時でも設定が同じなので、5速に入るには速度が必要。5速に入った瞬間には、回転数が2000弱から1500~1600程度に落ちるだけ。多分何の問題もなく59~60km/hでも5速で走れるだろう。だが、これを許さない、という設定になっているのである。これじゃ、マニュアルの意味がない。回転数が2000近くのまま走り続けるのは、ヘンなエンジン音が非常に気になるから余計に嫌なんだよね。無駄に厳密な速度域の意味が判らんのだ。回転数で判断しろ、とは思う。低すぎる回転数でのシフトアップとか、高すぎる回転数でのシフトダウンとか、それが防げればいいだけではないかと思うのですがね。ディーゼルエンジン特有の理由でもあるんでしょうか。

エンジンブレーキを意図的に使いたい場面(凍結路面など)でも、やっぱり速度域でシフトダウンが出来ないということになると、マニュアルモードの意味がない。エンジンの損傷を防ぐということかもしれないが、回転域で制御をしない理由は何なのだろう。

シフトショックね、これはかなりある。ハイブリッド車がCVTだったこともあるが、馴れが必要。ショックも大きく、エンジンがうるさい上に、ギアは自分の好きなところに入らず、かなり嫌な思いをする。自分がギア選択をするなら、ショックも音も許せるが(自分の操作の結果だと思えるから)、余計な制限をされた上にシフトショックはそれなり、ドロロロ感は満開(2000rpmだもんで)と来れば、なんでこんな設定にしたのか、と思いたくもなる。
会社が決めた設定でいいという人は普通のATでいいわけだし、マニュアルモードは自分の考えでやりたいという人が使うんだから、もっと自由でいいだろうに。5速で60km/hの何が悪いのかまるで判らん。バイクだって6速で走れるぞ。


次は、i-stop。
これは燃費向上にかなり効く。エンジン停止までの時間が短いので、停車すると即止まってくれる。信号待ちなどでは、かなりの威力を発揮する。前のハリアーだと、気温の影響をかなり受けていたので、止まらないこともよくあった。それと比べると、格段にいい。
だが、問題点もある。
右折待ちで停車する時にも、止まってしまう。当初、ブレーキの踏み方を一定にしていたら、毎回エンジン停止していた。なので、右折のタイミングが一呼吸遅れていた。
エンジンスタート時には、急発進防止機構が働いている為だろうと思うが、ブレーキペダルから足を離した瞬間、まるで壁に突き当たったような衝撃を感じるのです。ガクンとなって、その後にギアが入り、前に進む、というような感じですね。これは、i-stopが作動してエンジン停止となっている度に、毎回毎回起こります。なので、嫌な人にとっては、嫌かもしれないですね。幹線道路に出ようとする時にも、エンジン停止状態からだと素早く出るのがやや難しい。
これがダメという人はi-stopを解除するか、ブレーキペダルの踏み込みを甘くするか、ということで対処できます。下り傾斜で停車するような時、ブレーキペダルをi-stopが作動しない範囲で踏むというのはちょっと難しく、普通に踏んでしまうとエンジン停止となり、次の発進時にエンジンが始動して合流ということになると、面倒ではあります。抜くようにブレーキペダルを踏むようにすると、エンジン停止とならないブレーキ操作ができます。


一番最初に「アレ?故障?何?」と感じたのは、このi-stopが作動しない状態になった時でした。
まず、車全体が何かの「糞詰まり」か重度の便秘にでもなったかのような、重々しさが感じられました。瞬間燃費は、それまでの半分以下に低下しているのです。朝出勤の時には何ともなくて、帰宅時にエンジン始動後から、そういう状態になりました。しかも、何かの焼け焦げたような、それとも何かのオイルが焼けるようなヘンな臭いが車内にするのです。なんじゃ、こりゃ、と思いました。

咄嗟に思ったのは、マフラーに何か詰められたりという悪戯でもされたのかな、と。排気ガスがスムーズに排出されていなくて、逆流でもしているんじゃなかろうか、とか、エンジンブローの兆侯なのではないか、とか、不安になりました。
で、何が決定的に違うかというと、停車時にもエンジンが止まらない。i-stopが作動していない、ということでした。いつもランプが表示されているのですが、それが表示されていなかったのでした。

こういう時、何が故障しているのか、というのが全く分からないわけです。i-stopが壊れたのか、他の排気系のトラブルか判らない。だから、車が燃えだしたりしたらどうしよう、とか不安になるわけです。で、糞詰まり感はずっと続いていて、何が理由なのかもまるで判らなかったのです。
試したのは、i-stopモードの入・切と、排気ガスの流出圧を高めてみてはどうかな、と思って、少しアクセルを開けて加速してみました。すると、距離をある程度走行したら、i-stopが作動するようになり、糞詰まり感も解消されていきました。瞬間燃費の水準も、いつもと同じくらいに戻りました。
この理由というのは、はっきり判りません。数百キロ走行毎に起こっており、これまで2回ありました。初回は、空調の温度設定のせいだったのかな(暖房の際にはエアコン内のオイル汚れのようなのが臭いの原因とか?)、とか適当に推測したのですが、2回目は空調を止めても起こったので、別な理由なのだなと思い、説明書をよく読んでみることにしました。

すると、どうやらディーゼルエンジン特有の、あの微粒子みたいなのを除去するような装置が作動することがあるようです。臭いというのは、その条件に合致していました。メーター類の表示にそれは出てなかったと思いますけれども、恐らくその除去装置が作動していると、極端な燃費低下とi-stopの作動停止が起こるものと思います。このi-stopが作動しない状態となってしまうと、平均燃費が大幅に悪化するのです。これがなければ、もっといい数字が出るものと思います。これが前述した、14km/l以下に落ちる理由、ということです。

こういう状態になることがある、というのは、あらかじめ購入者に説明しておくべきではないかと思いますね。特にビビるのは、あのヘンな臭いです。エンジンから火を吹くんじゃないか、何かが燃えるんじゃないか、と本当にドキドキしましたよ。


最後に、コーチングの機械。
5段階評価で、0~5.0点の評点が運転の度に出される。ステージがファーストステージから、セカンド、サードと3段階だそうだ。当方は今、セカンドステージです。多分、20回か30回くらいの評点回数で、一定以上の平均点数だと次のステージに進む、という設定なのではないだろうか。400か500kmくらい走行してたら、いつの間にか変わっていた。
普通の運転歴のある人ならば、大体4点台とか出るだろう。試乗車に初めて乗った時、3rdステージだったが4点だった(平均点は3.2点くらいだった)。
ただ、これは余計なお世話なので、いらない。こんなものの為に価格が高くなるのは、承服しかねる。

1stステージの平均点は4.9で、減点されると「機械のクセに~」とムキになって、減点されないようヘンに気遣ってしまった。2ndステージの現在、平均4.2点くらいだが、やはりムカっとくる。5点の時と、3点台という時の違いが腹立たしい。運転者が同じなのに、そんなに点数のばらつきがあるのはおかしい。

簡単に言うと、道路が空いてる時には満点が狙える。けれども、渋滞なんかでノロノロ運転したりすると、点数がやけに低くなる。前の車が詰まってりゃ、そんなに加速なんかできん、っての。減速の具合も、燃料消費を減らす運転の方が大事なんだよ。だが、機械はそういうことが判定できない。住宅地ですれ違いがやっとの狭い道路とかを走ると、点数が大幅に下げられる。一体、何の文句があると言うのだ。ホント、大きなお世話なんだよ。今後の冬道とかでは、更なる減点が待っているかと思うと、負けた気分になるのでムカつく。何故に、機械ごときに負けねばならんのだ、とな。


まあしょうがないか。
ハリアーハイブリッドに比べると、価格がかなりお安くお買い得となっており、燃費性能もよいので、まあいいんだけれども、別な意味で「これって、どうして?」というような点がいくつかあるかな、と。

大きなお世話、というのが、かえって評価を下げている。
余計なことをする位なら、手出しをせず、相手に任せた方がいいのにね、と。自由度を奪うことは、マイナスとなる。




人を動かすのはpassion

2012年10月04日 13時41分47秒 | 俺のそれ
生きてきた年代によって、受け止め方が若干変わるかもしれない。

>http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51828694.html


断固ガイ氏の記事を取り上げるのは久々ですが、触発されたので。

丁度『ヒューゴの不思議な発明』をレンタルで観たばかりだったというのもあるかもしれない。特撮のない時代に、当時の人々がどれほど頑張っていたのか、ということが伝わるものだった。映画(映像)への愛と先人たちへの敬意があった。特撮博物館に関わる人々も、そういうのと同じなのではないのかな、と思う。


昔の技術や工夫なんかを知ると、何かの拍子に別なアイディアを生み出すヒントを与えてくれるかもしれない。或いは、自分の知らなかった世界がそこにあって、驚きをもたらすかもしれない。昔の何かを見たり学んだりするというのは、現実世界でも思わぬ効果があるかもしれない。

現代の水準からすると、確かに「ショボい」かもしれない。大抵のことは、そうだ。電算機だってそう。スポーツとか、何かの競技とかもそうかもしれない。


ただ、どの時代であっても、それに情熱を傾ける人々がいて、それが強ければ強い程、人々を惹きつける何かとなってゆくのではないだろうか。古典と呼ばれるものの多くがそうだろう。文学でもそう。音楽とか、その他芸術とかもそう。

映画などの映像技術は、クラッシック音楽みたいなものからすると、まだ歴史が浅い。文学と比べても、全然新種のものでしかない。だから、古典という領域にはまだ到達していないのであろう。今後、もしも人々の興味が失せていくなら、いずれ衰退して消滅することになるだろう。参加人数がどんどん減ってゆくから、人々の記憶から忘れ去られてしてまうことになる。そう、人々の記憶から消えると、興味を持たれることがなくなるので、消滅危機となるのだ。

興味が失せないようにするには、常に参加者を確保し、面白さを伝道したりする人間が必要なのだ。古い映画にしても、その解説をしたり、面白さを伝える人が必要なのだ。薄れそうになる記憶を再び誰かが掘り起こし続けると、それが持続してゆくことになるのだ。
『ヒューゴ~』の中で登場してきたヴェルヌやウェルズにしても、子供の頃に読んだ経験のある人は多いだろう。それは、古典の定着作業のようなことが行われている、というのと同じ効果を持つ。時代を超えて、その時々の人々に記憶され、ある一定以上の数が維持されれば、次の時代へと引き継がれてゆく、というようなことである。

だから、映画もきっと同じなのではないかな、と思う。オリジナルも大事だし、リメイクなども同じく大事だ。次の時代に引き継ぐには、記憶を残し続けていかねばならないのだから。何が残るかは、人々の興味による。その時代ごとに、人の情熱がどのくらいあるかによる。作品への愛が深ければ、遠くの未来までも伝わる可能性が高まる。


因みに、『ヒューゴ~』は割と好みの映画だった。時計職人という設定が好ましいというのもあったけれども、ヒューゴが友達の少女に言う「機械には、不必要な部品はない」というのがとても良かった。自分には、きっと何かの役割がある、世の中には必要でない人間なんて、いないんだ、という肯定感がいい。後に本好きの少女が分かったことは、文章を書く、という大役だった。


映画は色んな面で向上してきて、特撮技術も進歩を遂げたが、常にあったのは、ベタなpassionだった。現場でのリアルな汗、最後の最後はガッツと力仕事、みたいなアナログ的世界のはずだ。例の『バトルシップ』で描かれたのは、精密誘導のミサイル全盛にあってなお艦砲射撃という時代遅れの技術と、決定打を与える砲弾は何の妙案もなく「単に人力で運搬」というものだった。特撮博物館や古い映画の撮影現場と似た、しょぼい「前時代的」技術と個々の人間の頑張り、というアナログ全開の「血と汗と涙」への讃歌だ。


いつの時代においても、人々の情熱がある限り、記憶が消えることはないだろう。だが、それが失われないことの保証はないことも事実であり、伝承者たちが存在しなければいずれ消え去ることになるだろう。



がっつり間違っていました

2012年09月20日 19時17分56秒 | 俺のそれ
ウチのブログでは、大体誤用の典型例として当てはまります(笑)。


>http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120920-00000098-jij-soci


「口先三寸」というのはありましたよ。

つい最近だ>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/8720d4628ad3bfa9fc98b41b8c459106


うーむ、返す言葉もございません。

『意味を理解せぬまま誤った使われ方を見聞きし、そのまま覚えてしまうのではないか』


全く、おっしゃる通りです。
意味を理解せぬまま、とは、これまた手厳しい。その通りで。
そのまま覚えてしまう、とな。


にやける、って、ニヤニヤしているのかと思ってたですよ。

割愛する、って、時間もないので割愛とか聞くもんで、まあいいか的な省略かな、とか思ってたですよ。だって、割愛しますと言ってる人が、そんなに残念がってる様子を見たことがない。本当は言った(やった)方がいいんだろうけど、もう面倒だし時間(紙面)もないし、しょうがないから省いておくよ、というような感じかと。これが全然違ってた。


元々使う人が間違っていると、次々間違いが感染してゆく、ということになるのでは。
と、人のせいにしてみる。

すまん。



続・『梅ちゃん先生』に文句があるヤツはかかってこい!

2012年09月15日 19時23分44秒 | 俺のそれ
コメントをいくつか頂戴しましたので、特に以下のコメントについて少々返答を書いてみたいと思います。

『梅ちゃん先生』に文句があるヤツはかかってこい!

(コメントを再掲)

そりゃあまりにクタクタで子どもが泣いていることに気づかないということもあり得るでしょう。でも、それ程梅子が必死で頑張っているようには見えない。梅子が一から苦労して本気で地域医療のために取り組んでいるのであれば、患者さん達との触れ合いがあれば、観てる人々の心を鷲掴みにすると思いますよ。成長物語って、どこが成長しましたか?
自分は父親に一から十まで依存しているくせに、他人に対しては上から目線。
私がこのドラマに共感出来ないのは、時代考証がどうのこうのとか、子どもの泣き声で起きないからどうのこうのではないのですよ。
ヒロインに人としての魅力が感じられないから。これにつきます。
こんな人間、一番敬遠するタイプですね。
父親のコネで(日頃は煙たがっているくせに、ここという時はチャッカリ利用する)、大学病院に就職。金もないくせに「先生」とチヤホヤされたくらいでその気になって開業を思いつく。そして平気で実家を担保に入れる。そこまでして開業したのに、必死で働いてる様子もない。看護師の給料も払えないのに「診療代はキャベツでもいいですよ」という見栄っ張りぶり。
もう、今ではまともに観てないけれど、「みんなの感想」を見ればわかります。やっぱり成長してないんだな…と。
私は「梅ちゃんファンサイト」(そんなものがあるのかどうかもわかりませんが)に書き込んだりはしません。せっかく梅ちゃん大好きな方々が集っているところに批判的な意見を載せても、気分を害させてしまうだけですから。
たまたま見つけたこのブログ、「かかって来なさい」と書かれてありましたので、私の考えを書かせていただきました。
長文、乱筆乱文失礼いたしました。


========


もし、このコメントを一言で要約すると、「ヒロインに人としての魅力が感じられない」ということでしょう。これは、主観ですから、仕方がないことですね。喩えて言えば、佐々木希でも綾瀬はるかでもいいんですが、「女性としての魅力を感じない」と宣言してしまえば、その意見は誰にも覆すことはできない、ということです。

コメントのピックアップ順が前後しますが、当方の話の進め方の都合上ですのでご容赦下さい。
(以下、引用部を>> で示します)


>>父親のコネで大学病院に就職

これは若干語弊があるかと。他の皆と同じ試験を受けたのですから、コネ入社みたいなものとは違うかと思います。そこで特別な取り計らいがあった、ということでもあるならコネだと断罪できますが、そうではないんじゃないかな、と。
親と同じ学校に進むことは、そう珍しいことではないんじゃないでしょうか。大学入試や就職試験ならいざ知らず、インターンの行き先だったわけで、昔は希望先にはほぼ入れたんじゃないでしょうか。インターンは、今でいう研修医制度と似ており、研修期間が終われば自分で新たな就職先を探す必要があります。終身雇用の採用試験じゃないんですから。ただ、慣例的にインターンが終わった後も同じ医局にお世話になることが多かったものと思いますけれども。そのインターン採用試験がそんなに難しかったとは、考え難いでしょう。コネを使うほどの試験でもなかったんじゃないのかな、というのが当方の推測です(実態はどうだったか知りません、あくまで”推測”です)。


>>チヤホヤされたくらいで…開業を思いつく

バイト先での経験があったから、でしょう。話の筋を忘れてしまわれたのでしょうか?おだてられたから、ではないですよ。大学の医局というのは、ドラマでも出てきましたが、研究は重要な位置を占めています。少なくとも、研究・教育が大きな地位を占めている、というのが事実であり、その余を臨床に充てる、ということになってしまうわけです。ドラマ中でも研究成果が出てきて、論文を書き上げるくらいにまで来ていたのに、町医者になる選択をするのかと父親に非難されていました。開業医になるということは、「臨床に特化する」ということに他ならない、ということです。そういう選択をした、ということです。同僚の松岡さんや同級生の女医さんなんかが大学に残っているのは意味があるのです。


>>実家を担保

何の資産も後ろ盾もない人に、銀行が簡単に金を貸してくれるわけないですから。医院を建てるのに大金が必要です。もしも実家がないとか、担保もない、ということなら、確かに開業できなかったのかもしれません。その場合には、大学に残って給料をもらっていたことでしょう。


>>必死で働いている様子もない

まあ、ドラマの全部を医院の毎日ということで描くと、また違った面もあるかもしれませんね。患者さんが列をなして来ている、という状況でなければ、空き時間があるのは仕方がないのでは。実家で酒屋を営んでいる店があって、1分たりとも休みなく客が来ているかというと、そうでもないのでは。それを見た人は、「お前の店は怠けている」と非難するのでしょうか?


>>診療代はキャベツ、看護師の給料も払えない

まず、看護婦さん(当時は看護婦と呼んだはず)、給料なんて二の次、というのはずっとそうだったと思いますよ。今ほど、医療界の中で地位が確立していたわけではなかったでしょう。給料は安かったはずだし、あのベテラン婦長上がりの素晴らしい看護婦さん(当然我が家では大人気)であっても、金より治療を優先、患者さんを優先、と思ってやってきたはずです。それに、国民皆保険になったのは、昭和30年代に入って以降だったと思います(制度が出来ても、必ずしも加入率が100%に行くはずもないでしょう)。医療費の自費で全額負担が、想像できますでしょうか?たった今、あなたの保険はなくなって、10割負担だとしたら、どうでしょう?払えないことは珍しくないと思いませんか?
国民健康保険ができる前は、サラリーマン以外の農家や漁師さんや自営の方々には、健康保険はなかったはずです。だから、本当に野菜や魚を持ってきて、これで診てくれ、なんてことはしょっちゅうあったはずです。平成年代でも、田舎の医院なんかに行くと、野菜や魚なんかをもらったりする医師は珍しいものではなかったと思いますよ。国民健康保険が始まっても、自己負担は5割でした。だから、病院にかかるというのは、昔は大変だったろうと思います。所得が低い上に、保険制度が十分整っていたわけでなく、自己負担も多い、今でいえば中国の医療環境に似ていたのかもしれません。イメージとしては、そういう感じ、ということです。
偽善でもなければ見栄でもない、現実に患者さんには「払える金がなかった」し、医師の側としても取りようがなかった、半ばボランティア的にでもやらなければ、医療を満足に受けさせることができなかった、そういう時代だったということです。払えない人は診ない、なんてことは、医師として到底できるものではなかった(これは現代であっても同じです)、だからこそキャベツでも海苔でもいいとしか言えなかったのです。


>>梅子が一から苦労して

全て一からやったのですよ。医師の数も少なかった時代に、女医さんなんてもっと少なかった。そういう中で、自分の力で一から築き上げていったんです。そもそも女性の就業者、すなわち「職業婦人」は社会的に蔑視されるような中でも先人として道を切り開いていったのです。医学界という封建的世界で、女医さんが極めて珍しい中で、医療に貢献していったのです。


>>「地域医療のために」「患者さんとの触れ合い」

地域に住んでる人たちのことをよく知っているではありませんか。まさしく「家庭医」としての役割を果たしていますよ。患者さんとの触れ合いだって、多く描かれていますよ。学校検診や職場検診など、公衆衛生の黎明期で必死に取り組んでいたじゃありませんか。ドラマですから、そういう中に、笑い話を盛り込んでいるようにしていますが、実際に検診事業などをやってゆくのは容易ではなかったでしょう。患者さんとの触れ合いというのも、患者さんの家庭環境や背景まで含めて、考えるべきことです。日常的に顔を合わせたり、近所の事情を知っているということだけでも、役立つことはたくさんあるはずです。地域というのは、単にそこに存在するということだけではありません。そこにいる人々の生活をつぶさに観察している、ということです。地域医療というと、そこに何を求めておられるのかが判りませんが、人々の生活を知っているということは大変重要なことである、ということです。何も楽している、ということにはなりません。


>>どこが成長しましたか?

梅子は学生だった時代から、医学に進み、卒業して父と同じ大学に残り、開業して、結婚し出産しました。これの何が不十分だと?一人の子供を産むことができた、そのことだけでも十分価値のある成長物語ではないですか。
私は結婚式に呼ばれて、花嫁さんの生い立ちなんかを聞かされてきましたが、そんなに強烈な物語をもっている人なんて、見たことがないですよ。大抵の方々は、小中学校、高校、短大だの大学だの専門学校だのと、進んで、就職して、馴れ初めがあったりして、結婚式に到達しているわけですね。これこそが、その人の成長物語ではないですか。それ以上の何が必要だと?そこに、何らかの証明のようなものを求めているのでしょうか。平凡な人生を進んできた人に、「あなたは、何ら成長などしていない」と非難するつもりなのでしょうか。そういう気持ちになったことがないので、全く理解できませんね。
人が大きくなってゆく、学校に行き、就職し、結婚する。それは、人生であり、成長の足跡だ。そういう生活の中に、人間として何かを掴んだり、学んだり、獲得したり、色々なことがある。特別な人生など歩まなくとも、誰しも成長を続けてきてはずなのだ。これを否定する気にはなれない。
別に、感動のスーパードクターみたいなことはなくても、心を鷲づかみにするような治療をしてなくとも、普通に人生を歩んでいる梅子先生の姿を見ているだけで満足できる。
ああ、きっとこういうことってあったんだろうなあ、とか、ささいなことでも感心できるし、自分の記憶などからも共感が生まれる。



長々と書いてしまいましたが、ご批判があることは承知しました。
当方の一方的考えを書いてみただけですので、今後のドラマを理解する上で役立つか判りませんが、頭の片隅にでも置いて頂ければと思います。



『梅ちゃん先生』に文句があるヤツはかかってこい!

2012年09月13日 21時26分11秒 | 俺のそれ
我が家的には、非常に素晴らしいドラマとして絶大な人気を誇る、『梅ちゃん先生』に不満がある人々が大勢いるらしい。


>http://www.news-postseven.com/archives/20120908_141636.html


酷評が多い、というわけだが、何が悪いのかが全く理解できない。
まあ、かなりの数の人がダメなドラマだ、と感じているということかもしれないが、オレ的にはまるで賛同できんな。


文句なんて、いかようにもつけられる。
最たるものが、梅ちゃんが医者には見えない、ってやつだ。現実にそんな「美人先生はいない」「カッコよすぎる先生はいない」みたいなことは、誰が演じてたって言える。だって、俳優さんや女優さんだから。

けど、西川先生みたいな、どう見ても医者には見えない芸能人だっているわけで。現実は、医者じゃん。医者だな、と思えば、どんな役者さんだって医者に思えるよ。そう思って見ない、というだけ。自分の中にある、つまらない先入観に支配されている人は、その「自分が抱く医師像」みたいなものから、離れなれないんだよ。そんなに言うほど、医師について詳しく知っている人なんて、そう多いとも思えない。


リアリティがない、とか言うのも、ほぼ全てのドラマや映画で使えるわ。どんな作品でも、ツッコミどころを探せば、何だってあるっての。


「赤ちゃんが真横で泣き続けてもまったく気付かない母なんてありえない」

→ 確かに、普通はそうだよ。だけど、夜勤の連続とかでヘトヘトになってみ?おれは実際目が覚めなかった経験があったよ。自分でも信じられなかったが、まるで起きれなかったことがあった。それくらい梅ちゃんが疲れていた、ってことを表現してるんじゃないか。どうしてそれが素直に受け止められないのかが疑問。


「生後数か月の育児は、こんなもんじゃない」

→ じゃあ、ドラマの殆どを「子育て地獄」みたいな感じで延々と詳しく演じればよかったのか?そんなドラマを大勢の人たちが期待しているとでも?そんなに子育てが大変だとか言うなら、親と同居でもしていればいいんだよ。家を出たいとか言わないで、3世代同居したらいいじゃないの。


「適当な発想で子育てを描くことが不快」

→ 要するに、「わたしはこんなに苦労して塗炭の苦しみを味わっているのに、梅ちゃんはのんびり楽ちん子育てしているのが、腹立たしく気に食わない」ということなんだろう?適当も何も、子育ての一部がドラマに出てくるだけで、子育てに特化したドキュメンタリーじゃないんだから。主人公がプロのスポーツ選手という設定とかで、一部に練習シーンとかあったら、「あんなもんじゃない」とか言い出したらキリがないっての。話の展開上、出産した、という事実が描かれていればいいんだよ。子育て上の苦労を全部正確に描写せよ、とかいうドラマじゃないんだってば。


「苦労もなく手に入れたラクラク人生なのに、地域医療とか嘘くさい」

→ 苦労もなく、って、じゃあ空襲に遭ったことがあるか?水道のない生活とか洗濯機のない洗濯をしたことがあるか?鉛筆やノートもろくになくて勉強をしたことがあるか?何がラクラク人生だ。梅ちゃんの方がはるかに苛酷な人生だったろうよ。嘘くさいのがダメなら、家族の半分くらいは大空襲で焼け出されて、死亡させておけばよかったのか?悲惨な人生がお望みということか?嘘くさい、って昔の医療機関そのものが少なかった時代だから、急病センターもなかったし、大変だったはずだ。それの何が気に入らないってのかねえ。


「庭の梅の木はいつも枯れていて季節感がない。花が咲くと造花にしか見えない」

→ そりゃすまんかったな。大道具さんとかに文句言えってことか?見るに堪えないSFXだか特殊効果だか、そういうのもいっぱい存在してきたのだが、細かいことを言えばどんなドラマにだって穴はあるだろうに。それに、本筋には何ら影響ない。梅の花は、たまにしか咲かなくていいんだよ。意味のある場面だけ、咲いていればいいの。



要するに、他人を呪いたい連中が多い、ってだけなんじゃないの?
うらみつらみが多すぎるんだろうよ。他人が楽しているように見える、というだけで腹が立つようなまことに「不幸な」連中なんだろう。「私の苦労なんて、こんなもんじゃないわ」的な苦痛表現を好む人たちなんだろう。子育てが喜びなんじゃなく、まるで過酷な労働か拷問か苦行のようなものであるとして「描いてほしい」ということかもな。子育て地獄、これを描け、と。

そんなドラマなんざ、みたかないね。
誰がそんなつまらんものをみたいと思うわけ?
ああ、文句を散々言ってる人はそれがお望みなわけね。


記事を書いてる人は次のように言う。


『梅ちゃんの母親役(南果歩)も母親に見えないし、義父役(片岡鶴太郎)も職人に見えてこない。一言でいえば、生活のシーンどれをとっても、話し方、手つき、表情、雰囲気などの「リアルさ」が欠如している。お話の「土台」となる前提が崩れている。だから、視聴者であるこちらもフィクション世界に没入できない、というわけです。』


母親役に見えない、ってさ、どういう見地なの?
戦前だから、20歳くらいで産んだのは普通だろう?3人目だから、20代後半なのかもしれんが、梅ちゃんと25歳違いだとすると、50歳ちょっとくらいでは?現在に比べて、多少若かったとしても、普通だろう?イマドキの初産が30代後半とか40歳くらいという感覚だから、ダメなんじゃないの?

鶴太郎の職人役は、結構好きだけど?
おれがガキの頃の家族イメージって、あんなもんだったような感じだけど(親父は職人ではなかったが)。ああいう、ガサツな感じの家族だった、ってことだよ。江戸弁の工場(こうば)のオヤジなんて、あんなもんじゃないの?詳しくは知らんけどさ。

ステテコ姿とか、腹巻き姿とか、あんなもんだろう?
口の悪さとか、適当なことを言う調子のいい感じとか、よくありがちだろう。ちょっと芝居がかった大袈裟なところはあるけれど、あれは意図的にそういう感じの「江戸弁オヤジ」としてやっているんだろうよ。

リアルさの欠如というのが、具体的にどの部分がどうなのか、というのが全く分からない。だったら、あんたが監督なり演出家なりをやってみな、って話だわな。『生活シーンどれをとっても』、って、それはドラマのほぼ全部だろう。生活シーン以外のシーンなんぞ、昔の回想部分で記録フィルムなんかが出てくるくらいだわな。料理を作るシーン、食ってるシーン、作業場で仕事をしているシーン、色々あるが、どれがどうダメなのかね。


梅ちゃんの一番いいところは、梅ちゃん自身の「成長物語」だよ。主役の堀北さんがこんな大役できるかしら、という不安で頼りなげな所と、梅子先生が医師となって成長してゆく過程が、まさにぴったりと符合しているところがいいんだよ。梅子が成長してゆく様を見守るのと同時に、ドラマそのものが成長してゆく様を見守るというところがいいんだよ。

我が家としては、非常に共感できるドラマなのだ。
まるで我が子を見守るが如きドラマだから、だ。


昔はさ、ああいう他人にストレートな所が多くて、人間同士の関係も濃くて、いちいち他人の問題や話にも首を突っ込んできて、ちょっとした事件や出来事なんかは近所の連中がみんな知っていて、というようなことだったわけだよ。暑苦しい関係だった。面倒でもあるけれど、人情もあった。


梅ちゃんの一家や周囲の人たちは、ほのぼのとさせてくれる。
ケンカしたり、つまらない言いあいをしたりもするけれど、笑っていればいつかはどうにかなるんじゃないのかな、ってことでいいでしょうに。最後は丸く収まるって、一番いいじゃん。
ポワンと「困ったわ」と言って、いずれどうにかなるなら、それでいいじゃん。梅ちゃんの一家は、大体いつかはどうにかなってるもん。失敗もあるけれど、笑って過ごせば、どうにかなるってことを信じたいでしょ。


そんなにギスギスした人生を歩まなくたっていいじゃないか。
文句を言っている人たちは、結局あの「ポワン」としたほのぼの感が、憎々しいということなんだろうと思うよ。もっと困れ、みたいな。現実世界で、笑って済ませられないようなタイプの人たちが、他人を恨んだりするから、それをドラマにさえ持ち込もうとするだけ。他人が苦しんだりする姿にこそ、喜びを感じているんだよ。怨嗟の感情から解放されることがないのだ。


文句を言う方向性が、なんか空しい。
話の筋として矛盾してるとか、いきなり突飛な展開だとか、理解できない描写とか、そういうのはあるかと思うが、否定的意見が殺伐としているのは、何だか寂寥感が溢れるな、と。

オレにとっては、幸せ気分に浸れて、いいドラマなのにな。


今年のお気に入りドラマとしては、最高がやっぱり『リーガル・ハイ』で、次が『梅ちゃん先生』ですな。今後、古美門弁護士の特番でもあれば、と期待していましたがね。



※16日追記:

コメントへのお答えとして、昨日書いた記事も参照下さい。

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/4d41a5571f3f8e5bbb4438695a7a44aa



中国の橋

2012年08月26日 16時37分35秒 | 俺のそれ
これは、予想できたりもする(笑)が、怖いことはこわい。

>http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/accidents/2896994/9404505?ctm_campaign=txt_topics


中国中央テレビ局(China Central Television、CCTV)は現場からの中継で、崩落部分は100メートルにわたり、走行中のトラック4台が次々と落下。2人が即死、1人が病院で死亡したという。橋は、設計上9800台/時間の交通量に耐えられることになっており、当局が現在、事故の原因を調査しているという。新華社(Xinhua)通信によれば、中国では前年7月から1年余りの間に計6つの主要な橋が崩落しているとして、手抜き工事や荷重超過を批判している。(c)AFP

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1年で6つの崩落、と。
作られてから年月が浅いのに、でしょうね、きっと。


さもありなん、ですか。


他の建築物は大丈夫なのか、心配になりますよね。

大地震の時とか、倒壊が心配です。





別館の方が、シャットアウトされているみたい

2012年08月19日 14時17分05秒 | 俺のそれ
サーバーエラーで、見れなくなっている。


こいつら、本当に邪魔ばっかりするつもりなんだな。



非常にマズい記事を書かれたから、か?


そりゃあ、まあ、そうだろうね。

最高裁事務総局と検察の、壮大な巨悪、究極の「小沢抹殺陰謀事件」が仕組まれたのだとすると、そのボロが晒されるわけだから。



他のはてなダイアリーは見れるのに、何故当方のブログだけはサーバーエラーなんだよ。


小細工がバレで、大わらわ、ということですかな?



クズ野郎どもが。



追記だけど。

一つ前の記事で書かれたことも、非常に痛い所を突いたですかね?w


さっさとサーバを回復しろ。hatenaさんよ。

いつまで(昨日までの記事更新しか出てこない)旧ページのダミーを表示しとくんだよ。


見れないよ~


ログインもできないぞ。

おいおい、どんな小細工中なんだよ。


他の方々からは、見えるのですかね?

キャッシュは見れるが、本体が見えない。
ヘタすりゃ、全抹消されかねない、ということですかな。


遂に、ネット八分どころか、「ネットいじめ」の究極ですか。



とんでもない会社だな、はてな、って。

やることがえげつない。


はてブの方からログインしたら、やっぱりサーバエラー表示、で、今度はログインしっぱなしになってしまい、ログアウトできなくなった。


何なんだ、この会社は。



今度は、ログインした状態になったまんまだから、試しに他のはてなダイアリーにコメントを書き込もうとすると、又してもサーバエラー。トップ画面が表示されないのと同一のエラー表示画面。


コメントの書き込みさえ、無効化されてるから。


マジ、酷い。



更に追加。
ログアウトできないままで、リンク先に表示される別なはてなダイアリーなんかを開こうとすると、やっぱりサーバエラーだ。

どうなってんの?

例えば、はてなブックマークのページから、

>http://b.hatena.ne.jp/entry/hirorin.otaden.jp/e247570.html


その下の方に表示される

>脳髄にアイスピック

を読もうとすると、サーバエラー。


どういうこと?


けど、お気に入り欄に登録済みダイアリーは、読める。
山本弘の秘密基地も読める。別に何の興味もなくても、試しに開いてみると、普通に開く。


だが、はてなの日記で、当方の別館のトップページが開けず、リンク先ページや登録済み日記のコメント欄へのコメント書き込みの場合には、エラー表示となって開けない。


どんな操作をしてきたんだよ、ってことだな。



当方の閲覧ページを探って

2012年08月19日 12時46分05秒 | 俺のそれ
何の意味があるのだろう?


インターネットの設定で、履歴を削除というのを自動で選んでいるのだが、実際には削除されずそのまま記録されて、どこかに報告できる形で残っている、ということのようだ。自分では、そのカラクリが全く探索できないんですがね。
ウイルスとか、不正動作の根本原因も発見できてないんだけどさ。

端末を変えれば、一時的には防げるようになるのかもしれないが、そんなことの為だけに買い替えるのも癪だしな。


そんなウイルスがあるのかどうかよく知らないが、履歴消去を実行しても、実際に消去されていないのは確実だ。



オレの見るページに、重大な関心を寄せるのも笑える。
そんなにオレのことが知りたいの?


履歴を消せなくしてまで、何を知りたいの?www


他のページに小細工してまで、オレの書くことを封じ込めたい、ということかね?
短いコメントくらいで、何が問題になると?


ホント、世の中というのは、クソみたいな連中がいる。


使える手は、何だって使うんだと。