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辺野古沖基地建設に係る埋立承認取消の代執行に関する裁判の争点について~1

2015年11月17日 12時36分01秒 | 法関係
(個人的感想について:半月も待つのは、かなり辛かった。この日、この瞬間を待っていたのだよ。当初、意表をつかれた代執行の手続きだったが、ひょっとすると千載一遇のチャンスかもしれない、と思えた。国が法廷闘争を選んでくれたことに感謝したい。もしも行政不服審査法上の裁決だけであったなら、裁判に持ち込めるまでは圧倒的に不利だったことは確実だった。しかし、今回のように裁判所の判断を仰ぐチャンスを得るなら、官邸の言いなりでしかない霞が関の審査庁から出る裁決を待つよりも、ずっとマシだからだ。負けが確定するまでは、諦めないぞ。卑怯な手を用いる者たちに、法の鉄槌を下されんことを!)


この検討内容は、あくまで当方個人の見解であり、どの程度の正当性・正確性があるかは当方には判断できない。過去に書いてきた記事とも違っている部分がある(以前には気付けなかったことも多々あった)ので、お詫びして本見解に変更をお許し願いたい。



文中の文言は、次のように記すものとする。
・公有水面埋立法 =公水法
・合衆国政府 =米国政府
・日本国政府 =国、政府
・合衆国軍隊 =米軍
・沖縄に関する特別行動委員会 =SACO
・日米安全保障協議委員会 =SCC
・普天間代替基地建設事業 =基地建設
・沖縄県知事 =知事
・沖縄防衛局 =事業者



総論


1 大規模埋立工事は不可逆的である

ひとたび埋立工事を実行してしまうと、自然環境、生態系や利害得失関係などは工事以前に戻せない。条文上では原状回復が存在しており規定されてもいるが、現実には不可能である。そしてその不可逆性によって、工事完了後でさえ長期に渡る利害対立が残る原因となる。従って、事前の評価が大切であり、事業計画について慎重な検討がなされなければならないことは言うまでもない。


1)諫早湾干拓事業における教訓

埋立行政の大失敗例である。事後救済や解決方法が未だに確立されていない。平成22年福岡高裁判決により開門義務が確定判決となったが、平成25年長崎地裁による開門禁止仮処分が決定された。更に、平成27年1月には最高裁が国の抗告を棄却し、現在においても福岡高裁や長崎地裁で係争が続いており、今後の解決の糸口は一向に見えない。
計画から約20年を経て昭和63年に埋立承認、平成9年には潮受堤防の締切となったものの、現在においても裁判が続いているということである。混乱と迷走の元凶は稚拙な事業計画や影響評価で実施を決定したことであり、明らかな失敗事業であった。これならやらない方がまだよかった(一方当事者だけの不満が残るだけだから)という声も聞こえよう。杜撰な埋立という政策によって、30年以上にも及ぶ争議を生み出したと言っても過言ではない。
同じ失敗を繰り返さない為にも、事前の評価、検討が重要ということである。


2)鞆の浦埋立問題

広島県知事に対し、公有水面埋立の免許をしてはならないとする旨の判決であった。

【平成21年10月1日 広島地裁判決】

『景観利益に関する損害については、処分の取消しの訴えを提起し、執行停止を受けることによっても、その救済を図ることが困難な損害であるといえる。以上の点や、景観利益は、生命・身体等といった権利とはその性質を異にするものの、日々の生活に密接に関連した利益といえること、景観利益は、一度損なわれたならば、金銭賠償によって回復することは困難な性質のものであることなどを総合考慮すれば、景観利益については、本件埋立免許がされることにより重大な損害を生ずるおそれがあると認めるのが相当である。』と判示された。
沖縄県においても、自然環境及び景観保護の観点から免許することが適切ではないという判断の一因となっているのであるから、これについて十分な検討がなされるべきであり、現時点での知事の政策判断は尊重されるべきである。また、海とその周辺の自然環境の恵沢を享受する権利は不特定多数の一般個人にもあり、当然に保護されるべき法益である。最高裁判例によれば、次の通りである。

「法律上の利益を有する者」とは,当該処分により自己の権利若しくは法律上保護された利益を侵害され,又は必然的に侵害されるおそれのある者をいうのであり,当該処分を定めた行政法規が,不特定多数者の具体的利益を専ら一般的公益の中に吸収解消させるにとどめず,それが帰属する個々人の個別的利益としてもこれを保護すべきものとする趣旨を含むと解される場合には,このような利益もここにいう法律上保護された利益に当たり,当該処分によりこれを侵害され又は必然的に侵害されるおそれのある者は,当該処分の取消訴訟における原告適格を有するものというべきである。そして,処分の相手方以外の者について上記の法律上保護された利益の有無を判断するに当たっては,当該処分の根拠となる法令の規定の文言のみによることなく,当該法令の趣旨及び目的並びに当該処分において考慮されるべき利益の内容及び性質を考慮し,この場合において,当該法令の趣旨及び目的を考慮するに当たっては,当該法令と目的を共通にする関係法令があるときはその趣旨及び目的をも参酌し,当該利益の内容及び性質を考慮するに当たっては,当該処分がその根拠となる法令に違反してされた場合に害されることとなる利益の内容及び性質並びにこれが害される態様及び程度をも勘案すべきものである(最高裁平成16年(行ヒ)第114号,同17年12月7日大法廷判決・民集59(10)2645)。

代執行の提訴を行った国においては、この名文をしかと噛みしめるべきである。
『当該法令と目的を共通にする関係法令があるときはその趣旨及び目的をも参酌すべし』、と最高裁が言っているのである。



2 現政権下における行政庁の行為は果たして法に基づいているのか

本来、行政の行為は法に則り正確に実行されなければならない。ところが、現政権への信頼は乏しく、本当に法に基づいて行政行為がなされているのか疑問である。


1)論点1:基地建設の根拠法は何か

本件のような大規模事業を一般法を根拠とし、行政の裁量権のみで実施することは、事業を円滑かつ安全に遂行する上で支障を来すことは当然に予想された。国の直轄事業として本件基地建設を行うのであるから、行政事務や手続の多くを沖縄県に押し付けるのではなく、国が大半を負うべき責務がある。公水法の承認は知事権限を尊重するのが当然としても、特別法での対応があってしかるべきである。
例えば、「公共用地の取得に関する特別措置法」や「新東京国際空港の安全確保に関する緊急措置法」では、重要な公共事業の位置づけがより明確化されている。本件基地建設が唯一の方法であって非常に重要であると政府が主張するのであるから、特別法の対象事業としての遂行が望ましく、重要であればこそ特別法の必要性が増すことはあっても減じることはなかろう。
本件基地建設が特別法の制定が必ずしも求められないとしても、政府の権限の基となっている根拠法を明示するとともに、これを説明すべきである。防衛省設置法4条12号及び各年度における予算関連法しかないのであれば、それでもよいが、あまりに無造作な根拠といえよう。


2)論点2:海上保安庁の強制排除の法的根拠は何か

海上保安庁は、作業範囲の海域に設置された浮標内に進入したカヌーや民間人を強制的に排除している。身体拘束を伴う行為が公然と行われており、これまで告発された例もある(不起訴処分となった)。海上保安庁が明確な法的根拠を提示しておらず、拘束時にも法的根拠について宣言・説明していることは皆無である。逆に問われても答えない。
海域の通航・進入制限は、どのような法的根拠があるのか不明のままであり、範囲が示された唯一の手掛かりは、防衛省告示123号(平成26年7月1日)のみである。この告示をもって海上保安庁が行っている身体拘束の根拠とすることは不可能である。海上保安庁法18条1項の適用と主張するとしても、その要件を満たしていることの立証が必要である。


3)論点3:政府の海域提供の法的根拠は何か

論点2と関連するが、政府が米軍に提供することとした海域について、前記防衛省告示123号をもって手続が完了していると考えることはできない。まるで私有地のような独占的領域として海を取扱うことは、不当である。最高裁の判例では、次のように述べられている。

【最判三小 昭61.12.16 民集40(7)1236)】
『海は、古来より自然の状態のままで一般公衆の共同使用に供されてきたところのいわゆる公共用物であつて、国の直接の公法的支配管理に服し、特定人による排他的支配の許されないものである(中略) 現行法をみるに、海の一定範囲を区画しこれを私人の所有に帰属させることを認めた法律はなく、かえつて、公有水面埋立法が、公有水面の埋立てをしようとする者に対しては埋立ての免許を与え、埋立工事の竣工認可によつて埋立地を右の者の所有に帰属させることとしていることに照らせば、現行法は、海について、海水に覆われたままの状態で一定範囲を区画しこれを私人の所有に帰属させるという制度は採用していないことが明らかである』

【最判二小 平17.12.16】
『海は,特定人による独占的排他的支配の許されないものであり,現行法上,海水に覆われたままの状態でその一定範囲を区画してこれを私人の所有に帰属させるという制度は採用されていない』

これらから当然に一定範囲を区画して私人所有に帰属させることは不可能であり、防衛省がたとえ告示によって米軍に対する提供を決定したとしても、国会による立法措置なく特定人(本件では防衛省及び米軍)による排他的支配が無条件に認められることはない。
従って、防衛省告示123号には法的根拠を欠いており、本件海域の提供は違法である。


4)論点4:公共用物である本件海域を利用する権利は一般公衆にあり、法益もある

防衛省告示123号の存在により、米国政府及び米軍が独占的排他的に本件海域を使用する権利を獲得できる、という説明は誤りである。理由は、前記最高裁判例で尽きているわけであるが、法律の条文からでもそれはうかがい知ることはできうる。国は本件埋立に伴い岩礁破砕許可申請を行っているが、申請書には漁業権者の免許番号と補償の措置について記載されていた。もしも防衛省告示123号をもって独占的排他的支配を必然的に確立するのであれば、海域の漁業権者への補償は不要であるはずである。米軍に提供する海域を区画し指定しても、それをもって海域への進入制限を加えたり、海の利用を一方的に制限できる根拠となるものではないということである。

提供海域の主要な利用権者として、漁業権を有する者に対して補償しているが、他の利害関係者が存在する場合には、同様に補償の対象としなければならないはずである。漁業権者については、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約に基づき日本国にあるアメリカ合衆国の軍隊の水面の使用に伴う漁船の操業制限等に関する法律」に基づいて制限と補償がなされているものであろう。

また、土地収用法5条3項は、『土地、河川の敷地、海底又は流水、海水その他の水を第三条各号の一に規定する事業の用に供するため、これらのもの(当該土地が埋立て又は干拓により造成されるものであるときは、当該埋立て又は干拓に係る河川の敷地又は海底)に関係のある漁業権、入漁権その他河川の敷地、海底又は流水、海水その他の水を利用する権利を消滅させ、又は制限することが必要且つ相当である場合においては、この法律の定めるところにより、これらの権利を収用し、又は使用することができる』と規定している。「海水その他の水を利用する権利」は、漁業権以外の補償対象となるべき法益として存在し、その権利を消滅又は制限するには土地収用法の規定に基づく手続が必要なのである。

つまり、土地収用法という法律に則った手続が正当に行われた場合にのみ、制限が可能となるということである。本件においては、そうした手続が実施されていないことは明らかであって、国が違法でないという合理的説明があるなら、それを提示する義務がある。論点2、3と合わせて、整合的説明ができなければならない。

更に、「防衛省における自衛隊施設の取得等に関する訓令」では、4条(1)で『施設とは、自衛隊の用に供する土地、建物、立木、その他土地に定着する物件及び土地収用法第5条に掲げる権利をいう』とされ、(2)において、施設の取得等とは、『土地収用法第5条の権利の消滅又は制限』が含まれている。すなわち、土地収用法5条の権利は国民に存するものであり、この権利の消滅又は制限は、土地収用法による手続や本施設の取得等に関する訓令の手続によらねば許されないということである。この訓令4条の除外規定として、「自衛隊の訓練等に必要な制限水域の設定及びこれに伴う損失補償に関する訓令」があるが、これは制限水域が自衛隊の「施設の取得等」には該当せず、単に漁業権者への補償を行うに過ぎず、この場合土地収用法5条に掲げる権利の消滅又は制限を主張することはできない。本件での制限水域の正当性をこの訓練等に必要な制限水域と主張する場合であっても、漁船以外に制限を課すことは違法である。


海ではなく河川に関する重要判例では次のように判示される。

『公水使用権は、それが慣習によるものであると行政庁の許可によるものであるとを問わず、公共用物たる公水の上に存する権利であることにかんがみ、河川の全水量を独占排他的に利用しうる絶対不可侵の権利ではなく、使用目的を充たすに必要な限度の流水を使用しうるに過ぎないものと解するのを相当とする(大審院明治三〇年第四二二ないし第四二四号同三一年一一月一八日判決、民録四輯一〇巻二四頁、同院大正五年(オ)第六二号同年一二月二日判決、民録二二輯二三四頁参照)』

海の利用についても、独占排他的に利用しうる絶対不可侵の権利を約するものとは解されず、使用目的を充たすに必要な限度の使用を許容するに過ぎないと解するべきである。次の判決文も参照すべきである。

【昭和55年1月31日 東京地裁判決】

『そもそも海や海岸は、何人も他人の共同使用を妨げない範囲で自由に使用できる自然公物であり、海水浴もこの公物の自由使用として普通地方公共団体による海水浴場の開設を待つまでもなく、自由にできる行為である』
(注:当時には海岸法の規定がなかった為、海と海岸が併記されている)

海の独占排他的な利用の権利を証明できる法的根拠は、存在しない。
仮に防衛省告示第123号で使用を宣言したとしても絶対不可侵の権利ではありえず、海は何人も自由に使用できる自然公物であり、自由使用が当然に認められているものであって、遊泳や釣りなどは自由にできる行為である。


【昭和35(オ)676, 昭和39年1月16日判決(最判一小)】

『地方公共団体の開設している村道に対しては村民各自は他の村民がその道路に対して有する利益ないし自由を侵害しない程度において、自己の生活上必須の行動を自由に行い得べきところの使用の自由権(民法七一〇条参照)を有するものと解するを相当とする』
『通行の自由権は公法関係から由来するものであるけれども、各自が日常生活上諸般の権利を行使するについて欠くことのできない要具であるから、これに対しては民法の保護を与うべきは当然の筋合である。故に一村民がこの権利を妨害されたときは民法上不法行為の問題の生ずるのは当然であり、この妨害が継続するときは、これが排除を求める権利を有することは、また言を俟たない』

使用できる利益を有するに過ぎず固有の権利を有していない者、すなわち、反射的利益を享受し得るに過ぎない者てあっても、第三者の行為によって利益享受が妨害された場合には、第三者に妨害排除を請求する権利を有する、とされた。通航の自由権や海を使用する権利は、自然公物の自由使用として認められていたものであり、この権利を妨害する本件区域での海上保安庁の強制排除等の行為は明らかに不法行為である。


(つづく)


沖縄県がした国地方係争委員会への審査申し出について

2015年11月03日 10時24分33秒 | 法関係
代執行に突入した国に対抗して、沖縄県が審査申し出を行った。


>http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201511/CK2015110302000113.html


沖縄県は二日、米軍普天間(ふてんま)飛行場(宜野湾(ぎのわん)市)の移設先、名護市辺野古(へのこ)沿岸部の埋め立て承認を翁長雄志(おながたけし)知事が取り消した効力を石井啓一国土交通相が停止した決定を不服として、第三者機関「国地方係争処理委員会」に審査を申し出た。翁長氏は県庁で記者会見し「国交相による決定は違法な関与行為だ」と強調した。 
 効力停止は、翁長氏の承認取り消しに対し、防衛省が不服審査を申し立てたのを受けて国交相が決定した。係争処理委について定める地方自治法は「不服申し立てに対する決定」などを審査の対象外と規定している。このため、県の申し出は審査入りせず却下される可能性もある。
 県は、申し出が却下された場合や、審査で主張が認められなかった場合は、承認取り消し効力の回復を求めて高裁に提訴する方針だ。
 一方、承認取り消し処分を翁長氏に代わって正式に撤回する「代執行」の手続きに入った政府も、知事に対する是正措置を経て裁判所に訴訟を起こす予定で、今月中にも法廷闘争に発展するのが確実な見通しとなっている。
 会見で翁長氏は、防衛省沖縄防衛局が承認取り消しに対する対抗措置として活用した行政不服審査制度は一般国民救済を目的としており、防衛局に訴えの資格はなく、国交相の効力停止決定も違法だと主張した。


=====


沖縄県の申し出がどういう内容か分からないが、一応書いてみる。


記事中には、『係争処理委について定める地方自治法は「不服申し立てに対する決定」などを審査の対象外と規定している』となっているが、実際に対象外となるかどうか、検討してみる。


地方自治法による関与の規定は、次の通り。


○地方自治法245条

本章において「普通地方公共団体に対する国又は都道府県の関与」とは、普通地方公共団体の事務の処理に関し、国の行政機関(内閣府設置法 (平成十一年法律第八十九号)第四条第三項 に規定する事務をつかさどる機関たる内閣府、宮内庁、同法第四十九条第一項 若しくは第二項 に規定する機関、国家行政組織法 (昭和二十三年法律第百二十号)第三条第二項 に規定する機関、法律の規定に基づき内閣の所轄の下に置かれる機関又はこれらに置かれる機関をいう。以下本章において同じ。)又は都道府県の機関が行う次に掲げる行為(普通地方公共団体がその固有の資格において当該行為の名あて人となるものに限り、国又は都道府県の普通地方公共団体に対する支出金の交付及び返還に係るものを除く。)をいう。


一  普通地方公共団体に対する次に掲げる行為

イ 助言又は勧告
ロ 資料の提出の要求
ハ 是正の要求(普通地方公共団体の事務の処理が法令の規定に違反しているとき又は著しく適正を欠き、かつ、明らかに公益を害しているときに当該普通地方公共団体に対して行われる当該違反の是正又は改善のため必要な措置を講ずべきことの求めであつて、当該求めを受けた普通地方公共団体がその違反の是正又は改善のため必要な措置を講じなければならないものをいう。)
ニ 同意
ホ 許可、認可又は承認
ヘ 指示
ト 代執行(普通地方公共団体の事務の処理が法令の規定に違反しているとき又は当該普通地方公共団体がその事務の処理を怠つているときに、その是正のための措置を当該普通地方公共団体に代わつて行うことをいう。)


二  普通地方公共団体との協議


三  前二号に掲げる行為のほか、一定の行政目的を実現するため普通地方公共団体に対して具体的かつ個別的に関わる行為(相反する利害を有する者の間の利害の調整を目的としてされる裁定その他の行為(その双方を名あて人とするものに限る。)及び審査請求、異議申立てその他の不服申立てに対する裁決、決定その他の行為を除く。)




除外規定は、3号の「不服申立てに対する裁決、決定その他行為」であるので、国土交通省の裁決は出てないから、関係がない。ただし、執行停止については、決定であるので、これに対する審査請求は除外されうる。


また、1号規定イの勧告、トの代執行は、関与となっているので、適用範囲であると考えられる。
(国交省の文書は、代執行に伴う勧告、と報じられていたので)


なので、門前払いということにはならないであろうと予想される。


国土交通大臣の行った、執行停止の決定通知書や代執行手続きとなる勧告、今後出されるであろう代執行の指示の文書を見ることができないので、国交省側の主張が不明のままである。これが分からないと検討が非常に困難なのだ……。



金融庁は恣意的処分を繰り返すのか

2015年09月29日 10時48分37秒 | 法関係
東芝の会計問題では、未だ監査法人に対する金融庁側の姿勢が見えない。


かつて、ライブドア事件の時には、あれほど刑事事件にしていったのに、だな。
そもそも、監査法人とて社会の歯車の一部でしかないから、事情があるのかもしれないが。


かんぽの宿ですら、まともな監査なんてできてなかったわけで。

12年11月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/6c8f0ce5618fbdc3953c1a30e1fff721


オリンパス事件しかり、東芝の件もしかり、監査機能がどの程度「効いているのか」というのは、分からないわけだな。

09年7月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/326b7577db499492391ebfa5590a95be


日経記事より:

http://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ07IG7_X00C15A9TJC000/


(一部引用)

会計不祥事で、証券市場の信頼を守る「番人」たる会計監査の在り方も問われる。東芝の第三者委員会は、同社が問題発覚を免れるため新日本監査法人に事実を隠蔽していたなどと指摘した。だが今回の不適切会計は長期間にわたり、決算訂正額も大きい。新日本は過去に会計不祥事を起こしたIHIやオリンパスも担当していた。「なぜ見抜けなかったのか」との批判も出ている。

 金融庁の公認会計士・監査審査会は新日本の監査などに落ち度がなかったかどうかを精査し、必要なら新日本の処分を金融庁に勧告する方針。オリンパス事件で金融庁は新日本と、あずさ監査法人に対して業務改善命令を出した。

 公認会計士の自主規制機関である日本公認会計士協会も新日本の本格的な調査を始める。担当会計士などを聴取する。

========



中央青山は解体となってしまったわけだよ。

06年>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/e449e800d33f3212d90a38e033d7bc36


ホリエモン潰し、ライブドア叩きというのは、必要悪だったとでも言うつもりか?


その後、日興、三洋と粉飾決算が問題になったわけだが、監査法人なり監査役に厳罰など食らってないわけだ。
これで、東芝のような事件でも何もない、となれば「国策捜査」的に、金融庁は相手を恣意的に選んで事件を作り上げているんだ、ということになりかねないのではないか?


公認会計士への信頼性はどうなのか?
あるいは、金融庁の手法というのは、どうなっているのか?


今回の楽天銀行の件にしても、金融庁検査なりを適正に行っているのかどうか、金融庁の不作為が問題にされうるだろう。行政の監督責任としてどうなんだ、という話である。



楽天銀行の口座凍結措置は杜撰ではないか?

2015年09月28日 01時25分07秒 | 法関係
けっこう話題になっていたようです。

>http://yonezo.biz/?p=4405


楽天銀行なんて使いたいとも思ったことがないから、全然知らんかったわ。


すると、あの山本一郎がコメント欄に降臨し、記事を放り込んでいったようだ。


>http://b.hatena.ne.jp/entry/kirik.tea-nifty.com/diary/2015/09/post-9b53.html


山本一郎からすると、楽天銀行が口座凍結するのは何ら問題なく、利用者かオークション運営側などに責任があるかのような物言い。
本当かよ?



眉唾っぽく感じたので、少し調べてみました。当方の素人見解ですが、一応書いておきます。


1)基本的に口座凍結措置は、ハードルが高い

全銀協の資料があったので、見てみました。ただ、ちょっと古い。7年くらい前です。


>http://www.caa.go.jp/planning/pdf/1115siryou1.pdf


原則として、外部からの情報提供というのが重要のようです。捜査機関や弁護士などですね。犯罪に利用されている可能性が高い、という指摘を受けないと銀行側の判断だけでは、中々難しいということではないかと。



2)振り込め詐欺の被害救済を目的としている


現在でも下火にならない詐欺事件ですが、振り込め詐欺は以前より困難になってきたのではないかと思います。現金を送らせる手口に移行してきているといった報道があったように思います。

で、口座の取引停止が条文で規定されている法律は、数が少ないのです。代表例が振り込め詐欺に関する以下の法律で、取引停止の法的根拠となっています。


『犯罪利用預金口座等に係る資金による被害回復分配金の支払等に関する法律』


○第三条

 金融機関は、当該金融機関の預金口座等について、捜査機関等から当該預金口座等の不正な利用に関する情報の提供があることその他の事情を勘案して犯罪利用預金口座等である疑いがあると認めるときは、当該預金口座等に係る取引の停止等の措置を適切に講ずるものとする。

2 金融機関は、前項の場合において、同項の預金口座等に係る取引の状況その他の事情を勘案して当該預金口座等に係る資金を移転する目的で利用された疑いがある他の金融機関の預金口座等があると認めるときは、当該他の金融機関に対して必要な情報を提供するものとする。




つまりは、犯罪利用の疑いが濃厚である、ということが要件となっているわけで、普通は捜査機関からの情報提供となろう。
他行にある犯罪口座との取引があるということなら、楽天銀行宛てにその情報提供がなされる、ということであろう。

仮に、向うの口座が停止措置となっているからといって、そこから楽天銀行の口座まで犯罪が明らかでないのに停止されるというのは、どうなのだろうか?

犯罪に関係しているのではないか、ということを当局に報告義務があるからといって、全部を疑いの段階で停止措置を取るというのは妥当とも思われないわけである。


3)マネーロンダリングや組織犯罪対策の法律での停止措置は手続が別

暴力団対策とか、その他の犯罪やテロ対策という側面もあることはある。


『犯罪による収益の移転防止に関する法律』

この法律では、取引時確認事項が決められており、簡単に言えば、顧客の身元を明白にしろというものである。

○第五条  
特定事業者は、顧客等又は代表者等が特定取引等を行う際に取引時確認に応じないときは、当該顧客等又は代表者等がこれに応ずるまでの間、当該特定取引等に係る義務の履行を拒むことができる。


顧客が確認を拒否したら、取引に応じないことができるよ、ということであって、全部を停止してよい、ということにはなっていないし、少額取引その他除外規定もある。
また、顧客が虚偽申告ないし虚偽の告知を確認事項で行っている場合には、厳格な取り扱いもやむなし、ということになっているだけで、普通の人ならば停止措置を食らうようなことはないだろう。


○第八条  
特定事業者(第二条第二項第四十三号から第四十六号までに掲げる特定事業者を除く。)は、取引時確認の結果その他の事情を勘案して、特定業務において収受した財産が犯罪による収益である疑いがあり、又は顧客等が特定業務に関し組織的犯罪処罰法第十条 の罪若しくは麻薬特例法第六条 の罪に当たる行為を行っている疑いがあると認められる場合においては、速やかに、政令で定めるところにより、政令で定める事項を行政庁に届け出なければならない。

2  特定事業者(その役員及び使用人を含む。)は、前項の規定による届出(以下「疑わしい取引の届出」という。)を行おうとすること又は行ったことを当該疑わしい取引の届出に係る顧客等又はその者の関係者に漏らしてはならない。


(以下略)


この届出を行うということは、捜査機関が捜査をするということを前提としているわけだ。楽天銀行では、犯罪利用が膨大に存在する、ということなのか?だとすると、口座開設時の、審査に問題があったということであって、楽天銀行の監督はどうなっているのかということになるわな。


『組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律 』で没収する場合であっても、手続は法に規定される通りに実施する必要がある。基本的には裁判所命令が必要。

なので、楽天銀行が口座凍結というか、取引停止を実行しているのは、どういう権限なのかはよく分からない。



4)民法上ではどうなのか?


一般的に、預金は消費寄託契約と言われるので、その規定となる。


(消費寄託)
○第六百六十六条  
第五節(消費貸借)の規定は、受寄者が契約により寄託物を消費することができる場合について準用する。

2  前項において準用する第五百九十一条第一項の規定にかかわらず、前項の契約に返還の時期を定めなかったときは、寄託者は、いつでも返還を請求することができる。



いつでも返還請求できる、となっており、返還がどの程度遅延しても許されるか、というのは不明である。ただ、一般的な取引慣行上、銀行預金の払い戻しが一定の営業時間内に行われてきたのであるから、その取引慣行に従わない場合には、その合理的理由がなければおかしいだろう。


はっきり言えば、楽天銀行の措置は、意味不明であり、対応が杜撰であるとしか思われない。
届出義務があっても、それは当該口座の完全取引停止を意味するものではなかろう。ATM取引や少額取引など除外されうる場合もあるかもしれないのに、それも不可とは理解に苦しむ。


例えば銀行側の運用上の都合で、払い戻しが停止されているのではないかと勘繰られたら、返答に困るだろう。

このような銀行を野放しにしておく金融庁も、どうなっているのか。
政府の産業競争力会議の一員だから手加減でもしているのかと金融庁が責められるのではないか?


こんな銀行は初めて見たわ。



憲法9条に関する私見~3・自衛隊について

2015年09月17日 14時16分32秒 | 法関係
シリーズ最初の記事で、自衛隊については後述すると言っていましたが、今回はそれについて書いておきたいと思います。

過去の法学研究の中で、自衛隊論や9条解釈を巡っては、何冊も本が書けるほどに議論されてきたことは周知の事実でしょう。既に諸説が出尽くしてきたものと思いますし、それぞれの利点、欠点のような部分についても学界内で批判が繰り返されてきたものと思います。ですので、当方が何か新説を出せるわけではありませんが、あくまで当方の理解というか、基本的考え方について述べておきたいと思います。


拙ブログでは、自衛隊合憲説を採用すると言いましたけれども、その主な理由としては、大雑把に次の3点を挙げました。

・個別的自衛権の保有は否定されてない
・必要最小限度の実力組織≠戦力
・過去の非自民政権でも廃止されてない


これらの説明も含めて、自衛隊合憲説について書いてみたいと思います。


1)個別的自衛権は認められる

砂川判決においては、次のように示された。
『わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のこと』

『憲法9条の趣旨に即して同条2項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条1項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。従つて同条 2項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうもの』

本最高裁判決より後年に改定された1960年安保条約の前文においても、個別的・集団的自衛権を有することは確認されています。
集団的自衛権が果たして国家固有の権利と言えるかどうかは別として、本来的な意味における自衛権(個別的自衛権)は否定されないと考えられてきたものと思います。


イラク戦争の際に、空自の行為が違憲と言われた名古屋高裁判決でも、自衛隊の存在自体が違憲であるとされたものではありません。
08年4月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/59e81c56baa9f00d9d3cc4367332ccb0


2)必要最小限度の実力組織≠戦力

9条1項が禁じているのは、「国際紛争解決手段としての」
 戦争(=侵略戦争)
 武力による威嚇
 武力の行使
であり、相手国に侵略戦争を仕掛けられた時に反撃できるという武力行使、すなわち個別的自衛権の発動が禁じられているものではないでしょう。

2項でいう「陸海空軍その他戦力」とは、砂川判決で示された「侵略戦争」を実行できないようにする為に「保持しない」ということであり、警察官もピストルを持っちゃいかんのか、というような話にはならないでしょう、ということです。

自衛の為の武装は、どのくらいなら許されるのか?
自動小銃は?RPGは?船搭載の20mm機関砲は?……
これは、時代によって変わるから分からない、ということでした。ただ、戦略爆撃機や空母や核ミサイルのようなものは、認められないと例示されてきたわけです。あくまで程度問題ということでしょう。
竹やり部隊でも戦力と呼べるし、北朝鮮広報ビデオの如き徒手空拳の超人的兵士にしても、「戦力」と言うならそうかもしれません。


日本では、過去に行ってきたような侵略戦争を諸外国に行わないんだ、ということと、「わが身を守る」必要最小限の実力組織として自衛隊の存在が認められてきたものです。


完全無防備でもいいのではないか、とする意見があることも承知しています。ただ、日本国内でも「誰でもよかった」として殺戮が無差別に実行されたりすることがあります。普通の人たちなら犯罪が利害得失から見て不利益が大きいと容易に判断できるのに、敢えて合理的判断を無視して犯罪をやってくる人たちは後を絶たないわけです。
そういう人が全くいない社会なら、警察がいなくてもある程度大丈夫かもしれませんが、人間は過ちを犯すものだということのようです。そう考えると、世界のどこかの国が、偶然にも狂犬みたいな無謀な指導者によって侵略戦争を企てないとも限りません。
これについては、訓練を受けていない一般の人たちでは対抗しようがないのです。ヤクザものやチンピラなんかが一般人に暴力を振るったり、銃撃したりすると、私たちのような普通の人であろうと、最高裁判事であろうと、大臣だろうと、「止められない、止めようがない」ということなのです。警察が必要だというのは、そういうことです。

必要最小限度において、身を守る為の実力組織を用意することはやむを得ないのではないか、というのが拙ブログでの考え方です。


3)過去の非自民政権でも廃止されてない

過去において、自衛隊違憲論というのは設立当初からずっと存在し続けてきたわけです。裁判所が決定打となる判決を出さなかったということもありますし、法学の世界においても諸説存在してきたもので、「たった一つの正しい答え」のようなものは、実のところ誰にも分からなかった、と当方は理解しています。

自民党の長期与党時代が長かったわけですが、自衛隊違憲論や安保違憲論を唱えていた政党政治家たちが野党には存在していました。政権を獲れなかったから自衛隊廃止が実現できなかった、という言い訳は使えていたのかもしれません。

一方で、細川内閣、村山内閣、最近では民主党政権時代と、自民党以外から総理大臣を送れたことがあったわけですが、その際にも自衛隊廃止論というのは主要な政治課題となることはありませんでした。


それは、当時の政権の選択としてもそうですし、国民側からの「自衛隊を廃止してほしい」という政策実現の要望は皆無に等しかったのではないか、ということです。国民の選択結果として、自衛隊廃止を熱望したりはしてこなかった、ということではないかと思います。あの福島みずほ議員でさえ、大臣になって入閣したわけですが、いくら昔に自衛隊反対を唱えていても現実の政策として実行したりはしなかったということです。


結果論的には、大多数の国民が望んでいたわけではなさそう、ということです。自衛隊の存続は、あくまで国民の選択結果である、ということです。これは、統治行為論を掲げてきた裁判所の判断に照らせば、合憲と見做さざるを得ないということになりましょう。



4)9条解釈、自衛隊の違憲問題は戦後史の産物

ご存じの通り、自衛隊は当初より自衛隊ではありませんでした。警察予備隊、保安隊、と名称を変えて誕生してきました。近年、防衛庁から防衛省へと昇格も果たしたわけです。

昭和20年代ですと、国会においても、再軍備についての議論というのは存在していました。今は軍隊を持たないといっても、将来時点では改憲して軍備すべきだという発想の議員さんたちは、そこそこ存在していたということです。戦前生まれは大勢いましたから。


警察予備隊は当初、警察権拡大という名目で作られたわけですが、米国の都合が押し付けられただけでした。保安隊になったのも、そうです。
事実上の占領統治下にあり、主権回復もまだの日本においては、拒否できる権限などなかったということでしょう。米国からの武器供与を受けるのも、自衛隊の装備拡充も、日本国民が積極的に政策として望んだというものではなく、あくまで米国の指令に従って、言われるがままに受け入れてきてしまった、ということなのです。


ここに、合憲か違憲かという争いの種が生じてしまったわけです。米国から命じられると、これを覆せるだけの政治力が昭和20~30年代の日本には、備わっていなかったのだということだろうと思います。
いかに現代から見て「違憲のものなのに、作った昔のヤツラが悪い」などと言ってみたとしても、当時の人々にはそれしか選択の余地がなかったのだろうということなのです。そんなに理屈通りに物事が進められるなら、誰も苦労はしませんよね。種々の矛盾を抱えたままでどうにかせねばならなかったからこそ、苦しんできたわけで。

こうした過去の政府なり日本国民がやってきたことなりを、自分の言い分でもないのに受け入れねばならないのです。当方には、当時に選択権さえなかったわけで(生まれてないから無理だ)、たとえ不本意な結果でも受け入れざるを得ないということです。どんなに過去の理屈が気に入らず、現時点において「ちょっと無理がある説明だろ」と感じようとも、現実にそうなってしまっているわけですから。過去の政府を、今の自分が選べるわけではないということです。


結局、「米国に逆らえない」「米国に命じられたから作った」「米国に言われるがままに軍備を持った」というような、国家間の力関係が反映された結果、日本国憲法よりも「別の何か」を尊重・優先するようになってしまったのだ、ということでしょう。

そして、そうした傾向は今でも続いているのだ、ということです。現在の日本の政治状況を見ても、あまり変わっていないということです。

そのような日本国政府だから、信じることができない、ということでもあります。例えば英仏独のような軍隊を持たせたとして、きちんと管理・運用・制御できるとは思えないのが、日本の政治家なのです。
これは、原発事故の対処を見ても一目瞭然です。前から言ってるけど。
12年6月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/7e8ac77dd6ec39eef54e313ccf406772



要するに、「米国には従わざるを得ない」という逃げをこれまで同様に認めてしまうことになるので、いつまで経っても解決が困難ということなんだろうと思います。自分たちの問題は自分たちが解決できる、という基本的姿勢が司法・行政・立法全部にあったのなら、とっくの昔に違憲問題など解決ができていたことでしょう。

日本は、そういう国ではなかった。
未熟な民主主義しかなかった。
これから、変えていけるかもしれないし、ダメかもしれない。


やはり、国民の選択の問題なのです。
自分はどんな社会にしたいか、どんな国を目指しているか。



憲法9条に関する私見~2

2015年09月16日 11時48分17秒 | 法関係
続きです。


今回の重要な論点の一つが、政府が憲法解釈を変更することができるのか、という点でしょう。


現在までの日本の政治体制で考えると、憲法その他法令解釈の変更はできるものと思われます。ただし、そこには無条件にどのような解釈も或は解釈変更も認められるということではないでしょう。

昨日取り上げた答弁書中にもあった通り、『憲法を始めとする法令の解釈は、当該法令の規定の文言、趣旨等に即しつつ、立案者の意図や立案の背景となる社会情勢等を考慮し、また、議論の積み重ねのあるものについては全体の整合性を保つことにも留意して論理的に確定されるべきもの』であって、『国内外の情勢の変化とそれから生ずる新たな要請を考慮すべきことは当然であるとしても、なお、前記のような考え方を離れて政府が自由に法令の解釈を変更することができるという性質のものではない』。
『中でも、憲法は、我が国の法秩序の根幹であり、特に憲法第九条については、過去五十年余にわたる国会での議論の積み重ねがあるので、その解釈の変更については十分に慎重でなければならない』とするのが、従前の政府見解であり、当方もそのように考えるべきであると思います。


例えば最高裁判例についてみれば、時代の変化に応じて判例変更がなされるということはあり得るし、現実にそうした判例変更が行われてきました。かつては合法だったものが違法とか、その逆もあるとはどういうことなんだ、と。法が永遠に変化しないものでない、ということでしょう。ただ、変更の瞬間というのはあるわけで、その際の逆転現象のようなものは、非常に大きな変化と見えるでしょう。
そうであるが故に、大法廷での判例変更ということになりますし、変更に至った理由や論理について、最高裁が説明を尽くすわけです。その議論の過程や検討課題も含めて、裁判官の補足意見も全部付けて示されるわけです。


そういった「変更」の根拠、理由、必要性などを、過程も含めて説明しないと、多くの人は納得・理解できないからですね。ですから、法解釈が変更されうる、というのは当然のことでもありますし、憲法解釈変更が決して許されないというものではないということです。


元々、拙ブログでは最高裁判決についてでさえ、数々の批判をしてきました。裏を返せば、最高裁判決が司法判断の最終解であるということは認めてはいるものの、その論理には批判されるべき点は多々あると思っているし、当方から見て妥当性が必ずしも高いとは思えないものもあると考えているということです。例えば、以下のような記事です。


最高裁判決への批判した記事

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/509b563a19d8666854674bfce8baacab

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/7ba6028750bbe31e7bb3c5a609ca3bbd

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/5680abe732d9633c5570a5bbee445caa


なので、最高裁がこう言ったから正しいと自分も考える、という単純なものではありません。最高裁に対してでさえ、こうなのですから、これが行政府の行う法令解釈について、全幅の信頼を置いているかというと、そうとは限らないでしょう。対立見解を支持することも多々あります。


そうであるなら、どうして従前の政府見解を採用するのか、という非難があるかもしれません。最高裁だけじゃなく行政府の法令解釈を信頼していない人間が、集団的自衛権行使は違憲であるとする従来説を信じるのはおかしいのではないか、と。

確かに、そうかもしれません。
が、当方からの評価は、そうならざるを得ないということなのです。


最高裁が自衛隊の存在や集団的自衛権行使が合憲か否かについて、判決を出せるということは現実的ではありません。ブランダイス・ルールのような原則が全く無視されてよいということでもないわけです。即ち、司法判断を仰げる機会は、殆ど無きに等しいということです。ならば、どうしたらよいのだろうか。


政府が提示する法令解釈と国権の最高機関たる国会での議論を、ある程度重視するよりないわけです。それが内閣法制局答弁書に示された内容ということでもあります。また、砂川事件の判決で述べられた『終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねらるべきもの』ということになるわけです。


在日米軍が違憲や否や、という論点に限らず、政治全般については、そのように考えざるを得ないということです。国民の批判、これしかないのだということになるわけです。


これは、最高裁判決についても同じであると考えます。
つまりは、法令解釈、憲法解釈というものは、主権者の国民からの批判に耐えうるものでなければならず、批判を仰ぐ上では判例変更のような「明示的に議論の全てが説明される」必要があるということです。政府の解釈変更でも同様でありましょう。


そして、今回のような憲法解釈変更によって大きな変化がもたらされるであろうと、国民が考えるのであれば、手続としては「憲法改正」か、より説得的な議論や説明がなされて当然であるということです。憲法改正に匹敵するような変化なのかどうか、その重要度についての評価は、あくまで主権者たる国民が決めるべきことなのです。

総理が「この変更は大したものでない」とか、与党議員が「変更は許される、お前ら大衆はよくわかってないだけなんだ」とか、変化の大きさや重要度を国民の意見を無視して自分勝手に決めてよいというものではないはずです。この変更は重大だと多くの国民が考える以上、政府が「いやいや大した変更ではない」と否定できるものではないということです。


9条の解釈問題については、過去の国会での議論の積み重ねが長く、言ってみれば長期に渡り政治的批判に耐えてきた中で作り上げられてきた考え方です。洗練されているかどうかわかりませんが、鍛錬されてきたというようなことです。

政府見解は、警察予備隊から自衛隊に至る変遷も勿論あったですし、主権回復前後での議論も国際情勢が変化する中での議論により、若干の変更は行われてきたものです。そうではあるけれども、大多数の国民がその変更範囲については、政治的に認めてきたということでもあり、国民の許容する範囲内での政府の行動であったと言えなくもないわけです。


ところが、今回については、必ずしもそうではないかもしれない。国民が許容できる範囲であるとは思ってないようだ、と。
そのことは、今後の歴史が示すことになるのでしょう。



憲法9条に関する私見~1

2015年09月15日 22時24分14秒 | 法関係
いよいよ戦争法案の強行採決ないし衆院再議決が近づいていることであろう。現状のままであれば、国会で多数を占めるのは安倍支持派であろうから、成立は時間の問題ということになろう。これに対する抵抗手段となると、国民側からすればかなり限定的ということになろう。

ところで、政府案支持者たちからは、具体的合憲説の提示が少ないわけであるが、違憲説への批判が未だ止まないようだ。基本的には、日弁連の意見書で殆どの説明は出ているのであるから、政府案支持者たちが反論文書を提出すれば済む話である。

日弁連意見書
>http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/opinion/report/data/2015/opinion_150618.pdf


参考になるものとして、政府与党の想定している集団的自衛権行使の具体的事例というのは、次のような国会審議で示されている。

>https://www.jimin.jp/activity/colum/128047.html
小野寺議員の質疑である。

邦人救出・輸送中の米艦防護
『多数の日本人を退避させるために、アメリカ軍の輸送船などを共同でお願いし、輸送することになります。このことは、日米の防衛協力ガイドラインにも規定があります。これにより、米軍の輸送艦が日本人を含めた市民を輸送して、我が国に退避させることになります。』

『まだ日本が攻撃されていないという時点で、日本人を助けるために自衛隊の船が公海上において武力を行使したら、この行為は国際法上どのように判断をされるか、外務大臣にお伺いしたいと思います。』

(岸田文雄外務大臣)
『ただいま委員が示された例、すなわち、我が国への武力攻撃がない場合に、在留邦人を輸送している米艦艇が武力攻撃を受け、そして同艦艇を我が国が防護すること、こうした行為は、国際法上、集団的自衛権の行使に該当すると考えられます。』


『もし、この自衛隊の宿営地の隣に位置する国連の事務所、NGOの事務所が武力集団に襲われた場合、そして、この国連の職員から、日本の自衛隊、助けてくれ、そのような要請があった場合、これは現実に起こり得ることだと思います。この場合、自衛隊員は武器を使用してこの国連職員を守ることができるのか、現行法制でできるのかどうかを防衛大臣に伺いたいと思います。』

(中谷防衛大臣)
『PKO活動というのは国連が実施をする平和維持活動でありまして、日本の自衛隊も二十年以上、この活動を実施してまいりました。小野寺大臣も現地の視察をされましたけれども、現行法では、御指摘のように、ともに現場に所在をしない国連の職員、またPKO活動に従事する者などから救援の要請を受けても、自衛隊が武器を使用してこれらの者を守ることができません。』

以前に拙ブログでも述べたが、想定事例がおかしいのであるが、そうであっても、必ずしも不可能なものでもないし、現行法においても例えばPKOでの自己の管理の下に入った者の生命・身体の防衛の為の武器使用は認められ得る。現場における「自己の管理の下」が、実際上不動であることの方がおかしい。こうした低レベルの議論は検討に値しないので、今はおいておく。


で、小倉弁護士のツイートを見てたら、次のようなものに遭遇した。

>https://twitter.com/kamatatylaw/status/643322507756335104

自衛隊合憲、集団的自衛権行使違憲を憲法の文言で基礎づけるのはネッシーを探すよりむつかしい


なるほど、現役の弁護士さんが従前の政府見解について、納得できない様子ということですか。今までの日本の政府、国会、与党政治家等々というのは、みんなしてネッシーをネッシーだと信じ込んできたのだ、と宣言しているに等しいですな。

当方は、「自衛隊合憲+集団的自衛権行使違憲」説を採用しており、これについての私見を述べておくことにする。というか、ほぼ過去の政府見解そのまんまというものですが。
憲法議論に関しては、現行の日本国憲法が制定されて以降、幾多の書物や議論が出ており、諸説あるのは勿論のこと、それぞれの流派?からの批判合戦となっていることは、凡そ理解している。それらの批判全部に耐えうる意見が出せるものではないが、現状での当方の理解として述べておくものである。



まず、自衛隊合憲、これについては後日細かく述べることとするが、基本的な路線としては、
・個別的自衛権の保有は否定されてない
・必要最小限度の実力組織≠戦力
・過去の非自民政権でも廃止されてない
である。
言いたいことは、もうちょっとあるので、別記事で。


【参考例】2010年4月22日 政府答弁書

憲法第九条第二項は「陸海空軍その他の戦力」の保持を禁止しているが、これは、自衛のための必要最小限度を超える実力を保持することを禁止する趣旨のものであると解している。自衛隊は、我が国を防衛するための必要最小限度の実力組織であるから、同項で保持することが禁止されている「陸海空軍その他の戦力」には当たらない



次に、集団的自衛権の違憲性についての議論である。ここが、若干厄介ではある。
集団的自衛権が否定される理由は、政府見解では次のようになっていた。


1972年10月14日 参院 政府提出資料

平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない



それ以前の国会での議論や政府答弁においても、似たようなものが積み重なってきたわけであり、これ以後についても同様である。
9条2項の戦力、この部分は既に自衛隊合憲と述べた。


残りの「国の交戦権は、これを認めない。」であるが、この解釈がどうなのかということになる。


交戦権についての政府見解は次の通り。

【参考例】1985年9月27日 政府答弁書
憲法第九条第二項の「交戦権」とは、戦いを交える権利という意味ではなく、交戦国が国際法上有する種々の権利の総称であつて、このような意味の交戦権が否認されていると解している


憲法上の「交戦権」は、英語文献での表記が

 the right of belligerency of the state

だったそうです。
一般的な国際法であれば、
 belligerent right   または
 right of belligerent
というのが普通のようです。

恐らく、日本国憲法制定時での考え方というのは、従来からある「交戦国」と「交戦権」という定義か概念とは、若干異なるものであるということが認識されていたのかもしれません。日本の帝国議会議員たちがそう考えていたかどうかは、分かりませんが。


話がズレますが、諸外国の軍隊には、いわゆる交戦規定(ROE)というものがあります。
rules of engagement です。
これにはいくつかの段階があって、個人レベル、部隊レベル、国家レベルといった具合に、細かく規定があるのだそうです。
日本の憲法に言う交戦権は、これとは厳密には異なるわけですが、単なる「ことば」としての「交戦する権利ないし権限」を想像してしまうと、憲法解釈ができなくなるのではないかと思われます。

日本の憲法が禁じているのは、「国の交戦権」です。すなわちROEでの考え方に似て、自衛隊の構成員たる個人に対しては、別の観点からの検討がなされるべきではないか、ということが考えられます。端的に言えば、個人の自己防衛・自己保存的な権利、というようなことです。これは否定されていない、と考えるべきかと。

同時に、政府答弁にある通り、「国の交戦権」が国際法上では一般的に認められるであろう、国家が主張できる法的地位や権利というものが、日本の場合には「全部を無条件に肯定・認めているものではない」ということです。それが、2項後半の、「国の交戦権は、これを認めない」ということの意味合いではなかろうか、ということです。


そうすると、憲法上では、自衛権について、個別的と集団的の明文での区分がなされていないわけですが、少なくとも、日本の場合には「交戦国が保有するであろう国際法上の権利」が無条件には認められていない、ということですから、「100%のフルスペックでの自衛権行使」が具備されていると解することはできない、ということです。

では、その制限はどこにあるのか?範囲の限界はどう見るべきか?
極端に言うならば、0%だという主張もあり得るでしょう。その場合、一切の交戦が不可ということになります。無防備宣言とかノーガードということです。打たれるがまま、と。

しかしながら、国の交戦権が不可であっても、個人レベルではどうなのか?これが民衆蜂起といった水準に該当するものではないのか?
では、部隊(小集団)なら?
独立闘争の武装集団は、交戦団体として認められるでしょう。民族自決主義に倣えば、交戦権が必ずしも否定されていないのではないかと。更に、国の交戦権が個別的自衛権だけ容認されている(全体の何%と言うべきかは不明ですが)と解釈することはできるでしょう。
砂川判決でも、国家としての自衛は肯定されているものです。


つまり、2項でいう「国の交戦権」とは、その名の通りに、
  the right of belligerency of the state
であり、日本が本来国家として有するであろう国際法上の権利行使については、使えないように凍結されているというようなものです。

具体的に言えば、臨検、拿捕、占領、港湾や海上封鎖、軍政等々が「認められない(=国際法上の権利はあるが、凍結されていて使えない)」ということでしょう。


よって、専ら自国の防衛の為に実力行使をすることは、自己保存的権利として認容されている(個別的自衛権)としても、それを超える武力行使は認められないと解するべきでしょう。従前の政府見解で言うところの必要最小限度を超えている、と。他国防衛たる集団的自衛権は、認め難いでしょう。


侵略の定義に関する決議の3条(g)は次のようになっています。

上記の諸行為に相当する重大性を有する武力行為を他国に対して実行する武装した集団、団体、不正規兵又は傭兵の国家による若しくは国家のための派遣、又はかかる行為に対する国家の実質的関与


日本の領域外で日本が行う武力行使が侵略行為に該当する可能性が出てくる、ということになります。集団的自衛権行使であると日本が主張・宣言したとしても、法的評価が侵略行為に該当する可能性があるような行為については、政策として取り得るものではないでしょう。


最後に、従前の政府見解がよく分かる答弁書を挙げておきたいと思います。


衆議院議員伊藤英成君提出内閣法制局の権限と自衛権についての解釈に関する質問に対する答弁書

内閣衆質一五六第一一九号
  平成十五年七月十五日


一及び三について
 お尋ねの「政府の統一解釈・統一見解」とは、憲法を始めとする法令の解釈に関する政府の見解を指すものと考えられるところ、一般的に、憲法を始めとする法令の解釈は、当該法令の規定の文言、趣旨等に即しつつ、立案者の意図や立案の背景となる社会情勢等を考慮し、また、議論の積み重ねのあるものについては全体の整合性を保つことにも留意して論理的に確定されるべきものである。政府による法令の解釈は、このような考え方に基づき、それぞれ論理的な追求の結果として示されてきたものであり、御指摘のような国内外の情勢の変化とそれから生ずる新たな要請を考慮すべきことは当然であるとしても、なお、前記のような考え方を離れて政府が自由に法令の解釈を変更することができるという性質のものではないと考えられる。中でも、憲法は、我が国の法秩序の根幹であり、特に憲法第九条については、過去五十年余にわたる国会での議論の積み重ねがあるので、その解釈の変更については十分に慎重でなければならないと考える。
 行政府としての憲法解釈は最終的に内閣の責任において行うものであるが、内閣法制局は、内閣法制局設置法(昭和二十七年法律第二百五十二号)に基づき、「閣議に附される法律案、政令案及び条約案を審査し、これに意見を附し、及び所要の修正を加えて、内閣に上申すること」、「法律問題に関し内閣並びに内閣総理大臣及び各省大臣に対し意見を述べること」等を所掌事務として内閣に置かれた機関であり、行政府による行政権の行使について、憲法を始めとする法令の解釈の一貫性や論理的整合性を保つとともに、法律による行政を確保する観点から、内閣等に対し意見を述べるなどしてきたものである。
 なお、御指摘の「武力行使との一体化」論とは、仮に自らは直接「武力の行使」をしていないとしても、他の者が行う「武力の行使」への関与の密接性等から、我が国も「武力の行使」をしたとの法的評価を受ける場合があり得るとするものであり、いわば憲法上の判断に関する当然の事理を述べたものである。これは、我が国の憲法が欧米諸国に例を見ない戦争の放棄等に関する第九条の規定を有することから生まれる解釈であり、「独りよがりの解釈となっている」との御指摘は当たらないと考える。
二の1及び4のアについて
 国際法上、一般に、「個別的自衛権」とは、自国に対する武力攻撃を実力をもって阻止する権利をいい、他方、「集団的自衛権」とは、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利をいうと解されている。
 このように、両者は、自国に対し発生した武力攻撃に対処するものであるかどうかという点において、明確に区別されるものであると考えている。
 「自衛権」については、その用いられる文脈により、個別的自衛権と集団的自衛権の両者を包括する概念として用いられる場合もあれば、専ら個別的自衛権のみを指して用いられる場合もあると承知している。
二の2のアについて
 我が国に対する武力攻撃が発生しこれを排除するため他に適当な手段がない場合に認められる必要最小限度の実力行使の具体的限度は、当該武力攻撃の規模、態様等に応ずるものであり、一概に述べることは困難である。
 憲法第九条の下で保持することが許容される「自衛のための必要最小限度の実力」の具体的な限度については、本来、そのときどきの国際情勢や科学技術等の諸条件によって左右される相対的な面を有することは否定し得えず、結局は、毎年度の予算等の審議を通じて、国民の代表である国会において判断されるほかないと考える。
 これらはいずれも、解釈によって示された「必要最小限」という規範に対する個別具体の事例の当てはめの問題であり、「内閣法制局は、法令解釈権を放棄した」との御指摘は当たらないと考える。

二の2のイについて
 憲法第九条第一項は、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」と規定し、さらに、同条第二項は、「前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と規定している。
 しかしながら、憲法前文で確認している日本国民の平和的生存権や憲法第十三条が生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利を国政上尊重すべきこととしている趣旨を踏まえて考えると、憲法第九条は、外国からの武力攻撃によって国民の生命や身体が危険にさらされるような場合にこれを排除するために必要最小限度の範囲で実力を行使することまでは禁じていないと解され、そのための必要最小限度の実力を保持することも禁じてはいないと解される。
 我が国がこのような自衛のために行う実力の行使及び保持は、前記のように、一見すると実力の行使及び保持の一切を禁じているようにも見える憲法第九条の文言の下において例外的に認められるものである以上、当該急迫不正の事態を排除するために必要であるのみならず、そのための最小限度でもなければならないものであると考える。
二の3について
 「専守防衛」という用語は、相手から武力攻撃を受けたとき初めて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神にのっとった受動的な防衛戦略の姿勢をいうものであり、我が国の防衛の基本的な方針である。この用語は、国会における議論の中で累次用いられてきたものと承知している。
 政府は、従来から、「わが国に対して急迫不正の侵害が行われ、その侵害の手段としてわが国土に対し、誘導弾等による攻撃が行われた場合、(中略)そのような攻撃を防ぐのに万やむを得ない必要最小限度の措置をとること、たとえば誘導弾等による攻撃を防御するのに、他に手段がないと認められる限り、誘導弾等の基地をたたくことは、法理的には自衛の範囲に含まれ、可能であるというべきものと思います。」(衆議院内閣委員会鳩山内閣総理大臣答弁船田防衛庁長官代読、昭和三十一年二月二十九日)との見解を明らかにしてきており、石破防衛庁長官の平成十五年一月二十四日の衆議院予算委員会における答弁等は、このような従来の見解を繰り返し述べたものである。このような見解と、相手から武力攻撃を受けたとき初めて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめるなど、憲法の精神にのっとった受動的な防衛戦略の姿勢をいう専守防衛の考え方とが、矛盾するとは考えていない。
 前記のように、専守防衛の考え方は憲法の精神にのっとったものであり、政府としては、これを変更することは考えていない。
二の4のイについて
 御指摘の事態については、自衛権発動の三要件が満たされないことから、これに対応するために我が国が自衛権を発動することはできない。
二の4のウについて
 お尋ねは、仮定の事実を前提とするものであるが、一般論として述べると、憲法第九条の下において自衛権の発動としての武力の行使が許されるのは、自衛権発動の三要件が満たされる場合に限られる。

法学者は信頼に足るか?~自覚なき学者たち

2015年09月09日 09時08分13秒 | 法関係
憲法担当の法科大学院教授が問題漏洩事件でマスコミを賑わせているようだ。よりによって、話題の”憲法”担当教授とはね。当方は、思惑が働いていないと信じるほど、お人よしではないのですよ(笑)。

世の中、偉い人でも間違いを犯すことはあるから、そういう人もいるんだなということで、おいといて。


何が言いたいかというと、現役の大学教授であっても、本当に答案をきちんと書けるのかという疑義があるということです。


安念中大教授の記事を書いたことがある。

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/8da760d94d6e08b3bcd32f30c09ab5b5
>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/47abaa3da2f8bd403eb50c75b593efcb
>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/77a9b7a8c38a0b2586ffae141f394084


現役教授で弁護士の方が、素人以下の説明しかできないというのもどうなんだろうなと感じるわけです。答案の添削指導でも受けた方がよいのではないかと、思わないでもない。

その安念教授が反省の弁を述べていたらしい記事がこちら
>http://www.gepr.org/ja/contents/20150907-01/


安念教授曰く、
『行政機関に対して、理屈よりも「黄門様の御印籠」を振りかざすことを求めてやまないマスメディアの体質はさておくとしても、私自身も身を置く法律学者なる集団の無能・無責任も糾弾されて然るべきであろう。
法律上どこまでが行政機関に許される行為で、どこを超えると許されないかは、法令の綿密な解読という作業なくしては明らかにし得ないのであり、そこにこそ学者の本領があるはずだからである。自戒をこめて、そう痛感する。』
だそうです。


彼に必要だったことは、ド素人にいちいち指摘される以前に、まず己の説を他人に認めさせるべく「答案」の下書きでもやって、自己研鑽を積んだ後に原子力規制委員会の批判をすべきということだった。今更になって、法文を読んで考える、という時点で、専門家の立場として「終わってる」ということだ。
自戒を込めて痛感するのが、今なのか、ということだ。それで教授をよく名乗ってきたね、とは思う。もっと前から、弁護士資格をもらっている時点から、「法令の綿密な解読作業」をするのが当然なのであって、それでメシを食っているのではないのか、という話なのである。


そういうことを、「水戸黄門好き」の当方から指摘される前に、普通の学者ならば考え気づくべきであろうに。
『法律学者なる集団の無能・無責任も糾弾されて然るべき』との発言に至るまで、何年もかからねばならなかったのは、残念である。反省しないよりは、まだマシと呼べるのかもしれないが。


参考:
>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/9414a13d01769c9505779098f736b605
>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/fadef836218ebfcb53feb5db1fb48bdc


安念教授におかれましては、『法律学者なる集団の無能・無責任』を改善すべく、努力をお願いしたく存じます。
学者さんが本来持つであろうはずの、優秀な能力を有用な方向に使っていただき、国民や後進のお役に立ててもらえれば幸いです。


大屋雄裕名古屋大教授の不誠実な議論

2015年08月23日 14時15分57秒 | 法関係
法学部教授がド素人相手にしか議論を挑めないのかと思ったわ。日本の法学教育は大丈夫なのか?w



玉井東大教授の場合

>https://twitter.com/tamai1961/status/635077726265708544

要するに、違憲じゃ違憲じゃと叫ぶ、若者を煽る、しかしなぜ違憲かは頑として答えない、法案も読んでない、読んでないくせに、疑問を挟む者にはなぜ合憲か説明せよと執拗に迫る。これがある種の扇動者の典型だとすると、若い人には、騙されないように慎重に行動するよう勧めたいですね。



大屋名大教授の場合

>https://twitter.com/takehiroohya/status/635068169648902145

「○○先生がこういう理由で違憲だと言ってました」なら「私の考えは違い、その理由はこうです」とでも説明できるだろうが「とにかく○○先生が違憲だと言ってたんです」と言われても「どういう理由なのか聞いてくるか、自分で考えて説明してください」としか言いようがねえだろう。



法学に疎い一般人なんかが「複数の憲法学者が違憲と言っていますよ」などと指摘すると、彼らが要求するのは「どういう理由か言ってみろ」であり、「言えないなら意見するな」ということなのでしょうか。
行政裁判での準備書面みたいに、いちいち主張点を全て示し、それも逐条的・逐語的な解説と違憲と主張する根拠について、法廷でのお作法みたいに示さないと、彼らは例えば「これは合憲である、その理由はこうです」と自説を開示できないんですかねえ。


極めて不誠実ですな。己の選択した判断(賛成、反対など)の理由は何かと問われて答えられないことはないだろうに。
大屋氏は、本気で「一般国民が逐条的解説を行った上で賛否を述べよ」とか思っているのだろうか?


少なくとも、「私は反対です、何故なら、多数の憲法学者並びにその他大学教官たちが反対意見や声明を出しているからです」という意見は認められるべき。それは、多数の憲法学者並びにその他大学教官たちの、理性なり知性なりに信頼を置いたものと思われるのだから。
「じゃあ、大学教授が賛成と言えば、あなたは賛成と言うのか」みたいな批判はあり得るが、それは「じゃあ、政府が賛成と言えば、あなたは賛成と言うのか」「安倍総理が必要と言えば、あなたは賛成と言うのか」みたいなのと同類なので、有効な批判ではない。

普通の人々が誰・何を信頼するのかは彼らの自由であり、自分の知らないことが圧倒的に多いのだから、医者の言うことを信じたり、弁護士の言うことを信じたり、税理士の言うことを信じるのは一般的に行われていることである。
「私は安倍総理の言葉よりも、○○の発言を信じます、何故なら~」という理由を提示されたなら、それで説明は尽きている。殊更に「何という法律の、何条が違法なのか」の立論を、国民全員が個別に行わないと賛否を決められないとか、意見表明を行うべきでないといったことにはならない。


だが、法学者なり憲法学者なり、そうした「専門的立場」の人には、相応の責任を伴うのは当然だ。医者が「治療法Xは△△に有効」と述べた場合、ド素人が言うのとはわけが違う。「医者の言葉」として普通の人々は受け止めるから、専門的立場の人からすればそれは「正しい」のであろう、という予断を与える。


故に、例えば憲法調査会での憲法学者3名が「違憲である」旨発言したということは、社会に重く捉えられたわけだ。自民党の高村議員は、これについて「最高裁が違憲を決めるのであり学者ではない」といった批判をしていたが、権限がないことをもって意見の妥当性が否定されるわけでない。


そもそも、過半数の国民から要望しているものでないものについて、「今までの法制度ではダメだ、新たな法案が必要である」と、安倍内閣が幾度か総理会見などを行ってまで「法律を作らせてくれ」ということであろう。

国民からすると、過去との連続性、現行法体系で不十分な点が不明、違憲との評判などの理由から法案に賛成したくない、と言っているわけで。これを説得する役割は、法案が必要だと主張する政府なり、衆院通過させた国会議員なりに義務があるだろう。だとすれば、いちいち逐条的逐語的に解説を加え細かく説明すべきは、政府や与党議員なのであり、それを「知らない」と答える一般国民側に説明義務を負わせることはお門違いだ。議論の土台部分からしておかしい。


元々まともな議論などできないのかもしれないが、玉井教授や大屋教授のやり方というのは、決して褒められたものではないだろう。仮に内閣提出の法案について、賛成の立場を取るのであれば、賛成論の憲法学者らのように自説を展開すればよいだけのこと。そして、賛成の立場を取るに至った「理由」を示せないというのは不自然だ。これは議論でも何でもない、ただの回答に過ぎないのだから。それは前述した「私は反対です、何故なら~」の表明と同じようなものだ。


もしも、自分は一般人・反対派の憲法学者・その他反対論者たちよりも法案について詳しく知っており、安倍内閣の見解を熟知しているのであれば、それらについて逐条的に分析を行い、違憲とする根拠がないと考えるなら、それを示せば事足りる。それをやれば、ろくに法律も読んでないor読めない反対派(と彼らが批判していた)の意見を否定できる根拠にできるだろう。


何故、それをしないのか?
不思議だね。


玉井さんは、例えば長谷部教授の違憲だとする論説等を読んだことがないのか?
違憲だと主張している、おおもとの憲法学者なり主要論者なりを法学の論理でもって叩き潰せば、反対の論陣を張る側を撃破できるかもしれないのに、どうしてそれをしない?(笑)同じ東大同士なんじゃありませんか?
ド素人の雑魚相手でしか、言い負かすことができませんから、ということかな?違うというなら、反対論側の学者を個別に選び出すなり、個別論点を逐条的・逐語的に反対派主張を退ける主張がいくらでもできるので、やって見せればよいだけなのだよ。


でも、彼らにはできないんでしょうね。
専門家相手だと、自分たちが逆に撃破されるかもしれない、と考えているからじゃないですか?それで素人相手に、いい気になっているのかな?



大屋教授については、公安の京大構内不法侵入事件の時にも取り上げたことがあるな。

14年11月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/580abbaca4373961c431cbe287e9072e


まあ、法学専門の教授がトイレだの図書館使用だのといった言い訳を主張するのはタダなので別にいいけど、誰何に逃走する理由を説明できないので、無駄だわな。雑な論だろうと安易に言えるわけで、お見事としか言いようがない。


さて、そんな大屋氏に、具体的な例を挙げておくことにする。彼の言う
「○○先生がこういう理由で違憲だと言ってました」
ってのを、用意しましたよ。



ア)拙ブログでの見解、及び内閣法制局長官経験者の見解:
>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/fdcb7366fa32c8573ab5db206bd10559


少なくとも、ここには5名の元内閣法制局長官の見解があり、それぞれについて「私の考えは違い、その理由はこうです」と説明できることでしょう。拙ブログ見解は場外ですよ、勿論(笑)。



イ)報道ステーションの実施したアンケート調査結果:
>http://www.tv-asahi.co.jp/hst/info/enquete/


ここに、全国の各大学教官のご芳名が記載されており、回答のあった見解も載っている。この中から反対論者を逐一選び出して、「「私の考えは違い、その理由はこうです」と説明すれば、法学界での学術的結論が導き出せるかもしれませんよ?
法学素人の一般人相手に、「どの条文、どの語が違憲なのか言ってみろ」とか無理気味な要求をするよりも、ずっと有意義な議論になるんじゃありませんか?法学の専門家同士、話も通じやすいでしょう?


だから、大屋さんや玉井さんのように、政府の発表を熟知し十分理解している学者が、玉井曰く「違憲じゃ違憲じゃと叫ぶ」他の人々に対し、「あなた方の見解はこれこれこういう理由・根拠で間違っている、安倍内閣の言い分が正しいんだ」と主張すれば、いとも簡単に反対論を排除できるんじゃないですか?
おお、何て有意義な議論なんだ。


早速、大屋氏におかれましては、逐条的解説付きでもって、違憲という主張に根拠はないとか、違憲という判断は誤りである何故なら云々とか、個々の大学教授等の主張を具体的に挙げ、大屋氏の法学的に正当な立論でもって、打ち破れば宜しいんじゃないかと。
どっとはらい。


大屋氏が個別具体的な法学者を相手にして、何らの有効な反論なり立論なりを出せない場合には、色んな憶測を呼ぶだろうね。


・実は、圧倒的多数派の反対論の方が妥当性が高いのではないか?
・実は、逐条的乃至逐語的解説や反論ができないんじゃないか?
・反対論者に言い負かされるのを怖がっているのではないか?


さあて、お手並み拝見。



法学者たちの「違憲」表明について

2015年06月11日 20時53分38秒 | 法関係
安倍総理が、新たな安保法制を夏までに実現させると米国議会演説で大見得を切ってしまった為に、現在の窮状をもたらした。

憲法審査会での法学者3名が揃って「違憲」との見解を表明したのに続き、大勢の法学者が同じく「違憲」との立場を支持した。マスコミのアンケート調査などでも、やはり9割以上の法学者たちが違憲を支持している。
これにより、無法を強引に押し付ける安倍政権の姿勢が世間に知れ渡り、今後の審議は暗雲に包まれることとなった。


安倍総理が自ら会見を行った時、いかに正当な根拠を持った法案なのかを滔々と語ったのに、それは国民を欺く詭弁に過ぎなかったのだということを、憲法学者たちの思いもよらぬ告白によって知らされたのである。


きついお灸をすえられた政権は、何とか言い訳を見出そうと必死になっているが、いずれも有効な反論にはなっていない。逆に、稚拙な言辞を弄する閣僚や総理補佐官らの失態を目立たせるだけになっている。閣僚も与党議員たちも「単に強弁するしか能がない」ということを実証してしまった。


遅かれ早かれ、政府与党の穴は露見していたであろうから、これを機に出直すべきと多くの人が考えていることだろう。


拙ブログでの見解について、以下に述べておきたい。

まず、多数派が正しいのか、という点についてだが、必ずしもそうだとは思っていない。過去のブログ記事で書いてきたことなので、ここでは触れない。また、意見表明者の信頼性についてであるが、例えば長谷部恭男教授や小林節教授については批判してきた経緯もあるのであり、全幅の信頼ということにはならない。それに、権威主義的態度というのには、拙ブログではあまり同調的ではなかったと自己評価しているので、「東大の長谷部教授が違憲と言うのだから正しい」みたいなことを支持したりもしないだろう。



・長谷部恭男教授に関する記事
13年12月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/308038dda28248a10cc9babf9556a3b2


・安念潤司教授に関する記事
14年1月
>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/8da760d94d6e08b3bcd32f30c09ab5b5
>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/47abaa3da2f8bd403eb50c75b593efcb
>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/77a9b7a8c38a0b2586ffae141f394084


おまけ、池田信夫、諸葛宗男、澤田哲夫ら
>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/fadef836218ebfcb53feb5db1fb48bdc
>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/1a32260990ed127b80b944a9f0830276


もう一つおまけ、岡本孝司、石川和男ら
>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/dad1f2c2ca2a1bb1f9195bb4712a0b4b



冒頭の長谷部教授についての参考記事中では、次のように書いた。


学者の言い分が本当に正しいのだろうか?
政治的に立ち回る人なら、いくらでも態度を変えられるかもしれない。だから、東大教授がそう言ったから、というだけで信じることなど到底できない。その人をどう評価するかということが、まずある。
学者間で言い分の対立することであるなら、「学界においてもまだ評価が定まっていないのだな」ということが分かるだけ。つまりは、曖昧とか、不安定ということだ。ほぼ90%以上の専門家の人が同一の回答をする、ということではないと分かるだけである。それは、司法・法学分野だけではなく、経済学でも同じ。これも散々言ってきたわけだが。
なので、長谷部教授の見解はある一つの見方、という受け止め方にしかならないだろうな。


=======


法学者たちの見解を「そういう見方」だと受け止めても、9割以上がその結論に賛成している場合には、これを覆すのは容易ではない。
政府与党が行うべきは、多数派の意見を無視するのではなく、きとんとした反論を法学上の理屈で行うことなのである。愚かな反論だけ並べるからこそ、事態が悪化しているということに気付けないのだな。


「アンケートで9割以上の法学者が違憲を支持していますよ」
  →「学者の意見は無関係」
  →「俺ら議員の方が昔から考えてきた」
  →「判断は最高裁だから無関係」
  →「賛否の数は関係ない」


こういう反論が無駄であり、愚かしいということが分かっていないのである。
ネット上でも見かける、強弁、決め付け、という連中と同じ。


当方は、圧倒的大多数の法学者たちが違憲を支持しているということ以外、これといった論点を知らないので、少数派がどんな説明を行ったのか全く知らない。政府与党なり合憲支持の学者なりが、個別の論点について具体的に有効な反論を示せない限り、正当性など誰からも認められないであろう。


一応、拙ブログでの考えについて、若干述べたい。


1)多数意見であること

少数意見の方が正しいということもあるだろう。なので、一概には多数派が正しいと断定できない。けれども、無視できないし、尊重されるべきものであると考える。大陪審でも、多数意見が採用されるわけだし。
まず、少数派が正しいと考えるなら、多数派の出す論点について網羅的に具体的な反論を提示し、それが説得的であるか説明として妥当・合理的といったことが多くの人に理解されない限り、採用されることはなかろう。
多数派の意見を無視する場合には、結果として「横暴」とか「専横」といった評価しか出てこないだろう。今の政権がやってるのは、これ。


2)違憲審査は最高裁のやること

確かにその通りなのだが、9割以上の憲法学者が違憲と言うものを、最高裁が全く逆の判断を下すだろう、と推定させるには、あまりに無理がある。
法学者は憲法判断の意見を言うな、と言わんばかりの姿勢が、大きな反発を招いたのだよ。要するに「お前ら、学者ごときが何を言おうと関係ねー、最高裁は政府の味方だからいつも合憲と言うに決まっているんだよ、政府が決めたことには永久に逆らえないんだよ」という本音が出てしまい、それを見透かされたということだな。
「総理(=政府)が言うんだから、正しいんだ、合憲なんだ」というのと同じ。簡単に言えば「俺がルールだ」と。これを誰が信じると?


最高裁が違憲審査をするとしても、通常の裁判では違憲か合憲かの判断には触れられない。仮に今の戦争法案が立法されたとして、どうやってその違憲判断を最高裁に仰げると?
具体的に不利益を被る人が行政裁判を提起する必要があるとして、原告適格とか訴訟利益でほとんどが弾かれてしまうのでは?
特に、現実の運用前に違憲判断を仰ぐ機会など、ほぼ皆無に等しいのでは?そうすると、政府与党が「合憲と言ったから」という理由で、現実には立法措置が取られてしまうわけで、国民には合憲か違憲かの判断を得ることが事実上封じられてしまうも同然である。


そのような点からも法学上の研究や議論は有益であるし、形式的には存在するであろう最高裁の違憲審査であっても、事実上は国民に利用できる機会は殆ど得られないことから、法学上の議論がそれに代わるという役割が期待されよう。


したがって、最高裁の違憲審査があるから、という政府与党の意見は現実的ではなく、国民の憲法判断に関する検討機会を奪うに等しいものであり、妥当性を欠いている。


そもそも内閣総理大臣が、自信を持って「合憲である」と確信しているのであれば、違憲だとする法学者であろうと議員であろうと誰であろうと、合憲論でもって相手側論点を退けられよう。それを実行すればいいだけである。
なぜ、真正面から議論を受けて立たないのか?

それは、講学上の論点で勝てないから、ということではないのか?
そうではなく、政府の見解が正しいというのなら議論で勝てるはずなんだから、具体的に反論すればいいのだよ。



川内原発運転差止仮処分事件に見る裁判所の異状~3

2015年04月26日 10時59分24秒 | 法関係
4)川内原発運転差止に関する鹿児島地裁の判断

まず、鹿児島地裁の出した決定要旨を新聞上で読んだ感想として、裁判官は合理と不合理の区別すら持ち合わせないのだな、ということだ。前田裁判長の出した答えは、ただの決めつけである。言ってみれば、根底から誤っていると言えよう。このような体質は、地裁に限ったものではなく、最高裁判事を筆頭として、そもそも単なる決めつけで木で鼻を括ったような「法律審としての当審の性格、事案の内容、訴訟の経緯等にかんがみ、右判断を左右するものではない」と有無を言わせず消し去れるわけだから、簡単なんだよ。
裁判官は、俺がルールだ、と宣言することなぞ、朝飯前なんだから。たった一言「これが正しい」「合理的である」と言い切ればよいだけだから、だ。


裁判所における判断とは一体何か?判断の基礎となるものは何か?
日本の裁判官は、それを全く欠いているにも関わらず、何らの罰を受けるわけでもなく非難されるわけでもなく、逆に権力に平伏せば立身出世の道が開ける、と。


また喩えで言ってみますか?
専門家「彼は血液型はABだ」
裁判官「「彼の血液型がABである」という専門家の意見は不合理とは言えない、何故なら俺がそう言うからだ」

こんな屁理屈が通用するんですよ、日本の司法というのは。何故裁判官が不合理と言えないと判断したか、ということの理由の説明も根拠の明示もないのに、俺がそう言うので不合理とは言えない=合理的と考えるので合法だ、という「こじつけ論」しかないのですから。

唯一ある根拠とは「専門家が言うので、正しい」の一点張り。原告、被告のいずれの主張を、どうして採用するに至ったか、ということの根拠や説明がないのである。


伊方原発の最高裁判例において、『現在の科学技術水準に照らし、…右調査審議において用いられた具体的審査基準に不合理な点があり、あるいは当該原子炉施設が右の具体的審査基準に適合するとした…判断の過程に看過し難い過誤、欠落があり、被告行政庁の判断がこれに依拠してされたと認められる場合には、被告行政庁の右判断に不合理な点があるものとして、…原子炉設置許可処分は違法と解するべき』と判示されたからといって、原子炉運転を漫然と許容できることの根拠とはなり得ない。


92年の最高裁判決当時における判断は、国内における甚大な原発事故を一度も目にせず、経験したこともなく、重大事故の被害程度についての想像すらできなかった下で行われたものであって、最新の知見が反映されたものでは到底ありえない。原発事故が現実のものとなり、不可逆的かつ劇的変化を広範囲に与えた他、多大な国民に被害をもたらした上、事業者が賠償不可能なほどの経済損失を与えたことは明らかである。



以下に鹿児島地裁の決定が不当であることを、個別の論点について書く。



ア)基準地震動の基準値が不合理であること


実際に観測された加速度に基づき基準が策定されるべき。モデルは設置以前から存在してきたものであり、モデルの正確性や妥当性の証明は安全性の担保に十分であったとは言えない(ハズレが確実に存在してきたから)。

厳格な基準値を採用してはならない、とする理由が行政庁から立証されたことは明らかでない。立証が尽くされていない場合、不合理な点があることが事実上推認される(伊方原発最高裁判例)。基準値が200ガルでよいとする場合と、500ガルや1000ガルとする場合では、被害発生の可能性ないし損害程度が200ガル基準より後者が優れており、これを採用するわけである。ならば、2000ガルや4000ガル基準がもっと優れているのであれば、これらを採用しないという明白かつ具体的な理由が欠けている。


より耐性があって、安全性の高い基準が採用されるべきなのは言うまでもなく、その達成が困難であって実現不可能な水準だから基準として妥当でないとするなら、そもそも他に代替手段が存在する場合には経済合理性に欠け、これより優先すべき理由もなく、なおかつ放射性物質による甚大な被害がもたらされない手段を採用すべきなのは言うまでもない。


少なくとも、現実に観測された結果に基づく基準を適用することが不合理であるとする立論は存在せず、行政庁からの主張では立証が尽くされたものとは言えない。ひとたび重大事故が発生すれば、取り返しのつかない事態を招くことは明白であり、これを防げる可能性として、例えば事故による放射性物質漏洩となる確率が10%、1%、0.1%であるなら、0.1%を採用するのが当然なのであって、この選択に異論がないにも関わらず、仮に0.1%と0.05%の比較においては0.05%を採用できないとするなら、この理由について十分な立証がないことは許容されるものでない。


すなわち0.1%と0.05%の比較衡量において後者を採り得ることができないという具体的、合理的理由を立証できないならば、立証不尽につき不合理な点があるということが事実上推認されるのであるから、鹿児島地裁が指摘した不合理な点がないとする決定は誤りである。
2000ガルへの耐性を持つ原子力施設の方が、800ガルのそれと比して重大な事故災害を招来する可能性が小さいことが事実である時、「何故2000ガルを採用しないか」という点について立証できない限り、不合理な点の存在は払拭されることはない。



イ)放射性物質放出を「相当程度防げる」という判断の不合理


地裁決定では、つまるところ専門家の手によって、高度な手法のモデルによる計算結果を得たのだからこれが正しい、とするものである。そして、地震事故による漏洩は相当程度防げる、と述べたわけである。これは過去の事実から見て、その通りなのであって、日本で発生したM6以上の地震に対して、殆どの場合には原子力発電所は漏洩事故を起こすことがなかったのであるから、裁判官の認識の水準が不明ではあるものの「相当程度防げた」と言うことができよう。しかしながら、重大事故が発生したことも事実であって、原状回復困難な事態を招いたことは決して看過されるべきではない。


ここに、治療法A及び治療法Bがある。

治療法Aは退院までの期間が10日だが、1%以下の稀な確率で出血多量となる危険性がある。一方、治療法Bは退院まで30日かかってしまうが、出血を伴う手技を用いないので出血の危険性が皆無であるとする。
このような場合、患者にとって出血多量が極めて深刻な致死的事態をもたらすことが明らかであれば、治療法Aを選択することが優先されるべき特別の理由がない限り、治療法Bという代替手段を採ればよいだけであり、その選択権は患者にあるべきだ。

非常に確率が小さいが、致死的事態となる出血があることは、既に実証されているのであって、しかも直近に行われた治療法Aの結果が致死的出血だったのであるから、ここで治療法Aを再度実施することの利益が果たしてあるのかどうか、治療法Bの選択が否定されるのは何故なのか、合理的な立証を必要とするのは当然であろう。

考えられ得るのは、他の代替手段が存在しないとか、治療法Aの実施による不利益を上回る患者利益を期待せざるを得ないということであり、最終的な決定権は患者に委ねられるべきものである。


同様に、事故による放射性物質放出を防げる発電方法が存在しないわけではない。治療法Aの出血が発生する確率がいくらか、出血量は10ml以下が何%で100ml以上が何%で最大許容出血量は何mlが妥当か、などといった細部の技術的問題なのではなく、治療法選択の問題なのである。

伊方原発の最高裁判決はそうした考え方を封じ込める為に生み出された「土俵」規範のようなものであって、司法の役割の放棄であり、行政権への盲目的服従に等しいものである。


裁判官たちに、この条文をよく読むようお願いする。

(再掲)


裁判事務心得 第四条  

一裁判官ノ裁判シタル言渡ヲ以テ将来ニ例行スル一般ノ定規トスルコトヲ得ス



川内原発運転差止仮処分事件に見る裁判所の異状~2

2015年04月25日 12時58分37秒 | 法関係
2)原子力行政に関わる専門家たちの意見は信頼に足るか?


信頼できるという水準には、到底ない。
理由は、前の記事でも述べた柏崎刈羽原発事故のことが、まずある。
事前想定を超える地震動は現実に観測され、しかも一度や二度ではない。東日本大震災においても、女川、福島第一及び第二、広野等でも設計前想定値を超えていた。自然には起こり得ない水準、と謳っていたのに、全然違ったということだ。


更に、福島原発事故の時のことを思い出すがよい。
5重の防御だから大丈夫だ、と宣言していたのは専門家たちだった。原子力・安全保安院も、東電も、大学教授も、1号機の水素爆発が起こった後ですら「メルトダウンはしてない」「格納容器は壊れてない」と言い張っていたではないか。
最初から嘘つきという連中なのに、これをどう信頼せよ、と?
爆発した1号機を水棺にするべく水を入れてますが、どういうわけだか水で満たされません、って、穴が開いているからに他ならないにも関わらず「格納容器は健全だ、レベル4程度に過ぎない」と言い張っていたような連中なんだぞ。


こんな愚かな連中の言い草を、どうやって信じよと?
これが専門家集団の正体なんだろうよ。


もしも真の専門家であれば、科学的・専門技術的見地から正しい判断・対策・実行方法等を指示説明でき、それを実現できていたことだろう。
柏崎刈羽だけでなく、もんじゅも壊れることがなかっただろうし、福島第一のような惨状を招くこともなかったろう。


そして、事故後の「最新の科学的・専門技術的知見」に基づいて専門家たちが1号機に投入した観測ロボットは、回収すらできない、と。2台とも「ミイラ盗りがミイラ」状態になった、と。核燃料がどこにどのように存在するかの説明すら、誰にもできない、と。
汚染水が建屋の外へと「漏れ漏れ詐欺」みたいに、漏れてゆくのも、建屋のコンクリートは健全でどこにも穴がないけど、何故か漏れるわけですね?(笑)


例えば地下1階、地上3階建の住居があって、地下に雨水が流れ込んだら、コンクリートで囲われているからどこにも漏れがないので水があふれるんだわ。水の流れ込んだ経路を完全シールすれば、水を注入し続けると建物全体が水で一杯になるんですよ。だってコンクリートですから。ましてや、漏洩の危険性を考慮して気密性が最も求められるであろう核施設が、コンクリートのどこに出口があるのか全くの不明で冷却水が漏れていつまで経っても一杯にならない、ということは、どういうことですか?
専門家の知見が正しかったことを十分に証明している、ということですかね?
地震では壊れてないって言い張り、格納容器も建屋も大丈夫だと言っていたが、現実には全部メルトスルーで貫通してしまったということですか?


どこが、原発専門家の意見は正しい、って根拠になるというのか。



3)原子力以外の専門家が存在する場合の裁判例ではどうなのか?


原発裁判だけは別な法的理屈が出されるというのは、どういうことなのだろうかと疑問に思えるわけだ。それは行政権力への服従ということか?

日本の狂気に満ちた裁判所が出す答えというのは、一貫性もなければ原理原則もなく、ただ単に「言いたい結論」を言う為に出鱈目の屁理屈を出してくるのである。それを誰からも咎められず、覆されないから、だ。法曹として末代の恥、とも批判されないから、何を書いても平気なのだよ、多くの裁判官たちというのは。


柏崎刈羽原発訴訟の上告について、09年4月に最高裁が不受理の決定には、次のように書かれていたそうだ。


本件申立ての理由によれば,本件は,民訴法318条1項により受理すべきものとは認められない。
 よって,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり決定する(なお,原審の口頭弁論終結後の平成19年7月16日,本件原子炉の近傍海域の地下を震源とする新潟県中越沖地震が発生したところ,この点は,法律審としての当審の性格,本件事案の内容,本件訴訟の経緯等にかんがみ,上記の判断を左右するものではない。)。

========

日本は、こうした連中によって支配されるという体制が構築されているのだ。


さて、東京高裁や最高裁の判事どもは、専門家によって担われている原発行政は「多方面にわたる極めて高度な最新の科学的、専門技術的知見に基づいて」おり、「不断の進歩発展する科学技術水準に即応」しているんだ、と言ったんだよ。
だから、専門家の意見は正しい=原発行政は間違ってない、正しいんだ!!
とな。


専門家が出す結論というのが常に正しいなら、委員会、審議会とか専門部会等の専門家集団による検討を経た結果は、いつも正しく合理的であって、それに沿った行政ならば何らの違法性もないはずだ。
しかし、医療裁判ではどうだ?
薬事行政は?
過去に、専門家の出した結論に対して、それは違うと裁判所が意見をひっくり返してきたではないのか?常に審議会等の専門家の意見と行政が正しい、なんて言ってこなかったろう?


その具体例を挙げよう。
エイズ騒動があったでしょう?
あの時の裁判例があったので、それを見ることとしよう。
当時厚生省の課長だった人物が刑事責任を追及された裁判だった。
最高裁判決は有罪だった。


>http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/923/035923_hanrei.pdf


内容をかいつまんで言えば、専門家集団たる薬事審議会等の医薬品承認に係る専門的見地からの意見に従って行政を行っていた厚生省課長は、それでは足りず注意義務を果たしてないから有罪だ、って断罪されたんだよ。

どこに専門家が出した意見だから、これに従うのが行政として当然だ、そこからの逸脱の有無だけ見ればよい、なんてことを言っているのか?
そんなことは、全く書かれていない。
海外文献などで書かれているなら、それを注意しておくべきだし、危険性を知ったなら即座に取り得る対応をすべきで、その義務を果たしていないから刑事責任は有責なんだ、ってことだぞ?


せっかくなので、上記判決文を一部改変して、原発行政と東京高裁の如き恥知らず裁判官に当てはめてみました。それを以下に示します。



原子力発電所は,当時広範に使用されていたところ,同所には核燃料等汚染物質が相当量存在しており,科学的には未解明の部分があったとしても,これを使用した場合,事故や作業等により被爆する者が現に出現し,かつ,いったん過酷事故が起こると,有効な対処方法がなく,多数の者が高度のがい然性をもって居住不能に至ること自体はほぼ必然的なものとして予測されたこと,当時は原子力発電所の危険性についての認識が関係者に必ずしも共有されていたとはいえず,かつ,国や電力会社がこれを使用する場合,これが安全なのかどうか見分けることも不可能であって,国や電力会社において福島第一原発事故の結果を回避することは期待できなかったこと,原子力発電所は,国によって承認が与えられていたものであるところ,その危険性にかんがみれば,本来その使用が中止され,又は,少なくとも,生存上やむを得ない場合以外は,使用が控えられるべきものであるにもかかわらず,裁判所が明確な方針を示さなければ,引き続き,安易な,あるいはこれに乗じた使用が行われるおそれがあり,それまでの経緯に照らしても,その取扱いを電力会社等にゆだねれば,そのおそれが現実化する具体的な危険が存在していたことなどが認められる。


このような状況の下では,原子力発電所による被害発生を防止するため,運転許可の差止命令など,裁判所が付与された強制的な権限を行使することが許容される前提となるべき重大な危険の存在が認められ,原子力行政上,その防止のために必要かつ十分な措置を採るべき具体的義務が生じたといえるのみならず,刑事法上も,原子力発電所の設置,使用や安全確保に係る原子力行政を担当する者には,社会生活上,原子力発電所による危害発生の防止の業務に従事する者としての注意義務が生じたものというべきである。


そして,事故防止措置の中には,必ずしも法律上の強制監督措置だけではなく,任意の措置を促すことで防止の目的を達成することが合理的に期待できるときは,これを行政指導というかどうかはともかく,そのような措置も含まれるというべきであり,本件においては,経済産業大臣が監督権限を有する電力会社等に対する措置であることからすれば,そのような措置も防止措置として合理性を有するものと認められる。


被告人は,原発事故との関連が問題となった本件原子力発電所が,被告人が課長の所管に係る発電所であることから,経済産業省における同発電所に係る事故対策に関して中心的な立場にあったものであり,経済産業大臣を補佐して,核物質による被害の防止という原子力行政を一体的に遂行すべき立場にあったのであるから,被告人には,必要に応じて他の部局等と協議して所要の措置を採ることを促すことを含め,原子力行政上必要かつ十分な対応を図るべき義務があったことも明らかであり,かつ,原判断指摘のような措置を採ることを不可能又は困難とするような重大な法律上又は事実上の支障も認められないのであって,本件被害者の死亡について専ら被告人の責任に帰すべきものでないことはもとよりとしても,被告人においてその責任を免れるものではない。




この改変文の要点を書き出せば、次のようなことである。


ア)国や電力会社は原発の危険性が見分けられない
(=だから柏崎刈羽は壊れ、福島第一は崩壊した。危険を見分けられていたなら設置許可しないか安全対策を施せるから)


イ)使用中止又は、生存上やむを得ない場合以外は使用が控えられるべきもの


ウ)裁判所が明確な方針を示さなければ安易な使用が行われる
(本来国が方針を出すべき、過去の経緯から国と電力会社は旧態依然のまま使用する、現に大飯原発はそのように使用された)


エ)裁判所の強制的権限行使の許容となる重大な危険が存在


オ)事故防止の必要十分な措置をとるべく具体的義務があり、刑法上原発行政担当者には社会生活上の注意義務を生ずる
(前段具体的義務は本来行政が負うが、行政が間違っているならこれを是正すべく司法が義務を負うはずだ)


カ)注意義務を課せられる措置には強制監督措置以外に任意措置も含むのであり、事故防止措置として合理性を有する
(行政への強制措置をとれない(=認可取消判決を出せない)場合でも、裁判所には事故防止を促すべく任意措置の義務があった)


キ)裁判所には原発訴訟において必要十分な対応を図るべき義務があった、その措置(行政に対し判決や決定などを出すこと)を採ることを不可能又は困難とするような重大な法律上又は事実上の支障はなかった
(あったとすれば、裁判官の出世や権力へのこびへつらい、人事報復などが事実上の支障ということか)



『看過し難い過誤・欠落』がないと断言できるって?
ふざけるんじゃない。
過誤ないし欠落について、裁判所が意図的に看過した結果が、柏崎刈羽であり、福島原発だったんだろうよ。


拙ブログの考え方は次の通り。


最新の知見によれば、原子力発電所がひとたび重大事故を起こした場合には、有効な対処方法や手段が確立されておらず、事故処理方法についても全くの暗中模索であり、試行錯誤を繰り返しながらの作業であることは、福島第一原発の現況を見れば明白なのであって、事故のもたらす放射性物質の危険により原状回復が極めて困難なことや、地域住民ばかりではなく日本全体の社会生活に深刻な影響を与え、本来国民が享受すべき平穏な生活環境が著しく毀損されるという重大な結果をもたらし、原子力発電所の有するこうした深刻な危険性に鑑みれば、本来国が使用を中止し、少なくとも、国民の生命財産を保護し健全な社会生活を営む為に、他の取り得る代替手段が全く存在せず、その使用がやむを得ないという特段の事情がある場合を除いては、行政が使用を控えさせるべき義務を負うと考えられる。

行政がこのような義務を履行しないという重大な危険の存在を認めた場合には、裁判所は、法律上の強制的な権限行使が許容されるばかりでなく、行政に義務履行を促すべく措置を採ることを実施すべきであり、原子力発電所事故がもたらす結果の重大さと事故予防の重要性の観点から、裁判所には率先して危険を除去し事故を防止すべき責務があるものと考えるべきである。


裁判所が責任を果たしていると言えるか?
鹿児島地裁は、どうなのだ?



川内原発運転差止仮処分事件に見る裁判所の異状~1

2015年04月24日 18時00分19秒 | 法関係
日本の司法界が東日本大震災以前からあまりにおかしい、というのは周知だったが、レベル7の福島原発事故を経験してでさえ、何ら反省もなく旧態依然の「結論ありき」体質であるというのは、真の愚鈍か頓狂か何かであろうか。

常識というものは裁判所には通用しないということなのかもしれない。それとも、体制護持こそが大事であって、司法の役割よりもそちらが優先されるということなのか。裁判官とは行政庁の「下請けハンコ押し係」とでも思っているのか。

兎に角、日本の裁判所というのは、支離滅裂であることがごく当たり前ということのようだ。異状である。権力に媚びる為なら、何でもアリということ。
川内原発の判決を見る前に、過去の訴訟から書くことにする。


1)柏崎刈羽原発の認可取消訴訟

09年の最高裁決定により、高裁判決が確定した。最高裁は何らの検討すらしなかった。言葉は悪いが、面倒だから高裁判決のままにしとけ、ということで、司法の役割など完全放棄に等しい行いだったわけだ。

で、高裁判決は、というのと、ロクでもないものだった。


・2005年11月22日 東京高裁判決:柏崎刈羽原発設置許可取消訴訟

全文が600頁を超えるほどの、超大作の判決文だったらしい。
要するに、嫌がらせと何を書いているのかボカして分からなくさせること、ネット上や文献等に公開されるのを封じる為の卑怯な作戦ということではないかな。読む人の気力を失わせ、情報拡散を妨害する為の、裁判官が編み出した汚い手口ってことだよ。

その大部から、一部を引用する。


『原子炉の安全性については多数の専門家をもって組織される安全審査会において、各審査委員の専門分野の専門技術的知見に基づくだけでなく、(中略)原子力委員会が意見を述べ、これを尊重して内閣総理大臣が最終的に判断する』のであるから、『科学的、専門技術的見地から、十分な審査が行われるように規定されている』


『原子炉施設の安全性に関係する審査が、多方面にわたる極めて高度な最新の科学的、専門技術的知見に基づいてされる必要がある上、科学技術は不断に進歩、発展しているため、原子炉施設の安全性に関する基準を具体的かつ詳細に法律で定めることは困難であるのみならず、最新の科学技術水準への即応性の観点からみて適当ではないとの見解に基づくものと考えられ、このような見解は十分首肯することができる』


『本件原子炉が具体的審査基準に適合し、その基本設計において、本件原子炉施設の地質・地盤及び同施設周辺において発生するおそれのある地震が、同施設における大事故の誘因とならず、安全性を確保でき、(中略)安全審査における調査審議及び判断の過程に看過し難い過誤、欠落があるとは認められない』



安全審査会というのは恐らく昔の組織で、原子力安全委員会とか原子力安全・保安院ができる以前に存在した専門家集団による審議会か委員会に類似の組織だったのではないか。実質的には、現在の原子力規制委員会に匹敵するもの、ということだろう。

アでは、手続的な担保ということで、
・安全審査会が基準策定
・原子力委員会が答申
・内閣総理大臣が判断
という3段階を踏んでいる、と。だから、正しいんだ、と。


科学的、専門技術的見地から基準が策定されているのであるから、この基準に照らして適合しているかどうか、ということだけを裁判所は判断すればいい、と。このことは、安全審査会なりの専門家が出した基準というのが「正確であり妥当であり合理的」といったような前提に立っている、ということだ。本当にそうなのか?


イから、原子炉施設の安全性は「多方面にわたる、極めて高度な最新の科学的、専門技術的知見に基づいて審査される必要がある」と。加えて、最新の科学技術水準への即応性が求められる(=だから全てを詳細具体的に条文中に記述できないのは当然だ、と)、ということである。


判決は2005年だったが、その後に中越地震が発生し原発施設は被害を受けたわけだ。
さて、本当に専門家の出した基準なり知見は正しいものだったか?
もしも正しかったのなら、何故地震後直ちに再稼働させなかった?
安全性は確保され、破壊からも免れているであろう水準だったはずなんだから、何ら支障もなく再稼働できたはずだ。どうして、そうしなかった?

専門家たちも、原子力委員会も、内閣総理大臣も、東京高裁判事も、最高裁判事も、全員一致で「安全性は確保されている」というお墨付きを与えたわけだから、どこか壊れることなんてあり得ないだろう?(笑)
国側主張でも、地震なんかあっても壊れない、大丈夫だ、だから設置認可しているんだ、技術基準は達成され安全性は保たれているんだ、ということだったんでしょう?ならば、壊れるはずない、んじゃないですか?


現実には、動かせなくなったわけだ。
どうして?安全ではなくなったから、ですかね?


東京高裁が言った、活断層だって地震ではない、地すべりの跡だ、だからウに述べたように、『原子炉施設の地質・地盤及び同施設周辺において発生するおそれのある地震』が大事故の誘因とならず安全性を確保できると太鼓判を押したわけだろう?
にも関わらず、中越地震の後には、動かせない原子炉があったのはおかしいだろう?どうして、東京高裁の認定した安全性の屁理屈というものが「現実には役に立たなかった」ということを、最高裁は放置したか?
高裁のゴマカシの屁理屈が、本当に屁理屈に過ぎなかったのだということを、実際の地震被害で実証したからに他ならない。裁判官の無能を、見事に証明してしまったんだよ。


東京高裁 「地震?そんなの大丈夫だ地すべり程度に過ぎないんだ」
国&東電「最大の地震動に対応できる基準だ」
→現実には、想定を大幅に上回る2000ガル以上の地震動が観測された


この事実だけでも、専門家の出した最新知見、国、東電、裁判所、みんな完璧に敗北していたんだろうよ。彼らの科学的知見とやらは、全く科学的ではなかった、ってことさ。


更には、施設基準があることと、現実の運用面でうまくできることは、別問題だ。福島第一と第二の違い、にも似ている。
中越地震の際、柏崎刈羽原発で正確に対処できなかったのは、この運用面でも問題があったから、だ。それが火災だった。

で、火災対策を講じたわけだ。そして、火災対策は万全だ、もう運転しても大丈夫だ、と東電が言った。自信満々に。まあ、そりゃそうだわな、火災事故後に対策ができてなけりゃ、話にならんから。
09年2月に消防法に基づく使用停止命令(柏崎市)は解除され、7号機は再稼働となった。すると、3月には、再び火災事故発生。東電は消し止められず、市の消防組織が出動して消火した、ということになった。再稼働して1カ月も経たないうちに、火災事故を起こした揚句、あれほど「対策は万全です、もう大丈夫です」って宣言したのに、やっぱり駄目だったわけだ。


想定外の大地震で原子炉火災発生、これにより長期停止を余儀なくされたのに、万全の火災対策だと言った直後にまた火災事故で杜撰さを実証した。この一連の事故から学べることは、こいつらは信用できない、ってことだけだ。

専門家、国、東電、裁判所、みな嘘を言ったに等しい。
事故後であってでさえ、満足に対処すらできてない。やっぱり火災で人的被害さえあった。


専門家の出した最新の科学的、専門技術的知見が正しく、この基準への即応性を要求されても大丈夫だ、って東京高裁判事が言った結果が、これなんだよ。
全滅だろ。
あらゆる面において、高裁判事の言い分(判決内容)は粉砕されたんだよ。
にも関わらず、この直後に最高裁判事は火災事故の翌月の4月に「東京高裁判決は正しかった」と決定を出したんだぞ!
この愚かさが分かるか?
微塵も反省がないってことだ。


東京高裁判決で大丈夫ってお墨付き
→専門家の基準を超える巨大地震
→火災事故、漏洩事故、原子炉長期停止
→事故対策やった、火災対策も万全だ
→再稼働直後にまた火災事故
→人的被害、消火もできず
→最高裁が翌月東京高裁を支持


裁判官の正しさの根拠など、どこにも見出せない。




沖縄県名護市辺野古における公有水面埋立承認の撤回・取消について

2015年03月31日 18時31分11秒 | 法関係
前の続きですが、今度は公有水面埋立承認について考えてみます。


>http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150331-00000010-mai-pol

(一部引用)

沖縄防衛局による林農相への執行停止申し立てに対し、県は27日の意見書で、国が不服を申し立てることは制度上できないとして、却下を求めていた。防衛局の請求の適否を同じ政府内の農相が判断するのはおかしいというわけだ。

 これについて、林氏は30日、「岩礁破砕には知事の許可が必要で、防衛局はその許可をとって作業している。この点で私人が事業者である場合と変わらず、申立人として適格が認められると解するのが相当だ」と記者団に説明した。

 執行停止決定は、行政不服審査法に基づく審査請求手続きの一部であり、この決定だけを取り上げて県が訴訟に踏み切っても敗訴する可能性は高いとされる。このため現状では、防衛局の審査請求を農相が裁決するまで、現場海域での移設作業は続くことになる。

 しかも、裁決で農相が防衛局の請求を棄却すれば、同局は知事の指示取り消しを求めて提訴できる。これに対し、国から受託した事務については自治体が原告になれないという判例があり、農相が請求を認めて指示を取り消した場合、県は裁決を不服とする行政訴訟を提起できない。

 行政法に詳しい小早川光郎成蹊大法科大学院教授は「農相が裁決で知事の指示を取り消せば、県がとれる法的手続きは行政不服審査法の中にはない。ただ、今回の執行停止は(裁決が出るまでの)現状凍結ではなく、作業を進めるという意味を持つので、政府はその部分の説明は必要だろう」と指摘する。

 県が移設作業に待ったをかけるには、コンクリート製ブロックによるサンゴ礁の損傷を理由に、岩礁破砕許可を取り消すことが考えられる。翁長氏を支える共産、社民両党などの県選出国会議員5人は28日、「防衛局が指示に従わないなら、知事は迷うことなく、自信を持って破砕許可を取り消すよう強く要請する」との緊急アピールを発表した。現地で移設反対の抗議活動を続ける人たちも翁長氏の「次の一手」を注視する。

 ただ、翁長氏は30日、記者団の質問に対し「専門家と相談しているところで、コメントすることはない」などと慎重な発言に終始した。ある県幹部は「効力を停止された指示を根拠に破砕許可を取り消せるかどうか法的な検討が必要だ」と明かす。

 翁長氏は仲井真弘多(なかいまひろかず)前知事による埋め立て承認の取り消しも視野に入れている。県の第三者委員会は7月にも検証結果を知事に報告する見通しで、前知事の判断に誤りがあれば、翁長氏は取り消しに踏み切る構えだ。その場合、防衛省は公有水面埋立法を所管する国土交通省に不服審査請求するとみられる。県幹部は「既に法律上の争いになっているので、勝つ確率が高い手段を考えなければならない」と手探り状態を認める。


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岩礁破砕許可の取消に関しては、国に有利な点が多すぎである。上記記事でも示されたような、1号法定受託事務に関する裁決が審査庁から出された場合、処分庁たる自治体が原告不適格であるなら、裁決が出た時点で負けがほぼ確定的だ。期限延長の拒否もできないだろう(拒否したら、同じく不作為の不服審査が出されるだけ)。


原権限庁が農水省であって、権限委任先が沖縄県(都道府県知事)であるなら(=1号法定受託事務)、処分庁の処分について審査庁の農水省が出した裁決は元々権限を有していた農水省が自ら処分を決したということに他ならず、これの変更を委任先である自治体が不満を言うこと自体に、法的利益はないということかもしれない。


ヘンな喩えだが、ご容赦を。
コンビニの店長が「商品Aを5個発注、商品Bは取りやめ」と決めて業者に注文したとする。しかし客から「商品Bも置いてほしい」と要望があって、店長は「Aは売れるけどBは儲けにならないからダメ」と拒否した。しかし、オーナーさんが店長の言い分を精査した結果、「商品Aは3個、商品Bは2個で」と発注内容を変更した。

コンビニ店長は、オーナーさんの委託を受けて業務をやっているだけで、上位の決定者はあくまでオーナーさんだ。元々の発注権限はオーナーさんにあるが、店長が代行しているだけなので、オーナーさんが決めたなら別の誰か(例えばコンビニ本部)の判断を仰ぐ必要性がない、というのが国側の主張ということになろう。

ここで、店長=自治体、オーナーさん=農水省、客=防衛局、発注内容=処分内容、ということ。発注内容変更は、裁決による変更と同じ意味合いだ。最初から店長はオーナーさんの決めたことに口出しできる権利がない、と。



残された対抗手段は公有水面埋立法に基づく知事承認の撤回か取消であるが、前記毎日新聞記事によれば、公有水面埋立法の撤回か取消の場合であっても、防衛省は同じく国土交通省に行政不服審査法に基づく審査請求を出す、という目論見であるようなので、まずこれについて検討する。


○公有水面埋立法 第51条  

本法ノ規定ニ依リ地方公共団体ガ処理スルコトトサレテイル事務ノ内左ニ掲グルモノハ地方自治法 (昭和二十二年法律第六十七号)第二条第九項第一号 ニ規定スル第一号 法定受託事務トス
一  第二条第一項及第二項(第四十二条第三項ニ於テ準用スル場合ヲ含ム)、第三条第一項乃至第三項(第十三条ノ二第二項及第四十二条第三項ニ於テ準用スル場合ヲ含ム)、第十三条、第十三条ノ二第一項(第四十二条第三項ニ於テ準用スル場合ヲ含ム)、第十四条第一項(第四十二条第三項ニ於テ準用スル場合ヲ含ム)、第十六条第一項、第二十条、第二十二条第一項、同条第二項(竣功認可ノ告示ニ係ル部分ニ限ル)、第二十五条、第三十二条第一項(第三十六条ニ於テ準用スル場合ヲ含ム)、第三十二条第二項、第三十四条、第三十五条(第三十六条ニ於テ準用スル場合ヲ含ム)、第四十二条第一項並第四十三条ノ規定ニ依リ都道府県ガ処理スルコトトサレテイル事務
二  第十四条第三項(第四十二条第三項ニ於テ準用スル場合ヲ含ム)ノ規定ニ依リ市町村ガ処理スルコトトサレテイル事務



岩礁破砕許可の場合にも検討したが、1号法定受託事務であると上級庁すなわち国土交通省の審査となろう。1号事務は51条に規定されているのだが、非常に読み難い。

最も具体的かつ簡明な条文を挙げておこう。51条1項の先頭に書かれている、2条1項である。


○公有水面埋立法 第2条
埋立ヲ為サムトスル者ハ都道府県知事ノ免許ヲ受クヘシ



これが国土交通大臣の委任を受けた1号法定受託事務とされているものである。2条を根拠として埋立免許を与えられた場合には、免許取消処分に関する不服審査請求先は国土交通省となるであろう、ということ。


沖縄防衛局ひいては防衛省が埋立事業者なのであるから、それは政府であり国ということになる。そうすると、対象条文は2条ではなく、42条となる。


○公有水面埋立法 第42条  

国ニ於テ埋立ヲ為サムトスルトキハ当該官庁都道府県知事ノ承認ヲ受クヘシ
2 埋立ニ関スル工事竣功シタルトキハ当該官庁直ニ都道府県知事ニ之ヲ通知スヘシ
3 第二条第二項及第三項、第三条乃至第十一条、第十三条ノ二(埋立地ノ用途又ハ設計ノ概要ノ変更ニ係ル部分ニ限ル)乃至第十五条、第三十一条、第三十七条並第四十四条ノ規定ハ第一項ノ埋立ニ関シ之ヲ準用ス但シ第十三条ノ二ノ規定ノ準用ニ依リ都道府県知事ノ許可ヲ受クベキ場合ニ於テハ之ニ代ヘ都道府県知事ノ承認ヲ受ケ第十四条ノ規定ノ準用ニ依リ都道府県知事ノ許可ヲ受クヘキ場合ニ於テハ之ニ代ヘ都道府県知事ニ通知スヘシ



残念ながら、これが51条に規定される1号法定受託事務なのである。42条の知事承認を取消した場合でも、岩礁破砕許可と同様に、行政不服審査法に基づく審査請求を出されてしまうと、国土交通大臣による裁決によって覆せるというのが防衛省の読み筋となろう。


沖縄県側が抵抗できる手段は少ない。
以前に述べた条例制定についても、不遡及原則はあるので、工事開始となってしまっていると厳しいこともある。
14年9月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/7366ef7a2b743fa6d860d3014bf45c98



訴訟提起することを考えるとしても、例えば

・国土交通大臣の裁決(公有水面埋立承認を妥当とするもの)を取り消す取消訴訟を提起:沖縄県ができない場合には住民などが原告になる必要がある

・国地方係争委員会の審理に回し、その決定(国土交通大臣の裁決を了とする)について取消訴訟を提起:これも県が原告になれるかどうかは不確実だが、自治法根拠で機関訴訟は可能ではないか


訴訟での闘争となると、現在進行中の訴訟で勝つべき、ということになろうか。そうか、この訴訟で県が敗訴受け入れで、埋立承認を判決で取り消せばいいのだ。控訴しなければ判決が確定となる。

被告である県が受け入れる、これだ!


それか、県議会が環境保護条例による工事規制をやるのが、最強ということだろう。

辺野古における岩礁破砕許可に関する行政不服審査法に基づく執行停止について

2015年03月31日 13時32分06秒 | 法関係
辺野古での埋立工事を巡って、沖縄県と政府との対立が続いている。3月30日には、農水大臣により、沖縄県知事の指示に関して、執行停止が宣言されるに至った。沖縄県と政府との法的闘争合戦の様相となっているが、沖縄県側の取り得る手段は限定的である。岩礁破砕許可に関する論点について整理し、今後の対抗策を考える為の一助としたい。



1)岩礁破砕許可の知事権限について


直接的には、沖縄県漁業調整規則が根拠法である。


○沖縄県漁業調整規則 第39条
 
漁業権の設定されている漁場内において岩礁を破砕し、又は土砂若しくは岩石を採取しようとする者は、知事の許可を受けなければならない。
2 前項の規定により許可を受けようとする者は、第9号様式による申請書に、当該漁場に係る漁業権を有する者の同意書を添え、知事に提出しなければならない。
3 知事は、第1項の規定により許可するに当たり、制限又は条件をつけることがある。



本規則の制定根拠は、漁業法(ここでは略)及び水産資源保護法である。


○水産資源保護法 第4条

農林水産大臣又は都道府県知事は、水産資源の保護培養のために必要があると認めるときは、特定の種類の水産動植物であつて農林水産省令若しくは規則で定めるものの採捕を目的として営む漁業若しくは特定の漁業の方法であつて農林水産省令若しくは規則で定めるものにより営む漁業(水産動植物の採捕に係るものに限る。)を禁止し、又はこれらの漁業について、農林水産省令若しくは規則で定めるところにより、農林水産大臣若しくは都道府県知事の許可を受けなければならないこととすることができる。
2  農林水産大臣又は都道府県知事は、水産資源の保護培養のために必要があると認めるときは、次に掲げる事項に関して、農林水産省令又は規則を定めることができる。
一  水産動植物の採捕に関する制限又は禁止(前項の規定により漁業を営むことを禁止すること及び農林水産大臣又は都道府県知事の許可を受けなければならないこととすることを除く。)
二  水産動植物の販売又は所持に関する制限又は禁止
三  漁具又は漁船に関する制限又は禁止
四  水産動植物に有害な物の遺棄又は漏せつその他水産動植物に有害な水質の汚濁に関する制限又は禁止
五  水産動植物の保護培養に必要な物の採取又は除去に関する制限又は禁止
六  水産動植物の移植に関する制限又は禁止

(以下略)


沖縄県漁業調整規則39条で制限しているのは、水産資源保護法4条2項の4号及び5号によるものと思われる。サンゴ礁保護とは水産動植物の保護培養であり、これに必要な「物の採取に関する制限」が漁業調整規則39条での制限の意味であろう。
また、コンクリートブロック投棄や紛失したアンカー投棄は、4号規定の「有害な物の遺棄」に該当する可能性がある。


すなわち、サンゴ礁破壊とは保護培養が必要な水産動植物の破壊行為であり、本来的に制限されるべき行為である。事前に県側が附した条件についても、漁業調整規則39条3項の条件を逸脱しているのであれば、許可取消事由となるのは明らかであろう。


2)沖縄防衛局の審査請求について


行政不服審査法に基づく請求というのが政府の言い分である。これに対する明確な否定理由は、法学的理論上存在するかどうか不明である。

沖縄県知事の行った作業停止指示についての審査請求であるが、行政指導であって処分(本件では許可取消)ではないというのが県側主張だが、審査請求対象となりうる。


○行政不服審査法 第2条  

この法律にいう「処分」には、各本条に特別の定めがある場合を除くほか、公権力の行使に当たる事実上の行為で、人の収容、物の留置その他その内容が継続的性質を有するもの(以下「事実行為」という。)が含まれるものとする。



取消処分を前提とする作業停止指示であることから、行政指導であっても事実行為と認定する余地はある、というのが農水省側判断であろう。実質的に命令に近いということであり、処分性があるとみている。

執行停止については、34条規定による。


○行政不服審査法 第34条  

審査請求は、処分の効力、処分の執行又は手続の続行を妨げない。
2  処分庁の上級行政庁である審査庁は、必要があると認めるときは、審査請求人の申立てにより又は職権で、処分の効力、処分の執行又は手続の続行の全部又は一部の停止その他の措置(以下「執行停止」という。)をすることができる。
3  処分庁の上級行政庁以外の審査庁は、必要があると認めるときは、審査請求人の申立てにより、処分庁の意見を聴取したうえ、執行停止をすることができる。ただし、処分の効力、処分の執行又は手続の続行の全部又は一部の停止以外の措置をすることはできない。
4  前二項の規定による審査請求人の申立てがあつた場合において、処分、処分の執行又は手続の続行により生ずる重大な損害を避けるため緊急の必要があると認めるときは、審査庁は、執行停止をしなければならない。ただし、公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれがあるとき、処分の執行若しくは手続の続行ができなくなるおそれがあるとき、又は本案について理由がないとみえるときは、この限りでない。
5  審査庁は、前項に規定する重大な損害を生ずるか否かを判断するに当たつては、損害の回復の困難の程度を考慮するものとし、損害の性質及び程度並びに処分の内容及び性質をも勘案するものとする。
6  第二項から第四項までの場合において、処分の効力の停止は、処分の効力の停止以外の措置によつて目的を達することができるときは、することができない。
7  執行停止の申立てがあつたときは、審査庁は、すみやかに、執行停止をするかどうかを決定しなければならない。



本件では、審査申請人=沖縄防衛局、処分庁=沖縄県、審査(上級)庁=農水省であり、34条2項、同4項、同7項により、今回の執行停止を決定し両者に通知したものと考えられる。


審査対象及び審査(上級)庁としての妥当性はどうであろうか。


○水産資源保護法 第35条の二  

第四条第一項、第二項、第七項及び第八項並びに第三十条の規定により都道府県が処理することとされている事務は、地方自治法 (昭和二十二年法律第六十七号)第二条第九項第一号 に規定する第一号 法定受託事務とする。



沖縄県漁業調整規則の根拠が4条1項及び2項にあるなら、1号法定受託事務であることから、審査庁は必然的に農林水産省及び大臣となる。

従って、
・処分性は行政不服審査法2条の処分の定義(=事実行為)により該当
・審査庁は水産資源保護法35条の二により農水大臣
・執行停止決定は行政不服審査法34条による

外形的には、手続の要件を満たしているものと思われる。


3)今後の行政不服審査法上の流れと訴訟提起の関係

沖縄県は作業停止指示に続き、規則39条の岩礁破砕許可の取消処分を実行したとしても(農水大臣主張では、既にその権限も執行停止されている、というものである)、効果を持たない行政行為とみなされるだろう。実質的に取消処分と同等(事実行為)ということで審査請求・執行停止申し立てなのであるから、執行停止決定後には知事権限発動は無効(多分、不当でも不法でもなく、無効)である。


裁決が農水大臣より出されるまでは、訴訟提起も不可能である。


○水産資源保護法 第35条

農林水産大臣又は都道府県知事が第四条第一項又は第二項の規定に基づく農林水産省令又は規則の規定によつてした処分の取消しの訴えは、その処分についての異議申立て又は審査請求に対する決定又は裁決を経た後でなければ、提起することができない。



故に、漁業調整規則に基づく沖縄県のできることは、待つことだけである。
裁決が出ないと訴訟提起できない。
裁決で防衛局の言い分が否定されることは想定できない(農水省が防衛省の進める米軍基地建設を停止するほどの強権を発動することなど考えられない)ので、裁決結果は見えている。

行政不服審査法での再審査請求が当初の審査請求人(本件では沖縄防衛局)にしか認められていないなら、裁決が出た後の沖縄県の手段は行政訴訟しかないだろう。機関訴訟ということになるわけだが、原告適格が問題とされる可能性はある。

他には、国地方係争処理委員会の審理を申し立てる、といったことだろうか。

>http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/singi/keisou/kisoku.html


裁決が出る前に審査を申し出たとしても、農水省の執行停止に不服とする主張くらいしかなく、そもそもの漁業調整規則39条に基づく取消処分の妥当性には回答が得られない。農水省の裁決後に係争委員会に審査申出をしても、国の一組織であることから、期待できるような答えが来るとは考えない方がよい。


従って、農水省の裁決が出るまでは、岩礁破砕許可を根拠としての沖縄県側の対抗策はほぼ封じられていると思える。
裁決で負けた場合、訴訟提起は困難であるか(処分庁が審査庁を相手に機関訴訟を認められるか、都道府県が国を被告として取消訴訟を提起する場合の原告適格を裁判所が問題としないか)、できたとしても岩礁破砕許可取消が認められるだけであって、埋立工事を止めることができるわけではない。

工事法に制限がでてくるだけであって、基地は建設できてしまうということである。