一本の作品に、何度もすみませぬ。
というのも、鑑賞後に色々とレビューを読んでいて、今回の映画に関してはその内容に驚くことばかりだからです。
先日も書きましたが、賛否以前に「何が言いたいのかわからなかった」という感想や、「煙草が云々」に代表される道徳の授業のような感想。
そして先ほどふと気付いたのが、そもそも、「もしかして今の世の中って、自分が映画の主人公に共感できなければ感動できない人が多いのだろうか?」ということです。
たとえば私が二郎の立場だったら、殺人兵器となる零戦を作ること自体にものすごく悩むだろうし、また仕事よりも愛する人との時間を大切にすると思います。
ですが、当然ですが、私と二郎はまったく違う人間です。生きている時代も違う。
なので私は、「私だったらそうはしないけれど、この主人公ならするだろう」という風に観ます。そして映画全体の言おうとしていることを、客観的に考えます。それに私が感動できたかどうかが、「良い映画」か「そうでない映画」かの基準です。
しかしレビューを読んでいると、自分の考え方と全く違う行動をとる二郎を「薄情だ」「無責任だ」「理解できない」という理由で映画の出来を評価しているものが非常に多く見受けられ、驚きます。
プラスのレビューも同様です。
二郎の性格や作品のテーマを、自分が共感できるように、スクリーンに描かれている以上に「道徳的に良い方向」に解釈しようとしているレビューを多く見かけます。
そういう人達は、映画の中の「ピラミッドのある世界の方がいい」という言葉をどう解釈しているのだろうか?と本当に不思議です。
これは二郎の台詞ではありませんが、二郎もそういう世界に惹かれていることは明らかです。
この言葉はもちろん、ピラミッドの二面性を意味しているわけですよね。その美しさと、その建設のために失われうる数えきれない命。その二面性、危険性を承知の上で、「それでも」ピラミッドのある世界の方がいい、と言っているのです。
二郎は積極的に「殺人兵器」を作ったわけではありませんが、そういう矛盾も抱えた人間なのです。
決して完全無欠なヒーローなどではない。
※ちなみに私が以前ピラミッドの例えを微妙だと書いたのは、ピラミッドは王の「夢」の象徴というよりも、「権威」の象徴というイメージの方が強いからです。余談。
そんな二郎のエゴイズムはエゴイズムとして、それも含めてこの映画の重要な一部分であるのに、どうしてそれを客観的に観ることができないのでしょう。
この映画は決して二郎の優しい性格を描こうとしているわけでも、戦争の悲惨さを描こうとしているわけでも、菜穂子との純愛を描こうとしているわけでもないでしょう。
この映画が描きたかったのは、生まれ落ちた時代の中で、精一杯に“夢”を追って生きた一人の青年の姿です。
それ以上でも、以下でもありません。
宮崎監督ご自身が述べられているとおりです。
もちろんこれも私一個人の感想にすぎませんから、これが「正しい」ということではないでしょう。
映画の感想なんてどれも主観的なものですし。
とはいえ、作品それ自体に対して「もうちょっと鳥瞰的に観られないものかねぇ」と多くのレビューを読んで感じたので、ここに書いてみた次第でございます。作品と自分との距離感、といいますか。うまく言えないのですが・・・。
そういう視点からこの映画を観た上でのレビューは批判的なものでも私は理解できるのですが、マイナスレビューであろうとプラスレビューであろうと“それ以前”の内容のものがとても多いことに、残念というよりも、日本の将来が不安になりました・・・。
さて、話は変わり。
先ほど知ったのですが、鈴木プロデューサーの『風に吹かれて』というインタビュー形式の本の中で、こんなエピソードが語られているそうです。
鈴木 「宮さんの考えた『風立ちぬ』の最後って違っていたんですよ。三人とも死んでいるんです。それで最後に『生きて』っていうでしょう。あれ、最初は『来て』だったんです。これ、悩んだんですよ。つまりカプローニと二郎は死んでいて煉獄にいるんですよ。そうすると、その『来て』で行こうとする。そのときにカプローニが、『おいしいワインがあるんだ。それを飲んでから行け』って。そういうラストだったんですよ。それを今のかたちに変えるんですね。さて、どっちがよかったんですかね」
鈴木 「やっぱり僕は、宮さんがね、『来て』っていってた菜穂子の言葉に『い』をつけたっていうのはね、びっくりした。うん。だって、あの初夜の晩に『きて』っていうでしょう。そう、おんなじことをやったわけでしょ、当初のやつは。ところが『い』をつけることによって、あそことつながらなくなる」
興味深いですねぇ。
私は、そうだなぁ、やっぱり今のラストの方が好きですかね。
菜穂子の言葉が『来て』であっても『生きて』であっても、この作品が最も描きたかったであろう「その時代の中で力を尽くして生きた二郎の十年」には何の変わりもないので、そういう意味ではどちらのラストでも大差はないと思う。でも、現実として二郎の夢がもたらした決して小さいとはいえない重い結果がそこに存在している以上、これから二郎がどのような人生を歩むにせよ、自分のしたことを悔やむにせよ悔やまないにせよ、彼は生きて、自分の“夢”がもたらした結果を見続けていくことが、この作品のラストとしては良いように思います。
さっさと死んで菜穂子の待っている世界に行ってハイ終わり、というのはやはり違うのではないかな、と。
しかし、よくぞこの映画を作ってくれました宮崎監督、と本当に思います。
監督は「戦闘機が大好き」で「戦争は大嫌い」という矛盾を抱える自身の内面を、この映画でありのままにさらけ出してくれました。その矛盾を解消できないまま生きてきた、その矛盾ごと「自分」なんだと、隠したかったであろうそういう部分を、ジブリのファンである私達に見せてくれました。映画のラストで「じたばたしていく」二郎の姿は、宮崎さんご自身の姿でもあったのでしょう。
世の中にはオブラートに包んだ方がいいこともありますが、包まなくていいことだってあります。
この映画は、包まないことによって傑作となった映画だと、私は思います。
そして傑作の価値は、子供にとっても、大人にとっても、同じですよ。
それを理解するのがいつかだけの違いです。
※『風立ちぬ』 1
※『風立ちぬ』 2