風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

アンドラーシュ・シフ ピアノリサイタル @東京オペラシティ(9月29日)

2023-09-30 22:58:04 | クラシック音楽




J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集第1巻から 前奏曲とフーガ第1番 ハ長調 BWV846

J.S.バッハ:カプリッチョ「最愛の兄の旅立ちに寄せて」BWV992
モーツァルト:ピアノ・ソナタ第17(16)番 変ロ長調 K.570
ハイドン:アンダンテと変奏曲 へ短調 Hob.XVII:6
ハイドン:ピアノ・ソナタ 変ホ長調 Hob.XVI:52
(20分間の休憩)
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第21番 ハ長調 op.53 「ワルトシュタイン」
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第30番 ホ長調 op.109
J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV988から アリア(アンコール)


シフって3年に1回くらいの頻度で来日しているイメージだったので、昨年に続いて今年も聴くことができて本当に嬉しい

今年もプログラムは当日発表&終演時間未定で、ご本人によるトークをまじえた進行。
今回は奥様の塩川さんではなく、シフのお友達の若いピアニストの男性が通訳をされていました(塩川さんは客席におられました)。

前半。
シフの格調高くて親密なバッハが本当に好き。。。。
カプリッチョ(昨年は2回弾いていたけど、今年は一回だった)もモーツァルトもとてもよかったけど、ハイドン2曲がしっとりと素晴らしかったな~~~
今回もシフは、「不当に過小評価されている作曲家」だと。
「モーツァルトの音楽は歌う(sing)が、ハイドンの音楽は語る(speak)」、「ソナタ形式の生みの親。小さなものから大きなものを作り出した」とも。
『アンダンテと変奏曲』、ペライアでも聴いたなぁ(シフとはまた違う弾き方で、あちらも素晴らしかった)・・・。お元気かなぁ・・・。

後半は、さらに圧巻でした。
シフのベートーヴェンをこよなく愛しているので、初めて聴けた『ワルトシュタイン』、嬉しかった
シフはメロディアスな曲もとても良いけど、こういう曲もほんっっっと素晴らしい。
続くソナタ30番、アンコールのゴルトベルクのアリアまで、完全に「シフの世界」の住人に。
ソナタ30番は「私の最も好きな作品」と。

同じホールでプレトニョフを聴いたばかりだったので、ピアノもカワイとベーゼンドルファー(今回もホール所有のインペリアル)で異なるけれど、それ以上にピアニストの音の個性の違いをはっきりと感じられました。
シフの音ってこんなに温かかったんだなぁ、と。
誠実な温かみに、泣きそうになってしまった。
あ、プレトニョフの音が不誠実だとか温かくないというわけではないです。
ただ、私はもともとシフの音にそれほど温かみという印象は持っていなかったので、両者を比べて初めて、その誠実な真面目さと温かみの強さをはっきりと感じることができた、というか。

今日のインペリアルの響き、よかったなぁ。。。
ホールの天井の空間に、はっきりとその姿が見えました(これはいつもか)。美しかった。。。。。

終演は22:15頃。駅に着いたら22時半になっていました。
昨年より15分くらい早いけれど、体感的にはあっという間だったので、アンコール一曲だけなのにそんなに遅い時間になっていたことに驚いた。

川崎も伺います




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ミハイル・プレトニョフ  ラフマニノフピアノ協奏曲全曲演奏会<第一夜、第二夜> @東京オペラシティ(9月13、21日)

2023-09-28 22:52:55 | クラシック音楽



【第一夜(9月13日)】
ラフマニノフ:

ピアノ協奏曲第1番 嬰へ短調 Op.1
ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 Op.18
10の前奏曲 op. 23より 第4番 ニ長調(アンコール)

【第二夜(9月21日)】
ピアノ協奏曲第3番 ニ短調 Op.30
ピアノ協奏曲第4番 ト短調 Op.40
パガニーニの主題による狂詩曲 Op.43


二夜にわたるプレトニョフのラフマニノフピアノ協奏曲全曲演奏会。

いやぁ、物凄いものを聴いてしまった。。。。。。
今年はヴィルサラーゼのシューマンとこのプレトニョフのラフマニノフを聴けただけで、もう1000%満足です(新シーズン始まったばかりですけど)。

プレトニョフのピアノはスクリャービン、ショパンと聴いてきたけど、ラフマニノフ、よかったなぁ。
演奏は常にクールなイメージのプレトニョフだったけど、今回、とても人間的な体温を感じさせてもらえたような気がする。
低音は決してロシア系の重厚音ではないのに、あの暗み。どういうテクニックなんだ。
緩徐楽章の音が空間に溶ける美しさ。
決して力を入れて弾いていないにもかかわらずの、スケールの大きさ。
自然さ。
軽やかなのに深い深い美。
その指から生み出される異次元の音響空間。
今回も時々鼻歌歌ってた

カワイの音、プレトニョフが惚れ込んでる理由が改めてよくわかる。足すものも引くものもない、とても素直な音色。なのにとてつもなく美しい。
ただ前回のリサイタルよりも響きが「柔らかさ>透徹感」気味に調律されていた気がするのは、ラフマニノフバージョンだったのかな

高関さん&東フィルも、キレよく濃厚で素晴らしかった。
特に第二夜は、弦のこの世ならざる音の美しさにしばしば息をのみました。
プレトニョフも時折ウンウンと笑みを浮かべて頷いて、満足そうだった
高関さんのSNSによると、プレトニョフの自由奔放さに相当振り回されたようで(入念なリハをしても本番では全く違う演奏をしたり)、ピアニストとの間の即興的な対話が目に見えるような演奏でした。なので決してキズのない”完璧”な演奏ではなかったけれど、では”完璧”って何なのかと今回も思う。
でもって、高関さん、謙虚で良い人&良い指揮者だなぁ。
入退場時も後ろからプレトニョフに拍手をされてて、完全にプレトニョフを立てておられました。

プレトニョフは以前海外のインタビューで「指揮者としてピアノ協奏曲を振るとき、ピアニストの意見は尊重しますか?」と質問されて、こんな風に答えていました。

How do you feel as a conductor when you conduct another pianist in a work you normally play yourself? Do you give him full freedom? 

I do. A soloist is a god. He has worked on this music for a year or two, he has prepared his own interpretation. I can help him to understand what he wants to say, what his view is. If I don't like his interpretation, I won't call him again. But while we're on stage together, I will be a part of his world. 
(RIO)

間違いなく今回も、オケの演奏にはプレトニョフの解釈が強く反映されていたのだろうと推測する(高関さんも「リハは指揮者が二人いるようだった」と仰っていた)。
ただyoutubeでプレトニョフのピアノ協奏曲の最近の演奏を色々聴くと、たとえばマケラとの2番などは、オケの演奏が今回とは全然違うのよね。マケラの方がずっと大人しい感じ。そして演奏後のプレトニョフの表情も、今回の高関さんとの方が満足そうに見えた。マケラはまだ若いから、ベテランピアニストに遠慮気味になってしまったのかな。

今回二夜にわたってプレトニョフの演奏で一番~四番、パガ狂と聴いてきて、ラフマニノフの人生をその音で辿ってきたように感じられました。
彼がそのときに見ていた景色、そのときに感じていた感情を、音楽作りの変遷を、ロシアからアメリカまで一緒に辿ったような。
そして「ラフマニノフ」という作曲家とその音楽の本質を、ストレートに強烈に感じさせてもらえたように感じた。ラフマニノフってこういう作曲家だったんだ、と初めて知ったような気がした。
第二夜の休憩時間に廊下で若い男性二人が「いままで聴いてきた三番はなんだったんだろう。ラフマニノフってこうだったんだな、って。ラフマニノフはこういう風景を見ていたんだな、って」と言っていたけど、全くの同感。

先ほども書いたとおり、オケにもピアノにも決してキズがなかったわけではなく(特に3番の前半)。
でも最後には、そんなことは感動には全く関係ない、と感じさせてくれる演奏会だった。
キズがあることはその音楽の美しさや感動を損なうことにはならないのだと。人間もきっと同じ。
音楽は本当に人生の色んなことを教えてくれる。

一夜目のアンコールの前奏曲、プレトニョフはこんなに優しい音を紡ぐ人だったのか、と。。。
そしてパガ狂の18変奏には、トリップ状態で陶酔してしまいました。音楽に酔わされた。

二夜にわたってプレトニョフのラフマニノフを聴きながら、「音楽は私なんかよりずっと大きい」と感じました。
今の悩みとか全てが小さなことに感じられてきて、その瞬間、自分と音楽だけになっていた。別世界にいた。
そう感じさせてくれたプレトニョフに、ただただ感謝の気持ちでいっぱいになりました。

そして、私なんかがこんな演奏を聴かせてもらっていいのだろうか、とも感じた。
私はこの美しさを聴かせてもらうに値する人間だろうか・・・?と。
それは道徳的に正しく生きているか?という意味ではなく、この音楽の美しさに対して恥ずかしくない自分だろうか?ということ。
私はこの美しさに値するような人間でいたい、と強く感じた。
卑屈になんかなっていてはこの音楽の美しさを冒涜することになる、この美しさに感動した自分を冒涜することになる、と。
そんな風に心から感じさせられました。

そしてBCJの古楽器を同じ会場で聴いたばかりだったので、それが今は楽器がこういう音を出すようになって…と、クラシック音楽の歴史にまで思いを馳せたりもしました。

本当に、なんて夜だろう・・・


Verbier Festival 30 Anniversary Gala. 10 pianists play Rachmaninov's Preludes, op.23/ 1-10
👆今年のヴェルビエ音楽祭より。プレトニョフは今回のアンコールと同じ4番で、13:22~。ピアノはスタイウェイ。

Nelson Freire | Rachmaninov: Rhapsody on a theme of Paganini, op.43 - LIVE 2004

👆フレイレのパガ狂もとってもいいので、ぜひ聴いて!

Rachmaninov - pianoconcerto nr 4 (Nelson Freire live London )

👆ラフ4も!





以下は、shigeru kawaiの調律師の山本有宗さんのSNSより。
アルゲリッチ、フレイレの追悼コンサートで弾いてくれたんですね…。



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バッハ・コレギウム・ジャパン 第157回定期演奏会 @東京オペラシティ(9月17日)

2023-09-23 15:15:06 | クラシック音楽




シューベルト:交響曲第7番「未完成」
シューベルト:ミサ曲第5番

このチラシ↑、ちょっと怖い笑
鈴木雅明さん曰く「目がこわい!とか言った人もいますが、これがシューベルトの新しいイメージだ!強烈な色の対比は、長3度転調のショック」とのこと。
実際に演奏を聴いて、新しいシューベルトのイメージ、わかった気がしました。

コロナの後遺症で体調ボロボロのなか出かけたけれど、行ってよかった。
シューベルトをオリジナル楽器で演奏するとこうなるのかと。
モダンオケがピリオド奏法で演奏するのとは、全然違う。
体験しなければわからないことって、ありますね。

古楽器の演奏会って「作曲家の等身大の姿」を感じることが多いですが、今回も25歳のシューベルトを感じたというか。未完成もミサ曲も、その素朴で親密な音にシューベルトの時代にシューベルトの時代のオケが目の前で演奏しているような錯覚を覚えました。
そして、シューベルトって実は感情豊かで劇的な面のある人だよね、と改めて思い出させられた。
デモーニッシュと形容されることもあるシューベルトだけど、今回はドラマティックな面を強く感じました。ベートーヴェンを聴いているように感じることもしばしば。

鈴木さんの劇的だけど下品にならない音楽作り、今回も素晴らしかった。ドラマティックかつ調和のとれた美。
ミサ曲では、はっとさせられる響きを随所で感じました。
キリスト教(というか一神教)アレルギー気味な私なので、モダンオケのような響きであまり壮大に演奏されると抵抗感を感じてしまったかもしれないので、こういう響きだとミサ曲でも自分の音楽として感じられる。

モダン楽器による演奏に比べてあちらの世界にトリップ状態になるような怖いような美しさは後退するものの、別のトリップ状態になるような美しさがある。
音がとても人間的なんですよね。
楽器の音が均一でない(雑味がある)からだろうか。
古楽器オーボエなどの独特の音色。
劇的な、でも人間的に美しい音楽。

『グローリア』の追い込み、素晴らしかった。もはやミサ曲じゃないみたい笑
『サンクトゥス』でも、はっとする美しさが聴こえてきました。

そして『アニュス・デイ』。
ドラマティックに演奏されてきたこのミサ曲の最後の最後、「dona nobis pacem(平和を与えたまえ)」の上品な音の閉じ方、沁みたなぁ。。。

歌も、特に合唱の皆さん、素晴らしかったです。

来年1月のドイツレクイエムも楽しみ















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アガサ・クリスティー 『春にして君を離れ』(中村妙子 訳)

2023-09-06 00:17:55 | 




※ネタバレあり

アガサ・クリスティーが大好きで100冊以上読んでいる友人に「春にして君を離れを読んだよ~」と報告したら、「いきなりそれ(笑)!?名前は知ってるけど読んだことない」との返信が。
そんな特異な作品なのか。たしかにミステリーではないけども
でも少しずつ真実が露になってくる過程はまるでミステリーのようで、「最後はどうなるんだろう??」とページをめくる手が止まらず一気に読んでしまいました。
さすがはミステリーの女王

クンデラの『存在の耐えられない軽さ』に続いてこの作品を読んで、アガサ・クリスティーの良い意味での女性作家らしさ、冷徹さのようなものを感じました。
そして、『存在の~』に続いて、私の心に引っかき傷を残す本だった。。。

私にとってこの本の何が恐ろしいって、アガサの人間心理に対する洞察力はもちろんのこと、何より最後の展開が恐ろしい。
砂漠の中で迷ったジョーンが、生きるか死ぬかの異常な状況の中で、今まで目を背けていた、認めたくない自身の姿と向き合い、心から反省し、ロンドンに戻ったら生まれ変わって新たな生活を生きようと決意する――というところまでは、まぁよくあると言えばよくある展開。
でも、それほどの状況に追い込まれることでようやく出会うことができた本当の自分、神が出会わせてくれたと言ってもいい本当の自分、そんなとてつもないチャンスを手にできた彼女が、ロンドンに戻り、(見せかけの)平安な日常に戻った途端に、全てをなかったことにして、再び昔の自分に戻ってしまう。彼女は、新たな人生を歩むという困難な道ではなく、またしても安易で楽な道を選んでしまう。つまり、これまでの自分を変えない道。見たくない現実から目を背け、それらを存在しないものとする道。自己正当化、自己満足の道。それこそが砂漠の中で彼女が最も反省した生き方だったはずなのに、またしても彼女は勇気を出して変わることをせず、怠惰で楽な生き方を選んでしまう。
喉元過ぎれば・・・。
人の一生は短い。
おそらく二度とないこんな大きなチャンスを手にしても変わることができなかった彼女は、もうこの先変われることはない…。

あれほどの衝撃をもって辿り着いた真実なのに、再び日常に戻ったくらいで人は忘れてしまうものだろうか。
・・・おそらく答えはイエスだ。その方がずっと楽だから。
結局人は、どれほど強く心の中で「変わろう」と決意しても、それだけで変われるほど強い生き物ではないのかもしれない。言い訳なんていくらでも作れる。とにかく行動に移さなければ、行動を変えなければ、人は変わることはできないのだろう。
ジョーンが帰りの鉄道の中で出会った侯爵夫人サーシャ(※ウィーンへ成功例の少ない大きな手術を受けに行く途中だという)は、そのことをよくわかっていた。人間という生き物の弱さと甘さを。
だからジョーンの告白と決意を聞いたときに、重々しい口調で「神の聖者たちにはそれができたのでしょうけれどね」と言ったのだ。

人間が自分を変えることは、それほどに難しい。特にある程度の年齢になって、その人の根本に関わる部分を変えることは、どれほどの勇気と行動力が必要なのだろう。どれほどの素直さが必要なのだろう。
でも私は、それができた人を知っている。
その人は、ちょうど今の私くらいの年齢のときに、それをした。そして本当に変わった。変わらなければ、その人にとって最も大事なものを失う、壊れる、という状況ではあったけれど。
当時20代だった私はそのことの凄さに気づいてはいなかったけれど、当時もそのことを尊敬したものだった。
最も変わらなそうな人だったのに、本当に変わった。
だから私は、人は聖者ではないけれど、変わることができるということを知っている。

私も、、、変われるだろうか。
過去の自分は変えられないけれど、未来の自分は変えられるだろうか。

こんな恐ろしい小説、私だったら書けない。とても書くことなんかできない。
ずっとそう思いながら読み進めて、最後は更なる恐ろしさで。
怖くて厳しくて、でもこの本は私達に救いをくれる。他の方法では決してもらえない形の救いを。
アガサ・クリスティー。なんて作家だろう。


p61
途中かわされるであろう会話を、ジョーンはあらかじめ想像していた。彼が愛を打ち明けたら、自分はしとやかにやさしく、お気持はありがたいがと、少し――ほんの少し残念そうに拒むのだ。心を打つような言葉も、いくつか胸にたたんで用意しておいた。マイケルが後で思い出して、そっと胸に秘めるような、奥ゆかしい余韻をもつ言葉を。・・・マイケル・キャラウェイは歌でも歌おうというつもりか、しきりに突拍子もない大声を張りあげていた。森のはずれからクレイミンスター・マーケット・ウォルピングの広い道路に出る直前にキャラウェイは足を止め、冷ややかな目で彼女を眺めてつくづくといった。
「あなたって人は、手ごめにでもされればいっそためになるんじゃないかと思いますがね」
そして怒りと驚愕でものもいえずに立ちつくしている彼女を尻目にかけて、快活な口調で付け加えたのだった。
「ぼくがその役を買って出て――あなたがそれで少しは変わるかどうか、見とどけたいものだがなあ」
こう云い捨てるなり、歌の方は諦めたらしく、愉快げに口笛を吹き鳴らしながら広い道をすたすたと歩きだした。

p137
しかし会見が終りに近づくに及んで、ギルビー先生はピチカートで語りはじめるのであった。
「これは、とくにあなたにいっておきたいことなのです。安易な考えかたをしてはなりませんよ、ジョーン。手っとり早いから、苦痛を回避できるからといって、物事に皮相的な判断を加えるのは間違っています。人生は真剣に生きるためにあるので、いい加減なごまかしでお茶を濁してはいけないのです。なかんずく、自己満足に陥ってはなりません。・・・こんなことをいうのは、ここだけの話だけれど、あなたには少々自己満足の気味があるからです。そうは思いませんか?自分のことばかり考えずに、ほかの人のこともお考えなさい。そして責任をとることを恐れてはいけません。・・・人生はね、ジョーン、不断の進歩の過程です。死んだ自己を踏み台にして、より高いものへと進んで行くのです。痛みや苦しみが回避できないときもあるでしょう。そうした悩みは、すべての人が早晩経験するものなのですから。主イエス・キリストすら、人の世の苦しみに曝されたもうたのですよ。主がゲッセマネの苦しみを味わいたもうたように、あなたもやがて痛みを知るでしょう――あなたがそれを知らずに終わるなら、それはあなたが真理の道からはずれたことを意味するのですよ。疑いに沈むとき、苦難に会ったときに、どうか、わたしのこの言葉を思い出してください」

p155
何をそう興奮することがあるのかしら、こうジョーンがいうとロドニーは答えた、何もありゃしない、ただ、何か事をする前にすべてを綿密に計算し、けっして冒険をしない、慎重きわまる世間というものにつくづく嫌気がさしただけだと。

p163
一度ジョーンは、彼にこういったことがある。「弁護士というお仕事がら、あなたは人間関係のいざこざにはいい加減にうんざりしていらっしゃるはずだと思いますのに」
ロドニーはしみじみいった。
「そう思うだろうがね。ところがそうでもないんだな。田舎の弁護士ってやつは、人間関係の破れ目を、医者を除けば誰よりもよく知っているんじゃないかなあ。それだからかえって、人間一般に深い同情をもつようになるとも思える。いかにも脆い、不安や疑惑や欲心に取りつかれやすい――そうかと思うと、びっくりするほど高潔で勇敢なところを見せる人間という矛盾にね。これがまあ、唯一の埋め合わせだろうな――より広い共感をもつようになるということが」

p177
「君にはエイヴラルがわかっていないんだよ。あの子は分別よりも心情で行動する人間だ。誰かを好きになれば、心の奥深い所で恋をする。だからその傷は永久に残るだろうね」

p271
春にして君を離れ……
そうだわ、何年も前の……あの春……わたしたちが愛しあったあの春から、長い長い時が流れすぎた……
わたしは一つのところにじっとしていた――ブランチのいう通りだわ……聖アン女学院卒業の女学生、わたしは今もそのままだ。安易な生活を送り、面倒なことは考えようとせず、自分自身に満足しきり、苦痛を恐れ、避けてきた……
勇気がなかったのだ……
ああ、何ができよう、今となってわたしに何ができよう?
ジョーンは思った、ロドニーのところに行くのだ。行って、そして、いうのだ。「赦して下さい……わたしが悪かったのです……」と。そして、へりくだっていうのだ、「赦してください。知らなかったのです。本当に」と。

p282
「人と話をするって楽しいものですわ。そうお思いになりません?あたくしはどんな人にでも興味がありますの。それに人間の寿命って限られておりますしね。いろいろな考えや経験を交換しあう必要があると思いますの。人類愛っていうものがどうも欠けている、この地上にはって、あたくし、よく申しますの。あたくしの友だちはいいます。”だってサーシャ、どうしても愛することのできない人たちだっているわ。たとえばトルコ人とか、アルメニア人や――レヴァント人は”って。でもあたくしはいいますのよ、いいえ、あたくしは人間ならみんな大好きって」

p284
「あたくしがふっと頭に浮かんだこと――たとえば何か悲しいことがおありになるとか、ご主人があなたを裏切ったことはないのかとか、あなたご自身、ほかの男の方と関係をおもちになったことはとか、あなたにとって一生で一番美しい経験はどういうものだったか、神さまの愛を実感していらっしゃるか――といったようなことをお訊ねしたら、どうでしょう?あなたはきっと侮辱をお感じになって、ご自分の殻に閉じこもっておしまいになりますわ。でも今申し上げた質問の方が、本当はずっと面白うございますのに」

p330(解説 栗本薫)
この二人は結局似たもの同士であるのだ。・・・ロドニーは、「優しさ」と名付けられたその彼自身の現実逃避によって彼の一生を失ったのだ。そのことを彼はまた、ちゃんと背負ってゆかないわけにはゆかないだろう。彼はいつでも牧場を経営することもジョーンに身勝手であることをやめるよう、さもなければ彼女と暮らすのをやめるよう、選択できたのだ。
むろんそれは結果論だ。だからこそこの小説は限りなく恐しく、そして哀しい。ジョーンの一生はもうさだまってしまった。最後のチャンスをジョーンは自ら長い友達である怠惰と怯懦に破れて手放した。そしてロドニーもまた。かれらはいずれそれなりの平安に到達するかもしれない。そして、このような人生にも終わりがくるだろう。神は同じように平安な死を与えるだろう。
私はそのように生きたくない、と思う。——このようなことを考えさせた小説は他に読んだことがなかった。

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ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(西永良成 訳)

2023-09-03 16:24:55 | 




※ネタバレあり

映画の方はむか~し(20代の頃)一度だけ観たことがあって、でもストーリーはラスト以外は覚えてなくて。
あのラスト、人間の人生の幕が予期せぬ一瞬に無情にストンとおろされる感じが、すごくリアルで。
なんとなくフランス映画のように記憶していたけど、今調べたら、アメリカ映画だった。言語も英語。

当時映画を観たときに、「存在の耐えられない軽さ」というのは、人生や人の命の儚さのことを言っているのだろうな、となんとなく思ったのを覚えている。
でも先日クンデラが亡くなったニュースを知って原作を読んでみようと思い立ち(今このきっかけで読まないと一生読まない気がした)、読んでみたら、「存在の耐えられない軽さ」とはそんな意味では全くなかったのだった。
プラハの春以降のチェコの状況が思いのほか深くストーリーに関わっていることも知ったけれど、それはストーリーの再重要部分ではない。

一生の時々の中で私達は何らかの人生の選択をしなければならなくて、それが正しいか否かは誰にもわからない。なぜなら人生は一回きりしか経験できないから。

小説の冒頭で作者は、ニーチェの「人生は永遠に繰り返される、だから一つ一つの選択はとてつもなく重くなる」という永劫回帰の思想を紹介する。続いてパルメデスの「軽いものはポジティブであり、重いものはネガティブである」という思想を紹介し、果たして本当にそうなのであろうか?という疑問を提起する。
そして読者は4人の男女が繰り広げる人生の物語を作者とともに眺めながら、この疑問について考えてみることになる。

この疑問に対してクンデラは明確な結論を出しているわけではないけれど、それでも、人生の目的が「個人として幸福であること」であるとするなら、作者は「重さ」の方に、トマーシュとテレザの生き方の方に共感を覚えている、という風に感じられる。
池澤夏樹さんは本に付帯されたコラムの中で「ぼくはサビナが好きだ」と書かれていて、それは私も同感だし、私は明らかにサビナのようなタイプだけれど、それでも池澤さんが「作者は格別の愛を彼女に注いでいるし、そういう我儘な生きかたが彼女を不幸にしないように配慮している。明らかな贔屓」と書いているようには、私は感じられなかった。
「個人としての幸福」を人生の最期に感じているのは、サビナではなく、もちろんフランツでもなく、トマーシュとテレザであるように作者は書いている。
社会的義務から切り離された自由を含め、彼らは結局は自らそれを選択しているし、偶然の積み重ねの上にあるたった一度きりの綿毛のような「軽い」人生の中で、愛する人の人生の「重さ」を引き受けることによって得られる、それでしか得られない幸福を感じている。何より、彼らは相手を心から愛している(たとえトマーシュが肉体的に幾多の浮気をしたとしても、テレザへの感情が愛でなければ何だというのだ?)。相手の人生を責任とともに引き受けたことで相手への愛情が増している一面もあるかもしれないけれど、それでも根本には最初から最後まで、唯一の相手への愛情がある。その点で、サビナがフランツに対して持っていた愛情とは少し種類が異なるように私は感じるのだけど、どうなのだろう。
それともトマーシュとテレザの間の愛情も、「偶然」の結果にすぎないのか。もし偶然違う相手と出会っていたら、その相手と恋に落ちたのだろうか。それならテレザはともかくトマーシュはとっくに別の誰かと本気の恋に落ちていてもいいはずでは?と思ってしまう。やはり相手がテレザだったから、という理由は大きいと思うのだけどな(彼がテレザに感じた「同情」は、他の女性には感じていなかったものだ)。たとえその出会いは偶然の結果だったとしても。その「偶然」にしても全てが真の偶然ではなく、テレザは自身の望む運命を作り出すために、「偶然」という状況を敢えて作り出してさえいる(ホテルの6という部屋番号と自身の退勤時間の6時を敢えてかけたり、その時に流れていたベートーヴェンの音楽に意味を与えたり)。

結局我々の人生は一度きりしかなく、未来は誰にもわからないのだから、「いまここ」に生きている自身が全てで、そのような自分が、制限された選択肢の中でそれでも懸命に考えて自分にとってベストと思う選択をする以外になく、良し悪しの結果は(自分の力の及ばないところで)後からついてくるものにすぎない。その結果が丁と出ようと半と出ようと、人はそれを受け入れるだけ。その場所でまた次の選択をしながら、その結果を受け入れながら、生きていくだけ。

とまあ色々書いたけれど、正直とてもわかりにくい小説で、ちゃんと理解できているとは全く言えないのだけど。
私は最近すこし本の読み方が変わってきていて。
本当に自分にとって読む価値さえなかった本というのは確かに存在するから、それは別として。
「好き」「嫌い」「面白い」「面白くない」だけではなく、中には「決して全面的に共感するわけではないけれど、妙に心に引っかき傷のようなものを残す本」というのがあって。
その引っかき傷は、私の中に何らかの理由があるからで。
その本を読むことで自分の中のそういう部分に気付かせてもらえること、向き合うきっかけをもらえること、というのは実はとても貴重なことなのでは、と最近思うようになった。
ただ日常を生きているだけではなかなか向き合えないこと、そのきっかけも勇気も余裕も持てないこと。
そういうものを、本はサラッと見せてくれたりする。
突然向き合わせられるから、ドキッとするし、決して快適な感情だけではないけれど。
そのまま流してしまわずにその引っかき傷に向き合ってみることは、実は一冊の本と出会う意味として、とても価値あることではないか、と思うようになった。
この本も、そんな本の一つ。

しかし本との出会いというのは面白いもので、人との出会いと似ているな、と思う。
この本だって出会おうと思って出会ったわけではなく、クンデラの死のニュースから気まぐれに読んでみようかなと思っただけで、「偶然」に過ぎない。
でも、そこから新しい自分と新しい世界が広がっていく。
出会いを生かすも殺すも自分次第であるところも、似ている。

※追記:
映画の方も再び見てみました。主役三人、ピッタリですね!そして音楽がとても美しい。ソ連の衛星国であるチェコの場面は、映像で観るとより現実味をもって感じられました…。


p8
 もし永遠の回帰がこのうえなく重い荷物であるなら、それを背景として、私たちの人生はそっくり素晴らしい軽さを帯びて立ちあらわれてくるかもしれない。
 だが、本当に重さは恐ろしく、軽さは美しいのだろうか?
 このうえなく重い荷物は私たちを圧倒し、屈服させて、地面に押しつける。だが、あらゆる世紀の恋愛詩では、女性は男性の身体という重荷を受けいれたいと欲するのだ。だから、このうえなく重い荷物はまた、このうえなく強烈な生の成就のイメージにもなる。荷物が重ければ重いほど、それだけ私たちの人生は大地に近くなり、ますます現実に、そして真実になるのである。
 逆に、重荷がすっかりなくなってしまうと、人間は空気よりも軽くなり、飛び立って大地から、地上の存在から遠ざかり、もうなかば現実のものではなくなって、その動きは自由であればあるほど無意味になってしまう。
 では、なにを選ぶべきなのか? 重さか、それとも軽さか?

p12
 彼はさんざん自責の念に駆られていたのだが、やがてついに、自分がなにをしたいのかわからないというのは、とどのつまりごく正常なことではないかと思うようになった。
 人間はなにを望むべきかをけっして知りえない。というのも、人間にはただひとつの人生しかないので、その人生を以前の様々な人生と比較することも、以降の様々な人生のなかで修正することもできないのだから。
 おれはテレザと一緒に暮らしたほうがいいのか、それともずっとひとりでいたほうがいいのか?
 どんな決心が最良なのかを確かめるどんな手立てもない。というのも、いかなる比較もないのだから。すべてはただちに、準備もなく初めて経験される。まるで、役者が一度もリハーサルをせずに舞台に登場するみたいにだ。だが、人生の最初のリハーサルがすでに人生そのものだとしたら、そもそもこの人生にどんな価値があるというのか?だからこそ人生は素描に似ているのだ。いや、「素描」でさえ正しい言葉だとは言えない。というのも、素描がつねになにかの端緒、絵画の下絵であるのに反して、おれたちの人生という素描はなんの端緒でもなく、絵画のない下絵なのだから。

p117
 ボヘミアを離れて一、二年したロシア侵攻の周年日に、彼女はたまたまパリにいた。その日、抗議デモがあったので、彼女も参加せざるを得なかった。若いフランス人たちが拳を振りあげ、ソビエト帝国に反対する合い言葉をわめいていた。その合い言葉は気に入ったが、しかし彼女は自分がその他人たちと一緒になって叫ぶことができないのを知って驚いた。彼女はほんの数分しか行列にとどまることができなかった。
 彼女はその経験をフランスの友人たちに話した。彼らはびっくりして、「じゃあ、きみは自分の国の占領に反対して闘いたくはないのかい?」彼女は友人たちに言いたかった、共産主義、ファシズム、あらゆる占領や侵攻にはもっと根本的で普遍的な悪が隠されている、その悪のイメージ、それこそまさしく腕を振りあげ、声をそろえて同じ音節を叫びながら行進するイメージなのだと。しかし、そんなことを彼らに説明できないのはわかっていた。

p142
 人生のドラマはつねに重さのメタファーで言い表される。ひとは、私たちの肩に重荷がのしかかってきたなどと言い、その重荷を運び、それに耐えたり耐えられなかったりする。それと闘い、勝ったり負けたりする。しかし、いったいサビナになにが起こったというのだろうか?なにも起こってはいない。彼女が別れたかったからひとりの男と別れた。そのあと、男は追ってきたのか?復讐しようとしたのか?そうではない。彼女のドラマは重さではなく、軽さのドラマだった。彼女に襲いかかったのは重荷ではなく、存在の耐えられない軽さだった。・・・彼女はもう一度ふたりのことを考えた。ふたりはときどき隣町に行き、その夜はホテルにとどまった。彼女は手紙のその一節にはっとした。それはふたりが幸せだったことを証している。彼女にはトマーシュがまるで自分の絵の一枚のように見えた。前景には素朴な画家の手で描かれた、偽の舞台装置のようなドン・ファン。その舞台装置の裂け目から、トリスタンがちらっと見えてくる。彼はトリスタンとして死んだので、ドン・ファンとしてではなかったのだ。サビナの両親は同じ週に死んでいた。トマーシュとテレザは同じ瞬間だった。彼女はふと、フランツと一緒になりたくなった。
 彼女が墓地の散歩の話をしたとき、彼は嫌悪感をおぼえ、墓地を骸骨と砕石のゴミ捨て場に比べた。あの日に、ふたりのあいだに不理解の深淵が開いたのだった。彼女はきょうモンパルナスの墓地にきて、彼の言いたかったことをやっと理解した。彼女は自分に我慢がなかったことを後悔する。もっと長いあいだ一緒にいたら、もしかするとわたしたちは少しずつ、相手が口にする言葉を理解しはじめていたのかもしれない。まるで内気な恋人同士みたいに、ふたりの語彙がゆっくりと恥ずかしそうに近づき、ふたりの音楽がたがいの音楽のなかに溶けはじめていたかもしれない。でも、いまとなってはもう遅すぎる。
 そう、もう遅すぎるのであり、自分がパリにはとどまらず、もっと遠く、さらに遠くに行くことになるのをサビナは知っている。なぜなら、もし彼女がここで死んだら、石のしたに埋葬されることになるだろうから。そして休息というものを知らない女性にとって、走っている途中で永久に立ちどまってしまうというのは、なんとも耐え難い考えだったから。

p224
 私が思うに、トマーシュはもうかなりまえから、あの攻撃的で、荘厳で、厳粛な「Es muss sein!」に心の奥底で苛立ち、パルメデニスの精神に従って、重いものを軽いものに変えてやりたいという、深い欲望を胸に秘めていたのである。彼が最初の妻と息子にふたたび会うのを拒否するには、たった一瞬だけで充分だったのであり、父と母が彼と絶縁したのを知って安堵したことを思い出そう。これははたして、彼に重い義務、ひとつの「Es muss sein!」としてのしかかってくるものを押しかえした、あの唐突な、あまり理性的でない所作と別のものだろうか?・・・
 外科医であること、それは事物の表面を開いて、内部に隠されているものを見ることである。おそらくそんな欲望こそがまさしく、トマーシュに「Es Muss sein!」の彼方になにがあるのか見てみたい、言い換えれば、人間がこれまでみずからの任務だと見なしてきたものを脱ぎ捨てたときに、人生のなにが残るのか見てみたいという気にさせたのである。・・・
 彼は自分ではどんな重要性も認めていない仕事をしているのだが、じつはそれこそが素晴らしいことだったのである。彼は(それまではずっと、憐れみを感じていたのに)、なんら内的な「Es muss sein!」にみちびかれず、戦場を離れると仕事のことをすっかり忘れてしまえる職業に従事する人びとの幸福を理解した。・・・いまや彼は、ショーウィンドーを洗う長竿を手にプラハを駆けめぐり、自分が十歳も若返ったと感じていることに気づいて驚いている。

p254
 義務?おれの息子がおれに自分の義務を思いださせようとするのか?それは、ひとがおれに言える最悪のことではないのか!彼の目にふたたび、鳥を腕に抱きしめているテレザのイメージが現れる。前夜警官がバーにきて、あたしはいじめられた、と彼女が言っていたのを思い出す。彼女の手がふたたび震えだしている。彼女はすっかり老けてしまっている。もうなにも彼には大切に思えなくなった。彼女だけが大切なのだ。六つの偶然から生まれた彼女、部長の坐骨神経痛から生まれた華である彼女、あらゆる「Es muss sein!こうでなければならない!」の反対側にある彼女、彼が真に執着する唯一のものである彼女だけが。
 なんでまた、署名すべきかどうかで思い煩うのか?おれのあらゆる決定には唯一の基準しかない。それは、テレザに害をあたえかねない行動はいっさいしないことだ。おれは政治犯を救うことはできない。しかし、テレザを幸福にすることはできる。いや、それでさえ、おれにはできないだろう。だが、もしおれが嘆願書に署名をしたら、警官どもがもっと頻繁に彼女をいじめにやってきて、彼女の手がもっと激しく震えることになるのはほとんど確実なのだ。
 彼は言った。「大統領に嘆願書を送るよりも、生き埋めにされた鳥を救い出してやるほうが、ずっと大切なんです」・・・彼には自分の行動が正しいという確信はまったくなかったが、それでも自分が望むように行動しているという確信はあった。

p256
 力なく中庭を見つめ、なかなか決心に辿り着けないこと。愛の昂揚のときに、自分自身の腹から執拗な腹鳴が聞こえてくること。ひとを裏切り、そしてじつに美しい裏切りの途中で立ちどまれないこと。<大行進>の行列のなかで拳を振りあげること。警察によって隠されたマイクのまえで自分のユーモアを誇示すること。私はそのような状況をすべて知っていたし、みずから経験もしていた。とはいえ、そのいずれの状況からも、私の履歴書にあるような私自身という登場人物が生まれたわけではない。私の登場人物たちは現実化しなかった私自身の可能性なのだ。だからこそ私は彼ら全員が好きなのだし、と同時に彼らは私を怯えさせもするのだ。彼らはいずれも、私自身がただ迂回するだけであった境界線を越えたのであり、その越えられた境界線(それを越えると私の自我が終わってしまう境界線)こそ、私を惹きつけるのである。そしてその向こう側で、小説が問う謎がはじまるのである。小説は作者の告白ではなく、世界がそうなったところの罠のなかで、人間の生がいかなるものになるのかという探索なのである。

p257
 では、どうすべきだったのか?署名すべきだったのか、すべきでなかったのか?
 この問いを次のような言い方で表現してもいい。叫んで、そのことでみずからの終焉をはやめるほうがいいのか?それとも、黙っていて、そのことでもっと緩やかな最期を買ったほうがいいのか?
 だがそもそも、このような疑問に答えがあるのだろうか?
 そしてふたたび、彼の心に私たちがすでに知っている考えが浮かんだ。人生はただ一度しかない。だから私たちはどの決心が正しくて、どの決心が間違っているのかを知ることは決してできない。
 なぜなら、どんな状況であっても、私たちはただ一度しか決心できないのだから。私たちには様々な決心を比較できるような二度目、三度目、四度目の人生はあたえられていないのだから。・・・

 歴史もまた個人の人生とまったく同じように軽く、耐えられないほど軽く、綿毛のように、舞い上がる埃のように、明日にも消え去ってしまうもののように軽いのだ。
 トマーシュはもう一度ある種のなつかしさを、ほとんど愛情さえもいだきながら、猫背の長身の編集者のことを考えた。あの男は、あたかも自分のすることが永遠の回帰のなかで数えきれない回数繰り返されるとでもいうように行動し、自分の行為を一度たりとも疑っていないのは確実だ。自分が正しいことを確信して、そこに偏狭な精神の徴しではなく、美徳の印しを見ている。彼はおれとは別の歴史、素描ではない(もしくは素描であるという意識がない)歴史のなかで生きているのだ。・・・
 宇宙には、ひとが二度目に生まれる惑星があると仮定しよう。それと同時に、ひとは地球上で過ごした人生、この世で獲得した経験のすべてを完璧に思いだせるものとする。
 それから、各人がすでに生きたふたつの人生の経験とともに、三度目に誕生する別の惑星があるかもしれない。
 それからさらに、人類がそのつど成熟の段階を一段(一人生)ずつ上昇しながら生まれ変わることになる、その他の別の惑星がいくつもあるかもしれない。
 それが永遠の回帰についてトマーシュがいだいている考えだ。
 もちろん、地球(第一の惑星、未経験の惑星)にいる私たちは、別の惑星にいる人間になにが起こるのかについては、きわめて漠然とした考えしかいだけない。人間はもっと賢明になるのか?成熟はやっと人間の手の届くものになるのか?人間は繰り返しによって成熟にいたることができるのか?
 悲観主義や楽観主義という概念が意味をもつのは、ただこのようなユートピアの展望においてのみである。楽観主義者とっは、五番目の惑星では人間の歴史がずっと血腥いものではなくなると思い描く者のことだ。悲観主義とは、そうは信じない者のことだ。

p338
「カレーニンはあたしたちのためにだけ、こうやっているんだわ」とテレザが言った。「きっと外に出たくなかったのよ。ここにきたのは、ただあたしたちを喜ばせるためだけだったんだわ」
 彼女が口にしたのは悲しいことだったが、ともかく彼らは、そうと気づかないままに幸せだった。彼らが幸せなのは、悲しみにもかかわらず、ではなく、悲しみのおかげだった。彼らはたがいに手を取り合い、ふたりとも眼前に同じイメージ、ふたりの十年間の人生を体現している、脚を引きずっている犬を見ていた。

p363
「もしチューリヒに残っていたら、いまごろあなたは患者さんたちの手術をしていたでしょう」
「そして、きみは写真を撮っていただろう」
「そんな比較はできないわ」とテレザが言った。「あなたにとって、仕事はこの世でいちばん大切なものだった。でも、あたしのほうはなんだってできるんだし、あんなものどうだってよかったのよ。あたしはなにも失わなかった。すべてを失ったのはあなただわ」
「テレザ」とトマーシュは言った。「ぼくがここで幸福だってことに、きみは気づかなかったのかい?」
「テレザ、使命なんてくだらないものだよ。ぼくには使命なんてものはない。だれにだって使命なんかないんだ。そして、自分が自由で、使命なんかないと気づくのは、とてつもなく心が安らぐことなんだよ」
 声の調子からして、彼の誠実さを疑うのは不可能だった。彼女にはふたたび、今日の午後の光景が浮かんできた。彼がトラックの修理をしていて、彼女にはそんな彼が年寄りじみて見える。あたしは自分が到達したいと願っていたところに到達したのだ。あたしはいつも、彼に年取ってもらいたいと願っていたんだから。彼女はもう一度、自分の子供部屋のなかで顔に押しつけた野兎のことを考えた。
 野兎に姿を変えるというのは、どういう意味なんだろうか?それは自分の力を忘れるという意味だ。それ以降、たがいに相手以上の力をもたないという意味なんだ。
 ふたりはピアノとヴァイオリンの音に合わせて、ちょうどダンスの身振りをしながら、行ったり来たりしている。テレザは彼の肩に頭をのせている。ちょうど霞を横切ってふたりを運んでいた飛行機のなかみたいに。いま彼女はあのときと同じような不思議な幸福を、同じような不思議な悲しみを感じている。この悲しみは、あたしたちが最後の停泊地にいることを意味しているんだ。この幸福は、あたしたちが一緒だということを意味しているんだ。悲しいは形式で、幸福が内容なんだ。悲しみの空間を幸福が充たすんだ。


The Unbearable Lightness of Being HD 4k restoration trailer Juliette Binoche Daniel Day-Lewis

記憶の中ではもう少しキワドイ場面が多かった気がしていたけど、そうでもなかった。
ジュリエット・ビノシュもすごく魅力的だけど、サビナ役の女優さん(レナ・オリン)、綺麗だなぁ。スウェーデン人なんですね。低い声も素敵。

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