絶望でこそ見える美しさが絶対にあるから、それを見る前に死なないでほしい。
正面ではなく斜め前を向いたら壁がなかった、っていうことがある。
今DVDを見終わった時たまたまついてたチャンネルで、未成年の自殺問題について女優の荻野目慶子と一般の女の子が言っていて、なかなか良い言葉だったので。
私は、ふだんからウダウダグダグダと色んなことを考えたり考えなかったりして生きてるわけですが。
一つだけいつも思ってることは、「今この瞬間に死んでも後悔しない生き方をしよう」ということです。
たとえ思っていたのと違う結果になったとしても、失敗したとしても、自分の気持ちに嘘をつかずに行動した結果であれば、後悔だけはしないから。それは、私にとってはとても大事なことなのです。
昔を振り返って、(今思えば)やらなきゃよかった、やっておけばよかったっていうような後悔はもちろん私にもあります。でも、「あの時本当はやりたかったのにやらなかった」「本当はやりたくなかったのにやってしまった」という後悔は私には殆どありません。
例え周りから強制されたようなものであっても、その時々の決断は、ちゃんと自分自身の責任でやってきたし、いつもそれを意識してきたから。
なんて今あらためて自分に言い聞かせるように書いたのは、そういう決断を今迫られているからなわけですが。。。今回も、今までのように、ちゃんと自分自身で考えて、自分自身の責任で、結論を出したいと思います。後悔しないために。「やった」後悔だけでなく、「やらなかった」後悔というものもあることを忘れずに。そんな生き方こそが、ささやかな自分の幸せにもつながっているのだと思うから。
「私達は人を見、見られ、話し、話され、関わり、関わられることによって初めて『自分』を知ることができるのです」
「自分のことは自分が一番よくわかっている、というのは最も基本的な誤りです。私達は鏡を見なければ自分の顔さえ見ることができません」
「人はうまくいかないことがあると、なぜうまくできないのだろう、自分の何が原因なのだろうと、その原因を追究しようとします。医学というもの自体、そういう観点から発達してきました。原因を取り除くまでは怖くて、踏み出す勇気を出せない人もいるでしょう。しかし、そのように原因を追究しようとすることが、その結果が、果たして本当に私達の『幸福な生活』のためになるのでしょうか。世の中は完璧ではありませんし、全ての原因を取り除くことなど不可能です。人はうまくできないことにばかり意識を奪われがちですが、うまくできていることに対しては殆ど意識をはらいません。ですが、この『うまくできていること』、自分の長所に目を向けてみてはいかがでしょうか。精神障害においては、自然科学のように因果が直線的であることは極めて稀で、その因果は円環的で複雑に絡み合っています。ですから、『なぜ自分はうまくできないのだろう』とその仮想の原因を追究することよりも、『こんなに上手くできている』という現実の長所に目を向け、その悪循環のループをこわすことの方が、ずっと現実的な解決になるのではないでしょうか」
「誰でもその人なりのプライドを持っています。ですから相手を変化させようと頭ごなしに意見を述べては相手の面目をつぶすことになり、人間関係もうまくいかなくなるでしょう。『まずは相手の意見を受け入れて、それから自分の方向へ誘導してゆく』ことが、より成熟した人間関係を築くために必要なことだと思います」
ある精神科医の言葉より。所々うろおぼえですが。。。
「好きなものは咒うか殺すか争うかしなければならないのよ。お前のミロクがダメなのもそのせいだし、お前のバケモノがすばらしいのもそのためなのよ。いつも天井に蛇を吊して、いま私を殺したように立派な仕事をして……」
(坂口安吾『夜長姫と耳男』)
生と死は、同義。
愛と憎は、同義。
半端な感情では何事も為しえないし、何も残りはしない。
――なんて凄絶で、なんて美しく、なんて魅惑的なのだろう。
これを狂気と呼ぶのなら、美と狂気もまた、同義。