風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

谷川さんにとっての死と魂

2023-04-22 13:28:12 | 

死んだ後には、魂のような何かが残ると思っています。

「あ いるんだ」という詩を最近、書きました。亡くなった友人が、ふっと戻ってくる、現実感みたいなものを書いた詩です。

〈パソコンの中から/死んだ友人の/元気な声が聞こえてきた/あ いるんだ〉
〈見えなくても/聴こえなくても/触れなくても/すぐそばに〉
(詩から引用)

それは、記憶や思い出よりも深いもののように思います。

だから、死は、瞬間的なものではなく、ずっと、生きることの中に後を引いているものじゃないかと思いますね。生から死へは、フェードイン、フェードアウトでつながっているという感じです。

生きるということを考えたら、必ずどこかで死とリンクしている。はしゃぎきっちゃって、死のことを全然考えない楽しみ方も当然あると思うけども。言葉で「生きる」って言った以上は、どっかに死というバランスウェートがないとリアルにならないと思うんですよね。

・・・

20代のころから、死はたびたび自分の詩に登場しています。

若いころは、秋になって落ち葉が土に還っていくというように、ただ抽象的に考えていたんだけど、最近は、ちょっと肉体的になってきましたね。

死よりも老いの方がずっとリアルなんですよ。脚が弱くて歩くのが苦痛になったとか、自分の体がだんだん衰えて昔とは違うようになってきて、気になります。

両親、寺山修司や武満徹ら友人たちも、みんな亡くなりました。親しい人を失った直後は悲しいことを感じる余裕がありません。

でも、何カ月も、あるいは1年以上たった後でふっと、悲しくなることがあります。それが何なのかよくわからないんですけど。

父と母に関しては、あの2人が自分の中に入ってしまっているように感じます。なんせ赤ん坊のときから付き合ってくれているわけですから。

たとえば、年を取った父が、この自宅の部屋で寝転がってベートーベンを聞いていたのを思い出すんですが、自分も同じようなことをしていますね。

それは悲しいというのとは、全然違いますね。むしろ快いっていうのかな、しょうがねぇなみたいな。

「死体は「脱ぎ捨てた洋服」、その後に残る深いもの 谷川俊太郎が向き合ってきた生と死」GLOBE+


谷川さん、お元気にされてるかなぁとググってみたら、最近のこんな記事が出てきました。
「死よりも老いの方がずっとリアル」というのは、40代の私でも本当にそのとおりだなぁと思う(といっても90代の谷川さんとは全く比べものにならないと思いますが…)。
私達は死がどういうものかを誰も自身の体で体験したことがないし、体験した本人の話を聞くこともできないから、リアルに感じることもリアルに想像することもできない。「その直前」までのことは見聞きすることはできても。

私にとって比較的リアルに感じる話は、漱石自身が書いている修善寺の大患のときのエピソードなのだけれど(30分間の完全な意識消失状態を「いかにも急劇でかつ没交渉」と表現している)、それが書かれてあるのは『硝子戸の中』だっけか?と青空文庫の『硝子戸~』で「死」と検索してみたら、50個の検索結果が出た。漱石はこの随筆の中でそんなに「死」という言葉を書いていたのだなぁ。。
しかしそのエピソードは見つからなかったので、ググってみたら、『思い出す事など』の方でした。再び青空文庫で『思い出す~』の中の「死」という文字を検索してみたら、87個もヒットした。

一部だけど久しぶりに読んでみたら、「病」や「死」という現象を客観的に観察するような文章と、そこから筆者の心情が浮かび上がってくる感覚が、漱石の親友でもあった子規の晩年のそれとよく似ているなと感じました。
晩年といっても子規の享年は34なので漱石よりずっと若く亡くなっていて、若い子規にとってそれだけ死が「自身のもの」として存在していたのだなと思うと切なくなります。
でも漱石の享年も49なんですよね。今の私とほとんど変わらない。

子規の『死後』という随筆、とても子規らしい、いい文章なのです。
青空文庫で読めるので、ご興味のある方はぜひ。
またゆっくり色々読み直したいな。
でもなんだか毎日忙しくて・・・。
そんな風に過ごしているうちに、きっとあっという間に「その日」は来てしまうのかもしれないなぁ。まぁそれも幸せかもしれないけれど。
そういえば友人と文京区の文学巡りをしようと以前話していて、まだ行けていないな。。
いま友人は闘病中でそれどころではないのだけれど、少しよくなったら、一緒に行けたらいいな。

ところで谷川さんは「こういうふうに埋葬してほしいっていうのは一切ありません。息子や娘が適当にやってくれるだろうと思っています。散骨だろうが鳥葬だろうが土葬だろうが、何でもご自由にという感じです。土に還るという自然なほうが、地球上の生きものとしてはふさわしいんじゃないかと思います。でも、骨壺に入ってお墓に入るのも、人がお参りにきてくれたりして、それはそれでいいだろうなと思いますけどね。」と仰っていて、どうとでもしてくれていいというのは私も同じだけれど、私の場合は谷川さんと違い子供も姪甥もいないので、最後の墓じまいと自分の始末は自分でしなければならないのよね。
世界は繋がっていると思っているので親と同じ墓に入れなくても構わないし、無縁仏でもなんでもいいのですけど、できるだけ人にかける迷惑は少なくして死んでいきたい。ただそれだけなのだけど、簡単じゃないんですよね。。。
家族の墓はあるし、その分の合祀はお願いできるけれど、最後になった一人の分は引受人がいないとお墓に連れて行ってもらえないそうで。
お金を出せば行政書士とかに頼めるのかもだけど、そこまでするのもなぁとも思うし。。。
うーむ。。。
国はそういう部分をもっとしっかり考えて欲しいものだわ。
これから先の日本は独居老人大国になるのだから。
「決して贅沢はできなくても、将来の大きな不安を抱えずに最低限安心な老後を過ごして死んでいける」というただそれだけで、老いも若きも(そう、高齢者だけでなく若い人達も)国民の幸福度は大きく上がると思う。そのためなら税金だってもっともっと出してもいいくらいよ。
でも税金の使われ方が全くもって心もとないから、そんな政府には出したくないだけで。
どう考えたって意味のない現金のバラマキばかりやってるし。
職場でも我らが血税がどれほどムダな使われ方をされてるかを日々見てしまっているから(もちろんちゃんとした使われ方もされているけれど)、腹が立って仕方がない




あいかわらず「みどり税」を惜しげもなく使っている我が市。。。
まぁでもこの税金の使われ方はマシな方です。
老いも若きも貧富の差もなく、市民全員に還元されていますから。



でも雑草もこんなに綺麗



このヒョロロンとした植物は何という花だろうか?とgoogleレンズで検索してみたら、「ヘラオオバコ」というらしい。

ヨーロッパ原産の帰化植物で、世界中に広く分布する。日本には江戸時代末期に侵入したものとされ、その後広く日本全土に分布を広げた。
畑地、道端、果樹園、河川敷、牧草地、荒地などに耐乾性があるため広く生育する。
北アメリカをはじめ世界中に分布を広げ、コスモポリタン雑草となっている。
環境省指定の要注意外来生物類型2に指定されている。
(wikipedia)

へ~。
道端の雑草の写真から一瞬でこんな情報までわかるなんて、インターネットってすごいなぁ・・・
コスモポリタン雑草って言葉、なんか可愛い

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東京春祭プッチーニ・シリーズ《トスカ》 @東京文化会館(4月16日)

2023-04-21 00:15:47 | クラシック音楽




春祭の『マイスタージンガー』があまりに素晴らしかったので、急遽翌週の『トスカ』にも行ってしまいました。
マイスタージンガーのヤノフスキ&N響に続き、

シャスラン&読響ぶらぼ~~~~~~~

やはりオペラって生で聴くと音楽の迫力や美しさが全然違いますね。
トスカの音楽がこんなに美しかったとは。
読響の音にはN響のような艶はないし、マイスタージンガーのときのような「完璧…!天才…!」という感覚はなかったものの、盛り上げるべきところは思いきり劇的に盛り上げて、ppはしっかり美しいppで、大変よかったです。
フレデリック・シャスラン(新国立劇場で時々指揮されているそうですね)はリハーサルで「来日直前まで指揮していたスカラ座のオケより素晴らしい!」と読響を絶賛したそうですが、お世辞ではないだろうと頷ける演奏でした。

歌手陣も、大満足。
クラッシミラ・ストヤノヴァのトスカ。
素晴らしかったです。声質もザ・トスカでしたし、何よりこの人のトスカだとストーリーに説得力が感じられた。
予習の映像で観た他の方のトスカでは、最後の牢でカヴァラドッシに死んだ演技を勧める場面や、その後の銃殺場面で、「スカルピアの死体が見つけられたら一巻の終わりなのに、なぜこんなに呑気で楽観的なのだろう・・・」と主人公二人がバカっぽく感じられてしまったのだけど、今日のトスカは知的そうだったのでそういう風には全く感じさせず、しっかり悲劇のストーリーになっていました。

「なぜこの二人はこんなに呑気で楽観的なのだろう・・・」と感じさせなかったのは、イヴァン・マグリ(ピエロ・プレッティの代役)のカヴァラドッシによるところも大きかったと思う。
代役のせいもありマグリだけが譜面台を使用していて、声もしっかり出ているとは言い難かったけれど、それでも後半の歌は胸に迫ったし、役作りがプレイボーイ的ではなく、いよいよ処刑という時に眼鏡を外す演技も効果的でした。

そしてスカルピア役のブリン・ターフェル
さすが、頭抜けて凄かった。
演技は本当に嫌な奴だし、いやらしさも人を平気で殺せる冷酷さもばっちり出ていて、でも下品ではなく、The スカルピア。
歌声ももちろん最高で、ffのオケと合唱の中でも彼の声が美しいままはっきりと聴こえてくるってすごい・・・・・。一幕ラストの迫力といったら!!

今回は演奏会形式なのでスカルピアもカヴァラドッシも客席に背を向けて立つことで死んだことを表していたのだけど、その動きの流れがどちらも全く違和感がなくて、素晴らしかったです。結構難しいと思うんですよね、ああいうの。
一方、ラストのトスカは身を投げた後も正面をじっと見つめたままで、そのストヤノヴァの表情に強く心動かされました。
この夜明けの処刑場面は、読響の音色も、ブルーの照明もとても美しかった。

一幕の合唱団の子供達も、演奏会形式だけどちゃんとわちゃわちゃ演技していてよかったです

この作品に関して、トスカは敬虔なキリスト教徒なのになぜ大罪とされている自殺を選んだのか?という議論があるそうだけど、そこは私は特に疑問には感じませんでした。
第一幕でスカルピアに騙されてアッタヴァンティ夫人への嫉妬に燃える場面でスカルピアから「教会の中ですよ」と諭されたとき、トスカは「神はお赦しくださいます。私の涙を見てらしたもの!」と答えている。
ラストで「スカルピア、神の御前で!」で叫んで自殺していくときの彼女も、同じ気持ちだったのではないかしら。殺人も自殺も、自分には他に選択肢がなかったことを神は見ていてくださるはずだ。スカルピアがした所業も。だからあとは神のご判断に任せよう、ということなのだと思う。

カヴァラドッシの解放と引き換えにスカルピアから関係を迫られたトスカが、絶望の中で歌うアリア『歌に生き、愛に生き』(ストヤノヴァは指揮台の端に腰かけてポールに縋るようにして歌っていたのが印象的でした)。
「これほどあなたに祈りを捧げて生きてきたのに、主よ、なぜこのような報いをお与えになるのですか?」と彼女は歌う。
ここ、遠藤周作の『沈黙』を思い出しました。次々と拷問を受けて殉教していく敬虔な信者達を見ておられるはずなのに、なぜあなたは沈黙しておられるのか?なぜ救ってはくださらないのか?と神父ロドリゴは絶望の中で神に問いかける。
最終的に彼が出した答えは、「神は沈黙していたのではなく、常に自分とともに苦しんでいたのだ」というもの。そして彼は踏み絵を踏む。
たとえ教会から裏切り者とみなされようと、神はこれからも自分と共にいてくださると信じて。
トスカに話を戻します。トスカはロドリゴと異なり、「なぜ?」と神に問いかけはしても、神の存在まで疑うことはしていない。
これほど敬虔なキリスト教徒である彼女が無神論者であるカラヴァドッシをあれほど深く愛することができるというのは、彼女の中で葛藤はないのだろうか(ちなみに政治思想も正反対。トスカは王政支持でカラヴァドッシは反王政)。愛してしまったものはしょうがない、神はわかってくださる、ということかしら。それとも神を信じるのも男性を愛するのも自分側の問題だから、相手がどうであるかは大きな問題じゃないという感じかしら。
南部バプティストでは「キリスト教を信仰しない=人間じゃない」ぐらいの勢いだったけども。

ムーティは、「私はカトリックの教育を受けましたが…祈りのカードの金髪のイエスは信じていません」と言っていたな。
キリスト教も色々ですね。

春祭ライブラリー「血生臭い《トスカ》のドラマを動かす あまりにも隔たった恋人同士の考え方」


指揮:フレデリック・シャスラン
トスカ(ソプラノ):クラッシミラ・ストヤノヴァ
カヴァラドッシ(テノール):イヴァン・マグリ※
スカルピア(バス・バリトン):ブリン・ターフェル
アンジェロッティ(バリトン):甲斐栄次郎
堂守(バス・バリトン):志村文彦
スポレッタ(テノール):工藤翔陽
シャルローネ(バリトン):駒田敏章
看守(バス):小田川哲也
羊飼い:東京少年少女合唱隊メンバー
管弦楽:読売日本交響楽団
合唱:東京オペラシンガーズ
児童合唱:東京少年少女合唱隊
合唱指揮:仲田淳也
児童合唱指揮:長谷川久恵








演奏会前は久しぶりに上野動物園へ。激しいお天気雨のなか、レイレイとシャオシャオが追いかけっこしていました。観覧は40分待ち。


終演後はパンダ橋を渡って、夕食へ。


久しぶりの上野藪そば。5分待ちくらいで入れました。
春の山菜蕎麦。
相変わらず美味しいけれど、初めて食べた頃から比べるとだいぶお値段が上がったなぁ。

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『与話情浮名横櫛』『連獅子』 @歌舞伎座(4月14日)

2023-04-17 23:29:29 | 歌舞伎




14日金曜日に行ってきました。
歌舞伎座が新開場してから、今月で10周年だそうです。
あれから10年もたったのか…。
あの新開場の頃は亡くなった友人との思い出が沢山あって、色々思い出しながら観ていました。
そうしたら、翌15日に左團次さんが亡くなられてしまいました…。
ちょうど10年前の4月、開場3日目のホヤホヤの歌舞伎座で最初に観た演目が、菊五郎さん&左團次さんのチンピラコンビが印象的な『弁天娘女男白浪』でした。そういえば、あの時の日本駄右衛門は吉右衛門さんで、忠信利平は三津五郎さんだったな。
左團次さんのお芝居、数えきれないほど観て、数えきれないほどの楽しさ、感動をいただきました。
『与話情浮名横櫛』の予習で観た映像の左團次さんの蝙蝠安もとてもよくて。
私が最後に観た左團次さんのお芝居は、昨年3月の『芝浜革財布』でした。
この世代の役者さんが亡くなるといつも思うことだけれど、ああいう空気の役者さんって、もうこれからは出会えないような気がします。時代が人を作るということを、歌舞伎を観ていると特に強く感じる。
ご冥福をお祈りします。

以下、お芝居の感想です。

【与話情浮名横櫛】
与三郎を演じる上で大事なのは、品なのでしょうね。大店の息子が、ある意味でアウトローに。若旦那の甘さとアウトローの強さの兼ね合いです。強さといっても、(腕っぷしのような)いわゆる強さとはちがいますね。
・・・
(玉三郎さんとは)お互いに気心を知れていますから、『ここはどうしようか』などの相談もなく芝居のキャッチボールができる相手です。自分が役の気持ちで舞台に出ると、向こうも向こうで役の気持ちで舞台にいますから、自然とギクシャクすることもなく芝居になるんですね。今回『赤間別荘』は、基本的には喜の字屋のおじさまと尾上梅幸のおじさまがなさった時(1969年4月国立劇場)のものを元に、少し変えさせていただきやらせていただきます。ただ、次はああしてここはこう……といった決まりらしい決まりがありません。このような芝居は、気があう者同士でなければ作れません。

片岡仁左衛門 Spice

仁左衛門さんが与三郎役、玉三郎さんがお富役でタッグを組むのは、約18年ぶりとのこと
仁左衛門
さんは体調不良で5~7日に休演されていたので心配だったけれど、「見染の場」は少し本調子ではなさそうかなと思ったものの、変わらない立ち姿の美しさよ・・・・・。人形のよう・・・・・。綺麗だなぁと何度心の中で呟いたことか。羽織落としも、あの数秒間だけでも国の宝だわ。。。(国宝ですけど)

実は私、この作品を観るのは初めてなのだけれど、省略されることの多いという「赤間別荘」を観られたのはとても嬉しかった。今回は仁左玉コンビなので猶更。
お二人とも、色っぽいなぁ。。。濃厚。。。
簾越し?とはいえ、コトに及ぶときにそれぞれが着物を脱ぐ場面を見せるのって歌舞伎では珍しいような
この濡れ場と、その後の責め場。見応え的にも楽しいし(ニザ玉だからという理由も大きいけれど)、ここを上演しないと「見染の場」と「源氏店の場」のストーリーが全く繋がらなくなるので、今後も省略せずに上演した方がいいと思うな。

「源氏店」の仁左さま、舞台下手の戸の外で揺れる柳の下での石ころ蹴り。なんて絵になるのでしょう・・・・・。「浮世絵から抜け出たよう」とはまさにこのこと。
戸を締めるときなどのサッとした動きは、「赤間別荘」までの坊っちゃん坊っちゃんした与三郎とは違って、それも素敵。一粒で二度美味しい作品

そして、玉三郎さんのお富
こういうお役の玉さまは、鉄板ですよねぇ。紛れもなく唯一無二の国の宝だわ(国宝ですけど)。。。。。見初めの花道での「いい景色だねえ」。大和屋
松之助さんの藤八つぁん、左團次さんの代役で出演された権十郎さんの多左衛門もよかったです。

最後の唐突でご都合主義なハッピーエンド展開は、、、まあ歌舞伎だし(全幕の場合のストーリーは異なるようだけど、そちらもやはりご都合主義)。


【連獅子】
稽古場の一角では左近が、『連獅子』の仕度をはじめていた。左近は一人で鏡台に向かう。手元には、演劇雑誌『演劇界』の古い号が置かれていた。表紙は、獅子の扮装をした祖父の初代尾上辰之助だった。
・・・
松緑「4月の公演中に僕がいなくなったとしても、彼は千穐楽まできっちり仔獅子を勤められると確信しています。そのように育ててきたつもりです。まだキャリアは浅いので、テクニック的に至らないところがあるにしても、それを補うやる気があります。肝は据わっている​」

松緑が「明日本番でも大丈夫だよな?」と聞くと、左近の「はい」が気持ちよく響いた。

左近「父は『連獅子』の親獅子のようなところがあり、言葉では言いませんが、その思いは胃に穴が開くほど分かっているつもりです。いついなくなっても……という気持ちは大事ですが、僕にとって父は大きな存在なので長生きしてほしいと思っています。4月は胃に穴が開いてでも、1か月間父の親獅子で仔獅子をやらせていただけることがうれしいです。父の親獅子に恥じない仔獅子を勤めたいです」

時折、こみ上げる思いに言葉を詰まらせながら、左近は自分の言葉で心境を語った。

松緑はこれまでに、十二世市川團十郎や五世中村富十郎の親獅子で仔獅子を勤めた。父親や祖父との共演は叶わなかった。いつか左近と親子で、との思いも強かったにちがいない。

松緑「その気持ちがなかったと言えば嘘になります。でもそれは僕の心情の話。お客様に1ヶ月お金をいただきお見せすることへの意識の方が強いです。また僕にとって彼は、二代目松緑さん、初代辰之助さんからの預かり物。もし2人がどこかから彼を見た時に、『一生懸命やっているな』と思ってもらえる役者に育てるのが僕の仕事です。皆様に『さすが初代辰之助の孫だ』と言っていただける子に育てたい。それだけです」
・・・
松緑「僕は早くに父親と祖父を亡くしたこともあり、多くの先輩方に稽古していただき、たくさんの言葉をかけていただきやってきました。息子にも“〇〇なら〇〇さんに教わってきな”とよく言います。そして彼は今、(尾上)菊五郎のおにいさん、(片岡)仁左衛門のおにいさん、(坂東)玉三郎のおにいさんといった素晴らしい先輩方から、色々な言葉をいただいています。今はまだ分からないこともあるかもしれない。でも本当に大事な言葉は、意識して覚えようとしなくても心に残り、いつか分かったり、ふと思い出したりするもの。先輩方からいただく言葉が彼の中に積み重なって、彼なりの格好いい歌舞伎役者になってほしいです」

左近「僕も祖父の辰之助さん、曾祖父の二代目松緑さんが大好きです。偉大な役者だと思っています。でも僕はやっぱり父の子で、はじめて歌舞伎を格好いいと思ったのも父の歌舞伎を見た時です。父はよく自分を下げた言い方をされるのですが……僕としては、僕が憧れる現松緑さんをあまり悪く言わないほしいです」
Spice

彼らの歌舞伎座の本興行での連獅子はこれが初とのこと。
予想外に、最後に泣きそうになってしまった。全くそんなつもりなかったのに(実際途中までは割と淡々と観てた)。
数えきれないくらいの回数の毛振りも本来そういうのは私の好みではないけれど、というか松緑も同じだろうと思っていたのだけれど、でもなんか感動しちゃったのよね。
上記インタビューは帰宅してから読みました。
松緑は辰之助さんとは連獅子を踊っていなかったんですね。
私は辰之助さんのことを知らないけれど、松緑は沢山のことを乗り越えて(あのブログは読んでおりました・・・)、こうして今、息子さんと舞台で踊っているのだなぁ、とかやはり思わずにはいられず。連獅子あるあるの感動ではありますが。
左近くん、もう17歳なのか。
左近くんのキレキレかつスケールの大きさも感じさせる仔獅子と、親らしい強さと包容力を感じさせる松緑の親獅子の対比に涙。
辰之助さんは40歳で亡くなっているし、「僕がいなくなったとしても」という言葉を松緑は本気で言っているのだと思うけれど(そして親はいついなくなってもおかしくないというのは、そのとおりなのだけれど)、左近くんのためにも松緑は長生きしないと。

ところで今回の連獅子、笛の音が耳に刺さって少々煩く感じられてしまった。いつもあんなに音大きかったっけ?音の表現自体は切れもあってよかったように思ったけど、もう少し品と清澄さがほしいというか・・・。









初めて見る緞帳だなと思ったら、新開場10周年を記念して寄贈された新緞帳だそうです。
原画は東山魁夷の「朝明けの潮」で、皇居 長和殿「波の間」にある縦約3.8メートル、横約14.3メートルの大壁画とのこと。山口県の青海島の波と岩をモデルにしたといわれているそうです。











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東京春祭《ニュルンベルクのマイスタージンガー》 @東京文化会館(4月9日)

2023-04-11 01:49:59 | クラシック音楽




素晴らしかった。。。。。。。。。
なによりも、

ヤノフスキ&N響ぶらぼ~~~~~~~

1.5倍再生のような速度に結構面食らったけど(いくらなんでも速すぎと思う)、N響うまいな〜!!
どのシーンもあんなに速いのに、よくあれだけ濃密で表現豊かな音が出せるものだ。まるでヨーロッパのオケのよう。
良い演奏って時間の感覚が消えますよね。数時間が永遠のような一瞬のような、そんな感覚になる。
ヤノフスキさんってもっとドライな音楽を作る指揮者のイメージがあったけれど、こんなに濃密でスケールの大きい熱い演奏を聴けるとは嬉しい驚きでした。指揮姿も熱かった。84歳なんですね。30分間の休憩が2回入るとはいえ、5時間20分の長丁場をずっと立って指揮されていました。
あの速さなのに、音に忙しなさを一切感じさせないN響の技術も驚異的。
ヴァルターが資格試験で歌う曲、あんなに美しい曲だったとは。N響の演奏から森が見えて、鳥の声が聞こえて、風を感じた。
夜の音色もちゃんと出てたし、ヨハネ祭の前夜祭(笑)の大乱闘の場面も、決して美しいだけの音ではない、興奮と混乱が最高潮に達する街のしっちゃかめっちゃか具合がすごくよかったです。その後の、静けさを取り戻した街の透明な空気も素晴らしかった(照明効果も美しかった)。
コンマスはお久しぶりのキュッヒルさん
キュッヒルさんのときのN響の自由で官能的で突き抜けた音が大好きです

歌手陣も皆さんレベルが高く、満足。
ザックス役のエギルス・シリンスはホフマン物語で観たばかりだけれど、今回は初役だったとのことで、あの時の安定感に比べると、楽譜にかじりつき気味で余裕はイマヒトツ。でも相変わらず良い声で、声質がザックスという役にとても合っているように感じられました。
最後のクライマックスの演説場面で楽譜の歌っている箇所がわからなくなってしまったようで微妙な間があいてしまったけれど、楽譜からできるだけ視線を上げて客席に向かって演技しようと頑張ってくださっていたからだと思う。

エファ役のヨハンニ・フォン・オオストラムも、この役にピッタリ。夜の靴屋でのザックスとの絡み場面は、二人の空気にドキドキしました。この話って、エファ&ヴァルターよりもエファ&ザックスの関係の方がずっと感情の機微が繊細に描かれていますよね。不自然なほど。と思って調べたら、ワーグナーは自身の恋愛体験を二人に重ねて描いていたんですね。

ベックメッサー役のアドリアン・エレート。完全に役が板についていて、評判どおり最高でございました。今日の出演者達の中で唯一暗譜で全身で演技してくれていた。
正直ワーグナー唯一の喜劇であるこの作品って、喜劇場面は冗長であることを否めないように思うのだけれど、エレートのベックメッサ―はそれらの場面をことごとく時間の長さを忘れさせる上質の喜劇にしてくれていました。下品になっていないところも素晴らしかった。ずっと見ていたいと感じさせるベックメッサーでした。ブラボー

その他、デイヴィッド・バット・フィリップ(ヴァルター)、アンドレアス・バウアー・カナバス(ポークナー)、ダニエル・ベーレ(ダフィト)、カトリン・ヴンドザム(マグダレーネ)、日本人歌手陣のマイスタージンガー達も、皆さん高水準でした。
カナバスは夜警役も兼ねていたけれど、そちらの方はあまり合っていなかったような。優しく温かい声の夜警だった

東京オペラシンガーズの合唱もよかったです。騒乱具合の表現もお見事でした。
合唱指揮のエベルハルト・フリードリッヒはバイロイト祝祭合唱団の合唱指揮をされている方だそうで、音楽コーチのトーマス・ラウスマンもメトロポリタン歌劇場の音楽部門の監督とのこと。なんという贅沢でしょう。

ところで最後のザックスによる愛国的な演説場面ですが、予習のときはさほど違和感を覚えなかったけれど、実際に観るとやはり唐突な印象を受けますね。いきなりどうしたザックス!?的な。
1867年1月31日付でルートヴィヒ2世に宛てたコジマの手紙によれば、ワーグナーは第3幕第5場の「ザックスの最終演説」を取りやめ、ヴァルターの詩で締めくくることを考えていたが、コジマはワーグナーと丸一日議論してこれを翻意させたと報告している。(wikipedia) 
ワーグナー自身もこの演説の場違いさを認識していたということかな。
私はこの作品を今回初めて観たけれど、最近の殆どの舞台演出では、この演説やベックメッサーの描写について「現代の価値観に合わせた」改変が行われるのが通常だそうで。
今回は演奏会形式なのでそれは行われていなかったけれど、正直なところ、改変しなければならない必要性が私には感じられず…。ワーグナー自身のユダヤ人への差別意識や、この作品がナチスの宣伝に大いに利用されたという歴史的事実を忘れて純粋に作品だけを観た場合、ザックスの演説も「いきなり愛国演説!?」とその唐突さには面食らいはするけれど、内容は「ドイツ芸術を外敵から守れ!ドイツ芸術よ永遠なれ!」と言っているだけのことで、至極真っ当な演説よね…。ベックメッサーにしても、『ヴェニスの商人』のように露骨にユダヤ人として差別されているわけではないし(ヨーロッパ人が観るとユダヤ人への揶揄がわかりやすいのかもですが)。
でもこの程度さえも改変しなければならないほど、ドイツにおけるユダヤ人の歴史というのは大きな大きな傷を残し、今もデリケートな問題であり続けているのだな、と改めて感じました。
なんて書くと、他人事のように言うな!日本人だって同じだ!と言われてしまうかもしれないけれども…。

第1幕 15:00~16:20 [約80分] 
―休憩 30分― 
第2幕 16:50~17:50 [約60分] 
―休憩 30分― 
第3幕 18:20~20:10 [約110分]
終演 20:20





今回の演奏はかなりの大音量で聴こえたのですが、私も「東京文化会館って良いホールだ」と感じました。特にオペラを聴くと、とてもいい。ムーティのお気に入りのホールであることも頷ける気がする。


ラトヴィア大使館からシリンスへの応援メッセージ。シリンスはラトヴィア出身なんですね。

Die Meistersinger von Nürnberg - Suitner - Tokyo 1987
今回の予習はこちらの動画のお世話になりました。

【録画・日本語字幕付】『ニュルンベルクのマイスタージンガー』特別鼎談 ゲスト:大野和士、ハイコ・ヘンチェル、舩木篤也
こちらの大野さんの解説、大変参考になりました。


指揮:マレク・ヤノフスキ
ハンス・ザックス(バス・バリトン):エギルス・シリンス
ファイト・ポークナー(バス):アンドレアス・バウアー・カナバス
クンツ・フォーゲルゲザング(テノール):木下紀章
コンラート・ナハティガル(バリトン):小林啓倫
ジクストゥス・ベックメッサー(バリトン):アドリアン・エレート
フリッツ・コートナー(バス・バリトン):ヨーゼフ・ワーグナー
バルタザール・ツォルン(テノール):大槻孝志
ウルリヒ・アイスリンガー(テノール):下村将太
アウグスティン・モーザー(テノール):髙梨英次郎
ヘルマン・オルテル(バス・バリトン):山田大智
ハンス・シュヴァルツ(バス):金子慧一
ハンス・フォルツ(バス・バリトン):後藤春馬
ヴァルター・フォン・シュトルツィング(テノール):デイヴィッド・バット・フィリップ
ダフィト(テノール):ダニエル・ベーレ
エファ(ソプラノ):ヨハンニ・フォン・オオストラム
マグダレーネ(メゾ・ソプラノ):カトリン・ヴンドザム
夜警(バス):アンドレアス・バウアー・カナバス
管弦楽:NHK交響楽団(ゲストコンサートマスター:ライナー・キュッヒル)
合唱:東京オペラシンガーズ
合唱指揮:エベルハルト・フリードリヒ、西口彰浩
音楽コーチ:トーマス・ラウスマン

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バッハ・コレギウム・ジャパン 《マタイ受難曲》 @東京オペラシティ(4月8日)

2023-04-09 02:22:26 | クラシック音楽



鈴木雅明(指揮)

ルビー・ヒューズ(ソプラノⅠ)、松井 亜希(ソプラノⅡ)
久保 法之(アルトⅠ)、青木 洋也(アルトⅡ/証人Ⅰ)
トマス・ホッブス(テノールⅠ/エヴァンゲリスト)、櫻田 亮(テノールⅡ)
マーティン・ヘスラー(バスⅠ/イエス)、加耒 徹(バスⅡ)

バッハ・コレギウム・ジャパン(合唱&管弦楽)
東京少年少女合唱隊(合唱:ソプラノ・イン・リピエーノ)


このポスター↑、ちゃんと「聖金曜日」「聖土曜日」と書かれてあるんですね
私は聖土曜日の方を聴きにいきました。
素晴らしいという言葉も陳腐に感じられるような、なんだかまだあの響きの中にいる感じがしています。

聴きながら、ただただバッハへの感謝を感じていました。
バッハの曲を聴くといつもそうなのだけど、バッハこそ神が私達人間のためにこの世界に遣わせてくれた遣いなのではないかと感じる。
バッハがこの世界に生まれてきてくれて、こんな奇跡のような音楽を残してくれて、その音楽が数百年受け継がれて、今日こうして私が聴くことができていることに、感謝の気持ちでいっぱいになる。
そしていつか私がこの世界からいなくなった後も、バッハの音楽は演奏され続け、多くの人達を励まし続けるのだろうな、とそんなことも感じながら聴いていました。バッハの音楽が生き続ける時間と比べて、またキリスト教が生き続ける時間と比べて、自分の人生の時間がとても短いものに感じられました。決して悲観的な意味ではなく。

私はなぜなのか幼い頃から罪の意識のようなものをもってしまっている人間で。起因となる具体的な出来事があったわけではないし、親の育て方に問題があった感じもしないので、生まれ持った性格だろうと思います。
せめていつか死ぬときには赦されたい、と思っているのです。
誰から?
神からです。
それはキリスト教の神でも仏教のそれでもなく、この世界の全てを司る神です。
そして、きっと赦されるだろうとも感じています。
全ての人はきっと赦される。
感覚としてそう感じる、というだけなのですが。

そういう私にとって、『マタイ受難曲』は心に強く刺さる、重く響く、そういう曲です。とても厳しく、そしてこの上なく優しい曲です。
人は過ちを犯してしまう存在である。
でも自分の罪に向き合って生きていけば、私達は必ず赦される。
なぜなら私達の全ての罪を、イエスが自らの血と肉をもって贖ってくださったのだから。
この曲は、イエスの受難の悲劇と同時に、そういう強い安心感を与えてくれるんですよね。
神の子イエスが我々のためにした贖罪(人と神の和解)と、その根底にある愛。
それがキリスト教の本質なのだと、今回初めてちゃんと知った気がします。
キリスト教徒にとってイエスの受難は深く悲しむべき出来事ではあるけれど、同時に、イエスの愛によって新約が成された喜びの日でもあるんですね。

《マタイ受難曲》は、《ヨハネ》と比べて遥かに瞑想的、個人的な想いにつながる作品である。イエス・キリストは、私たちの「罪」のために死んだ。その「罪」を再認識して、この世をどう生きるか、それを考える機会となっているのが《マタイ受難曲》という作品だ。
鈴木雅明《マタイ受難曲》講演会レポート②

どんなに罪深い人でも本当に悔い改めたなら救われるのであれば、イエスはきっとユダのことも赦したのではなかろうか、彼は自殺しなくてもよかったのではないか、と思う。「ユダの失敗はイエスを裏切ったことではなく、イエスの愛を信じることができずに自殺したこと」という考え方があるそうです。まあ赦すのなら「彼は生まれてこない方がよかった」という言葉は酷だと思うけれど、このときのイエスは人間だし、自分を裏切って死に追いやる相手をそう簡単には受け入れられないよねえ(そもそもこの時のユダはまだ後悔してないし)。でもイエスが残した宗教は、そういう相手さえも「赦す」宗教なのだろうと、そうであるといいと思う。

そういう私なので、ペトロのアリア(39.憐れみたまえ)と、それに続くユダのアリア(43.私のイエスを返せ!)には、特に心動かされました。
そしてイエスが息を引き取った直後のコラール(62.私がいつの日か去りゆくとき)と、静かな夕暮れのゴルゴタの丘のバスのアリア(65.わが心よ、おのれを清めよ)。
今回はイエス役の方がバスⅠを兼ねていたので、65番のアリアは聴いていて涙が出そうになりました。
『マタイ受難曲』って凄絶なはずの場面でもなぜか明るい曲調だったりして、それが不思議な効果をもたらしているんですよね。鈴木さんは「このようなチグハグさを通じて、バッハは私たちもいつユダのようになるかもしれない、という戒めを伝えている」のだと仰っていました

鈴木雅明さん指揮のBCJ、素晴らしかったな。
品格を決して失わずに凄絶さと哀しみと清らかさを、一瞬も緊張を途切れさせることなく見事に聴かせてくださいました。
古楽器の素朴な音色、いいな。。。
合唱も、あんな少人数で歌っているとは思えない迫力で。「Wahrlich, dieser ist Gottes Sohn gewesen.(まことに、この人は神の子だったのだ)」、神々しかった…。
また第一部で少年少女合唱隊を使ったのは久しぶりとのことだけど(コロナ禍だったから?)、冒頭の曲は絶対に少年少女の声で歌われるべきであるように感じました。あそこで天使のような清らかな声が降ってくるかどうかで、あの場面から届くものは大きく変わるように思う。

エヴァンゲリストのトマス・ホッブスとイエスのマーティン・ヘスラー、どちらも役にぴったりでした。特にイエスの声ってとても難しいように思う。人間臭さと弱さを残しつつ、神の子の力強さと包容力のようなものも備えていなければならないのだもの。

また今回、席をR側にしたのは正解でした(ベストは正面席ですが)。メインの役の人達がほぼ皆さん舞台左手で歌うので、L側の席では見えないところでした。

BCJは毎年受難節の時期にこの曲を演奏しているそうなので、来年もまた聴きに行けたらいいな。
個人的には、大学時代にアメリカ南部で発症したキリスト教アレルギーを、今回だいぶ払拭することができてよかったです。バプティストの他宗教に対する排他主義は変わらず大嫌いだけど。※バッハはルター派で、鈴木さんはカルヴァン派です、念のため。
いま調べてみたところ、バプティスト教会全てがそうなわけではなく、「アメリカ南部バプティスト連盟」がキリスト教会の中でも非常に特殊な排他的かつ独善的な考え方を持っているそうで、キリスト教の内部でも懸念されているそうです。

バイブル・ベルト(アメリカ英語: Bible belt、聖書地帯)は、アメリカ合衆国の中西部から南東部にかけて複数の州にまたがって広がる地域で、プロテスタント、キリスト教根本主義、南部バプテスト連盟、福音派などが熱心に信仰され地域文化の一部となっている地域。同様にキリスト教会への出席率の非常な高さも特徴になっている。社会的には保守的であり、学校教育で進化論を教えることが州法で禁止されていたことがあるなど、キリスト教や聖書をめぐる論争の絶えない地域である。(wikipedia)

うちの大学はなぜそんな地域に交換留学生を行かせたのだろう。うちはキリスト教の大学でもないのに。20歳のときにそれを経験してしまったせいで、キリスト教アレルギーになってしまったではないか。でもある意味ではキリスト教の究極の保守的な面を経験できたことは、今となれば良い人生経験だったかも。ちょうど受難節のシーズンだったので町の教会のホールで行われるイースターの演劇を観に行った(行かされた)んですが、キリストの十字架場面では観客達が声を上げて号泣しているのよ…。そして復活場面では総立ちで拍手喝采の大興奮…。その場にいた私の気持ちを察してください…。
しかし数年後に友人から誘われて行った東京のバプティスト教会のミサも、驚くべき排他主義だったな。「イエスとブッダはどっちが上かー?」「イエスだ!」「イエスとアラーはどっちが上かー?」「イエスだ!」の掛け合いが行われ、「なぜならイエスだけが復活したからだ!」と結論付けられるのです。その場にいた私の気持ちを察してください…。あれはアメリカ南部系の教会だったのだろうか…(※追記:南部バプテスト連盟の宣教師によって日本にできたのが日本バプテスト連盟なのだそうです…)。
なおうちの大学とアメリカ南部の大学との交換留学制度は、数年で廃止になったそうです。明確な黒人差別も体験して、人生経験的に本当に濃い三ヶ月間だった…(もちろん、楽しいことも山ほどありました)。

「信仰とは天国に到達する手段」保守派のアメリカのクリスチャンの素顔(2)(wedge)

↑この筆者の方の経験は私より20年ほど前のものですが、私もまさに同じ地域で全く同じような経験をしました。

★★★オマケ★★★
BCJの今回の公演、字幕表示が一切ナシなのです、なんと。3時間以上の曲なのに。
この曲を聴くのは初めてだったので対訳付きの二千円のパンフレットを買ったのだけど、ホール内は暗くて老眼の目には文字なんて殆ど読めない。なので対訳を追うのは早々に断念。
でもそれなりには予習をしていったので(それなりには、ですが…)、第一部の後半だけちょっと場面を見失ったけれど、全体的にはほぼ迷子にならずに済みました。
私と同じマタイ受難曲初心者さんのために&来年以降の自分用覚書として、以下に今回の私がやってみた「しっかり予習する時間はないけれど最低限は押さえておく」方法を書いておきますね。

1.対訳付きの動画で予習する。
曲の全体像の把握には、こちらのサイト様に大変お世話になりました。

2.主要な「39.憐れみたまえ」と「49.愛によりわが救い主は死のうとされる」のアリアと、5回登場する「受難のコラール(15, 17, 44, 54, 62)」は、旋律と歌詞と場面をわかるようにしておく。また、それらの特徴も覚えておく。たとえば「39.憐れみたまえ」のフレーズはペトロの3回目の否認とそれに続くエヴァンゲリストのレチタティーヴォのフレーズと同じ、「49.愛により~」のアリアだけは通奏低音がない(愛というよりも罪を表している曲だから)、5つの受難のコラールはみな調性が異なる(最後から2つ目の「54.おお,血と傷にまみれし御頭」では最も高く、最後の「62.私がいつの日か去りゆくとき」では最も低い)、など。

3.重要なor聴き取りやすい単語だけは、動画を観ながら発音も含めて覚えておく(英語と似ているものも多い)。「Kommt(来なさい)」、「Sehet(見よ)」、「Wo? (どこ?)」、「Buß und Reu(悔い改めの気持ち)」、「Blute nur(流れよ)」、「verraten(裏切る)」、「Silberlinge(銀貨)」、「Liebe(愛)」、「Mein Vater(我が父)」、「Galiläa(ガリラヤ)」、「Gethsemane(ゲッセマネ)」、「kreuzigen(十字架)」、「Golgatha(ゴルゴタ)」、「Jesus(イエス)」、「Judas Ischarioth(イスカリオテのユダ)」、「Petrus(ペトロ)」、「Jesu von Nazareth(ナザレのイエス)」、「Pilato(ピラト)」、「Barrabam(バラバ)」、「Joseph(ヨセフ)」、「Maria Magdalena(マグダラのマリア)」、「Eli, Eli, lama asabthani!(エリ、エリ、ラマ アザプタニ!)」、など。

4.その他の個人的に好きなor覚えやすいと感じるアリアを、いくつか覚えておく。私の場合は「52.わが頬の涙」は伴奏が鞭打ちの場面と重なって覚えやすかったですし、「43.私のイエスを返せ!」や「65.わが心よ、おのれを清めよ」は好きだったので覚えられました。

以上で、少なくとも場面を見失うことはないかと。
たとえ迷子になっても、第二部は「Barrabam!(バラバ!)」のときか「Eli, Eli, lama asabthani!(エリ、エリ、ラマ アザプタニ!)」のタイミングで、確実に軌道修正できるので大丈夫です。
イエスが話すときには弦の長い和音が常に後光のようにあるけれど、最後の「Eli, Eli, lama asabthani!」のときにはそれがない、ということも覚えておくと尚よし。
これでもう怖くない、マタイ受難曲

※鈴木雅明《マタイ受難曲》講演会レポート

マタイ受難曲について鈴木雅明が語る
亡くなった友人が、鈴木雅明さんのファンでした。確か2016年のヤンソンスさんの川崎公演のときだったかな、帰りにロビーで見かけたって喜んでた。今ならもっと彼女と色んな話ができたのにな…とそんなことも思いながら、今日聴いていました。

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マタイ受難曲と坂本龍一と武満徹

2023-04-07 22:06:58 | クラシック音楽

今日は聖金曜日。
以下は、先月28日に亡くなられた坂本龍一さんの2014年のインタビューから。

――東日本大震災と原発事故はだれしもにとってたいへんショッキングなできごとだったと思います。坂本さんはどうお過ごしでしたか。

坂本龍一:うーん……、直後はやっぱり、音楽を聴く気になれませんでした。

――音楽家の方でも、音楽が聴けなくなるんですか。

坂本:ええ、(音楽家には)きっとそういう人は多いと思いますよ。それで、ずいぶんと経ってから……、ひと月ほど経ってからかな、やっと聴いてみようかなと思ったのは。

――そのときに、慰めや励ましになったもの、あらためて立ちかえったものってありますか。

坂本:それは、やっぱりどうしてもバッハの「マタイ受難曲」です。僕のまわりの音楽好きでも同じようにいう人は多いけれど、やっぱり特別な曲ですね。「またバッハか」と自分でもちょっとうんざりするようなところもありますが。

――特別というのは、どういうことでしょう。

坂本:この言葉、ほんとうに嫌いなんですけど、(バッハの曲を聴くと)まさに「音楽に救われる」という感じがするんですよ。癒される、慰められる思いがします。子どものころ、ケガをして痛かったときに、母がこうやって手をあててくれた(話しながら自身の左手を右腕にあてる)、そんな感覚と似ています。

――「手あて」ですね。

坂本:そう。手あてとか、頭を撫でてもらったりとか──そういうフィジカルな慰めってあるでしょう。あれって子どもにとってはとても大きなものじゃないですか。

――大きいですね。それがないとちゃんと生きていけないくらい。

坂本:僕にとって音楽による慰めっていうのは、そういう感じのものなんです。「お母さんの手」のようなもの。なにも音楽のすべてがそうだというわけじゃなくて、なかでも特別な曲がある。バッハの「無伴奏チェロ組曲」とか。そういう意味では、「癒し」という言葉は嫌いだけれど、僕もやっぱり音楽に慰められているんですよね。

 だから音楽ってやっぱりそういうことのためにあるのかもしれない、悲しみを癒すというか。だいたい古今東西、音楽というのは悲しいものが多いんですよ。

坂本:つくる側からいっても悲しい音楽のほうがつくりやすいんです。あかるく元気な音楽って、僕はつくれないですから。

――あ、つくれませんか。

坂本:ええ、まったくむりです。悲しいのはかんたんです。

――かんたんなんですか。

坂本:うん、悲しいのはかんたん(笑)。だから、人間というのはそっちのほうにできているんですよね。

――人間は、悲しいほうにできている……。

坂本:そう。音楽の大きなテーマは、亡くなった者、存在しなくなった者を懐かしむとか、思い出すとか、悼むとかいうことなんです。だから「葬儀」というのは人類普遍の大きなテーマですよね。

 亡くなった人のことを悼む、あるいは思い出す、そうすることで傷ついている自分の心をも慰めるということを、たぶんもう20万年くらい前、ホモ・サピエンスが生まれたころからずっとやっているんだと思うんです。

『もんじゅ君対談集 3.11で僕らは変わったか』より @じんぶん堂


バッハの曲を聴くと「音楽に救われる」という感じがする、わかるなぁ。。。
私自身も、眠れぬ夜にバッハの音楽に救ってもらった一人だから。バッハは私の命の恩人の一人なんです。
バッハの音楽ってキリスト教と強く強く結びついているけれど(マタイ受難曲などは特に)、それを超えた大きさがあるんですよね。
宗教アレルギーの私が言うのだから確かです笑。

坂本龍一さんの音楽は私はあまり詳しくなくて、『戦場のメリークリスマス』と『ラストエンペラー』と、あとはイギリスのハワースのB&Bで『嵐が丘』のDVDを観ながら「いい音楽だなあ」と思っていたら、エンドクレジットで「Ryuichi Sakamoto」と出て、おおっと驚くと同時に日本人としてなんだか誇らしく、嬉しくなったのが、懐かしい思い出です。って今知ったけれど、『御法度』もなのか…!あの音楽も独特の妖しい美しさと凄みが印象的でした。
ご冥福をお祈りします。

そしてマタイ受難曲は、武満徹が愛していた曲でもあったそうで。
立花隆さんによると、武満が亡くなる数日前にNHK-FMで放送されていた「マタイ受難曲」が彼が最後に耳にした音楽ではないかとのこと(wikipedia)。
谷川俊太郎さんは武満から「おまえの好きな音楽はみんな賛美歌みたいだ」とからかわれていたそうだけど、武満自身も賛美歌みたいな曲(マタイ受難曲には賛美歌が沢山出てくる)を愛聴していたんですねえ。
武満は新しい作品を書くときはいつもマタイ受難曲を聴いてから取りかかるのだと、インタビューで話しています。


対訳「マタイ受難曲」 全曲

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