風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

大鳥圭介ほか 『南柯紀行・北国戦争概略衝鉾隊之記』

2007-09-30 01:17:51 | 

蝦夷の事を思ひ出でて 
   えぞのうみのふかき心を人志らで ただ白浪の名をやわすらん

(大鳥圭介ほか 『南柯紀行・北国戦争概略衝鉾隊之記』)

大鳥圭介、今井信郎、小杉雅之進によるそれぞれの日記を、この順番で掲載しています。
なかでも大鳥の「南柯紀行」は特におすすめ!
大鳥については『大鳥圭介伝』がかなりオススメなのですが、なにせ高額すぎるのでまずはこちらからどうぞ。

「南柯紀行」は、江戸脱出~五稜郭降伏後の獄中まで大鳥がつけていた日記。
前半が戊辰戦争時の日記で、後半が降伏後の獄中日記という構成です。
戦闘記録の部分はさすが当事者の生の声だけあり、小説にはない迫力がある。
また、単なる戦闘状況記録だけではなく、「~の無事な姿に再会し涙を流した」とか「~でおにぎりをもらったが、2つは食べて、1つは包んで持っていくことにした」「ここには妓楼や温泉があるのだが多事のため休めず残念だった」とか日常的な記述も多く読んでいて楽しめる。

獄中の記録がまた面白い(榎本、大鳥、荒井など皆同じ牢)。
ノミや鼠、食事の内容、厠の様子まで実に詳しい。
「この牢屋はそもそも自分が建てたもので、そこに自分が入ることになろうとは笑うしかない」「この糾問所も徳川時代に自分と荒井が預かっていた所で、毎日出勤しては番兵が整列し捧銃(ささげつつ)をして敬礼していたものだが、今は囚人としてここに繋がれている。往時を思い出せば一場皆夢なり」「厠を汚したのは誰かということで皆が掃除を譲り合うのには閉口した」など、気の毒なのだがつい笑ってしまう文章も多い。
ワインの醸造方法を勉強したりと、大鳥の多趣味ぶりも健在。
また五稜郭の生き残り同士で壁越しに英語の授業もしていて、その向学心は感動的。

さらに、小遣いで買う物については、上に立つ一人が決めて残りの者はそれに従うのがそれまでの獄の慣習だったが、大鳥や榎本たちが入牢してからは皆で相談して決めることにした、など獄中まで封建制を廃止し共和制にしてしまうところはさすが笑!

以上は面白い部分ばかり紹介しましたが、一方で獄中で箱館を思い出していくつも詩を読んでおり、あたりまえだけれど相当深い感慨があったものと思われます。
以下の詩もそのひとつ。
「蝦夷の事を思ひ出でて えぞのうみのふかき心を人志らで ただ白浪の名をやわすらん」

※上の引用は私が現代語訳したもので、本の記述は文語。もっとも文語のわりには読みやすい文章です。
※「南柯」とは南を向いた枝のことで、中国の故事「南柯の夢」は”儚いこと”の意。

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『大鳥圭介伝』

2007-09-29 00:03:30 | 

其時分には原書と云っても妙な稽古の仕方で、今ならば英書を読むにも、仏書を読むにも、最初には単語の極く易いものを学んで、追々に其文に綴ったものを読み習はすのが今の仕方でありますが、其時分にはさう云うことをしないで、いきなり「グランマチカ」英書の「グラムマー」すなわち文法書で、御承知のとおり最初から長い文章が書いてある。
・・・・・・併し一向素人で、何も一語も知らぬものが始から名詞とか形容詞とか間詞とか云ふから、更に方角が立たぬ。誰も皆それには苦んで居る。
・・・・・・偶に寄るとこんなことをやって居っては仕方がないから、もっと物の分る仕方はないだろうか。文法書を読んでからは生理書、人身究理と称へる生理書、それを読む様になったから大分分かった。
其他に其時分、理学書「ナチュラルヒロソフィ」と云ふものがあって、万物の究理書、空気のこと、水のこと、引力、重力、寒暖の訳はどうだと云ふやうなことが、スッカリ出て居る。大分面白い。之は大分面白くなって来た。之が読める様になれば面白い。大分厚い本でありましたが、始終輪講をした。自分でも読んだが、同じようなことを皆寄ってやって居る。

緒方という人は大家ではあったですけれども、其時分は本が乏しいものだから、字引を合せて十部か十五部しかなかったのです。
其本はどうして得るかと云ふと、長崎に序のある時分に、長崎の通辞を頼んで、蘭人の持って来た本を買上げる。或は又和蘭の方へ注文してやったりして、漸くそれ丈集めた。
どの本でも一部より外ないから、それを先生が蔵してあるのを寄って写す写本で、それは誰でも半日は写本に掛って半日読むという風であった。
福沢なども皆それをやった。
読む人が多くて本が少ないものだから、又写しする。
私が写したのを其次の人が写し、夫れを又次の人が写すと云う風にやらんと、支へて仕方がない。マア写し取って輪講もしたり、講読もしたりして居る。
・・・・・・さうして私共は其貧書生だものですから、写字料を取って一枚幾ら位かマア今の十枚も写せば一銭くらいになりましたが、物の安い時分だから日に十銭も取れれば其日の食料や小使丈は出来ると云ふ訳で、立派な藩の人や、親が金持ちの人は、写本などはしないで本ばかり読むことをやったけれども、貧乏な人などは沢山居ったが、私なども貧乏な仲間だから、人の為に筆耕して、自分も写して居る。
早く云ふと二部も三部も写さなければならん。
それを以って飯を食って稽古をすると云ふことで、随分難儀な訳で、皆力を尽して居ったが、貧書生が揃って居るから、羽織は十人で一枚位、刀は十人で一本位。
皆其質に置いたり何かして持って居ない。
誰でも外へ出る時には借りて往く。
例へば湯に這入りに往くには、順番に往かぬと一緒には往けない。・・・・・・今帰って来たと云ふと、抛り出せと云ふ、宜しいと云ふて出す。
其の羽織を着て次の奴が往く。
塾中皆で五六十人乃至七十人も居ましたが、其中に羽織が三枚か四枚しかなかった。
(『大鳥圭介伝』)

明治32年6月から「太陽」に連載された大鳥圭介の自伝より。
インタビュー形式の口語調なのが面白い。
大鳥圭介というと、戊辰戦争~五稜郭か日清戦争時にその名前が歴史の表に出てきますが、この自伝ではその前半の半生を語っています。

赤穂の医者の家に生まれた圭介は、21歳のとき西洋学を志して大坂の緒方洪庵塾(適塾)に入塾する。
ここは、大村益次郎や福沢諭吉など数多くの逸材を出したことで有名な塾。
そんなエリート達が集まる塾だけど、その生活ぶりは壮絶の一言。
蘭語で書かれた原書は字引(辞書)を合わせても10~15冊しかないから、一冊の原書を半日かけて写して半日読む。
それでも時間がかかるので、一人が写したものをさらに他の塾生が写す。
貧乏な大鳥は自分以外の人の分も写してやり、写字料を稼いだりもしている。
貧乏学生ばかりなので羽織は10人に1枚、刀も10人に1本、無刀では歩けないから湯に入りに行くときは一人が戻ったら、その羽織と刀を借りて順番に湯に行くという状態。
すべては勉学のため。
こんなに勉強家の息子なら現代の過保護な親なら大喜びでお金を与えまくってしまうだろうが、圭介の親は「長い間は無理だが仕方がない」と渋々許しているのが面白い(だから学費も充分にはやらない)。

ちなみにこの自伝が掲載されている『大鳥圭介伝』。
私が読んだのは大正4年(1915)発行のものだけれど(図書館で借りた)、復刻版も出ているようなので興味のある方はどうぞ。
戊辰戦争時や五稜郭降伏後に獄中で書いた日記も掲載されていて、大鳥独特の感性が実に面白いのです。
かなりの高額ですが、小説にない面白さが満載で読み応えありますよ♪

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宮永 孝 『慶応二年幕府イギリス留学生』 1

2007-09-26 01:06:47 | 



「およそ人間社会は、優勝劣敗、適者は存し不適者は亡ぶ、という通則を実行する場所なのである。かつまた、たとえ優勝者といえども、いつも順境に存るのみというわけにはいかぬ。ずいぶん不幸にも遭遇することが多いのだ。さればいかにして楽しくかゝる行路の困難なる世を送るべきか。・・この荒波の世の中に辛苦を耐えざる時において、いかにして心胸の快活を得らるゝでしょうか。これ只に諸嬢の心がけ次第に存るのだ」
(宮永 孝『慶応二年幕府イギリス留学生』)

薩摩、長州ときて、最後は幕府留学生でございます。
薩摩や長州を読んでいたときは「幕府の英国留学生はきっともっと恵まれていたんだろうなぁ。密航じゃないしなぁ」と思っていたのだけれど、この本を読むと、必ずしもそうではなかったようだ。

すべての意味で一番恵まれていたのはおそらく薩摩だろう。そして金銭的には幕府は長州よりも恵まれていたかもしれないけれど、「留学」という意味では必ずしも恵まれてはいなかった。イギリス到着後比較的すぐにそれぞれが分宿し、さらにユニバーシティカレッジで学ぶことができた薩長留学生とは異なり、イギリス人監督者に恵まれなかった幕府留学生は、彼らの意思に反して日本人同士での同居を長く強いられたため語学の上達は遅れるし、やっと分宿を許されてカレッジへも通わせてもらえたかと思えば大政奉還で幕府自体がなくなってしまい、十分な知識を習得しないまま日本へ帰国させらるしで、まさに踏んだり蹴ったりだった。

そして帰国後の彼らだが、華やかに活躍した人もいれば、そのような機会に恵まれないまま人知れず人生を終えた人もいて、様々だ。
この本が特にスポットをあてている留学生取締役だった川路太郎の場合は後者である。上で引用した文章は、大正二年、淡路高等女学校の校長だった彼が卒業生へ送った訓示の一節だが、これはきっと、激動の時代に翻弄された彼の実体験から生まれた言葉なのだろう。

ちなみに、彼らが日本を出てからイギリスへ到着するまで辿ったコースは薩長と殆ど同じである。薩長幕、それぞれが当然バラバラで海を渡っているのに、香港のガス灯の夜景を「蛍の光のようだ」と感じ、蒸気機関車に驚き、ラクダをみたりしたことをそれぞれが日記等に全く同じように書き残しているのが可笑しい。

あと面白かったのは、外国人に日本の国のことを質問されて答えられない自分に困惑したり、英語をなかなか習得できない理由は自分の記憶力が悪いせいかと悩むなど、現代の私たちと何ら変わらない姿が彼らの日記や手紙からわかること。選ばれた教育を受けた武士の若者達でもそんな苦労があったんですね(^_^)
親しみを感じてしまいました。

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犬塚孝明 『密航留学生たちの明治維新(井上馨と幕末藩士)』

2007-09-25 01:39:20 | 



現代社会の基礎に存在するのは西欧近代である。その近代をどのように理解するかは、今や喫緊の課題とされる。押し寄せる国際化の波の中で、今こそ、その課題に応えてくれる歴史上の人物に学ぶ必要があるのではないか。信義と力、国際社会を律する普遍的法則の表と裏を明確にわきまえたうえで、西欧近代を導入し、日本の国家自立を促そうと考えた井上馨、その人間像を、多彩な留学生群像とともに多角的に描いてみようと思う。
国のかたちはどうあるべきか、世界的視野の中で問い続けてきた幕末留学生たちの熱い思いとその志を、新しい世紀に向けてつなげて行く、それがわれわれの使命であり、また義務ではなかろうか。
(犬塚孝明 『密航留学生たちの明治維新(井上馨と幕末藩士)』)

英国に留学中の井上聞多(後の馨)は、故郷の長州藩が外国船を砲撃したため四ケ国連合艦隊(英仏蘭米)との間で緊張状態にあることを知り、急遽伊藤俊輔(後の博文)とともに帰国する。
西欧近代文明をつぶさに見てきた井上は、藩政府に対し、攘夷戦争がいかに無謀であるかを訴え、今必要なのは攘夷ではなく開国であると涙を流して説得する。しかし完全に攘夷に傾いている彼らの心を変えることはできなかった。
しかしこの頃長州の主力部隊はすべて京へ行ってしまっており今はとても戦争などする余裕のない藩政府は、「外国船砲撃は朝廷の命令でやったにすぎない」と言い、戦争の引き延ばし作戦に入る。
井上はこの卑劣なやり方に憤慨しつつも、その旨を英国艦隊へ報告するが、交渉は物別れに終わる。
その直後、京において「禁門の変」が勃発する。
これにより長州は、外国艦隊のみならず、朝廷・幕府をも敵にまわすことになってしまった。
そうこうするうちに四ケ国連合艦隊との間でついに開戦(下関戦争)。
藩政府は、まずは幕府の征討軍と戦うのが先決と判断し、井上に連合艦隊との止戦交渉を命じる。
しかし井上は、「一旦開戦したからには国が滅びるまで徹底して戦うことこそ武士の面目・人の信義というものではないか」とあくまで徹底抗戦を主張し、次のように言うのである。

外国人は「信義を重んずる人間」である。もし、信義を軽んじて、約束を破るようなことがあれば、彼らは徹底して膺懲を加えるであろう。
君位が明確でなくては主義の貫徹は難しい。このような「飄々たる国是」では藩国の維持など到底できるものではない。
本当に「信義」をもって和を議するつもりであるならば、たとえ攘夷の勅命が下ろうとも、死を覚悟で諫諍申し上げるのが筋であろう。そもそも国家に尽くす道とは、「利害のある所を審かにして、君主をして其害を避け利に就くやうになす」ことではないのか。
攘夷は「国家の危害」であり、開国が「安全の策」であることを御理解いただけたなら、勅命といえども拒絶する覚悟で事にあたってほしい。それが「信義」というものである。(p163)

まぁ戦争を続けるべきか否かはともかくとして、この場面を読んで、以前、元国連大使の方がTVで次のように話していたのを思い出した。

「大切なのは自己のアイデンティティを持つことである。アメリカ人と同じように流暢な英語を話し、同じような価値観を持つことは要求されてはいない。自国に対する認識をしっかり持って初めて彼らと同じテーブルを囲むことができる」
「日本人として、一人の人間として、自分の意見をいつもはっきり持つこと。そうでなければ、これから日本人が立っていく国際社会の舞台で意見を言うことはできない」

こういう態度は、外交においてのみ言えることではなく、人と人の関係、一人の人間としてのあり方にも言えることだと思う。
自己のアイデンティティを確立するということは、同時にそれに対して責任を持つということだ。他人から批判される覚悟を持つということだ。

じゃあ私自身は?
責任や批判を避けるために、いつも自分のアイデンティティをわざと曖昧なままにしてこなかっただろうか。
そうすることでいつも逃げ道を用意していたような気がする。
幕末と異なり、膨大な情報が行き交っている現代で、自分の確固たるアイデンティティを持つのは、それ自体大変な労力がいる。
世の中の価値観をそのまま自分の価値観としてしまう方がずっと楽なのだ。
でも、こんな世の中だからこそ、常に感性のアンテナを伸ばし、自分の価値観をしっかり育くむことが、国にとっても、自分にとっても、大切になるんじゃないだろうか。

いままでは「井上馨」=「鹿鳴館」「西洋かぶれ」という印象が強かったのだけれど、この本を読んで、そんな印象をすっかり改めさせられました。
彼が行った政策の評価は別にして、彼もまた、当時の多くの志士達と同じように、その命を賭けてこの国のあり方を追求しつづけた人間だった。

この本は、先日ご紹介した『薩摩藩英国留学生』の長州版といった感じです。
なので彼らの出会いの場面など、重なる場面も多い。
もっともこちらはパイナップルに喜んだり、アイスリームに驚いたりというシーンは殆どありません。これは藩性の違い(笑)なのか、あるいは薩摩藩とは異なり悲惨の一言に尽きる極貧生活を送っていた彼らにはそんな余裕はなかったのかもしれません。
そんな彼らを金銭的に助けたのが薩摩藩留学生だったという点も感動的です。

井上や伊藤の師であった吉田松陰は、彼らより10年ほど前に同じように密航を計画して、捕縛されました。井上たちの頃でも命がけだった密航ですが、10年前はそれさえも不可能だった。
もし松陰が10年ほど遅く生まれていて無事留学をしていたら、歴史はどう変わっていただろうと想像する。松陰は処刑されることはなかった。そのかわり松下村塾も開かれることはなく、多くの志士達が育つこともなかった。
けれど歴史に「もしも」はないわけで、みんな生まれたその時代を精一杯に生きるしかないのですよね。

この本を読んだのはやはり数年前なんですが、まさか彼らの話が映画(=長州ファイブ)になるとはびっくり!
もうすぐTSUTAYAでレンタル開始なのですごく楽しみです(^^)

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犬塚孝明 『薩摩藩英国留学生』 2

2007-09-24 00:52:59 | 

「タイムズ」紙 1865年8月2日(水曜日) 第9面


『日本人のベッドフォード訪問』 (Visit of Japanese to Bedford)

  英国の農業や工業の知識を習得するために、サツマ候(Prince Satsuma)から派遣された日本人の一団が、土曜日、ベッドフォードの英国製鉄所(The Britannia Ironworks)を訪問した。ロンドン大学のウィリアムソン教授、グラスゴー大学の物理学の教授、ほかに彼らの研究の指導にあたっている優秀な科学者たちが、彼らに同行していた。日本人たちは、体格が蒙古人そっくりで、人々の興味をひいたが、彼らは工場の諸機械及びさまざまの操作過程に非常な興味を示し、種々の細部にまで驚くほどすばやい理解を示した。彼らは、工場を大変離れがたい様子であった。しかし、最新式蒸気船の機関が動き出すと、およそ15名ほどの日本人たちは、地歩を占められる所ならどこへでも殺到して行った。どれほど大喜びで彼らがこの工場の広い敷地を縦横に動きまわったか、それはひどく楽しい光景であった。
  ここで三時間を過ごした後、彼らはベッドフォード市長のジェームズ・ハワード(James Howard)氏と昼食を共にし、クラファム(Clapham)にあるハワード農園の蒸気鋤の見学に出かけた。彼らの驚きは頂点に達したように見えた。その操作が、考えていたよりもはるかに簡単であることがわかったのである。刈取機の操作も速やかに、しかも器用にこなした。引続き一行は、チャールズ・ハワード(Charles Howard)氏の、有名な短角牛と羊を見学するためにバイデンハム(Bidenham)を訪れた。そこで市長と晩餐をとった後、ベッドフォード訪問が実に楽しかったことを述べ、英国人たちの親切なもてなしに感謝の意を表して、最終列車でロンドンへ向かった。
 

------------
一行は、午後9時半発車の最終列車でベッドフォード市を発ち、ロンドンに着いた時には、すでに11時半をまわっていた。

(犬塚孝明『薩摩藩英国留学生』より)

 

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犬塚孝明 『薩摩藩英国留学生』  1

2007-09-23 00:29:12 | 



この時、彼らは初めて「パイナップル」と称する珍果を食して、その美味に驚き、市来は「その味は日本の桃の如く、形は丸く少し長く、皮は松の皮に似て黄色、実白く漢字に訳して松カサクタモノと云」と記している。(p40)

食事の際に、「アイスクリーム」なる氷菓子が出たのも、この航海中であった。これもまた、彼らがはじめて喫食するものであったが、氷は寒い時にできるものだという観念があるものだから、このような炎熱下で氷を食することに対して、ひどく奇妙な感じを受けたらしい。(p42) 

私は、彼らの行動を丹念に跡付けることによって、彼らが「西洋との接触を通じて、その内部に「国家」という概念を形成していく過程を追いながら、留学生たちがしだいに「藩人」から脱却していく姿を、この小著の中で描いてみたかった。(p169)

(犬塚孝明 『薩摩藩英国留学生』)

260年続いた徳川幕府が終焉を迎えつつある元治2年(1865年)、平均年齢20歳前後の若き15人の薩摩藩留学生が、海外渡航という国禁を犯しイギリスへと旅立った。

もう何年も前に読んだ本です。
私のいた職場には色々な国の人間がいました。お国の違いなのか単なる人間性の違いなのか、彼らの意外な面に呆然とし、こちらもどういう態度を取るべきなのか悩まされることもしばしば・・・。語学力も十分ではないからそのストレスは生半可ではありません。
そんなときふと、幕末の密航留学生の存在を思い出しました。260年続いた鎖国の国から海を渡った彼らは、異国を目の当たりにして一体何を感じ、どんな反応を示したのだろう。そこに何か答えがあるような気がして、さっそく図書館へ行って借りてきたのがこの本でした。

そこで目にしたのは、好奇心一杯の真っ直ぐな心をもつ眩しい若者達の姿でした。
自分よりはるかに優れた科学を持つ外国人に対して決して劣等感を感じたり、卑屈になったりはしません。
また、国の危機を救うため悲痛な思いで日本を発った彼らですが、実際に旅が始まると、初めてみる世界を前にその好奇心を隠そうとはしない。初めて食べるパイナップルに無邪気に喜び、外国人の挨拶である接吻に仰天し、初めてみる珍妙な動物「ラクダ」に夢中になってしまったり。
そしてロンドンへ到着してしばらくたった頃、彼らは驚くべき知らせを耳にします。
なんと、彼らより一年も前に長州藩の密航留学生がロンドンへ渡っており、現在もユニバーシティ・カレッジで勉学中だというのです。
日本では関係の最悪な薩長両藩に属する彼らですが、遠い異国の地で互いに交流を重ねる様子はとても微笑ましいものがあります。

また、ある日、彼らは連れ立ってロンドン郊外の製鉄工場へ見学へ行くのですが、その時の様子が当時の「タイムズ」紙で紹介されています。これを読むと、彼らが西欧の先進的な機械を前に目を輝かしている様子が目に浮かぶようです。黎明期の若い日本と日本人の姿は、現代を生きる私にはとても眩しく感じました。

この本の最後には、帰国後彼らがどのような人生を歩んだのかが紹介されています。
人生の同じ時期に同じように異国を体験し、帰国後はそれぞれに日本の近代化に多大な貢献をした彼らですが、その最期は劇的なほど様々でした。
そこに、人というものの多様さと人生の不思議さを感じます。

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相川司/菊池明 『新選組実録』

2007-09-22 21:00:29 | 



「我兵に限り有り、官軍に限り無し。一旦の勝ち有るといえどもそれ必敗に終わる、鄙夫(ひっぷ)すらこれを知る。しかるに吾れ任ずる所に敗れるは、すなわり武夫の恥なり。身を以ってこれに殉ずるのみ」
(大野右仲『函館戦記』にある土方歳三の言葉。相川司/菊池明『
新選組実録本文より)

小説ではなく、史実の新選組について少し詳しく知りたいと思っている方におすすめ。文章も読みやすいし、ボリュームは軽めなのに情報量は十分。
著者のお2人は、司馬遼太郎さんの『燃えよ剣』から新選組に興味をもたれたというだけあり、痒いところに手が届くような嬉しい本でした。史実に沿って淡々とこの組織の変遷を追いつつ、肉声やエピソードもたっぷり交えてあって読んでいて飽きません。参考文献が明らかにしてある点も嬉しい。
箱館戦争終結時を新選組の最後とするなら、この組織の最後の2~3年のめまぐるしさは信じがたいほどです。時代の急流にのまれ息つく暇もないままその最後まで駆けぬけてゆく。
京都時代のみならず箱館時代についてもしっかり触れられています。
そして「あとがき」で紹介されている新選組生き残り隊士の言葉とそれに対する著者の感想が印象的でした。

(明治39年に新選組研究家から照会を受けた元隊士近藤芳助は、)「新選組の事跡、またその歴史は江湖にいささかも残らざるよう、迂生(自分)等の希望するところなり。何故とならば、たとえ僅かに美挙あるも大体において大義を誤る蛮勇者の集合と云うよりほかに名義なし」「今日無事に生存致し、誠に往時を思えば、長き悪しき夢を視ており申し候」と感慨をこめて回想している。だが、近藤芳助の書簡は数メートルにもおよぶ長文であり、そこには右記のネガティブな表現とは裏腹に「血気夢中時代」とも記され、青春の情熱がほとばしっているように感じられる。

これが全てではないはずだけれど、明治後このような複雑な思いを抱えて生きた隊士はきっと多かっただろうと思う。明治の世に生きる身には新選組時代はそれこそ悪夢のようにも思えただろう。けれどそこには若さにあふれた自分達が確かにいて、明治の世にはない生々しい生と死の緊張感があった。幕末という激動の時代が生んだこの組織の光と影。その一面を垣間見たような気がした。

※写真:清水寺から臨む京の夜景

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佐々木譲 『武揚伝』

2007-09-20 16:18:58 | 

【五稜郭】

「北斗七星と北辰、子ノ星のある場所をよく覚えておくのだ」と父親は釜次郎に言った。
「この星さえ見つかれば、見知らぬ土地でも、海の上にあっても、方位がわかる。この星は、不動だ。いつでも空の同じ位置にある」
「北斗七星の柄杓の柄の部分の星の名も知るといい。一番端の星を、剣先星とも言うし、破軍の星とも呼ぶ。・・・つまりこの星は、将軍の星だ」
「その破軍の星の横にある星は、武曲とも呼ばれ、開陽ともいう。開陽とは、陽が開く、つまり朝がくる、という意味だ」

(佐々木譲 『武揚伝』)

榎本武揚が主人公の長編小説。
うん、面白かったです(^^)
最終章がよかった。ありがちだけど、ああいうラストは好きだ。

榎本も、ほぼ私のイメージどおりに描かれていたし(=頭がよくて、坊ちゃんぽいくせに変に大胆なところがあって、開明派なくせに万年夢見がち少年)。
少々ヒーロー的に描かれすぎてる感はあったけど(もうすこしヘタレの方が魅力的だったと思う)、まぁ主人公なのでよしとします。

あと大鳥圭介の描かれ方もよかった。
司馬さんの『燃えよ剣』は大好きな作品だけど、大鳥の評価が酷くて不満だったのですよ。
一方佐々木さんは、勝海舟を相当酷い扱いにしていますね。この点が、ちょっと不満かな。
男性作家は敵味方をはっきり区別して描くのが好きですねぇ。
私などは「それぞれに事情があっただろうから、ここまでこき下ろさんでも。。。」とつい思ってしまうのだが(だから『地虫鳴く』のような作品にすごく共感する)。

土方歳三も悪く描かれていなくて安心しました。
箱館政府に関してはどの人物も私の理想的な描かれ方だったので、大変満足。

ブックオフで、まだ全然綺麗なのに文庫一冊105円で買いました。
以前私が100冊売ったときに買値が760円と言われ驚愕したのですが(一冊7円!)、この本を105円で売っているのなら、さもありなん・・・。

「これからは、ことあるごとに、自分はオランダに行きたいと言い続けなさい。それを口にしなさい。アメリカ人は言うのです。望まないことが手に入る確率よりも、望んだものが手に入る確率のほうがずっと大きいと」

【碧血碑】

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木内昇 『新選組 幕末の青嵐』

2007-09-19 03:08:20 | 

 仕掛けていかなければ飲み込まれる。そういう気の抜けない日々を選んでしまったことを、自分で疑う瞬間もある。もっと楽な生き方もあったはずだ、と自問する。
 それでも、今やらないでいつやるのだ、と思うのだ。
 ゆとりある時間の中で気ままに好きなことだけをやっていても、それがどこにも繋がっていかない、自分をなにひとつ反映していない暮らしの辛さを、土方は若い頃に経験しているからだ。あの緩慢な生活の中で抱いていた途方もない焦燥に比べれば、難題まみれで先は見えないが、すべてが自分を通過していく今の仕事は、むしろ贅沢だとすら思っている。
 逃げ場はどこにもなかったが、全部を自分で背負っていけることの痛快さを、この居場所を得てからというもの、これでも、未だ飽かずに味わっているのだ。
(p167)

 表面的な体裁を整えるだけならたやすい。時代を見て、怪我をしないよう適当に流れていけばいい。
 それでも、自分の実体がないところで事を成すことの虚しさを上回るものなど、この世にないんじゃないだろうか。自分まで騙して保身に走る醜悪な人間たちを、京に上ってから随分と見てきた井上には、そう思えてならなかった。
(p360)

「土方さん。私は、剣の勝負に勝って、でも『負けた』と思った試合がいくつかあるんです。・・・・・・それはね、自分の思った剣が振るえなかったときなんだ。はっきりはわからないけど、『なんか違うなぁ』って思いながらやっている。結果勝っても、それはやっぱり負けなんです。勝っても負けているのは、負けるよりずっと辛いんだよなぁ。負ければまだ学べるけど、ごまかして勝つと情けないだけだ。自分ではない剣を使っても意味がないですからね。もっとピーンとしていないと。それは勝負以前の問題かもしれないですけどね」
(p419)

「この戦に勝つか負けるかはわかりませんが、土方さんは間違わないから大丈夫です。あの人はああ見えて、全部自分の中に理由があるんだ。理由の見つからないことはしないんだ。それは私が唯一負けているところだな。あ、これは内緒ですよ。あとで威張られるといけないから。でもね、そういう人は時勢なんかには邪魔されないんです。見た目には邪魔されていても、根っこのようなところは、なににも邪魔されていないんだ」
(p470)

(木内昇 『新選組 幕末の青嵐
』より)

やっぱり好きだなあ、このひとの文章。
『地虫鳴く』にくらべて、一人称なのか三人称なのかわかりにくい部分があったり、描き方も少々ひっかかる部分がなくはなかったけど、それでも充分に★5つです。大満足。
しかし『地虫鳴く』でも思ったが、木内さんの描く斎藤、とんでもなく偏執的なのに、とんでもなくカッコいいな。。。

同じ手法(複数の人物視点で並行して描く方法)で、尊攘派&新選組の組み合わせを描いてくれないだろうか。
すっごい読みたい。接点が少なすぎてムリかなー。

30になってようやくわかったこともある。
でも、あの頃だってわかっていたはずなのに、世間とかくだらないことに振り回されて勝手に不安になって、自分を抑えてしまっていたことも沢山あって。
自分で自分の未来を閉ざしていた私がいて。
もし高校生や大学生の私に会うことができるなら「こんな風に生きな!」ってアドバイスしたいことが山ほどある。
でも悲しいかな、それができないのが人生。前に進むしかない。
だから、10年後の私が今の私を振り返ったときに「よくやった!」って言いたくなるような生き方を、今から未来に向けてしていきたいと、思うのです。
ということを学べたのだから、年をとるのも悪いことばかりではないということか。

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司馬遼太郎 『峠』

2007-09-13 01:20:18 | 


人間万事、いざ行動しようとすれば、この種の矛盾がむらたるように前後左右にとりかこんでくる。大は天下の事から、小は嫁姑の事にいたるまですべてこの矛盾にみちている。その矛盾に、即決対処できるには自分自身の原則をつくりださねばならない。その原則さえあれば、原則に照らして矛盾の解決ができる。原則をさがすことこそ、おれの学問の道だ、と継之助はいう。

・・・・・・

「世は、絵でいえば一幅の画布である。そこに筆をあげて絵をかく。なにを描くか、志をもってかく。それが志だ」

・・・・・・・

旅は常に自分に冷やかな寝床を提供してくれるであろう。外界との対決が――対決とは大げさだが――それが淋しさのかたちをとるにせよ、憤りのかたちをとるにせよ、新鮮な驚きのかたちをとるにせよ、継之助の心を瞬時も休めないであろう。旅にあってこそ心が躁(さわ)ぎたて、弾みにみちあふれるようにおもえる。その状態に心をおかねば、この胸中の問題は解決すまい。

・・・・・・・

「寅や・・・・・・このいくさがおわれば、さっさと商人になりやい。長岡のような狭い所に住まず、汽船に乗って世界中をまわりゃい。武士はもう、おれが死ねば最後よ」

(司馬遼太郎 『』)


「河合継之助のような人間を持ったことははたして藩にとって幸か不幸か・・・」
作中、登場人物達により幾度も繰り返される問いである。
継之助はその卓越した頭脳と行動力により日本随一の砲兵団を作り上げ、それにより長岡藩という小藩をして一個の独立国にすることを夢見た。
しかし結果として、継之助ひきいる長岡藩は維新史上最も激烈な戦いとなる北越戦争へと突入してゆくことになる。

司馬さんは短編『英雄児』において、継之助の英雄ぶりとともに、このような英雄を持った小藩の不幸を描いた。
そして3年後、同じ河合継之助を主人公にし、全く別の視点、「武士」というものに焦点をあてた長編を発表した。
それがこの『峠』である。
継之助は福沢諭吉に劣らぬ開明論者で封建制の崩壊を誰よりも見通していながら、諭吉とはまったく違う道を選ぶ(この2人の掛け合いは私の最も好きなシーンである)。
自分自身の原理原則、“志”に従った結果である。
継之助の志とは、「長岡藩士として藩をいかによくしてゆくか」ということであった。
人は立場の中で生きているという信条をもつ継之助にとって、彼の仕えるべき場所は長岡藩以外にあり得ないのである。
新時代の申し子のような諭吉と異なり、継之助は心の底からの「武士」だったのだ。
やがて時代の急流は瞬く間に国中をのみ込み、時勢は圧倒的に薩長につく。
長岡藩に対しひたすらな屈従を強い、一方的に軍資金の献上を命じる新政府軍に対し、継之助は中立の立場を貫くべく奔走するが、交渉は決裂。
悲しいまでに「武士」であった継之助に残された道は、ひとつしかなかった。
それは、自らの人生をかけて築き上げた長岡藩を自ら砕くこと。
彼は、たとえ全藩戦死し長岡の地が焦土と化そうとも、最後まで戦い抜くことを決意する。
薩長と長岡藩のいずれが正しいか、その判断は百年後の人々に委ねて――。
司馬さんはあとがきで次のように言っている。
「幕末期に完成した武士という人間像は、日本人がうみだした、多少奇形であるにしてもその結晶のみごとさにおいて人間の芸術品とまでいえるように思える」

遠い昔この国に武士という人種が生まれ、時代の中でその精神美は究極なまでに磨かれた。
負ける戦と知りながら長岡を焦土にし多くの犠牲者を出した継之助の行いを考えると、それが「多少奇形」であったことは否定できない。
しかしそれでもなお、後にも先にも二度と現れないであろうこの奇跡のような精神美をもった人々が時代の流れの中で消えてゆく様は、仕方がないとはいえ、やはり悲しい。
しかし悲しみだけではない。
一方で継之助の生き様は、今も私達に強烈な問いを投げかける。

あなたは志ある人生を生きているか、と。

時勢のままに流されて生きるのはとても楽である。
傷つくこともなく、また傷つけることもない。
だが――。

この究極的な武士の美を描いた『峠』に、私は司馬作品の典型を感じる。
司馬さんが描くもの、それは人生の美である。
ただ生き伸びるだけの人生ではなく、“志”ある人生が放つ美である。
継之助が極端なほどに貫いたものである。
 
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