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風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

ロンドンうるるん滞在記&査証申請

2007-11-30 01:31:27 | 倫敦うるるん滞在記

カテゴリーを追加しました。
来年の年明けから一年間ほどロンドンへ行くことになりまして。
我ながらひねりのないカテゴリー名・・・と思うんですけど、考えるのが面倒くさく。ダメ人間。

前々から一度は海外長期滞在したいなーとは思っていて、このブログにやたらと好きな言葉を引用していたのも、海外へ好きな本を全部持っていくわけにはいかないし、でも彼ら(本)なしの生活なんて私には耐えられないっっっとという理由もあったのです。
好きな文章をブログにあげておけば、海外でも読めるなーと思って。
苦肉の策(笑)
便利な時代ですねー。

楽しいことも楽しくないことも沢山あるのが人生なので、ロンドンへ行っても色々な思いをするのでしょうが、せいぜいがんばって勉強してきたいと思います。
ていうか死なずに無事に帰ってきたいです(←笑えない)

このブログは、更新頻度は落ちるとは思いますが、自分用の日記代わりにもなるので、ネットカフェなどからときどき更新できたらいいなぁと思ってます。
なので、これからもどうぞよろしくお願い致しますね(^^)
本当はコメントを受け付けられたらいいのですけど。
基本が怠け者なもので、管理できる自信がないのです。。

さて。
昨日は午後からVISAの申請に行ってきました。
英国VISAは今月上旬に手続き方法が大きく変わり、ネット情報などをあてにできず困りました。
大使館のサイトも詳しい説明は全部英語だし。
でもなんとか、こんな感じか~?ダメなら何か言ってくるだろうと見られる程度の申請書類を整え、いざ新橋のVISA申請センター(ここも今月新設された)へ向かったのですが、部屋にはだ~れもおらずがらーん・・・・・・としている。
へ・・・・・?と拍子抜けしていると、ガードマンらしき方が「申請にいらしたんですか?」と聞くので「はい」と答えたら、奥に女性を呼びにいってくれまして、その女性曰く「イギリス本国の方でシステムトラブルが起きて、コンピュータが全部シャットダウンしてしまっている。申し訳ないが、半蔵門の英国大使館へ行ってくれないか」と・・・・・。
半蔵門って簡単に言うけど遠いんですけど~~~~~~・・・・・・。
しかし行くしかない。
行きましたよ。
新橋から銀座線に乗り、三越前で乗り換えて半蔵門線で数駅。そこから徒歩10分。寒かった・・・。

入口で携帯電話を預けて、セキュリティーチェックを通って、小さな査証部門の建物へ入ったら5~6人の先客が座っていました。
そして自分の番が回ってきて申請書類提出して会計を済ませるまで、なんだかんだ1時間以上かかったんじゃないかしら。
待ち時間がいじょーに長かったっす。
払った額は〆て24,460円なり(高っ)

しかしあらためて見ると英国大使館って建物がすごく素敵なんですね~。
横浜の開港資料館みたい(←明治時代の英国総領事館)。
いつもお堀のあたりから遠目に見ているだけだったので、知りませんでした。
ちょうど大使館内や向かいの千鳥ヶ淵の木がみんな紅葉していて、来てよかったかも。こんなことでもないと大使館なんて入る機会はないですしね。
申請センターを通していない今日の人たちの分は最後まで大使館が面倒をみるとのことで、パスポートも後日大使館から郵送されてくるそうです。郵送か直接受取かはこちらで選べました。

VISA申請をした後は海外で利用できる口座の話を聞きに銀行へ行こうと思っていたのに、こーゆーわけで結局VISAだけで終わってしまいました。
あーあ、明日にでも行くか。ていうかもう今日ですね。
めんどうくさいなあ(仕事していないのだからそれくらいやれ)

そうそう。
千鳥ヶ淵の英国大使館は高村女史の「リヴィエラを撃て」の冒頭でジャックが殺される前に連行される場所でございます。
あの「1992年1月東京」の章、すごく好きなんですよー。寒々しい空気が伝わってくるようで。
ラストのアイルランドの章とセットで読んで、いつも身悶えてます(文章がカッコよすぎ)。
今回の留学先がロンドンなのは偶々私のやりたいコースがロンドンにしかなかったからなんですけど、なかなか萌えドコロの多い街なので飽きなくて済みそうです。
漱石記念館も絶対に行くぞー。

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漱石の手紙(→久米正雄・芥川龍之介) 大正5年8月21日

2007-11-22 00:58:46 | 


 勉強をしますか。何か書きますか。君方は新時代の作家になるつもりでしょう。僕もそのつもりであなた方の将来を見ています。どうぞ偉くなって下さい。しかしむやみにあせっては不可(いけ)ません。ただ牛のように図々しく進んで行くのが大事です。文壇にもっと心持の好い愉快な空気を輸入したいと思います。それからむやみにカタカナに平伏する癖をやめさせてやりたいと思います。これは両君とも御同感だろうと思います。
 今日からつくつく法師が鳴き出しました。もう秋が近づいて来たのでしょう。
 私はこんな長い手紙をただ書くのです。永い日が何時(いつ)までもつづいてどうしても日が暮れないという証拠に書くのです。そういう心持の中に入っている自分を君らに紹介するために書くのです。それからそういう心持でいる事を自分で味(あじわ)って見るために書くのです。日は長いのです。四方は蝉の声で埋っています。 以上。

大正5年8月21日、漱石が久米正雄・芥川龍之介へ宛てた手紙。
この年の12月9日、彼は『明暗』を執筆途中で亡くなりました。49歳でした。
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夏目漱石 『模倣と独立』

2007-11-21 00:54:43 | 



 人間というものには二通りの色合があるということは今申した通りですが、このイミテーションとインデペンデントですが、片方はユニテー――人の真似をしたり、法則に囚われたりする人である。片方は自由、独立の径路を通って行く。これは人間のそのバライエテーを形作っている。こういう両面を持っているのではありますけれども、先ず今日までの改正とか改革とか刷新とか名のつくものは、そういうような意味で、知識なり感情なり経験なりを豊富にされる土台は、インデペンデントな人が出て来なければ出来ない事である。もしそれが出来なかったならば、われわれはわれわれの過去の歴史を顧みて如何に貧弱であるかということを考えれば、その人は如何にわれわれの経験を豊富にしてくれたかということが能く分るのであります。その意味でインデペンデントというものは大変必要なものである。私はイミテーションを非難しているのではないけれども、人間の持って生れた高尚な良いものを、もしそれだけ取り去ったならば、心の発展は出来ない。心の発展はそのインデペンデントという向上心なり、自由という感情から来るので、われわれもあなた方もこの方面に修養する必要がある。そういうことをしないでも生きてはいられます。また自分の内心にそういう要求のないのに、唯その表面だけ突飛なことを遣る必要は無論ない。イミテーションで済まし得る人はそれで宜しい。インデペンデントで働きたい人はインデペンデントで遣って行くが宜しい。インデペンデントの資格を持っておって、それを抛(ほう)って置くのは惜しいから、それを持っている人はそれを発達させて行くのが、自己のため日本のため社会のために幸福である。こういうのです。

 繰り返して申しますが、イミテーションは決して悪いとは私は思っておらない。どんなオリヂナルの人でも、人から切り離されて、自分から切り離して、自身で新しい道を行ける人は一人もありません。・・・・・・

 要するにどっちの方が大切であろうかというと、両方が大切である、どっちも大切である。人間には裏と表がある。私は私をここに現わしていると同時に人間を現わしている。それが人間である。両面を持っていなければ私は人間とはいわれないと思う。唯どっちが今重いかというと、人と一緒になって人の後に喰っ付いて行く人よりも、自分から何かしたい、こういう方が今の日本の状況から言えば大切であろうと思うのであります。

(夏目漱石 『模倣と独立』より)

大正2年12月12日、第一高等学校において講演。

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漱石の手紙(→中川芳太郎) 明治39年7月24日

2007-11-20 00:19:29 | 

 世の中が恐ろしき由、恐ろしきやうなれど存外恐ろしからぬものなり。もし君の弊を言はば学校にゐるときより君は世の中を恐れ過ぎてゐるなり。君は家にをつておやぢを恐れ過ぎ、学校で朋友を恐れ過ぎ、卒業して世間と先生を恐れ過ぐ。その上に世の中の恐ろしきを悟つたからかへつて困る位なり。恐ろしきを悟るものは用心す。用心は大概人格を下落せしむるものなり。世上のいはゆる用心家を見よ。世を渡る事は即ちこれあらん。親友となし得べきか。大事を託しべきか。利害以上の思慮を闘はすに足るべきか。
 世を恐るるは非なり。生れたる世が恐ろしくては肩身が狭くて生きてゐるのが苦しかるべし。
 余は君にもつと大胆になれと勧む。世の中を恐るるなとすすむ。自ら反して直(なお)き、千万人といへどもわれ行かんといふ気性を養へと勧む。天下は君の考えふる如く恐るるべきものにあらず、天下太平なるものなり。ただ一箇所の地位が出来るか出来ぬ位にて恐ろしくなるべきものにあらず。どこまで行つても恐るべきものにあらず。免職と増給以外に人生の目的なくんば天下はあるいは恐ろしきものかも知れず。天下の士、一代の学者はそれ以上に恐ろしき理由を口にせずんば恥辱なり。勉旃(べんせん)勉旃。・・・・・・・


明治39年7月24日、夏目漱石から中川芳太郎に宛てた手紙。

 

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夏目漱石 『草枕』と明治39年10月の手紙

2007-11-19 23:43:42 | 

 山路を登りながら、こう考えた。
 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。……
 世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏のごとく、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。三十の今日はこう思うている。――喜びの深きとき憂いよいよ深く、楽みの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片づけようとすれば世が立たぬ。……

(夏目漱石 『草枕』)

あまりに有名な、そして私の大好きな『草枕』の冒頭。
この草枕が世に発表されたのは、明治39年9月。
この一ヶ月後、漱石は友人に次のような手紙を書いています。

明治39年10月23日 狩野亨吉宛

御存知の如く僕は卒業してから田舎へ行ってしまった。・・・・・・当時僕をして東京を去らしめたる理由のうちに下のことがある。――世の中は下等である。人を馬鹿にしている。汚い奴が他ということを考慮せずして衆を恃み勢いに乗じて失礼千万な事をしている。こんな所にはおりたくない。だから田舎へ行ってもっと美しく生活しよう――これが大なる目的であった。然るに田舎へ行って見れば東京同様の不愉快な事を同程度において受ける。その時僕はシミジミ感じた。僕は何が故に東京へ踏みとどまらなかったか。彼らがかくまでに残酷なものであると知ったら、こちらも命がけで死ぬまで勝負をすればよかった。・・・・・・第一余が東京を去ったのからして彼らを増長せしめた原因を暗に作っている。余は余と同境遇に立つもののために悪例を開いた。自らを潔くせんんがために他人の事を少しも顧みなかった。これではいかぬ。もしこれからこんな場合に臨んだならば決して退くまい。否進んで当の敵を打ち斃してやろう。・・・・・・僕は洋行から帰る時船中で一人心に誓った。どんな事があろうとも十年前の事実は繰り返すまい。今までは己れの如何に偉大なるかを試す機会がなかった。己れを信頼した事が一度もなかった。朋友の同情とか目上の御情(おなさけ)とか、近所近辺の好意とかを頼りにして生活しようとのみ生活していた。これからはそんなものは決してあてにしない。妻子や親族すらもあてにしない。余は余一人で行く所まで行って、行き尽いた所で斃れるのである。それでなくては真に生活の意味がわからない。手応(てごたえ)がない。なんだか生きているのか死んでいるのか要領を得ない。余の生活は天より授けられたもので、その生活の意義を切実に味わわんでは勿体ない。金を積んで番をしているようなものである。金のありたけを使わなくては金を利用したといわれぬ如く、天授の生命をあるたけ利用して自己の正義と思う所に一歩でも進まねば天意を空(むなしゅ)うする訳である。余はかように決心してかように行いつつある。今でも色々な不幸やら不愉快がある。思うに余と同様の境遇に置かれた人ならば皆この不幸を感じこの不愉快を受くるであろう。しかして余はこの不愉快を以て余の過誤もしくは罪悪より生じたるものとは決して思わざるが故にこの不愉快及びこの不幸を生ずるエヂェントを以て社会の罪悪者と認めてこれらを打ち斃さんと力(つと)めつつある。ただ余のために打ち斃さんと力めつつあるのではない。天下のため。天子様のため。社会一般のために打ち斃さんと力めつつある。しかして余の東京を去るはこの打ち斃さんとするものを増長せしむるの嫌(きらい)あるを以て、余は道義上現在の状態が持続する限りは東京を去る能わざるものである。

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明川哲也さん

2007-11-12 00:29:22 | テレビ

時折、知らない街を歩いて飲んでみるのもいいものですよ。それはつまり、硬い壁を作らずに、出会う人は一様に受け入れてみたら、というアドバイスです。人生を彩るのは車窓の景色ではなく、人間によって作られていく景色ですから。ボクも最近、やっとわかってきたことなんですけれどね。

・・・・・・

人それぞれですから、その価値観は異なります。長期にわたった人生設計が一番大切だと主張する人がいれば、1日にすべてがあると考えている人間もいる。

心機一転、後者の考え方を取り入れてみるのはどうでしょう。過去や未来の自分に対してうじうじするぐらいなら、あなたもまず、今日1日、明日1日を全うすることだけを考えてみたら。思い煩って陰気になっていることそのものがもったいないもの。人生のひとつの正体は時間だから。

(明川哲也の
俺がきいちゃる


大学時代に深夜番組で金髪先生を偶然見たとき、こんな大きな心の人がいるんだなぁと感心したものだった。
当時も何かとあーだこーだと悩んでいた私は、だいぶ救われたものでした。

その後、消息もわからず(私もあえて探そうとはしなかったが)、でも心のどこかでずっと気になっていたこの人が、2年ほど前、相変わらずうだうだと悩んでいた私の前にひょっこり顔を出した。
それは仕事の合間に眺めていた転職サイトの転職&人生相談コーナーでだった。

そこには「金髪先生」の「き」の字もなかったけれど、プロフィール欄の「叫ぶ詩人の会」という名前と文章の書き方にぴんときて、グーグルで明川さんのサイトを検索したところ、ビンゴ。
あれから数年。こんなところにいたのね金髪先生!ビバ再会!今までどうしていたの~~~?
と彼のコラムを読んでみたところ、私があんなに元気づけられ、人生の迷路はとっくに抜け出ていたかのように見えていた金髪先生。あの後単身ニューヨークへ渡り、彼もまた人生の迷路に迷いこんでいたのでした。
こんなに大きな心を持った人でも(だからなのか)、こんな風に人生を生きているのかと思うと、明川さんには悪いけれど、なんだか元気をもらえちゃったものです。

空虚で孤独でどうしようもなかったというニューヨークでの経験は今、その言葉に深みと説得力を与えている。
明川さんのプロフィールを見ながら改めて思った。
ほんと人生には無駄なことってないのだなぁと。
そして、出口のみえない迷路の中を必死でもがき苦しむような体験は、人間が深みを得るためには必要なのだなぁとも。
もちろん心を病まない程度に、ですけどね(これすごく重要ですよ)。

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榎木孝明 『心は風のままに』 2

2007-11-11 02:53:05 | 



 
 常識人になることは、よく言えば恥ずかしい思いをせずに社会生活を営めるということである。社会生活の和をみださないためにも、国家を一つにまとめ運営していくためにも常識は不可欠なものであろう。だがちょっと考えてみると、今我々が信じている常識なるものは、ほんの数十年か長くても数百年前の誰かが考えたものに過ぎないのではないか。そしてそれは日々変化していくものであり、今日の非常識が明日の常識に成り得て、逆もまた真である。・・・・・・

 常識の持つもう一つの弊害は、人間の持つ無限の可能性の芽を摘んでしまいかねないことであろう。一人の人間に本来の才能が百あるとすれば、一生の間でその中の三つか四つ位しか使っていないであろうというのが昔からの私の考えである。眠っている才能は常識という意識の枠に閉じ込められている以上、決して花開くことはあるまい。こうすればああなるという常識にこだわると、まだ幾つもあるかも知れない答えに初めから蓋をしてしまうことになりかねない。無限にあるはずの選択肢を一つだけに限定したものが、常識という名を借りて、人間をほんの小さな存在にしてしまっている。その枠が取り払われた時、まさに常識をくつがえす世界が広がるに違いない。どうせいつか誰かが創った常識なら、今日自分が新しい常識を創り出しても何ら不思議はないはずである。

 では常識にまみれてしまった社会の中に長年生きて来た我々が、素直な心を取り戻すにはどうすればよいか。それはあらゆる感情の中に没入しないことである。いったん入ってしまったとしても、そこからぬけ出してその時の自分の感情を見つめてあげる第二の目を持つことである。・・・・・・

  ある感情を持ったその時に、もう一人の自分が俯瞰してその感情を持った自分を見つめてあげるのである。それもああ自分はこんな感情を持っているのかと、他人事みたいにただ見つめるだけでよい、こんなにも悲しんでいる自分、怒っている自分をただ見つめているうちに、やがて波の立たない静かな水面のごとく、感情の原点のような状態に落ち着いてくる。そうなった時こそ、素直な心になった時なのである。悲しみや怒りがまるっきり消えてしまわないまでも、その感情に囚われた自分を見ることで、如何に自分が平常心からほど遠い所にいたのかが如実に実感できるのである。

(榎木孝明 『心は風のままに』)


この本のあとがきで榎木さんは「この私の気持ちを代弁してくれているのがまさしく映画ガイアシンフォニーである」と言っています。
榎木さんは映画地球交響曲(ガイアシンフォニー)でナレーターを担当されました。

さて。
私と龍村監督作品との最初の出会いは私が15歳のとき、もう15年以上前、NTTデータスペシャル『宇宙からの贈りもの』(1992年)という単発のドキュメンタリー番組でした。
そしてその第二弾『未来からの贈りもの』(1995年)で私は写真家星野道夫さんに出会い、それは十数年を経て私をアラスカ一人旅へと導きました。

ガイアのこと、星野道夫さんのこと、アラスカ旅行のことなどは、とても簡単には語りつくせないので今後もこのブログで書くことはないかもしれませんが、すばらしい映画です。
自主上映なので機会は多くはありませんが、ぜひまずはDVDではなく映画館でご覧ください。
地球、時間、常識に対する今までの考えがきっと変わります。

ちなみに私の場合は「考えが変わった」というのとはちょっと違いました。
このガイアの考え方は私が生まれたときからずっと自然に感じてきたものだったからです。
けれどそれは、親や周りの友達と共有することは難しい感覚でした。
だから上記スペシャルをテレビで偶然見たとき、私は「仲間をみつけた」と思ったのです。
龍村作品が私に与えてくれたもの、それは「魂の仲間をみつけた安心感」でした。
ガイアシンフォニーのファンの方には、そういう人もきっと多いのではないかな。
今年の夏、「地球交響曲第六番」を観にいったとき、パンフレットに龍村監督からサインをいただきました。
そこに書かれていたのは、「魂の友へ」という言葉でした。


※写真:(上)ウィッテアの氷河 (下)デナリ国立公園 アラスカ旅行より


 

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榎木孝明 『心は風のままに』 1

2007-11-10 23:28:42 | 

 

 一日が二十四時間とは、地球の運行に従って科学的に割り出された、時の概念として日常の世界に通用してきた。しかし、その便利さと引き換えにその概念に縛られ、知らぬ間に自分の能力を制限しているとも言えまいか。限りなく速いロケットで地球を飛び出すと、地球時間とは全く違う時の流れになるのはすでに知られたことで、地球以外の惑星にはその星独自の時間が存在する道理である。

 私はこの小さな地球時間にとらわれるのを止めようと思っている。幼少時の時の流れはゆっくりとして、年を取るに従いその流れは速さを増す。気乗りのしない仕事の時はなかなか過ぎず、楽しいことはあっという間に過ぎてしまうのは誰しも体験していることだ。時間の流れは人によって永くもあり短くもあり、その人時間が存在するに違いない。

 いつしか過去・現在・未来と時を区切る必要性も感じなくなり、現在の中に過去と未来は内在している気がしてきた。つまり過去を引きずることもなく、未来を思い煩うこともなく、この今をひたすら生きることのみが大事に思えてきた。以来、寝ても覚めても人生のすべてが楽しく思えて仕方がない。

(榎木孝明 『心は風のままに』)


子規・漱石の合間の小休止に (^^)。
榎木さんの本を読んでると、水彩画をやってみたくなる。
油絵はやったことがあるのだけど、水彩画は透明な風を感じられていいよねぇ。

写真は、台湾へ向かう飛行機の窓から見た眺めです。
同じような写真をいくつも持っているのに、飛行機に乗ると必ず撮ってしまう。。。
だって信じられないくらい綺麗だし、せっかく人間が空を飛べる時代に生まれてきたのに、ましてや一生でそう何回も乗れるわけではないのに(もう充分に乗っているが)、これを見ないでぐーぐー寝ているなんてもったいないよ!!

こんな私だが、実は飛行機恐怖症。。。乱気流では無言で体をかたまらせています。
でもそれに優るほど旅が大好きなんだよねぇ。

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子規と真理 ~中村不折「子規追想」より

2007-11-09 00:33:06 | 



 余の最も子規に敬服して居るのは、一口にいうと見識の高かったことである。日本人の通弊として支那と盛んに交通して居た時代にはやたらに支那人を崇拝して、文学といい美術といい支那以外に一歩も出なかった。・・・また現今諸般の学説は西洋本位で西洋人のいうことであれば何でも好いとして、昨今の流行なる自然派とかいうものも西洋の学説で日本人の学説でない。・・・日本人が神様のように尊敬していた学説も、ある方面から異説を樹てられかつ有力な迫撃に逢うと、今まで渇仰して居た日本人の頭に一種の刺激が与えられ、今度は狼狽して、先きの学説を捨て、その刺激に基づくようになり、そこで旧派とか新派とかと勝手な名称を下す。・・・・・・

 こういう国に生れて、そして西洋の風潮を追わないで、無論受売もしないで、冷ややかにそれらの学説を高処から見下ろし、古人の学説や古来の外国の学説をひそかに考えて、ことごとくこれを咀嚼して、そして確かな見識をもって居た人があるとせば、大にえらいものであろう。こういう人がないかというに、余は正岡子規においてこれを見ることが出来る。余が子規に心服するのは全くこの点である。余は俳句や和歌は門外漢であるからそれらの文学について論評を下すことは出来ぬがただ子規の学説の確かな点には心から敬服して居る。・・・・・・

 その名全世界に届く西洋の大家が、いかなる説を吐こうとも、それが真理でなかったら、子規はその説には毫も動かされない。見るかげなき植木屋が錆びた鋏を持ってチョキンチョキンやりながら、一言二言いい交わしたことでも、それが真理であったなら子規は徹頭徹尾敬服したのである。

 余が仏国に居る頃に某医学博士と話したことがある。その博士のいうには、独逸の某博士の学説になると、ただ何となく有り難いようで、一も二もなくその学説に従いたくなる。こういってあったが、それと子規とを比べてみると雲泥の差で日本の多くの人はこの博士たらざるものはないようである。・・・・・・

 しばしばいったごとく余には子規の作家としての価値が分らぬが、達見家として近世破天荒の人物として敬服するのである。

(中村不折 『ホトトギス』『子規居士七回忌号』「子規追想」より。明治41年9月1日)


※中村不折:洋画家。子規や漱石と交遊があり、漱石の本の挿絵も担当。二人より一歳上。
 

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漱石と自己本位 ~『私の個人主義』より

2007-11-08 00:34:57 | 



 私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当がつかない。私はちょうど霧の中に閉じ込められた孤独の人間のように立ち竦んでしまったのです。そうしてどこからか一筋の日光が射して来ないかしらんという希望よりも、こちらから探照灯を用いてたった一条で好いから先まで明らかに見たいという気がしました。ところが不幸にしてどちらの方角を眺めてもぼんやりしているのです。ぼうっとしているのです。あたかも嚢の中に詰められて出る事のできない人のような気持がするのです。私は私の手にただ一本の錐さえあればどこか一カ所突き破って見せるのだがと、焦燥り抜いたのですが、あいにくその錐は人から与えられる事もなく、また自分で発見する訳にも行かず、ただ腹の底ではこの先自分はどうなるだろうと思って、人知れず陰欝な日を送ったのであります。

 私はこうした不安を抱いて大学を卒業し、同じ不安を連れて松山から熊本へ引越し、また同様の不安を胸の底に畳んでついに外国まで渡ったのであります。しかしいったん外国へ留学する以上は多少の責任を新たに自覚させられるにはきまっています。それで私はできるだけ骨を折って何かしようと努力しました。しかしどんな本を読んでも依然として自分は嚢の中から出る訳に参りません。この嚢を突き破る錐は倫敦中探して歩いても見つかりそうになかったのです。私は下宿の一間の中で考えました。つまらないと思いました。いくら書物を読んでも腹の足にはならないのだと諦めました。同時に何のために書物を読むのか自分でもその意味が解らなくなって来ました。

 この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟ったのです。今までは全く他人本位で、根のない萍のように、そこいらをでたらめに漂よっていたから、駄目であったという事にようやく気がついたのです。私のここに他人本位というのは、自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評を聴いて、それを理が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似を指すのです。・・・・・・たとえばある西洋人が甲という同じ西洋人の作物を評したのを読んだとすると、その評の当否はまるで考えずに、自分の腑に落ちようが落ちまいが、むやみにその評を触れ散らかすのです。つまり鵜呑と云ってもよし、また機械的の知識と云ってもよし、とうていわが所有とも血とも肉とも云われない、よそよそしいものを我物顔にしゃべって歩くのです。しかるに時代が時代だから、またみんながそれを賞めるのです。

 けれどもいくら人に賞められたって、元々人の借着をして威張っているのだから、内心は不安です。手もなく孔雀の羽根を身に着けて威張っているようなものですから。それでもう少し浮華を去って摯実につかなければ、自分の腹の中はいつまで経ったって安心はできないという事に気がつき出したのです。

 たとえば西洋人がこれは立派な詩だとか、口調が大変好いとか云っても、それはその西洋人の見るところで、私の参考にならん事はないにしても、私にそう思えなければ、とうてい受売をすべきはずのものではないのです。私が独立した一個の日本人であって、けっして英国人のでない以上はこれくらいの見識は国民の一員として具えていなければならない上に、世界に共通な正直という徳義を重んずる点から見ても、私は私の意見を曲げてはならないのです。・・・・・・

 私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気慨が出ました。今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります。・・・・・・

 その時私の不安は全く消えました。私は軽快な心をもって陰欝な倫敦を眺めたのです。比喩で申すと、私は多年の間懊悩した結果ようやく自分の鶴嘴をがちりと鉱脈に掘り当てたような気がしたのです。なお繰り返していうと、今まで霧の中に閉じ込まれたものが、ある角度の方向で、明らかに自分の進んで行くべき道を教えられた事になるのです。

 ・・・・・・自己本位というその時得た私の考は依然としてつづいています。否年を経るに従ってだんだん強くなります。著作的事業としては、失敗に終りましたけれども、その時確かに握った自己が主で、他は賓であるという信念は、今日の私に非常の自信と安心を与えてくれました。私はその引続きとして、今日なお生きていられるような心持がします。実はこうした高い壇の上に立って、諸君を相手に講演をするのもやはりその力のお蔭かも知れません。

 以上はただ私の経験だけをざっとお話ししたのでありますけれども、そのお話しを致した意味は全くあなたがたのご参考になりはしまいかという老婆心からなのであります。あなたがたはこれからみんな学校を去って、世の中へお出かけになる。それにはまだ大分時間のかかる方もございましょうし、またはおっつけ実社界に活動なさる方もあるでしょうが、いずれも私の一度経過した煩悶(たとい種類は違っても)を繰返しがちなものじゃなかろうかと推察されるのです。私のようにどこか突き抜けたくっても突き抜ける訳にも行かず、何か掴みたくっても薬缶頭を掴むようにつるつるして焦燥れったくなったりする人が多分あるだろうと思うのです。もしあなたがたのうちですでに自力で切り開いた道を持っている方は例外であり、また他の後に従って、それで満足して、在来の古い道を進んで行く人も悪いとはけっして申しませんが、(自己に安心と自信がしっかり附随しているならば、)しかしもしそうでないとしたならば、どうしても、一つ自分の鶴嘴で掘り当てるところまで進んで行かなくってはいけないでしょう。いけないというのは、もし掘りあてる事ができなかったなら、その人は生涯不愉快で、始終中腰になって世の中にまごまごしていなければならないからです。私のこの点を力説するのは全くそのためで、何も私を模範になさいという意味ではけっしてないのです。私のようなつまらないものでも、自分で自分が道をつけつつ進み得たという自覚があれば、あなた方から見てその道がいかに下らないにせよ、それはあなたがたの批評と観察で、私には寸毫の損害がないのです。私自身はそれで満足するつもりであります。しかし私自身がそれがため、自信と安心をもっているからといって、同じ径路があなたがたの模範になるとはけっして思ってはいないのですから、誤解してはいけません。

 それはとにかく、私の経験したような煩悶があなたがたの場合にもしばしば起るに違いないと私は鑑定しているのですが、どうでしょうか。もしそうだとすると、何かに打ち当るまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは十年二十年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。ああここにおれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事ができるのでしょう。容易に打ち壊されない自信が、その叫び声とともにむくむく首を擡げて来るのではありませんか。すでにその域に達している方も多数のうちにはあるかも知れませんが、もし途中で霧か靄のために懊悩していられる方があるならば、どんな犠牲を払っても、ああここだという掘当てるところまで行ったらよろしかろうと思うのです。必ずしも国家のためばかりだからというのではありません。またあなた方のご家族のために申し上げる次第でもありません。あなたがた自身の幸福のために、それが絶対に必要じゃないかと思うから申上げるのです。もし私の通ったような道を通り過ぎた後なら致し方もないが、もしどこかにこだわりがあるなら、それを踏潰すまで進まなければ駄目ですよ。――もっとも進んだってどう進んで好いか解らないのだから、何かにぶつかる所まで行くよりほかに仕方がないのです。私は忠告がましい事をあなたがたに強いる気はまるでありませんが、それが将来あなたがたの幸福の一つになるかも知れないと思うと黙っていられなくなるのです。腹の中の煮え切らない、徹底しない、ああでもありこうでもあるというような海鼠のような精神を抱いてぼんやりしていては、自分が不愉快ではないか知らんと思うからいうのです。不愉快でないとおっしゃればそれまでです、またそんな不愉快は通り越しているとおっしゃれば、それも結構であります。願くは通り越してありたいと私は祈るのであります。しかしこの私は学校を出て三十以上まで通り越せなかったのです。その苦痛は無論鈍痛ではありましたが、年々歳々感ずる痛には相違なかったのであります。だからもし私のような病気に罹った人が、もしこの中にあるならば、どうぞ勇猛にお進みにならん事を希望してやまないのです。もしそこまで行ければ、ここにおれの尻を落ちつける場所があったのだという事実をご発見になって、生涯の安心と自信を握る事ができるようになると思うから申し上げるのです。・・・・・・

 それで私は常からこう考えています。第一にあなたがたは自分の個性が発展できるような場所に尻を落ち付けべく、自分とぴたりと合った仕事を発見するまで邁進しなければ一生の不幸であると。しかし自分がそれだけの個性を尊重し得るように、社会から許されるならば、他人に対してもその個性を認めて、彼らの傾向を尊重するのが理の当然になって来るでしょう。それが必要でかつ正しい事としか私には見えません。自分は天性右を向いているから、あいつが左を向いているのは怪しからんというのは不都合じゃないかと思うのです。もっとも複雑な分子の寄って出来上った善悪とか邪正とかいう問題になると、少々込み入った解剖の力を借りなければ何とも申されませんが、そうした問題の関係して来ない場合もしくは関係しても面倒でない場合には、自分が他から自由を享有している限り、他にも同程度の自由を与えて、同等に取り扱わなければならん事と信ずるよりほかに仕方がないのです。

 近頃自我とか自覚とか唱えていくら自分の勝手な真似をしても構わないという符徴に使うようですが、その中にははなはだ怪しいのがたくさんあります。彼らは自分の自我をあくまで尊重するような事を云いながら、他人の自我に至っては毫も認めていないのです。いやしくも公平の眼を具し正義の観念をもつ以上は、自分の幸福のために自分の個性を発展して行くと同時に、その自由を他にも与えなければすまん事だと私は信じて疑わないのです。我々は他が自己の幸福のために、己れの個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして妨害してはならないのであります。

(夏目漱石 『私の個人主義』より。大正3年11月25日学習院にて講演)

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