風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

子規の手紙(→漱石) 明治32年3月20日

2007-10-26 01:08:24 | 

拝啓 大ニ御無沙汰ニ打過(うちすぎ)候内ニはや大分暖く相成候。家庭の快楽多き者は音信稀なりといふ原則は小生昔より自らこしらえてためし候処、大概ははずれ申不(もうさず)。然るに家庭の快楽なき小生がかく御無沙汰に過ぐるは寒気のためと『ほととぎす』のためとに有之(これあり)候。年始以来は全く寒気に悩まされ、終日臥褥する事少からず、時には発熱などあり全体に身体疲労致候ため、『ほととぎす』の原稿思ふように書けず。もし四頁以上の原稿を書くとなるといつでも徹夜致し、そして後で閉口致すやうな次第に有之候。小生は前より夜なべの方なれども身体の衰弱するほどいよいよ昼は出来ず、夜も宵の口は余り面白からず十一、二時の頃よりやうやう思想活発に相成候。徹夜の翌日ハ何も出来ず不愉快極り候。翌夜寝てその又の日はまた原稿のために徹夜せざるべからざるやうに相成、月末より月始にかけては実に必死の体に候。しかし最早大分暖く相成かつ近来ハ発熱一向に無之少々くつろぎ申候。
 二、三日前神田まで出かけ候。今年の初旅に候。生憎虚子留守にて(妻君小児をつれて芝居にでも行きしかと察す)瓢亭宅ニ到リ蒲焼をくひ申候。
 その節、蒲焼の歴史を考へ見るに、貴兄らと神田川にてぱくつきし以来の事と覚え候。うまさは御推察可被下(くださるべく)候。


明治32年3月20日、子規から漱石へ宛てた手紙。

さて、漱石は後年ホトトギスに子規の回想記を掲載しています。
漱石お得意の諧謔たっぷりの文章なので多少の誇張はありそうだけど、二人の関係が想像できて面白い。
司馬さんが『坂の上の雲』で言っているように、「何でも大将にならなけりゃ承知しない」いわば子規のわがままを、漱石のゆったりとした性格が許容し、許容以上に漱石にとって子規の無我夢中さはときにとって愛すべき滑稽さとしてうつったのでしょう。
ちなみに上記回想記で漱石自身が述べているように彼は子規からの手紙を多く紛失しているけれど、子規は漱石からの手紙のほとんどを大事に保管していました。それは子規の性格ゆえなのでしょうが、今日私達が漱石の手紙を読むことができるのはそのおかげです。
もっとも漱石も、子規からの最後の手紙は掛け軸に貼って大切にしていました。漱石展で展示されているのはそれです。私はてっきり漱石の死後に誰かが掛け軸にしたのかと思っていたのだけれど、漱石自身の手によるものだと後でわかりました。漱石は掛け軸にした経緯について、『子規の画』という随筆を書いています。

子規が言っている神田川でぱくついたという蒲焼は、後年漱石も同じように回想していますねー。よほど印象に残る食事会だったのでしょうか。

なんか私も蒲焼を食べたくなってきた。
でも今日から5日間ほど台湾旅行なので、蒲焼の代わりに中華料理と中華デザートを満喫してきたいと思いま~す(^^)。

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漱石と子規の友情 ~その手紙より

2007-10-21 23:00:55 | 

<明治24年 25歳>
□子規→漱石(紛失)

■11月7日 漱石→子規
先いふ処のものは単に壮言大語僕を驚かせしなれば僕向後決して君を信ずまじ。また冗談ならば真面目の手紙の返事にかかる冗談は発してもらはんと存ず。また先年の主義を変じ今日の主義となりたりといはばそれでよし。人間の主義終始変化する事なければ発達するの期なし。変じたるは賀すべし、しかし変じ方の悪さは驚かざるを得ず。高より下に上り大人より小児に生長したるやうな心地するなり。僕決して君を誹謗するにあらず、唯君が善悪の標準を以て僕の言の善か悪かを量れ。
実は黙々貰い放しにしておかんと存じたけれど、かくては朋友切磋の道にあらず、君が面目に出掛けたものを冷眼に看過しては済まぬ事と再考の上、好んで忌諱に触る。

□子規→漱石(紛失)

■11月10日 漱石→子規
僕が二銭郵券四枚張の長談議を聞き流しにする大兄にあらずと存じおり候処、案の如く二枚張の御返礼にあづかり、金高よりいへば半口たらぬ心地すれど芳墨の真価は百枚の黄白にも優り嬉しく披見仕候。・・・・・・僕決して君を小児視せず小児視せば笑って黙々たるべし。八銭の散財をした処が君を大人視したる証拠なり。恨まれては僕も君を恨みます。
・・・・・・君の道徳論について別に異議を唱ふる能はず、唯貴説の如く悪を嫉(にく)むの一点にて君と僕の間に少しく程度の異なる所あるのみ。どう考へても君の悪を嫉む事は余り酷過ぎると存候。
微意の講釈は他日拝聴仕るべく候。
君の言を借りて、
(偏へに前書及び本書の無礼なるを謝す。不宜。)

<明治26年 27歳>
■12月18日 漱石→子規
大兄の御考へで小生が悪いと思ふ事あらば遠慮なく指摘してくれ玉へ。これ交友の道なり。

<明治33年 34歳>
□2月12日 子規→漱石
例の愚痴談だからヒマナ時に読んでくれ玉へ。
・・・・・・勿論喀血後のことだが、一度、少し悲しいことがあったから、「僕は昨日泣いた」と君に話すと、君は「鬼の目に涙」といって笑った。それが神戸の病院に這入って後は時々泣くようになったが、近来の泣きやうは実にはげしくなった。・・・・・家族の事を思ふて泪が出るなぞはをかしくもないが、僕のはそんな尤な時にばかり出るのでない。・・・今年の夏君が上京して、僕の内に来て顔を合せたら、などと考へたときに泪が出る。・・・しかしながら君心配などするには及ばんよ。君と実際顔を合せたからとて僕は無論泣く気遣ひはない。空想で考へた時になかなか泣くのだ。昼は泣かぬ。夜も仕事をして居る間は泣かぬ。夜ひとりで、少し体が弱っているときに、仕事しないで考へてると種々の妄想が起って自分で小説的の趣向など作って泣いて居る。それだからちょっと涙ぐんだばかりですぐやむ。やむともー馬鹿げて感ぜらる。
・・・・・・
僕の愚痴を聞くだけまじめに聞て後で善い加減に笑ってくれるのは君であらうと思って君に向っていふのだから貧乏籤引いたと思って笑ってくれ玉へ。・・・・・・しかし君、この愚痴を真面目にうけて返事などくれては困るよ。それはね妙なもので、嘘から出た誠、というのは実際しばしば感じることだが、・・・僕の空涙でも繰り返していると終に真物に近づいてくるかも知れぬから。・・・自分の体が弱ってるときに泣くのだから老人が南無あみだ南無あみだといって独り泣いてるやうなものだから、返事などはおこしてくれ玉ふな。君がこれを見て「ふん」といってくれればそれで十分だ。

(和田茂樹編 『漱石・子規往復書簡集』)

子規と漱石の間で交わされる手紙(特に若い頃のもの)は、よくこれで友情が壊れないなと感心するほどどちらも自分の意見をオブラートで包まずはっきり述べている。
根底に相手への尊敬と信頼があるから、こういう友情が成り立つんだろうなぁ。

明治24年、漱石は子規から届いた手紙の内容に立腹し、「放っておこうかとも思ったけれど、それは友人に対する礼ではないと思うから、忌憚に触れることを承知であえて返事を書く」とし、長々とかなり痛烈な批判の手紙を書いている。
これに対する子規の返事は紛失してしまっているので読むことはできないけれど子規もまた、これだけ言われておきながら適当に無視することもせず、ちゃんと返事を出している。それに対して漱石は「君なら聞き流すことなく返事をくれると思っていた」と書く。
切手の金額のくだりなど、決して重い空気にしないユーモアはどちらの手紙にも共通で、子規が死ぬまでこんな感じ。なんか、さすがだよねぇ。

似た性格というわけでもない二人は、時に衝突しつつも決してその友情は壊れることなく、明治33年の病床の子規の手紙からは二人が育んだ友情の深さがみてとれる。

こんな友人が私にはいるか・・・というと、考えこんでしまう。
うらやましくなってしまいます。

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司馬遼太郎 『坂の上の雲』

2007-10-19 00:13:29 | 



このながい物語は、その日本史上類のない楽天家たちの物語である。
楽天家たちは、前をのみ見つめながらあるく。
のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。 

(司馬遼太郎 『坂の上の雲』 8巻あとがき)


明治維新をとげ、近代国家の仲間入りをした日本は、息せき切って先進国に追いつこうとしていた。
そんな時代を生きた3人の主人公たち――日露戦争でコサック騎兵を破った秋山好古、日本海海戦の参謀秋山真之、そして文学の世界に巨大な足跡を遺した正岡子規。
他の司馬作品同様、この主人公3人がとても魅力的。
3人とも、どこか飄々としていてとてもマイペース。他人の目なんて気にしない。
そして、なぜか可愛い。。。
伊予弁効果かなぁ。

内容的には、最後の「雨の坂」の章が、この後に続く時代を象徴しているようでいい。
子規の墓まいりをして、雨のなか坂を下ってゆく真之の姿は、日本の姿に重なる。
楽天家たちの時代は終わり、日本は昭和へとつづく暗い軍国主義の時代へと突入してゆく。
同じものを、日本海海戦の際に戦争というものの残酷さに気づき一人号泣する真之の姿の中にも見ることができる。
個人的に、墓まいりとはいえ最後に子規に触れてくれたのは嬉しかったなぁ。私がこの本を好きな理由の80%は子規なので。子規が死んでしまったときは「え?もう登場しないの~・・?」と悲嘆にくれたものだった。

ただ、解説でも書いてあったけれど、敵方に対する表現の辛辣さは読んでいて気になった。司馬さんのそういう表現はこの作品に限ったことじゃないけど、ロジェストウィンスキーに対する描写なんて、何もそこまで・・・と思ってしまうほど。
『燃えよ剣』のように完全なフィクションと割りきれる書き方をしてあれば殆ど気にならないのだけど、この作品はノンフィクションに近いところもあるので、彼にも彼なりの言い分はあるだろうに・・・とどうしても思ってしまい、素直に読みすすめなくなってしまいました。彼の子孫が読んだら悲しむのではないかなぁ。

とはいえ、魅力的な主人公3人を軸に進む展開は全く飽きさせないし、この作品が司馬作品のなかで一番好んで読まれている理由がよくわかります。
私も司馬さんの長編の中ではトップ5に入るくらい好きな作品。
だというのに!!!
3~7巻を失くしてしまったのですよ~・・・・・・。しょっく。
もともと学生時代に古本屋で買ったものなんですけど。
うー・・・また買いなおすのもなんだしなぁ。


戦艦「三笠」。
横須賀の三笠公園にて(米軍基地のすぐ隣)。
艦内では関係資料が多数展示されていて圧巻です。

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「文豪・夏目漱石 ―そのこころとまなざし―」展 @江戸東京博物館

2007-10-18 01:04:30 | 美術展、文学展etc

江戸東京博物館で開催中の「文豪・夏目漱石」展に行ってきました。

大学予備門の試験の答案が、数学や物理などもすべて英語で答えているのにはびっくり。
でも考えてみれば適塾などでもすべて蘭語で勉強していたことを思えば、明治のこの頃も日本語で勉強するほどまでこの学問が日本に浸透していなかったのが理由なのでしょうね。
いずれにしても、感心しきり。

ロンドン留学中にお金をきりつめて購入したという洋書の数も圧巻でした。

また漱石は本の装丁にもこだわった人で、洋風のデザインを取り入れた装丁は本当に素敵!ミュージアムショップで『虞美人草』初版本のオレンジ色の装丁のブックカバーを売っていたので迷わず購入してしまいました。他に『四篇』『吾輩は猫である』のもあって、お金があれば全部買いたいところだったけど、なにせ高くて・・・。1800円、だったかな。

という風に見所満載な漱石展でしたが、とくに印象に残ったのが正岡子規と漱石の交流。
二人は高等中学校の同級生として出会い、その友情は子規が亡くなるまで13年間つづきました(漱石というペンネームも、元は子規が使っていた俳号)。
明治34年、病床の子規がロンドンにいる漱石へ送った最後の手紙が展示されていました。
子規が描いた東菊の絵とともに、掛け軸に貼られていました。
子規らしい手紙です。
結局二人は再会することなく、この手紙を書いた一年後の明治35年9月19日、子規は34歳でこの世を去りました。
以下、手紙の全文。


僕ハモーダメニナッテシマッタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヨウナ次第ダ、ソレダカラ新聞雑誌ヘモ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廃止。ソレダカラ御無沙汰シテスマヌ。
今夜ハフト思イツイテ特別ニ手紙ヲカク。
イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白カッタ。近頃僕ヲ喜バセタ者ノ随一ダ。
僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガッテ居タノハ君モ知ッテルダロー。
ソレガ病人ニナッテシマッタノダカラ残念デタマラナイノダガ、君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ往ッタヨウナ気ニナッテ愉快デタマラヌ。
モシ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ(無理ナ注文ダガ)。

画ハガキモ慥ニ受ケ取ッタ。倫敦ノ焼芋ノ味ハドンナカ聞キタイ。

不折ハ今巴里ニ居テコーランノ処ヘ通ウテ居ルソウジャ。君ニ逢ウタラ鰹節一本贈ルナドトイウテ居タガモーソンナ者ハ食ウテシマッテアルマイ。

虚子ハ男子ヲ挙ゲタ。僕ガ年尾トツケテヤッタ。

錬卿死ニ非風死ニ皆僕ヨリ先ニ死ンデシマッタ。

僕ハトテモ君ニ再会スルコトハ出来ヌト思ウ。万一出来タトシテモソノ時ハ話モ出来ナクナッテルデアロー。実ハ僕ハ生キテイルノガ苦シイノダ。僕ノ日記ニハ「古白日来」ノ四字ガ特書シテアル処ガアル。

書キタイコトハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉エ。

明治三十四年十一月六日 燈下ニ書ス。
東京 子規拝
倫敦ニテ 漱石兄


(上)明治30年9月6日付書簡
(中)あづま菊の絵 明治33年6月頃
(下)明治34年11月6日付書簡
岩波書店蔵


※子規の最後の手紙について
夏目漱石 『吾輩は猫である』中篇自序

※東菊の掛け軸について
子規の手紙(→漱石) 明治32年3月20日

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司馬遼太郎 『十六の話』

2007-10-17 19:08:39 | 




私は、歴史小説を書いてきた。
もともと歴史が好きなのである。両親を愛するように、歴史を愛している。
歴史とは何でしょう、と聞かれるとき、
「それは、大きな世界です。かつて存在した何億という人生がそこにつめこまれている世界なのです」
と、答えることにしている。
私には、幸い、この世にたくさんのすばらしい友人がいる。
歴史の中にもいる。そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい人たちがいて、私の日常を、はげましたり、なぐさめたりしてくれているのである。

(司馬遼太郎 『十六の話』~「21世紀に生きる君たちへ」より)

 
※写真:夜明けの京都

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哀しいなぁ。

2007-10-15 04:39:26 | 日々いろいろ




愛 燦々とこの身に降って
心秘かな嬉し涙を 流したりして
人はかわいい かわいいものですね
ああ過去達は 優しく睫毛に憩う
人生って 不思議なものですね

ああ未来達は 人待ち顔でほほえむ
人生って 嬉しいものですね

(美空ひばり「愛燦々」)



わたしは一体どこへ向かっていくんだろう・・・・・・。
自分で自分がぜんぜんわからない。
こんな31歳になる予定じゃぁなかったんだけどなぁ。
まぁ、なるべくしてなったような気もするが。
回り道ばかりどころか、回り道しているのかどうかもわからないよ。
私は相変わらずそんななのに、そんな私に関係なく時間はどんどん過ぎて、周りはどんどん変わっていってしまって、時間も人生もほんとうに有限なんだなぁと改めて思い知らされることが最近起きてしまって。
すごくさびしい。

昔、まだ中学生の頃、夜中に布団の中で、ほんとうに唐突にふっとこんなことを感じたのをよく覚えている。
お父さんもお母さんも、おじいちゃんもおばあちゃんも、お兄ちゃんも、犬も、今、みんな「ここ」にいる。
それはなんて貴重な奇跡のようなことなのか。
いつか必ずこの人たちと永遠に別れなければならない時がくる。
この中の誰か一人でもいなくなることを想像するだけで、心臓がつぶれそうなほど悲しくて、そんな日が来るなんてどうしても信じられないけど、それでも確実にいつか「その日」はくる。
そのことを、中学生の私はこの夜、体中の感覚で思い知った。
当たり前のように過ごしてるこの瞬間がどれほど貴重なものなのかを。

それから数年して、犬が死んだ。
自分が死ぬより辛いと思うほど、辛かった。
たぶんあの瞬間殺されても、恐怖なんて感じなかったと思う。それくらい辛かった。
そしてすこし落ち着いたころ、数年前のあの夜のことを思い出した。
ああ、やっぱり別れはこうして確実にくるんだと思った。
あの日私が感じたとおり、あの時の一瞬はとても貴重な一瞬だったんだ。
みんなが揃うあんな日は、もう「二度と」ない・・・。

人生には楽しいことも嬉しいことも確かにたくさんある。
でも、つらいこともたくさんあって。
みんなこんなに大変な思いをして一生懸命生きてくるのに、最期にみんな怖くて痛くて苦しい思いと闘わなくちゃ死ぬことができないなんて。一体どういうわけだ。
神様が人間に心や知能を与えたのは、何かの罰なんじゃないかと思ってしまう。
心や知能がなければ、楽しい思いもしないかもしれないけど、辛い思いもしなくて済むのに・・・。

それでもやっぱり生まれてきてよかったって、みんながそう思って死んでいくことができますように。
そして、私のまわりの人たちに対して、彼らが私より先に去ってしまっても、すこしでも後悔しないように、生きていきたい。
むこうで笑って会えるように。

先日辛くて哀しい知らせを聞いたとき、美空ひばりさんの「愛燦々」を思い出した。
祖母の大好きな曲。
そして、すごく気持ちが楽になった。
こんなに辛くて哀しくて苦しい人生だけど、それでも愛しいのだと思えてくる。
小椋佳氏はすごいと思う。

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宮永 孝 『慶応二年幕府イギリス留学生』 3

2007-10-13 00:44:13 | 

一体あんた方は今の御国元の事を何と思って居られるか。
御国の大変で留学の送金が絶え、喜望峰廻りで帰され様とするのを、ともかくそうしたみじめな目にあはないやうにと計ってあげた。
これを、ただにあなた方の苦しさをすくほうと云ふ猫っかはいがりから出た事だとうぬぼれて居なさるなら、大きな間違ひで、日本から留学生を派遣しておきながら、国内の騒動に夢中になって帰国の始末もつかず、荷物扱ひで送り帰されたとあっては、日本の名誉にかかはると思へばこそ、当方でも今後御国元からどの程度に送金のあるものやら、無いものやら知れず。・・・・・・
そこらの意味も苦衷も御察し出来ないか。
失礼ながら学問と云ふものはそんなもので無い筈だ。ただ知識を多く集得なさっただけで得々として居られるか。そんな思慮の足りぬ性根の腐った人を作ろうと、日本は苦しい中から留学生を派遣しなかった筈だ。私は日本の為になげきます。
ここで厭ならすぐさま出て行ってもらいましょう。御国の大乱のこのさい、よしんばどんなやはらかい床へ寝られたにもせい、心には臥薪嘗胆の〆めくくりがあってしかるべきだに、まして何のベッドの上で産まれやしまいし、わづかの歳月ヨーロッパの風にふかれたと思うと、フロアの上もないものだ。

(宮永 孝『慶応二年幕府イギリス留学生』)


幕府が崩壊し、日本に帰ることになった幕府派遣の欧州留学生一行(イギリス、オランダ、フランス)。
しかし帰国費用さえままならない。
世話人ロイドはイギリス留学生達を賃金先払いで喜望峰廻りの貨物船に載せ、横浜で金と引き換えに引き渡す計画を立てた。
当時徳川昭武(慶喜の弟)の付き添いでパリにいた渋沢栄一は、そのことを知り、昭武の留学費用からどうにか金を都合し、彼らをマルセイユから船に乗せるよう取り計らう。
こうして欧州留学生達はパリに集合し、昭武の借家の広間が彼らの宿となった。
しかし英国組の林董らは、「人をフロアに寝かして豚扱いしている」とブツブツ文句を言う始末。
渋沢はそれを聞き、彼らのところへ刀を下げて怒鳴り込んで行き、叱り飛ばした。
上記はそのときの言葉。
林らは道理が道理だから一言もなく謝り、後々もこのときのことを思い出しては「激しい小言だった」と笑ったそうである。
ちなみにこのときの渋沢の年齢は、28歳。
立派なものです。。。

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宮永 孝 『慶応二年幕府イギリス留学生』 2

2007-10-12 22:31:47 | 

私たちの仲間には、”教養人”と呼ばれたいと思っている者は一人もおりません。また、わが国の政府も、私たちがイギリス人と同じ教育を受けるものとは思っておりません。しかし、私たちは特殊技術や科学的知識を十分に修めたいと思っております。

(宮永 孝 『慶応二年幕府イギリス留学生』)

幕府イギリス留学生14名は、他の国々へ行っている留学生達から、全員が同じ家で生活すると学ぶつもりの英語を用いずいつも日本語ばかり話してしまうからためにならない、と聞いていた。
だからイギリス到着時に「分宿させてほしい」と世話人ロイドに頼んだが、分宿させると金がかかり自分の取り分が減ることを好まなかったロイドは、この申入れを拒否する。
14名は同じ家に住み、教師も1名のみという生活を強いられることになる。
彼らが杞憂していたとおり学問は一向に進まない。
そして渡英後一年経った1867年11月11日、ついに留学生達は反乱を起こし、外相スタンレーに抗議書を提出する。
上記文章はその手紙の一部で、原文は英語で書かれている(彼らの字がまた上手・・・)。

10代~20代前半の彼らが、鎖国を続けてきた日本から異国にやってきて心細くないはずはないのに、「分宿させてほしい」と反乱まで起こすなんて、えらいものだなぁ。
結局分宿を許され、ぐんぐん英語力も伸ばした彼らは、年末にはロンドン大学に入学し、好成績を修めている。

しかし彼らがこの抗議書を提出した2日前の11月9日、日本では徳川慶喜が政権を朝廷に返上し、264年間続いた徳川幕府は終わりを迎えていた。

翌1868年(明治元年)6月、彼らは学業半ばで帰国を余儀なくされる。

留学生の一人林董などは諦めきれず、漂流民の彦蔵がアメリカ人の世話で学校へやってもらっていたことを思い出し、自分もアメリカへ渡ろうと決心する。
そして旅費をつくるために先祖伝来の名刀を骨董店に持ち込むが、ついた値はたったの5シリング。
店の主人曰く「英国人は日本刀の珍しき故に買う者あれど、品のよろしきを選みて買う者なし」。
林は泣く泣く皆と共に帰国せざるをえなかった。
帰国後は榎本武揚ひきいる旧幕府軍に身を投じ、五稜郭まで戦うことになる。
明治政府では外務大臣などを務めた。

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美輪明宏 『ああ正負の法則』

2007-10-10 00:06:41 | 

よく結婚式などで、「幸せになってね」とか、「幸せになります」、「してみせます」とかいう言葉が飛び交いますが、では、いったいその幸福とは何でしょうか。それは充足感です。何もかも満ち足りた気分になった時、それが幸福なのです。しかしその成分は泡で出来ています。ほんの短い時間、一瞬で消えてゆくものです。
メーテルリンクは『青い鳥』でそれを抽象的に表現しました。手にした瞬間に飛び去るものとして。でも、それだからこそ有難味があり、貴重なものとしての値打ちがあるのです。もしその幸福感が絶え間なくずっと持続したとしたら、人間はシマリのないボケーッとした薄らバカになってしまうでしょう。
それなのにどういうわけか、世の人々は「幸福になりましょう」、「なってください」、「なります」と、まるで一度手に入れたら永久に形が変わらない固形物ででもあるかのような錯覚を起しています。永久不変のものなんてこの世にはあり得ないのです。
特に幸福というシロモノは、陽炎のように儚いものなのです。
疲れ果てて寝床に大の字になった瞬間「ああ、寝るより楽はなかりけり」と、しみじみと幸福感を味わう時。風呂につかって手足をのばした時。春、ふっと南風が吹いて胸がキュンとした時。愛する人と抱擁の時。長い間、欲しかったものを手に入れた瞬間等々。幸福だなあと思うのはその時だけです。その感覚はせいぜい五分か十分後には薄れていき、やがて麻痺してしまい、それが当たり前になり、何も感じなくなってしまうものなのです。
しかし、いつでもどこでも、今すぐに幸福になる方法、常に幸福感を味わえる方法があります。
それは簡単なことです。つまり、どんなことでも何でもよいから<感謝すること>を自分の中に、まわりに探して見つけることです。「見える、ああ有難い」「聞こえる、ああ有難い」「話せる、ああ有難い」「手足が動く、雨風をしのげる天井や壁のある所で寝起きができる、ああ有難い」、「着るものがある、食物がある、ああ有難い、幸福だなあ」等々。・・・
世の中で忌み嫌われている、病気や貧困や不安やトラブルという<負>の部分は、実は幸福を感じるためのバロメータなのです。断食の行とは世の中のあらゆるものを感謝する心を芽生えさせるための行なのです。

(美輪明宏 『ああ正負の法則
』)

昨日の日記の内容と似ているので、ついでにご紹介。
(昨日紹介した言葉はこの本からではありません。あの出展は忘れた・・・)。

これは私が唯一読んだ美輪さん本。
きっかけは、、、なんだっけ、、、三島由紀夫だったかな、、、?
面白かったですよ、とっても。
美輪さんの言うことに100%同感なわけではないけれど、他人を羨む前にまず自分の足でしっかりと立ち、世間に流されず、自分を磨く努力を怠らない、そんな生き方には激しく共感。

こういう考え方をする大人が日本にはもっと必要だと思う。
他の著作も興味あるけど、今は読みたい本がたくさんあるので、いずれ機会があれば。

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いまの季節は

2007-10-09 01:48:13 | 日々いろいろ

街中が金木犀の香りでいっぱいですね~。
いま夜中の一時半なんですけど、部屋の窓から入ってくる風は金木犀の甘い匂いがして、虫の鳴き声もきこえて、なんだかすごく幸せな気分ー。
秋は心が落ち着くから好きです。
こういう幸せってほんとにいい。

昼間太陽の下でいっぱい干した蒲団に、洗ったばかりのシーツをかけて、そこに夜お風呂に入った後にばふっって倒れこむ瞬間とか。

特に予定のない三連休がいざはじまる晩に、だいすきな作家の新刊を読み始める瞬間とか。

まったく気を使う必要のない人と、夜に美味しいコーヒーをいれて、美味しい美味しいケーキを食べる瞬間とか。

こんな時間がずっとずっと続けけばいいのになぁって思う。
そういえば昔、こんな言葉を聞いたことがあります。

幸福とは、「今が永遠に続けばいいのに」と感じることである。

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