風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

中原中也と、太宰治と、宮沢賢治と。

2009-01-31 02:28:25 | 

      


檀一雄の小説によれば、中原中也&太宰治とで会ったのは計3度。

1度目は、おでん屋「おかめ」にて、檀、太宰、中原、そして草野心平の4人での酒席。
このときのエピソードは有名ですね~。
檀さんも『太宰と安吾』などの本で、繰り返し回想しています。


 寒い日だった。中原中也と草野心平氏が、私の家にやって来て、丁度、居合わせた太宰と、4人で連れ立って、「おかめ」に出掛けて行った。初めのうちは、太宰と中原は、いかにも睦まじ気に話し合っていたが、酔が廻るにつれて、例の凄絶な中原の搦みになり、
「はい」「そうは思わない」などと、太宰はしきりに中原の鋭鋒を、さけていた。しかし、中原を尊敬していただけに、いつのまにかその声は例の、甘くたるんだような響きになる。
「あい。そうかしら?」そんなふうに聞えてくる。
「何だ、おめえは。青鯖が空に浮んだような顔をしやがって。全体、おめえは何の花が好きだい?」
 太宰は閉口して、泣き出しそうな顔だった。
「ええ、何だいおめえの好きな花は」
 まるで断崖から飛び降りるような思いつめた表情で、しかし甘ったるい、今にも泣き出しそうな声で、とぎれとぎれに太宰は言った。
「モ、モ、ノ、ハ、ナ」
 云い終って、例の愛情、不信、含羞、拒絶、何とも云えないような、くしゃくしゃな悲しいうす笑いを泛べながら、しばらくじっと、中原の顔を見つめていた。
「チェッ、だからおめえは」
 という中原の声が肝に顫うようだった。

(檀一雄 『小説 太宰治』)



中也さん、イジメっこ以外の何者でもありません・・・・・・。
そして2度目も「おかめ」にて。


 第二回目に、中原と太宰と私で飲んだ時には、心平氏はいなかった。太宰は中原から同じように搦まれ、同じように閉口して、中途から逃げて帰った。この時は、心平氏がいなかったせいか、中原はひどく激昂した。
「よせ、よせ」と、云うのに、どうしても太宰のところまで行く、と云ってきかなかった。
 雪の夜だった。その雪の上を、中原は嘯(うそぶ)くように、

   夜の湿気と風がさびしくいりまじり
   松ややなぎの林はくらく
   そらには暗い業の花びらがいっぱいで

 と、宮沢賢治の詩を口遊んで歩いていった。
 飛鳥氏の家を叩いた。太宰は出てこない。初代さんが降りてきて、
「津島は、今眠っていますので」
「何だ、眠っている?起こせばいいじゃねえか」
 勝手に初代さんの後を追い、二階に上り込むのである。
「関白がいけねえ。関白が」と、大声に喚いて、中原は太宰の消燈した枕許をおびやかしたが、太宰はうんともすんとも、云わなかった。
 あまりに中原の狂態が激しくなってきたから、私は中原の腕を捉えた。
「何だおめえもか」と、中原はその手を振りもごうとするようだったが、私は、その儘雪の道に引き摺りおろした。
「この野郎」と、中原は私に喰ってかかった。他愛のない、腕力である。雪の上に放り投げた。
「わかったよ。おめえは強え」
 中原は雪を払いながら、恨めしそうに、そう云った。それから車を拾って、銀座に出た。銀座から又、川崎大島に飛ばした事を覚えている。雪の夜の娼家で、三円を二円に値切り、二円を更に一円五十銭に値切って、宿泊した。(中略)
 中原は一円五十銭を支払う段になって、又一円に値切り、明けると早々、追い立てられた。雪が夜中の雨にまだらになっていた。中原はその道を相変わらず嘯くように、

  汚れちまった悲しみに
  今日も小雪の降りかかる

 と、低吟して歩き、やがて、車を拾って、河上徹太郎氏の家に出掛けていった。多分、車代は同氏から払って貰ったのではなかったろうか。

(檀一雄 『小説 太宰治』)


中也さん、物騒です・・・・・・。
さすがです。
ザ・キングオブマイウェイ。

そして、伊藤静雄氏の出版記念会の席上が3度目。
以上です。


宮沢賢治の詩は童話とちがって難解なものが多いように思うんですが(この詩も単体では私にはイマイチ意味がわからない)、こういうふうに中也が口ずさむと、じつにいいですねぇ。
中也の有名すぎる「汚れちまった悲しみに」も、こうやって聴くと、ほんといい。
太宰の家での何様俺様中也様なふるまいと、娼家代を値切りに値切る超現実的なせこさ、あげく車代さえ払わない。
それで「汚れちまった悲しみに・・・・・・」って、、、。
おいおい(^^;!とつっこみたくなります。
でもそんな夜明けの雪道とこの詩が、なんだかとても合っている。
詩が生きてるというか。
今までこの詩の自嘲的すぎるような響きがどうも好きになれなかったのですが、はじめてストンとはいってきたような気がします。
中也は朗読が上手だったと言われていますから、こんなシチュエーションでこの詩を聴いた檀さんがうらやましい。

ちなみに、草野心平は自身も詩人ですが、当時無名だった宮沢賢治の作品を世に紹介した人でもあります。このとき檀さんの家に来ていた用件も、賢治の全集が出るから買えというものだったそうな。

そして、こんなに絡まれていたにもかかわらず、太宰の中也の作品に対する称賛は、中也の死後まで変わらなかったそうです。


以下、中也と賢治の詩の全文です。


汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる

汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の皮衣
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる

汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠のうちに死を夢む

汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

 (中原中也 『山羊の歌』より)

  

夜の湿気と風がさびしくいりまじり
松ややなぎの林はくろく
そらには暗い業の花びらがいっぱいで
わたくしは神々の名を録したことから
はげしく寒くふるえてゐる

(宮沢賢治 『春と修羅 第二集』より)


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太宰治のコトバ

2009-01-29 04:15:40 | 


「外史のところへでも行ってみたの?」
「うむ。いない。そよぐからねぇ、外史は」
例の通り太宰は、不思議な表現をあやつりながら笑っている。

……

また、ヨーヨーの前で太宰が立ち呆けた。ちょうどヨーヨー売出しの頃だったろう。
「泣ける、ねえ」
何の傷心があばかれたのか、太宰は例の通りそう云いさしてから、
「檀君。こんな活動写真を見たことない?海辺でね、チャップリンが、風に向かって盗んだ皿を投げるんだ。捨てたつもりで駆け出そうとすると、その同じ皿が、舞い戻ってくるんだよ。同じ手の中に。投げても投げても帰ってくるんだ。泣ける、ねえ」

……

太宰が一度ちょうどこの辺から図書館の大建築を見上げながら、
「檀君。ここの屋上から、星を降らせたことがある?」
「星?星って何?」
「ビラさ」
「アジビラか?」
「うむ」
「君、やったの?」
「うむ。チラチラチラチラ、いいもんだ」

(檀一雄 『小説 太宰治』)

……


加うるに太宰治から書簡があり、これは亦太宰流に形式美学と巧言令色を巧みに併用した文書で、
「冗談もいいかげんにしないか」
からはじまっていた。
ちょっと人の感傷をさそった上で、そこから生まれる愛情に釘を打ち、おもむろに「現代文学」という雑誌の説明があり、俺も院外団ぐらいのところでやるから、是非君も何か書けと、なるほど院外団らしい口吻を洩らした手紙だった。

※満州にいる檀へ帰国をすすめる手紙

(檀一雄 『小説 坂口安吾』)


まわりから見たら些細なことでも、その人にとっては大問題というのはよくあることで。
まわりが何を言っても、してあげても、本人にしか見つけられないものはあるわけで。
でも、そんな心の内をそのまま叫んでも、芸術でもなんでもなく、素人の作文と同じなわけで。

余分なものをそぎ落として、芸術へと昇華させる才能。
ことばにおどらされず、ことばを自分流に操れる力。
それが加えられてはじめて「文学」とよべて、人や時代を超える普遍性がでてくるのだと思うのです。


さて。
太宰の心の中にあったものは苦しいほどわかるけれど、太宰その人や作品の内容に共感しきれないところがあって、昔数冊読んだきりだったのだけれど、、、

わたしは太宰と太宰ファンをちょっと誤解していたかもしれない。

ロンドンで仲良くしていた友達が熱烈な太宰ファンだったこともあり、帰国後またいくつか読んでみて、気が付いた。
ずっと、太宰ファンは太宰の退廃的・破滅的な部分と、弱さと、優しさと、お伽草子のような作品や日常生活で垣間見せる不思議な明るさと、そういう人間性に惹かれるんだろうと思っていたのだけれど。
それはもちろんそうなのだろうけれど。
もっと基本的なところでは、

この人のコトバの使い方、面白いですね。


ダザイはやっぱり伊達じゃないのですね。
まぁ、「生れて、すみません」を盗っちゃったりもしてるけど^^;
この人の作品は、力を抜いて読むと(例えばマックで人を待ちながら文庫本で読むとか)、意外といいかもしれない、と思いました。

ところで、昭和21年11月、坂口安吾&織田作之助との座談会で太宰が言ってる言葉は、ちょっとあったかい気持ちにさせられます。
結局、この1年半後に死んじゃったのですけど。。。

その十一年前の作品『玩具』の一節と併せて、ご紹介。


ものの名前というものは、それがふさわしい名前であるなら、よし聞かずとも、ひとりでに判って来るものだ。私は、私の皮膚から聞いた。ぼんやり物象を見つめていると、その物象の言葉が私の肌をくすぐる。たとえば、アザミ。わるい名前は、なんの反応もない。いくど聞いても、どうしても呑みこめなかった名前もある。たとえば、ヒト。

(太宰治 『玩具』 昭和10年)


太宰 :ぼくはね、今までひとの事を書けなかったんですよ。この頃すこうしね、他人を書けるようになったんですよ。ぼくと同じ位に慈しんで――慈しんでというのは口幅ったい。一生懸命やって書けるようになって、とても嬉しいんですよ。何か枠がすこうしね、また大きくなったなアなんと思って、すこうし他人を書けるようになったのですよ。
坂口 :それはいいことだね。何か温たかくなればいいのですよ。

(昭和21年11月 坂口安吾・太宰治・織田作之助 座談会「歓楽極まりて哀情多し」)

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夏目漱石 『坊っちゃん』

2009-01-27 00:07:17 | 



「そんな裁判はないぜ。狸は大方腹鼓を叩き過ぎて、胃の位置が顛倒したんだ。君とおれは、いっしょに、祝勝会へ出てさ、いっしょに高知のぴかぴか踴りを見てさ、いっしょに喧嘩をとめにはいったんじゃないか。辞表を出せというなら公平に両方へ出せと云うがいい。なんで田舎の学校はそう理窟が分らないんだろう。焦慮(じれった)いな」

「それが赤シャツの指金だよ。おれと赤シャツとは今までの行懸り上到底両立しない人間だが、君の方は今の通り置いても害にならないと思ってるんだ」

「おれだって赤シャツと両立するものか。害にならないと思うなんて生意気だ」

「君はあまり単純過ぎるから、置いたって、どうでも胡魔化されると考えてるのさ」

「なお悪いや。誰が両立してやるものか」

(夏目漱石 『坊っちゃん』)


いいな~。ジャイアンだな~、坊っちゃん。
笑えて泣けて元気が出る日本文学の代表格ですよね。
これで100年前だものなあ。
天才。

一種痛快な結末の後に、付け加えるように「清の事を話すのを忘れていた。」と静かに書くあのタイミングがまたいいのよね。
でもけっして感傷的にしすぎないで、「だから清の墓は小日向の養源寺にある。」でさらりと終わり。
さり気無いからこそより感じ取れる二人の繋がりの強さ、温かさ、そして微かな切なさ。

私なんかが感想を書くよりも1000倍うまい文章があるので、そちらを2つご紹介します。


坊っちゃんの倫理観は単純明快、その行動は直情径行で、インテリ特有の計算や反省などは薬にしたくもない。いうまでもないことながら、英国帰りの大インテリである漱石がこのような主人公を創り出した意味は決して小さくはない。漱石は暗に主張しているのである。外国語も近代思想も、いわんや近代小説理論も、それらはすべて附け焼刃にすぎない。人は決して、そんなものによって生きてはいない。生得の言葉によって、生得の倫理観によって、生きている。少なくとも彼自身を生かしているものは、近代があたえた価値観ではない。

(江藤淳 新潮文庫巻末解説)

 ……

二元論で語るのは浅薄だが、そうした、いわゆる常識的な大人たちよりも、自分で自分をだませない「坊っちゃん」は遥かに痛快で美しい。その正直なやり方に呆れながらも強く憧れずにはおれない。
神経症で苦しみ、胃潰瘍を患い、繊細な神経で世に棲んだ作者・夏目漱石にとってもそれは、理想の姿だったのではないか。
(中略)
結局正直者は馬鹿をみたのかもしれない。でも、それでもいいではないか、とこの小説を読むたびいつも思う。信じる者がいて、信じてくれる人があって、楽しさも悲しみも自分がしっかり引き受けて生きている。それ以外のことは、常識という範疇で語られる他人から見た幸不幸でしかないような気がするからだ。

(木内昇 『ブンガクの言葉』)

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ロンドンからの小旅行 ~Seven Sisters~

2009-01-25 02:29:22 | 旅・散歩

日本最高!日本ばんざい!な日々を満喫中のわたくしですが(その理由の99%は食べ物と天気である)、イギリスがむしょうに懐かしくなるときがあるのです。
その理由のひとつがですね、すばらしいお散歩コースの数々です。

基本的に私は、可愛らしいおとぎ話のような景色よりも、圧倒されるような雄大な自然の景色が好きです。その典型がアラスカですが。
つまり人の手ができるだけ加えられていない景色です。

イギリスではロンドンから電車やバスでちょこっと足を伸ばせば、気軽にそういった景色に出会うことができました。
スコットランドなどへ泊まりがけで行く気になれば、さらに雄大な景色に出会えます。
これは意外な発見でした(知ってる人は知ってるのかな)。
日本よりも国土が狭いイギリスに、私好みの景色が、こんなにたくさんあったとは。
可愛らしいだけの景色の国かとおもっていたのに。
さすがナショナルトラストの国。
そして、たいていの場所にはフットパスと呼ばれる遊歩道が設けられています(といっても、その多くは”道なき道”ですが・・)。

というわけで、これからときどき、ロンドンから気軽に行ける私のお気に入りの場所をご紹介したいとおもいます。
これからイギリスへ旅行される方の、ご参考になれば幸いです。
今回は、7つの頂をもつ白亜の断崖、Seven Sisters。

イギリス海峡沿いの海岸線には白亜の断崖が連なっていて、中でも絶景といわれるのがこのSeven Sisters。
ロンドン・ヴィクトリア駅から鉄道に乗り、Lewesで乗り換え、Seafordで下車。
そこからローカルバスで、Seven Sisters Country Park下車。
約2時間半の行程です。
ブライトンやイーストボーンからも行けるようですが、私はロンドンから一番短い時間で行けるシーフォードから行きました(この行き方はなぜか地球の歩き方には載っていません)。 

バスをおりると、小さなビジターセンターとちょっと離れたところにパブが一軒。
他にはなんにもありません。
わたしが行った時はビジターセンターもクリスマスパーティだとかでお休みで、トイレだけが使用できるようになっていました。

さて。
このビジターセンターから白亜の断崖が見えるか?といいますと、答えはNO。まったくみえません
ビジターセンターは海岸線よりだいぶ内側にあるため、白亜の断崖を見るためには、30分ほど海へ向かって歩く必要があるのです。
フットパスは2通り。

①崖の全景が見えるコース(崖には近寄れない)
②崖の上や下を歩けるコース(全景は見えない)

です。

この2つのコースの間にはCuckmere riverという川が流れているため、各コースを行き来はできません
目的地はほぼ同じであるにもかかわらず、一旦ビジターセンターへ戻る必要があるのです。
各コースとも、片道約30分。
この話を聞くと行く気がそがれるかもしれませんが、そこはイギリス。
ただ歩かせはいたしません。
両コースとも、ビジターセンターから海岸までの景色がですね、すばらしいのです。
馬と羊と牛と草原と川以外はなんにもない。
なので、つまらないと感じる方もいるかもしれません。
でも私のような大自然大好きウォーキング派にはたまりません。
何時間でも歩いていたいくらいでした。

デジカメが壊れてインスタントカメラだったため、画像は大変わるいですが、すこしでも雰囲気が伝われば幸い^^。
冬のせいか観光客は少なく、地元の人達が犬の散歩をしたりしていました。
ここでも、みんなとても親切でした。


<ビジターセンター>

ビジターセンター


ビジターセンター前の景色。
ここから右奥の丘(Cuckmere haven)へ向かうのが、コース①。
左奥の丘(Seven Sisters)へ向かうのが、コース②。


<コース①>

こちらのコースにはお馬さんがいました。


沼や小川が沢山あります。
Lord of the Ringsに出てきそうな景色♪
正面奥が海。
左奥の丘がSeven Sisters。
右奥の丘がこのコースの目的地、Cuckmere havenです。


フットパスにはこういうゲートがいくつもありますが、"Public Footpath"の黄色い矢印マークがある場合は、勝手に開けて入ってOKです。
通った後はきちんと閉めましょう(羊や牛が逃げてしまいますからね)。


今度は牛のテリトリーです。
おじゃましまーす。


黄色い花が綺麗。
のどかだなぁ。
時間の流れもゆっくりです。


お散歩中のわんちゃん。


見えてきました、Seven Sisters。
左の石は、戦争中?にこのあたりでなくなった人たちへの追悼碑。
右奥の家はコーストガードの家です。
もうすこし進みましょう。


全景。
緑と白のコントラストがすばらしいです!
写真だと遠くにみえますが、実際は結構近いです。
それでも、もっと近くに行きたい!という気分がむくむく。
そこで一旦ビジターセンターへ戻り、コース②へ。


<コース②>

この川の右手が、コース①。
左手(今歩いているところ)が、コース②です。
左奥の丘がseven sistersです。
ひたすらまっすぐ歩きます。


途中、ふり返るとこんな感じ。


ようやく到着~。崖の下です。
ご覧のように、崖に近すぎるため、全景はみえません。
が、白亜の壁を間近に見ることができます。
次に、すこし道を引き返して、崖の上へのぼりましょう。


柵はなく、断崖絶壁です。
しかもものすごい強風。
ちょっとこわいです。
ときどき羊が落下するそうです。
ここからの景色もコース①に劣らず、絶景。


うしろを振りかえると、こんな感じ。
うーん、すばらしい眺め。
空気が澄んでいて、気持ち良かったです。
黄色い花もきれい。
奥に見える岬のような所が、先ほど行ったCuckmere haven。


左を見ると、こんな感じ。
地平線にちらばる羊たち。
いつもおもうんだけど、羊って木の実か果物みたい。


右をみると、こんな感じ。
羊がこっちを見てます。
奴らはどこでもこうやって人間をじーっと見ます。
写真ではよくわかりませんが、この辺りの海は、不思議な色をしていました。
石灰岩のせいでしょうか。
アイスブルーとホワイトとエメラルドグリーンを混ぜたみたいな、きれいな乳白色。
むかし見た氷河の海の色に似ていました。


以上、Seven Sistersでした。
ロンドンからの日帰り旅行先としては、かなりのオススメですよ^^

そうそう。
この旅でも、おもしろいイギリス人のおじいさんに会いました。
ロンドンからルイスへ行く列車の車掌さんなんですけど、切符の点検に来たんですね。
すごい無愛想に私の切符を点検した後、無言でじーっと私の顔を見てるんですよ。
え?なんか問題でも…?と不安になったころ、ぼそっと一言、「ルイス駅で降りて、プラットフォーム3。」と、、、。
「あ、ありがとうございます!」と言ったら、無愛想な顔のままウィンク
そしてすたすたと去っていきました。
、、、っもぉ~、いいなぁ~~~、ほんと!!
たまにいるんですよね、ああいうイギリス人のおじいちゃん。
最高です(笑)

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「日本の文学63」付録 夏の夜の打明け話

2009-01-24 00:21:21 | 


ぼくはね、織田作さんにしても安吾さんにしても、みんなすてきな純情派だったと思いますよ。
世の中の人間というのは、つまらないいろいろなことを思っているけれども、あの人たちはほんとに純潔な魂の持ち主だった。けっしてぐうたらなことじゃ終わらずに、自分の主義、主張、志というのか、そういうものに忠実でね。
それで結局、純潔に生きるということは、破滅を意味するわけですよ。ところが一途に純潔を通した、徹底的に。
それに、日本が敗戦を経験するまえに、戦前にあの人たちは、何べんも敗戦に会っているんですよ。もうまったくの敗戦に会ったと同じように、価値の転換がおこなわれ、自殺しようと思えばいつだって自殺できるような状態に、何べんも落ち込んでいるのだから、日本が負けたぐらいのことではビクともするもんじゃない。だから、みんなが敗戦後の虚脱状態にあったときだって、かれらは不変の価値あるものを知っていたから、つまり自分たちの純潔を信じていたんですね。その点ですぐれた大先輩だと思ってます。

(檀一雄 「日本の文学63」付録 夏の夜の打明け話)


坂口安吾も織田作も、その行動も作品も世のモラルからはほど遠いのに、檀さんにかかれば”すてきな純情派”(笑)。

でも、ほんとそのとおりなのだ。
かれらの作品の一番の魅力もまさにそこにある。

不変の価値あるものを知っていたひとたち。

檀さん、さすが作家で、太宰や坂口安吾の友人だっただけあるなぁ。

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檀一雄 『花筐』 『照る陽の庭』

2009-01-23 00:00:32 | 


「君は何かを待っているね、吉良君」と鵜飼は低く声を落す。
「ばかな」と吉良は答えた。
「白状したまえ、何だ。何を待っているのだ。何が来るんだ。え?」
「来るものを待ちやしないさ。もし僕が何かを待っているとすれば、そりゃ来ないものだろう」

(『花筐』)


「いけない、いけない。それは。言葉からおびき寄せられる幻影に、いのちを屠ったら、こんなばかげたことはありません」
「ばかげている?ええ、ばかげていることに、命をかけてみたいのです」
「死を克服するために、死を選ぶ?死のための克己心?いけない。いけない。そんなものがありますか。克己心というのは必ず生の側にあるものですよ」
「だから、最初の私の問いに戻るわけでしょう。何が、生きて残っておらねばならないものとして、ありますか?」

(『照る陽の庭』)



日本にもどって、はや3週間。
いまだに赤信号を渡ろうとしてしまう自分にびっくりというかあきれるというか。

今日のことばは、単なる自分用メモ。

「日本の文学」(中央公論社)解説で花田清輝氏が、檀一雄と西行・芭蕉をかさねて、「余裕があり、遊びがあり、美に対する不断の関心がある」「実用性を無視した純粋な造形性への配慮がある」といっているのは、ほぅ、とおもいました。

その点で好対照としておかれているのが、造形美だけが唯一無二の在り方であるとした当時の芸術鑑賞家たちに対抗し、実用美(あるいは実用性)をことさらに強調した坂口安吾や織田作之助。

「しかし、本当のことをいえば、芸術家としてのかれ(坂口安吾)は、実用性によって規定された造形性に、たえず関心をいだいていたのであろう。さもなければ、美文の伝統と手をきった、かれ独特の、ザックバランな文体のうまれるはずがないのである」とも。
ふむ、なるほど。

そして、織田作のこんなエピソードが紹介されています。

戦争中に文学報告会近畿支部総会が京大でひらかれたとき。川田順氏が議長になって、芭蕉三百年忌についての議事を、まるで株主総会のように能率的に、味気なく進行させていたとき、織田君がひょろひょろと立って、芭蕉もいいが一年違いで死んだ西鶴を線香一本あげず黙殺するのはちとひどすぎる。そこにおられる久米(正雄)先生はじめ皆さん西鶴には相当御恩があるはず、という意味のことを、例の皮肉な調子で発言した。幹事の諸先生の困惑ぶりが面白かった。ぼくが織田君に、とてもよかったよ、というと、彼はテレたように微笑した。

(桑原武夫 「織田君のこと」中央公論社版『織田作之助選集』附録第二号)



ちなみに檀一雄の娘が檀ふみってことは知っていたけれど、愛人(のひとり)が小森のおばちゃまってことは今日知った。へー。

しかしこの「日本の文学」。
編集委員が谷崎潤一郎、川端康成、伊藤整、高見順、大岡昇平、三島由紀夫、D・キーンて。
なんか錚々たる顔ぶれですねぇ。

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アメリカ

2009-01-22 01:50:47 | 日々いろいろ

みなさま、こんばんは。
無職なのをいいことに、昨夜はオバマ氏就任式をリアルタイムでみてしまいました。


ぼやーっとテレビを見ながら、はじめてワシントンDCへ行ったときのことを思い出しました。
大学時代、南部の大学に数ヶ月ほど交換留学したときです。
何時間も車で田舎道を走って、突如あらわれた巨大な建物。
延々延々と続くその壁に仰天し、運転していたアメリカ人になんなんですかこれ!?と聞いたら、「ペンタゴン!」と楽しげに言っていたものでした。
夕方だっただけに、ほんと不気味だった。。。


ところで、日本にいると、白人と黒人の間の壁が実際にはどれほどのものか、いまいち想像しにくいですよね。
当時、渡米前は「ケネディの時代じゃあるまいし、今は大したことないんじゃ」と正直思っていたのです、私。
ですが、すくなくとも十数年前の南部では、その想像は甘かったです。


わたしが通った大学は、わりと裕福な家の子供たちが通う大学で、たしか学生は白人が黒人より少し多いくらいだったとおもいます。
表だってはみんな仲良くしているんですが、実際の友人関係をみると、100%と言っていいくらい、白人は白人同士、黒人は黒人同士でしか友達になってはいませんでした。
ですから、大学のカフェを見渡しても、白人のグループと黒人のグループ、それぞれがそれぞれのテーブルで談笑しているような状態です。
街も、白人が主に住んでいる地域と黒人が主に住んでいる地域がかなりはっきりとわかれていました(貧富も)。


ある日、ランチを食べにカフェへ行ったところ、なんだか雰囲気がおかしい。
ふと見ると、壁に大きな(南北戦争の)南軍の旗がかかっているではないですか。
人がいないときに誰かがかけたのでしょう。
緊張した居心地の悪い空気のなか、学生たちは黙々とランチを食べていました。
私と友達も。
そこに、ハサミを持った黒人の男子学生がすたすたと歩いてきて、無言で旗をおろし、びりびりにやぶきました。
その様子を黙って見守っていた学生たちでしたが、誰かが拍手をしたのを皮きりに、カフェテリア中が拍手喝采となりました。
、、、ではあったのですが、よく観察すると、拍手をしているのは黒人全部と白人学生の一部なんですね。
真ん前で起きているその様子に一度も目を向けず、周りの喧騒が一切聞こえないかのように会話を続けている白人学生のテーブルが、少なからずありました。
そのことに、旗そのものより、びっくりしました。
彼らの感情が差別だったのか、差別とはもうすこし違う感情だったのかはわかりません。
当時、逆差別も問題になっていましたし。
もしかしたらもっと理性的な理由だったのかもしれません。
いずれにしても、いまだに両者の間にこれほど明らかな溝があるということに、正直おどろいたのでした。


旗を破いた学生はたまたま知り合いで、大江健三郎を愛読している男の子でした。
「大江は素晴らしい!君は読んだことがあるか?」と聞かれ、ノーベル賞もとったこの作家の作品を一作も読んだことがなかった私は、なんとも情けない気持ちになったものでした。良いも悪いも、読んでないことには話もできない。
ちなみに、いまだに読んでいません^^;


そういう国で選出された初の黒人大統領。
イラク、アフガニスタン、100年に一度の経済危機に直面しているこの国の国民が、こういう大統領を選んだ。
そのパワー。
テレビをみながら、あぁ、アメリカだなぁとおもいました。
これからのアメリカ。
たのしみですね。

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織田作之助 『可能性の文学』

2009-01-20 03:50:03 | 

私は小説家というものが嘘つきであるということを、必要以上に強調したくないが、例えば私が太宰治や坂口安吾とルパンで別れて宿舎に帰り、この雑誌のN氏という外柔内剛の編輯者の「朝までに書かせてみせる」という眼におそれを成して、可能性の文学という大問題について、処女の如く書き出していると、雲をつくような大男の酔漢がこの部屋に乱入して、実はいま闇の女に追われて進退谷きわまっているんだ、あの女はばかなやつだよ、おれをつかまえて離さないんだ、清姫みたいな女だよ、今夜はここへ匿かくまってくれと言うのを見れば、ルパンで別れた坂口安吾であった。おい、君たちこの煙草をやるよ、女がくれたんだよ、と彼はハイカラな煙草をくれたが、私たちは彼がその煙草をルパンの親爺から貰っていたのを目撃していた。坂口安吾はかくの如く嘘つきである。そして私は彼が嘘つきであることを発見したことによって、大いに彼を見直した。嘘つきでない小説家なんて、私にとっては凡そ意味がない。私は坂口安吾が実生活では嘘をつくが、小説を書く時には、案外真面目な顔をして嘘をつくまいとこれ努力しているとは、到底思えない。嘘をつく快楽が同時に真実への愛であることを、彼は大いに自得すべきである。

……

「過不足なき」というが、果して日本の文学の人間描写にいかなる「過剰」があっただろうか。……日記や
随筆と変らぬ新人の作品が、その素直さを買われて小説として文壇に通用し、豊田正子、野沢富美子、直井潔、「新日本文学者」が推薦する「町工場」の作者などが出現すると、その素人の素直さにノスタルジアを感じて、狼狽してこれを賞讃しなければならぬくらい、日本の文学は不逞なる玄人の眼と手をもって、近代小説の可能性をギリギリまで追いつめたというのか。「面白い小説を書こうとしていたのはわれわれの間違いでした」と大衆文学の作者がある座談会で純文学の作家に告白したそうだが、純文学大衆文学を通じて、果して日本の文学に「アラビヤン・ナイト」や「デカメロン」を以てはじまる小説本来の面白さがあったとでもいうのか。脂っこい小説に飽いてお茶漬け小説でも書きたくなったというほど、日本の文学は栄養過多であろうか。

……

志賀直哉とその亜流その他の身辺小説作家は一時は「離れて強く人間に即く」ような作品を作ったかも知れないが、その後の彼等の作品がますます人間から離れて行ったのは、もはや否定しがたい事実ではあるまいか。彼等は人間を描いているというかも知れないが、結局自分を描いているだけで、しかも、自分を描いても自分の可能性は描かず、身辺だけを描いているだけだ。他人を描いても、ありのまま自分が眺めた他人だけで、他人の可能性は描かない。彼等は自分の身辺以外の人間には興味がなく、そして自分の身辺以外の人間は描けない。これは彼等のいわゆる芸術的誠実のせいだろうか。それとも、人間を愛していないからだろうか、あるいは、彼等の才能の不足だろうか。彼等の技術は最高のものと言われているかも知れないが、しかし、いつかは彼等の技術を拙劣だとする時代が来ることを、私は信じている。

……

私は日本文壇のために一人悲憤したり、一人憂うという顔をしたり、文壇を指導したり、文壇に発言力を持つことを誇ったり、毒舌をきかせて痛快がったり、他人の棚下しでめしを食ったり、することは好まぬし、関西に一人ぽっちで住んで文壇とはなれている方が心底から気楽だと思う男だが、しかし、文壇の現状がいつまでも続いて、退屈極まる作品を巻頭か巻尾にのせた文学雑誌を買ったり、技倆(ぎりょう)拙劣読むに堪えぬ新人の小説を、あれは大家の推薦だからいいのだろうと、我慢して読んでいる読者のことを考えると、気の毒になるし、私自身読者の一人として、大いに困るのである。

……

「可能性の文学」は果して可能であろうか。しかし、われわれは「可能性の文学」を日本の文学の可能としなければ、もはや近代の仲間入りは出来ないのである。小説を作るということは結局第二の自然という可能の世界を作ることであり、人間はここでは経験の堆積(たいせき)としては描かれず、経験から飛躍して行く可能性として追究されなければならぬ。

(織田作之助 『可能性の文学』)


この「可能性の文学」で織田作が言っていること、最近の日本文学にも少し重なるものがあると感じるのですけど、いかがでしょうか。

そして銀座のルパンで仲よく酒を飲む太宰・織田作・坂口安吾。
斜め後ろの席からのぞきたいっ。
と無頼派好きならだれもが思う、よね。

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筑紫哲也さん 4

2009-01-16 00:57:52 | テレビ


 「がんは面白い病気でね、これくらい個人差があり、気持ちに左右されるものはない」と言う。「心臓が急に止まるのと違い、余命率がどれくらいという、一種予約つきの人生になる。年数はわからない。ラッキーだと延びるし、短い人もいる」

 日々、「ありがたい」と思うことがある。「倒れるまで、一日、一日なんて、特に考えないで過ごしてきたけど、先が限られていると思うとね。例えばきょう一日も、とても大事というかね。うん。お墓には何も持っていけないから、大事なのは、どれくらい、自分が人生を楽しんだかということ。それが最後の自分の成績表だと」

 今は週に1回、立命館大で講義し、あとは『源氏物語』を猛烈な勢いで読んでいるそうだ。

 「入院中にじっくり読んだのは新渡戸稲造の『武士道』。古典が面白くてね。それと、仏像や日本画をしみじみと見るというのかな……。これって、なんだろうと思う。これから先、見ることはないという、見納めの心理も働いているんでしょうが、すべてにありがたさを感じる。そう思いながら味わえる何日かが、あとどのくらい続くか分からないけど。その日々、月日があるというのは、急に逝くよりいいんじゃないか、なんて思うんです」

(筑紫哲也氏 インタヴュー 2007年11月27日 毎日新聞)


昨年末、友人が癌の手術を受けました。
勉強家で、多趣味な、一緒に旅行も行ったりする、とても気の合う友達です。
これまでは、このままずっとおばあちゃんになっても同じようにわいわいやっているんだろうなーと当たり前のように想像したりしていたので、癌になった後、その友人が自然に口にした「5年生存率」とか「再発可能性」という言葉に内心どきっとしました。

彼女が先かもしれないし、私が先かもしれない。
明日かもしれないし、50年後かもしれない。
残された時間がどれだけなのかは誰にもわからないけれど、ひとつだけ確かなことは、誰にとっても、時間は有限だということ。
誰ひとりとして、例外はないということ。

どんなに長くてもせいぜいあと数十年。
それなら、怒ったり嘆いたり卑屈になったりするよりは、できるだけ楽しく、素直な、明るい気持ちでいたいものだと思います。

ところで、この『源氏物語』は、ご友人の瀬戸内寂聴さん訳のものでしょうか。
私は昔与謝野晶子訳で挫折したので、瀬戸内訳で再チャレンジしてみようかしら。
、、、、、、ていうか、思い出した。
本棚、もう本が1冊も入らないのだった。
、、、図書館で借ります、、、(T T)

そだ、もひとつ。
新渡戸稲造。
みなさま、5000円札の顔にもなったこの人、どんな人かご存じでしょうか?
はずかしながら、わたしはずっと名前くらいしか知らなくて、むかし岩手を旅行したときに記念館のようなところへ行って、そこではじめて興味を持ったんですよ。
大学入試で面接官から将来の希望を聞かれて、「太平洋の橋となりたい」と言った人。
百姓みたいな名前と『武士道』なんて右ちっくな著作タイトルからはかけ離れた、とてもグローバルな生き方をした人です(『武士道』もなんと英文で書いています)。

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筑紫哲也さん 3

2009-01-15 16:47:10 | テレビ


これから否応なしに憲法をどうするかという議論が始まりそうな雲行きでありますけども、憲法を改めるにしろ、そうしないにしろ、まず大事なことは何かと言えば、憲法に手をつけるということが大事(おおごと)だということであります。

それは、今の憲法がどうやって出来たかということを調べれば一目瞭然であります。若い歴史を知らない政治家はよく「これが占領軍の押しつけ憲法だ」などという簡単な事を言いますけれども、調べれば調べるほどそんなに単純な話ではありません。

例えば憲法の25条に「全ての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という条文があります。これは占領軍が押しつけたものでも何でもありません。日本の民間学者が強硬に主張してこれを入れました。

それから今の教育制度、義務教育の制度も学校の先生達の強い要求によって26条、特に2項というものが入りました。そして、その当時の日本政府は終始、国民に主権を与えること。あるいは女性に参政権を与えることには抵抗し続けまして、天皇の地位が危うくなるということが分かって、初めて占領軍の要求に屈しました。

つまり、国民の側に当時の政府は立っていたわけではありません。にも関わらず、第9条については、その保守派のリーダーですら日本が敗戦の代償に理想的な、戦争をしない国を作るということについては、大変な情熱をその当時は感じていました。そういういろいろな事情があって出来た憲法であります。

スカートの丈を短くしたり、長くしたりするのとは理論が違います。どんな議論をこれから始めるにしろ、これが大事だということは、まず認識して始めたいものであります。

(2007.5.2 筑紫哲也 News23 多事争論 「大事」)



国家の横暴から国民の権利を守るのが憲法。
そこにうたわれているのは私たち一人一人の権利です。
憲法改正(改悪?)は法律改正とは異なり、国民投票です。
是とするか否とするか。
投票日直前におろおろすることのないよう、まちがっても棄権なんてことにならないよう、普段からすこしずつ勉強しておかなきゃなぁとおもいます。

以下には、前文、9条、97~99条をご紹介。
ほかの条文については、こちらのホームページなどで見ることができます。


■前文

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

■第二章 戦争の放棄

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

■第十章 最高法規

第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

第九十八条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

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