風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

『助六曲輪初花桜』 @歌舞伎座(10月24日)

2018-11-29 21:51:27 | 歌舞伎



仁左衛門は江戸一の色男・助六について「ほとんどの立役がやりたい役ではないでしょうか」とやわらかな関西弁で紹介し、「この歳で助六を勤められることもありがたいし、私としても集大成の心構えでね」と言葉に力を込める。

記者から「色男とは?」という質問が飛ぶと「女性に好かれることでしょう。そして男性からも好かれる」と持論を述べ、「自身を色男と思うか」という質問に対しては「恥ずかしいですけれどね、舞台出たらそう思わないとやっていられない」と回答し笑顔を見せる。これを受けた記者が「実際にいい男でいらっしゃいますから」と返すと、仁左衛門は「ありがとうございます」と茶目っ気たっぷりに答え、会見場を和ませた。

そして話題が、生前に親交の深かった十八世勘三郎の追善におよぶと「彼(十八世勘三郎)をしのびながら……」と口にし、少し考えたうえで、「私の中には本当に、まだいるんですよ彼は」と頭をかく。「未だにいないとは思えない。夢で芝居もしますしね。ケンカもするし、飲みにも行く。他愛ないことを言ったりしてね」といたずらっぽく微笑み、「この追善興行を大成功させることが、彼への本当の追善。喜んでくれていると思うんだけれどね」と、机上の公演チラシを指でそっと叩いた。

また、自分は助六を十七世勘三郎から学び、一方、十八世勘三郎からは、助六を「教えてほしい」と乞われていたことを明かす仁左衛門。「彼に『私より東京の人から教わったほうがいいんじゃない?』と言ったら、『兄ちゃん(仁左衛門)に教えてほしいんだ!』と言ってくれて。その実現できなかった思いを、今の(中村)勘九郎くんにつなげたい。勘九郎くんに私の助六をそばで見ていてほしい。そして大和屋(坂東玉三郎)さんの指導もと、(中村)七之助くんを“揚巻役者”にしたい。2人に対する期待ですよね」と語り、落ち着いた口調の中にも、今回の「助六曲輪初花桜」にかける熱い思いを垣間見せた。
ステージナタリー


まず最初に叫ばせてくださいまし。

今月南座でニザさん、『封印切』やってたの!!!!!??????

全然知らなかった。。。。。。。。。。

これだから普段ツイッターも情報収集も全くしないズボラは。。。。。。。。。。。
でも南座の顔見世っていつもは11月末~12月じゃなかったでしたっけ?
どうして今年は11月頭からやってるの?しかも12月とは別演目なんて。
新開場だから?高麗屋三代襲名だから?
ニザさんの忠兵衛は、長い間ず~~~っと観たいと思っていたお役だったんです・・・(ちなみに藤十郎さんのお役で一番好きなのも忠兵衛)。
ああ、お願いですからお江戸にも持ってきてくださいまし!!!!!


と、思いのたけを叫んだところで(叫び足りないけど泣)、先月の歌舞伎座の感想を。
例によって一ヶ月もたってしまったし、今更感想も…とも思うけれど、自分用覚書として(自分の記憶力を全く信用していないので)簡単に書いておきます。前楽の日に行ってきました。

私が『助六』を観るのは、歌舞伎座の杮落しの海老蔵以来五年ぶり。
この日は開演1時間半前で立見、1時間前で札止めでした。杮落しのときほどではないせよ、相変わらず人気演目なのだなあ。
でも、わかる。
今回改めて思ったけれど、『助六』は本当に江戸歌舞伎の傑作ですねえ。
そのおおらかさ、格好よさ、爽快さ、華やかさ、派手さ、荒唐無稽さ、沢山の笑いと優しさと涙まで。歌舞伎の魅力がいっぱいにつまってる。
そして毎度のことながら、この演目に細かいことを言うのは野暮、という気にさせられる。観終わった頃には、そういう気持ちは全く起こらなくなる。
こういう歌舞伎の懐の深さが大好き。
が、覚書なので少し書いておきます。

仁左衛門さんの助六。
私は(十二世)團十郎さんのあの子供のような、でも吉原の女達にモテまくるのがよくわかる助六がとても好きで、海老蔵にもぜひあの路線を目指してほしいと願っている人間なので、仁左衛門さんの助六は好みドンピシャかといわれるとそうではないし、ニンなお役でもないように思われるのだけれど、「十五代目!」「松嶋屋!」に混じる「色男!」という大向こうがこんなにも似合う役者は他にいないなあ、とつくづく思ったのでありました。
「色男」って、「美男」とか「ハンサム」とか「イケメン」とは違う独特な響きがあるじゃないですか。これからの時代にはもう現れない種類の存在のような気がいたします。。
そしていつものことですが、仁左衛門さんが演じるとストーリーがよくわかる。助六のストーリーなんてあってないようなもの、と今まで思っていたので、この演目はこんなにちゃんとしたお話になりうるのか、と非常に新鮮でした。でも一方で、ストーリーなんてあってないようなもの、というところが助六の魅力のようにも思ったり。

脇では、又五郎さんのくわんぺらがとてもよかったなあ。三枚目な雰囲気と適度な貫録と。
そして、玉三郎さんの満江も、息子たちへの温かな愛情と凛とした風情の両方が感じられて、いいなあと思いました。仁左衛門さん、玉三郎さん、勘九郎、七之助が同じ舞台にいるのは、やっぱり素敵な光景
竹三郎さん(遣手お辰)も久しぶりに拝見しましたが、変わらずお元気そうで安心しました。仁左衛門さんと同じ舞台にいらっしゃるお姿を見られるのは嬉しい

彌十郎さん(通人)の七三での言葉(「お二人のご子息は立派に~」)は、ちょうど私のいた幕見席の上手あたりに向かって話しかけておられたので、なんだかすぐ近くに勘三郎さんがいらっしゃるような気がいたしました。近くにいた女性はここで泣いてしまっていた。
さよなら公演では、新しい歌舞伎座でも夢を見させてもらいましょうと仰っていた勘三郎さん。杮落し公演では、團十郎さんのこと、そして勸玄くんの誕生に触れ、歌舞伎の未来に願いを込めていた三津五郎さん。
今回の舞台で勘九郎、七之助とともに、立派に舞台を務めていたみっくん(朝顔仙平)の姿に、三津五郎さんもきっと勘三郎さんと一緒に歌舞伎座の客席にいて、彼らを見守ってくださっているに違いない、と思いました。あるいは舞台上でお二人で息子たちにダメ出ししまくってるかもですけど笑。

勘九郎の白酒売も、ちゃんと仁左衛門さんのお兄さんに見えました。うまいもんだなあ。白酒売は私は菊五郎さんが大好きだけど、こうして次の世代にちゃんと芸が受け継がれていくのを見るのは、嬉しいものですね。ちょっと切なくもあるけれど。七之助の揚巻も、よかったです。

次に『助六』を観られるのはいつかなあ。成田屋の襲名でしょうか。そして私はまた観に行ってしまうだろうなあ。
助六は江戸歌舞伎の傑作だと思うけれど、それを傑作だと感じさせてくれる役者さん達がいてくれることに感謝しつつ。
歌舞伎の未来に幸あれ!!!


片岡仁左衛門、20年ぶりに歌舞伎座で助六「芸術祭十月大歌舞伎」集大成への思いを語る

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クランコ版『オネーギン』の音楽

2018-11-18 01:36:58 | バレエ

©Roman Novitzky/The Stuttgart Ballet 


マリインスキーのスメカロフはフィギュアのプルシェンコの振付を担当していましたが、羽生くんのフリーで再び話題になっている『ニジンスキーに捧ぐ』も、彼の振付だったんですね。彼は前回の来日では踊っていたけれど(ロパ様の愛の伝説で大臣役だった。あまり好みな大臣ではなかったが…)、今回はどうなんでしょうね。今回のマリインスキーのチケットはあまり売れていないようだけれど、羽生くんファンがプルシェンコ繋がりで観に来てくれたりはしないのだろうか。と、今ジャパンアーツのHPを見たら、今回スメカロフはガラで自作の振付作品を踊るらしいですよー。ここをもっと宣伝したらチケットがはける、ということはないかしら。と言いつつ、私も今回のマリインスキーはスキップいたしますが・・・(ロパ様もヴィシ様もいないし;;)。 ※29日追記:スメカロフは劇場の都合で来日しないことになったそうですー。
今知りましたが、プルシェンコのファーストネームもエフゲニーなのか。キーシンもエフゲニーだし、ロシアってエフゲニーだらけなのだなあ。
以上、余談。

さて公演から日がたって今更ですが、、、書かないではいられないので書かせてくださいまし。

クランコ版『オネーギン』の選曲&編曲って、素晴らしくないですか

 クランコは1952年に、英国のサドラーズ・ウェルズ劇場で上演されたオペラ『エフゲニー・オネーギン』のバレエ部分を振付けた経験があり、以来プーシキンの小説に興味を抱いていた。1964年、ボリショイ・オペラによる『エフゲニー・オネーギン』が映像化されて西側で公開されると、これに触発されてバレエ化を決意するに至った。
 当初はオペラ曲を編曲して使うことを考えており、英国ロイヤル・バレエ団でヌレエフとフォンテインを主役とする作品として話が進んでいたが、オペラ楽曲をバレエに使用するのは前例がないとしてロイヤル・オペラ・ハウスの首脳陣に却下された。自らが所属していたシュトゥットガルトでも同様の結論が下されたため、音楽はシュトルツェに依頼してチャイコフスキーの様々な楽曲を編曲して用いることになった。
 シュトルツェは、『四季』作品37bなどのピアノ曲を全体の3/4ほどに使い、その他はオペラ『チェレヴィチキ』のオクサーナのアリア、幻想曲『フランチェスカ・ダ・リミニ』などを細かく分けて数か所で使うなど苦心の末、全幕物に仕上げた。ほとんどは移調した上にリズムも変えてあり、またチャイコフスキーによく見られるオーケストレーションから逸脱しないように気をつけたという。
(wikipediaより)

私は『オネーギン』を観たのは今回が初めてで、「バレエ版はオペラ版の曲を全く使用せず、チャイコフスキーの他の楽曲を用いているのが特徴」という知識だけで観に行ったので&クラシック音楽に詳しくないので、てっきりチャイコフスキーのオリジナルの管弦楽曲を使用している(そういう管弦楽曲が存在している)のかと思いながら舞台を観ていたのですよ。
なんて素敵な音楽だろう、帰ったらネットで探して聴こう、と思っていたら。
その殆どが原曲はピアノ曲だったとは・・・

先日の感想でも書きましたが、ヴィシニョーワのタチヤーナが奥のベンチに腰掛けて夢見るように本を読んでいるときの空気がすんごく素敵で、その場面に流れていた音楽と相まって、舞台の上がロシアそのものに感じられたんです。
この場面の音楽は、ロシア的な哀愁と、今これから始まろうとしている恋が悲劇に終わることを感じさせるスペクタクルな予感がゾクゾクするほど素晴らしくて。
プロコフィエフのロミジュリの出会いの場面の”モンタギュー家とキャピュレット家”が、「この恋、絶対幸せに終わらないよね…」と悲劇の運命をはっきり予感させるのと似ていて。
ああ、ロシアの作曲家の音楽ってどうしてこんなに美しい悲劇が似合うのでしょう!!!

この場面でなされている音楽のアレンジは、次のとおり。

①このOp.51-2 "Polka peu dansante"の0:00-1:43と3:43-4:49の間に、


②Op.19-3 "Feuillet d'album"(下記
7:21-9:01)が挿入されて、


この4:15-6:55
の音楽が作られちゃうんですよ! ※ちなみにこちらの動画のタチヤーナは1965年の初演キャストのMarcia Haydee


同様に、②op.19-4 ”Nocturne”(9:03-12:16)が、上記動画の17:20-20:40の音楽になっちゃうんですよ!

元のピアノ曲ももちろん素敵だけれど、
このロシア的&チャイコフスキー的なオーケストレーション、素晴らしくないですか

以上、原曲がピアノ曲であると知ったワタクシの感動の思いを叫ばせていただきましたm(__)m
他の場面のアレンジについても、皆さんネット上で情報をあげてくださっていて、もうありがとうございますとしか。自分では決して辿り着けない情報でした。

それにしても、この音楽にヴィシ様のタチヤーナの似合うことといったら。。。。。。。。。。。


©Roman Novitzky/The Stuttgart Ballet 

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内田光子ピアノ・リサイタル @サントリーホール(11月7日)

2018-11-08 23:20:46 | クラシック音楽




シューベルト:ピアノ・ソナタ第4番 イ短調 D. 537

シューベルト:ピアノ・ソナタ第15番 ハ長調 D. 840
シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番 変ロ長調 D. 960 
J.S.バッハ:『フランス組曲』第5番 ト長調 BWV816よりサラバンド(アンコール)

光子さんのシューベルト・ソナタ・プログラム@サントリーホールの第二夜に行ってきました(第一夜の感想はこちら)。
今夜も変わらず咳だらけの客席ではあったが、、、こちらも最初からその覚悟で行ったので、あまり気にはなりませんでした。今夜は最初から光子さんの調子もよかったですし。
マナーといえば美智子様(休憩後の後半にいらしていたのです)は、客席がざわつく楽章間も微動だにされず。あのご年齢では大変だろうと思うのに。客の皆が美智子様のようなマナーならどれほど静かな客席になることか、と思ってしまいました。

さて、今夜の光子さんは、最初からメガネ装着でご登場。先日メガネケースに見えた赤い布は、レンズ拭きであった模様。
先ほども書きましたが、今夜は第一夜と異なり、最初から安定した演奏でした。

4番(D.537)。D.959の最終楽章にも使われた第二楽章のメロディは、シューベルトの生涯を旅するような今回のプログラム構成の中で聴くと、沁みますね・・・。先日の光子さんのD.959の音色が耳に残っているから尚更。光子さんは、シューベルトのこういうポロポロした無垢な弱音が本当に素晴らしい・・・

15番(D.840)も、第一楽章の無垢で清らかなメロディ、その合間に見える哀しみ、揺れる心、自らへの励まし、転調を繰り返す旋律の中にシューベルトのそういった感情が光子さんの音から次々と立ち上ってくる。二楽章最後の消え入るような終わり方も、印象的でした。

(休憩20分)

21番(D.960)
素晴らしかった・・・・・・・・・。
より自然な弾き方をしてくれたら更に好みだとか、この曲では多少のミスタッチもあったけれど、そんなの全く無問題。
光子さんとシューベルトが重なって見えて、シューベルトが目の前で弾いているように感じられて。そう錯覚するほど、シューベルト自身の感情がその音から強く立ち上ってきて。
一楽章から泣きそうになってしまった。
聴きながら、シューベルトはなんという曲を作ったんだろう、と思った。今夜のような演奏を聴いていると、もうこのときには体の半分が別の世界に行っていたとしか思えない。
でも同時に、光子さんの演奏からはまだこちら側の世界にいるシューベルトの心も強く感じられて。その2つを同時に感じてしまうものだから、聴いていて心が引き裂かれそうなほど辛い。辛いのに、美しくて。だから一層辛くて。
最終楽章。どれほど望まなかろうと、シューベルトの意思など関係なく、その時はすぐそこまで迫ってきている。最後の音はレオンスカヤと同じく、光子さんもダンッと勢いよく終えるんですよね。私はこの弾き方に強く「シューベルト」を感じて、とても好きなんです。彼は吹っ切れたわけでも投げやりになったわけでも、また冷静だったわけでもなく、こういう形で納得させて最も彼らしい形で自分の音楽人生を終えさせたのではないだろうか。よく言われる話だけれど、シューベルトのピアノソナタってとても私的なんですよね。声高に誰かに聴かせるためではなく、ただ自分が作りたくて作ったという感じがする音楽。だから一層の純粋さと凄みを感じさせる。

この曲の作曲は19番、20番と同時進行で進められたそうだけれど、今日のような演奏を聴くと(ツィメルマンのときもだけど)、やっぱり21番が最後だよな、と感じる。あえて順番をつけるなら。
20番と21番にはどちらにもシューベルトの死に向かっていく心情が感じられるし、シフは「20番の方が偉大であり、輝きに満ちた20番こそが最後のソナタとしてふさわしい」と言っているけれど。曲としては私も20番の方が好きかもだけど。今回の光子さんの演奏では、最晩年のシューベルトの心がこの2曲でコインの表裏のように表われているように私には感じられて。それは通常の演奏とは逆で、20番に陰を、21番に陽を感じて(という言葉で表わすにはあまりに深いのだけれど、一言で表すならば)。この21番も決して達観している終わり方ではないけれど、最後のあの和音の響きに、今回の演奏ならばやはり最後に聴くべきは21番の方であるように感じられたのでした。
演奏家自身は聴いている私達よりずっと現実的に演奏をしていると思うし、そうでなければこんな演奏はできないと思うけれど(それは歌舞伎役者やバレエダンサーも同じだと思う)、そこからこんなものを聴衆に体感させてくれるのだから、凄いよねぇ。。。そういえばペライアのハンマークラヴィーアのときも同じように感じたのだった。その演奏から神と人間の姿が見えて、帰宅してから読んだインタビューで彼が本当にそういうつもりで弾いていたことを知り、ピアニストという人達の表現力の凄さに驚いたものでした。
そして第一夜と同じく、4番→15番→21番という流れで聴くことで、シューベルトの音楽がその短い人生ではっきりと深みを増していることが実感できたのでした。今回の光子さんのシューベルト・ソナタ・プログラム。少し贅沢かなと思ったけれど、第一夜と第二夜の両方に行って本当によかったと思う。これら6曲全てを通して、それを演奏する光子さんを通して、シューベルトの人生の旅を彼と共に辿ることができたような感覚を今、覚えています。

ところでモーツァルトのときにも書きましたが、光子さんの演奏って日本人離れしているように感じる。彼女の音が作り出す音楽に曖昧なところが一切なく、非常に見通しがクリアなところが。小澤さんが村上春樹さんとの対談本で光子さんの演奏について「男性ピアニストが持てない度胸があって、アルゲリッチと似ている」と仰っていた記憶があるけれど、それは私が感じる光子さんの思い切りのよさと同じものなのではないかしら。

アンコールで弾かれたのは、バッハフランス組曲5番よりサラバンド
今夜のアンコールはこの曲を聴けたらいいなと思っていたので、光子さんがこの曲を弾き始めたときは嬉しかったです(彼女の演奏会では高確率で聴ける曲ではありますが)。光子さんが弾くこの曲の演奏が大好きだという理由もありますが、シフの演奏会のときに感じたように、ラストソナタの後にはバッハの音楽がとてもよく似合うから。全ての音楽が最初の場所に還っていくような安心感をもらえる。そういう意味では、バッハは音楽の父と言われているけれど、母でもあるように感じられるのでした。
そして光子さんの温かで慈愛に満ちたバッハの音色を聴きながら、シューベルトだけじゃなく、光子さんも、この会場にいる人たちも、私も、それぞれがそれぞれの形でいつかその人生を終えるのだな、と感じていました。美智子様は、どういうお気持ちでこの曲を聴かれていたのでしょうか。私は「平成最後の」という言葉は商業主義が透けて見えて嫌いなのですが、少し前屈み気味にじっと聴き入っていらした美智子様の姿が視界に入り、平成ももうすぐ終わるなあ、と、ちょっとしんみりしてしまったのでした。

※自分用覚書1
今夜のD960の4楽章冒頭の音は、1997年の録音よりも強音でした(もちろんツィメさんやレオンスカヤほどではない)。私は今回の方が好き。1997年のサントリーホールでのライブの音に近かったように感じました。

※自分用覚書2
twitter情報で知ったのですが、今回の光子さんのピアノは、ロンドンから運んできた自ピアノwithお抱え調律師だったとのこと。今回のピアノ、いつもの光子さんの音よりもマットというか、親密な音だったように聴こえました。ツィメルマンもオールシューベルトのときは室内楽的な響きを実現させるべくピアノ改造にいつも以上のこだわりを見せていたようだったけれど、シューベルトの曲ってピアニストにそういう特別なこだわりを起こさせる何かがあるのでしょうか。

※自分用覚書3。これまでに聴いたシューベルトのピアノソナタ。
2番(レオンスカヤ)、4番(光子さん)、7番(光子さん)、11番(レオンスカヤ)、13番(レオンスカヤ)、14番(光子さん)、15番(光子さん)、16番(レオンスカヤ)、20番(ツィメルマン、シフ、ヴォロドス、光子さん)、21番(ツィメルマン、シフ、レオンスカヤ、ヴォロドス、光子さん)

※2019.8.28追記
The New York Times Style Magazine ピアニスト内田光子の尽きることなきシューベルトへの愛(AUGUST 28, 2019)


©時事通信社
美智子さま。
客席でご一緒になるのは、熊川さんが踊ったKバレエのカルメン以来4年ぶりでしたが、変わらずお美しくエレガントでいらっしゃる。「上品」という言葉はこういう方のためにあるのだなあと感じます。

Mitsuko Uchida - Bach French Suite - Sarabande


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秀山祭九月大歌舞伎 夜の部『俊寛』 @歌舞伎座(9月26日)

2018-11-07 16:38:55 | 歌舞伎



年齢を重ね、舞台を重ねてたどり着いた『俊寛』

 夜の部は俊寛僧都を演じます。「長らく上演されていなかったものを、初代があそこまでつくり上げた、練り上げた芝居。心理描写はとても現代的で、心の動きを大事にする型がついております」。あくまでも近松の書いた竹本を大事にすることが重要で、「三味線とのイキが合わないとできない型になっております。竹本さんに乗ってやる芝居で、踊りでなくても踊りのように体を動かしてやらなければならないところが、たいへん多うございます」。今回は前後で替わらず、太夫の第一人者の葵太夫が通して語ります。吉右衛門は「大変だと思いますが、とてもありがたい」と喜びました。

 初代は「魂で芝居をする人」と言い、「吉右衛門の魂がこもっている芝居。大切に、大切にやっていきたい」と、『俊寛』への思いが言葉を超えて伝わってきます。実父(初世白鸚)の教えを守りながら再演を重ね、自分の解釈で演じるところも生まれました。「俊寛が乗るは弘誓(ぐぜい=仏や菩薩が衆生救済を願い立てる誓い)の船、浮世の船には望みなし」と、妻を殺されて絶望した俊寛は、自分の替わりに島の娘を赦免船に乗せ、若い人に夢を託して島から船を見送りますが、「20年くらい前、客席の上のほうに弘誓の船じゃないかというものがふっと浮かんだんです」。

 「それがこの芝居にとても合った感情、俊寛の状態だと思いました。弘誓の船が来ることは、そのまま死んでいく意味にもつながります。幕が降りて俊寛は息絶え、解脱して昇天していくのではないかと思い、それからは、幕が閉まる寸前に(船を)見上げるようにしています。親父から教わった、最後は石のようになれとは違うんですが、私の解釈でやっています」

20回、30回と続けていきたい秀山祭

 「実父の年齢も初代の年齢も超え、こんなに長くやっていられるとは自分でも思っておりませんでしたが、初代の魂、向かいたかった階段は、一歩一歩昇れているのではないかと自負しております」。今こうしていられるのは「諸先輩のご指導のおかげ」と感謝しつつ、「自分が吉右衛門を継ぐのはどうかと悩んだこともあるけれど、どうにかこうにか名前を継いで、還暦を過ぎて思いついたのが秀山祭。今では生きがいなんてものじゃなく、生きている理由です」とにっこり。

歌舞伎美人より)


あまりにも遅くなりましたが、、、9月の歌舞伎座の感想を。
自分用覚書はやっぱり必要なので、短くても書いておく。

9月は『俊寛』のみ前楽の日に幕見してまいりました。昼の『金閣寺』(福助さん、お帰りなさいませ!!!)も『河内山』もとてもとてもとても観たかったけれど…、9月は体調を崩していて&クラシック音楽会尽くしで全く無理だった……。

吉右衛門さんの俊寛は杮落しの2013年6月に観て以来、5年ぶりです。
前回も今回も一日しか観ていないので他の日にどういう演技をされていたかはわからないのですが、今回の吉右衛門さん、私の記憶の中のそれと全く違っていて、驚きました。
5年前の登場場面の俊寛はとってもよぼよぼに見え、よぼよぼ演技が上手いわ~と思い、でも35歳には見えないかもだわ、とも思ったのだけれど。今回はなんだか若々しくて、史実と同じ35歳くらいに見えた。素の吉右衛門さんはあの頃に比べてだいぶ歳をとられた印象なのに役の方は若くなっているとは。
前半の俊寛はまだまだ生きていけそうに若々しくて、都への思いはとても強いけれど島でも皆で和やかに暮らしていて。一層、後半の悲劇(と言っていいかはわかりませんが)が引き立つように感じられました。
そういう俊寛なので、妻が都で殺され、自分には都に帰る意味はもうないのだ、とわかるところは・・・・・

しかし今回の舞台で最も強く私の心に残ったのは、終盤の場面です。
千鳥の代わりに自分が島に残る道を選んだ俊寛。彼の中に自分の選択に対する後悔は微塵もないことは明らかです。若い人達を乗せて出港する船の纜を彼が掴むのは、未練や後悔ではなく、それが現世(俗世)との最後の繋がりだから。上手く言えないけれど、別れ難い名残惜しさのようなものだと思います。
そして遠ざかっていく船に「おーい」と手を振る時、そこに壮絶な何ものか(孤独という言葉さえ甘く感じられる何ものか)が感じられて・・・。ここからラストまでの吉右衛門さんは、本当に命を削っているというか。そうあの知盛のときと同じで、このラストの後に生きている俊寛、そして生きている吉右衛門さんの姿というものが全く想像できないのです。俊寛の人生も吉右衛門さんの人生も、ここで終わっている、と強く感じる。この後に島でしばらくの間は生きていくであろう俊寛は想像できない。仮に生きていたとしても、それはもう魂はこちらの世界にない抜け殻のような俊寛に違いなく、きっと遠くなく餓死か別の方法で死ぬとしか思えない。そして同様に、この後に楽屋で誰かと話をしたり食事をしている吉右衛門さんのお姿が全く想像できない。この後に生きていることの方がよっぽど不思議に感じられる。

ここまでの壮絶さは、杮落しの俊寛のときには感じなかったものです。
吉右衛門さんが最後に客席に見えるという”弘誓の船”がどのような船であるのか、今回初めてわかった気がしました。5年前の私はわかっているようで何もわかっていなかったのだ、と。その船が見えるということが、どれほどのことであるか。
これは先日のサントリーホールの光子さんのシューベルトから感じたことと、非常によく似ています。会場で配られたプログラムノート(青澤隆明氏)に書かれた言葉にあるように、「ぎりぎり迫った孤絶の深淵とはかように凄惨な光景なのではないかと思うと、茫然とする」。そして光子さんも吉右衛門さんも、それが全く意図的でなく、自然で。だからこそ一層、強烈に胸に刺さったのでした。

今回の吉右衛門さんの『俊寛』、観ることができて本当によかったですし、私がこの先の人生で死や孤独に直面するときに、この俊寛を観ていたことは、きっとほんの少し私を救ってくれるのではないかと、そんな風に感じています。
こういう舞台に対しては感謝の言葉も軽く思えてしまいますが、吉右衛門さん、本当にありがとうございました。


河内山・俊寛演じる中村吉右衛門、「秀山祭」は“生きる理由”(ステージナタリー)
吉右衛門が語る『河内山』『俊寛』(歌舞伎美人)
『秀山祭九月大歌舞伎』中村吉右衛門が語った『俊寛』の最後にみる景色(SPICE)


©ステージナタリー

©ステージナタリー

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シュツットガルト・バレエ団『オネーギン』 @東京文化会館(11月3日)

2018-11-04 00:12:22 | バレエ

©Damon Winter/The New York Times


半年ぶりのバレエ鑑賞に行ってきました。
6年前のマリインスキー来日で観たヴィシニョーワのバヤがものすごく良くて、もう一度彼女の全幕が観たいとずっと思っていたので、この日を選んだのでした(今回はゲストとしてご出演)。


【第一幕】
『オネーギン』を観るのは初めてで、ストーリーを予習したところ「この役はヴィシ様には合わないのではなかろうか…」と少々不安だったのだけれど、、、

ヴィシニョーワ圧倒的

彼女、やっぱりすごい。
想像を軽く超えてました。
何がすごいってその技術も存在感も半端ないのに、The 女王様なはずなのに、役の前ではその貫禄を完全に消し去る表現力!完璧さを目立たせない完璧さ!
そういうところはロパ様と似ていて、マリインスキー恐るべし。
最初の登場場面で妹から声をかけられたタチヤーナが顔を上げた瞬間に、「イケる(いいタチヤーナ)」と確信しました。顔の表情はもちろんだけど、動いているときも止まっているときも、腕の角度ひとつとっても、一幕のヴィシニョーワは”田舎の令嬢”(そう、田舎臭さもちゃんと出てるのです)で、”読書を好む内気な少女”。ヴィシニョーワの全ての動きに意味があって、全てがタチヤーナという人物を表していて、音楽が彼女と一体になっていて、でもそれが実に自然で、、、ってこれもロパ様のときにここに書いたな。
そして、ロシア文学の小説の中から抜け出てきたような彼女の空気。ロシア人独特の少し翳のある感じがチャイコフスキーの哀愁漂う音楽にとてもよく合っていて。
一幕の庭の奥の椅子で本を読んでいるときの夢みる表情。頭の先から足の先までその姿の美しさ、可愛らしさ(ヴィシニョーワの体型、好きです)。歌舞伎のように舞台写真売ってくれればいいのに!と思ってしまった。そしたらこの場面絶対に買う。
そして手紙を書く場面の彼女の空気といったら!ロシア文学の世界!
ベッドの中で見せる幼い無邪気さ、愛らしさ。ああもうほんと可愛い。恋する少女以外の何者でもない。
そして鏡のPDDでの少女の恋の高揚の中に、そこはかとなく花開き始める大人の女性の色気。
はぁ、素晴らしかった。。。


【第二幕】
そんなわけで一幕ではひたすらヴィシ様のタチヤーナに目が釘づけだったワタクシでしたが、二幕では、

あれ?・・・ジェイソン・レイリーのオネーギンも、もしかしてすごくいいんじゃない?

もしかしたら原作の性格設定とは違うのかもしれないけれど、こういうオネーギン、私はとても好きかもしれない。
パーティー場面の彼は、若さゆえの高慢というよりは(そもそもレイリーはそれほど若くは見えない笑)、世の中や人生の全てに嫌気がさしていて、いま目の前にどんな女性が現れても本気の恋愛をするつもりはないのだな、と感じさせる。でもタチヤーナへの態度は意外に優しいの。手紙は破るけど
この自分自身も含めた全てに苛立ってる感じは、ちょっと椿姫三幕のエルヴェのアルマンを思い出しました(超サイテーな行動しちゃってるけど本当は嫌な奴ではないのだろう、と感じさせるところも)。
ばかだねえ、初恋に少々突っ走り気味になっちゃってはいるけどタチヤーナのような綺麗な心の女性がいかに彼の人生を温かなものにしうるか、後から気付いても遅いのに。。。
そしてそんな彼を「あの人は私の手紙をどう思ったろう…?」と不安そうに遠くから見つめているヴィシ様のタチヤーナが、とっても可愛らしいのです。
ヴィシニョーワのタチヤーナとレイリーのオネーギンは、二人の雰囲気がとてもよく合っていて(いわゆる「この二人は似合ってる」と感じさせる雰囲気があって)、もう少し違うタイミングで出会っていれば、オネーギンがもう少し違う状態のとき(もう少し精神的に大人になったとき)に出会っていれば、とてもいい恋人同士になっただろうにと感じさせる二人で。
だってレイリーのオネーギン、根は優しくて繊細そうだし、きっとタチヤーナを大切にして、彼女の個性を真に理解して愛してくれる恋人になったと思う。ああ、本当に、もっと違うタイミングで出会ってさえいれば・・・。
人生の擦れ違い、人の運命、、、切ないねえ・・・。
決闘を終えたオネーギンを見つめるタチヤーナの目は強い非難や激しい悲嘆を示すものではなく、ただ静かにじっと、透徹する目で見つめていて。それは彼の心の奥まで見つめているようで。こんな目で見つめられたら、オネーギンは非難される以上にたまらなかったろう。

ダンサーとしてのヴィシニョーワとレイリーですが。急拵えのパートナーゆえのぎこちなさがあったことは否定できないけれど、一方で急拵えの二人ゆえの緊張感と個性のぶつかり合いがあって、それが私には好ましく感じられました。いつも思うのですがバレエや歌舞伎の恋人同士の演技って、長年の夫婦のような安定感が必ずしもプラスに作用するとは限らないんですよね。時には必要な擦れやザラツキもある、というか。そういう意味ではヴィシニョーワはおそらく一心同体レベルな踊りができてしまうゴメスのようなパートナーよりも、レイリーとの組み合わせの方がこの作品にはいいのではなかろうか、と個人的には感じました(ゴメさん大好きだけど)。一幕の鏡のPDDは別ですが。レイリーの翳のある風貌もヴィシニョーワとよく合っていました。


【第三幕】

ヴィシニョーワもレイリーも素晴らしい・・・

レイリーのオネーギンは、彼がこれまでに過ごしてきた数年間が目に見えるようで、非常に説得力がありました。
今更タチヤーナに縋っちゃって都合のいい…と感じさせない。
このオネーギンがいつ恋に落ちたかといえば、昔から恋には落ちていたのだろうと思う(本人無自覚だが)。立派な婦人になったタチヤーナを見て心動かされたのではなく、むしろ昔から変わっていないタチヤーナの内面から滲む美しさを今改めて目にして、それがどれほどこの世界の中で貴重なものであるか、自分のような人間の心をどれほど温かく満たしてくれるものであるかを痛いほど思い知ったのだと思う。でもそれに気付くことができたのは、今の彼だからで…。

ヴィシニョーワのタチヤーナはグレーミン公爵と幸せに暮らしてはいるけれど、それに偽りはないけれど、かつてオネーギンを愛したような心で夫を愛せたことは、きっと一度もないのだと思う。夫婦で踊っている場面のヴィシニョーワの表情にそう感じました。公爵はとてもいい人で、心からタチヤーナを愛してくれて大事にしてくれているけれど、、、タチヤーナは心の底から満たされているわけではない。ここのヴィシニョーワの絶妙さときたら!笑みは浮かべているけれど、心が別の場所にあるような。それが露骨じゃなく飽くまで自然なのが、素晴らしいよねえ、本当に。。。。
オネーギンが部屋に訪ねてきたときに机に向かっていたタチヤーナが一瞬で見せた表情は、毅然とした態度をとらなければならないと自分に言い聞かせるもので。つまり、そう強く自分に言い聞かせなければ自分の心が揺れてしまうことがわかっているからで。もし心の底から公爵を愛していてオネーギンが完全に過去の人になっているなら、そんな努力は必要ないものだよね・・・。

だからこそ、そこから彼女が冷静を保てなくなる展開は・・・辛いねえ・・・。
でももうどうしようもないのだ、と。ヴィシニョーワのタチヤーナは、彼を受け入れることはしないと最初から決めている。
ここでヴィシニョーワが見せた自分自身に対しての厳しさ、よかったなあ。それはタチヤーナが人生の様々な出来事を通して身につけたものでもあり、また生まれながらに彼女自身がもっている性質でもあるのだと思う。
このタチヤーナにはそういう美しさがある。

最後に幕が下りるときのヴィシニョーワの表情、気高く美しかったですねえ・・・。決して大仰ではないのにあらゆる感情がつまったその表情は、どんな想いも全て自分で引き受けて生きていく大人の女性の顔に見えました。おそらく人生でたった一度の、二度と持てることはないであろう激しい恋情も全部自分の内に引き受けて、彼女はこの先の人生を生きていくのでしょう。
そしてオネーギンもそれを背負って、これからの人生を生きていくのだと思います。

号泣!!というのとは少し違い、人間の人生や運命というものを2時間で観てしまったような、静かに重く心に響いた舞台でした。
バレエ版『オネーギン』、いい作品だねえ。。。
ヴィシニョーワもレイリーもブラヴォー

カーテンコール。
ヴィシニョーワはもらった花束の中から薔薇の花を一本ずつレイリーと指揮者の方へ。舞台奥の方にいるときも、オケへの拍手の時には、一人だけ腕をいっぱいに前方へ伸ばして拍手していて。最後まで完璧なヴィシ様でありました。

東京シティフィルも今日はよかったよ~やればできるじゃない!(上から目線で失礼。でもそれだけこれまで辛い思いをさせられてきたので…)

ユルゲン・ローゼの装置と衣装も、相変わらず素晴しかった。ああロシア行きたい、と思ってしまった。また、どの衣装もヴィシニョーワにとてもよく似合っていました。
今日の席はLサイドの真ん中辺りだったのですが、ノイマイヤーの『椿姫』や『真夏の夜の夢』のように舞台の端から端まで使ったらどうしましょうと思っていたが、違ったのでよかったです笑。ベッドの中のタチヤーナの演技がよく見えて、下手側での演技もさほど問題なく、いい席でした。

はあ。。。幸せな時間だった。。。。。

あ、最後に脇キャストについて。
快活なオサチェンコの妹オリガは、内気だけど芯はしっかりしたヴィシニョーワの姉タチヤーナと好対照で、なかなかよかったです。彼女はカザフスタン出身なんですね。
レンスキーは・・・これからに期待、かな。彼がどういう人物なのかがあまり伝わってこなかった。でも人の良さそうな明るさはGoodでした。
その他の皆さんも、コールドも、演技が細かく丁寧で、踊りも安定していてよかったです。


~「オネーギン」アレクサンドル・プーシキンの韻文小説に基づくジョン・クランコによる全3幕のバレエ~
振付: ジョン・クランコ
音楽: ピョートル・I.チャイコフスキー
編曲: クルト=ハインツ・シュトルツェ
装置・衣裳: ユルゲン・ローゼ
世界初演:1965年4月13日、シュツットガルト・バレエ団
改訂版初演:1967年10月27日、シュツットガルト・バレエ団

◆主な配役◆
オネーギン:ジェイソン・レイリー
レンスキー(オネーギンの友人):マルティ・フェルナンデス・パイシャ
ラーリナ夫人(未亡人):メリンダ・ウィサム
タチヤーナ(ラーリナ夫人の娘):ディアナ・ヴィシニョーワ(マリインスキー・バレエ プリンシパル)
オリガ(ラーリナ夫人の娘):アンナ・オサチェンコ
彼女たちの乳母:ソニア・サンティアゴ
グレーミン公爵(ラーリナ家の友人):ロマン・ノヴィツキー
近所の人々、ラーリナ夫人の親戚たち、
サンクトペテルブルクのグレーミン公爵の客人たち:
シュツットガルト・バレエ団

指揮:ジェームズ・タグル
演奏:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団  

◆上演時間◆
第1幕  14:00-14:45

(休憩 20分)
第2幕  15:05-15:30
(休憩20分)
第3幕  15:50-16:15


©Roman Novitzky/The Stuttgart Ballet 
ロシア文学の世界そのままのヴィシ様
シュツットガルトバレエが舞台写真をあげてくれました!
今日の公爵を踊ったロマン・ノヴィツキーによる撮影。写真もプロ並みですね。彼の公爵もとてもよかったです。誠実で優しそうで品があって。

©Roman Novitzky/The Stuttgart Ballet 

©Roman Novitzky/The Stuttgart Ballet 

©Roman Novitzky/The Stuttgart Ballet 
ヴィシニョーワはレイリーの”his dream ballerina"なんですってThe Suttgart Ballet Blogより)

©Roman Novitzky/The Stuttgart Ballet
こちらは稽古時の写真。この場面のヴィシニョーワの表情…

©Roman Novitzky/The Stuttgart Ballet







Diana Vishneva’s Last Days with American Ballet Theatre | The New Yorker

昨年のゴメスとのABTフェアウェルに向けたオネーギンの稽古風景とインタビュー。
彼女は今年5月に男の子を出産し、今日が出産後初の本格的な舞台復帰だったそうです。そんなブランクは微塵も感じさせない完成度の高さでした。というよりも、より表現の深みを増していたように感じられました。すごいなヴィシニョーワ。。。
前にも書きましたが、私、ヴィシニョーワと同い年なんですよ・・・。楽な方に流れて生きていてはいけないな、と喝を入れてもらった気分です。

Diana Vishneva Bids Farewell to Ballet Theater, but Not to Dance (The New York Times, June 20, 2017)
インスタグラムは若手バレリーナにとって「毒」、世界的プリマが苦言 (AFP, Nov 3, 2018)
どちらも良いインタビュー。


ヴィシ様の先月の投稿より。女神が二人並んでいる。。。

Comments (2)
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