風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

ヴァレリー・アファナシエフ ピアノリサイタル @茅ヶ崎市民文化会館(11月20日)

2021-11-27 16:49:39 | クラシック音楽




午前中に上野でシャンシャンを見てから、JRで乗り換えなしで茅ヶ崎へ。の予定だったのに、いざ上野東京ラインに乗ろうと掲示板を見ると、行き先が全て「東京」と表示されている…よりによって茅ヶ崎駅での車両点検の影響で、東海道線は運転見合わせとのこと。乗換検索をすると山手線で新宿に行き、小田急線で海老名へ行き、相模線で茅ヶ崎へ迂回しろと。それでは14時開演には間に合わない。一か八かで横須賀線で大船まで行き、そこで運転再開を待って、なんとか開演時間に間に合うことができました。開演は14:20に変更になっていたけれど、それでも前半に間に合わず休憩時間から途中参加の方達も。会場の最寄り駅には早く行って行き過ぎることはないと学んだ今回の出来事でした。疲れた。。。。

茅ヶ崎は地元と言ってもいい場所だけど、駅に降りるのは久しぶりで、すっかり都会風な駅になっていて吃驚。茅ヶ崎市民文化会館は初めてでしたが、東京の演奏会でいつも見かける方達が客席にチラホラといらっしゃいました。東京も神奈川も毎日あちこちで演奏会が開かれているけれど、来ている人は殆ど同じなのかもしれない・・・と最近感じる(自分を含め)

J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集  第1巻より 8つの前奏曲とフーガ
  第1番 ハ長調 BWV846
  第2番 ハ短調 BWV847
  第7番 変ホ長調 BWV852
  第8番 変ホ短調 BWV853
  第21番 変ロ長調 BWV866
  第22番 変ロ短調 BWV867
  第23番 ロ長調 BWV868
  第24番 ロ短調 BWV869

アファナシエフを聴くのは初めてです。
舞台に登場された時、おお、あの写真で見ていた個性的な風貌が立体的に目の前にいらっしゃる、と妙に嬉しくなってしまった。愛想笑いをしないタイプと聞いていたとおり笑顔はないけど、特に不愛想でもなく。ただ歩いてきて、お辞儀して、椅子に座って弾き始める。
さて、バッハ。
このピアニストについての前情報から想像していたより、全然変態演奏ではなかった。とはいえ一般的でもなく、その独特の音楽の流れ方はポゴレリッチのバロック~古典派の演奏を思い出したけど、お二人とも「音楽のパルス」について語っていることと何か関係があるのだろうか、ないのだろうか。

そして想像していたよりずっとロシアの音色で弾く人だった。低音も強音も太い音色の暖かな歌い方も。弱音も芯があって温かい。ヴィルサラーゼやレオンスカヤとか、あの系統の音色。ロシアのピアニストの音って色彩豊かなんですよね。
この人達と比べると、ポゴさんの音色はあまりロシアぽくない気がする(ポゴさんの音色最高に好きだけど)。
一方で、過去に聴いたロシアのピアニスト達と比べると、アファナシエフの強音は同じように強音でもどぎつく響かないのが印象的でした。

ポゴさんと似ている部分といえば、ちょっと拒否反応が起きてしまうような演奏の中に、不意にそれを凌駕するくらいの物凄く魅力的な音楽が聴こえてくるところ。この極端さ、初めてポゴさんの演奏を聴いたときのことを思い出すなあ。このお二人、ピアニストとしてのラフマニノフを敬愛しているところも似てますよね。でもお互いがお互いのピアノをどう思っているかは、恐ろしくて質問してみたいとは思わない
例によって私の耳が慣れるまでに時間がかかったのかもだけど、今日のバッハの演奏、最後の数曲がとてもよかったです。869はシフの演奏より好きだったくらい。
譜面ありでしたが、自ら譜めくり。前の曲のペダルによる響きが消えきる前にザザザザッと次の楽譜を用意。そんなに急がなくても(笑)。後半のブラームスではちゃんと音が消えきってから譜めくりされていました。

客席は満席ではありませんでしたが非常に静かで、静寂といっていいくらいでした。素晴らしい。
演奏後に一度舞台袖に引っ込んで、拍手で呼び戻されて、二度目のペコリ。そしてフッというかニヤッと頬を僅かに歪める笑み

(休憩15分)

ブラームス:
4つのバラード  Op.10

2つのラプソディ  Op.79
間奏曲 Op.116-6(アンコール)

演奏開始をじっと待つ客席と、前半のバッハとは一転してマイペースに時間をかけて楽譜を準備し続けるアファナシエフ。順番がおかしかったらしく、手元の楽譜を熱心に確認して一枚一枚置き直す。客席はひたすら待つ(笑)。
で、後半のブラームス。
素晴らしかったです。。。。。。。。。
アファナシエフはインタビューで「自身の心に最も近く寄り添う作品は何か」と聞かれ、こう答えていました。

ベートーヴェンの後期のソナタとブラームスの晩年のピアノ作品ですね。ブラームスの作品は、人間のあらゆる感情を温かく慈しむように描きだしています。とくに晩年の作品は、誠実に過去を振り返り、追憶を精緻な芸術に昇華させ、永久不滅のものにしています。
(『静寂の中に、音楽があふれる』より)

今回の曲目は晩年の作品ではありませんが、若い頃から晩年まで変わらないブラームスの誠実な人間性と音楽性の核のような部分をその演奏から感じました。また若い頃ならではのブラームスの色合いも感じることができた。
私が今回茅ヶ崎にアファナシエフの演奏を聴きに行こうと思った理由は、以前も書きましたがギレリスの弾くブラームスがとても好きだからでした。アファナシエフはギレリスの愛弟子ですが、同じような演奏はしないし、する必要もありませんが、それでも今日のブラームスには、私の大好きなギレリスのブラームスに通じるものを感じました。
『四つのバラード』、3曲目の弱音のポーン ポーン。あの音色。。。。。。。アファナシエフのブラームスは、グールドのブラームスにも少し似ていたな(こちらも私は大好き)。
4曲目も、あなたこんな演奏ができたのか、と(失礼)。前半のバッハとは異なり、聴いていて不自然に感じる部分が全くない。
『2つのラプソディ』。1曲目、楽譜に顔を近づけて譜面をめっちゃガン見しながら弾く(笑)。でも絶対に音楽が停滞して聴こえないのが不思議。
2曲目は一転して、おそらく暗譜。楽譜を置き直していなかったし、あったとしても譜面を見ていなかったので。私はピアニストや指揮者が暗譜である必要は全くないと思っているけれど(暗譜じゃない素晴らしい演奏をいっぱい聴かせてもらってきたから)、この演奏は自家薬籠中というか、体に染み付いた音楽を弾いていることがわかる、素晴らしい演奏でした。ブラボー!
今日のアファナシエフのブラームス、ブラームス本人が弾いているみたいだなあ、と何度も感じました。もちろん見た目じゃなく、その音楽が。一見ガツンガツンと不器用そうというかぶっきらぼうな感じなのに(そんな和音の強音の美しさが素晴らしい)、その中に突然うっとりと歌うメロディが甘やかな音で聴こえてきちゃうところとか、そのギャップが最高です。

弾き終わって、何度も拍手で呼び戻されるけど、アンコールはしたくなさそうなアファナシエフ。頑なとして舞台中央へ行くのを避ける姿に、客席からも笑いが漏れる。たぶん本編の演奏がご本人も満足な出来だったからではないかなと、そう感じました。客席のマナーもすごく良くて、アファナシエフが大切にしている「音楽の静寂」「音楽と静寂がひとつになる」感覚も自然に感じられた稀有な空気でしたし。アファナシエフは「アンコールを演奏することでその前の演奏の印象が消えてしまうのが嫌だ」と以前に仰っていた。「アンコールを演奏するのは、自分の目指す芸術レヴェルにコンサートが達しなかったときだけ」とも。とはいえ客電はつかないし、私達は拍手を続け。
再び舞台に出てきて、例のクシャリと歪めるような笑顔を浮かべ、苦笑気味にピアノに座ってくれる。我儘言ってスミマセン。本編で十二分に満足だけど、弾いてくださるならばやっぱり聴きたい。てか、意外に優しいんですね。弾きたくないときは絶対に弾いてくれないタイプかと勝手に思ってました。
アンコールは他の会場と同じく『間奏曲 Op.116-6』。こちらも暗譜でした。もしかしたら気の進まないアンコールだったかもしれないけど、とても丁寧に弾いてくれました。やはりこの人のブラームスはいい。。。
弾き終わったアファナシエフは、この日一番の笑顔。つまり顔を歪める笑顔ではなく、普通の笑顔。よかった怒ってなかった(笑)
来年はブラームスの後期作品を弾いてくださるそうなので、行きたいと思います。

 

フレイレと同じマネジメント会社だったんですね…。代表の板垣さんは2019年にkajimotoを退職し、この会社を起こされたとのこと。そしてアファナシエフ、大阪と茅ヶ崎のブラームスを言い忘れてる(笑)。そこは字幕がカバー。バレンさんもこんな感じでそのまま後期ソナタを弾いてしまったのかしら。

茅ヶ崎の演奏はやはり特に良かったのか。確かにとてもいい演奏だった。ヴィルサラーゼも浜離宮のときより県立音楽堂の方がよかったし、最近地元で同じプログラムの演奏会がある場合は(今回は東京はブラームスの代わりにモーツァルトだったけど)わざわざ交通費をかけて東京へ行く必要はないような気がしてきた。もちろん地元より東京の方がいい演奏のときも沢山あるし、サントリーホールやオペラシティは好きなホールなので今後も行くけれども。
ここで紹介されている本は二冊とも読みましたが、右の『ピアニストは語る』はインタビュー形式で読みやすく、読み物としても大変面白いのでオススメです。左の『天空の沈黙』の方は哲学書等からの引用が非常に多く、教養の足りない私には正直キツかった…。私も好きな谷崎の『陰翳礼讃』と音楽の沈黙の共通性などは面白く読めたので、引用元を知ってるか否かの違いも大きいのだと思う。ただ、この『天空の沈黙』の言葉の洪水のような散文の中でアファナシエフが言いたいことって、実は20行くらいの詩で表現できてしまうものでは、それが最も適しているのでは、ともちょっと思ってしまった。スミマセン、アファナシエフさん…。

ところで『ピアニストは語る』の中で「調性は、あなた自身にとってどのようなイメージをもたらすのですか」と聞かれたアファナシエフは、次のように答えています。

「色の聴覚」と呼ばれるものがありますよね。聴くと色彩が浮かぶという一種の共感覚です。スクリャービンやニコライ・リムスキー=コルサコフはこうした才覚に恵まれていましたが、私はそうではありません。実際、調性感が私の人生で大きな役割を果たしたことはないと思います。音楽家たちがこうした感覚の連携について話しているときには、私はただ微笑んで、なにも言わずにいるだけです。

ああ、やっぱりそうなのか、と感じました。つまりアファナシエフは、自身の音があんなに色彩豊かな色を帯びていることを知らないのだな、と。私の目にはあんなに色が見えるのに。ロシアのピアニスト達の音って概してこの色が濃く豊かなんですが、意図的でなく出ている音なのだとすると、やはりロシア奏法というものが関係しているのではないかなと思う。この奏法を考え出した人は、絶対に共感覚保持者だったに違いない。
調性ごとの違いをあまり感じないという感覚も、実はその感覚の方が一般的なのだと以前知り、とても驚いたことがあります。私の耳と目には、調性ごとに全く違う色が見えるからです。ト長調と変ホ長調の色なんて、全然違う(ただし今は絶対音感狂い中なのでその半~一音上がった調性に聴こえて&見えていますが)。
そしてアファナシエフはご自身の音の色が見えていらっしゃらないから「ライブより録音が好き。ライブはあまりしたくない」とか言ってしまえるのね。なんてもったいないことを言うんですか!あの空気の個体のような色合いはライブでしか見えないんです!あなたのようなはっきりした色の音を持っている人は、ライブで演奏しないともったいないです!

そしてこの本に限らないけど、アファナシエフが語るギレリスは本当に誠実で温かくていいねえ。。。私がギレリスの音楽から感じることをそのまま言葉にしてくれるので、本当に嬉しい。ギレリスの演奏が好きな人はこの本を是非読むべし。リヒテルが好きな人はもしかしたら微妙な気持ちになるかもだけど、アファナシエフはリヒテルのことも基本的には尊敬しているので、嫌な気持ちになることはないです。実際私はリヒテルも好きだけど、不快な気持ちにはなりませんでした。

アファナシエフは74歳で、ペライアと同い年なんですね。ペライア、まだまだ弾ける年齢で、まだまだ弾きたいだろうに・・・と思う。復帰は難しいのかな・・・。

来日中のアファナシエフが、3年がかりのプロジェクト「TIME」について、大いに語る!
すべての楽曲は1つの遺伝子を共有しているのです〜V・アファナシェフは語る


【オマケ1】
『ピアニストは語る』の中でアファナシエフが話しているメロディーとハーモニーの話が面白かったので、以下に抜粋を。『天空の沈黙』でも同じテーマについて書かれているけど、微妙に仰っていることが変わっているような…?まあ『天空の沈黙』は文章が難しいので、私は殆ど理解できていないんですが

V.A:リヒテルはどこかハーモニーを軽視しているように思うのです。少なくともギレリスと比べるならば。リヒテルは演奏の多くの側面に配慮しないので、いまとなってはほんとうの意味での関心は抱けません。

――以前、あなたは書いていましたね。「あらゆるメロディーはそれ自身を偽装する」。つまり、メロディーはある意味で不安とともにあって、いつも希望を求めているということでしょうか。

V.A:動きがある限り、探し求めているわけです。しかし、平和に充ちて美しく探求することもできます、モーツァルトやシューベルトがいくつかの作品でそうしているように。あるいは、マーラーやベートーヴェンの作品にもそのようなところがあります。
メロディーは、ハーモニーの変装、ハーモニーが別の姿をとったものと言えます。なぜなら、音楽は時間のなかで生き、動いているにもかかわらず、時間を廃止することを求めるからです。(中略)
 私はメロディーが希望を表すとは考えません。希望はむしろハーモニーに関連づけられるものです。ほとんどすべてのメロディーには、落ち着かない性質があります。そして、私たちは石の平穏を熱望しています。フロイトが「死の本能」と称するものを説明するときに言ったことです。私が思うに、それは生の本能です。しかし、あらゆる本能は自らのリミットを知るべきで、行き過ぎて、限界を超えることが決してあってはならない。石をまねながら、人は死の敷居で立ち止まるべきなのです。
 聖人たちだけが、死することなく、石の完璧さを克ち得るのです。私たち常人の生活には、いつも不安がある。しかしときに、音楽の分野においては、神聖さと関わりをもたずとも、そのような静穏さと最終的なハーモニー(調和)を見出すことができるのです。
 人は運命を受け容れなければならないのです。ハーモニーとはそうしたもので、マーラーの交響曲第九番の終楽章、ベートーヴェンの『ミサ・ソレムニス』や最後のピアノソナタ作品111にしても同じです。ここにおけるメロディーは、運命や宿命の概念を受け容れます。そして、ハーモニーはそれらの最終的な調停のようなものです。『熱情ソナタ』におけるアルペッジョはきわめて悲劇的なもので、『月光ソナタ』でも同様ですが、ハーモニーがその悲劇性をさらに脅かします。しかし、最後のソナタにおいて、ベートーヴェンはこうした調停や和解を成し遂げ、ハーモニーは一種の天国のようなものになります。
 運命を許容するのは悲劇的な情況です。海岸に寝そべって、陽光を浴びるといった類のものではまったくなく、それはあなた個人の、そして宇宙的な普遍の悲劇を受け容れることなのです。こうした受け容れはとても重要です――スピノザはこのような許しについて語りましたし、ニーチェも始終言及しています。

アファナシエフによると「完全なるハーモニーは死だけです」と。わかる気がします。

そういえば、ヴィルサラーゼの師であるザークとアファナシエフの独特な関係性もこのインタビューでは多く語られていて、興味深かったです。ヴィルサラーゼはギレリスのクラスに入りたかったけれど、ギレリスから受け入れられなかったのだと以前インタビューで仰っていました。「ラジオ放送であなたの《クライスレリアーナ》を聴いたけれど、あなたにはもう先生は必要ないですよ」と言われ、彼女には彼がその言葉を本気で言ったとは思えず、彼が自分を受け入れてくれない本当の理由は何なのかと考えて、悩んだそうです。そして結果的にザークが彼女の師となりました(『ピアニストが語る』)。
一方、『ピアニストは語る』(上の本と紛らわしい題名ですね)の中で、アファナシエフはこんなことを言っています。

私自身はモスクワ音楽院を忘れようとしたことはないですが、とは言え自分がロシア流の演奏をしているとも言えません。もちろんロマン派の作曲家のレパートリーに興味はありますが、それもロシア流の観点からではありません。たとえば、私もシューマンを弾きますが、私のシューマン演奏はまったくロシア流ではありません。その意味において、ギレリスと非常に多くを共有していると思います。ロシア楽派の特徴は、私の考えでは楽器で「歌う」ことにあります。演奏を、人間の声をお手本にして行うのです。そうなると演奏はいわゆるロマン派向きのものになり、いっぽう、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトには向かなくなります。これら作曲家の作品は、より器楽的な側面が強いからです。ギレリスが忘れてしまいたかったのは、たぶんロシア楽派のこの局面だったのだと思います。ギレリスの音は肉声的と言うよりも器楽的でしたから。

ギレリスがヴィルサラーゼを受け入れなかった理由は、もしかしたらこういうあたりにあるのだろうか(ロシア楽派云々の難しいことはわからないけれども)。彼女のロマン派の演奏は素晴らしいけれど自分とは異なる種類の演奏だから、自分が師となることは彼女にとってもいいことではないと、そう感じたのではないかな、と。もちろん勝手な想像でしかありませんが。そんなヴィルサラーゼのシューマンをリヒテルは世界最高と評していて、そのリヒテルの音楽をギレリスは非常に高く評価している。音楽家の感性というのは、当然ですが単純なものではないんでしょうね。

【オマケ2】
『天空の沈黙』より、以下、抜粋。やはりこういう感覚は、散文よりも詩で表現する方が合ってるように思うな。谷川さんの音楽についての詩のような。ただ、西洋の人たちにとっては、沈黙に価値を置くのは決して当たり前の感覚ではないのかもしれない。だからアファナシエフも言葉を尽くして説明しがちになるのかな、とも。宮崎アニメの台詞のない「間(ま)」の存在が、西洋人にとってはすごく新鮮に感じられるのだと聞いたことがある。

ニーチェもこのように音楽について想像を羽ばたかせ、音楽と薄闇が分かちがたく結びついていることを認識していました。また、谷崎潤一郎も昼日中よりも、薄暗がりにおいて、その価値を発揮するものがあるのだと、しきりに強調していました。音楽とは沈黙の芸術で、空の奏でる音に耳を傾ける時、私たちを満たします。音楽とは、私たち人間の罪を贖う芸術です。(中略)音楽とは、永遠に回帰する芸術で、様々な思想家が、音楽は死と心の抑鬱状態に対する、最良の治療法だと考えています。音楽はインド風の浄化(カタルシス)なのです。音楽は、単にいっときの快楽を与えるだけのものではありません。ですから、悲劇の最後に主人公が戦い抜いて死んでしまい、上演の最後にカーテンコールのために、墓場から出てくる時に流れるためだけに、音楽は存在しているのではないのです。では、音楽は、世界が死んでしまっても、生き延びるでしょうか。或いは、音楽は、世界よりも長く残らなくてはならないのでしょうか。私たちに世界を救うことは出来るでしょうか。私は、その必要性を感じません。いずれにしても、音楽は世界よりも、後まで残ることに間違いはありません。音楽のお蔭で、人間も生き延びるのです。何故なら、天空の音楽を耳にしたのは人間だからです。音楽は、聴く人を必要としています。誰も耳を傾けないとしたら、音楽は邪悪な沈黙に過ぎないのですから。

二人の芸術家が語り合う「不完全なもの、の美しさ」吉増剛造×ヴァレリー・アファナシエフ

ソ連の鬼才ピアニストが人生を賭けて行きついた、音楽の「奇跡」~アファナシエフ「最後」の大作を聴く(青澤 隆明)

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谷川俊太郎『虚空へ』PV

2021-11-27 01:20:11 | 

谷川俊太郎『虚空へ』PV



谷川さんの新刊が出ていたこと、いま知りました。明日買いに行こう。

言葉は薄れて、そこに一人立ちつくし・・・

この世界に詩があってよかった。この世界に谷川さんがいてくれてよかった。
それだけで私の人生は十分に幸運だったと感じられる。

 

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イザベル・ファウスト ヴァイオリン・リサイタル @東京オペラシティ(11月17日、18日)

2021-11-23 02:58:38 | クラシック音楽



11/17
J.S.バッハ:
無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番 ト短調 BWV1001
無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第1番 ロ短調 BWV1002
無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番 ハ長調 BWV1005
(アンコール)無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ短調 BWV1003 より 3. アンダンテ

11/18
J.S.バッハ:
無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番 ホ長調 BWV1006
無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ短調 BWV1003
無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番 ニ短調 BWV1004
(アンコール)無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番 ト短調 BWV1001 より 3. シチリアーノ

※休憩なし

東京オペラシティで二夜にわたって開催されたイザベル・ファウストのバッハ無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータの全曲演奏会に行ってきました。
ファウストを聴くのは今回が初めてです。
ファウストの演奏はパフォーマンス的な派手さが一切なく自然で端然としているので、聴く人によっては一見淡泊に聴こえるかもしれないけれど、実はとても色彩豊かで思索的。そんな親密さと崇高さが同居している自然体のバッハは、私にとってこの曲の理想型の演奏でした。
また音色の色彩感は弓の特性によるところもあるようで、以下、プログラムノートより。

今回、2夜にわたる全曲演奏会には、愛用するストラディヴァリウスの銘器「スリーピング・ビューティー」に、バロックボウという組み合わせで臨む。「サウンドの違いは、むしろ弓の特性の違いによる要因が大きい。バロックボウを使えば、豊かな色彩感が誕生します。もしも、現代の弓を使えば、全く違ってしまうでしょう。その差は、ピュア・ガットを使うか、金属弦かよりも、遥かに大きいのです」。

そして録音で聴いたときはそうは感じなかったけれど、今回生でその演奏を聴いて、シフのバッハと似ているなと感じました。シンプルで知的で端然としていて、かつ色合い豊かで生き生きとしているところが。違うのは、ファウストは客席に緊張を強いないところ(笑)

最近プライベートで少しずつ小さな変化が起きていて、不安なことや悲しいことも多くて、この2日間、彼女のバッハを聴きながら、何度も涙が込み上げてきそうになりました。
以前シフがイギリス組曲→イタリア協奏曲の流れで弾いてくれた時に「私達が住むこの世界は悲しいことや辛いことが多すぎるから、そんな私達のために神様がこの世界にバッハとシフを遣わせてくれたのだろう」と本気で感じたことがあったけれど、ファウストの演奏からも同じものを感じました。
最近つくづく思うんです。私達の人生って基本は辛く悲しくて、その中に楽しさや幸福が星砂のように散らばっているのではないか、と。この無伴奏ソナタ&パルティータは全6曲のうち4曲が短調で、全曲の中で頂点をなすと言われるシャコンヌを含むパルティータ2番も短調。
その中にソナタ3番やパルティータ3番のような長調が散らばっていて(番号どおりに演奏すると最後の2曲が長調になりますが)、それぞれの曲の中にも短調の中に長調が散らばり、長調の中に短調が散らばって、光と闇が混在している。ファウストの弾く長調が軽やかで活き活きとしていて、かつとても清らかだったので、一層沁みました。
初日の演奏会があった17日は、東海道線だけで人身事故が2件。寿命まで生きたって大して長くはないよ、だからみんな生きようよ、と思うけれど。でも直後に、フレイレにとって最後の2年間はきっとすごく長い時間だったのだろう…と思い直す。
やっぱり、人生は辛くて悲しい…。

「私たちが生きる”今”は、とても不確実性の高い時代です。人々がどんどん、生きることに疲れてきたように、私には思えます。そんな中、バッハの無伴奏の全曲に向き合うのは、特別な鍛錬です。私と長い旅を共にし、”感じ”てくれる同志を創る。これは簡単な課題ではありませんが、知的な挑戦であり、感動を呼び起こします。『考え、そして、感じる』。音楽こそが、可能にするのです」
(プログラムノートより)

バッハの音楽にはいつも、「人間」の根源の部分を感じます。全てを包み込む包容性、どんな人間もどんな人生も受け入れる大きさ。特定の宗教の神というよりも、その根本にある神のような(私はあらゆる宗教の神は根本では同じものだと思っています)。綺麗なものも汚いものも善も悪も「人間の生活」の全てを拒否することなく受け入れる神のような。それゆえの厳しさと優しさ、そして崇高さのようなものを感じる。
初日のアンコールでも弾いてくれたソナタ2番BWV1003のアンダンテは、一人の人間が前を向いて人生を歩んでいる、そういう音楽に聴こえました。
そして第二夜の最後に演奏された、パルティータ2番BWV1004(その後にアンコールはあったけども)。
弾き始めからファウストの表情や空気がそれまでの曲とは違って。最後にシャコンヌが置かれているこの曲は多くのヴァイオリニストにとって特別な曲なのだろうと想像するけれど、ファウストにとってもそうなのだな、と少しの意外さとともに感じたのでした。
それまで第一夜からずっと人間の人生を辿ってきたような演奏を聴いてきて、最後に辿り着いたシャコンヌ。
彼女はこの曲も特別に大仰には弾かないんですよね。感情的に追い込むようには弾かない。いつもの日常の一日のように弾く。何気ない日常の一日の崇高さを感じさせる。
今回の演奏、この動画の29:20~のところでは、日常の生活の中で私達が避けることのできないどうしようもないものの存在を感じました。でもその後の29:43~の加速していくところ、今回の演奏でもそうでしたが、自分を奮い立たせるような、毅然とそれと対峙していこうするような、立ち向かうような、そんな人間の心持ちを私は感じるんです。
最後の音が消えてもファウストはかなり長い時間動かず、客席も永遠のような静寂で。とても自然に、これは”死”なんだ、と感じました。それは決して悲観的な意味だけではなく。
ありふれた日常のある日、私達はここからいなくなる。
でも、最後まで自分自身に負けずに、生ききって死ぬ。ファウストの演奏のシャコンヌはそうあろうとする人間の姿のように感じられました。
とても難しいけれど、できれば、私もそんな風に生きられたらいい、とそう感じました。
もちろんファウストがどういうつもりで弾いていたか、バッハがどういうつもりで作曲したかはわかりません。特にバッハはそこまで考えてこの曲を作曲したかどうか。この曲が作曲されたのは1720年で、今からちょうど300年前なんですね。自分の作曲した曲が300年後の日本人の心にこんな風に響くことになるなんて、彼は想像していなかっただろうな。
樹木希林さんが主演されている井上靖さん原作の『わが母の記』という映画の中で、バッハのヴァイオリン協奏曲が使用されているんです。痴呆が進んでいく母親とそれを見守る家族の数年間を淡々と静かに描いている物語で、最後は母親の葬儀の場面で終わります。大好きな映画なんですが、その印象に通じる今回のファウストのバッハでした。

ファウストが楽器を下ろすのを待って(コロナ禍では禁止されている)ブラボーが客席からとんだけれど、正直、よく言ってくれた!と感じました。国立劇場の吉右衛門さんの俊寛の千穐楽のときに「播磨屋!」とかけてくれた人にも、同じように感じたものだった。いま調べたら、ちょうど1年前でした。吉右衛門さん、どうされてるかな…。大好きなクラシック音楽の演奏会にもいらっしゃることができない状況なのだろうか…。

ファウスト、曲の合間の客席の咳とか、アンコールの前とか、少し上目遣いの、母親が子供に見せるような笑みが素敵。頭の良さそうな人だなあ、と頭の悪い感想を持つワタシ。

※Isabelle Faust: musical sleuth (The Guardian, 15 Sep 2013)
※Isabelle Faust: “Music must be enjoyed without prejudice”(Opus Klassiek, April 2011)

Tokyo Opera City Christmas

17日の開演前に点灯テストをしていた、東京オペラシティのクリスマスツリー。音を出して見てね

Bernard Haitink (R.I.P) conducts Isabelle Faust & the BSO - Mozart: Violin Concerto No. 5 in A major

ファウストはハイティンクともよく共演していましたね。二人の音楽は似ている気がします。
ハイティンクがペライアのピアノに対して言っていた「Life is ok(人生は悪くない)と感じさせてくれる」というあの感覚に、私は救われています。「人生は楽しい」「人生は素晴らしい」ではなく、「人生は良いものではないかもしれないけど、悪いものでもないよ」と。

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ピョートル・アンデルシェフスキ ピアノリサイタル @紀尾井ホール(11月13日)

2021-11-18 13:51:39 | クラシック音楽




J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集第2巻より 前奏曲とフーガ
第1番ハ長調 BWV870
第12番ヘ短調 BWV881
第17番変イ長調 BWV886
第8番嬰ニ短調 BWV877
第11番ヘ長調 BWV880
第22番変ロ短調 BWV891
第7番変ホ長調 BWV876
第16番ト短調 BWV885
第23番ロ長調 BWV892
第24番ロ短調 BWV893
第9番ホ長調 BWV878
第18番嬰ト短調 BWV887
-----------
(アンコール)パルティータ第1番変ロ長調BWV825より第4楽章パルティータ
(アンコール)平均律クラヴィーア曲集第2巻より第12番ヘ短調BWV881より前奏曲

ウィーンフィルの演奏会に来ていた方達の多くがこのピアニストの演奏会にも行っていて、ネットに絶賛評が溢れていたため、行ってみることにしました。昨年のガヴリーロフのときと同じ流れ

アンデルシェフスキの名前は以前から知ってはいましたが、演奏を聴くのは初めてです。
今回はバッハの平均律クラヴィーア曲集第2巻より抜粋が演奏されましたが、曲順は作品の番号順ではなく、また当初発表の曲順も会場で変更になりました。途中休憩はなし。

アンデルシェフスキが弾き始めた途端、「あれ?」と感じました。
なぜなら、ピアノの周りの空気に全く色が見えなかったからです。ここで言う色というのは「表情豊かな音色」というような一般的な意味のものではなく、私が演奏会の感想でよく書く「ピアノの周りに色が見える」という意味の方です。比喩ではなく、本当に見えるんです。といっても眼が見ているのではなく、脳が見ているような感覚です。うまく説明できないのですが…。
皆が皆そんな風に音に色を見ているわけではないらしいとある日気づいて調べたところ、おそらく共感覚と呼ばれるものの一種なのかな、と。「自分ではどうしようもない」という点では絶対音感の感覚と似ていますが、絶対音感は私の場合は子供の頃の訓練の結果なのに対して、こちらはおそらく先天的なものかなと。
私の場合は楽器の音に対して色が見えるんですが、それはずっと同じ色ではなく、演奏に伴ってどんどん変化していきます。
その色の見え方が濃いピアニストもいれば、薄いピアニストもいます。色の変化の仕方もピアニストによって異なります。また色の濃いピアニスト=優秀なピアニストというわけでももちろんありません。
ちなみにこれ、私の場合は生演奏でしか見えません。理由はわかりませんが、機械を通した録音の音では見えないんです。ただ、過去にそのピアニストの演奏を一度でも生で体験していると、その時のことを脳が記憶しているらしく、録音からでもある程度色を感じることはできます。生で聴くと、周りの空気の中に音が個体のように満ちているのがわかるじゃないですか。目の前の音に手で触れられるような。録音の音にはそれがない。あれってどうしてなのかなとずっと不思議だったんですが、先日N響のマロさんがこんなことを仰っていて↓、なるほど、と。

いつでもどこでもネットで音楽にアクセスして聴くことができるようになった今でこそ、実際に演奏会で音楽の体験をする魅力とは。篠崎さんに教えてもらいました。
「生の音を浴びると細胞が活性化されるんですよ。例えば、森の中で木々が揺れる音や滝の音を聞くと、すごく落ち着くでしょう? それは共鳴音が身体の中の細胞を活性化しているからなんです」例えば、ステレオで聴く音楽は脳で変換して音を理解しているのだそう。一方で、オーケストラの生音は共鳴するので自然と身体の中に入ってくるのだとか。脳で変換する必要がないため、疲れないということも挙げられます。・・・「そう、それはリラックスしている証拠。もし脳が緊張していたら寝られませんからね(笑)。実際の演奏をホールで聴くと、心も身体も健康になるんですよ。自然界から得るものと同じような効果を体験できるのが演奏会なんです。数字にもとづいて完成度が高いものばかりを追求してきた時代が続きましたが、私は人間は不完全だからこそロマンがあるのだと思う。生演奏も言ってみれば不完全なもの。そこに美しさがあるのだと思います」
みんなのN響アワー

ただ共感覚に関して言うと、生演奏の場合でも脳の領域の問題のような気がします。絶対音感が聴覚ではなく脳の問題であるように。上に貼った共感覚についてのリンクでも、そのような説明がされていました。またその出方は千差万別だそうなので、色の見え方もその人その人によって異なるのだと思います。
私がこれまで聴いたことのあるピアニストの中では、音の空気の色が特にはっきりとわかるピアニストは、ペライア、レオンスカヤ、ヴィルサラーゼ、ガヴリーロフ。そして意外な感じですがシフ。番外でポリーニは、色自体は濃くないけれど、ものすごく繊細に色が移り変わっていくことに驚きました。パレットが1000色くらいある感じ。

前置きが長くなってしまいましたが、今日聴いたアンデルシェフスキは、今まで聴いたことのあるピアニスト達の中で突出して音が「無色透明」だったんです。曲が進んでもずっとそうでした。
そして私はバッハは彩り豊かな演奏を基本的には好むので、今日のアンデルシェフスキの演奏は正直なところ聴いていて結構きつかったんです。
今回のリサイタルのネットの感想を読むと、シフの熱心なファンの方が「シフの演奏は空海の書のようで、アンデルシェフスキの演奏は色彩豊かなゴッホの油絵のよう」と書かれていて、他にもそういう「アンデルシェフスキのバッハの音色のカラフルさ」について書かれている感想が多く、私が受けた印象と真逆で驚きました。私の耳と目にはシフのバッハの方がずっと色が多彩に聴こえるし、見えるからです。
繰り返しますが、ピアニストの表現力の話ではないんです。アンデルシェフスキは何も悪くなく、完全に私個人の感覚の問題です。

そんなわけで今日の演奏、前半はずっと戸惑いながら聴いてしまったのですが、16番以降はその状況に慣れてきて(慣れるの遅すぎ…)、その辺りからはアンデルシェフスキの演奏もより活き活きしてきたように感じられ、ある程度楽しむことができました。
特にアンコールの2曲は、どちらもとてもよかった。アンデルシェフスキは美音で有名なピアニストだそうですが、このアンコールではその美音をたっぷり堪能できました。
アンコール2曲目に弾かれた第12番BWV881の前奏曲は、本編で弾かれたときはその音に戸惑いまくっている最中だったのであまり演奏に集中できなかったけれど、アンデルシェフスキのこの曲の弾き方、私、好きです。音が自然に流れているところが好き(ただアンコールの演奏でもやはり無色透明ではありました)。なおこの2曲目は「先ほどの自分の演奏に満足できなかったので(I was not happy with~)」と説明してから弾かれていました。リーズ国際コンクール時のエピソードにしても、本当に完璧主義の人なんだね
いつかまた機会があったら、バッハ以外の作曲家も聴いてみたいです(ご本人はバッハに強い思い入れがあるようですが…)。でもアンコールのバッハは本当に、とてもよかったです。





赤坂見附に帰る途中の、ホテルニューオータニのクリスマスイルミネーションと東京タワー。ニューオータニの側を通りかかる度に高村薫さんの『リヴィエラ~』を思い出して毎度テンションが上がる私。

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ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 @サントリーホール(11月12日)

2021-11-15 00:09:20 | クラシック音楽




8日に続き、ウィーンフィル来日公演最終日のサントリーホールに行ってきました


【モーツァルト:交響曲第35番 ニ長調 K. 385「ハフナー」】
ウィーンフィルのモーツァルトが好きすぎる。。。。。
東京でこんな演奏が聴けて嬉しい。しかもこんなコロナ禍に。
音が軽やかで柔らかくて自由で、人間的な温かみがあって。自然に美しく、明朗に優雅に奏でられるモーツァルト。ムーティの解釈は重いという感想も見かけるけれど、それとウィーンフィルの音色の軽やかさはまた別の話。
ウィーンフィルの音って、本当に独特な色香がある。
でもそれだけじゃなくて、リズム、というよりその裏にあるもっと微妙な部分が、他のオーケストラとは決定的に違うように聴こえる。これはなんなんだろう。音楽的な脈拍、鼓動というか。音が自由なんだけど、ただ個々の奏者が好き勝手に弾いている感じともまた違い。ウィーンの文化や伝統といった長い時間をかけて積み重ねられてきた目に見えないものが楽団の音となって表れているような、そんな風にしか思えない音。結局いくら言葉を重ねても、今年もウィーンフィルの音は「言葉にできない音」なのでした。
演奏は最初からとてもよかったけど、音楽が進むにつれてどんどん音が伸びやかになり艶を帯びてきて(弦の艶やかなこと!)。
この一曲のためだけに25,000円払える、と本気で感じたハフナーでした。
ムーティは先日の『イタリア』のときと違い指揮中のニコニコはなかったけれど、三楽章が終ったときにはうんうんと頷く笑みがあり、四楽章が終わった瞬間には零れるような笑顔を見せていました。ムーティがオケにこんなに笑顔を見せる指揮者だったことも、今回の来日で初めて知ったなあ。シカゴ響や春祭のときは背中しか見えない席だったし、今まで映像も殆ど見たことがなかったから知らなかった。ムー帝のイメージも強かったし。でも実際のところ、音もシカゴ響や春祭のときよりも伸びやかな音が出ているように思う(この曲のように両者の調子のいいときは)。そういう意味では指揮者が誰が来ても根本は変えないというウィーンフィルとムーティの良いケミストリーの結果なんでしょうね。ゲルギエフのときにも同じ面白さがあった。あと楽章の最後に音をまろやかに終えるところはムーティは両掌の中に音を丸く包み込むような仕草をしていて、最後の音の処理を大事にしているのだなと感じました。
しかしウィーンフィルのさりげなくて自由で力みがない音、本当に好きだなあ。。。力みのある演奏を熱演と感じる人も多いかもしれないけれど、本当の熱さってそういうものではないはず。ハイティンク&ロンドン響のブルックナーでも感じたもの。ツィメルマンが東京ニューシティ管弦楽団と協奏曲を演奏したときに、奏者達に猫の柔らかな鳴き声(ミャオ♪)を例に出してアドバイスしていたというダイナミクスと音量の違いの話にも似たものを感じます。

(20分間の休憩)

【シューベルト:交響曲第8番 ハ長調 D. 944「グレイト」】
シューベルトのこの曲を生で聴くのは、2017年のみなとみらいホールのブロムシュテット×ゲヴァントハウス管以来、2回目。先日のN響の記事でも書いたけれど、ゲヴァントハウス管によるその演奏は私の中で過去に聴いた全ての公演の中でトップ3に入っているもので、いつまでも終わらないでほしいと心の底から感じた、まさに「天国的な長さ」と言える演奏でした。なので今日の演奏は当然比べながら聴いてしまうことになるのだろうなと想像していたのだけれど、良い意味で全くそんなことはなかった。
とはいえ、今日のグレイトの前半は8日の『悲劇的』の演奏と全く同じものを感じてしまいました…。特に一楽章は各楽器がバラバラとした印象で、音が伸びやかに歌っていないというか、音楽の流れがぎこちなく聴こえた…。首を傾げるようなタイミングでコントラバスが少しバラついた音を出したときに「あれ?」と感じたらムーティもハッと視線を投げたりしていたので、私の気のせいばかりではないと思うのよね…(もっとも、全体的にここぞという時以外は音を抑えさせていたのはムーティの意図なのだろう、と。そういう感じの指揮をしていた。素敵だけど、低弦や金管は少し自信なさげな音にもなりますね)。一楽章の繰り返し?のところでシュトイデさんがムーティを見てハッと驚いたような表情をして、その一瞬だけ音楽が突っかかったように聴こえたり。ムーティ自身も一楽章だったか二楽章だったか、不思議な挙動をしていて。突然ストンと両腕の力が抜けて正面を見たまま魂が抜けたようになっていた時間がしばらくあって、リハーサルなら完全に演奏中止の合図レベルで、「ここで演奏やめるの…!?」とギョッとなった。でもシュトイデさんもオケも慣れているのか全く戸惑った様子はなく演奏を続けていたので、こちらもすぐに音楽に集中できたけども。そのどれも何でもないものだったのかもしれないけれど、演奏のぎこちなさと相まって、なんとなくハラハラしながら聴いてしまったグレイト前半でした。

ところで、普通だったらこういう時は醒めた冷静な感覚で聴いてしまうものだけど、今日のグレイトでは不思議とそういう風にはならなかったんですよね。私の感覚とは合わなかった一楽章の時点でさえ、”ウィーンフィルの音で聴けるグレイト”がひたすら耳に沁みて心に沁みた。。。シュトイデさんが数年前のインタビューで「シューベルトこそ最もウィーンらしい作曲家と常々ウィーン・フィルのメンバーが口にしますね。とにかく会場で聴いてみれば、その真価がわかるでしょう」と言っていたのを帰宅後に読んだけれど、今日のこの感覚もそういうところから来ているのかもしれない(それでも8日の『悲劇的』は受け入れ難かったが)。

二楽章もまだ本調子な風ではなかったものの、だいぶ音が回復してきたように聴こえました。ところで中盤で弦がppで優しくラーソーファーミー  レーミードーファーソーと奏でて(絶対音感1音上がり中の私の耳にはシーラーソーファーと聴こえたので、たぶんその音で合ってると思う)そこに他の楽器も加わってやがて大きな響きになっていくところ、若い頃の録音でもそうだったけどムーティは割とさらさらと流れるように奏でさせるじゃないですか。これ、私は結構好きなんですよね。さり気ないからこそ胸に響くものがあるというか。ウィーンフィルの音だと全然淡泊にはならないし。一方でブロムさんのような演奏も号泣ものでしたが。

三楽章からは音が自然に伸びやかに歌い出して、無敵なウィーンフィルの音に心底聴き入りました。これはウィーンフィルでしか聴けないと断言できる極上の三楽章。舞踏風のメロディーのところはもちろんだけど他の部分も、弦の甘やかさ、艶やかさ、優雅さ。そして木管群の音色!ウィーンフィルの木管の音、本当に好き(なお本日のフルートトップはAuerさんでした)。このオケって弦だけじゃなく、木管も金管も打楽器も本当にみんな素晴らしいよね。。。。。なんなんだ。。。。。ウィーンフィルって調子がいい時には他のどんなオケも絶対に敵わないと感じさせられる音を聴かせるから、全体を通した演奏の出来や不出来を冷静に論じる気持ちが起こらなくなるんですよね。この音を聴けたからもう全部許す、みたいな気持ちにさせられる。ツンデレ女子とか小悪魔女子と付き合っている彼氏はこんな気持ちなのだろうか、とアホなことを思う。去年も同じことを思った。本当に大満足の三楽章でした。

そして四楽章。今年の日本公演もこれで最後だからなのか、ムーティもオケも一気にドライブ感と熱量が増す。3楽章とは別の意味でのTheウィーンフィルの音 それでも全然うるさくはならないんだよね。もう本当に素晴らしい。8日のメンデルスゾーンの最終楽章の時と同じく、呼吸を止めてひたすら聴き入ってしまった。最後のffのドードードードー(私の耳にはレに聴こえたので、たぶんド)はしっかり重めにはとっていたけど、若い頃の録音と違い殆ど速度を落とさずに音楽の流れを止めていなかったのが、自然でよかったです。
演奏しているシュトイデさんの顔にもようやく笑みが。今回の来日では何故かずっと厳しい表情に見えていたので、この笑みには見ているこちらもほっとしました。個人的印象だけれど、この三楽章以降の演奏の変化、ムーティの意図を汲んだシュトイデさん率いる弦がオケを引っ張っていたようにも聴こえたな。一方で、やはりムーティが動き出したからオケの音も変わったというのもあるのだろうと思う。

演奏後に舞台袖に引っ込むときにムーティはシュトイデさんの腕をポンポン。その後もアンコール後だったかな、再びシュトイデさんの肩に手を回してポンポン労い。私の目には「お疲れさま」よりも「有難う」の意味に見えたのでした。指揮者と奏者達の身体的距離が近いのはやはり良いものですね。コロナ禍では久しく見られなかった光景
しかし献身的というかなんというか(この言葉は本来ウィーンフィルには似合わないものなのだろうけれども)、こういう演奏を聴いちゃうとこのオケのこと嫌いになれないよね。オケにはやっぱり指揮者は必要で、指揮者はやっぱりオケに支えられているのだな、と感じた今回のウィーンフィルの来日公演でした。
私の大好きなブロムさん&ゲヴァントハウスの『グレイト』とは最初から最後まで全く違う曲のように聴こえ、でもそれらを比べてどちらが上とか下とか言う気持ちが全く起こらなかった今日の演奏でした。素晴らしかったです。ブラボー!

【J・シュトラウス2世:皇帝円舞曲(アンコール)】
今夜もムーティが曲名を言ってアンコール。今回はさすがに私にも聴きとれた
これはもう当然ですが、”ウィーンフィルでしか聴けない音楽”だと強く感じる音であり、演奏でした(そもそもウィーンフィル以外がこの曲を演奏することってあるのかしら)。
皇帝円舞曲ってこんなに美しい曲だったんだねえ。。。。。。。まさか皇帝円舞曲で泣かされそうになるとは。昨年の『ウィーン気質』と同じく、ただ華やかなだけじゃない、夕映えのような音。。。。。。。
昨年のゲルギエフはアンコールでは完全にオケに任せて自分もオケの演奏を聴いて楽しんでいた風だったけれど、ムーティはこのアンコールもこだわりを持って指揮している感じでした。本編と同じようにスコアを確認しながらしっかり指揮していた。
そしてムーティ様、例の有名なメロディになった瞬間に、ふわぁっと満面の笑み
ちょ…、なんちゅー嬉しそうな幸福そうな顔で笑うんですか…!不意打ちでその笑顔は反則!こういうの何て言うの?ギャップ萌え?危うく恋に落ちてしまいそうになったではないですか。ウィーンフィルの華麗で華やかで温かな演奏で、あのメロディに、あの笑顔。なんちゅー危険な人達だ。これ以上近づいたら私の財布が破産する。
演奏後に各奏者を讃えてから挨拶のために全員を立たせた直後に(そういえばムーティもゲルギエフもオケのP席への一斉お辞儀はなかったな)、ムーティは「みんな、もう一度座って、座って」のジェスチャー。再び全員を着席させて、そして忘れていたハープ奏者を立たせて讃える。律儀だなあ。その後に舞台袖に引っ込む時にもティパニ奏者さんだったかの横を通りざまに両手を合わせて「ありがとう」的なジェスチャー。奏者さんも両手を合わせて返答。和む。ムー帝の面影はいずこへ。本当にウィーンフィルとはいい関係を築いているんですね。

今日のムーティは頑張ってほぼずっと手を動かして指揮してくれていたけれど(腕ストン事件時を除き)、体調はあまり良くなさそうに見えたな。表情もお疲れ気味に見えました。ムーティってペースメーカーなんですね。ツアーの疲れもたまっているのだと思いますが、この後もアジアツアーは韓国、中国と続いていくので、お大事になさっていただきたいです。まあカーテンコールで客席の女性達に投げキッスや指揮棒握手などのサービスしまくりでイタリア男ぶりを存分に発揮されていたので、心配無用かな 、、、と思っていたら。今ウィーンフィルのホームページを見たら、中国公演がコロナでキャンセルになり、“エジプト公演”に変更されている 中国→エジプトの変更って、いくらなんでも極端すぎるんじゃ…。14日ソウル、15日テジョン、16日ソウル、17日釜山、20日カイロ、21日カイロって…80歳なのにどんだけ強行スケジュールなのか。ムーティ大丈夫かな…。あ、でもカイロって殆どヨーロッパか。思わず調べたらカイロ→ウィーンの飛行時間は3時間半。公演後すぐにウィーンに帰れるのなら、かえって良いのかな。そう思おう。でもムーティって基本の自宅はおそらくウィーンじゃないよね。どこに住んでるんだろう。北米?イタリア?

※追記
ムーティは皇帝円舞曲のあの部分でいつもあんな笑顔を見せるのだろうか、と帰宅してから今年のニューイヤーコンサートの映像をチェックしてみたら(1:48:19~)、なんと!あのメロディのところではオケではなくホーフブルク宮殿の景色が誇らしげに映されているではないですか!ここでそれを映したくなる気持ちはわかるよ。わかるけどさあ、その風景はどうせこの先も何百年も変わらないんだから、今しか映せないあの笑顔をなぜ映さないかなあああああ(ニューイヤーでも笑顔だったかは不明だが)。しかしムーティのスピーチ(2:09:15~)は沁みるね。。。



演奏会後のホールの外では「楽しかったねえ」「よかったねえ」とみんなが幸せそうな笑顔。ムーティが「音楽は精神を健康に保つために必要なのです」と言っていた意味がよくわかる、いい光景でした。
オーストリアの10万人あたりの感染者数はドイツを抜いてしまったそうで…。日本もこの先どうなるかはわかりませんが、束の間の、でも一生の宝物となる幸福をムーティとウィーンフィルからいただくことができました。感謝しかありません。この後も無事ツアーを終えて帰国されますように!


実はこの日の演奏会は、グランピングからサントリーホールへの直行でした。ワンピースもピアスもネックレスも持って行って、演奏会前に着替えた

Vienna Philharmonic – Strauss: Wiener Blut, Walzer, Op. 354 (SNC 2021)

今年のサマーナイトコンサートの『ウィーン気質』の演奏。指揮はハーディング。ゲルギエフと違って、ちゃんと指揮してる(笑)。それにしてもシュトイデさんのこの音色よ・・・・・。

Sir András Schiff - Live at Wigmore Hall

シフが13日のウィグモアホールの演奏会で、ハイティンクへの追悼をしてくれました。「今夜の演奏をベルナルト・ハイティンクに捧げます。彼はとてもとても素晴らしい音楽家であり、偉大な指揮者であり、素晴らしい友人でした。今夜ここにパトリシア夫人とご家族にお越しいただけたことを嬉しく思います。ベルナルトは今夜私達と共にここにいるでしょう。彼はウィグモアホールを愛していました。今夜はベルナルトが聴きたいと思うであろう曲を演奏したいと思います。彼は素晴らしい審美眼を持った人でした。(最近の音楽的汚染についての話をした後で)ベルナルトにあまり話しすぎるなと言われてしまいますね(笑)。(曲紹介をして)ベルナルトがここで聴いてくれていることを願います」と。ありがとう、シフ
ハイティンクが最後に指揮したオーケストラはウィーンフィルだったけれど、正直なところ彼がより親しみを感じていたのはベルリンフィルの方だったのではないか、と個人的には思っています。
2004年のインタビューではベルリンフィルとウィーンフィルの2つの楽団を比べて、こんな風に仰っていました。

How does he characterise these mighty beasts of the orchestral jungle? Haitink starts his reply with the Berliners, with whom he is doing a two-week stint as we speak. "I love the open way they attack the music. It is so positive. When they play with conductors they don't like, they ignore him; but when they play with conductors they like, they really add something very positive."

What about Vienna? "Well, you never know with Vienna because they have an enormous number of players, and you have to wait and see who plays. They don't have a music director. They play the same pieces more than once in a season with different conductors. I think in their hearts they are arrogant. They think, 'It doesn't matter who conducts us, we are the Vienna Philharmonic.' Very dangerous attitude. But they are of course extremely good musicians."

・・・どっちのオケも怖い
ウィーンフィルのこういう性質は有名ですが、ハイティンクもそう言っているということは本当にそうなのでしょうね。これはだいぶ前のインタビューだけど、今でもきっとそういう部分はあるのではないかなと想像する。そして実際に彼らの演奏を聴いて、そういうオケだからこその音の魅力というものもあるように感じています。
昨年と今年彼らの演奏を聴いて、ハイティンクが最後に指揮したのがこんな素敵なオーケストラで良かったな、と感じることができました。ベルリンフィルもいつか聴いてみたいな。

BERNARD HAITINK FAREWELL BBC PROMS - SO EMOTIONAL! VERINHA OTTONI

2019年9月3日、ハイティンクの最後のPROMSの演奏後の様子。シュトイデさん、弓を置いて両手で拍手してくれてる…

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ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 @サントリーホール(11月8日)

2021-11-10 21:49:02 | クラシック音楽


ウィーンフィルとの共演は、私の人生のうちで最も大切なものであり、オーストリアは私にとって第二の祖国になった。音楽ばかりでなく、人間関係も培われていった。このオーケストラは私がスカラ座を去ったばかりで難しい立場にあったときも、私の傍らにいてくれた。ウィーンフィルは私にとって、まさに”運命の”と呼ぶにふさわしいオーケストラである。
(公演プログラムから『リッカルド・ムーティ自伝 はじめに音楽 それから言葉』より)

ウィーン・フィルは私の音楽人生の一部であり、ウィーンフィルがなければ、私は異なった音楽家になっていたでしょう。彼らからウィーン音楽の典型的なフレージングを学びました。また多くの音楽的なアイデアを習得しました。私にとって”ウィーンフィルの音楽の作り方”が、まさに音楽の理想型なのです。
(公演プログラムから「2021年ニューイヤーコンサート前のインタビュー」より)

1年ぶりのウィーンフィルの演奏会に行ってきました。
これほど長く海外のオーケストラが来日できない状況が続くとは、昨年の今頃は思いもしなかったな…。あのウィーンフィルの来日の後に他のオケも続くかと思いきや、そうはならなかった。この2年間で来日できてるのってウィーンフィルだけだよね。それでも、たとえ裏で政治的アレコレがあろうとも、ウィーンフィルの音楽を今年も東京で聴けたのは素直に嬉しい。
今年はムーティとウィーンフィルの初共演から50周年で、このコンビでの来日は2008年以来13年ぶりなのだそうです。
※追記:9月にプラハ・フィルが来ていたことを今知った!なぜこんなに話題になっていないの…?


【シューベルト:交響曲第4番 ハ短調 D. 417「悲劇的」】
クラシック音楽ド素人ブログの気楽さで正直に書いてしまいますが・・・・・、感動した方はすみません。この演奏、私には全く良さがわからなかった・・・・・・。
音の歌わなさ&弾まなさには2016年のムーティ&シカゴ響の悪夢も思い出したけれど、今日の演奏はそれ以前の問題というか、ムーティの解釈云々以前の問題のように私の耳には聴こえたのでありました。
各楽器が自分のパートをきちんと演奏しているという音以上のものが聴こえず、なんとなくバラバラしている印象というか、音楽全体が自然に流れないで最後までぎこちないままで終わってしまった。
音も確かにウィーンフィルの音ではあるけれど、そうであってそうじゃないというか。私が知ってるウィーンフィルの音はこんなもんじゃない、これが昨年あの火の鳥を演奏したオケだろうか、これが春にあのマクベスを聴かせた指揮者だろうか、と首を傾げながら最後まで聴いてしまった。
いくら”ウィーンフィルの通常モード”という言葉が巷に存在しているとはいえ、この演奏はそれでさえもなかったように感じられたがなあ。。
ムーティの解釈も確かに重かったのだろうけど、たとえそうでも音楽が自然に流れることは可能だったはずと思うの。ポゴレリッチの演奏が通常の倍の遅さでも、ちゃんと自然に流れているように。ウィーンフィルならそれくらいの実力は十分にあるはずなので、なぜなのか不思議だった。

【ストラヴィンスキー:ディヴェルティメント~バレエ音楽『妖精の接吻』による交響組曲~】
このストラヴィンスキーからは、だいぶ記憶の中のウィーンフィルの音に近づいてきたように感じられました(うわーエラそうにごめんなさい でも本当にそう感じたの…)。
昨年の『火の鳥』の感想でも書いたけれど、ウィーンフィルの音色のストラヴィンスキーは私の好みにドンピシャ。最強。ただ演奏しているだけなのに、ただ何気なく音を出しているだけなのに(そう見えるのに)、どうして一瞬でこんな異世界が浮かび上がるの?
このメルヘンな素朴で甘い音…。そのうっとりする甘美さにプラスされる気ままさというか自由さというか、奔放な人間味と官能性。微かに見え隠れする退廃性。そんなウィーンフィルの音の個性はストラヴィンスキーに物凄くはまる。ウィーンフィルからしか聴けない演奏だと思う。
そしてこの曲は木管が大活躍で楽しい(ストラヴィンスキーの木管の使い方好き♪) 特に大活躍だったフルートのSchützさん(←お名前はSNS情報より)は、最初に舞台に出てきたときも座った後もP席やLA、RAの客席を見渡してニコニコニコニコ。海外のオケって近くの客席に至近距離で笑顔をくれる人懐こい奏者さんが多いですよね。目が合うと反射的に微笑むのは欧米人の国民性なのかもしれないが、日本のオケにはないこういうところ、好きだな。
それにしてもクラリネット(Ottensamerさん)とフルート(1stがSchützさん、2ndがAuerさん)がただ音を繋ぐだけで、ヴァイオリン(Steudeさん)やヴィオラ(Tobias Leaさん。この方もずっとニコニコされていた)や他の弦がただ同時に弾いているだけで、ホルンがただ朗らかに吹いているだけで、どうしてこんな異世界の物語世界が立ち上るのか…。ウィーンフィルの音って、幸福な音がちゃんと幸福に聴こえる長閑さもいい。一方で火の鳥のときと同様、とんがったキレキレの強奏も素晴らしかった(ウィーンフィルのこういう音も大好き!)。
ムーティはきっとこの曲が好きなんだろうな。前回の来日でもこの曲がプログラムに入っていたし、youtubeでこの曲を検索するとムーティ指揮の演奏が出てくる。
ところでこのバレエの初演の振り付けはニジンスカだったそうですが、ストラヴィンスキー&ニジンスカでも委託元はバレエ・リュスではないんですね。なお今回予習に使った映像は、モスクワ・クラシック・バレエ団のマラーホフ主演のものでした(マラーホフが若い~)。

(20分間の休憩)

【メンデルスゾーン:交響曲第4番 イ長調 作品90「イタリア」】
おお、音の密度が休憩前とは違う これよこれ、私が昨年恋に落ちたウィーンフィルの音は!
そしてゲルギエフ×ウィーンフィルとも違う個性の、ムーティ×ウィーンフィルならではと感じられる音!
一楽章から聞き惚れました。明るくて、でも明るいだけじゃない音の艶。
こういう言い方はできるだけしたくはないけれど、こういう音を聴いていると、日本にオーケストラには絶対に出せない西洋の長い歴史や文化の上に成り立っているさりげない凄みのようなものを感じるんです。そしてそれは彼らが努力して作っている音ではなく、努力して作れる音でもないように思う(同様に、たとえば歌舞伎の世話物などには日本人にしか出せないさり気ない凄みがあると思っている)。
一楽章が終わったときのムーティ、満足そうな表情をしていたなあ。この時だけじゃなくこの曲の間ずっと、時々零れるような笑顔を見せて、楽しそうで嬉しそうでした。Leaさんとも笑顔でアイコンタクトしたり。いいねえ。
三楽章のハーモニー、美しいという言葉では表せない音が舞台から広がっていた。なんだかとにかく凄いとしか言えない、もはや音ではない何物かがそこにある感覚。人間ってこんな美しさを作り出すこともできるのか、と昨年も感じた人間への信頼回帰のようなものを今年も力強く感じさせてもらえました。
そして四楽章。うまい、うますぎる。なんだあのめちゃ速な弱音のヴァイオリン。技術的な意味ではなく(いや技術もすごいんだけど)、あの独特の音の凄み。ヴァイオリンだけじゃなくウィーンフィルのどの楽器も、すごくさりげなく演奏しているように見えるのに、どうしてあんな音が出るのか…。本当に「ウィーンフィルの音」ってありますよね。今年も「世界一のオーケストラ」という言葉が頭に浮かぶ。その同じオーケストラがああいう『悲劇的』を演奏するのはなぜなのか。ウィーンフィル七不思議だ。。。
そして最良の演奏では必ず感じられるオーケストラ全体が指揮者を中心に一人の人間、一つの心になったような感覚も、この曲ではしっかりありました。
今日のムーティは春祭のときよりも更に動きが少なかったけれど、ちゃんと最初から最後まで奏者達に目を光らせていたように見えました。省エネというよりはリハーサルでちゃんと伝えてあるから奏者達を信頼している感じで、あえて動く必要がないところは動かずに、重要な部分や気になる部分の修正のときには動く感じだった。ああここでムーティはこういう音を欲しているのだな、というのがとてもよくわかる指揮。やっぱり私のようなド素人には指揮者の表情や細かな動きが見える席は勉強になるし楽しい。
ちなみに今回はLA席だったんですけど(音のバランスはP席よりも悪いように感じた)、ムーティが演奏中に何度もこちらの方を見上げながら指揮するのですよ。チラッとかじゃなく、結構長い時間。正面のP席ならわかるけど、なぜLA?目が合う錯覚を持てて楽しかったけど、ムーティは左上を見る癖でもあるのか。それとも後ろの関係者席に知り合いでもいたのかな。
そんなわけで、ストラヴィンスキーとこのメンデルスゾーンが聴けただけで、あのシューベルトの演奏分はチャラどころかたっぷりお釣りがくる!と大満足なところに、アンコール。

【ヴェルディ:歌劇「運命の力」序曲(アンコール)】
ムーティが客席を振り返って「Verdi, La Forza del Destino」(←ネット情報)と言った瞬間に客席大喜び。大声で言ったわけではないのにあれを瞬時に聞き取れるとは、お年寄りも多かったのに客席のリスニング力半端ないな…。私は「ヴェルディ」しかわからなかった。そもそも『運命の力』のイタリア語名を知らなかったが。
今日のプログラムのアンコールがこの曲であることはSNS情報で知っていて、youtubeでもウィーンフィル以外のオケの演奏のものを聴いていたけれど、やっぱり生で聴くと迫力も美しさも全然違いますね!ただただ圧倒される。
そしてウィーンフィルの音色!
最初の金管の咆哮の響きから、息を止めて聴き入ってしまった。
昨年アンコールで『ウィーン気質』を聴いたときに「この一曲を聴けただけでもこのチケット代を払う価値ある」と感じたけれど、この演奏も同じでした。
しかしあんなただならぬ(といっても本人達は全く無理していないのだろうけれど)メンデルスゾーンの四楽章を演奏した後で、よく間をあけずにこんな更にただならぬ演奏ができるものだ。私はまだ魂が抜けてぼんやりしているというのに。プロだなあ。
この曲ではムーティは別人のように動きまくっていたが、そうよね、全部の曲でこんな風に動きまくっていたらさすがに体力もたないよね。全くそうは見えないけど、ムーティも今年80歳。
それにしてもこの官能的で劇的な音よ。。。。。。。。。
「ウィーンフィルは私にとって、まさに”運命の”と呼ぶにふさわしいオーケストラである」とムーティは言っているけれど、そんなコンビによる『運命の力』はまさに別格でした。これは完全にムーティ指揮だから聴けた音で、やはりムーティのヴェルディってずば抜けているのだなと再認識したと同時に、ウィーンフィルとのコンビだから聴けた音だと思う。
一日たってもあの音色が耳から離れません。

Aプロも伺います

「私が初めてサントリーホールで演奏したのは1989年の春、フィラデルフィア管弦楽団との公演でした。ホールの音響の素晴らしさが印象的でした。エレガントで濃厚な響きが美しく、『まるでチョコレートを溶かしたカップにスプーンを入れるようだ』と感じたのを覚えています」
『Hibiki』Vol.16より)

”チョコレートを溶かしたカップにスプーンを入れるよう”
イタリア人指揮者の感想らしくて大変よい


18時開場かと思っていたら(コロナ禍になってからそうだったよね…?)、以前どおり18:20開場だったので、ホール前で時間を持て余してしまった。


この開場の合図のパイプオルゴール、目の前でちゃんと聴いたの初めてかも。遊び心があっていいねえ


3日の公演の写真です。

La Forza del Destino, Verdi (obertura)

ムーティ指揮ミラノ・スカラ座フィルの『運命の力』。こちらもほの暗い音色がいいですねえ。今日の演奏、この映像の3:10~のクラリネット→オーボエ→フルートのソロが歌い継いでいくところの空気も凄かったです。

Mendelssohn, Italian Symphony (Haitink)

ハイティンク追悼。
1997年のロンドンフィルとの『イタリア』。今日の演奏よりも軽やかで、こちらもとってもいいですよ。ロンドンフィルって昔ユロフスキで一度聴いたけど、こんな艶やかな音が出ていた記憶がないな。音響のよくないRoyal Festival Hallで聴いたせいもあるかも。

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ネルソン・フレイレ Nelson Freire

2021-11-01 23:07:33 | クラシック音楽

フレイレが、亡くなったそうです。
10月31日の夜から11月1日の朝にかけての間に、リオデジャネイロのご自宅で。
リオは日本よりも12時間遅れなので、まだ、ほんのついさっきのことですね……。
死因は公表されていません。
いつものように「freire」と検索をしたら「morre」と出て、私はこのポルトガル語を知らなかったけれど字面から嫌な予感がしてgoogle翻訳をかけたら、そういう意味だった…。

初めてリサイタルに行ったとき、最前列中央の席だったんです。
目の前にフレイレがいて。あの音を目の前で浴びて、あの音の風景を目の前で見て、目の前にあの笑顔があって。
私にとって特別な存在といえる音楽家は僅かしかいないのに、たった10日の間にハイティンクがいなくなり、そしてフレイレがいなくなってしまった。
ただただ、ご冥福を祈ります。
そして、心からの感謝を。
最後の日々をアルゲリッチと共に過ごせていたであろうことは救いですが、アルゲリッチは辛いだろうな…。


※追記(11月2日):
フレイレと親しくしていた方達のポルトガル語のSNSの追悼メッセージで、ここ数年、フレイレには辛く悲しい出来事が沢山起きていたのだということを知りました。あの事故による腕の怪我の回復も思わしくなく、さらにRosana MartinsやCesarina Risoといった長年のご友人達や愛するご家族の死が続いたそうです。フレイレの魂が今は安らかでありますように…。愛する人達と天国で楽しく再会できていますように…。
そして遺された方達のことを思うと、心が痛いです。昨年夏に亡くなったRosana Martinsはアルゲリッチの親友でもあったそうなので、更にフレイレも亡くし、アルゲリッチはいま本当に辛い状況にあると思う。

※追記(11月3日):
彼の最後の数日間について、ブラジルの新聞O Globoに詳しく書かれてありました。フレイレの追悼記事が非常に多く掲載されていて、タブロイド紙的ではなく真面目な新聞のようです(フレイレが22歳のときにご両親をバスの事故で亡くされていたことも、この新聞で知りました)。
その内容をここで書くかどうか迷いましたが、フレイレに関する日本語の情報はとても少なく、私と同じようにフレイレのことが大好きで、少しでも最後の状況を知りたいと思っている方は日本にもいらっしゃるだろうと思うので、書くことにしました。googleでの英訳を介した私による意訳なので、間違っていたらすみません。原文は上記リンクからお読みください。また括弧内は私による註です。
フレイレが11歳の頃からの友人でプロデューサーのMyrian Dauelsbergによると、フレイレはMyrianと一緒に数日間ペトロポリスに行く予定になっていたそうです。最近の彼はとても落ち込んでいて、もう自分は二度とピアノを弾くことはないだろうと思い、他に何もしたくはなく、電話に出ることもやめていたそうです。
Myrianは31日の晩までフレイレと一緒にいて、彼がショパンの舟歌の最初の部分を弾くのを聞いて、翌朝に会う約束をして帰宅したそうです。そして午後11時頃、彼は”転倒”により死亡したと(即死だったそうですが、詳細な状況は語られていません。それゆえ状況に疑念を抱いているブラジルのメディアもありました)。
フレイレは2年前の事故(2019年10月30日だったので、ちょうど2年前)から、ピアノを弾かなくなっていたそうです。友人達に強く勧められてピアノには向かっても、すぐにやめてしまっていたと。ピアノに触れると肩に激痛を感じると彼は言っていて、それは体ではなく頭の問題だと言う医者達と良い関係を保てず、薬も服用しようとせず、とても頑なだったと。
アルゲリッチはフレイレのことを非常に心配していて、演奏会のためにフランスに戻らねばならなかった彼の死の四日前まで彼の傍にいたそうです(アルゲリッチは10月29,30,31日にパレルモで演奏会がありました)。彼らはとても特別な繋がりで結ばれていて、それは人間を超越した愛だったとMyrianは言っています。空港へ送るためにMyrianが迎えにいくとアルゲリッチは既に車に乗っていましたが、少しだけ待っていてほしいと頼み家に戻っていき、フレイレのためにシューベルトの変奏曲からの主題を弾いたそうです。それはかつて二人が一緒に弾いた曲だったと。車の中でアルゲリッチは、この曲にどういう意味があるか知っているかとMyrianに尋ね、「一生あなたを愛する(I will love you all my life)」という意味だ、と言ったそうです。
周囲はフレイレが再びもとのように弾けるようになり演奏会に復帰できるようあらゆる助けを惜しまず、Myrianの息子さんは大衆はあなたを必要としていると彼を励ましたことがあったそうですが、フレイレはただ笑っていただけで、イエスともノーとも答えなかったそうです。

※追記(2022年6月22日)
上記のMyrianのインタビューについて、より詳しく書かれたサイトを見つけました。
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「(31日の月曜日に彼の家を訪ねると)彼が玄関に立って私を待っていたので、驚きました。最近の彼は私が訪ねてもベッドから出てくることはなく、彼の姿を見ないことも多かったからです。彼は「僕はとても恐ろしいことを考えている」と言い始めました。「僕は二度とピアノを弾くことができないような気がする」と。私は「もちろんあなたは弾くわ。あなたはそんな風にピアノから離れることはできない。なぜなら世界中の人達との約束があるのだから。さあ、ピアノに行きましょう。私はあなたのピアノが聴きたい」と言いました。私は彼は決して行かないだろうと思っていましたが、彼は行きました!
私は彼の隣に座り、彼はショパンの舟歌を素晴らしい音で弾き始めました。(その後、二人は翌日の休日をペトロポリスの彼女の家で過ごす約束をした。)彼の死の知らせを受けたのは、とても悲しいことでした」
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Nelson Freire plays Schumann/Liszt 'Widmung' for Martha Argerich

これまで何度もご紹介した、2003年のフレイレのドキュメンタリーより。フレイレの魅力がいっぱいに映されているとても素敵なドキュメンタリーなので、機会がありましたらぜひ全編を見ていただきたいです(以前はyoutubeでフルで見られましたが、視聴不可になってしまいました)。
このドキュメンタリーの中でアルゲリッチは「初めて彼の演奏(ショパンのピアノ協奏曲2番)を聴いたとき、本当に好きだと感じたし、素晴らしいと感じた。私にそんな風に印象を残す人はとても少なかった。一人目は少女の頃に出会ったブルーノ・ゲルバー、次にマウリツィオ・ポリーニ、そしてネルソンだった」と。
また動画内でフレイレ本人も言っていますが、彼はこの『献呈』を初見で弾いています。フレイレの初見能力の高さは有名だったそうで、こちらの追悼記事では、若き日の彼の初見演奏を目の当たりにした筆者が、その思い出を"a moment of unforgettable beauty"と振り返っています。原文はポルトガル語ですがとても素敵な記事なのでぜひ全文をお読みいただきたいですが、以下はその場面のみ、恐縮ながら私によるgoogle英訳を介した意訳を。

1970年代半ば、私はブラジルの音楽教師Alberto JafféとDaisy de Lucaの家で過ごしていた。その家は至るところに才能があり、音楽で溢れていた。
家にはもう一人のゲストがいた。それは確かな国際的キャリアを持つ有名な若者で、ある日私達がビーチから戻ると、彼はピアノの上に楽譜があることに気づいた。

―知らない曲だな。

彼はもう少し読むと、好奇心をそそられ、近くの灰皿に煙草を落とし、座って弾いた。それはハイドンのソナタの一つだった。私は動けなくなり、唖然とし、その呪文を壊してしまうことを恐れた。そのフレイレによる初見は、最初の音から最後の音まで完璧で、絶対的で深淵な明快さがあり、それは忘れられない美しさの瞬間だった。
人生は時々、私達にふさわしくない特権を与えてくれる。

Nelson Freire plays Bachianas Brasileiras nº 4 Prelude (Villa-Lobos)

フレイレといえばヴィラ=ロボス。カッコよかったな。。。熱くて騒々しいだけと思っていたラテンの国の静けさと秘めた情熱を教えてくれたのもフレイレでした。

Brahms: 6 Piano Pieces, Op.118 - 2. Intermezzo in A

あまりの美しさと優しさに、この音に包まれながら死んでしまいたいと客席で本気で感じた、ブラームスの間奏曲Op.118-2。

Paderewski : Miscellanea - Nocturne (Nelson Freire)

2019年4月26日のPhilharmonie de Parisでの映像。2018年8月の最後の来日のときにアンコールで弾いてくれた曲の一つ。東京と広島で二回聴くことができました。ホールに広がる音色の温かさ、美しさ、静けさ…。一瞬でその世界に引き込まれるフレイレだけの音…。この曲も下記の「精霊の踊り」と同じくノヴァエスが弾いていた曲でした。

Guiomar Novaes e Nelson Freire Gluck

フレイレのドキュメンタリーより。
グルックのオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』の第2幕第2場で天国の野原で精霊たちが踊る場面で演奏される曲で、フレイレが好んでアンコールで弾いていた「精霊の踊り」。
私はフレイレの演奏でこの曲を3回聴いていますが、最後に聴いたとき、「フレイレも私もこちら側の人なんだな」と感じました。この曲はあちらの世界を描いている曲だけれど、ノヴァエスも私の友人もあちらの世界の人だけれど、私もフレイレも今こちら側にいるのだと感じ、そのときの演奏はこれまで聴いた中で最も強い静謐感と切なさを感じさせる弾き方で、終演後のトイレで泣いてしまったことを覚えています。
そのフレイレも、あちらの世界へ行ってしまったんですね…。
なんとなく一人こちらに残されてしまったようで、寂しいです。

Mischa Maisky and Lily Maisky - Live at Wigmore Hall

マイスキーがウィグモアホールのアンコールで、フレイレへの追悼の演奏をしてくれています(56:10~)。ブロッホの『prayer』。そしてブラームスの『ひばりの歌(Lerchengesang, Op. 70-2)』。
こんなに悲しいのに、どうして音楽はこんなに美しいのだろう…。
フレイレが残してくれた音楽も、美しいまま…。
その音楽からどれほど人生の励ましをもらえたことか…。

※NELSON FREIRE WAS ‘THE CONSUMMATE RECORDING ARTIST’ (Slipped Disc)
※"La perte d'un géant" : le pianiste Nelson Freire nous a quittés(france musique
※Remembering Nelson Freire(The piano files



フレイレの日本でのマネジメント会社は、Novelletteに変わっていたんですね。twitterやFBで連日追悼の投稿をしてくださっています。

以前の招聘会社のKajimotoからも、追悼メッセージがありました。
フレイレは日本では決して大人気のピアニストとは言えなかったけれど(近年の2回の来日ソロリサイタルはキーシンの4分の1の値段でしたが、客席は7割程度の入りでした)、ネットに世界中からあげられている彼の死を悼むメッセージや特集記事を読んでいると、本当に多くの人達に深く愛されていた人でありピアニストだったんだなと改めて感じます。フレイレは母国ブラジルの今の政治状況について思うところが多かったようでしたが、それでもリオに住み続け、その音楽を弾くときの彼は本当に生き生きとしていた。2017年の来日リサイタルでヴィラ=ロボスを弾き終えた瞬間に浮かべた嬉しそうな笑み、昨日のことのように覚えています。

Nelson Freire with his dog, plays Villa-Lobos

フレイレのワンちゃんは彼がヴィラ=ロボスを弾き始めるといつもじっと耳を傾けるんだって、インタビューでも嬉しそうに話されていましたね。



フレイレはゲルギエフとも仲のいい友人でしたね。2年前の事故後にマリインスキーとアジアツアー中だったゲルギエフが多忙な中フレイレに宛てたプライベートの動画メッセ―ジを、先日偶然見ました。とても温かなメッセージだった…。


上記の葬儀の投稿をしてくださったフレイレの親しいご友人Alain Lompech氏のツイートより。"The Barcarolle of his dear Chopin”と仰っています。フレイレは本当にショパンの音楽を愛していたのだな…。




フレイレを敬愛していたニコライ・ルガンスキーからの追悼メッセージ。「ネルソン・フレイレのピアノは若い頃から聴いていたが、それは多くの音楽愛好家達と同じく、主にアルゲリッチのデュオの見事なパートナーとしてだった。しかしある日他の学生達とブラジルに行ったとき、彼のシューマンの幻想曲の録音が流れてきた。私達は活発な会話の最中だったにもかかわらず、途端に皆が沈黙した。そのピアニストの独創性に驚愕した瞬間だった。それ以来、彼は私の最も好きなピアニストの一人となった」とのこと。

Argerich, Freire - Schubert - Rondo in A major, D 951

アルゲリッチがフレイレの葬儀に花束とともに楽譜を送ったという、二人がよく一緒に弾いていたシューベルトの「ロンド」。最後にアルゲリッチが部屋に戻って主題を弾いたという曲は記事では変奏曲と書かれてありましたが、この曲だったのではないかなと思います。アルゼンチンの新聞La Nacionの追悼記事によると、フレイレはパリにいる時はアルゲリッチの向かいのアパートで過ごしていたそうで、「彼女は僕の姉のような人だ」と言っていたそうです(追記:フレイレが先にそこに住んでいて、アルゲリッチが近くの家を購入したとのこと@「子供と魔法」)。アルゲリッチはフレイレより3つ歳上で、二人が出会ったのは14と17の時でしたっけ。長い時間ですね…。
“We met in Vienna in 1959 and we have had a very deep relationship. We hardly have to talk. We communicate by thought.”とは、フレイレの言。


Nelson Freire plays Barcarolle opus 60 Frederic Chopin

フレイレが亡くなる数時間前に最初の部分を弾いていたという、ショパンの舟歌。事故後ほとんどピアノを弾くことがなかったという彼は、その夜、どんな気持ちでこの曲を弾いていたのだろう…。
フレイレが弾くショパンの響きが大好きでした。2017年の来日リサイタルのときにここに書いた感想を読み返すと、私は彼のショパンのソナタ3番の演奏についてこんな風に書いていました。「なにより透明な音の奥に温かな優しさと人間味があるのだけれど、それが全く押し付けがましくなく自然体で、更に温かみだけじゃないプラスアルファがあって。それは何かというと、フレイレの人生であるように感じられました。フレイレの人生とショパンの人生がこの曲の中で重なったような、そんな心に響く演奏でした。」と。本当にフレイレの弾くショパンは、ショパンの、そしてフレイレの人生の音のようだった…。
フレイレはショパンについて、以前こんな風に言っていました。
“Chopin? How sad would be the world without him. It’s music that touches everyone’s heart no matter which part of the World. He was maybe the best thing that happened to the piano for in his hands the piano was no more a percussion instrument but became a singing one”. 
FINE MUSIC, September 2016)

以下は、ピアノと自分の関係について。過去のインタビューより(googleによる英訳です)。
"In addition to my means of expression, the piano represents a way of communicating with the world. It is a lifelong companion who knows all of mine defects and qualities, I'm always learning from him. I've been through tragic situations, and if it wasn't for the music, I wouldn't have survived." 
……
“What would be the human being if there was no art? The artist does not deceive anyone: his craft demands severe discipline, honesty. And the public thanks them offering affection and admiration.”

Expresso

シャイなフレイレにとって、ピアノは世界とのコミュニケーションの手段であり、仲間でもあった。3歳からピアノを弾き始め、神童と呼ばれ、ずっとピアノと共に生きてきた彼にとって、ピアノが親しい仲間ではなくなるというその苦しみは、本人にしかわからないものだったと思います。彼が人生の全てを捧げていた音楽を私達は聴かせてもらっていたのだと、私達が彼からもらっていたあの美しい時間の重みを、いま改めて感じています。

※2021.12.15追記:Nelson Freire at 75(Gramophone, October 18, 2019)
フレイレが怪我をする直前に掲載されたインタビューを見つけました。チャイコフスキー国際コンクール時に行われたインタビューで、新譜の「encore」について話されています。おそらくフレイレの最後のインタビューではないかな…。

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エフゲニー・キーシン ピアノリサイタル @ミューザ川崎(10月28日)

2021-11-01 22:07:14 | クラシック音楽




キーシンの日本ツアーの初日に行ってきました。
白状するとこのチケット、実は間違えて買ってしまったものでした。以前フレイレがインタビューで、
Which pianists from the past interest you the most?
Rachmaninov, Novaes, Horowitz, Rubinstein, Gieseking, Gilels, Benedetti-Michelangeli…
And right now, apart from Martha Argerich?
Daniil Trifonov. His Chopin is impressive.
と言っていたのですが、いつの間にか記憶の中でトリフォノフがキーシンに変わっていて。チケットをポチした直後に「なんか違うような…」と感じインタビューを読み返して、勘違いに気付いたのであった。
手放そうかどうか迷ったけれど、とりあえずキーシンの自伝を図書館で借りて読んでみたところ思いのほか正直で率直な文章に興味が湧き、せっかくの機会なので行ってみることにしたのでした。しかしポリーニに次ぐチケット代の高さには驚いた。。。

今回のミューザの席は、ハイティンクとヤンソンスの時に座ったのと同じ辺りだったので、お二人とも楽しそうに幸せそうに指揮されていたな…と少ししんみりしてしまっていた開演前の私でした。が。

【J.S.バッハ(タウジヒ編):トッカータとフーガ 二短調 BWV565】
第一音から、お目目パッチリ
キーシンの演奏をまともに聴くのは今日が初めてでしたが(youtubeでも殆ど聴いたことはなかった)、キーシンのバッハ、いいですねえ
プログラムによるとブゾーニ編がオルガンの荘厳な響きを想像させるに対し、このタウジヒ編はピアニスティックな装飾音や華やかさが特徴なのだそうで。もっともキーシンが弾くと、装飾や華美さが良い意味で目立たない。また今日は弾き始めが聴き慣れたタリラ~♪ではなかったけれど、それはタウジヒ編だからというわけではないんですね(とyoutubeで予習したときに知った)。
いやあ、楽しかったし、興奮したし、感動した。
キーシンの音ってちゃんと高潔さが感じられるのもいい。シフのバッハもそうだけど、どんなに親しみやすい音であっても、どこかに崇高さを感じさせるバッハが私は好きなんですが、その点今夜の演奏は好みにドンピシャでした。
そしてキーシンは一つ一つの音をとても丁寧に弾くんですね。もう少し弾き飛ばすタイプかと勝手に想像していたので、意外でした。彼は自伝で「評価しているピアニスト」としてルプー、ペライア、シフ、ツォメルマン(+バレンボイムのゴルトベルク)をあげていますが、今日の演奏を聴いて、なるほどと納得したのでした。他にも「リヒテルよりもギレリスの温かな情感のようなものに親近感を感じる」など、キーシンの好みは割と私と近いのであった(ちなみに光子さんはギレリスは大嫌い!なのだそう)。ピアニスト達からはあまり評判のよくないグールドの二回目のゴルドベルクの録音を高く評価してくれているのも嬉しい。
このバッハが聴けただけで十分にチケット代のもとは取れたと感じました。演奏にのまれてすぐには拍手ができず、他の人も同じだったかどうだかは知らないが、キーシンが膝に手を下ろしても客席から拍手が起きず。
そのまま静かに次のモーツァルトへ。

【モーツァルト:アダージョ ロ短調 K.540】

【ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第31番 変イ長調Op.110】
この二曲も悪くはなかったのだけど(弱音の深みがよかったし、ベートーヴェンの強音部分はこの人のハンマークラヴィーアは良さそうだなあと感じた)、衝撃は前のバッハの方が大きかったかな。
しかしキーシンの演奏は独特ですね。Op.110を生で聴くのはシフ、フレイレ、バレンボイムに続いて4回目で、どの演奏でも感じた泣きたくなるような胸に迫る感じが今日の演奏では殆どなく。私の感動ポイントがことごとく違う風に演奏されていて、正直私の好みのOp.110の演奏とは違ったけれど、こういう演奏もあってもいいと感じさせられました。ただキーシンがあまりに真剣に弾いていたので、聴き終わったときにはこちらはグッタリしてしまった…。
そしてこの二曲だけキーシンの唸り声が大きかったのはなぜかしら。「あんな素晴らしいバッハを弾いたのに、なぜ拍手がなかったのだろう!?」と本人は内心動揺していたのかしら、とかいらぬ想像をしてしまった

(20分間の休憩)

【ショパン:マズルカ第5番Op.7-1、第14番Op.24-1、第15番Op.24-2、第18番Op.30-1、第19番Op.30-2、第24番Op.33-3、第25番Op.33-4】
【ショパン:アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズOp.22】
いいですね〜〜〜〜キーシンのショパン
マズルカやポロネーズはショパンが故国ポーランドを思って書いた曲だけれど、キーシンの演奏からはポーランドならぬロシアの風景が見えるよう。といってもロシアの大地の風景ではなく、グネーシン音楽学校の校舎の匂いとか、生徒達のざわめきとか、温かな家の食卓とか、そういう郷愁を感じさせる音。ヴィルサラーゼのときにも感じたけれど、こういうロシアの音で弾かれるショパン、私はとても好き。
深みのある短調の音もよかったけど、軽めで可愛らしい長調の音も子供時代の情景のようなものが感じられてよかったです。
そして、Op.22が素晴らしかった。。。興奮したし、感動した。キーシンは「ほかの作曲家を凌駕して、その音楽を身近に感じるひとりの作曲家、それはショパンだ」と言っていますが、なんというか、キーシンのショパンはとても自然に聴こえるというか、彼がショパンの音楽に親しみを感じて演奏しているのが伝わってくる。
演奏後は文句なしにスタオベさせていただきました。

そして、アンコール。
【バッハ(ブゾーニ編曲) : コラール前奏曲 いざ来たれ異教徒の救い主よ BWV659】
【モーツァルト : ロンド ニ長調K.485】
【ショパン : 12の練習曲 作品25 第10番ロ短調】
【ショパン : ワルツ 第12番 作品70-2 ヘ短調】
しっとりと聴かせてくれたバッハもよかったけど(バッハ→モーツァルト→ベートーヴェン→ショパンと続いてきて最後に再びバッハの音楽を聴くと、バッハはやはり音楽の父だなあと感じる)、モーツァルトがよかったなあ!
「いわゆるモーツァルトらしい演奏」では全くないかもしれないけれど、このキーシンの演奏は個人的にとても良くて。マズルカでもそうだったけど、キーシンはこういう無垢な明るさをもった曲の演奏もとてもいいね。改めて、「音楽に正解の弾き方なんてものはないんだな」と強く感じさせられました。キーシンの演奏にはそう感じさせられる妙な説得力がある。自伝によるとキーシンのただ一人の先生だったアンナ・カントールは教え子にカントール流なるものを決して要求せず、それぞれの生徒の持って生まれた資質を大事に育てたそうですが、キーシンの演奏が非常に独特なのに説得力があるのは、そういうところに起因しているのではないかなと想像するのでした。

で、バッハ、モーツァルトと続いたので「このままベートーヴェン、ショパンと今日の作曲家順で続くのだろうか?」と思っていたら、3曲目は誰の曲かわからず。帰宅してから知りました。ショパンだったのか!そういえばショパンのエチュードってこういう感じだった。これも楽しかった〜!ガシガシ弾いてるのにちゃんと丁寧で、でもしっかり音楽的で。最後のワルツはショパンだとすぐにわかりました。温かで少し寂しげな郷愁を感じさせる音色のショパン。聴き入ってしまいました。

7月に98歳で亡くなられたカントール先生に捧げられた今回の日本公演は、所沢、大阪、東京(オペラシティ)、名古屋、東京(サントリーホール)と続きます。自伝で書いていたとおり、ちゃんと間隔が3日以上空いていますね。

特設サイト”50th Anniversary エフゲニー・キーシン Evgeny Kissin”
今年は15歳で日本デビューしてから35年とのこと。



ところで。
ハイティンクの件があってから、私の愛するペライアとフレイレはお元気だろうか…と調べたところ、ペライアは変わらず復帰しておられない…。そしてフレイレについては、こんな情報が。

"ARGERICH AND FREIRE DROP OUT OF CHOPIN COMPETITION JURY"

Message from Warsaw, where the Chopin Competition begins next weekend:

Nelson Freire will not take part in the work of the Jury of the Chopin Competition due to illness. He will be replaced by Arthur Moreira-Lima, the winner of the 2nd prize in 1965, the Jury’s highest rating alongside Martha Argerich. Like Argerich, he also became the audience’s favourite.
Martha Argerich, bound by an enduring friendship with Nelson Freire, decided to be with him in this difficult time. Therefore, she will not play at the inauguration of the competition, and will not sit on the Jury, where she was a member in the two previous editions of the competition.
Slipped Disc, September 24, 2021)

「フレイレが体調不良のためショパンコンクールの審査員を辞退した」と…。そして「アルゲリッチはこの困難なときにフレイレと共にいることを決意し、自身もコンクールの審査員を辞退した」と…。
私はコンクールのニュースには関心が無いので、フレイレがそんなことになっていたなんて知らなかった…。
上記記事では"due to illness"の部分には2019年の散歩中に転んで骨折した例のニュースにリンクが貼られてあるけれど、手術してから2年もたっているのにどういうこと…。アルゲリッチがショパンコンクールの審査員よりもフレイレの傍にいることを選ぶような、そういう状況下にフレイレがあるということ…?

キーシンとは全く違う弾き方だけど、大好きなフレイレのショパンを。

Chopin - Nelson Freire & Ernest Bour (1971) - Andante spianato et Grande polonaise brillante, Op.22

こちらもフレイレからしか聴けない音です。1971年というとキーシンが生まれた年の録音ですね。フレイレが27歳くらいのときの演奏。
ご快復を祈ります。また日本であの音を聴きたいなんて贅沢は言わないから(もちろん聴きたいけど!)、どうかお元気になられますように。。。

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