風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

「タイパ」の真逆

2023-02-27 14:06:36 | 




「タイパ」という言葉が若い人達の間で流行っているそうで。
私はというと、「タイパ」の真逆のものにいつも魅かれているように思う。
一見意味のないもの、役に立たないもの、無駄に思えるものに魅かれてしまう。
私の好きな星野道夫さんの言葉を、改めてご紹介します。
正解はないけれど、こういう世界や時間の感じ方もあるんだよと、今の若い人達にも知ってもらえたらと思う。





人間の世界とは関わりのない、それ自身の存在のための自然。
アラスカのもつその意味のない広がりにずっと魅かれてきた。
(「旅をする木」)


結果が、最初の思惑通りにならなくても、そこで過ごした時間は確実に存在する。
そして最後に意味をもつのは、結果ではなく、過ごしてしまった、かけがえのないその時間である。

頬を撫でる極北の風の感触、夏のツンドラの甘い匂い、白夜の淡い光、見過ごしそうな小さなワスレナグサのたたずまい……ふと立ち止まり、少し気持ちを込めて、五感の記憶の中にそんな風景を残してゆきたい。
何も生み出すことのない、ただ流れてゆく時を、大切にしたい。
あわただしい、人間の日々の営みと並行して、もうひとつの時間が流れていることを、いつも心のどこかで感じていたい。
(「旅をする木」)

僕が感動したのはきっとオオカミではなく、それをとりまく空間の広がりだった。
今なおオオカミが生き続けてゆくための、その背後にある、目に見えない広がりだ。
だからこそ風景は、たった一頭のオオカミやクマで、ひとつの完成された世界をみせてくる。
(「風のような物語」)

今の世の中は、急いで旅をしようと思えば、わずか一日でさえ世界一周が出来る時代です。世界は狭くなったと人は言います。しかしアラスカを旅しながら感じることは、やはり世界は広いというあたりまえの思いです。さまざまな人々が、同じ時代を、そしてかけがえのない同じ一生を、多様な価値観の中で生きています。少しでも立ち止まることができれば、アラスカであれ日本であれ、きっとそこに見えてくる風景は同じなのでしょう。
(「イニュニック [生命] ― アラスカの原野を旅する ―」)

Life is what happens to you while you are making other plans.(人生とは、何かを計画している時に起きてしまう別の出来事)
(「イニュニック [生命] ― アラスカの原野を旅する ―」より。星野さんの友人のブッシュパイロット、シリア・ハンターの言葉)


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ラファウ・ブレハッチ ピアノ・リサイタル @サントリーホール(2月25日)

2023-02-26 03:49:49 | クラシック音楽




ショパン:ノクターン ヘ短調 Op.55-1
ショパン:4つのマズルカ Op. 6
ショパン:ポロネーズ第7番 変イ長調 Op.61「幻想ポロネーズ」
ショパン:2つのポロネーズ イ長調・ハ短調 Op40
ショパン:ポロネーズ第6番 変イ長調 Op.53「英雄」
(20分間の休憩)
ドビュッシー:ベルガマスク組曲
モーツァルト:ピアノ・ソナタ第11番 イ長調 K.331「トルコ行進曲付」
シマノフスキ:12の変奏曲 Op. 3
ショパン:ワルツ第7番 Op. 64-2(アンコール)
ショパン:24の前奏曲第7番 Op. 28-7(アンコール)

シャン🐼が21日に中国に帰ってしまい、中国到着時に雅安に行くトラックに積まれるときの怖がって鳴き叫んでいる様子をずっと現地のライブで見ていたから心配で心配で・・・。翌日に帰ったアドベの永明さん🐼達は帰国時も落ち着いていて、すぐに基地での元気な様子が公開されたけど、シャンはそういう続報の映像が一切なく、行き先も彼らと違うから、一体いまどういう状況にいるのか・・・。上野にいた時から環境の変化に弱い繊細すぎる子だったから、心配でたまらない・・・。上野からの情報は、タケノコ〇キロ食べたと中国側から聞いている、とかそんな曖昧な情報ばかりだし。
悲しいことばかりがあったこの数年間、あんなに私達に幸せをくれた子なのだから、絶対に幸せになってくれなきゃいけないのに。人間達だけが一方的に幸せをもらってしまって、こちらからはあの子に何も返せないどころか今は苦しい思いをさせてしまっているのがただただ辛い・・・。頑張って乗り越えてほしい・・・。動物にこんな辛い思いをさせるしかないのなら、🐼に限らず人間の都合による動物園間の長距離移動は一切やめるべきと思う。キリンのひまわりちゃんも本当に可哀想だった。それで一生パンダやシロクマや象やキリンを日本で見られなくなったとしても私は全く構わない。

と情緒不安定な状態が続くここ数日のワタシですが、チケットを買ってあったので、気分転換も兼ねてサントリーホールへ(その道中も上野と中国の情報をチェックしつつ。google翻訳様様)

当初発表されていた曲順(上のチラシの曲順)はショパンが休憩前後に分かれていて、さらにラストが英雄ポロネーズで、なんかしっくりしないなと思っていたので、会場で曲順の変更を知ってほっとしました。
うん、変更後の方がずっといい。

ブレハッチの名前だけは知っていたけれど、聴くのは初めてです。
いやあ、新鮮。
殆どクセがないので薄味といえば薄味だけど、こういうのもまた「ピアノ」だよなあ、ということを思い出させてくれる演奏というか。知らず凝り固まっていた「ピアノ感」がデトックスされるような。
ロシア系ピアニスト達のように魔法のような音色を出すわけでも、スケールが大きいわけでも、温かく歌うわけでも、色彩豊かなわけでも、技巧で圧倒させるわけでもなく。
強音も重い低音もないんだけど、音色の「気品と華やかさと暗さのバランス」が、なんだかとてもポーランドぽくて、ショパンぽい。(ちなみに音の色はちゃんと見えた。)
そんな”いわゆるショパンぽい”演奏を「新鮮」と感じるのは、こういうショパンらしいショパンを弾くピアニストが意外に少ないからだと気付く。
同じポーランド人だけど、ツィメルマンのショパンとも違う。
ポリーニとも、フレイレやアルゲリッチとも違う。ポゴレリッチとももちろん全然違う。
でも、こういうショパンもとてもいいと感じました。特にOp.40、よかったな。
幻想ポロネーズは、先日のポゴレリッチの素晴らしい響きが耳に残ってしまっていて、あまり入り込めず…。
マズルカのリズムは、ツィメルマンのマズルカを聴いたときと同じ感覚を覚えました。「舞踊的というのともちょっと違う、クラシックにジャズを少し混ぜたような重めの品のあるリズム感」「自分がいまショパンの時代にいて、その音楽を聴いているような感覚」とは、ツィメルマンのマズルカを聴いて私が書いた感想。、、、ってツィメさんのリサイタルの日も、私はシャン🐼を見に行っていたんだな…。

ドビュッシーの「月の光」、美しかった。柔らかな月の光が見えた。体温がありすぎない、でもほどよく温かみのある光。私はやはり太陽よりも月の光の方が落ち着くなと思いながら、聴いていました

意外だけど感銘を受けたのが、モーツァルト
ブレハッチの弱音ってとても美しいのだけど、個人的にはもう少し芯のある響きの弱音の方が好みではあるのだけど。押しつけがましさが全くない、でもちゃんと意思を感じさせる、純粋で美しい音のモーツァルトに、今夜は疲れている心がとても癒されました。
3楽章も、ブレハッチの音でトルコ行進曲ってどうなんだろう?と思っていたら、綺麗な透明感のある音で弾かれるこの曲、とってもよかった。シフや光子さんやバレンさんのような”モーツァルトぽさ”はないけど、こういうモーツァルトもいいね。

最後のシマノフスキも、コッテリ系の演奏ではないけれど、暗さと甘さと軽みのバランスがとてもよくて。シマノフスキって本来はこういうものなのかもと感じさせられました。

アンコールのOp. 64-2も、以前マツーエフで聴いたロシアぽいそれと全然違い(あれもとてもよかったですが)。ここでもブレハッチの音の気品、華やかさ、甘さ、暗さのバランスに、やはりポーランドぽさ、ショパンぽさを感じました。好きだなあ、この演奏。ついでに、か細い外見もショパンぽい

というわけでブレハッチ、とてもいいピアニストだなと感じたのだけれど、敢えて言うなら、その丁寧さと美しさを保ったまま、あともう一歩だけ突き抜けた演奏をしてほしいとも感じてしまった。タイプは違うけれど、シフがそういう演奏を聴かせてくれるように。贅沢な注文だろうか。
ステージマナーもその演奏と同じく謙虚で誠実そうで、好感がもてました
そしてうまく言えないのだけれど、こういう演奏をするピアニストがいることに「西洋の良心」のようなものを感じたりもした。シフにしてもツィメルマンにしても、アンデルシェフスキもそうだけど、東欧ならではの何かだろうか、とも。大国に脅かされ続けた、今も脅かされ続けている彼らの国々の歴史に思いを馳せつつ、それはそのままウクライナの現状にも繋がり。日本もいつまで他人事でいられるか…。

twitter情報によると、客席にはツィメさんご夫妻がいらしていたそうで(RBの最上段とのこと)。どちらもジャパンアーツ所属ですね。
今年も日本で冬を過ごしているんですね
ショパコンで優勝したときにツィメさんが色々今後のアドバイスをくれたとブレハッチがインタビューで言っていたのを読んだことがあります。面倒見よさそうですもんね、ツィメさん
そして演奏会で客席のツィメさんと一緒になるのはもう何回目だろうか。ポリーニのときと、シフのときと、ゲルギエフ&マリインスキー&真央君のときと、今回で4回目?他にもあったかも。



今夜は懐かしいポーランドの風を感じさせてもらえました。
でも今のワルシャワはきっとこんなのんびりした空気ではないのだろうな…。



Chopin: Polonaise No. 3 in A Major, Op. 40, No. 1 'Military'

Chopin: Polonaise No. 4 in C Minor, Op. 40, No. 2

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NHK交響楽団 第1978回定期公演 Cプロ @NHKホール(2月11日)

2023-02-14 23:06:31 | クラシック音楽




土曜日は、フルシャ&N響を聴いてきました。
3日連続はさすがにちょっと疲れたけど(詰め込みすぎた…)、聴きに行ってよかったです。素晴らしかった。
ソヒエフにフルシャに、クラシック音楽の未来は明るいですね

今回の2曲はどちらも「Symphonic Dances」。そして「アメリカで書かれた」という共通点からなるプログラミングが、思いのほか面白かったです。

【バーンスタイン:「ウエスト・サイド・ストーリー」からシンフォニック・ダンス】
ミュージカル『ウエストサイドストーリー』からの抜粋ですが、今回それをオーケストラの演奏で生で聴いて、数年前にラトル&ロンドン響で聴いた『不安の時代』と共通した響きを感じました。
これまでバーンスタインのミュージカル作品とクラシック作品の共通点を意識したことはなかったのだけれど、今回、「バーンスタインが作る響きの個性」というものが確かにあるのだなあと実感しました。
そういえば『不安の時代』の舞台も、ニューヨークだったな。
いいですねえ、作曲家バーンスタイン。
マンボ!は奏者さん達ちゃんと元気よく叫んでた

【ラフマニノフ:交響的舞曲 作品45】
私はこの曲を初めて聴いたのですが、素晴らしい曲ですね。
最後にこんな音楽をロングアイランドで作っていたのだなあ。こんなに故郷ロシアを感じさせる音楽を。
そのラフマニノフの心境を想像すると胸が苦しくなりますが、でももし彼がロシアに留まったままであったなら、この名曲は生まれなかったろうと思う。
芸術作品が作者の幸不幸とは別のところで生まれるのは当然ではあるけれど、そうして生まれた音楽を私が週末の昼に呑気にNHKホールで楽しませてもらっているのかと思うと、いい加減に聴いてはいけないような気持ちにもなりました。
もちろんそんな風に感じさせられたのは、フルシャ&N響の演奏が素晴らしかったからこそですが。

N響はあいかわらず凄く上手いのだけれど、これで音に色気さえあればなぁ…惜しいなあ…と感じながら(←私が日本のオケ全般に関して最も残念に思う部分)しばらく目を閉じて聴いていたら、不意に色気のあるヴァイオリンの音が
ん?と目を開けて確かめたら、ニューコンマスの郷古さんでした。N響の未来は明るいかも。

開演前の室内楽ミニコンサートは、チャイコフスキーの「弦楽六重奏曲 ニ短調 作品70『フィレンツェの思い出』より第1楽章』」。素晴らしい演奏でした

※ロングアイランドというと、私にとってはフィッツジェラルドの『華麗なるギャツビー』なのですが。
調べてみたら、ラフマニノフがロングアイランドで交響的舞曲を作曲したのは1940年で、フィッツジェラルドが亡くなった年なんですね。
ラフマニノフはその3年後の1943年に亡くなっていて、亡くなった場所はどちらもロサンゼルス。
年齢的には、フィッツジェラルドの方がずっと若く亡くなっています。
フィッツジェラルドが『華麗なるギャツビー』の最初の3章を執筆したロングアイランドの邸宅が388万8888ドル(約4億7000万円)で売りに出されているという2015年の記事を見つけました。素敵な家
そしてこちらは、フィッツジェラルドが住んでいたミネソタ州のヴィクトリア様式の家で、1919年にここで『楽園のこちら側』が書かれたそうです。この家も素敵



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ダニール・トリフォノフ ピアノリサイタル @サントリーホール(2月10日)

2023-02-13 22:38:45 | クラシック音楽




チャイコフスキー:子供のためのアルバム Op. 39
シューマン:幻想曲 ハ長調 Op. 17
モーツァルト:幻想曲 ハ短調 K. 475
(20分間の休憩)

ラヴェル:夜のガスパール M. 55
スクリャービン:ピアノ・ソナタ第5番 Op. 53
J.S.バッハ(M.ヘス編):コラール「主よ、人の望みの喜びよ」BWV147(アンコール)


9日に続き、10日のサントリーホール公演に行ってきました。
両日とも、kajimoto恒例、演奏前のご本人アナウンスがありました。
ただポゴレリッチのときのような耐震構造の案内ではなく、「こんにちは、ダニール・トリフォノフです。今日皆さんのために演奏ができてとても嬉しいです。楽しんでいただけますように」という簡潔な内容でしたが。
トリフォノフって声が若々しいんですね。いや実年齢も若いんだけど(31歳)、達観したような風貌だから
客席には、社長の隣に奥様らしき方の姿がありました。

今夜もピアノはファツィオリ。
だけど昨夜よりも音がまろやかというか、私が知っている他メーカーのピアノに比較的近い響きに感じられました。
ホールと席が変わっただけでこんなに音の印象が変わるものだろうか?と不思議だったのだけど、kajimotoのtwitterによると「今夜は曲に合わせてピアノを変えるかも?」とのことだったので、変えたのかも。
ただ今夜も「音の色」が薄めなことは同じでした。

チャイコフスキーの「子供のためのアルバム」、初めて全曲通して聴いたけど、温かくていい曲ですねえ。「四季」にしても、チャイコフスキーはこういう小品もとてもいいな。
ただトリフォノフの演奏は、予習で聴いたプレトニョフや、「四季」が素晴らしかったヴィルサラーゼのそれとは異なり、やはり音色のロシア味は薄い。
あまり音が語らないというか、歌わないんですよね。音の体温が薄めというか。
もっとも、トリフォノフ独特の個性のようなものは、わかりました。
たとえば「人形のお葬式」→「ワルツ」のガラリとした空気の変化とか、「ナポリの踊り」のような演奏と(上手いなあ!これ聴くとバレエ観たくなる)、「ママ」や「甘い夢」のような演奏の二面性とか。
ファツィオリって鍵盤が軽いのかな。「ナポリ」の終盤、ピアノであれほどの同音連打ってできるものだろうか。楽しかった これを聴いて後半の「スカルボ」が楽しみになりました。

続いて、シューマンの「幻想曲 Op. 17」と、モーツァルトの「幻想曲 K. 475」
どちらも決して悪くはない。悪くはないのだけれど。
フレイレやヴィルサラーゼで聴いた表情豊かなシューマンの同曲や透明感のあるモーツァルトの同曲の演奏と比べてしまうと・・・。
過去に聴いた名演と比べても、それと異なる個性で感動させてもらえることって沢山あるじゃないですか。だから演奏会に通い続けるわけだけれど、この2曲では私はトリフォノフからそういうものはもらうことはできず・・・(素人がエラそうに本当にすみません)。
そういえば私は気づかなかったけれど、今日のモーツァルトでも暗譜がとんでいたそうで。ツィメさんやポゴさんのように楽譜を使えばいいのにねえ

休憩を挟んで、ラヴェルの「夜のガスパール」
「オンディーヌ」と「絞首台」は、ごめん、やはり大好きなポゴレリッチのそれと比べてしまうと「悪くはない、悪くはないのだけれど・・・」状態で聴いてしまった。。。
「オンディーヌ」の水の音とかすごく綺麗で、ファツィオリと合ってるなあとは感じたけれど、ポゴさんのを聴いたときのように胸が苦しくなるような感覚はなく。
「絞首台」も同様で、この曲に欲しいあの独特の暗さがなく。
結局、ここまでは「フレイレはトリフォノフのどこにそれほど惚れ込んだのだろう」と、このピアニストの魅力がわかるようなわからないような、だったのだけれど。

「スカルボ」。
いやあ、凄かった。。。。。
これにはポゴレリッチのガスパールが大好きな私も、感動しました。
なんだあの音のコントロール、というかコントロールさえ意識せずに弾いてる感じ。トランス状態というか憑依系というか。
素晴らしいテクニックなのにそれをひけらかそうという意識は感じられず、彼の中に流れている音楽が聴いている側に直接的に伝わってくるような。
トリフォノフ、こういう演奏をさせると無敵ですね…

演奏後は本人も満足そうに袖に引っ込んで、すぐに戻ってきて、前曲の勢いのままスクリャービンの「ソナタ5番」
彼の十八番なんだろうな、ということがよくわかる演奏でした。
何も言うことないです。こんな弾き方なのに、不自然さはゼロ。鍵盤を見ていてもどうやって弾いてるんだか全くわからん。
彼の中に流れている音楽がほぼ同時にピアノの音となって表れているような。
こういう「血」で弾いている感じ、フレイレを思い出すな…。
こういう自在な音の演奏を聴けるのって、すごく貴重です。

しかしファツィオリってこんなにしっかり鳴るんだねえ。そしてどんなに強音でも音が濁らない。
今はまだ決して好きなピアノとは言い難いけれど、このピアノ独特の良さがあることは理解できた気がしました。

今日は客席のマナーもとてもよくて、本人も満足そうだった(袖に帰るときに表情がよく見える席だったので)。サントリーホールがあそこまで静謐になるとは。
アンコールは「主よ人の望みの喜びよ」を弾いてくれないかなあ、絶対合うと思うの、と思っていたら、弾いてくれました
今夜はアンコール仕様なのか、昨夜よりもゆったりと静かな静かな音で奏でられました。
クールダウンのように弾かれた、祈りのような、鎮魂のような、静かで崇高で優しい響きのバッハ。美しかった。。。今夜聴きに来て本当に良かったです。
そしてスクリャービンの後にこの音楽がこれほどしっくりくることに、改めてバッハという作曲家の懐の深さを感じました。

そうそう、今夜はP席をすべて空席にしていました。
時々こういう演奏会に出会うけれど、どういう理由によるのだろう

トリフォノフ、日本でのソロリサイタルはなんと8年ぶりだったとのこと。
次回はそれほど遠くなく来日して、今度はショパンを弾いてほしいな。
フレイレは「最近の若い人達はショパンは速く強く弾けばいいと思っている」と不満を述べていたので、トリフォノフのショパンはそうではないということだろうか。聴いてみたいです。

※2023.1019追記:
ファツィオリジャパン代表取締役の方が、ファツィオリの音色の特徴について話されている記事を見つけました↓。
これを読んで、私がファツィオリを苦手な理由って、この透明感なのかも、と。
人間でも世の中でも、純化させすぎる傾向が苦手で、汚い部分や雑味もある方が自然の姿じゃないか、と感じてしまうんです。
だから、こういう雑味が整理された純化された音に無意識に抵抗を感じてしまってるのかも。
じゃあなぜ主よ人の望みの喜びよはあんなに良かったのだろう?と思い返すと、すごく純粋に美しく聴こえたんですよね。静かに祈るような音でした。
そういう雑味のない純粋に美しい部分も、やっぱり人間の一部じゃないですか。普段表には出ていなくても。
そういう部分だけを掬い上げられる良さは、ファツィオリの美点なのかも、とも。

──メーカーによってピアノの音色が違うと伺いました。ファツィオリの音色は、どんな特徴がありますか?

「音楽の特徴」という言葉はあまり好きじゃないけれど、一番良いところは「非常に透明なクリアな音」です。技術的な説明は別として、一般の人にもピアノの音のクリアさがすぐに感じられるピアノです。

──音が澄んでいるということですか?

いちばん有名なピアノメーカーはスタインウェイですね。スタインウェイは、倍音(※ある音に共鳴・不随して同時に出ている音のこと)がいっぱいある。ヤマハのピアノも倍音が非常に多いですが、ファツィオリは倍音を非常に整理しています。緻密な造り方をしていることで、余分な倍音を整理し、濁らない非常にクリアな音を可能にしています。演奏の時に、多くのピアノはたとえるなら“雲みたい”な感じがありますが、ファツィオリは一音一音が別々の粒のようです。演奏すると、よくわかると思います。

(ジャズやポップスのピアニストも支持!新興ピアノメーカー『ファツィオリ』人気の秘密)







Nelson Freire: Robert Schumann - Fantasy in C major, Op. 17 (1983)
フレイレのシューマンの幻想曲。
フレイレのピアノだけが感じさせてくれるこの空気、もう二度と体感することはできないのだな。。

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ダニール・トリフォノフ ピアノリサイタル @東京オペラシティ(2月9日)

2023-02-13 00:43:10 | クラシック音楽



J.S.バッハ(ブラームス編):シャコンヌ BWV1004
J.S.バッハ:フーガの技法 BWV1080(全曲)
(*コントラプンクトゥスXIIとXIIIは基本形と転回形を両方、またXIVはトリフォノフによる完成形を演奏)
J.S.バッハ(M.ヘス編):コラール「主よ、人の望みの喜びよ」BWV147
C.P.E.バッハ:ロンド ハ短調 wq.59-4(アンコール)
W.F.バッハ:ポロネーズ第4番 ホ短調 F12-4(アンコール)


以前フレイレがインタビューで好きな若手ピアニストを質問されて「トリフォノフのショパン」と答えていたのを読んで以来、いつか聴いてみたいと思っていたピアニスト。
今回は残念ながらショパンは聴けませんでしたが、9日の東京オペラシティと10日のサントリーホールの両公演に行ってきました。
まずは9日の感想から。

本日はオールバッハプロ。
何よりまず、冒頭から私の知っているピアノの音(スタインウェイ、ベーゼンドルファー、ヤマハ、カワイ)と全く違うことに戸惑いました。どこのピアノ??と。
3階席からはメーカーの文字までは見えず、今回も休憩時間に一階まで降りて確かめたところ
「FAZIOLI(ファツィオリ)」
名前だけは知っていたけれど、こんなに個性的な音のピアノだったとは。。。
チェンバロぽいというか、純正律ぽいというか(←専門知識皆無の素人の勝手なイメージです)。
和音になっても音が混ざらず、各音がどこまでも真っすぐに届くような。
記憶が遠くなってきているけど、バレンボイム・マーネの音に少し近いかも。
ただ異なるのは、ファツィオリからは「音の色」が全くと言っていいほど見えないこと。
その点では、ファツィオリとファツィオリ以外に分けてもいいくらい、他のメーカーと違うように感じる(あ、ベヒシュタインは未聴です)。
もしこれがピアノの個性ではなくトリフォノフの個性なのだとしたら、ロシア系のピアニストでは非常に珍しい。彼の師匠のババヤンは、音の色がはっきり見えるタイプだったのだけれど。
今日の演奏、アンデルシェフスキのときと同じくらい色が見えませんでした。
でもなんとなく今回は、ピアノのせいが大きいような気がする
この答えはトリフォノフが別のメーカーのピアノを弾くのを生で聴ける機会がくるまで、おあずけかな(私の場合はネット配信だと色が見えにくいので)。
帰宅してから知りましたが、トリフォノフはファツィオリを好んで弾くピアニストなんですね。ショパコンでも、過去の来日公演でもそうだったと。

今日はこのピアノの音の個性に耳が慣れるまでに時間がかかってしまい、というよりも最後まで慣れたとは言い難いけれど、初めて聴いた「シャコンヌ(ブラームス編)」、とてもよかった。左手だけで弾いていること、全く忘れて聴いていました。昨年ババヤンで聴いたブゾーニ編のような華やかさはないけれど、素朴で誠実な感じのこの編曲、私はとても好き。バッハ、ブラームス、シャコンヌと私の「好き」が勢ぞろいしているので、好きじゃないわけがないですが。

シャコンヌから拍手を挟まずに「フーガの技法(全曲)」へ。
なんとこれも暗譜。
どういう頭の構造してるんだろう。私なら順番を間違えたり、一曲とばしたりしちゃいそう。と思いながら聴いていたら、途中で暗譜が少しとんだ(主題が不自然に崩れて、しばらく音が彷徨っていた)ように聴こえたのだけれど、気のせいだろうか
聴き慣れてる曲ではないので自信ないけど、一応自分用覚書として書いておきます。
いずれにしても、今日のトリフォノフはあまり本調子ではないような印象を受けました。
※追記:この曲に詳しいトリフォノフのファンの方が「11曲目で半端に休憩が入ったのが悪かったのか、13曲目で暗譜が怪しくなり、14曲目のコラール部分は丸々すっ飛んでいた」とツイートされていました。

また今日の演奏は、抑制的というか客観的というか、聴く者が高揚感を覚えるような感じの演奏ではなく。静かな高揚感という感じもなく。
これがトリフォノフの個性なのかな?とこの時は思ったのだけど、翌日のサントリーホールでの彼は別人二十八号だったのでありました(その感想は改めて)。

一度舞台袖に引っ込んでから弾かれた、本編最後の「主よ人の望みの喜びよ」。個人的には、この曲が最も今日のトリフォノフとファツィオリの魅力が出ていたように感じられました。
どこまでも純粋な響きの音がまるで教会にいるようで、とても美しかった。
この曲も、フレイレが来日で弾いてくれた曲だったな。フレイレ、「これからは沢山バッハを弾きたい」って言っていたのにな。。。

アンコール2曲は「バッハぽいけどバッハぽくない。誰の曲だろう?」と思っていたら、バッハの子供達の曲だったんですね。とても美しい演奏でした。
今日の本編の曲とともに、トリフォノフのアルバムに収録されているそうです。

ところでトリフォノフって、演奏を終えると、最後の響きがホール内で消えきるかどうか微妙なうちにすぐに立ち上がってしまうんですよね・・・。聴く側としてはもう少し余韻がほしいところです・・・。
意外と気難しいピアニストなのかも、とも。



Daniil Trifonov – Bach: Cantata BWV 147: Jesu, Joy of Man’s Desiring (Transcr. Hess for Piano)
ここではスタインウェイを弾いていますね。

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タンホイザー @新国立劇場(2月4日)

2023-02-09 09:39:51 | クラシック音楽




オペラに嵌ると破産するから近寄らないようにしていたのだけれど、、、もう手遅れみたい
新国立劇場の『タンホイザー』に行ってきました。
初ワーグナー全幕です

なによりまずワーグナーの音楽の美しさが強烈だった。。。
ワグネリアンさん達の気持ちが心底わかりました笑。
予習で別プロダクションのものをネットで観てはいたけれど、劇場で生であの響きに包まれるとヤバイですね。
あの和声の層の美しさ、ブルックナーがワーグナー派に属していた理由が初めてわかった気がしました。今までワーグナーは抜粋演奏では聴いたことがあったけれど、こんなに和声の色合いを感じたのは今回が初めてです。これまで聴いたのは、どちらかというと押し出しの強い演奏だったので。
ブルックナーと同じで、生で浴びたくなる中毒症状が発生しますね。
ワーグナーの方が音楽に毒が濃いので、より危険かも(いやむしろ毒が薄いブルックナーの方が危険かも)。
でもこの毒もワーグナーの魅力ですね。人間臭くて大変よいです。たまらなく美しかった。
ライトモティーフ(序曲だけで予習できるの有難い)も危険ですねえ。帰宅後も耳の奥で美しい音でぐるぐる鳴り響いている。。。

アレホ・ペレスさん&東響も、ワーグナーの音楽の美しさを丁寧に作り上げていて、騒々しい演奏よりも清澄さと神聖さが感じられて、私は好感度大でした(先日の東響の『サロメ』の演奏を思うと特に一幕はもうすこし突き抜けてくれてもいい気もしましたが、後半はとてもよかったので、全体的には十二分に満足です)。
歌手陣も、合唱も素晴らしかった。当たり前ですが、皆さん歌上手いですねえ!役柄にもよく合っていました。個人的にはエリーザベト役のサビーナ・ツヴィラクの気高さが、2幕後半~3幕にかけて、その演技も含めて深く感動しました。神々しかった。タイトルロールのステファン・グールドも、よかったです(歌上手い~)。

舞台装置もシンプルでよく工夫されていて、悪くなかったように思います。ヴェーヌスの部屋の構造と使い方だけは笑いそうになりましたが・・・。読み替え演出じゃないのも嬉しい。冒頭のバレエ部分はちょっと冗長に感じられました。

ストーリーも感動しました。ワーグナーの音楽効果とともに。
あのラストは、ローマ教会はタンホイザーを救わなかったけれど、神(=エリーザベトの愛)は彼を救った、ということですよね。
「教会の説く神」と「本当の神」は異なるものだという教会批判を含んだ宗教観は、ユゴーの『レ・ミゼラブル』のそれとよく似ているなと感じました。もっともこれはおそらく、あの時代の芸術家達の多くに共通した価値観だったのだろうと想像します。
ユゴーは「神の本質は、愛すること」であると言い、遺書の中で「私は教会での祈りはすべて拒絶する。すべての人々の魂のために祈ってもらいたい」と書いていました。
最も罪深い人こそ最も救われなければならないのに、教会はその根本的なことを忘れ、タンホイザーを冷酷に切り捨てる。2幕でエリーザベトが言う「なぜあなた方は彼から贖罪の機会を永遠に奪おうとするのか」「主が苦しまれたのは、彼のような人も救うため」という言葉は、ワーグナーによる教会批判の現れですよね。巡礼者達の「信仰に”忠実”なものに祝福あれ」という歌も、ワーグナーによる皮肉でしょう。
あの場にいた人達の中でエリーザベトだけが、真の神の姿を見ていたのだと思います。

そのように捉えると、「彼のために命を捧げよう」と決めた時点で(このプロダクションでは二幕のこの歌唱はカットされているようだけど、歌手の演技から十分に伝わってきました)、エリーザベトの心はもはや利己的な”恋”ではなく、より大きな利他的な(キリスト教的な)”愛”に変わっていたのではないか、と。二幕最後でタンホイザーが脱いでいった青い衣を胸に抱く姿は、聖母マリアの象徴のように見えました。
おそらく第三幕の彼女は、相手が恋人でなくても、現に苦しんでいる人がいて、自分がその人の魂を救うことができるのなら自ら命を捧げるのではないか、とも感じました。
史実の聖女エリーザベトもそういう強さをもった人だったようで、残されたエピソードを読むと、レミゼのミリエル司教のような人だなと感じます。優しいだけではない、社会や権力に惑わされず弱者への愛を貫く頑固さも持った人。

しかしそうして毅然と去ったエリーザベトも、決して平気なわけではなかったと思うので、ヴォルフラム(デイヴィッド・スタウト)が夕星の歌で「高みへ飛ぼうとしている姫ではあるけれど、こんな闇夜では心細いだろう」と歌ってあげる男性的な優しさには、ほろりとしてしまいました。。。。
あの星が金星であるなら(ワーグナーがそう書き残しているのでしょうか?)、それはヴェーヌスの星ということになるけれど、そのことは何を意味しているのだろう。エリーザベトに恋をしているヴォルフラムもまた、内心の葛藤に苦しんでいた、という暗喩なのだろうか。タンホイザーも、エリーザベトも、ヴォルフラムもみんな、社会との、そして自身との闘いに苦しんでいる。
私の隣の高齢の男性、三幕のエリーザベトの場面でボロボロボロボロ泣いていて、鼻をすすりっぱなし、タオルで目をぬぐいっぱなしでした。わかる~!と共感しつつも、あそこまで隣で泣かれてしまうと、こちらは泣けなくなってしまいました。何か辛い罪悪感を抱えた人だったのだろうか…。
ワーグナーとユゴーは私生活が問題児なところも似ていて、同じ女性と浮名を流したりもしていたそうで。でもそういう自己矛盾や葛藤を抱えた彼らだからこそ、こういう作品が書けたのでしょうね。タンホイザーが最後まで自身の中の悪魔と闘っている人間臭さも、ジャン・ヴァルジャンの姿に重なります。

タンホイザーが救われたのは、エリーザベトの祈りが神に届いて神が彼を救ったからというよりは(歌詞ではそうなっているけど)、エリーザベトの愛と行動そのものが彼の魂を救ったようにも思えるな。「神の本質は、愛すること」と言ったユゴーの言葉のように。
このときのヴォルフラムの演技がとてもよかった。芽吹いた教皇の杖を手に巡礼者達が「彼にも救済が与えられた!」と歌う声を聴いて嬉しそうにタンホイザーを振り返ると、タンホイザーはすでに息絶えているんですよね。それを見て一瞬驚くけれど、それから静かに、悲しいけれど全てを理解したような表情で舞台袖へ去っていくところ、感動しました。あの芽吹いた杖も、ワーグナーによる一種の皮肉ですよね。教皇の言葉に反する奇跡を神が起こしたのだから。

タンホイザーがヴェーヌスの山にいた事は、現代日本人の私達からすると「それってそんな大層な罪…?」と思っちゃうので(売春宿に入り浸る男的な…?)、「とにかくとんでもない重い罪を背負っている人」と捉えた方が物語には共感しやすいように感じました。
なお歌合戦でのタンホイザーの主張は現代の我々からすると「どこが悪いのん?」と一瞬思ってしまいそうになるけれど、よく聴いていると「快楽”のみ”が愛の本質だ」と言っているのですよね。それはアウトだわ。他の男達の綺麗事すぎる歌も魅力に欠けるけれど。

以上、ワーグナーのオペラの中では一番わかりやすいストーリーのようなので(もっとも、キリスト教徒以外にはそれほどわかりやすいストーリーという感じもしませんが…)、ワーグナー入門としてよかったと思います。時間も長くないし笑。でも”あの音”に身を浸していることができるなら、どんな長時間でも、それこそヴェーヌスの山にいるタンホイザーのように快楽に漬かりきることができそうな気もします。新国のあの座布団、有難いですね。歌舞伎座にも欲しい。

※こんなCDを見つけました。
ヴィクトル・ユゴー詩による美しい歌曲」、「ワーグナー歌曲全集
サン=サーンスはユゴーを非常に尊敬していたそうですね。
ワーグナーもユゴーの詩にいくつも曲をつけているけれど、ユゴーに対する評価はどうだったのだろう。パリで身を立てたいがためにユゴーにおもねっていた、とかもあり得そうな気もする。ショパンはユゴーをボロクソに言ってましたよね。主に彼の所業に対してですが

※ネルソンスの最新インタビューを読みました。
キリスト教徒にとっては第一幕のヴェーヌスの山での乱痴気騒ぎと色欲は非常に非常に罪深いものなのだと(彼らが異教だからという意味ではなく)。そうなのか・・・。確かに七つの大罪のうちの一つですものね。
タンホイザーのラストについては彼も、ワーグナーによる教会批判だと思う、とのこと。

Andris Nelsons You're right. I mean, this opera has a very special meaning to me because my parents took me to the opera house when I was five years old and it was Tannhäuser. And the other thing, which also was a very important part, that my parents, they really prepared me for that. I mean, we are listening [to] LPs with the opera. So I knew the story. My father told me the story, so I was prepared. I knew the opera, except I just had to go to the opera itself and experience it live. And so I went very ready to hear and experience certain things. But still, what I experience it live in the opera, that was something I would never have expected. But that's the same, I think, because when we listen to the recording, it's a wonderful opportunity to listen and enjoy and to compare the recordings. But there is nothing can substitute the live experience and live performance.

And it's either symphonic music or opera. I mean, in this case it was Tannhäuser for me, even though I knew the story, even I knew it's going to end bad, I was still crying and I was still hoping that things would change in this case. Better for, not better, actually, but as a kid of course, the people dying, you know, on stage. The opera was very sad. And also the tears of happiness in a way that there is a forgiveness that we can be forgiven even if we have done bad things in our lives. If we truly turn ourselves to God and ask for forgiveness, we have this opportunity.

And I think that's, this is very close for me as a Christian. It's been very close to me because it's very much connected to Christianity, even though, of course, they are in this opera, I mean, the beginning of the opera, the Overture and the Bacchanale. It's crazy. It's a lust, it's sin. Everything is really sin and sinful. And then you have death as a contrast [in the] Third Act where the pilgrims are going to Rome to ask to be forgiven. And Tannhäuser goes with them because he has been very sinful. He comes back, and he hasn't been forgiven from the Pope. And he has his monologue, which he sings to his friend Wolfram, who is an extremely nice friend, who also sacrificed his love towards Elisabeth for his friend. So then, of course, there's Elisabeth, who prays for Tannhäuser, even after knowing that he's coming from Rome, he's not forgiven, still praying. And then when Tannhäuser dies, then comes the chorus announcing that the Pope's, how do you say this...

Brian McCreath The staff.

Andris Nelsons Staff has been, how do you say...

Brian McCreath It's sprouted flowers, yeah.

Andris Nelsons ... flowers, because he said, "Unless my staff [starts] to flourish, you are not forgiven." And that happens, you know, after death [of Tannhäuser] it happens. Then, of course, the chorus sings. And in a way it's too late because he's dead. But the feeling is the goose bumps. You want to cry because it's sad, but it's so beautiful that you know, yes, even he has God's forgiveness. So it means, in a certain sense, I think Wagner here criticizes the church. I think, as so many composers and, of course, many people, philosophers, and so... And I must say, it's nothing to do with God. It's just sometimes, you know, that, in this case, the Pope has been criticized or that, as a leader of the Christian church, you know, because he has not forgiven him. And when you read the Bible or the, you know, Jesus says, you know, you come to me with a full regret, you can be forgiven. It's just your decision. And also, he gives us a free will. And as Tannhäuser, as one of the Meistersingers, he chooses his life living in sin. But he meets Elisabeth and he decides to try to be forgiven.

The Temptations and Majesty of Wagner’s “Tannhäuser” from Nelsons and the BSO @CRB)



新国立劇場オペラ『タンホイザー』ダイジェスト映像 Tannhäuser-NNTT


『タンホイザー』指揮者 アレホ・ペレス メッセージ


『タンホイザー』タイトルロール ステファン・グールド メッセージ


『タンホイザー』ヴェーヌス役 エグレ・シドラウスカイテ メッセージ


『タンホイザー』ヴォルフラム役 デイヴィッド・スタウト メッセージ


【指 揮】アレホ・ペレス
【演 出】ハンス=ペーター・レーマン
【美術・衣裳】オラフ・ツォンベック
【照 明】立田雄士
【振 付】メメット・バルカン
【再演演出】澤田康子
【舞台監督】髙橋尚史

【領主ヘルマン】妻屋秀和
【タンホイザー】ステファン・グールド
【ヴォルフラム】デイヴィッド・スタウト
【ヴァルター】鈴木 准
【ビーテロルフ】青山 貴
【ハインリヒ】今尾 滋
【ラインマル】後藤春馬
【エリーザベト】サビーナ・ツヴィラク
【ヴェーヌス】エグレ・シドラウスカイテ
【牧童】前川依子
【4人の小姓】和田しほり/込山由貴子/花房英里子/長澤美希

【合唱指揮】三澤洋史
【合 唱】新国立劇場合唱団
【バレエ】東京シティ・バレエ団
【管弦楽】東京交響楽団








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