風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

シネマ歌舞伎 『高野聖』

2015-09-29 01:23:23 | 歌舞伎



天守物語や海神別荘と同じく、まずは本編前に玉さまのコメンタリー映像。
玉さまが鏡花を語る姿がとっても好き。3時間くらい聞いていたい

(鏡花の作品は)暗闇の中に光があって、それが次第に七色に変わり、時々その中に透明じゃないものが混じる。

今の時代に鏡花作品を上演する意味は?
天守→人間の権力
海神→人間界と異界の対比
高野→人間の煩悩
などを描いている。人間というものについて考えるきっかけになると思う。

高野聖の主人公は女のように見えるけれど、この女は真空。親仁の口を通して語られはしても、女がどういうものであるかは結局読む者一人一人の解釈に委ねられている。
高野聖は鏡花の初期の短篇で、劇化するのがとても難しい。小説そのままに描けなくても、全く同じではなくても、小説を読み終わったときに残る印象と舞台の幕が下りたときにお客様の中に残る印象が同じにできたらいいと思う。

同じでございましたよ~~~玉さま

女(玉三郎
玉さまはこういう役をやるとほんとに無双、無敵
妖しくて艶っぽくて、でも過剰な色気はなくて、ドライなの(そこが異形の者っぽいの)!
“普通の人間の世界”から外れた異端者の悲しみ(でも過剰じゃないの)と、それゆえの孤高の美しさと、魔界の者のグロテスクさと(胡坐かいて鯉で飲む魔神の姿も想像できる~)、そしてふいに見せる少女のような可愛らしさと、聖母のような慈悲深さ。
宗朝から「白桃の花だと思います」と言われたときに一瞬見せる嬉しそうな表情、よかったなぁ。年齢不詳な感じも本当に玉さまに合ってる。
私的には鏡花物の玉さまの最強はやっぱり富姫さま@天守物語ですけど(本当にもう二度と観られないのかなぁ・・・)、この嬢さまもとっても好き。
夜中の「今夜はお客様があるよ」の言い方はもう少し生々しい方が好みだったけど、仕草も表情も間(ま)もオーラもこれ以上なく完璧でございました。

次郎(片岡當吉郎
んん~それっぽい演技はしていたけれど、白痴には見えなかったなあ。理性的に見えた。原作で感じるグロテスクさ?が感じられず、ちょっと残念であった。

修行僧宗朝(獅童
僧っぽいかどうかはわからないけど、普通の「人間」ぽさがとてもよかった。天守物語の図書之助よりこちらの方がより人間ぽさが必要な役だと思うので(図書之助は美しさが必要!)。誠実で優しそうで、でも若者の煩悩もちゃんと見えて、よかったわ。暑苦しくない演技も◎でした。

親仁(歌六
配役を知らないで観に行ったので、思いがけぬ歌六さんの登場に嬉しかったぁ。
上手いなぁ~歌六さん!下手な人がやると絶対にダレるであろう後半の長台詞も聞き惚れましたよ~~~。
門之助さん(@海神、天守)にしても、我當さん(@天守)にしても、玉さまの鏡花物はよい脇が多いのぅ

映像とのコンビネーションも効果的だったと思います。だからなのか、天守&海神ほどには生舞台で観たいとは感じませんでした(天守&海神は舞台セットを生で観たくなる)。鬱蒼とした森とか蛭とかシネマで観た方が雰囲気がありそうですし、舞台ではできない寄りのカメラ効果もよかったです。

大満足。
また次回やるとき(来年?再来年?)も観に行っちゃうかも。

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谷山浩子 猫森集会2015 Cプログラム @全労済スペースゼロ(9月26日)

2015-09-27 14:23:10 | その他観劇、コンサートetc



というわけで、行ってきました初・猫森集会
私が選んだのは、Cプログラム2日目。
といってもわたくし世間に超疎いため、今回のゲスト、全員存じておりませんでした
とりあえずwikiってみたところ、小室等さんのご経歴の中に「谷川俊太郎」「中原中也」の文字をみつけ、Cプロに即決。
だがしかしそれから数ヶ月。なぜかこの組み合わせだけ、いつまでもチケットが売れ残っているではないか。AもBもDも完売なのに。そんなに人気がないのか?
・・・まあいい。売れ行きや視聴率は私の場合感動と一致しないことが殆どであるから、その法則からするとかえって期待は高まるというもの。それにギター片手のステキおじさまと可愛らしい浩子さんの組み合わせは大好物である。6月の東文でも「小室さんに8年ぶりに猫森集会に参加いただけることになりました!」ってすっごく嬉しそうに報告されていたもの。

そして迎えた本日。

よかったよぉぉぉ~~~~~
思ったとおり大好きな世界だった~~~~~
涙ポイントが何度もきちゃって、トークの度に照明が明るくなるのがわかっていたので泣かないように我慢我慢。

以下、セットリストと感想。
記憶違いがあったらすみませんm(__)m

「ねこの森には帰れない」
この会場は初めてだったので全く座席について知識がなかったのですけれど、いわゆる正面席だったようで、浩子さんの顔がしっかり見られて一安心。石井AQさんのシンセの手元もよく見えました。

「空からマリカが」
「えっと、空から女の子が降ってくる歌です^^」と一言、浩子さん。曲もシュールですけど、紹介もシュール^^; 
夜明けのひんやりする湿気や空気が伝わってきました。とてもとても美しかった。いやぁ、やっぱり生で聴くのって迫力が全然違いますね~!

「よその子」

「いつもは最後の方で歌う曲なんですけど」、と浩子さん。
早速、本日一回目の涙ポイント だって大好きなアルバム「宇宙の子供」の中でも大好きな曲で、生で聴きたかった曲トップ3に入る曲なんですもの。
浩子さんがこの曲を歌っているところを見るのはもちろん初めてでしたが、あんな表情をされて歌うんですね。なんか表情を見ているだけで泣きそうになってしまった。
歌い終わった後で浩子さん曰く途中でミスってしまったらしいのですけど、感動しすぎてて気付かなかったわ。どこだろ。窓が開いたのところ?違う?

「Puzzle」
てんかすトリオ(ももクロZ&なんちゃら&なんちゃらのトリオだそうです)へ歌詞を提供した曲だそうです。
「(誰もいないステージ中央を指して)この辺に可愛い女の子3人が踊っていると妄想して聴いてください」。
アイドルっぽい曲(昔のではなく今の)を歌ってる浩子さんが新鮮

「無限マトリョーシカ」
声優でアイドルの上坂すみれさんに提供した曲。シングルのB面笑。
「上坂さんは大学でロシア文学を専攻されて、ロシアが好きな方なのでマトリョーシカにしました。スペードの女王の話をしたらすぐにプーシキンですね!と返ってきて、おお!と」
「とっても難しい曲なんですが一年間練習してきたのでだいぶ・・・あ、練習じゃない ソロライブで歌ってきたので、です 今の聞かなかったことにしてくださいね」って、浩子さん相変わらず楽しい笑。

「へのへのもへじの赤ちゃん」
別役実 作詞、小室等 作曲。
へのへのもへじのあ~かちゃん~ あなたの地球はもう~ないの~ あなたの~お父様が~食べてしまわれた~♪
高校生の頃にすごく好きで、ピアノを弾きながらよく歌っていた曲とのこと。
「小室さんが歌うと闇がぶわっと広がる感じがする」みたいなことも仰っていました。
浩「昨日小室さんから聞いたんですけど、この曲はlet it beを聞きながら作ったからイントロがそっくりになっているそうです。というわけで今日はlet it beのイントロでやってみようかと。・・・怒られちゃうかな」 石井AQ「ポールに?」 浩「(笑)ポールには怒られてもいいです。知り合いじゃないし笑」
イントロとエンディングが浩子さんのピアノでlet it beで、この曲の歌詞に不思議と合っていて、素晴らしかったです。
この曲好きだわ~。合歓の花

~小室さんご登場~

「雨が空から降れば」
別役実 作詞、小室等 作曲。
公園のベンチでひとり~おさかなをつれば~ おさかなも~また~雨の~中~~♪
公園のベンチで・・・魚・・・。フォークな曲調なのに歌詞が明らかにおかしい笑。
 
小「中学三年生のときに楽屋に会いにきたんだよね。変な子だな~って。中学三年であんなのが好きなんて。寺山修二とか別役実とか、当時のアングラ演劇は不条理がテーマのものが多かった。ベケットの『ゴドーを待ちながら』なんかもゴドーが誰かもわからない、でも待ってる。待っていても来ないのに、いつまでも待ってる。来ないものを待ってるような、ないものを探してるような、あなたの曲にもそういうところがあるよ。来ないかもよって言われる方が、絶対来るって言われるよりも信じられるとか、そういうのってあるよね」
浩「夢は絶対に叶う!とかね」
小「でも、あなたの曲ってそういうところもあるよね。もしかしたら叶うかもしれないって感じるような」
浩「う~ん、、、叶う可能性は全くゼロではないかもね、くらいの感じですかね笑」
小「浩子ちゃんは僕ではなく別役実の世界が好きだったんだと思う」
浩「それは違います!別役さんももちろん好きですけど、私は小室さんが好きなんです!」 ←真剣な表情の浩子さん^^
浩「だって初めていいなぁって思ったのが『比叡おろし』でしたから」
小「『風は山から降りてくる レタスのかごを抱えて』って、変な曲だよねー」
浩「でも好きなんです。他の人が歌ってるのを聴いても感動しなかったですもん」
小「俺も笑」
浩「・・・やっぱり!?」
小「うん、俺が歌うのがいいって意味じゃなくて、他の人が歌ってるのを聴いてもいいと思わなかった」
浩「だから私は、小室さんが好きなんです」
小「そんなこと言われると・・・惚れちゃうよ?」
浩「笑」

「百三歳になったアトム」(小室さん朗読)~「鉄腕アトム主題歌」
浩「子供の頃にアニメをお蕎麦屋さんで見て」
小「蕎麦屋で笑?」
浩「はい、家族と行った横浜のお蕎麦屋さんで。男の子が地面に足がくっついちゃってそれを一生懸命持ち上げようとしてて、それでその子はロボットなんだって気付いて、萌えて笑、漫画も全部読みました。これ、明るい話って誤解してる人も多いけど実はものすごく暗くて救いがないんですよね。子供ってそういうものに惹かれたりしますよね」
小「アトムがさ、可哀想なんだよね」
浩「そう、可哀想・・・」
小「人間を守るために作られたロボットだから、人間には危害を加えられないんだよね。そうプログラムされてる」
浩「でも七つの威力のうちの一つが、良い人間と悪い人間を瞬時に見分ける力なんですよね。でも、悪い人間だってわかっても攻撃はできない。すごく辛いですよね。あれはどんな風に考えればいいんだろう・・・」
小「このアニメの主題歌は谷川俊太郎さんの作詞ですが、今から10年くらい前に谷川さんは103歳になったアトムっていう詩を書いてるんです。その詩を朗読してから、歌います」

この曲のジャズ風アレンジは谷川さんの息子さんがされたのですが、ものすごーーーく難しいのだそうで。浩子さん曰く「川村竜さんどころじゃない」と笑。
この曲が、本日二回目の涙ポイント。
小室さんの朗読もとてもよかったのですけど(いい声~~~&上手い!)、浩子さんがね、すっごくいい顔で歌うのよ、アトムの歌を。3.11を経験した今の私達にはこの歌詞はものすごく色んなことを考えさせられる歌詞になってしまっていて。それをね、本当に本当に優しい笑顔と声で歌うの。夕日を見ながら遠い昔、単純に明るく幸福だった頃を思い出しているアトムの声のような。そして、その哀しみに寄り添っているような。
私は、科学技術の明るい未来というものを信じていて。地球が人間を生み、その人間が生み出したのが科学技術であるのだから、それらは母なる地球の一部なわけで、科学技術の発展は良い悪いではなく自然のあるべき姿だと思っていて。だから人間が人知を超える存在への謙虚さと畏れを忘れないでさえいれば、この二つが共存できる道はきっとあるはずだと信じているのです(だから地球交響曲の龍村監督の考え方がとても好き)。
アトムは科学の子。人間を守るために作られた、原子力で動くロボット。
「夕日ってきれいだなあとアトムは思う だが気持ちはそれ以上どこへも行かない」。なぜならアトムは人間ではなくロボットだから。ピーターパンと同じ、成長しない永遠の少年だから。「綺麗だな」の先へ気持ちの行かないアトムを、必ずその先へ気持ちが行ってしまう人間と比べると、その純粋さが美しくさえ思える。アトム自身に罪はない。そして私達はその先へ気持ちが行くことができるからこそ人間なわけで。アトムを生み出したのが人間なら、それを使うのも、あるいは手放す決断ができるのも人間。それは人間が万能だからではなく、人間は万能ではないから。科学は完全ではないから。それを今、私達は大き過ぎる犠牲をもって十分に知ったはず。
 「幸福のためにあるはずの科学技術が、人のエゴや欲でゆがめられてしまう。アトムはいつもそのはざまで悩んでいるんです」手塚治虫さんの娘さんの言葉。

「夏が終わる」
谷川俊太郎 作詞、小室等 作曲。
(たしかこの曲のときに)小室さんが歌い終わると、浩子さんが興奮気味に「こういう感じは小室さんにしか出せないんですよ~~~!!」と^^。
小室さんの大ファンで追っかけをしていたという中学生の浩子さんを見ているようでした
この曲、好きだなぁ。季節も今にぴったりだった。

浩「面白かったのが、昨日のアンケートで『いくら軽井沢でも海王星は肉眼では見えません』って笑」
小「それはね、見えないよね笑」
浩「まあ、『そういう風に見えた』っていうことですよね。私も時々言われます。『そういうのは子供の教育のために困ります』とか」
小「そんなマグロはいません!とかね」
浩「そうそう笑!」

「片恋の唄」
「カタツムリを追いかけて」
この曲とこの後の「終電座」は、何をそんなに急ぐ必要があるの?もっとゆっくり生きてもいいじゃない、とそんな風に言われているような気がしました。おばあちゃんやおじいちゃんや、生きるのが不器用な人や、そういう人に対する心の余裕。それはひいては自分の心の幸福にも繋がる。明るく可愛く、チクリと棘も隠した、いい歌ですね。
トークは、カタツムリが美味しいかどうかとか、石井AQさんは変なものでも美味しく食べるとか、小室さんは人が美味しいと言ってるものは自分も美味しくないと悔しいから美味しくなってみせるとか、食べ物の話 

「三日月の女神」
「神様」

浩「小室さんは私の音楽の神様ですから、神シリーズを2曲続けて」
本日第三回目の涙ポイント。というか鳥肌ポイント。「神様」、CDで聴いていても好きな曲ではあったけど、ここまでゾワゾワ来なかったんだけど、生で聴くと美しいは迫力あるは、いやぁ、神様が見えたわ、ステージの上に。小室さんと浩子さんと石井AQさんが三角形になったその場所に。壁に映る樹の影のライティングも、雰囲気満点でした。

「きみのそばにいる」
デビュー35周年にやっと勇気を出して小室さんに参加をお願いしたというアルバム『フィンランドはどこですか?』より。
浩子さんと小室さんの掛け合いが温かかった。。。小室さん、いい声だぁ。浩子さんは小室さんと一緒に歌ってるときすごく嬉しそうな、幸せそうな表情をされますね。
この曲も涙ポイントでした

「FINLAND」
いいねぇいいねぇ~。すっごい楽しかった♪ 「ロシアの近く 確かあのへんの どこかにある」「ベトナムからはたぶん遠くて 日本からも遠い」笑
丸い風車のようなライティングも可愛かったです。

「終電座」
うわ~~~~カッコいい~~~~~ 三人ともなんてカッコいいの(>_<)!!やっぱり最後は盛り上げてくれますね~~~。
真っ暗な客席が小さな丸いライトでクルクルクルクル照らされて、3番は客席も歌って(周りの人達歌えてた、すごい!私は歌詞覚えてなかったからムリだった;;)、とても素敵な異空間でした。電車担当の小室さんの声にうっとり。

「ひとりでお帰り」(アンコール)
本日もう何度目かわからない涙ポイント。
今夜ここに一人で来てる人も、誰かと一緒に来てる人も、きっと私達はみんな、「ひとりでお帰り」なんだなぁ、と感じてウルウル(意味わからないですよね、すみません)。本当に、優しい歌だなぁ。。。
本日唯一ピアノを離れて、センターに立ってハンドマイクで歌った浩子さん。すんごい素敵でした。ありがとう、浩子さん。ちゃんと、おうちに帰ります。

17:30開演、20:00終演、休憩なし。
今夜は小室さんのおかげで予想外に谷川俊太郎ワールドに沢山触れられて、今月の谷川さん親子のトーク会@佐野洋子展チケットを捨ててしまった落ち込みから少し浮上させていただけました・・・(捨てちゃったんです、間違って生ゴミと一緒に・・・・
政治の方向に向かいかける小室さんの話をやんわり谷山ワールドな空気に中和していた浩子さんにも、惚れ直しました。そしてここが谷山ワールドであることをちゃんとわかっている小室さんがまた素敵でした。
そして小室さん、室生犀星もお好きなのですね。
そして別役実さんは寺田寅彦の血縁なのですね(これはwikiって知った)。
長年のマイブームと最近のマイブームと浩子さんと、私の大好きがいっぱい繋ぎ合わさった幸福な夜でございました。

あ~楽しかった~~~。やっぱり浩子さんは素敵

そうそう、みゆきさんのアルカディアのDVD出ますね~♪買わなきゃ!高いけど。。。

来週は私にとって7年ぶりのハイティンク&ペライア(@ロンドン響来日)!!
今月は歌舞伎座と文楽は結局行けませんでした・・・。シネマ歌舞伎の高野聖もとても観たいけれど、時間とれるとしたらロンドン響前だけなのよね。同じ日にハードかなぁ・・・。


よその子


終電座


ひとりでお帰り

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『赤毛のアン』より

2015-09-24 19:02:43 | 




なんてすばらしい日でしょうね
こんな日に生きているというだけで しあわせなことじゃないこと?
きょうは二度とこないんですもの

(村岡花子訳 『赤毛のアン』)


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つひにゆく

2015-09-23 21:18:23 | 



つひにゆく道とはかねて聞きしかど
昨日今日とは思はざりしを

(『伊勢物語』第百二十五段)


今も千年以上前も、人って同じなのですねぇ。

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寺田寅彦

2015-09-10 01:37:23 | 



寺田さんは最も日常的な事柄のうちに無限に多くの不思議を見出した。我々は寺田さんの随筆を読むことにより寺田さんの目をもって身辺を見廻すことができる。そのとき我々の世界は実に不思議に充ちた世界になる。

 夏の夕暮れ、ややほの暗くなるころに、月見草や烏瓜の花がはらはらと花びらを開くのは、我々の見なれていることである。しかしそれがいかに不思議な現象であるかは気づかないでいる。寺田さんはそれをはっきりと教えてくれる。あるいは鳶が空を舞いながら餌を探している。我々はその鳶がどうして餌を探し得るかを疑問としたことがない。寺田さんはそこにも問題の在り場所を教え、その解き方を暗示してくれる。そういう仕方で目の錯覚、物忌み、嗜虐性、喫煙欲というような事柄へも連れて行かれれば、また地図や映画や文芸などの深い意味をも教えられる。我々はそれほどの不思議、それほどの意味を持ったものに日常触れていながら、それを全然感得しないでいたのである。寺田さんはこの色盲、この不感症を療治してくれる。この療治を受けたものにとっては、日常身辺の世界が全然新しい光をもって輝き出すであろう。
 この寺田さんから次のような言葉を聞くと、まことにもっともに思われるのである。

「西洋の学者の掘り散らした跡へ遙々(はるばる)遅ればせに鉱石のかけらを捜しに行くのもいいが、我々の脚元に埋もれてゐる宝を忘れてはならないと思ふ。」

 寺田さんはその「我々の脚元に埋もれてゐる宝」を幾つか掘り出してくれた人である。
(和辻哲郎 昭和十一年 『寺田寅彦』)

寺田さんと話しているうちにこのような偶然よりも一層強く自分を驚かせるものがあった。何か植物のことをたずねた時に、寺田さんは袖珍(しゅうちん)の植物図鑑をポケットから取り出したのである。山を歩くといろんな植物が眼につく、それでこういうものを持って歩いている、というのである。この成熟した物理学者は、ちょうど初めて自然界の現象に眼が開けて来た少年のように新鮮な興味で自然をながめている。植物にいろんな種類、いろんな形のあることが、実に不思議でたまらないといった調子である。その話を聞いていると自分の方へもひしひしとその興味が伝わってくる。人間の作る機械よりもはるかに精巧な機構を持った植物が、しかも実に豊富な変様をもって眼の前に展開されている。自分たちが今いるのはわびしい小さな電車の中ではなくして、実ににぎやかな、驚くべき見世物の充満した、アリスの鏡の国よりももっと不思議な世界である。我々は驚異の海のただ中に浮かんでいる。山川草木はことごとく浄光を発して光り輝く。そういったような気持ちを寺田さんは我々に伝えてくれるのである。こうしてあの小さい電車のなかの一時間は自分には実に楽しいものになった。
 あの日は寺田さんは非常に元気であった。電車へ飛び込んで来られる時などはまるで青年のようであった。自分などよりもよほど若々しさがあると思った。その後一月たたない内に死の床に就かれる人だなどとはどうしても見えなかった。これから後にも時々ああいう楽しい時を持つことができると思うと、寺田さんの存在そのものが自分には非常に楽しいものに思われた。それが最後になったのである。
(同 『寺田さんに最後に逢った時』)

木曜日以外に訪問することを漱石から許されていた例外のうち一人は中勘助で、もう一人が寺田寅彦。物理学者だけど文学も大好きな、飄々としたいわゆる天才肌のお方。
勘助は漱石の一高&東大時代の教え子ですが、寅彦は熊本の五校時代の教え子なので、さらに7年も古い付き合いです。
勘助が例外を許されていた理由は基本的に人の集まる場所を好まない彼の性質を漱石が理解していたからですが、寅彦の場合は木曜日でも何曜日でも寅彦の行きたいときに行っていて、漱石も「仕方がないな」と苦笑しつつ楽しんでいた感じですね。
この二人、どちらも漱石が最も愛したタイプの人間だったと思います(勘助は自信がないみたいだけど、絶対に愛されていたと思う)。

さてこの寅彦、ドイツ留学からの帰りにパリに寄るのですが、ノートルダム大聖堂の塔の上から他の観光客に混じり街の眺めを楽しみつつ、壁の石材についた貝がらの化石に気づいて「寺の歴史やパリの歴史もおもしろいが、この太古の貝がらの歴史も私にはおもしろい」と書いたりしてます。そんな彼の感性が私は大好き。

しかし昨日の坂口安吾の文章にしてもそうですが、作家が作家に対して書く追悼文というのはいいものが多いですね。
こんな優れた文章を書く和辻哲郎が若き日に小説家になることを諦めた理由には、有名な逸話があります。
あるとき和辻はオスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』(もちろん英語の原書^^;)を友人の谷崎潤一郎に貸しました。和辻は自分が印象に残った部分にアンダーラインを引いていたのですが、返す時に谷崎曰く「君が線を引いたところ以外が面白かった」。それを聞いた和辻は己の才能の限界を感じたのだとか。
先日の谷崎潤一郎展ではまさにこの本が展示されていて、たしかにあちこちに赤い線が引いてありました。では谷崎が面白いと感じた箇所はどこだったのか?すごく興味があります。まあなんとなく想像できる気もしますけども。



※写真は八ヶ岳にて

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2015-09-09 02:08:32 | 日々いろいろ

私の職場には廊下の片側が一面ガラス張りになっているところがあるんですけど。
今日(もう昨日ですが)仕事中にそこを通りかかって、空からざぁっと結構激しく降ってる雨をふと見て、「綺麗だな」と思ったんです。
特に情緒のある景色でもなく、特別美しい降り方をしていたわけでもなく、なんてことないただの、いつもと変わらない雨だったんですけど、空から水の粒が降ってくるそれがなぜか新鮮で綺麗に感じられたんです。

今朝通勤途中に読んでいた本が、漱石が亡くなった日についての部分だったんです。
漱石にしても子規にしても勘助にしても、こういう雨を見て今日の私と同じように「綺麗だな」と感じた瞬間が絶対にあったはずで、実際小説や俳句などにたくさん書き残していますよね。
でもみんな今はいない。彼らはもう二度とこんな風に雨を見ることはできないわけです。
で、私は今、見ている。見ることができている。でももちろん、いつかは見られなくなる。生まれてくる前ももちろん見られませんでした。たかだか数十年かそこらなんですよね、私達がもってる時間って。この世界の長い長い時間の流れからすれば、本当に一瞬。
漱石達には漱石達の時間がかつてあって、私には私の時間がある。それが今。いずれそれが終わっても、また人は生まれて、その人はその人の時間を生きる。
「時間というものは、自分が生れてから、死ぬまでの間です」と言ったのは坂口安吾だったけれど、本当にそのとおりで、それ以上でも以下でもないのだなあ。

と長々書いてしまったけれど、実際には「綺麗だな」のほんの数秒の間にそんなことを感じただけです。いつもの私。

生まれて来たくはなかったとか、そんなことは考えても詮無いことで。だって現にもう生まれてきちゃっているのだし、人生半分まで生きてきちゃったのだから(平均寿命まで生きるとして)。
かつて生まれて、生きて、今はいない人達と、今生きてる自分の時間というものをちょっとだけ意識した、そんな午後のひとときでございました。あ、ちゃんとすぐに仕事モードに戻りましたヨ!こんなでも一応お給料もらって社会人やっておりますです。

台風が近づいておりますので、皆さまお気をつけて!

※追記:
漱石って来年が没後100年ですが、再来年が生誕150年なんですね!数え年の五十で亡くなってますから確かにそうなるか。絶対に大きなイベントやってくれるよね~と思っていたら、なんと新宿区の跡地に漱石山房が復元され、記念館ができるのだとか!鴎外の記念館はあるのになぜ漱石はないのかしら~とずっと思っていたので嬉しいです。東北大にある膨大な資料ももってきてほしいな。。

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うらめしや~、冥土のみやげ展 @東京藝大美術館

2015-09-06 00:00:21 | 美術展、文学展etc



藝大祭をやっていたせいか、この絵↑が2週間オンリー公開のせいか、吐きそうな混雑であった。。。
みんな幽霊が好きなのね

「全生庵・三遊亭圓朝のコレクションを中心に」という今回の企画展。
圓朝さんというとアレですね、先々月の歌舞伎座で猿之助(シネマ歌舞伎では三津五郎さん)が演じていた方ですね。
今回湯呑煙管も展示されていたのですが、おかげでそれらを使っている圓朝さんの姿をリアルに想像することができました。
『牡丹灯籠』の速記本の前では年配のご婦人方が「ほら、この間のタマちゃんの!」。玉ちゃんて・・・可愛い・・・。
明治期の歌舞伎座の『怪異談牡丹灯籠』の番付も展示されていて、午前11時開演って今と同じだったんだなーと。尾上菊之助による新三郎が評判の公演だったそうです。

以下、雑感。


上村松園1875-1949 「焔」 (東京国立博物館蔵)
すごい人だかりだった^^; 
この女性は源氏物語の六条御息所で、松園が謡曲「葵上」に想を得て描いたものだそうです。生霊となっても品を失っていないところは、能の印象と同じでした。


月岡芳年1839-1892 「月百姿 源氏夕顔巻」 (太田記念美術館蔵)
同じく源氏物語より。恨みや怨念はなく、儚い雰囲気の夕顔の幽霊。でも夕顔って六条御息所の霊に殺されはするけど、自身は幽霊にはならないのではなかったっけ?と思ったら、能で「夕顔」「半蔀」という曲があるのですね。いつか観てみたいです。


鰭崎英朋1880-1968 「蚊帳の前の幽霊」
画像だとわかりにくいですが、実物は行灯の灯りが本当の灯りのように見えて、とっても美しかったです。
蚊帳はやっぱり幽霊の必須アイテムなのね。はっきり形が見えないところが、夜の闇の濃かった昔の人々には不気味に感じられたのかな。子供の頃はうちにもあって、私は部屋の中にもうひとつ部屋ができたみたいで、楽しくて大好きでした。母親は幽霊が出そうで嫌だって言ってましたけど。
行灯や燈籠も、やっぱり今の時代のLEDとは風情という点では天と地ですよね。
そういえば先日読んだ塩田による中勘助の談話で、日常の中の薄ぼんやりとした闇と光の美しさを教えてくれたのがハーン(小泉八雲)だったというようなことが書かれてありました。明治末期の日本は異国の人からそういうことを教えられなければならないほど既に闇が消えかかっていたのかもしれませんね。谷崎潤一郎にしてもこの時代の一部の人達の、驚くべき速さで失われゆく日本の文化や伝統美に対する愛惜の念は想像にかたくありません。なにせつい最近まで江戸、という時代ですものね。でもそういう感覚は今の時代も同じかな。玉三郎さんなどもよくこぼされていますね。


菊池容斎1788-1878 「蚊帳の前に座る幽霊」 (全生庵蔵)
こちらも幽霊と蚊帳。どんな想いを此の世に残しているのか、どこか寂しそうな幽霊。行灯の光は蛍のようにも見えました。


歌川芳延1838-1890 「海坊主」 (全生庵蔵)
こちらは幽霊というより妖怪。静かな満月と穏やかな水面が不気味で素敵でした。


月岡芳年 「豪傑奇術競」
上の夕顔と同じ画家ですが、こちらは幽霊でもお化けでもなく、“豪傑とそれぞれが妖術で使っている動物”の各コンビの絵。色彩が派手で躍動感があって、アニメみたいでカッコよかった!絵葉書があったら欲しかったな。


歌川国芳1798-1861 「源義経都を打立西國へ相渉らんとせし折から大物の沖にて難風に逢給ひしに平家の亡霊あらはれて判官主従に恨みをなす」
謡曲「船弁慶」に題をとった絵ですが、私は船弁慶を観たことがないので、義経千本桜の大物浦を思い出しながら見ました。平家の亡霊の描き方がクールだわ~。


歌川国芳 「五十三駅岡崎」
昨年の大浮世絵展で観た国芳の「日本駄右エ門猫之古事」と同じ題材ですね。てかほとんど同じ笑。
にゃんこの影が浮かび上がる行灯に、手拭いで頬かむりして踊るにゃんこ達。これ、元ネタは歌舞伎の『梅初春五十三駅』なのだそうで。調べたら2007年正月に国立劇場で菊五郎さん達が復活上演してたんですね。うわ~観たかった!しかしこういうくだらなそうな大らかな狂言って菊五郎さんがいなくなったら誰が演じられるんだろう。海老蔵あたり、やってくれないかなあ。松緑でもいいけど。
やはり同じ題材の「五十三対岡部」も展示されていました。


葛飾北斎1760-1849 「さらやしき 百物語」 (東京国立博物館)
「まったく皿一枚割ったくらいで殺されちゃあたまんないわよね~。ふぅ~」て声が聞こえてきそうなお菊さん 首が皿になってます。

この他筆者不肖の多くの絵、四谷怪談や牡丹燈篭の錦絵、赤子を抱いた姑獲鳥の絵、池田輝方の「積恋雪関扉」の絵(菊ちゃんの観たかった;;)などなど、美しく哀しく楽しい、充実した展覧会でした。
そうそう、会場内で四谷怪談の講談のビデオ(by一龍斎貞水さん)を流していて、岩の幽霊に追い詰められた伊右衛門が「首が飛んでも動いて見せるわ」と言って切腹して幕だったのですけど、講談の四谷怪談ってこういう終わり方なのかしら。歌舞伎とは違うんですね。それとも音声が聞き取りにくかったので聞き違えたかな。基本言葉だけなので寺町の描写がよりリアルに想像できて、面白かったです。

最後に、展覧会HPよりこちらをご紹介して、本日はこれぎり~


中島光村 「月に柳図」 (全生庵蔵)

 世に幽霊の正体見たり枯れ尾花、という。これは主に「幽霊なんかいない」という局面で引き合いに出される言葉なのだけれど、はたしてそうなのだろうか。
 実は枯れ尾花こそが幽霊なのだ。
 中島光村は花鳥風月をよく描く人であったらしい。この絵にも幽霊は描かれていない。幽霊画の多くが芝居の幽霊を模したようなものであるのに対し、この絵の題名は「月に柳図」、これは風景画なのである。しかし朧月(おぼろづき)と叢雲(むらくも)、そして枝垂れ柳の組み合わせに、見る者は怪しい横顔を見出(みいだ)してしまう。
 これは自然物を幽霊に「見立て」たのではない。これが幽霊の本質なのだ。人は、何もないところに何かを見てしまうものなのだ。それをどう解釈するかは見る者次第なのである。
 この図が描かれたのは明治の後年であるが、まだそうしたものに対する江戸の「粋」が残っていたのだろう。
(京極夏彦)

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