風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団 @東京芸術劇場(6月26日)

2023-06-29 23:28:09 | クラシック音楽




ちょっとバタバタしていたため、演奏会や観劇の感想が6つも溜まってしまった。。
このブログは自分用の覚書を兼ねているので(というか殆どそれだけ)、順不同になるけれど、サクサクいきます。
まずは、一番直近のロッテルダムフィルから。

【ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第3番】
この協奏曲の演奏、個人的に、聴いていてすごくストレスが溜まった。。。
何よりもシャニ&オケの伴奏が、メリハリのない平坦な演奏に感じられて。。。
そしてメリハリがない割には、音楽的な大きな流れよりも各フレーズの理想の音作りに意識がいっているような印象で、「ああここはシャニはこういう音にしたいのだな」「ここはこうして盛り上げたいのだな」という意図がはっきりと透けて見えてしまうような演奏というか。全体の自然な流れがあまり感じられず、小さく纏まっているような印象というか・・・(えらそうにスミマセン
シャニは暗譜で指揮していたそうで、協奏曲でそうする指揮者って珍しいけど、それが演奏に影響していたか否かは不明。

聴いていてストレスが溜まったのは、真央君の演奏も同様で。
昨年のリサイタルでもそうだったけど、真央君って憑依すると物凄い演奏を聴かせてくれるけれど、時々、丁寧な美しい響き作りにこだわりすぎてるのでは…?と感じる部分があって。それがまだ自然に聴こえないところが、彼が敬愛するプレトニョフとの違いだと思うの・・・(ってほんとえらそうにゴメンナサイ
今回はシャニも同タイプのようだったので、悪い相互作用が起きてしまっていた気がする。
オケとソリストの美しいハーモニーと言えば聞こえはいいけれど(本人達はそういう演奏を目指したのだと思うし、実際SNSではそういう好意的な感想が多かった)、私は突き抜け感のない演奏にずっとモヤモヤ。
やはりゲルギエフ&マリインスキーとのときのような、突き抜けたスリリングな協奏曲が聴きたいなぁ。
彼のような煽る指揮者との協演でないと、真央君のああいう演奏は聴けないのだろうか。

【ショパン:練習曲 Op.25-1 「エオリアンハープ」(アンコール:藤田真央)】
【ドヴォルザーク:スラヴ舞曲第10番 Op.72-2 (アンコール:藤田真央&ラハフ・シャニ)】
私はチケットを買っていないけど、次回の真央君のリサイタルのプログラムはショパンとのことなので、真央君のショパンがどういう感じなのか聴けたのはよかったです。
シャニとの連弾もなかなか楽しかった。

(休憩)

【チャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」】
この悲愴は悪くはなかった、気がする。
意外といいかも、と感じたのは攻めていた3楽章以降ですが。
前半の協奏曲に比べて、こちらの方がずっとメリハリのある突き抜けた演奏に感じられました。
4楽章も結構よかったです(ゲルギエフ&マリインスキーの凄みには全く及ばないけれど)。

【エルガー:エニグマ変奏曲より”ニムロッド”(アンコール)】
悲愴の4楽章→アンコールのニムロッドの流れは沁みたな・・・。
悲愴の後の優しく美しい響きに、癒される…というのとも違うな、うまく言えないけれど、この曲を演奏してくれたシャニ&オケに感謝したい気持ちになりました。
ロッテルダムフィルの親しみのある温かでクセのない音色もこの曲によく合っていて、ちょっと涙が出そうになってしまった。
結局、今日一番感動したのはこの曲でした笑
これを聴けただけでも、来てよかったです







真央君は芸劇では燕尾服ではなく、いつもの服装でした。最終日だけ着たのかな。
この燕尾服は真央君の恩師の野島先生の形見という噂もありますね・・・

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東京都交響楽団 第977回定期演奏会Cシリーズ @東京芸術劇場(6月25日)

2023-06-26 20:58:45 | クラシック音楽



指揮:マルク・ミンコフスキ
ブルックナー:交響曲第5番変ロ長調WAB105(ノヴァーク版)


今日の席は、2重の意味でのハズレでありました。。。
はい、音響と隣人であります。
1列目の第一ヴァイオリンの目の前で、合奏時でも一人一人の音が聴き分けられてしまう
そして後ろの席の方がずっとビニール袋を触っている・・・ご友人が注意したらキレておられた・・・

そんな環境だったので客観的な評価はできないけれど、今日の演奏、素晴らしかった
4楽章などちょっとせわしなく感じられるところはあったものの(友人曰く「第4楽章がまるで45回転だったと笑)、生き生きとして鮮やかな、とても素敵な演奏でした。
いわゆる重厚なドイツ系の重厚な演奏ではなく、いい意味でフランス人の指揮者さんらしいブルックナーだなと感じました。でも、うねりがないわけでもなく。新鮮。
※これはフランス人だからというより、ミンコフスキさんがピリオド系の指揮者さんだからという理由かも

四楽章のフィナーレ、めちゃくちゃ綺麗な色が舞台上に見えました。
ブルックナーはいつもあの教会オルガンのような色合い(本当に目に見える)に心が浄化されます。
あの色が見られただけで、今日来てよかったです。
二楽章の音が音を繋いでいくところも、生で聴くと本当に美しい。
やはりブルックナーは生で聴きたい作曲家ナンバーワンだなあ、と改めて感じました。

心が弱っているときのブルックナー、今回も効果絶大でありました。

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詩人・谷川俊太郎が語る、PEANUTSの「明るいさみしさ」とは

2023-06-15 21:25:31 | 

シュルツ氏の魅力と詩を書く自身を投影して、次のようにも話した。

「僕、詩を書く人間だから、物語に弱いんですよ。物語は作れない。その点、俳句のように“何も言わない”で読んだ人に考えさせるみたいな、アンダーステートメントのようなものが、シュルツさんにはあると思うの」

その中で気が付いた、PEANUTS作品の本質は「明るいさみしさ」だった。

「明るいさみしさっていうのは、割と人間の本質として誰でも持っているんじゃないかなと思うんです」

「シュルツさんも、コミックを描きながら、どこかに孤独感とか、さみしさとか、なにか不足な感じとか、そういうものを持っている。だから、深い世界が出るんだなって」

谷川さんに「寂しさがあると、深い世界に行けるんですか」と聞くと、大きくうなずいて、こう言った。

「もちろん、そうですよ。違う?」

さらに「寂しいと悲しくなってしまうのかなって思うんです」と聞くと、少し考え、また頷いて話した。

「悲しくなるのが、深い世界に行く道だもん。よく、四六時中はしゃいでいる人っているけど、疲れちゃうでしょう。それは、自分とか、他人とかの深いところに触らないように、はしゃいでいるのかもしれない。そんな感じがします」

スヌーピーたちの日常には、誰かと誰かがつながりを持つときの深い心情のやり取りや、変わらないでいてくれる安心感が漂っている。

「PEANUTSは、時代によって変わる部分っていうのは割と少ないけど、確かにある。だけど、ほとんどがアメリカとか日本とか、他の国とかを問わず、地球上の人間全体の、普遍的な在り方みたいなものが基本にあるから、いつまで経っても古くならない」とゆっくり目線をあげた。

Huffpost:スヌーピーと育ったすべての大人たちへ。詩人・谷川俊太郎が語る、PEANUTSの「明るいさみしさ」とは


人間明日は何があるかわからないので職場のPCの中身を整理していたら、ブックマークにこの2019年の記事が入っていたのでご紹介。

人が誰でも持っている(かもしれない)本質的なさみしさというのは、一体どうして、どこから来るのだろう。
「さみしさ」という言葉を持たなければ、私達はその感情をもう少し違ったものとして感じられたろうか。
あるいはその言葉を持てたことで、私達の心は少しは救われているのだろうか。

「どこかに孤独感とか、さみしさとか、なにか不足な感じとか、そういうものを持っている。だから、深い世界が出る」。
さみしさなんて持たないに越したことはない感情だけれど、これは谷川さんが仰るとおりかもしれない。
少なくとも私が心動かされる芸術作品の根底には、孤独感や寂しさが見え隠れしていることが多い。

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伝える言葉から伝えない言葉へ

2023-06-10 11:12:57 | その他音楽

涙活進行中。
夜会VOL.3 KAN(邯鄲)TAN』に続いて、「ジョークにしないか」を聴いてます。

先日の記事で「恋愛的な相手か、人間愛かで違う」と書いたけれど、恋愛で見返りを求めないことって物凄く難しいですよね。
たとえば母親の子供に対する愛だったり人類愛だったら、「相手が幸せならばそれだけでいい」という感情を持つことはそれほど難しくないというか、自然な感情のように思う。

でも恋愛の場合は、自分のことも愛してほしいとどうしても思ってしまうのが、人間の自然な感情でしょう。
でも人間同士の感情というのはそこがピッタリ合うわけではないから、『KAN(邯鄲)TAN』で描かれている世界が胸に刺さる。
そこがピッタリ合っているわけではない以上、自分の想いが常に成就するわけではない以上、欲しがっているだけでは人は一生不幸なまま。
だから『KAN(邯鄲)TAN』のような価値観の転換をすることで、私達の心は救われる。
それも逃げて楽になるよりも、同じ想いが返されることがなくて辛くても愛することを選ぶ方を、みゆきさんは(みゆきさんが描く女性は)選んでいる。逃げるよりもその方が、彼女の心は救われるのだと思う。
でもその価値観の転換は、決して容易なことではないですよね。恋愛である以上。

愛なんて軽いものだ 会えることに比べたなら
明日また会えるように ジョークにしないか
きりのない願いは ジョークにしてしまおう


これ、ものすごく辛いことですよね。
一会のアンコールでこの曲を聴いたときに私はブログに「この曲に諦めだけではない、前向きな強さ、しなやかさのようなものも感じることができた気がします」と書いたけれど、この「強さ」はものすごーーーーーく辛い想いの上に、弱さの上にあるものですよね。
この歌の女性は当然だけど今も「きりのない願い」を持ち続けていて、それは自分自身で消せるものではないから、どうしようもない。

切ない歌ですね、改めて。。

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それならば私は何も失わずに生きてゆけた

2023-06-08 00:52:37 | その他音楽

みゆきさんの「I love him」がとても聴きたくなって、それならいっそ夜会を観てしまおうと、日付が変わるこんな時間まで『夜会VOL.3 KAN(邯鄲)TAN』を観てしまった。

夜会の中のどの作品が自分に刺さるかは人によって違うと思うけれど、私は特に『VOL.3 KAN(邯鄲)TAN』や『VOL.8 問う女』がそうで、気軽な気持ちでは観られません(夜会で気軽に観られる作品って殆どないけども)。
刺さりすぎて、観られない。
でも涙活というか、敢えて観たいときもあって。今夜がそれでした。
開始10分の「タクシードライバー」で既に涙ボロボロ。一人暮らしなので誰に気兼ねなく、思いきり泣いたわ。

昔は、みゆきさんの歌に出会えさえすれば、その人は決して自殺するようなことにはならないだろうと本気で思っていた頃があったけれど。
今はそうではないということを知った。
悲しい人は悲しいし、辛いことは辛い。
みゆきさんの歌に出会えても、自ら死を選んでしまう人はいる。
それでも、私達はみゆきさんの歌にどれほど心が救われることか。力をもらえることか。

最後に歌われる「I love him」。
愛することと愛されることはイコールではない。いつもそこにはズレがある。
そしてみゆきさんは(みゆきさんが描く女性は)、たとえ傷ついても、たとえ愛してもらえることはなくても、"それでも"愛することを選ぶ。そういう人生の方を選ぶ。
愛なんて儚いものと空虚に思うのではなく、傷つくことを怖がり愛さないことを選ぶのではなく、あっという間に夢のように過ぎてしまう人生だからこそ、愛することを選ぶ。それは胸の奥にずっとあった本当の願いなのだ、と。
この歌の女性は決して男に都合のいい女になっているわけではなく、自分の意志でそういう生き方を選んでいるんですよね。ちゃんと自分の主導で自分の人生を生きている。
この頃から最新の『VOL.20 リトル・トーキョー』に至るまで、みゆきさんはぶれていないなぁ。
『VOL.3 KAN(邯鄲)TAN』は1991年11月13日~12月7日の公演で、みゆきさんは39歳だったんですね。
あるみゆきさんのファンの男性の方が、夜会の中で最も好きな作品がこの『VOL.3 KAN(邯鄲)TAN』だと仰っていて。
「欲しいものが手に入らなくても、不幸とは限らない」という価値観の大転換を示したところに感動したのだ、と。

その前向きさは決して容易なものではないし、勇気のいることだし、失うものもあるし、傷つくし、逃げてしまう方がきっとずっと楽だけれど。
それでも、愛する方の人生をみゆきさんは(みゆきさんが描く女性は)選ぶのだな。
返される愛は無くても。
まぁ大前提として、それほどまでに強く愛せる相手に出会えるということだけで、既に十分に幸福なことだと私などは思ってしまうけれども。これを恋愛的な相手ではなく人間愛にまで広げると、また別ですけれど。

ところでラストの扉の向こうの部屋ってテーブルの上にロウソクが立っていて何かの儀式の部屋のようにも見えるのだけど、みゆきさんの本によると人々が集う食卓のような、そういう感じの設定なんですよね、たしか(本はむかし図書館で一度借りただけで手元にないので自信ないけれど)。
温かな体温をもった人間達のいる場所に彼女は戻っていくのですよね。再び傷つくことも、裏切られることもきっとあるけれど、それでも。

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読売日本交響楽団 第628回定期演奏会 @サントリーホール(6月1日)

2023-06-02 00:07:04 | クラシック音楽




ずっとずっと待ち望んでいたヴィルサラーゼのシューマンのピアノ協奏曲がようやく聴ける!というわけで、平日夜にサントリーホールに行ってきました
オケは、上岡敏之さん指揮の読響。

【シベリウス:交響詩「エン・サガ」 作品9】
決して悪くはなかったのだけれど、音楽の流れが自然じゃなく固く聴こえてしまった…
(後半のニールセンの見事な完成度から推測するに、おそらくこの曲にはあまりリハの時間が割かれていなかったのでは……)
でも上岡さんのこの曲の解釈は、私は好きでした。

【シューマン:ピアノ協奏曲 イ短調 作品54】
すっとずっと聴きたかったヴィルサラーゼのシューマンのピアノ協奏曲。
コロナ禍でテミルカーノフ&サンクトペテルブルグ・フィルとの来日がキャンセルとなってしまったのは残念だったけれど、今回読響で聴くことができて本当に嬉しかった。
最近気持ちが沈み気味で、人生や世界に対して卑屈になりそうにもなっていて、これを生で聴くまでは生きていようと思ってきて、こうして聴けたからもう死んでもいいやと思ってしまうところだったけれど(大袈裟なようだけど結構本気)。
背筋を伸ばして、素直に、ちゃんと生きなきゃな、と感じました。
そうだった、ヴィルサラーゼのピアノを聴くといつもそう感じさせられるのだった。初めて聴いたときから。
優しい厳しさ。温かな気高さ。
ずっと聴きたかった彼女のこの曲の演奏を、今まさに生で聴けている。そのことは当たり前のことではない。
今日私が生きてこの演奏を聴けていることは決して自分の力によるものではなく、神様からの贈り物だと感じました。
もらいっぱなしでは駄目だ、と。
こんな気持ちをもらえて、私もちゃんと世の中に、ヴィルサラーゼにお返しをしなきゃいけない、と。

一楽章の温かな優しさ。
三楽章の”音楽そのもの”の音。そして深さ。
ロシアの音楽学校の校舎の臭い。

本当に、ただただ、pricelessな時間でした。

オケも単なる伴奏にとどまらず、ピアノとの暖かな掛け合いと高め合いがとてもよかった。
上岡さんはヴィルサラーゼにすごく敬意を払っていて、なかなか舞台中央に行こうとされず(この光景は先日のルイージ&ロジェと既視感)。最後はヴィルサラーゼが「はい、行くわよ!」と促してた笑。
ヴィルサラーゼってリサイタルのときは舞台であまり全開の笑顔を見せない人という印象があったけれど、今日はいっぱいの笑顔。
ただ演奏中に少し手首を辛そうにしていて、ポリーニの仕草を思い出しました。なのに手を抜かないで思いっきり弾いてくれて、ありがとうヴィルサラーゼ…。
カーテンコールが繰り返されたけれど、アンコールはなし。でも本編のあの演奏だけで十分です。
最後はヴィルサラーゼがコンマスの長原さんに合図して、オケが立って休憩時間に。

(15分間の休憩)

【ニールセン:交響曲第5番 作品50】
この曲を聴くのは、ブロムシュテット&N響に続いて2回目。
上岡さんブラボー
さすがコペンハーゲンフィルの首席指揮者という説得力ある演奏を聴かせてくださいました。
ひたひたと迫り来る静かな不気味さのようなものはブロムさん&N響の時の方が感じた気がするけれど、今回の一楽章のぞっとする凶暴な迫力。濃厚な美しさ。二楽章ラストの決して汚い音にならずに美しさを保ったまま、あれほどの突き抜け感!!
大満足です。
改めてこの曲は名曲だなぁと感じさせてくれる演奏でした。
上岡さん、熱くて丁寧で自然で、いい指揮者だなあ。
またこのコンビの演奏を聴いてみたいです。
そしてこの「戦争交響曲」の演奏に上岡さんが込めたであろう想い、ポスターの「生き抜くんだ」という言葉と廃墟の街の写真。その上で、モスクワ音楽院教授であるヴィルサラーゼとのあの温かな共演。
音楽ってすごいな、音楽っていいな、と改めて感じました。


今回は、メインにニールセンの交響曲第5番を取り上げます。

私はデンマークのコペンハーゲン・フィルの首席指揮者を務めており、ニールセンの交響曲は全6曲、演奏しました。ドイツでは以前、北西ドイツ・フィルと4番を演奏していましたが、コペンハーゲン・フィルのポストについてからニールセン作品を色々な側面から勉強しました。自筆譜を見て、様々な出版譜を見るなどして全6曲の演奏に臨み、理解が深まりました。今回は、ウィルヘルム・ハンセン版というデンマークの出版社によるものを使用します。ニールセンの5番は、演奏するのはとても難しいですが、読響とであれば良い演奏ができると思い、選びました。

ニールセンの5番は、難解とも言われます。聴きどころや特徴は?

分かりづらい曲と言われることもありますが、デンマークという土地柄や国民性が表れていると思います。気候は寒くて、天気もあまり良くなく、どちらかというと暗い雰囲気の国。一方、デンマークは福祉国家で貧富の差もなく「幸福な国」とされているのに、精神安定剤などを使用する人が割合として多い。そこに個々と社会との煩わしい関係性があると思います。この曲にも、平和な世の中で突然銃の乱射事件が起きてしまうような、人間の危うい一面が表れています。また、ニールセンの屈折した人間性、「誰にも分ってもらえない」というようなコンプレックスのようなものも感じます。第1次世界大戦の影響もあり、小太鼓による軍隊の部分などは戦争を予感させますが、もっと深い人間の複雑さ、世の中での息苦しさなどが描かれた作品です。最近は日本でも痛ましい事件が起こっていて、驚いています。

1曲目のシベリウスの交響詩「エン・サガ」はどんな作品ですか?

シベリウスもスウェーデン語を母語として、言語的に似ているデンマークと近い環境と言えると思います。「エン・サガ」は、古い伝説を基にしていますが、この悲しい伝説を熱く語るのではなく、感情を持たずに無意識で一点を見つめるように語っています。海に囲まれたスカンジナビアが持つ不安な雰囲気が出ています。浜辺に座って、海を見ながら、静かに伝説が語られるよう。ティンパニを使わない打楽器の使い方も特徴的ですし、最後は淡々とクラリネットが語り、物語が終わります。

2曲目には、シューマンのピアノ協奏曲を演奏します。

悩みを抱えて屈折した人生を送ったニールセンと、最後に自殺してしまったシューマンの暗さは、異なります。ニールセンやシベリウスと違う弱さや繊細さがある作品です。私がこの作品を演奏するのは、数十年ぶり。昨年亡くなってしまったラルス・フォークトさんと演奏した思い出があります。今回、ヴィルサラーゼさんとは初めて共演するので楽しみにしています。

当日券あり。明日31日、上岡敏之がニールセン5番などを披露

シベリウス 交響詩 《エン・サガ》 の楽曲解説(千葉フィル)




こちらはうちの近所の紫陽花。
色んな種類の寄せ植えが綺麗だったので。
もうそんな季節なんですねぇ。。。。。

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