風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

Nelson Freire (14 juin 2014 à la Grange de Meslay)

2020-02-22 01:22:33 | クラシック音楽

お怪我が治ったら絶対また日本に来てくださいね、の思いをこめて。
梶本さん、本当にお願いします。。。

Debussy, Chopin, Gluck/Sgambati, Albeniz/Godowsky, Lobos. Nelson Freire


24:10からのグルック、アルベニス、ヴィラ=ロボスの流れ、最強。。。。。。。。。。(ヴィラ=ロボスのこの曲は「今夜はこれでお仕舞い」のフレイレの合図ですよね。来日公演でもそうだった^^)。
この会場もとっても素敵
調べたところ、Grange de Meslay (Meslay Barn)というフランスのロワール渓谷近くのトゥーレーヌに1220年に建てられた修道院の納屋なのだそうです。
リヒテルがここで始めた音楽祭が50年以上続いていて、この演奏もその一環。
こんなところで聴いてみたいなあ。

こちらはフレイレが弾くショパンの舟歌op.60。
ポゴレリッチの演奏も素晴らしかったけれど、フレイレのも最高に素晴らしい。。。
この曲もノヴァエスが好んで弾いていた曲だそうで、youtubeにノヴァエスが弾く舟歌の録音もありました。
フレイレがアンコールで弾く曲って、グルックもパデレフスキもノヴァエスに繋がるんですよね・・・

Guiomar Novaes e Nelson Freire - Gluck


ところで今改めて調べて驚いたんですけど、グルックって1714年生まれの作曲家なんですね。もう少し後の時代の人かと思っていた。
この「精霊たちの踊り」が含まれるオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』が作曲されたのは、1762年、モーツァルトが5歳のとき。バッハもそうだけど、そんなに昔に生まれた音楽にこんなに心が慰められるなんて、人間の心というのは数百年程度では大きくは変わらないのだな、と改めて感じる。
そしてyoutubeのラフマニノフが弾くこの曲の演奏(こちらも素晴らしい)のコメント欄に「なぜ人類というのはこれほどの美しいものを作り出すことができるのに、一方で冷酷にも成りうるのか、しばしば不思議に感じる」というコメントがあるけれど、本当にそう。それは同じ一人の人間にも言えて、スターリンはモーツァルトの音楽に涙を流しながら、二千万人ともいわれる人間を殺害する命令を淡々と下した。彼が別荘で死んだとき、プレーヤーには彼が愛したピアノ協奏曲23番のレコードが載っていたとかいないとか。人間って不思議…。
なおノヴァエスやフレイレやラフマニノフが弾いているのはスガンバーティ編のピアノ版で、他にクライスラー編のヴァイオリン版「メロディ」などがあります。

Nelson Freire: ‘I have lived seven different lives’ (Apr. 29, 2019)
このインタビューを読むとリスボンに旅行したくなるな(そしてパリには旅行したくなくなるな・・・)。フレイレ曰く、リスボンは今は失われた古き良きリオのような街だと。ポルトガルは行ったことがないので、行ってみたいです。ピリスの母国でもありますね。ヨーロッパが大好きで毎年一か月以上かけて旅をしている友人も、一番好きな街はリスボンと言っていた。
このインタビューでフレイレはノヴァエスについて「彼女は私の教師ではなかった。いつも私のアイドルだった」と仰っていますね

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イーヴォ・ポゴレリッチ ピアノ・リサイタル @サントリーホール(2月16日)

2020-02-17 23:19:54 | クラシック音楽



「私はポゴレリッチが好きなのだろうか・・・?」と自問しながら、やっぱりあの唯一無二の音を聴きたくて今年もサントリーホールにせっせと足を運ぶ私
会場に入ると、もはや見慣れた光景となったラフな服装でポロンポロンと鍵盤と戯れているポゴさん。
弾いているのは“何かの曲のような何の曲でもないような音の断片”だった以前と違い、昨年と同様、はっきりと今夜のプログラムの曲でした。オンデイーヌ、スカルボ、舟歌、ベートーヴェン?、イギリス組曲、再びの舟歌と、今夜の演奏曲のオンパレードを弱音でポロポロと。あいかわらず綺麗な音。。。
そしていつものように10分前にスタッフさんに声をかけられ、のんびりご退場。何故か客席から起こる拍手

「当ホールは耐震構造となっております。非常の際は落ち着いて係員の指示に従ってください」のいつもの日本語アナウンスが流れ、「続いて英語の案内をポゴレリッチがいたします」と。へ・・・?そしてポゴレリッチのあの穏やか~な声でゆったりと同内容の案内があり、「公演は5分後に始まります」と。 ポゴさんってホント何気にサービス精神旺盛ですよね。補助席に梶本氏らしき人の姿があったので、彼のアイデアかな。楽しかった

【J.S.バッハ: イギリス組曲第3番 ト短調 BWV808】
ちょっと指がもつれ気味に聴こえたけれど、弾きにくい曲なのかな(難易度を知らない)。
数年前に聴いたあのハイドンと異なり、このバッハの演奏は嫌いじゃないです。イギリス組曲はバッハの中でもポゴレリッチに合っているように感じる。ガヴォットの右手のコロコロとした軽いポゴさんの音色、好きだなあ

【ベートーヴェン: ピアノ・ソナタ第11番 変ロ長調 op. 22】
バッハの後に拍手なしで続けられたベートーヴェン。
メヌエットとロンドが愛らしい。まさかポゴさんの演奏に「愛らしさ」を感じる日が来ようとは。
ロンドの強音も例の挑発的な強奏ではなく、たどたどしい”ポゴさんテンポ”もほぼ皆無(それでもいわゆるスタンダードな演奏とはもちろん違うけども)。数年前に聴いたベートーヴェンが嘘のようだ。
この時点で結構満足感はもらえていたのだけど、それでもポゴさんだけからしか見せてもらえないあの天国はまだ見えておらず。

(20分間の休憩)
再びポゴさんによる「20分間の休憩です。」の英語アナウンス
通路でおじ様達が「ポゴレリッチはなにか吹っ切れたのかねえ」と可笑しそうに話していた。

【ショパン: 舟歌 op. 60】
ポゴさんのこの曲はyoutubeで見つけられなかったので会場で初めて聴いたのですが。例によってショパンというより「ポゴレリッチのショパン」ではあるのだが。
なんかものすごかった。。。。。。。。。。
切ないわ愛に溢れてるわで、最後は彼岸が見えたよ。。。。。。。。。
この曲がこんな曲だとは知らなかった。
途中で踏めくりさんとタイミングが合わなかったのか敢えてなのか長い静寂が入って、それから静かな音色で再開して盛り上がっていくところ、「う、わぁ・・・・・」と呆然としてしまった。
P席で聴いていると、静かな音や伽藍のような音がピアノから生まれて客席の薄暗い空間に広がって隅々まで満たしていくのが目に見えるんですよ。もはや音じゃない何ものかが広がっていくのが目に見える。あの空間をひたすら見つめてしまっていました。
ポゴさんの音とサントリーホールの音響って相性がいいように思う。時々この世のものならざる光景が出現するもの。

【ショパン: 前奏曲 嬰ハ短調 op. 45】
舟歌から拍手なしで続けてop.45へ。
美しすぎる。。。。。。。。。。。。。。もうその言葉しか浮かばない。。。。。。。。。。。。
前曲に続き、目の前のピアノとホールの客席上の空間を身動きせずにひたすら見つめてしまった。
なんて音だろう。
なんて響きだろう。
なんて世界だろう。
こんなの聴いてしまったら来年のショパン尽くしに行かないわけにいかなくなるではないか。

【ラヴェル: 夜のガスパール】
ポゴレリッチは拍手を入れずに続けたそうに見えたけど、素晴らしかったショパンに客席から起こる拍手。
で、ラヴェル。
私、これまで聴いたポゴさんの演奏の中で一番感銘を受けたのが、前々回の2017年に聴いたラヴェルのラ・ヴァルスだったんです。なので今夜の一番のお目当てはこのラヴェルでした。
日曜夜19時開演は会社員には正直キツイが、『夜のガスパール』はやっぱり夜が合う。
そんなお目当てだったガスパール。
ものすごかった。。。。。。。。。。。。。。。。。
この曲はyoutubeで聴いていたからポゴさんが大体どんな感じのガスパールを弾くかは知っていたけど(予習で色んな演奏を聴いたけどポゴレリッチのが一番好きだった)、あの音を生でサントリーホールの空間で体験できる至福といったら。。。。。。。英語圏の人達がよく使うprivilegeってこういうことを言うのだなと。

「オンディーヌ」の左手のメロディー、ポゴレリッチの演奏って色んなピアニストの中で突出してオンディーヌの声に聴こえる。切なく愛を訴える声に聴こえて胸が苦しくなる。でもポゴレリッチは決してその中に溺れてはいないんですよね。ちゃんと一歩引いたところからそれを私達に聴かせているように感じる。オンディーヌの声であると同時にポゴレリッチの声であり、でもやはりそれはオンディーヌの声である。そんな風に聴こえるオンディーヌ。

そして「絞首台」。
殆ど暮れかかった夕闇の丘で、微かな風に揺れる吊された死体と、その吐息のように静かに静かに響く鐘の音。
でもそこには目を背けたくなるような、あるいは好奇心をかきたてるような悪趣味なグロテスクさはないのです。あるのは、そういうグロテスクで暗い光景の純粋な”美しさ”。そしてその空気。
それはリアルな風景というよりも、人間の心象風景であるような。深淵を覗き込む人間とそれを見つめるもう一人の人間の両方を同時に感じさせるような、そんな演奏に私には感じられました。それは演奏家がその世界に溺れてしまっているより遥かに直接的にこの音楽の芯の部分を感じさせられるような演奏で。
時間も空間も消えてしまったような、ちょっと言葉にならない感覚でした。
あの音色と世界をポゴレリッチ以外のピアニストで聴ける気が全くしない。

「スカルボ」。
ここでも前二曲と同様に妖精が飛び跳ねる光景をリアルに描いているというよりは、こういう幻を見てしまうその人の心の風景を冷静に描いているような。そんな演奏に私には聴こえました。
地獄の底から響いてくるようなあの音。ピアニストの眼差しはあくまで冷徹でありながら、不思議な優しさも微かに感じさせる、そんな演奏だった。
ベルトランがこの詩を書いたときの気持ちが、ラヴェルがこの曲を書いたときの気持ちが、きっとポゴレリッチにはわかるのだな、とそんな風に感じた。

このガスパールの演奏を聴いて、芸術家って”あちらの世界”とのぎりぎりの境界にいて私達にその世界を見せてくれる人達なのかもしれないな、と感じたのでした。でも決してあちら側には行かない、あるいは行っても必ずこちら側に戻ってくる、そういう人達なのではないかなと。そうでなければこんな作品を作れるわけがない、こんな演奏ができるわけがない、と感じるのでした。シューマンのような人でも同じ。たとえ最後にはあちら側へ行ってしまったとしても、音楽が生まれる場所はあちら側ではない。そんな風に思ったのでありました。以前『野田版 桜の森の満開の下』の耳男についてここに書いたことと同じ。
なので、今夜のポゴレリッチのこの曲の演奏に対してtwitterで多くの人達が言っているような「怖さ」や「不気味さ」や「ホラー」といった感覚は私は感じませんでした(不気味というなら2016年のショパンやシューマンの演奏の方が私にはよほど不気味だった)。病的な不健康さはそこにはない。それを冷静に見つめている視点がちゃんと存在しているから。ピアニストはあくまでこちら側(あるいは境界)にいるように私には感じられたから。あちら側に「引きずられそうになる」感覚はあっても、今日のポゴレリッチは最後にはちゃんとこちら側に私達を返してくれるであろうことが、彼も一緒に帰ってきてくれるであろうことがわかったから、安心して身を任せていられた。そしてそういう演奏に、私はとても惹かれたのでした。
次に彼のこの曲の演奏を聴けるのはいつだろう。調べると・・・前回は2010年?え・・・じゃあ10年後?もう少しサイクル短いとしても8年後とか・・・?なんか自分が生きてる気がしない。

ところでポゴさんってイギリスでは人気がなくてフランスでは人気があると聞いたことがある。シフは逆でイギリスでは人気があるけど、フランスでは人気がないらしい。日本ではどちらも人気があるけれど。
ポゴさんが2015年に15年ぶりにロンドンでリサイタルをしたときのあちらの新聞のレビューをいくつか読んだら本当にボロクソに書かれてて、the Guardianもthe Telegraphも星一つ。「★☆☆☆☆」って滅多に見なくないですか?とってもポゴさんらしい。それ以来ロンドンでリサイタルをした形跡はない(オックスフォードでは一度やってる)。他のヨーロッパ諸国では頻繁にやっているのに。
今日のようなショパンやラヴェルを聴いてもイギリス人はボロクソに言うのかなあ
でももし私が2016年のポゴさんの演奏の「地獄」の部分だけを延々と聴かせられていたなら(何度も言いますがカッコイイ意味での「地獄」じゃないです。ガチな意味での「地獄」です)、私も躊躇なしに「★☆☆☆☆」にすると思うから、理解できてしまうが。

そして毎年恒例の話題に戻ってしまいますが、今年も巷で騒がれたポゴレリッチの「変化(あるいは復活)」ってどういうものなのかなあ、と今回も少し考えてしまうのであった。
私は2016年から連続で聴いてきて今回でまだ4回目なんですが。
一体なにが気に入らないのかと舞台に降りていって怒鳴りつけたくなるような鍵盤ぶっ叩きは2016年が最後であれから聴いてない。黙って席を立って家に帰りたくなるような、私の眉根がぎゅ~っと寄りっぱなしになるような”ポゴさんテンポ”(←速度のことではなくpulse的な違和感)も前回からほぼなくなった。
でも一方で前回のリストのロ短調ソナタでもそうだったけど、例えばこの『夜のガスパール』の演奏は2009年のものだそうですが、今回とそう大きな違いはないように私には聴こえる。演奏時間を計っていた人によると今回も30分超えだったそうです。今回の演奏の方がよりコントロールされていて私は好きですけど(特にスカルボは今日の方がずっとよかった)、それでも騒ぐほどの大きな違いではないように感じる。この動画の08:40のラーレーからの部分は、今回の演奏と同じようにこの動画でも胸が締め付けられる。2009年というとポゴさんの”暗黒期”真っ只中ですよね。そういう頃にこの演奏をしているポゴさん。そう思うと、変化・・・・・変化・・・・・?とよくわからなくなるのでした。ちなみにこちらは2007年のオンディーヌ。やはり今回と同じように素晴らしい。
いずれにしても2016年のときのようなどこか聴衆を信頼していないような慇懃さは今のポゴさんからは全く感じられないし、それはとてもいいことのように感じる。
よく芸術家は不幸な経験をしないと良い作品を作れないと言う人がいるけれど、また芸術家は幸福になると良い作品ができなくなると言う人がいるけれど、私はそうは思っていなくて(たしかシフもそういう意見を否定していた記憶がある。谷川さんも)。ひとつ言えることは、私は良い演奏を聴かせてくれた人には幸せでいてほしいと思う。私がその人のおかげで幸せをもらえたのだから、その人にも幸せでいてほしいと思う。そしてそういう幸せな演奏を聴くことができると、私も幸せになる。

今日の演奏会は21時10分に終了したんですが、21時に客席で腕時計のアラーム(ピピッピピッっていうあれ)が鳴ったのですよ。それも2回。たしかスカルボのときだったと思いますが。もちろん「二度と演奏会には来ないでください」と言いたいほど許しがたいのだけれど、なぜかポゴさんのリサイタルってこういうのが他のピアニストのときほどには気にならないのよね。ポゴさんが気にしてなさそうに見えるからなのか、演奏の衝撃の方が大きいからなのか。ちなみにシフのリサイタルとかだと「うわっ、シフ先生申し訳ございません…!!!大馬鹿野郎に代わって私が謝りますから懲りずにまた日本に来てください…!!!」という気持ちになる笑。以前に書いたようにワルシャワ旅行で聴くのに一番しっくりきたのがポゴさんのショパンだったというのも、同じ理由です。

最後は自分の椅子をピアノの下に足で蹴って戻し、譜めくり君の椅子は両手も使ってせっせと隠す。
はいはいしつこくアンコール要求したりしないから大丈夫ですよ~
でもポゴさんのアンコール演奏っていつも素晴らしかったから、本音は聴きたい気持ちもあるのですけどね。まあメインプログラムでポゴさんが満足されているなら、私も満足です。
今回の譜めくり君(初めて男子だった)、ポゴさんに促されるまで椅子に座ったままだったり、ポゴさんが自分で捲ってしまうときがあったり、連携があまりうまくとれていないように見えたのだけど、最後にポゴさんが彼に笑顔で「ありがとうございました」と言っていたので(そう見えた)、上機嫌なポゴさんにほっとしたのでした。素晴らしい演奏会でしたもんね
あと、今夜はやたら椅子の高さを気にされていたなあ。演奏中に何度も高さ調整レバー?をクルクルまわしていた。あれだけ本番前にポロンポロン弾いていたらだいぶ良い具合に調整されているはずだと思うのだけど、なかなかデリケートなポゴさんであった。

ポゴレリッチの今回のアジアツアーはこれから韓国をまわって、中国の予定だったけどそちらは延期に。中国の人達、残念だろうなあ。。。今回のプログラム、素晴らしかったから、ぜひいつか中国でも弾いてあげてね。。。
そして今回もサイン会をしてくださったポゴさん(私は例によって不参加ですが)。そのサービス精神は嬉しいけど・・・今のような時期なのだからそこは控えてくれていいのよ。残念ながら今の日本は誰が感染者でもおかしくないのだから。ポゴさんの唯一無二の音がそんな理由で二度と聴けなくなるなんてゴメンです。
そして演奏会キャンセル、日本も他人事じゃなくなってきましたねえ・・・(来月楽しみな演奏会がいくつもあるのだが・・・)。
ポゴさんの次回の来日は来年3月6日とのこと。ここ数年はずっと冬のピアニストだったポゴさんが、春のピアニストに 今のポゴさんに合っていていいと思う もうすこし遅ければ桜が見られるのにね。


Ivo Pogorelich, Alice Kezeradze, 1983 Documentary Master Class, Maurice Ravel ,Gaspard de la nuit

こちらのドキュメンタリーからの映像のようです。
ショパンコンクールの3年後のポゴレリッチとアリザ・ケゼラーゼ。
二人が住んでいた家の空気は朝から晩まで芸術一色だったと読んだことがありますが、この映像を観ているとその空気が想像できる。
ケゼラーゼはオンディーヌの左手のメロディを父親(海の王)へのリクエストなのだと言っていますね。「あの人を愛してしまったのです。あの人と結婚させてください」という感じだろうか。私にはここは人間の男性本人への語りかけのように感じられるのですが、他でもケゼラーゼと同じような解釈を読んだことがあるので、ラヴェルのメモとか残っていたりするのかな。あるいはそれが通説なのか。
このときのポゴさんは25歳?ですかね(麗しいのぅ…)。既に英語も流暢だなあ。そして弾いてるピアノがYAMAHAだ

※Brug, Manuel, ‘Drinking from a Different Spring’, interview with Ivo Pogorelich (Sep 14, 2006) 
[original version in German: Die Welt, 21 August 2006]
上の映像の後に載せるのは辛いけれど、このインタビューは以前読んだ後にしばらく見つけられないでいたので、覚書として。
ケゼラーゼの最期について語っている部分、人間って逝く方と遺される方、どちらがより辛いのだろうと考えてしまう。どうして人間ってこんな辛い思いをしても生き続けていかなきゃいけないんだろうと。でもその答えを、今のポゴレリッチが教えてくれているのかもしれない…。

※Rhinegold Publishing "Ivo Pogorelich: London Calling" (Feb 12, 2015)
ボロクソに評された2015年のロンドンリサイタルの直前のインタビュー。"the pianist’s eagerly awaited London recital, the first he has given in the capital for some 15 years."と書かれてあるけど、なんだかこのインタビューの時点で既にイギリス人とウマが合っていないように感じられるのだけど…。ケゼラーゼを亡くした後の10年弱の期間について割と詳しく話しています。ポゴさんのインタビューってどこまで本心を話しているのだろうと時々感じるときもあって、やっぱりピアニストという人達はその演奏を聴くのが一番その人を感じられるような気もするのでした。

※朝日新聞『しもべであることが誇り ポゴレリッチ、苦難経て新境地』(2020年2月14日)


ポゴレリッチのインスタより。2月13日の 読売日本交響楽団とのシューマンのピアノ協奏曲のときの、楽屋での写真。
前回に続きポゴさんを聴きに来られた村上春樹さん ご自身の新作をプレゼントされたそうです。ちなみに私はまだ『アフターダーク』を読んでおらず。村上さんの小説はあまり得意じゃなくて…。エッセイや翻訳は好きなんですけどね。本や音楽の好みは割と村上さんと共通してたりする(漱石、フィッツジェラルド、ポゴレリッチ)。



昨年(正確には2018年12月)は結構空席があったけど、今年は完売。理由は分からない。リスト&シューマンって人気ないのか…?

※追記
上に書いた「あちら側とこちら側」について。そういえば先月聴いたヴィルサラーゼのシューマンの『予言の鳥』は、あちら側に連れて行かれたまま戻れない感覚を何日間も感じさせられたなあ、と思い出した。あちら側に引きずられてはいけないと気をつけながら、そのままこちら側に戻れなくても構わないような、そんな気持ちにさせられた数日間だった。でもやっぱりそんなシューマンの世界を見せたヴィルサラーゼがはっきりと厳しく「こちら側」の人だったから、私はどこか安心してあの甘美な幻想に身を任せていられたのかもしれない。ポゴさんと同じく彼女も「こちら側」の人だからこそ、ああいう演奏ができるのだと思う。

※梶本さんへ。私の最も愛するピアニストの一人であるフレイレの名前が御社の招聘アーティストのリストから消えているのですが、あれはもうフレイレは来日しないという意味なのでしょうか・・・・・・・・・・・・。昨秋に散歩中に転倒して腕を骨折したと聞いているけれど(ピアニストが何やってるのぉぉぉ~~~泣)、その後の経過はどうなのだろう・・・・・。10月30日の朝に転倒し、31日の夜に4時間に及ぶ手術が行われたそうです。フレイレは転倒したときに自分の手を庇おうとしていたとのこと・・・(Slippedisc)。
私が最も愛するもう一人のピアニストであるペライアも病状についてその後全く音沙汰がなく、心配は尽きない・・・・・・・・・・・。

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Kirk Douglas "Road Ahead"

2020-02-07 01:46:17 | 映画

I have lived a long, good life. I will not be here to see the consequences if this evil takes root in our country.  But your children and mine will be.  And their children.  And their children’s children. 

All of us still yearn to remain free. It is what we stand for as a country.  I have always been deeply proud to be an American. In the time I have left, I pray that will never change.  In our democracy, the decision to remain free is ours to make.

私は長く素晴らしい人生を生きてきた。この悪魔が私たちの国に根を張ったとしても、私はもうこの世にいてその結末を見ることはない。でもあなたの子供たち、私の子供たちは、違う。そして、その子供たち。そのまた子供たちも。

私たちはみんな、今も自由であり続けることを求めている。私たちは、国として、自由のために闘う。私はいつもアメリカ人であることを深く誇りに思ってきた。私に残された時間の中で、私はそのことが変わらないことを祈っている。民主主義では、自由であり続けることへの決定は、私たちが下す。


先日103歳で亡くなったカーク・ダグラスが、2016年9月にハフポストへ寄稿した文章『未来への道』より。

私の両親は、英語を話すことも、書くこともできなかったロシアからの移民だった。彼らは20世紀初め、ロシア皇帝の残忍な虐殺から逃れるために移民となった200万人以上のユダヤ人集団の中にいた。」という言葉で始まります。

日本語の全文はこちら
英語の原文はこちら

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フィルハーモニア管弦楽団 @東京芸術劇場(1月29日)

2020-02-01 15:12:46 | クラシック音楽



以前同管を取材した時に、首席ヴィオラ奏者の小倉幸子さんがサロネンの指揮の特色について「崖っぷちに追い込むような勢いがあるのに、けっして誰も落とさず、一人残らず一緒に連れていってくれるという安心感がある」と語っていたのがとても印象的で、こうしたスリルと知性を同時に味わわせてくれる指揮者は稀有な存在だと感じている。

(音楽ライター 後藤菜穂子 @東京芸術劇場HPより)

これ、よくわかる。
彼らの演奏を聴いているとそういう感じ、すごく伝わってきますよね
というわけで24日に続き、サロネン&フィルハーモニアの来日公演最終日に行ってきました。
今夜は東京芸術劇場。

【サロネン:『ジェミニ』(「ポルックス」、「カストル」)】
「ポルックス」が2018年4月初演、「カストル」が2019年10月初演なので、どちらも出来たてほやほやな曲。日本ではもちろん今回が初演です。
私はサロネンが作曲した音楽を録音でも聴いたことがなかったのですが、良い意味でその指揮から想像していたとおりの音楽でした。なので曲の感想は先日の春祭や火の鳥の彼の音楽作りについての感想をお読みくださいまし。ただ想像していたよりも体温を感じる音楽だったのは意外でした。もう少し無機寄りな音楽を作るのかと思っていた。
こういう曲は生で聴くとすっごく楽しい。といっても数日後にカフェで流れていたとして「あ、『ジェミニ』だ 」とは気づかない自信はありますが(私にとって大抵の現代音楽はそう)。
音楽の世界に全く詳しくないけれど、旋律よりも種々の楽器の音質や響きを重視して巧妙に音楽を構築するこういう感じは、現代音楽の特徴なのだろうか。メシアンとかもそうですよね。
オケは、今日も金管とパーカッションが楽しい。この後のマーラーもそうだったけどホルン、安定感あるなあ。ただティンパニの鋭利な凄みは先日の東京文化会館の音響の方が感じられた気がします。あと三階席からはチェレスタの音がほとんど聞こえなかったのが残念であった(他のホールでは上階席でも聞こえるのだが)。和太鼓も明瞭には聞こえず。これはバチを使っていなかったせいもあるのかも。
「ポルックス」と「カストル」の間はアタッカでしたが、わかりやすくて助かった
指揮棒が魔法の棒に見える現象(指揮者がその曲そのものに見える現象)は自作自演なのでもちろんありました。にもかかわらず、サロネンがスコアを見ていたのが興味深かったです。創造主である作曲者自身でもスコアを必要とすることがあるのだとすると、暗譜か否かで指揮者のスコア知識を判断することの無意味さがわかる。

LA Philのプログラムノート:Gemini
New York Philのプログラムノート:Gemini
サロネンの公式ページ:Pollux (この公式ページのWRITINGに作曲についてのめちゃくちゃ長いスピーチがある。サロネンは語るタイプの音楽家なんだねえ)。

(15分間の休憩) ※当初は休憩なしとの発表でしたが、休憩ありに変更になりました。

【マーラー:交響曲第9番 ニ長調】
サロネンがマーラーの交響曲の中でいちばん身近に感じるという、9番(『マーラーを語る』)。
こんなに前向きに明るく、しかも感動させてくれるマーラー9番があるとは。
基本は予習で聴いていたこのコンビの2009年の録音と同じ印象でしたが、生効果もあって今夜はより自然な演奏に聴こえました。
素晴らしかったですねえ。涙が出ない、死を感じさせない種類の9番の演奏としては、私的にほぼ理想の演奏でした。「消えゆく魂の気配」が皆無なところはラトルと同じだけれど、サロネンは変な工夫を加えずにストレートに演奏してくれているところがいい。それが最もこの曲を魅力的に聴かせる方法であることをサロネンがわかってくれていて嬉しい。なのに今生まれたばかりの音楽のように聴こえるのが今夜の演奏の素晴らしいところ。

中間楽章(特に二楽章)は、私がここはこういう音で聴きたいと思う理想の音で演奏してくれました。端正なのに凶暴で、マーラーのくるくる変わる音楽の表情の処理が素晴らしく、音楽がとても自然に流れていて強い説得力がある。少々忙しなく感じさせられる部分もなきにしもあらずだったけど、サロネンの九番として納得できる演奏で、本当に理想的でした。三楽章最後の追い込みの容赦なさ&美しさも文句なし。

一楽章もよかったのだれど(楽器に出させる音色の配分がすごく好みだった)、この楽章独特のぞっとする美しさは薄く。たとえば一楽章最後のピッコロは、虚空に溶けて消え入るような音色で演奏されるとぞくっとする儚い美しさが感じられて私は大好きなのだけど、このコンビは「ピー」っと割と大きめな人工的な音で終わる。2009年の録音でもそうだったのでこの曲を告別と結びつけないサロネンの解釈の現れなのかな?とも思ったのだけど、帰宅して2018年のCSOとの演奏を聴いたらちゃんと消え入るような音で演奏されていたので、オケの問題かも。あ、でもフィルハーモニアの方がサロネンの指示に従順に従っているという可能性もあるのか

サロネンの9番で私が一番独特に感じられたのは、終楽章の後半、私が勝手に心臓の音みたいだと思っているハープの“どみどみどーみー”以降です。通常はこの辺りから”終わり”へと向かっていく気配を漂わせ始めるものだけど、サロネンはここで推進力を落とさないんですよね。演奏は勢いと元気を保ったまま。初めて録音で聴いたときは驚いた。
マーラー9番ってやっぱり弦が最も重要な楽器だと思うのですが、このオケはバイエルン放送響やコンセルトヘボウ管ほどには濃密で表情豊かな音色を出さないじゃないですか。それって本来ならマイナス面になると思うのだけど、サロネンの9番にはこのフィルハーモニアの音がすごく合っている。こういう濃密さや表情の豊かさが少ない音色の方がサロネンの解釈をより魅力的に伝えられるように感じました。あのホールいっぱいに響いた全奏の前向きな美しさ。明るさ。サロネンのマーラー9番は完全に「こちら側の世界」の音楽なんですよね。
でもそんな彼の音楽も、最後にはやっぱり終息へ向かう。サロネンは全休止をしっかりとって、弱音もとことん弱音。
サロネンが作る終楽章の流れに身を任せて聴いていると、このラストの辺りで私はちょっと唐突な印象を受けるんです。それまでの推進力に溢れた前向きなエネルギーの後に訪れるこの静かな静かな終息はどう捉えればいいのだろう、と。このラストも含めて今夜私が感動したのは事実。でもその根拠が自分でもわからず、帰りの電車の中でずっと考えてしまったんです。あのラストはどう捉えればいいのかなあ、と。
『音楽の友 2020年1月号』の中でサロネンは、「9番の主調がニ長調である実態を考えると、とても「辞世の句」には思えない」と言うインタビュアー(池田卓夫氏)に、こんな風に答えています。

「私にも未来へと向かい、あらゆる可能性の窓を開いた大変オプティミスティック(楽観的)な作品に思えます。感情表現の多彩な振幅の自由度、究極のヴィルトゥオージティ(超絶技巧)で描くエクスタシー(法悦境)、妻アルマへの深い愛情を込めたアダージョなど、どこを挙げても「告別」にはみえません。作曲家の視点からは第4楽章の、個々の素材を小さなユニットに分割、それぞれを完全に使い尽くした後には何も残さないというベートーヴェンの直系に当たり、ドイツ=オーストリア音楽の伝統の頂点を極めた部分に強く惹かれます。完璧な傑作です。」

サロネンが作曲家の死とこの作品を結び付けていないことは演奏を聴いてもわかるけど、彼の第四楽章の解釈についてはこの文章を読んでもわかるような、わからないような。単に音楽が分割されていくだけで感動するわけでもなかろうし(いやサロネンは感動するのかもしれないが)。
で、いつものようにググってみたところ、こんな記事↓が出てきました。
Gramophone: Mahler's Symphony No 9, by Esa-Pekka Salonen
フィルハーモニア管とこの曲を録音した直後の2010年のインタビュー。

The last page is one of the most amazing pages of score by anybody, by any standards. Every phrase has an incredible intensity. It’s like a reverse biological evolution, with a musical phrase being dismantled, bit by bit. You start with sophistication, and go back to an amoeba, the very basic DNA of all music. This is the most basic figure in all music, the last signal being sent out before silence. What a very, very bold thing to do. When music is being decomposed, there is nothing left but silence. I believe the long retirement of Sibelius was the result of his own motivic process – after the stark simplicity of Tapiola, where else could he go?

Our new recording of the piece is a live recording, of a performance we gave after we had played the piece on tour in places such as the Concertgebouw and Cologne. I very much like the idea of recording this piece live. In fact, the idea of recording that finale in a studio doesn’t feel right. So many of the most celebrated recordings of the piece – Bernstein, Karajan, Bruno Walter in 1938 – have been concert recordings. It’s no accident. This is about death and there must be a sense of no return. It’s your only shot. You just do it and live with the results. This is real life and death, not a video game. 

・・・なんかあれだよね。サロネンの言葉の表現がいちいちかっこよすぎて、内容解釈がどうとか最早どうでもよくなるよね(思わず長めに引用しちゃったよ)・・・。
でもこの記事を読んで、私の中ではストンと今夜の最終楽章が納得できたんです。
"It’s like a reverse biological evolution, with a musical phrase being dismantled, bit by bit. You start with sophistication, and go back to an amoeba, the very basic DNA of all music. This is the most basic figure in all music, the last signal being sent out before silence. …When music is being decomposed, there is nothing left but silence. "
「音楽の分解」という言い方だけなら決して珍しくはないけれど、「音楽の生物進化の逆戻り」、「アメーバ」、「全ての音楽の始まりであるDNA」。ああ、今夜の最終楽章のラストはまさにそんな感じ!人間の死と捉えるとあのラストは唐突すぎるけど、こう捉えるととても自然。現代の洗練から原始の故郷へと還っていく音楽。今夜前半に演奏されたジェミニにも少し通じますね。
はあ、すっきりした。ありがとう、2010年のサロネン。
一方で「This is about death.」とも言っていますし(この辺の言い回しカコイイ…)、正確には彼がどのような解釈でいるかは今もわかりませんが(9番は振るたびに変わるとも言ってたし)、私の中ではスッキリしたのでいいのです。
今日のタイプの演奏にしては少し意外だったあの演奏後の長い沈黙の意味も、これでわかった。今夜の客席の静寂、素晴らしかったですねえ。まあこの曲のラストで静寂じゃない客席には幸い私はまだ遭遇したことがありませんが。

ああ、いいマーラー9番だった。
サロネンは今夜も演奏後にオケにしっかりお辞儀していましたね(それがまた爽やかなのだ)。
今夜はソロカーテンコール3回。みんなサロネンとマーラーが好きだねえ。終演後にサイン会あり。コロナが流行していてもサイン会をしてくれたのか。欧州の人にとってはより恐怖でしょうに。
帰りのエスカレーターでおじさま達が嬉しそうに「やっぱりサロネン、いいねー」「あんなに丁寧に演奏してくれるとは思わなかったなあ」と話していたけれど、本当にそう。オケを追い上げるのに雑じゃないんですよね。

ただ、これほど絶賛しておいてなんですが、ヤンソンスやハイティンクのような9番と、今夜のような9番、もしどちらか一方しか天国へ持っていくことができないとしたら、私はやっぱり前者のような9番を選ぶなとも思ってしまうのでありました(両方持って行っていいなら迷わず両方持ってくyo)。
サロネンは『マーラーを語る』の中で好きなマーラーの演奏にハイティンクをあげてくれていますが、余計な効果を加えていないという点では同じだけど、演奏のタイプは違うよね。それは作曲家自身の死をこの曲と結び付けているか否かと言う意味ではなく(たぶんハイティンクも直接的には結びつけていないと思う)、この曲の中に人間の体温や心を感じさせるか否かと言う意味で。
そして今回のサロネン&フィルハーモニアの来日公演はヤンソンス&バイエルン放送響の最後の来日公演とメインプログラムが全く同じだったので(『火の鳥』と『マーラー9番』)、どうしてもその演奏を思い出してしまった。そういう意味では、見事に対照的な演奏だったのは有難かったです。似たような解釈の演奏だったらもっと比べてしまっていたと思う。
ヤンソンスの9番の解釈はサロネンとは全く違っていて、サントリー公演直後のインタビューでこんな風に仰っていました(下記はドイツ語からのgoogle翻訳)。

You and your orchestra made people cry in Tokyo with Mahler's Ninth. You, too, looked very battered. Do you feel death in this piece?

Jansons:
Absolutely! You can imagine the music so that a person lies in bed and knows that his death will soon come. He doesn't know when, but he's coming. And then he remembers almost his whole life: moments that made him happy, moments that were difficult and tragic for him. It's a retrospective to the end. I feel that death comes earlier than the end of the fourth sentence. The cellos play their last notes, then I take a big break, and then the strings play this incredible music, where tears really come. For me this music is no longer on earth, Mahler's soul is already in heaven - and we feel his spirit and ingenuity, which remain on earth for us.

ヤンソンスさんが亡くなられた翌日にバイエルン放送響があげた追悼映像は、このサントリー公演のものでした(追悼映像はこちら。終楽章のラスト9分です。こちらは同公演の終楽章冒頭の映像)。
この世界に生まれ、やがて死んでいく全ての生きとし生けるものにヤンソンスが贈ってくれた慈愛の歌。
当時バイエルン放送響はこの曲を「Lovesong to life and mortality」、「Hymn to the end of all things」と表現していましたが、まさにそのとおりの音であり、演奏でありました。
あの日の演奏はきっとヤンソンスにとっても特別な演奏の一つだったのだと思う。P席から見えていたヤンソンスさん、とてもとても幸せそうな表情をされていたもの。まさかそれを3年後にBRSOによる追悼映像として見て聴くことになるなんて、思ってもいなかったな・・・。

サロネンの演奏会の感想なのにヤンソンスのことばかり書いてしまいごめんなさい。。。
今回のプログラムのせいです。。。



30年前の芸劇のオープニングコンサートでも、フィルハーモニアはマーラーを演奏していたんですね。
長いお付き合い

サロネン&フィルハーモニア管の今回の卒業コンサート。24日の東京文化も、29日の芸術劇場も、どちらも大大大満足の公演でした。昨年秋からシフ&カペラ・アンドレア・バルカ、ゲルギエフ&マリインスキー、そして今回のサロネン&フィルハーモニアと、外れなしの来日公演が続いて怖いくらい。今年あたり私は死んじゃうんじゃなかろうか。
そういえばNHKが撮ってくれていたクラシック音楽館のシフの映像、両日ともyoutubeにあがっていますね。何度も繰り返し観ては幸福な気持ちにさせてもらっています 3月のリサイタルは既に完売。すごいなあ、テレビ効果。


Esa-Pekka Salonen on Mahler's Ninth Symphony (Philharmonia Orchestra)


Mahler's 9th Symphony: Esa-Pekka Salonen on Orchestration



※2020.2.7追記
なんと、今年11月のBRSOの来日公演の指揮者がサロネンに!BRSOをサロネンで聴きたいかと言われると正直よくわからないけども、興味はとても津々。うーん、お財布が…。
そして「故マリス・ヤンソンスは、これまでも日本を重要な公演地と考え、亡くなる直前まで本年の来日を楽しみにしていたと伝えられております。」の一文に涙…。

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