リアリティを常に追求するテレビみたいなものも大事ですけど、逆にそこを表現しないっていうところが古典の素晴らしいところです。
嬉しいからただ嬉しいことをすれば嬉しさが伝わるかというと、そうじゃないじゃないですか。ぐっと堪えて嬉しさを噛みしめる、ぐっと堪えて悲しさを表現するっていうことの方が品がよく伝統としてはあって、そこを追求する芝居をどんどん練り重ねていく、先人達が何十年も何百年もかけて作ってきてるものですから、そこをなぞっていく。
古典は古典で決まったことなんで、守っていかないといけないんです。でも古典を原作として現代性をもたせるとか、そういうのも新しいお客様に楽しんで頂くためには必要。最終的に僕達の目標というのは、古典を楽しめるだけのものを提供すること。まず例えばスーパー歌舞伎をご覧になって「面白いじゃん。なんなんだろう」って観て、次はもうちょっと難しいのを観て頂いて、その次は言葉のない舞踊を観て理解して頂いて、今度はもっと大古典を観てみようと、そこをお客様がわかって頂けるように、古典が絶対的なゴールなんですよ。そのために新しいことをして、新しいことは新しいことで現代性があったりエンターテインメント性があることはいいんですけど、古典ってすごいんですよ。古典は一番新しいんですよ。やっぱり本当にみんなが考え尽くした形が残ってるんで、そこまで出来てる型は新しいんですよね。ちょっとしたことも全部新しいんですよ。悲しいから悲しいんじゃない。悲しいことを見せないで、観ている方に悲しいんだなと思わせたりする。疲れたときに緑が綺麗だな、海の音とか綺麗だなと思うじゃないですか。そういった感覚に似ていて、ちょっとしたことに全て凝縮した芸、そういったものが一番新しいんじゃないのかなぁって僕は思ってるんで、そういう風になれるように努力するとともに、そういうものを観て頂けるように新しいこともやるという。
27日配信の『めちゃ×2ユルんでるッ!』より、海老蔵談。
熊哲がバレエの伝統について言っていることと、どこか共通していますね。
へー、なんか意外。
團十郎さんがそういう考えの方だったことは知っていたけれど、海老蔵もちゃんとそういう風に思っているのね。
よかった。安心した。
「家によってルールは違うけれどうちの場合は、少なくともその人から習ったものについては、崩さずにそのまま演じなさいという風に父から教育されてる」とも言っていたし。
ぜひその気持ちを忘れることなく頑張ってもらいたいと、心から思いますよ。
いやほんと、染五郎も、獅童も、松緑も、菊之助も、勘九郎も、七之助も、もちろん海老蔵も、若手みんなを心から応援してるから、歌舞伎の未来のために頑張ってほしいのです。
私も安い席ばかりの微力ながら、お仕事がんばって観に行くので!
そういえばチケットの売行についての岡村さんのストレートな質問への受け答えを聞いて、あ、本人も3月の売行のことは知っているんだな、と感じました。赤坂が一人勝ちだったことも、テアトル&新橋&国立が半額になっていたことも。
「杮葺落があるから、3月は皆さん控えてる・・・」と言っていたけど、「演目や出演者による」とも言っていましたし。
でもその方がいいよ。役者も現状はちゃんと知っておくべき。そして危機感を持つべき。
売れるチケット=良い芝居というわけではもちろんないけれど、客に足を運んでもらわなければ何も始まらないわけで(それこそ上↑で言っているように)、現状を知った上でより良い芝居を提供しようと頑張ってほしい、と思うのです。
ちなみに週刊誌に出ていた「客席に空席が目立つ」というのは嘘ですよ。私が行った14日は、平日ですがテアトルは満席でした。半額なら見たい、という人はまだまだいるということ。頑張れ、みんな!しかし、新橋(染五郎&菊之助)と国立(福助さん)も同様に売れ行きが悪く半額チケットが出ていたのにそれには一切触れず、海老蔵のテアトルだけを強調して記事にするマスコミって、つくづくマスゴミですね。いつものことですが。
吉本新喜劇を初めて観に行った感想が「観客を笑わせられるかどうかの闘いで、怖いなと思った」というのは、舞台役者ならではの感想ですね。これもなかなか意外な回答でした。って私は海老蔵をどれだけ厚顔だと思ってるのか(笑)。観客の反応をちゃんと意識して舞台に立ってるのね。尊敬する先輩があの勘三郎さんなのだから、そりゃそうか。
歌舞伎はとても目の肥えた人達が客席に沢山いますし(私は単なるミーハーですが)、そういう人達を心底唸らせるレベルまで、ぜひとも到達していただきたいです。私もそんな海老が観たい!
團十郎さんの遺された「唯我独尊にならないように」という言葉をどうか大切に。
しかしあれだけキワドイ話題をさんざんふられたにもかかわらず(「人間国宝」「野球選手との腕相撲」「客の入りはどうなのか?」etc。ある意味かなり失礼な質問)、不機嫌になるでもなく、無邪気に好きなものについて語りまくり、最後は舞台出演までオファー。
天然でないんだとしたら、ちょっと尊敬する。
あんまり神経質な性格じゃないのかな。
私もそうありたいものであるよ。
藤山寛美の生き様の話は、地で憧れてそうですね、あれ^^;
海老蔵って昔は男友達少なそうなイメージだったけど、どうもそうでもないっぽいなぁと最近思う。
勘九郎に「最近面白い漫画ある?」って聞いたら「これヤバイっすよ」ってキングダムを紹介してくれたとか、仲良さそうで何より。
ドリフターズが大好きでDVDを持っているって言っていたけど、某元カノ有名女優さんも同じことを公言していますよね。たまたまかもしれないけど、アシタスイッチでも「結婚と恋愛は別」ってはっきり言い切ったり、なんか無邪気すぎて邪気だな、この人・・・・・・。
もっとも、そんなことを言ったら勘三郎さんなんて大変なことになってしまうので、やっぱり歌舞伎は遠くから眺めて夢をもらう世界なのだな、と改めて思った次第。
しかし観ていたテレビ番組の話題で思い出させられたけど、海老蔵って私と同世代なのよね(小海老が「うる星やつら」を観ていてラムちゃんが出てくるといつも親にテレビを消されてもんもんとしたっていう話、オモシロかった)。
あまりに異星人すぎて、すっかり忘れてました。
で、最後に。
このひと、結婚前は相当いろいろやってた感じだな、と正直思いました。。。^^;
「武士が妻子のために金子を頼んだその心底を、誰か哀れとは思わなかったか。これだけの武士が揃うていて、我が身に置き換え思い遣る気持ちをお持ちの方が、一人くらいおられなかったものか」
(映画 『一命』より)
この映画が言いたいこと、それは半四郎のこの言葉に尽きると思う。
確かに狂言切腹などをまかり通したらキリがなく、「自分達は切腹したいと言う人間にそうさせただけ」という勧解由の言い分は間違っていない。
間違ってはいないけれども、“情がない”のである。
何を甘いことを、と多くの現代人は言うだろう。
それを承知の上で、だけれども、と敢えてこの映画は言っているのだ。
“武士の面目”などという理由のために平然と一つの命を死に追いやった者達に、半四郎は悔いと怒りと悲しみと命をもって問うているのである。
誰も好き好んで狂言切腹をする武士などいない。
幕府の思惑ひとつで主家を潰され、路頭に迷い、武士の誇りを捨て狂言切腹をしなければ生活ができないところまで追い詰められた浪人達を、衣食に憂いのない者達が笑う。だが、両者の間に一体どれほどの違いがあるというのか。そこに項垂れている浪人は、あるいは彼らだったかもしれないのだ。
何でも「自己責任」という言葉で片付け、いま目の前でその人が苦しんでいても何の感情も動かない。弱者を平然と切り捨てることに慣れきってしまった、そんな今の日本にこそ、必要な映画ではないかと私は思う。
悲しい映画であることは確かだが、救いのない映画では決してない。
私がこの映画を思うとき、なぜか頭に浮かぶのは、梅や桃の花の咲く温かな春の景色である。
家族の描写はあくまで温かく、紅葉や雪はあくまで清らかで、何より求女や半四郎の中に人間の美しさと希望を感じることができるからかもしれない。
最後に、賛否両論ある海老蔵ですが、私はとてもよかったと思う。半四郎はただ一人他と異なった空気を纏わねばならぬ役であり、その点彼の存在感はぴったり。また、着物での所作や佇まいの美しさに、はっとさせられること幾度。多少台詞が聞こえずらいところがあるのは残念だったが、低く深みのある声も良かった。
★原作の小説ついてはこちら
「時世などとは言わせませんぞ」
事実、わずか十年のちには、武家諸法度の中に、殉死は古より、不義無益のことにしてと、はっきりうたわれたではないか――。
愚かな慣習、古い道徳を捨て去るにも、世間はしばしば、権力の裏づけを要求する。
心の底からほとばしった高柳織部の、切実な訴えは平然と抹殺しても、同じことが、幕府という、一つの大いなる権力によって打ち出されると、唯々諾々として肯定したのである。真実は、ただ一人の声であっても、真実に違いないものを――。
(「高柳父子」より)
映画『一命』の原作である「異聞浪人記」を含む全6編が収録された、滝口康彦による短編集『一命』。
その殆どが武士の悲哀をテーマとしているため少々一本調子な感はありますが、いつの世も強き者により黙殺される“弱き者達”の想いがひとつひとつ丁寧に描かれた、優しく、そして哀しい作品集です。
どの作品も秀作揃いですが、なかでも私が特に好きだったのは、「高柳父子」。
主君が死ぬと家臣も「追い腹」を切ることが正義とされた時代に、高柳織部は最後までその無意味さ愚かさを訴えながらも、周囲から不忠者と罵られ、詰め腹を切らされる。
だがそれからわずか十年後、幕府により「追い腹」禁止令が出されると、途端に世間は掌を返したように追い腹を非難しはじめる。
主君の死に際し追い腹を切ろうとする織部の息子外記を、織部に詰め腹を切らせた人間達がその同じ口で平然と非難するのである。
権力が方針を変えると、人々も平然とその意見を変える。
これは一体どういうわけか。
この作家は、決して「権力」の残虐性だけを訴えているのではない。
それよりもっとタチの悪いもの。権力や集団の力を笠に着たときの「一人一人の人間」の無責任さ、愚かさ、残虐さを描いているのである。
江戸時代も、戦中も、戦後も、そして今も変わることのない、日本人に特に強く見られる悪しき性質である。
作品の最後、空から降る雪の描写がとても美しい。
人間がどうであろうと変わらずに降る雪は、権力とその名の下に平然と弱者を切り捨てることに何の疑問も抱かない人々の冷たさを象徴しているようでもあり、またその大いなる力に踏み躙られた弱き者達への鎮魂のようにも見える。
映画『一命』のラストで津雲半四郎の上に降る雪も、高柳父子の上に降る雪も、おそらく同じ雪である。
弱き者達の上に、ただ深深と、雪は降る。
人それぞれの心は、とうていはたからはうかがい知れぬものである。笑う者はどこまでも笑うがよい。幕府の仮借ない政略のため罪なくして主家を亡ぼされ、奈落の底にうごめいている浪人達の悲哀は、衣食に憂いのない人々には、しょせんわかってもらえることではなかった。血迷った求女のみれんをあざけり笑ったその人々が、同じ立場に立たされた時、どれだけのことができるというのか――。
(「異聞浪人記」より)
テアトルの3日後に行ってしまいました、オペラ『アイーダ』。
新国立劇場の開場15周年記念公演です。
ちなみに、今月5つめの観劇です・・・(バレエ3回、歌舞伎1回、オペラ1回)
さすがに行き過ぎでしょって自分でも思いますが、人生初のオペラだったので、思い立ったときに行っておかないと、ね。。
オペラは他と比べてずば抜けて値段が高いので長年私にとって踏み入れてはならない禁断の領域だったのですが、ついに、ついに踏み入れてしまいました。。
中劇場の方は以前『サロメ』を観に行ったことがありますが(とても素敵なホールでした)、オペラパレスは今回が初。
とってもシンプルな内装なんですね。
オペラとバレエを専門とするホールなら、もう少し豪奢な内装でもよかったのではなかろうか。
東京文化会館の舞台左右の彫刻の壁みたいな、そういう“特別感”が足りないというか。。
でもロビーは陽光が溢れて明るく、休憩時間にシャンパンやオードブルを提供する辺りの雰囲気はロンドンのロイヤルオペラハウスに似ていて懐かしかったです。
さて、本編の感想ですが。
そもそもオペラというものを観たことがないので比べようもありませんが、噂のゼッフィレッリの演出はもっのすごい豪華ですね!!
これぞオペラ!って感じで、初心者には楽しめました。
二幕の凱旋の場の大勢の人間(馬も)が舞台を埋め尽くす様には、「なるほど、この高いチケット代はこの舞台装置とこの人達の出演料か・・・」と思ってしまった
そして三幕のナイル河畔の場面の美しさ。。。石像が水に沈んでいる背景など幻想的でうっとり。
ボートの流れもとても自然で、感心しました。どうやってるんだろう、あれ。
また全編を通して見惚れたのが、光の使い方。素晴らしいですね。凱旋の場の日中の光、ナイルの場面の青白い夜の月明かり、神殿に右上から差し込む薄明り。舞台をずっと覆っていた薄い紗幕も、異国の空気感を演出していて良かったと思いますが、物語の現実味は薄くなってしまうような気もしました。
ところで、オペラってミュージカルを正統的にした感じかと勝手に想像していたのですが、どちらかというと目でも楽しむクラシック音楽という感じなのですね。
体格とか容姿とかリアルな演技とかは、あまり求められてはいないのだな、と。
なのでミュージカルに慣れた身には一瞬戸惑いましたが、その声の迫力は圧倒的。
クラシック音楽でヴァイオリンの音に哀しみや歓びを感じるように、オペラ歌手の美しい歌声にはそういった感情が溢れていて、そういう意味で「クラシック音楽を聴くのに近い」と感じました。字幕はあるけれど言語として直接意味がわからないからなおさら(笑)
イタリア語がわかったらなぁ、と心から思いました。まぁその分、夢物語な雰囲気は味わえるのですが。
ミヒャエル・ギュットラー指揮の東京交響楽団。繊細かつ情感豊かな演奏で、これを聴くだけでも行く価値ある!と感じました。舞台と演奏が驚くほどきっちり合っていて素晴らしい。
カーテンコールで登場したギュットラー本人も美男で素敵だった笑。
アイーダ役のラトニア・ムーア。実に美しい歌声で、また可愛らしく、彼女が歌いだすたびに聞き惚れてしまいました。
ラダメス役のカルロ・ヴェントレはとても上手ではあったのですけど、声質が時々ちょっと軽く聴こえて(だから若々しくてよかったともいえますが)、個人的にはアイーダパパの堀内康雄さんの声の方が好みでした。
またムーア&ヴェントレの二人は最後まで雰囲気がどこか明るく、あの悲劇的なラストでも胸が苦しくなるような悲愴感があまり伝わってこなかったのが少々残念。まぁ、愛する人と死ねる彼らはある意味幸せなのですが(生き埋めだけど)。
そもそもアイーダ&ラダメスって、二人きりになる場面が三幕までないので、観客としては二人の愛に感情移入しにくいんですよね・・・。
その点、キャラクター的に思いきり感情移入してしまうのが脇役のアムネリス。アムネリス役のマリアンネ・コルネッティの歌声はムーアほどの迫力はなかったものの、それでも感情豊かな歌声と演技で、ラストは静かな慟哭、悲しみがひしひしと伝わってきて・・・切なかった・・・泣
ラストと言えば、神殿の地下牢が舞台の下から現れて、最後に再び沈んでいく演出が最高でした。
舞台装置自体に対する驚きはもちろんですが、彼らが地下に沈んでいくことでアイーダとラダメスの死を視覚的に表現していて、地上で一人残され彼(ら)のために祈るアムネリスの姿で幕を閉じるラストは何ともいえない余韻が残る。
あと一幕で国王が「進め、ナイルの聖なる岸辺へ」と歌い始めるところから全員で「Ritorna vincitor(勝ちて帰れ)!」と歌い上げるまでの合唱が、すごい迫力でした(下の動画の0:19:15~0:22:10)。また生で聴きたいなー。
O patria mia...(おお、わが故郷)--Latonia Moore
Giuseppe Verdi, Aida (Tokyo)
15年前の新国立劇場の杮落し公演。
この主役お二人の方が、今回のお二人よりも悲劇的な雰囲気がよく出ているように思う。
【指揮】ミヒャエル・ギュットラー
【演出・美術・衣裳】フランコ・ゼッフィレッリ
【照明】奥畑康夫
【振付】石井清子
(指 揮)
ミヒャエル・ギュットラー
(演 出)
フランコ・ゼッフィレッリ
キャスト
【アイーダ】ラトニア・ムーア
【ラダメス】カルロ・ヴェントレ
【アムネリス】マリアンネ・コルネッティ
【アモナズロ】堀内康雄
【ランフィス】妻屋秀和
【エジプト国王】平野 和
【伝令】樋口達哉
【巫女】半田美和子
【合 唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京交響楽団
新春浅草歌舞伎に続き、今年三度目の海老蔵です。
ベジャール・バレエの感動が、心身ともにすっかり染み付いてしまっていた私。
テアトルに到着してもまだ歌舞伎モードに切り替われず困ったなぁと思っていたところ、客席に一歩足を踏み入れた瞬間に一気にテンションUP
薄暗い照明のなか客席を囲むように飾られた真っ赤な提灯に明かりが灯され、漆黒の壁を照らす様の妖しく美しいこと!
上階の各BOX席からは緋毛氈が垂らされて、舞台にはお馴染みの黒、柿、萌黄の定式幕。
日本の伝統色の見事なコントラストに、一気に非日常の世界に連れ込まれました。
シックで素敵な劇場なのに、5月で閉場とは残念な限り。
以下、感想。
『夏祭浪花鑑』
上演時間2時間20分、休憩なし。
海老蔵の団七は、youtubeやテレビで勘三郎さんの夏祭を観ていてその上手さを十分に知っていたため、比べるべきでないと思いつつ「ここはやっぱり勘三郎さんがうまいなぁ」と感じてしまう箇所は、正直多々ありました。
笑いをとるタイミングや、演技が一本調子にならない緩急の操り方は、勘三郎さんは本当にうまいと思う。
もっとも、文句なく海老蔵が素晴らしかった場面もありました。
一つ目は、団七が床屋から出てくる場面。
登場しただけで舞台がぱぁっと明るくなる男ぶりは、毎度のことながらお見事。
今回はそれが見せ場であるだけに、その華やかさは半端ないです。
このシーンをここまで“見せられる”役者は、今の歌舞伎界でも少ないのではなかろうか。
その台詞のとおり、実に「いい男」でした。
二つ目は、義平次を殺したあと井戸で血を洗い流す辺りから、祭囃子に紛れて花道(今回は下手側の通路)を去るまで。
特に群衆が去った後に一人残り、「ちょうさや、ようさ…」と呆然と呟く場面は素晴らしかった。
肝心の殺しの場面よりも、この場面の海老蔵の方がよかったな。
震えて刀が手から離れない演技もよかったし、魂が抜けたようによろけながら花道を去る歩き方も上手だった。
殺しの後の息をのむような凄絶な美しさも、海老蔵ならでは。
この場面は、夏の夕べの祭囃子の演出も実に美しかったです。そして垣根に咲く花は慎ましく可憐で。これぞ日本の美だなぁとしみじみ。
三つ目は、最後の捕り物の場面で梯子の上で決める見得の迫力
一本調子になりがちな演技や(なのでちょっと飽きてくる…)口跡の悪さなど欠点はいっぱいあっても、1月の勧進帳のラストがそうであったように、それを上回る強烈な一瞬がこの人の歌舞伎にはある気がします。
それを感じるか感じないかで、海老蔵に対する客の評価は大きく分かれるのではないかな。
とはいえ二時間半という長丁場を最後まで観客を引っ張ることができたのは、脇の役者さん達の力によるところが非常に大きかったと思います。
特に市蔵さんの三婦と、亀鶴さんの徳兵衛が、素晴らしかった。
泥場の最後で徳兵衛が団七の雪駄を手に取り、何かを悟ったように斜め上を見上げる仕草と表情など、雰囲気があってとてもよかったなぁ。
右之助さんのおつぎも、落ち着いた味がありました。
新蔵さんの義平次も小狡い感じが出ていて上手だったのだけれど、どんなに悪態をついても「人殺しー!」と叫んでもなんだか憎めない愛らしさがあって、団七が「悪い人でも舅は親…」というような“悪い人”にはあまり見えなかったです^^;
種之助の磯之丞と米吉の琴浦は、良くも悪くも「若い」感じがしましたが^^;、二人とも変な嫌味がないのは好感がもてました。
あと今回は、大向こうが一度もなかったのが寂しかったです。テアトルだからでしょうか。
『口上』
客席の黒い壁に、真っ赤な提灯、金色の襖には成田屋の三升の紋が並び、市川一門カラーの柿色の裃に、赤の敷布。
ああ、なんて綺麗。
本当に綺麗。
舞台の美しさだけで、もううっとりです。
口上は、初日と少し内容を変えていたところが、好ましいなと思いました(あれだけニュースで流したら、みんな見ちゃっていますからね)。
團十郎さんはお鍋が好きで、家族で食卓を囲んでいるときにいつも鍋を覗き込んでは照明に頭をぶつけるから家族が「危ないですよ」と注意するんだけど、「あ、そうですか」とのんびりと返され、懲りずに何度も頭をぶつけていた、というエピソードは微笑ましかったです。
また、海外の両替所で「千ダラー、プリーズ」と堂々と言った團十郎さんに、勘三郎さんが後ろから「お兄さん、千は日本語ですよ」と教えてあげたというエピソードのときの海老蔵の勘三郎さんのモノマネがものすごく似ていてビックリ。
そして最後の「何卒皆さま、こののちも歌舞伎をご愛顧くださいますようお願い申し上げます。」と言った姿がとても真摯で、なんかぐっと来ました。。。
海老蔵だけでなく、勘三郎さんや團十郎さんの強い思いも表した言葉なんだろうな、と。
『高坏』
この季節にぴったりの演目で、思いのほか楽しむことができました。
お花見の雰囲気一杯の舞台が、春らしくてとてもいい。
ここでも、市蔵さんの大名と亀鶴さんの高足売りがいい味を出していました。
「高坏買いましょう~」「高足売りましょう~」の掛け合い、楽しすぎる(笑)
海老蔵も、思っていたよりもよかったです。
酒筒に鼻を寄せてクンと嗅いだ途端にぱぁっと顔を綻ばす様子が、甘いお酒の匂いが客席まで漂って来るようでした。
肝心のタップダンスは、、、んー、イマイチ…^^;?
もうちょい軽やかな方がいいなぁ。今後に期待したいところ。
しかし、私が初めて海老蔵の舞台を観たのは4年ほど前ですが、この人は今が一番美しいのではなかろうかと今回思った。
なんて綺麗なんだろう。。。と見惚れること幾度。
TVの中よりも、普段の彼よりも(一度見たことがある)、歌舞伎の舞台の上で最もその美しさが引き立つ様を見ていると、やっぱり彼は歌舞伎の世界の人なんだなぁとつくづく思う。また歌舞伎の化粧が実によく似合うんですよね。
もちろんこれから歳を重ねてゆく海老蔵もとても楽しみだけれど、今の海老蔵が見られるのは今だけなので、今のうちにこの綺麗な人間をいっぱい見ておかなければ!と本気で思いました、笑。
6月の助六が楽しみです。
ライトは、“未来”であり、“光”でもある。
(ジル・ロマン)
今日は春の嵐でしたね。
強風で電車が遅延していたため、公演も15分繰り下げての開演となりました。
さて。
例によって既に観られた方々の反応が賛否両論だったため、期待と不安が入り混じりながら臨んだ『ライト』全幕。
良かった!
この作品、私は大好きです。
とてもとても優しい作品。
特にエリザベット・ロス&ジュリアン・ファヴローの二人が、素晴らしかった。
二人とも決して派手ではないのに、内面の感情が静かに伝わってくる。
ジュリアンは『ライト』について「その役柄になりきることが必要とされている」と言っていたけれど、その点この二人は完璧ではなかろうか。
冒頭で、卵を腕に抱いて少し疲れたように揺り椅子に座る女(エリザベット)に、貧しき者(ジュリアン)が跪き、自分の服でその足を拭ってやり、足の甲に口づけるあたりの二人の表情と仕草が、最高で・・・。
そこからどうしても目を離すことができず、舞台の真ん中で派手に踊ってるオスカー達に全然目がいきませんでした笑。
今回はR側の席で正解。
ジュリアンはこの貧しき者(聖フランチェスコ)の役がぴったり。
暗闇の中で純粋に「光」を追い求めていて、初めてライトに会ったときの“特別な存在”に出会った驚きのような戸惑いのような表現、素晴らしかったです。
そして何よりラストのジュリアン。
なに、なんなの、なんて表情するのよーーーーー
なんて綺麗に踊るのよーーーーーー
クる。。泣く。。
よかったねぇ、光に出会えて、救われたんだね。。
七色の虹に囲まれてくるくるまわる踊り、綺麗だったなぁ。
ボレロにしても、本当に油断禁物だわ。
何気なく観てると、突然ぶわっとくる。
ところで、ジュリアンがごろごろと舞台を転がる振付のときに、茶色の長いボロ服が脚の付け根まで捲れあがって、なんてエロいのかしら・・・と思ったら、これまでの演目では白や黒のタイツだったから、生脚を拝んだのはこれが初めてなのでした。脚キレー。
ヴィヴァルディ役のオスカー・シャコンは今回もイタズラっ子のような笑みを浮かべていて、伯爵(ガブリエル・アレナス・ルイーズ)と一緒の場面はアマデウスのモーツァルトに見えました笑
七色の虹の大貫さん、すっごく楽しそうな笑顔。この人の踊り、目立つなー。いいカラダしてるなー。
少々残念だったのは、ライト役のカテリーナ・シャルキナが私には“光”に見えなかったこと。
インタビューによればカテリーナは「ライトは人間の女性というよりも妖精のような存在であるべき」と言っていて、私もそう思うのですが、彼女のライトは何だかアンドロイドのように見えてしまい、たしかに人間ぽくはないけれど、“光”にも見えないというか。。。
また彼女は、貧しき者への愛情が殆ど伝わってこず。。。
ジュリアン→カテリーナは“光”に縋り、“光”に惹かれている様子がよく出ていたけれど、カテリーナ→ジュリアンは最後までそういう雰囲気が希薄で、ヴィヴァルディとはあんなにラブラブに見えたのに。。
ついでなのでもう一つ不満を言ってしまうと、ライトが産まれる場面の演出が、どうも・・。
女性達や盥といった小道具や、陣痛や赤ん坊の鳴き声をもろに連想させる効果音、そして見たままその意味がわかるストレートな振付は、んー・・・。
生まれ出た直後のライトのたどたどしい歩き方も、こういう直球な振付で状況説明するのはいかがなものか。
「踊り」という制限された手段の中で無限の世界を表現するのが、バレエの良さなのではないだろうか。
(ちなみに同じ理由で、バレエのマイムという手法も私はあまり好きではありません)
でも気になったのはそれくらい。
全体としてとっても好きな作品だし、感動しました。
こんなことなら、もう一日チケットをとるんだったー。
でも今日は千秋楽。
カーテンコール。
3~5階は結構空席があったので、拍手が少なかったら可哀想だな・・・といらぬ心配をしてしまったのですが、皆さんエライ!あの人数であれだけの大きな拍手とブラヴォー、素晴らしい。
ダンサー全員での「おー!」の雄叫びカーテンコールも迫力でした(これ好きなので、もう一度見られて嬉しかった♪)。
で、何度目かのカーテンコールの後、一旦幕が降りて照明がつき、鳴り止まぬ拍手に再びカーテンが上がると、電球で「"SAYONARA" See you again」の文字と、上から降る真っ白な紙吹雪。
客席は拍手喝采。
それから再度幕が上がったときは、紙吹雪の中のダンサー達も一緒に拍手をして、みんなとってもいい笑顔
暖かく幸せな気持ちをいっぱいもらうことができた一日でした。
明日は、3月11日。
あの東日本大震災からちょうど2年目です。
BBLがそれを意識したかどうかはわかりませんが、この時期に“希望の光”と“誕生”を描いた『ライト』を演目に選び、踊ってくれた彼らに心から感謝したいと思います。
そして前回の来日公演を観に行かれて、次回もきっと観に行こうと思いながらそれが叶わなかった方達も、きっといらっしゃっただろうと思います。
今日こうして上野に行き、観たい舞台を観られることがいかに有難いことか、そのことを忘れてはならないと改めて思いました。
チケットの売れ行きがあまり芳しくなかった今回の公演でしたが、ぜひぜひまた日本に来てくださいね、BBLの皆さん!
素敵な舞台をありがとうございました!
カーテンコールが終わり客も帰り始めた頃、幕の向こう側から大きな拍手と喝采が聞こえてきました。
怒涛のBBL週間も終わり、これでしばらくバレエとはお別れ。
次回は7月の英国ロイヤルバレエ団の日本公演で、コジョカル&コボーの白鳥の湖です。
祭りの後の寂しさとでも言いますか、今はとても楽しかった余韻と寂しい気持ちでいっぱいですが・・・。
でも気分を切り替えて、来週から6月までは歌舞伎祭です♪
歌舞伎座の杮葺落という数十年に一度の歴史的イベントを、存分に楽しみたいと思います。
そういえばベジャールは、歌舞伎をテーマにした作品も作っていましたね。
過去も未来も、バレエも歌舞伎も、ヨーロッパも日本も、みんながどこかで繋がっているんだなぁ。
★Aプロ(3月4日)の感想はこちら
★Aプロ(3月5日)の感想はこちら
※『ライト』についてカテリーナ&オスカーのインタビュー
♪モーリス・ベジャール・バレエ団「ライト」PV
なんて美しい旋律。。
今回の日本公演の曲目はすべてプログラムに載っていたので、それを頼りにヴィヴァルディのCDを探そうと思います。
先日に引き続き、二度目のAプロです。
違う点は、「ボレロ」のメロディがエリザベット・ロスであること。
『ディオニソス組曲』
やっぱり好き、この作品。
今日は二度目なので、オスカーばかりに目がいっていた昨日とちがい、舞台全体を余裕を持って観ることができました。
波の音とともに始まる最初の酒場の場面は、どのダンサーもとても艶やかな踊りなんですね。いいわー。うっとり。。
若者役の大貫さん、男性群舞のときはもちろんだけど、酒場のときの踊りもすっきりしていて、改めていいなと思いました。
そしてオスカーは、今日もやっぱり素晴らしかった。女性群舞(赤と黒の衣装の)や男性群舞が踊っているときに、一人だけ輪から外れてその様子を余裕いっぱいに楽しそうに眺めてるあの表情。なのに男性群舞の中に助走をつけて飛び込んでいく直前に鋭く群舞を見据える目が・・・もう・・・!あそこの踊り、大大大好きです。『シンコペ』では普通の明るい若者なのに、こっちではちゃんと神に見えるから不思議。実に美しく、セクシーで、眼福なディオニソスでした。
もっとも今日の席はL側だったので、マヌーラ・ムウの場面のあの子供のように眠るオスカーが全く見えなかったのは非常に非常に残念でありました・・・。一方R席からは見えずL席からは見えたのは、器械体操服な那須野さん笑。
本日のゼウスは、ジュリアン。ギリシャ彫刻のような顔立ちなのだけれど、いわゆる“ゼウスっぽい”雰囲気は感じられず、好色が特徴なゼウスにしては清潔でソフトすぎる雰囲気。
と最初は思っていたのですが、セメレーの子宮から胎児(ディオニソス)を取り出し、自分の腿に埋めるあたりのジュリアンが・・・・大変ツボでした!自分のせいでセメレーが死んだのだから本来なら非常に嘆き悲しむべき場面であるところ、そういう人間らしい感情を殆ど表さないこのゼウスは神らしくてよかった。一般的な猛々しいゼウスのイメージとは違うけれど、こういうゼウスもありかも。ギラギラ感がなく淡泊で、思うままに男も女も愛して、それに対する罪悪感は希薄。だって神だから。そんなゼウス、萌える。
カテリーナ・シャルキナのセメレーもとても綺麗でしたが、ジュリアンもカテリーナも、お互いを愛している感じがせず、友人同士のように見えてしまったのは残念でした。これはゼウスが神っぽくてよかったということとは、別の問題かと。
『シンコペ』
昨日より、二度目の今日の方が楽しめました♪
無機質は無機質だけど、ダンサー達はとても楽しそうに踊っていて、観ているこっちも楽しくなる。
カテリーナ・シャルキナ&オスカー・シャコンの二人が、明るくキレがあってよかったです。
またこの作品の味も、少しわかったような気がしました。
いつか死ぬときに、その瞬間には頭の中でこんなことが起きてるかもしれないって想像すると、なんだか死ぬのが怖くなくなる。そんな風に思わせてくれる作品。
こういう発想が出てくるジルの頭の中って、一体どうなってるんだろうか。。
でも、単体でチケットを買いたいような作品か?と言われれば、やっぱり答えはNoかな・・・(ごめんね、ジル!)
『ボレロ』
すごかったです、エリザベット・ロス・・・。
昨夜のジュリアンが心に残ったままだったので今日はノれるだろうか?と少し心配だったのですが、そんな心配は完全に無用でした。
ジュリアンとは全く別物のボレロ。
しなやかに、しかしエロスによるわけではなく、あくまで毅然とリズムを支配し、最後にはリズムを、そして観客全てをも丸ごと包み込む母性のようなものさえ感じさせる強く、気高く、暖かなメロディ。
そこにあるのは、強い「生」。
最後の「死」でさえも、自ら納得して飲み込まれていく潔さがある。
彼女のメロディは、パンフにあるこの言葉がぴったりだと思いました。
「少しずつ他のダンサーたちに囲まれていくテーブルの上のソリストの踊りは一種の永久運動を思わせる。厳密さと性的欲望の狭間で、ベジャールは“挑発的”側面を拒むことによって、ソリストとダンサーたちのあいだに明白な官能的対立が存在しながらも、ダンスは純粋であり続けるという、驚くべき平衡を保つことに成功した」
でも昨日のジュリアンのボレロも、ほんと良かったのです。
あの不思議な絆のあるメロディ&リズムはクセになる。
今日のカーテンコールはリズムの「おー!」の叫びも無かったなぁ。あれ、好きだったのに。。
二つのボレロの印象を一言でいうなら、ジュリアンのそれはとても男性的なボレロで(ディオニソス組曲の「男性的」とは違う意味で)、エリザベットのそれはとても女性的なボレロ。
ボレロって、メロディを踊るダンサーによってこんなにも全体の印象が変わるんですね。
全く違うタイプのボレロを二日連続で観られたことは、実に贅沢な体験でした。
一方で二人のボレロに共通しているところは、“人間の体温”を感じさせるところだと思います。ジュリアンやエリザベットのメロディにはリズムに対する不思議な優しさがあり、たとえ最後にあるのが「死」だとしても、観終わった後に心に暖かいものが残るボレロでした。
私はとても好きだなぁ、こういうボレロ。
そして、踊り始めるときは汗一つかいていないメロディの体が、だんだん汗で光り始める過程は、何度見てもうっとりしちゃいました。その身体、その内に秘められた感情に、人間って本当に綺麗だなぁって感じた。
あと、やっぱりリズムの那須野さん。
今日は昨日と反対側の席だったので、那須野さんと同時に立ち上がるR側のダンサーが見えたのですが、メロディに反応している様子が、昨日観た那須野さんの方が繊細に表現されていたように感じました。
こういうある意味セクシーな踊りってアジア人には本来不向きな気がするのに、そんなことないどころか、すごくいい。
とはいってもリズム全部がアジア人になってしまうと、あの美しくも濃い独特の空気はおそらく出ないように思うので、アジア人が少し混ざっている程度が割合としては丁度いいのではないかなと思います。だからこそ那須野さんのようなダンサーの魅力も引き立つのではないかと。
他に今回気付いたことは、ボレロって少し上の位置から観た方が絶対にいいですね。
上から観ると、リズムがメロディを囲んでいく様子がよくわかる。
もっとも臨場感も大事だと思うので、2階席くらいが理想的ではないかなと思いました。
ところで。
メロディを踊るにはベジャール(今はジル?)の許可が必要って、ナニサマと思ってしまうのは私だけだろうか。
むかし友人からその話を聞いたとき、友人は「だから貴重なんだよ」と言っていたけれど、私は「はぁ?」と思いましたよ。
「ベジャールのボレロ」を引き継いでいきたいのなら、BBLが引き継げばよいのです。観客はそのボレロを一つの基準にするでしょう。それでいいではないですか。
悪いメロディに踊られて「こんなのがボレロと思われては困る」という考えが根本にあるのだとしたら、観客の観る目を信用していないとしか思えないです。良いメロディも悪いメロディも、みんなにどんどん踊らせればいい。あとは観客がちゃんと判断しますよ。それこそ「白鳥の湖」のように。
そもそもボレロはメロディだけでなくリズムによっても全く雰囲気が変わるのですから、やるならリズムまで指名しないと意味ないと思うのです。youtubeに東京バレエ団のボレロが上がっていますが、BBLのリズムとは全く別物ですし(どちらが良い悪いではなく、別物だと思います。私の好みはBBLの方ですが)。
またメロディの印象も、リズムによって全く変わります。
だったら、メロディ指名制なんかいらなくね?と。
そのあたり、どうもベジャールさんの考えに共感できない私でした。。
☆アフタートーク(ジル・ロマン&エリザベット・ロス)☆
本日のジルは、めっちゃご機嫌。
エリザベットはとても落ち着いていて、昨日のジュリアンに比べると、ずっとお姉さんって感じ笑。
でもキュートな雰囲気もあり、彼女もとても性格がよさそう。
ジルは今日も最後はレディファースト。さらに観客に向かって投げキッス!
最後まで上機嫌なジルでした。
そしてすっかりBBLに嵌ってしまった私は、『ライト』のチケットを追加購入してしまいました、と。
さすがにお財布がもたないので、3000円のエコノミー券にいたしました。。。
★Aプロ(3月4日)の感想はこちら
★Bプロ(3月10日)の感想はこちら
♪『ディオニソス』より、ショナ・ミルクのソロ
このマヌーラ・ムウの場面のハジダキスの音楽が切なくて、泣きそう。。。
でも、演出が『~組曲』とはだいぶ違うのですね。
後ろでずっと仁王立ちしてるレイザーラモンみたいなの、もしかしなくてもゼウス?やだこの衣装、猛々しすぎるでしょ・・・。いくらなんでも二丁目すぎるでしょ・・・。と思ったら、別動画でこれはニーチェであることが判明。じゃあこの杖みたいのは何なのだ・・・?ペン・・・?
そしてディオニソスが眠らないで歩いてる・・・。マヌーラ・ムウ(組曲ではセメレー役とは違うダンサーが踊っていました。もちろんセメレーを象徴しているわけですが)が、子供のように眠るディオニソスを優しく撫でるあの仕草が大っ好きなのに(><)!
とはいえ、この映像のショナ・ミルクは、文句なしに美しいですね。
♪エリザベット・ロスの『ボレロ』
実際の舞台の迫力は全く伝わりませんが、この演目で“引き”のカメラ映像は貴重なので。
リズムあってのメロディ、リズムあっての「ボレロ」ですもの!
われらギリシャ人、われらには必要なのだ・・・
ワインが、音楽が、太陽が、海が、そしてわれらの神々が必要なのだ。
(『ディオニソス組曲』より)
昨年12月にマリインスキー・バレエ団の来日公演に感動した夜に勢いのままチケットを購入したモーリス・ベジャール・バレエ団の来日公演を、本日観てまいりました。
定時と同時に職場を飛び出し、上野着18時20分。エキナカで20分で夕飯を掻き込み、文化会館へGO♪
演目は、「ディオニソス組曲」「シンコペ」「ボレロ」の3つ。
『ディオニソス組曲』
ベジャールの代表的な作品の一つ『ディオニソス』からの抜粋版とのこと。
例によって「ディオニソスとは何ぞや?」くらいは知っておかねばと、昨夜になり予習を始めた私。
ギリシャ神話はこれまで幾度も挑戦し、そのたびにカタカナの名前の前に挫折した、私にとっては結構高いハードルでございます。
が、ディオニソスが「酒と演劇と狂気の神」という思いきりツボな神様であったために今回は案外すんなり入ることができ、それどころかギリシャ神話が楽しくて仕方がなくなってしまい、ゼウス、アポロン、ヘルメス・・・と今回の演目には全く関係のない方向に興味が行きながらも、テンションだけはすっかり上がって迎えた当日。
よかったです!!
今回はボレロ目的で買ったチケットでしたが、思わぬ良い作品に出会えて感激。
なによりディオニソス役のオスカー・シャコンが素晴らしかった。
最初のタベルナ(居酒屋)の場面では神というより普通の若者という感じで水夫や女達に混じって楽しそうに踊り、白いドレスのマヌーラ・ムウ(リザ・カノ)との場面では子供のように眠りに落ちる姿がなんとも愛おしく儚げで(このときの少し寂しそうな表情がまた・・・)、ラストのバッカス賛歌の場面では鮮やかなオーラを放つ神になる。
特にラストの真っ赤なヴェルサーチの衣装を身に纏った男性群舞の踊りを、最初は離れたところから一人面白そうに眺めていて(足を崩して座る後ろ姿も様になってます)、そして機が熟した頃にサッと軽やかにその輪の中に躍り出て、彼らの中心となってしなやかに踊るそのカッコよさ!
イタズラっ子のような表情も、いかにもディオニソス。
ただ時々その外見と振付が相まってM.ジャクソンに見えて困りましたが・・・^^;(←私だけですかね)
しかし本当に鮮やかで綺麗な踊りだったー。薄い目の色も綺麗。
あと、若者役の大貫真幹さんと、水夫役の那須野圭右さん、この二人の日本人ダンサーも素晴らしかったです。
男性群舞のときの大貫さん、高速再生してるようなスピードで踊っても、まったくぶれてない。キレも迫力もあって、とてもすっきりと洗練された踊りをするダンサーですね。なのに味もあって。いいもの見させてもらいました~。
ギリシャ神話一夜知識のおかげでゼウス(ハリソン・ウィン)&セメレー(ポリーヌ・ヴォアザール)の踊りの振付の意味も理解できたし。ゼウスの衣装は微妙だったけど…(あの斜めの襷みたいのって必要…?)。
那須野さんが中盤でディオニソス&ギリシャ人と三人で踊るときの白い衣装も、なんだかオリンピックの体操選手みたいに見えてしまった。あれは水夫が上着を脱いでる姿ということなのかしら。。
そういえばヴェルサーチも同性愛者でしたね。あの赤の衣装はよかったなー。汗で光った裸の上半身の筋肉が赤に映えて実に美しく、オスカーなんてギリシャ彫刻を見てるみたいだった。
最後に横尾忠則さんの絵ですが・・・、絵そのものの良し悪しはともかく、このバレエ作品にとってはあまり良い効果を生み出していないように私には感じられました。バレエって言いたいことは可能な限り「踊り」で表現すべきだと思うのですが、この絵は絵自体が具体的な主張をしすぎていて、踊りと合わさるとちょっとクドイというか、過多に感じたというのが正直なところ。まぁベジャールさんはそうは感じなかったのでしょうけれど。
『シンコペ』
こちらはベジャールではなく、ジル・ロマン氏による振付の作品。
「シンコペーション」とは医学用語で「心臓停止」を意味し、人間が意識喪失に陥ったとき脳では何が起こっているのか?に思いを至らせた作品とのことですが、日本人の私にはその世界は飛び過ぎていて。。。面白味はあるのだけれど、どうにも無機質に感じられ。。。
ディオニソス組曲とボレロはどちらか単体でもチケットを買いたいと思う作品だけど、これは・・・。
でもネットでは「よかった」と言っている方も多いので、単に私の好みと合わないだけかと。
二つの濃い演目の間のほどよい息抜きにはなりました(超失礼ですね、すみません^^;)。
『ボレロ』
今回の来日公演はエリザベット・ロスとジュリアン・ファヴローが交互にメロディを踊るのですが、本日はジュリアンの日。
ジュリアンはすでに2日の日にボレロを踊っておりまして、それを観た方々のネットの感想が「地味」「固い」「大人しい」とネガティブな言葉ばかりが並んでいたので、覚悟して行った私でしたが――。
とても、心に響くボレロでした。
おそらくジュリアンのボレロは多くの人達が「ボレロ」に期待しているものを、くれないのだと思います。
「リズム」を惹きつけ奮い立たせる求心力、カリスマ性、官能性。円卓の上で孤高の存在としてリズムを支配するメロディ。
殆どの観客がメロディに対して期待しているのは、おそらくそういうものだと思います。
ですがジュリアンのメロディは、まったく違います。
そもそも、顔が思っていたよりも老けていて、「あら、ただの地味なおっさん?」と最初は思っておりました、私(しかし、そんな彼より私の方が更に一歳おばはんであることをここに白状いたします…)。
赤い円卓の上で静かに踊り始めるメロディ。このときのジュリアンは、まるでリズムが一人だけ円卓に上がってしまったような目立たなさ、心もとなさです。そんなメロディにまったく関心を示さないリズム達。それでもただ一人、踊り続けるメロディ。やがてリズムが一人、二人と共鳴し始めます。メロディの踊りには、どこかリズムを反応させるものがあるからです。しかしそれは「ふん、なんか面白そうな奴がいるじゃん」と超上から目線でメロディを値踏みしつつ、一人で踊ってるメロディがなんか気になるっていう感じ(ツンデレ笑)。けれどメロディも男、リズムも男なので、それだけではありません。僅かでもメロディに隙あらばいつでも食らい付こうと彼らは目を光らせています。メロディは踊り続けます。また一人、二人と立ち上がるリズム。次第にメロディとリズムの間に不思議な共感のような友情のようなものが現れ始め、互いに共鳴し合いつつ上がっていくテンション。どこか必死に、大切な何かを求めるように踊り続けるメロディ。それは確実に死へと向かっていますが、彼は踊るのをやめません。そして最高潮に達し、ついにはリズム達に「ちっ、ったくしゃーねぇなぁ。わぁったよ。俺たちも一緒に死んでやるよ!」って思わせてしまうメロディ。
ってな感じです笑。
そんな風に彼らを突き動かす何かが、ジュリアンのメロディにはありました。リズムが放っておけないメロディというか。
まさかこういうボレロを観ることになるとは予想外。最高。
前半が静かで大人しいだけに、ラスト5分のジュリアンの踊りはキました。
なんて表情して踊るのよー、ジュリアン…泣
観ていて切なくて泣きそうになった。
赤と黒の舞台の上で、白い肌と金髪と青い目が透き通っていて、本当に綺麗で。
あんな表情、あんな踊り、反則。
帰りの電車の中でも、家に帰った今も、あの踊りと表情が頭から離れなくて困る。
またカーテンコールがカッコよくて!
ジュリアンが、本当に本当に嬉しそうで。
一番最後にジュリアン&リズムが手を繋ぎ「おー!」って雄叫びを上げて挨拶したカーテンコール、迫力あって素敵だった~。
今までyoutubeでしか観たことがなかったので気づきませんでしたが、「ボレロ」ってメロディと同じくらいにリズムの踊りもカッコいいんですね!那須野さん、すごく良かったです!
☆アフタートーク(ジル・ロマン&ジュリアン・ファヴロー)☆
本日は、公演後にジル&ジュリアンによるアフタートークがありました。
ジュリアンはお着換え中なため、先にジルだけ登場。
私はBBLは今日が初めてなので詳しくないのですが、ジルっていつもああいうニヒルな雰囲気なんでしょうか?
司会の佐藤友紀さんが「ジルさんは嫌がられているところを無理にお連れしました~。っていうのは冗談ですが(笑)」みたいなことを最初に仰っていましたけど、冗談に見えないんですけど・・・^^;
で、ジルがディオニソス組曲について話しているうちに、ジュリアンがお着替え終了。
舞台から袖に向かって「ジュリアーン!」と呼ぶジル、カッコよかったです(*^_^*)
そしてラフな格好に着替えたジュリアン登場~。
ジュリアン、性格よさそう~。
ジルが話してる間何度も客席の方を興味津々に眺めて、お客さんと目が合うとニコッって笑顔。
「あなたにとって“ボレロ”とは?」という質問には、ベジャールの振付に忠実に踊るように心がけてること、毎回メロディの踊りは違うけれど今日はリズムとの関係性を大事にしたこと、ベジャールは「メロディは幕が開いた瞬間から死に向かっている」と話していて、メロディは最初から自分の死がわかっていること、そんな彼が獲物を狙うようなリズム達と戯れ、共に死に向かってゆく関係性を意識した、などなど興味深い話も聞けました(パンフに載ってるインタビューと殆ど同じ内容でしたけど、笑)。
また、ジュリアンのメロディは最後の方で「は!」と声を上げるのですが、それは何かという質問には、「今際の叫びのようなもので、意識せずに出ていた声」と答えていました。
ジュリアンが息もつかずに話して酸欠気味になってるところに「深呼吸して」と笑うジルは、優しいお兄さんって感じでした。いいなぁ、この二人の雰囲気。
最後に舞台を去るときは、ジルは司会&通訳の女性を先に行かせるレディーファースト。もしかしてジルってシャイなだけとか?でも、やっぱりちょっと表情がコワイよ・・・^^;
一方ジュリアンは、拍手で見送る観客に向かって両手を前で合わせて笑顔でペコッってお辞儀。
かっ…可愛い…っ。
周囲の人たちも「可愛いお辞儀!」って^^
ジュリアン、ペットボトルの水を飲むときも両手で飲んでて、可愛かった。
最後は袖に入る直前まで手を振ってくれて、すっかり今日一日でジュリアンのファンになってしまいました。
明日(5日)は、エリザベット・ロスのボレロを観に行ってきます!
思わずチケットを追加購入しちゃったのですよ。。4階席だけど。
楽しみです♪
ディオニソスももう一度観られて嬉しいな。
また感想あげますね~。
★Aプロ(3月5日)の感想はこちら
★Bプロ(3月10日)の感想はこちら
※『ディオンソス組曲』について那須野さんのインタビュー
※『ボレロ』についてジュリアンのインタビュー
ベジャール・バレエ団 ポスト・トーク(G.ロマン/J.ファヴロー)