風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

星野さん、アラスカ、旅をする木

2020-07-29 23:18:46 | 



人間の世界とは関わりのない
それ自身の存在のための自然。
アラスカのもつその意味のない広がりに
ずっと魅かれてきた。



ぼくたちが毎日を生きている同じ瞬間、もうひとつの時間が、確実に、ゆったりと流れている。
日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか、それは、天と地の差ほど大きい。




自然はいつも、強さの裏に脆さを秘めています。
そしてぼくが魅かれるのは、自然や生命のもつその脆さの方です。




人間の気持ちとは可笑しなものですね。

どうしようもなく些細な日常に左右されている一方で、風の感触や初夏の気配で、こんなにも豊かになれるのですから。
人の心は、深くて、そして不思議なほど浅いのだと思います。
きっと、その浅さで、人は生きてゆけるのでしょう。


上に載せた言葉はすべて、写真家の星野道夫さんの言葉です。
写真は、最初の3枚はデナリで出会った女の子がカトマイで撮ったもので、最後の1枚は私がフェアバンクスで撮ったもの。ともに一人旅で同年代、初めてのアラスカでした。私はアンカレジ→デナリ→フェアバンクスという旅程でしたが、彼女はデナリ→アンカレジ→カトマイという旅程でした。「一緒にカトマイも行こう!」と誘われたけど、さすがに初めての海外一人旅で現地で旅程を変更する勇気はなく、また星野さんが住んでいたフェアバンクスに行くことがその旅行の一番の目的だったので、デナリでお別れしたのでした。旅行後にカトマイで撮った写真を送ってくれたメールには、「アラスカに一人旅をするような女の子が私の他にもいると知って、とても嬉しかった」と書かれてありました。私からも彼女にフェアバンクスで見たオーロラの写真を送ってあげたかったのだけど(贅沢なことに毎晩飽きるほど見られた)、当時の私はオーロラを写真で撮るという技術がなく。彼女はめっちゃいいカメラを持っていたので、私がデナリでコンデジでカシャカシャ動物の写真を撮っていたら、「あなた、そんなカメラを持ってデナリに来るなんて…Oh My God!」的に嘆かれた(笑)。

このアラスカ旅行は、私の長年の夢を叶えたものでした。
18歳のときに龍村仁監督のNTTデータスペシャル「未来からの贈りもの」(1995年)の中で星野道夫という写真家の存在を知り、星野さんの場面ばかりVHSが擦り切れるほど何度も何度も繰り返し見ました。いつか必ずアラスカに行こう、もし手紙を書いたら星野さんは会ってくださるだろうか?とまで考え(笑)、星野さんの著作や写真集を買い、お守りのようにしていました。ですが翌年の1996年、星野さんはカムチャツカで亡くなられました。あの日、母親が「これ、あなたの好きな写真家の人じゃない?」と持って来た新聞を見たときの気持ちは、25年たった今でもはっきりと覚えています。
それから9年後、28歳のとき、夢を叶えてアラスカに行きました。初めての海外一人旅がアラスカで、ツアーではなく自由旅行。フェアバンクスの郊外では携帯電話も通じない。私自身はケロっとしていましたが(携帯が通じない場所にいる解放感といったら!)、母親はものすごく心配していたそうです。なのに一言も反対せず行かせてくれた親には、感謝しています。

なぜ急に星野さんの話をしたかというと、今日のヤフーニュースで、三浦春馬さんが2018年10月のインタビューで星野さんを大好きだと仰っていたこと、プライベートで行きたい国を尋ねられて「死ぬまでに一度はアラスカでオーロラを見てみたいです!」と目を輝かせていたということを知ったからです。調べたら昨年9月のインタビューでも、「人生を変えた本」として星野さんの『旅をする木』をあげていらっしゃいました。以下は、そのときのインタビューの春馬さんの言葉。

 星野道夫さんは、アラスカの大自然と動物の写真を撮り続けた写真家・随筆家で、ヒグマに襲われて亡くなってしまったのですが、何冊も本を出されています。写真はもちろん、言葉もとても美しくて。自分の調子が悪かった時、彼の使う言葉に癒され元気づけられました。

 なかでも印象深いのは、アラスカの住まいで窓を開けていたらベニヒワという頭とお腹が真っ赤な小鳥が部屋に入ってきて、妻とそれを見ながら幸せを感じるというお話。幸せを感じさせてくれるこの環境と妻の存在に感謝したいという星野さんの思いが、すごくきれいな言葉で綴られているんですよ。また、東京での暮らしを書いている章もあって、アラスカで書いている時の文章と、言葉の使い方や並び方が全然違うんです。人は環境に応じて選ぶ言葉が違うんだなと面白く感じました。

 星野さんの本に出会ってから、いつかアラスカに行きたいと思うようになりました。彼が住んで感じた、自然と共存して生きていくなかで生まれるインスピレーションを自分も体感したい。きっと、すごく癒されるし、生きていく上で励みになる気がするんですよね。今はまだ叶っていませんが、いつか必ず行きたいなと思っています。

前回のブログ記事で私は「これまでの人生で私は自ら命を絶とうと思ったことはありません。なぜなら私にとってこの世界は自ら去るには美しすぎるのです」と書きましたが、そのときに頭に浮かんでいたのは、星野さんのことでした(春馬さんが星野さんをお好きなことは、このときは知りませんでした)。
星野さんが綴るこの世界の美しさは私が子供の頃からずっと肌で感じてきたもので、それを言葉という形にしてくださった人が星野さんでした。

ところで星野道夫という人について語られるとき、世間の関心を集めがちなのはその最期です。
私自身はそこに大きな意味があるとは思っていません。できるならアラスカで死なせてあげたかったな、とは思うけれど。
ただ、その最期について思うとき、いつも想像することがあるのです。
星野さんは21歳のときに親友を山で亡くされています。本の中では具体的な山の名前は書かれていませんが、1974年7月の新潟焼山の噴火のときのことであるとわかります。噴火が起きたとき、頂上付近にいた千葉大の学生3名が亡くなりました。このうちの一人が星野さんの親友でした。『旅をする木』の中で星野さんはこの出来事を振り返って、こんな風に書かれています。

 中学生の頃から親友だったTとぼくは、いつもある共通の憧れを抱いていた。見知らぬ遥かな土地、そこに生きる私たちとは違う価値観を持った人々、人間の知恵をもってさえどうすることもできない自然の力……そんな世界をいつか見に行くのだという漠然とした夢だった。(中略)その夜、江戸時代からずっと眠り続けていたこの山が大噴火を起こすとは、一体誰が想像しただろう。Tは何という時の迷路に入り込んでいったのだ。けれども、それは私たちがいつも語り合った世界ではなかったか。最期の時、あいつは振り返って目の前で噴き上がる火山をじっと眺めただろうか。Tは帰って来なかったが、あの時の不思議な気持ちは今でも覚えている。気がつくと、やり場のない悲しみをふっと忘れ、あの夜一体何を見たのかぼくはTに問い続けているのである。

この感覚、私にはとてもよくわかるのです。
おそらく世間一般的には理解されがたい感覚なのではなかろうか、とも思います。
でも結局、亡くなった人が最期に何を思ったかは、その本人にしかわかりません。

星野さんが亡くなったのは43歳。今の私と同じ歳のとき。
春馬さんが「死ぬまでに一度はアラスカでオーロラを見てみたい」と言っていたのは、28歳のとき。私がアラスカに行ったのが、28歳のとき。その当時の私が何を思っていたかというと、「死ぬまでに絶対にやりたいと思っていることがあるなら、いつかではなく、今しよう」でした。昨年のインタビューで「きっと、すごく癒されるし、生きていく上で励みになる気がするんですよね。今はまだ叶っていませんが、いつか必ず行きたいなと思っています。」と仰っていた春馬さん。そうだよ、アラスカでの体験はあれから何年たっても私に生きていく力をくれているよ。だからあなたも全部を投げ出してアラスカにでもどこにでも行ってしまえばよかったのに、と強く思ってしまうけれど、彼が置かれていた立場は急に退職しても部署の数人にしか迷惑をかけない私とは違い、あまりにも多くの人やお金が関わっている立場だったものね…。俳優って大変な職業だな…。
最後にもうひとつ、星野さんの言葉を。『旅をする木』より。

結果が、最初の思惑通りにならなくても、そこで過ごした時間は確実に存在する。そして最後に意味を持つのは、結果ではなく、過ごしてしまった、かけがえのないその時間である。

アラスカ、またいつか行けるかな。
本当なら今年か来年に行く予定だったのだけれど…(今回こそカトマイに行こうと地球の歩き方も買ったのに

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Who never feels lonely at all under this endless sky...?

2020-07-19 13:35:36 | その他音楽




こんにちは。
ミニトマトのぬか漬けが美味しいとネットで読んだので作ってみたら、それほど美味しくなくて悲しいcookieです。
そしてアムステルダム国立美術館のデジタルツアーを見ていたら『夜警』が巨大なガラスケースの中に入っていて「モナリザに続きお前もか!」とググったら、昨夏から修復中とのこと(ほっ…)。
その記事に「修復過程を一般公開するという前代未聞のプロジェクト!」と書かれてあって、「?」と。
なぜなら私は20年ほど前にミラノでダ・ヴィンチの『最後の晩餐』の修復過程を一般公開で見ているので。しかしググってみたら最近の記事やブログにはみな「『最後の晩餐』は長年の修復期間を経て1999年5月に公開が再開された。」と書かれてあってビックリ。いやいやいや、ワタシ、1999年2月に見ているし。祖母もその数年前にやはりミラノで見ているし。あれから20年しか過ぎていないのに、こうして歴史というのは案外簡単に塗り替えられてゆくものなのかもしれん、とそんなことを思ったのであった。
歴史の塗り替えといえば、8月末まで小学館が「まんが 日本の歴史」を全巻無料公開してくれているので、読んでいるのです。古代からずっと読んでくると、「歴史」というのは勝者が作ったものなのだな、と改めて感じる。与えられた情報を100%無条件に信じてはいけない、「真実」は常に一つであり別のところにある、ということを感じるのでした。そういう意味では「情報」のいい加減さというのは、古代からずっと続いているものなのだな、と。といって「情報」に価値がないわけでは絶対にないので、要は受け取る側の客観的&俯瞰的視点が大事、と改めて思うのでありました。

さて、このブログにはメインのホームページがありまして、今もそのトップページに置いているのが、この夜明けの東京の写真です。目白の椿山荘(当時のフォーシーズンズホテル)から撮ったもの。
そしてこのブログの副題「Who never feels lonely at all under this endless sky...?」はブログを始めた2006年からずっと使用しているもので、中島みゆきさんの『たかが愛』の一節の英訳です。
日本語の歌詞は、「ああ この果てない空の下で 独りでも寂しくない人がいるだろうか」
ブログ開設当時はCDの歌詞カードに記載されたままの英訳を載せていたのですが、副題にするには少々長かったので、途中で変えました(英文法的に正しいかどうかは自信なし)。
これは2番の歌詞で、1番の同じ部分の歌詞はこうです。
「ああ この果てない空の下で 何ひとつまちがわない人がいるだろうか」

私は、20代前半の頃にどん底の精神状態になったことがあって。
表向きは普通にしていたので、誰も気づいていなかったと思いますが。
わーーーー!という激しい感じではなくて、どちらかというと虚ろな精神状態でした。自分が静かに消えてしまいたい、というような。好きなことも楽しめなくて何もやる気が起きなかったので、今思えば軽い鬱状態だったのかもしれません。
ある日の夕方、自宅で不注意で怪我をしたんです。病院に行くほどではないけど、真っ赤な血がダラダラと垂れてくるような、それなりに深い怪我。そのときに私、全く痛みを感じなかったんです。自分でも驚きました。正確には、痛みはあるんです。でもそれはある種の刺激でしかなくて、「痛い」と全く感じない。むしろ、心地いいんです。赤い血の色もすごく綺麗で、「私の中にも赤い血が流れているんだなあ」って不思議な気がしました。気持ちがいいから治療しようという気が起きない。どころか、もっと傷を深くしたいという強い欲求にかられました。新たな傷もつけたくなりました。
でもハッとして、縋る気持ちで必死で手を伸ばしたのが、部屋にあったみゆきさんの『大銀幕』のCDでした。
その少し前に、店頭に並んでいたのを、たまたま見かけて買っていたんです。ちょうどリリースされた頃だったんだと思います。みゆきさんは好きなアーティストでしたしシングルのCDもいくつか持っていましたが、アルバムは聴いたことがありませんでした。
糸、命の別名、たかが愛、愛情物語、世情、with、私たちは春の中で、眠らないで、二隻の舟、瞬きもせず。
すべての曲を繰り返し、繰り返し、聴きました。
みゆきさんの歌は「人間というのは愚かなものである」と、愚かである私の存在をそのまま受けとめてくれました。
以前「命の別名」に救ってもらったと書いたことがありますが、同じくらいに「たかが愛」、「with」、「二隻の舟」、「瞬きもせず」といったこのアルバムに収録されている全ての曲に、私は救っていただいたんです。あのときこのCDに出会えていなかったら、今私はここにはいなかったろう、と思っています。自殺はしていないと思う。でも、ここにはいないと思う。

私は自殺は罪だとは思っていません。どころか、それは救いです。私のような人間には、死にたくなればいつでも死ねるという選択肢が残されていることは、どれほどこの世界を生きやすくしてくれていることだろう。
でも、私は自ら命を絶とうと思ったことは、少なくともこれまでの人生では一度もないのです。
「いま私の上に隕石が落ちてきて、死ねたらいいのに」と本気で願ったり「消えてしまいたい」と思ったことは何度もあるけれど、実行的に自らの命を絶とうと思ったことは一度もありません。
その理由は、おそらく全く一般的ではない、ちょっと変わった理由なんです。
私にとって今生きているこの世界は、自ら去るには美しすぎるんです。どんなに辛い状況にいても、透明な青い空、雨粒に揺れる新緑、白々とした月、柔らかな風、美しい動物達、そういったものを見て、感じていると、それらを二度と感じられなくなることが惜しいと感じてしまう。いつかこの肉体がなくなってそれらの一部になれるのも嬉しいことだけれど、遠からず必ずその日はやって来るのだから、もう少しここにいて、この肉体でこの空や風を感じていたい、とそんな風に感じるのです。たとえ人間や社会の中ではうまく生きることができなくても、この世界の美しさは私を数十年間ここに繋ぎとめるのに十分な理由となる美しさなんです。
まあ私がいなくなると悲しむ人がこの世界からいなくなって、私自身ももう十分だと感じるときが来たら自ら去るときが来るかもしれませんが、どんなに生きていてもあと数十年。それはそんなに長い時間ではないような気がする。
急ぐ必要はないのではないか、と今の私は感じています。
そして明日の今頃自分が何を思っているかは、私自身にもわかりません。自分にも自分のことはわからない。だから、もし健康な肉体を持てているのであれば、できれば命は残しておいた方がいいよ、と若い人達には伝えたいです。

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KLM: Holland at Home - 8D sound、Rijksmuseum At Home

2020-07-18 01:17:26 | 日々いろいろ

東京だけGo Toキャンペーンの対象外とは、、、。
神奈川、千葉、埼玉は東京とほぼ一体なのだから、この3県も同時に対象外にしないと抑え込み効果は薄いのでは。
と、神奈川県民の私は思うのであった。
そしてなにより、計画性皆無の政府にふりまわされている観光業界の方々が気の毒すぎる。。。

さて、本題。
一昨年の旅行以来KLMオランダ航空からメールニュースが届くのですが、今日の内容は「おうちでオランダ旅行を楽しみましょう」と。「8Dサウンドだから必ずヘッドホンをつけて見てね」と。




アムステルダム国立美術館(Rijksmuseum)。
これ、自分が絵画の中に入ったような気分になれて素敵(8D soundはあまり体感できないけど…^^;)
美術展のオーディオガイドでも時々こういう演出があるけど、あれ大好きなんです。
日本の美術館もこういう動画サービスをやってほしいなあ。浮世絵で見たい


マドローダム(Madurodam)。
こちらも同じく、小人になってその世界に紛れ込んだような気分になれて楽しいです。


・・・と思ったら。
アムステルダム国立美術館のデジタルミュージアム(Rijksmuseum At Home)の充実度がハンパないことを発見してしまった
現地でホンモノを見たんだから今更オンラインで見なくても・・・とか全く感じさせない素晴らしさ。
臨場感たっぷりのデジタルツアー(英語の音声ガイド付き)でしょ、所蔵する70万点の作品の高解像度の無料ダウンロードでしょ、名画の描き方講座でしょ、その他もろもろ。

ネット時代ってすごい・・・とネットのない世界で二十歳まで過ごしたワタシはいまだに感嘆してしまうのであった(あの頃はあの頃でのんびりしていてよかったけどね)。


★オマケ★


ボリショイも公演再開ですか(ロシア、大丈夫なのかな…)。
素敵な劇場。こんなところでボリショイ観たら楽しいだろうな。

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坂口安吾 『アンゴウ』

2020-07-16 22:59:56 | 




初めて読みました。
アンゴのアンゴウ。
冗談のような作品名だけど、いい話だねえ。。。
悲しく、優しく、温かい。
安吾のこういう作品や、織田作の『アド・バルーン』や、太宰の『黄金風景』や、そういうお話を読んでいると、彼らのことを「すてきな純情派」と呼んだ檀一雄の言葉は本当にピッタリだなあと感じる。


ぼくはね、織田作さんにしても安吾さんにしても、みんなすてきな純情派だったと思いますよ。
世の中の人間というのは、つまらないいろいろなことを思っているけれども、あの人たちはほんとに純潔な魂の持ち主だった。けっしてぐうたらなことじゃ終わらずに、自分の主義、主張、志というのか、そういうものに忠実でね。
それで結局、純潔に生きるということは、破滅を意味するわけですよ。ところが一途に純潔を通した、徹底的に。
それに、日本が敗戦を経験するまえに、戦前にあの人たちは、何べんも敗戦に会っているんですよ。もうまったくの敗戦に会ったと同じように、価値の転換がおこなわれ、自殺しようと思えばいつだって自殺できるような状態に、何べんも落ち込んでいるのだから、日本が負けたぐらいのことではビクともするもんじゃない。だから、みんなが敗戦後の虚脱状態にあったときだって、かれらは不変の価値あるものを知っていたから、つまり自分たちの純潔を信じていたんですね。その点ですぐれた大先輩だと思ってます。

(檀一雄 「日本の文学63」付録 夏の夜の打明け話)

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友がみな われよりえらく 見ゆる日よ

2020-07-09 21:19:22 | 日々いろいろ




友がみな われよりえらく 見ゆる日よ、って誰の歌だっけ・・・?
そんなことを目覚めて一番に思う精神状態というのは、決していい精神状態ではないよな、ともう一人の私は冷静に思うのである。
なんだかもう面倒くさいから人生終えてしまいたいような気もするけれど(本気で自殺する気はないのでご安心ください。私は本気で自殺したいと思ったことは一度もありません)、あと一週間でも、たとえ一日でも、絶対に元気な体で生きたかったに違いない友人のことがふと頭に浮かんで、こんなことを考えていては罰が当たるな、と思い直しました。

ところでこの歌、ググったら(便利な時代だねえ)、石川啄木の歌でした。
下の句は、「花を買ひ来て 妻としたしむ」。
ならそれで十分じゃないか、と私などは思ってしまうのだけれど、そう単純な歌でもないようで。

そういえばこの歌を初めて知ったのは20年近く前、盛岡の啄木の家でだった。ということも思い出した。
そのときの旅行は宮沢賢治を巡る旅だったので、啄木はオマケだったのだけれど(今でも啄木は詳しくないです)、「働けど 働けど」の歌しか知らなかった私はそこで啄木の遊び癖や浪費癖などなどを知り、なんだか思っていた印象の人と違うのだな、とちょっと驚いたのでありました。だから何というわけではないのだけれど。

写真はそのときの旅で撮ったもの。
「啄木望郷の丘」より。
このときの旅はずっと雪で(それはそれでよかったですが)、岩手山が見られなかったのです。
いつか見てみたいなあ。

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日本人は日本語を捨てようとしているのでしょうか。

2020-07-06 12:07:51 | 日々いろいろ

最近、地元に新しいショッピングセンターができたのですよ。
行ってみようかな~とホームページを見てみたら。



・・・あれ?英語のページを開いちゃったかな?
と思い右上を確認すると、しっかり「JP」とある。
・・・・・。
レストランのページをクリックしてみると。



すみません、店名が読めないんですが。
現地に行って場所がわからないとき、何て言って聞けばいいんでしょうか。
外国語に馴染みのない人間は来なくていいということでしょうか。
EN、CH、TW、KOのページをわざわざちゃんと作ってあるのに、なぜJP(日本語)のページがこんなことになっているのでしょうか。

ワタクシ、自分の地元、好きですよ。愛してます。
人生で一番長く過ごしてきた場所でもありますし。
で、どうしてこんなダサいことになってしまってるわけ?
今、令和ですよね。
外国語カッコイイ!って、昭和、せいぜい平成までの感覚だと思ってましたよ。
それともこういうのもサラっと受け止めなきゃいけないのが、令和の時代なのでしょうか。

ワタクシ、別に外国語を日本語より下だと考えているわけではありません。
言語というのはその国の文化や歴史に密接に繋がっているものですから、文化に上下がないように、言語にも上下はないと思っています。
そのうえで、ワタクシ、自分の国の言葉が大好きです。非常に美しい言語だと思っています。
英語やスペイン語やフランス語なら一つの国がそれを捨てても他の国で生き残るでしょうけど、日本人が日本語を捨てたらもうその言語は生き残らない。

私が子供の頃は人口が少なくて、観光客も少なくて、みなとみらいもなくて、赤レンガ倉庫は本当に倉庫で、山手の洋館に行くには石川町駅から歩いていくしかなくて、今のようにスッキリはしていなかったけど、のんびりした、でもお洒落な良い街でございました。
それがいまやこんなホームーページを作る街になってしまったなんて(市が作ったわけではないが)。
これじゃあ、六本木や表参道みたいじゃないの。
と思い、試しに六本木ヒルズのホームぺージを見てみたら。



・・・・・。
レストランのページは、



日本人よりも外国人の方が多いような六本木ヒルズの方が、よっぽど日本語を大切にしたページを作っているじゃないのさ
JPじゃなくて「日本語」(「日本語」の文字が読めないと海外の方はENに飛べないから、ここだけは英語にした方がいいようには思うが)、(Wed)じゃなくて(水)、Restaurantじゃなくて「レストラン」、外国語の店名にはちゃんとカタカナがふってある。

ありがとう、六本木。
横浜はもうだめだ。
あとは頼む。

※追記:
この「英語ばかりカッコイイだろ?仕様」はどうやらNewoMan(←そもそもこれも読めない)の仕様のようで、NewoMan新宿も同じであった。
ということは、元凶はルミネ?つまりJR東?
東急グループが横浜をダメにした、と個人的に思ってきたけれど、JR、お前もか。

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ギレリス、リヴィエラ、ブラームス

2020-07-04 17:26:57 | クラシック音楽




 ザークが教えたのは音楽の中の空間で、ギレリスが教えたのは音楽の中の時間でした。

 ギレリスはいつも音楽に深く浸り、ピアノの前で考え込んでいました。彼は音楽の中の「静寂」がいかに大切かを知っていました。彼の話し方もそうでした。彼はレッスンで、私の演奏を聴きながらときどき止めて、しばらく考えてから話し始めました。彼が考えているとき、静寂の中に音楽があふれ、彼の言葉もまるで音楽のようでした。
 ギレリスは、レッスンでよく演奏を聴かせてくれました。彼のコンサートにも足を運び、リハーサルも聴き、レコードも買って、彼が音と音の間をどのように処理しているかを聴き取ろうと努力しました。ギレリスはトリルを弾いているときでさえ、その中に静寂を感じさせ、音と音の間で思索を巡らせているのがわかりました。演奏はきわめて自然なのに……。(中略)
 彼と共に過ごした日々を振り返って、ギレリスはきわめて自然な人間だったのだと思います。深い思考と芸術の持ち主で、作為的なところは少しもありませんでした。指導者として、彼は私に音楽と人生を教えてくれました。言い換えれば、彼は私に人生の中で音楽を聴くことを教えてくれたのです。(中略)
 ギレリスのすべての音には意味があり、最小の音から最大の音まで、さまざまな音色のグラデーションを駆使して、彼の想いのすべてを鮮やかに描き出していました。静寂を原点とする彼のピアニズムを、心から尊敬しています。

(ヴァレリー・アファナシエフ。焦 元溥著、森岡 葉訳『静寂の中に、音楽があふれる』より)

ピアニストが語る!シリーズ第4巻のタイトルは、『静寂の中に、音楽があふれる』。
読む前はシフの言葉かな?と思っていたのですが、アファナシエフがギレリスについて語った言葉からだったんですね。




 驟雨が走った直後に、光が雲間から燦然と漏れ出してくるのは、このアイルランドの空を身近に知っている者の音なのだと、ジャックは思ってきた。シンクレアが実際にこの地を知っていたのはほんの幼少のころであったはずだが、予め血の中に土地の記憶は埋め込まれているのか。あるいは、ウィーンやパリにいて、未だ見ぬアイルランドを追い続けていた音なのか。

 (高村薫 『リヴィエラを撃て』より)

突然ですが、私が今のようにクラシック音楽を聴くようになったのは、ロンドンのプロムスでピアノ協奏曲を聴いて感動したのがきっかけでした。
なぜピアノ協奏曲の日を選んだかというと、高村薫さんの『リヴィエラを撃て』という小説がとても好きだったから。ロンドン滞在中も小説に出てくる場所をあちこち訪ね歩いたものでした(訪問記はこちら)。
この小説のなかで非常に重要な位置を占めているのが、ブラームスのピアノ協奏曲第2番です。ネット情報によると、高村女史が参考にされたのは、1976年録音のアバド×ポリーニ×ウィーンフィルによる演奏とのこと。
youtubeで聴くことができますが、アバド&ポリーニらしい明快で勢いのある非常にいい演奏で、小説終盤のサントリーホールの場面の演奏としてもピッタリに感じられます。
ポリーニの特徴って正確無比な技巧のように語られることが多いように思うのですが、録音では私もその印象が強かったけれど、初めて彼のピアノを生で聴いた瞬間に驚いたのは、その音色の多彩さと、コントロールをコントロールと感じさせない鮮やかさでした。アファナシエフがギレリスについて語っている「最小の音から最大の音まで、さまざまな音色のグラデーションを駆使して、彼の想いのすべてを鮮やかに描き出している」は、私はポリーニのピアノにも当てはまるように思うのです。

一方で、私がこのブラームスのピアノ協奏曲第2番という曲の演奏で最も好きなピアニストは、ギレリスです。
1972年のヨッフム×ギレリス×ベルリンフィルによる演奏が、とても好き(オケの演奏が少々重い、3楽章のチェロがそっけないなどの面はあるものの)。
「ブラームスそのもの」に感じられる、真面目で繊細な自然な音色。
ギレリスのピアノが表出させる、風景と空気。

この記事の冒頭に載せた写真は、ドイツのアウクスブルク近郊で撮りました。2枚目は、アイルランド。
私にとってブラームスの音楽は、こういう色のイメージです。そして『リヴィエラ~』も。
深く濃い緑に、雲間から差し込む光。
洗練されすぎていない荒々しい、でもどこか懐かしい、土の匂いを感じさせる色。
高村さんがなぜ数あるピアノ協奏曲の中からブラームスのピアノ協奏曲第2番を選んだのかはわからないけれど、私の中であの物語とブラームスに共通するものは、この緑色です。
そしてこの色と空気を最も鮮やかに感じさせてくれるのが、私にとってはギレリスなのです(ただし小説のシンクレアの演奏としては、先ほども書いたようにポリーニの演奏が合っていると思う)。

アファナシエフは作家でもあるだけあって、言葉の表現が素晴らしいですね。ギレリスのピアノについての言葉、「うんうん、わかるわかる」と深く頷きながら読んでしまった。
アファナシエフのピアノも、一度聴いておけばよかったな。海外のピアニスト達が次回来日してくれるのは、いつのことでしょう…。

私の人生に対する考え方は、東洋的だと思います。人生には目的があるというのが、西洋の考え方です。アリストテレスは、人間は自己を実現し、目標を達成すれば、快楽を得ることができるという哲学を打ち立てました。しかし、中国の哲学では、人も事物もただ同じところを行き来するだけで、人生は絶え間なく変化し、向かうべき目標もなく、終点もないと考えられているようです。私の人生も同じです。出発点もなく、何の出来事もない。人に会い、本を読み、音楽を聴き、ピアノを弾く、ただそれだけです。

(ヴァレリー・アファナシエフ。『静寂の中に、音楽があふれる』より)





この2枚の写真も、アイルランドです。
上がクロンマクノイズ、下がディングル半島。


★オマケ★


シフ、あの後ずっと日本に滞在されていたんですね(そうかもしれないなあとは思っていましたが)。
あの状況のなかで日本に来てくれて、演奏をしてくれて、本当にありがとうございました。
またあなたのピアノを聴ける日を楽しみに
で、どこに帰国されたんだろう。イギリスかな?

そして、ブラジルの感染者数に「フレイレはご無事なのだろうか」と恐れおののいております。
どうかお元気でいらっしゃいますように。
そして絶対にまた来日してください

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