夜の部はもう行けないかと諦めかけておりましたが、なんとか前楽に行けました。
行けてよかった。
なぜって・・・・・
松 緑
えがったよぉぉぉぉ~~~泣泣泣
※3階B席
【蘭平物狂】
辰之助さんをお好きだったという方達が、今回の舞台に感動したと口々に仰っている意味がよーくわかりました。辰之助さんを観たことがない私でさえ、松緑と左近くんの親子の姿には胸がいっぱいになったもの。
前半は、松緑の台詞がちょっと単調気味ではあったけども、現代的なコクーンを観たばかりのせいもあって、この歌舞伎味が心地よかった。それにいい声!
花道で繁蔵を心配して遠くを見てる場面、ずっと同じ表情なのに思わず見続けちゃった。すごく精悍でいい顔。てか松緑って、お化粧上手ですよね。
踊りも、やっぱり少々一本調子には感じられたものの、きっちりと美しくて、松緑の生真面目さのようなものが感じられてよかった。
前半と後半の間の場面転換は、結構時間が長いのですね。
後半。
突然ですが、松緑は私のタテアレルギーを発動させない貴重な役者なのでございます。どんな役者さんでも大抵はすぐに飽きてしまうのに、松緑のときだけはなぜか違うのです。とんぼを返すあの動き、綺麗だなぁっていつも思う。すごくワクワクする。
しかも今回は、今までに観た立ち回りの中で群を抜いて派手!!客席も大喜びで、理屈抜きに楽しかった!!
下手の席だったので花道の梯子が真ん前だったのも、嬉しかったです。感動しました。
幕切れ近くで、左近クンの襲名披露口上。
左から順に時蔵さん、団蔵さん、左近クン、松緑、菊五郎さん、菊之助。
ここでもウルウル。。。(後で改めて筋書の写真を見たら、顔面血みどろの松緑が中央にいて結構シュールな光景だったけど^^;)
松緑の挨拶。
「(息子が)祖父曽祖父に一歩でも近付けますよう」・・・
~~~ちがうでしょ!あなたもそこに入るんでしょ、泣!さっきも書いたけれど、辰之助さんのファンだった人で、今回の舞台に感動したっていう人を何人も知ってるよ!左近クンだってひいお爺ちゃんやお爺ちゃんと同じように、誰よりもあなたを目標にしたいって思ってるはずよ…!!
今回は「んもう松緑ってば相変わらずネガティブ君なんだから♪」とは笑えんかった。。なんかぐっときて泣きそうになっちまったじゃないかぁ・・・。
いつか左近くんが蘭平をやってその子供が繁蔵をやるときには、松緑もぜひ一緒の舞台に立って(行平の役とか)、親子三代の舞台を見せてくださいまし。だから健康に気をつけて長生きしてくださいな。そのときは私も絶対に観に行く!
左近クン。ちっちゃい体なのにハキッと大らかな見得で、立派でした
【素襖落】
前幕が予想外に素晴らしかったので体力を使い切ってしまい、この『素襖落』と次の『名月~』はちょっぴり抜け殻状態での鑑賞に。。。^^;
なわけで前半は意識が飛び飛びだったのだけれども、姫御寮(高麗蔵さん)と次郎冠者(亀寿)の踊りは、雰囲気があってなかなかよかった、気がする。
後半、太郎冠者がお殿様(左團次さん)と太刀持ち(彌十郎さん)の待つ屋敷に帰ってからは、急に舞台が楽しくなって、私の目もパッチリ
幸四郎さんの太郎冠者。このタイプの演目って舞台の上にいるだけでふんわりした空気を作れちゃう役者さんか、でなければ舞踊で見せる役者でないと難しいと思うのですが、そしてそのどちらでもない幸四郎さんには不向きな役だと最初は思ったのですが。
でも、この後半の幸四郎さん、ちょっと可愛かったんです。
三人で素襖を隠し合うところは、三人ともほんっと可愛い いい歳した大人がなにやってんの、笑。
左團次さんがからかうように楽しそうに笑ってるから、余計に幸四郎さんが可愛く見え。
このお殿様と家来たちの関係っていいよねぇ。こんな会社に勤めたい(*^_^*)
楽しかった♪(後半は)
【名月八幡祭】
吉右衛門さん、巧いなぁ!!
いつもなら「巧い」という字をあまり良い意味では使わないのだけれど、今回は褒め言葉です。ここまで巧く演じてもらえると、文句のつけようがない。といっても私が吉右衛門さんに大感動するときは、巧いの向こう側まで吉右衛門さんが行っちゃってるように感じるときで、今回はそこまでではなかったですけれど、それは贅沢な話。十二分に満足させていただきました!だって本当にすんばらしく巧かったから。
そして歌六さんの魚惣が、とってもよかった!こういうちょっととんがった歌六さん、好き。べらんめぇ調もイイ。もっとこういう役やってほしいな~。歌女之丞さんの女房ともお似合い(*^_^*)
この魚惣の家、すごく素敵ですよね。いいなぁ、リバービュー。こんな家に住みたい。←コレ必須ですけど。
錦之助さんの三次は、あまり船頭には見えなかったですが、ヒモっぽさ全開!でよかった。
芝雀さんの美代吉は、決して悪くはなかったのですけれど、もうちょい華やかな方が観ていて「楽しい」だろうなぁとは感じました。新助と並んで主役に見えるくらいの方が個人的には好みかもです。ただストーリー的にはとっても自然な美代吉で、いかにも新助みたいな男が好きになりそう。
新助フラれて~狂って~お祭り~美代吉殺害まで、まったく飽きずに観られました。だって吉右衛門さんがすんごく巧いから。
花道でわっしょい!と御輿担ぎで運ばれていく新助の姿(シュール…)は、ちょうど真上から鑑賞。いやぁ、本当に巧いよねぇ・・・(四回目)。怖いくらい。
でもここでお客さん達は大拍手をするから、この後に月だけが上っていくときは、客席のテンションがちょっと微妙な感じになってた気が。
「あら、終わったんじゃなかったの?」みたいな。そして月が上りきるまで再び大人しく待って、もう一度誰もいない舞台に向かって拍手、みたいな。まぁ吉右衛門さんの引込みが強烈すぎるせいもあるんでしょうが、笑。
ところでこの最後の月は・・・、どうなんだろう
とっても立派で美しいのだけれど、ここまでデーン!と大トリのように昇られると。。
もう少し直接的でない表現の方が、私は好みかも。野崎村の奴凧のような。気付いたら視界に入っているような、気付かない人は最後まで気付かないような、控えめで、だからこそじんわりくる感じが好き。
今回は珍しく下手のお席でしたが、花道の松緑や吉右衛門さんが真ん前(下)に見えてとてもよかったです。下手も悪くないですね^^
祝い幕は、「四ツ輪に抱き柏」の紋に、おめでたい松葉。そして可愛らしいお馬さん^^
最近はお能や文楽にも無節操に手を伸ばしている私ですが、非都民にとっては上京する交通費というのも馬鹿にならないのでございます。
しかし歌舞伎や文楽は無理でも能楽堂は郊外にもあるらしい、と知りググってみたところ、めっちゃ近くにあった!能楽堂!
んーと、公演スケジュールは・・・と
お、『暗闇で聴く古典芸能』っていうの、面白そうではないか。
早速、お〇ぴに格安で出ていたのをゲト。交通費がかからず、チケットも格安とは、ありがたや~。
さて、この「夏至の日に暗闇の中で耳を澄まし、古典芸能を楽しみましょう」という横浜能楽堂による企画公演。
ローカルな公演かと思いきや、人間国宝さんが三人もご出演。
そして、2月に拝見したばかりの嶋大夫さんも♪
【プレトーク】
まずは、アナウンサーの葛西聖司さんの司会で、40分間ほどのプレトーク。
近藤乾之助さん。「暗闇の中での能というのは、いかがですか?」との質問に、「つまらないですねぇ…」といきなり全否定、笑。「能は相手があって、相手が自分を動かすものだから、相手が見えないのは面白くない」と。
『西行桜』については、「サッパリした演目」と。そして「最後にシテもワキも囃子もみんな舞台からいなくなった後、舞台に面だけが残っているような、そんな感じがする演目」だそうです。素敵ですねぇ
嶋大夫さん。16歳で若大夫師匠に入門して最初に習った演目が、この『卅三間堂棟由来』だったとのこと。「1月4日に入門し、1月5日からお稽古でした」と細かな日付を嬉しそうに話される嶋大夫さん^^
お母様は文楽の道に進むことに大反対されていて(文楽か相撲かと言われるほど厳しい世界だったから)、ご出身の四国から大阪に着くまで、船の中でも列車の中でも、「次の駅で帰ろう」「次の駅で帰ろう」と言っていたそう。そして入門して三か月後に巡業があって、もちろん嶋大夫さんは役に付いていなかったけれど、ある日滞在先の宿で突然「お母さんをここに呼びなさい」と、そして「卅三間堂棟由来を語りなさい」と言われたそうで、語り終えた後、お母さんは大泣きしていたそうです。
また、文楽で植物の精が出てくるのは、この演目だけとのこと。これは母と子の物語だと思う、と。
嶋大夫さんって、少年のようなお顔で浄瑠璃の話をされるんですね。本当に浄瑠璃がお好きなのだなぁ、とほんわかしてしまった(*^_^*)
お辞儀もきっちりと美しくて、見ていてとても気持ちがよかったです。
そして20分間の休憩の後、暗闇に。
といっても、完全な暗闇ではありません。足下灯が意外と明るいので、歌舞伎座の照明を最も落としたときや、月のない田舎の夜の方がずっと暗い。でも目を閉じれば、暗闇になります。
【素謡 「西行桜」】
シテ 近藤乾之助
ワキ 當山孝道
今回の4演目のなかで、一番演者がやりにくそうに感じられたのが、このお能でした。先程の乾之助さんの言葉も、なるほど、と。また素謡では声が聴こえてくる位置がずっと変わらないので、演者が動いている本公演に比べると違和感があり、また、味気なくも感じてしまいました(ちなみに義太夫の場合はもともと同じ位置で語っているから、気にならなかった)。
この演目だけは、目を閉じるよりも、目を開けてしまった方が楽しめました。目を開けると、闇の中にぼんやりと能舞台が浮かんで見えるのです。足下灯は舞台上まで届かないので、そこは完全な暗闇。その中から謡の声だけが聴こえてくると、まるで昔の演者の亡霊がそこで舞っているようなそんな錯覚を覚えて、この感覚は楽しかった。この能舞台は関東で一番古い能舞台とのことなので(明治8年のもの)、一層そう感じられたのかもしれません。草木国土悉皆成仏、舞台にもきっと霊のようなものが宿っているのでしょう。
またプレトークで能一般について「悲しいものを悲しく謡ってはいけない」と仰っていましたが、能のこの抑制した謡がかえって観る者に情景や感情をストレートに伝える(想像させる)ということもあるのかもしれないなぁ、と感じたりもしました。
とはいえやっぱり、「声だけじゃなく、舞も観たいなぁ」と思ってしまった。
観る前は暗闇と能って合いそうと思ったのですが、実は一番合わなかったとは、面白いですねぇ。
【一管 「津島」】
笛 松田弘之
メロディがあるようなないような不思議な曲で、目を閉じて真っ暗闇で聴く笛は、昔の人達の感覚を類似体験しているような感覚になれました。
笛の音って好き。楽しかった!
【語り組踊 「手水の縁」~忍びの場~】
唱え 宮城能鳳
三線 西江喜春
組踊は初体験。
事前に詞章を確認して行ったにもかかわらず、何を言っているのか殆ど聴き取れなかった… 恐るべし、琉球。
にもかかわらず、のどかな音階と大らかな琉球語の響きの、耳に心地よいこと。暗闇とも不思議としっとり合ってる。
そして驚いたのが、西江喜春さんのお声。なんてお声でしょう!聴き惚れて、聴き惚れて。あんな発声のあんな音程の声、初めて聴いた気がする。それに最後まで細くならないあの声量。また聴きたいなぁ。殆ど歌詞は聴き取れなかったけど泣!
ここで10分間の休憩。
【素浄瑠璃 「卅三間堂棟由来」~平太郎住家より木遣り音頭の段~】
太夫 豊竹嶋大夫
三味線 豊澤富助
プレトークでも「床本は太夫にとって命の次に大事なもの」と仰っていたとおり、暗闇でも床本をセット(ペンライトのような光が見えたけれど、読まれている感じはなかったです)。
先月国立劇場でされた演目ですが(私は未見)、今回は主催側からの依頼で詞章を短縮されたとのこと。それが聴いていてかなり気になってしまい、イマイチ集中できず残念……。だって平太郎、高鼾かいて寝込んでいたはずなのにいつの間に起きたのよ??(起きた場面がカットされていた)
とはいえ、人間の感情がいっぱいに溢れる、この暑苦しいくらいの義太夫の人間味、やっぱり好きだなぁと。なんだかほっとした気分になりました。
ところで、三味線って暗闇の中でも弾けるんですね。知ってはいたけど、おおーと思ってしまった。
そして太夫と三味線弾きがお互いを見ていないことも知っていましたが、暗闇の中でも見事にピッタリ息が合っていて感動してしまった。だって何分の何拍子とかで語っているわけじゃないのに、しかも今回は詞章も変更しているのに、すごいー。と、文楽ド素人の私は感心しきり。
でもやっぱり、「人形や、太夫の語っている姿や、三味線の弾いてる姿が観たいなぁ…」と思ってしまった^^;
語り終えた後、歩いて舞台を去られる姿が、見慣れていないせいか不思議な感じでした。
以上、「あえて暗闇にする意味は果たしてあったのか?」という気もちょっといたしましたが、なかなかない貴重な体験ができたことは確かでした。
これからもこういう面白い企画はどんどんやってくださいまし!
能楽堂から出たら、陽はとっくに沈んでいるのに、空が明るくて。やっぱり都会の空というのは明るいのだなぁ、と改めて感じながら家路につきました。
紫陽花の花咲く、能楽堂への坂
お腹が鳴らないように、公演前に腹ごしらえ
日の長い夏至の空
行ってきました、三人吉三@シアターコクーン。
偶然でしたが、中日でした。
感想は・・・
すんごくよかった
なにより、中村兄弟の熱演!
コクーン歌舞伎を観たのは初めてなので、いつもこうなのか、今回が特別なのかわかりませんが、彼らの目には客席にいる勘三郎さんが見えているのではなかろうか?と本気で思ってしまった。それくらい、特別な想いがこもっているように見えました。
勘三郎さんがここまで作り上げてきたコクーン歌舞伎を、これからは自分達が作っていくんだ!という覚悟のようなものが感じられて、なんかじぃん・・・としてしまった。
そして、演出。
ポスターから懸念していた「バブリーな時代臭」は全くなく、ほっ(^^ゞ
ちゃんと現代的でスタイリッシュで、なのにそれと矛盾することなく歌舞伎的で。
アップテンポな七五調の台詞も、下座を排した現代的な音楽も(パーカッション&ギター&ベース?)、衣装や小道具大道具の色彩も、どれもものすごくカッコよかった!なのに人間味はちゃんと濃厚。
すごいわ~串田さん
で、配役。
今回コクーンを観ようと思った一番の理由の、七之助のお嬢吉三。
いいだろうとは思っていたけど、予想より遥かによかった!すんごく好み。
下品なのに下品じゃない、笑。
ガラが悪くてチンピラで、人形みたいに美しいのに人間くさくて、蓮っ葉なのに、寂しげで。
男でもあり女でもある危うさが、吃驚するほど自然だった。
理想的なお嬢!
松也のお坊吉三は、他の二人に比べるとちょっと華が薄かったかな。
背後に見える暗さも、やや薄め。
とはいえ、思っていたよりはずっとよかったです。なにより、和尚より貫録がないのがいい。武家のボンボンが不幸な運命で道を外してしまった感じもよく出ていたし。本来お坊ってこういう子なのかもしれないな、と思いました。
勘九郎の和尚吉三。
お見事
やっぱり勘九ってスゴイわ。さすがお兄ちゃん。この和尚あってのこの『三人吉三』。舞台を最後にまとめていたのは、やっぱり勘九郎だった。
他の二人より貫録があって、でもありすぎず、な具合が絶妙。
大川端での短気な和尚も新鮮で、若いっていい!って思った笑。
伝吉内で、伝吉の背後で独白を聞くシーンは息を詰めて見てしまいました。いい表情するなぁ。
他も、所々で見せる表情がすごく印象的で。特に第二場のラスト、吉祥院でお嬢とお坊を逃がした後、新三郎とおとせの首を両手で掲げるところ、和尚の悲しみと覚悟と背負った業がぶわっと押し寄せてきて、圧巻でした。。。
そして三人に共通しているのが、親の愛情を求めて彷徨う小さな子供のような孤独と純粋さ。
それが役者の年齢の若さゆえにすごくリアルにストレートに迫ってきて、今の彼らでこの舞台を観ることができてよかったと心から思いました。
以下、その他の感想。
【第一場】
大川端までは、「歌舞伎役者の発声や雰囲気ってやっぱり全然違うんだなぁ」と実感しながら観てしまった^^;
正直なところ今回のこの舞台、全員歌舞伎役者で揃えてほしかった、かも・・・。ただ伝吉役の笹野高史さんと源次坊役の笈田ヨシさんは、とってもよかった!特に笹野さんは、凄みと温かみを兼ね備えた伝吉という役柄をこれほど完璧に演じられる役者さんは、歌舞伎界にもなかなかいないのではないかしら。
この大川端の演出、好き!
月あかりの反射した水面が長屋の暗い壁に映って揺れる様が、美しい。
お嬢&お坊の立ち回りの迫力と(二人とも美形だから眼福)、短気に止めに入る和尚吉三。打って変る、血盃を交わす場面の静けさ。川底にゆっくりと沈んでいく盃が、彼らのこの先の運命を暗示しているようで胸が詰まった。それをじっと見つめる三人。
去るときの三人の厳しい表情も、それぞれ因果を背負った三つの孤独がこの夜に出会ってしまった意味を考えさせられて、しばらく呆然としてしまいました。どんなに演出が変わっても、やっぱり大川端って名場面ですね。
十三郎(新悟)とおとせちゃん(鶴松)も、主役三人より更に若いピュアな雰囲気がちゃんと出ていて、とてもよかったです。イメージぴったり
【第二場】
吉祥院。棚に映るクルクルと変化する極楽と地獄の絵が、効果的でした。
お嬢とお坊の赤と黒の衣装や、床に広がる朱の布など、色彩のセンスにもうっとり。
ぱっと背景が開けて光る竹林の中から勘九が登場したときは、ちょっと笑いそうになったけど^^;(いや、悲しい場面なのは百も承知でございますが)。竹林にチラチラと降る雪も美しかったです。
【第三場】
ここの見所は言わずもがな、雪・雪・雪!!これ、生で観たいってずっと思ってたの~。今回もやってくれて嬉しい!
二階正面席から観ると、舞台に降る雪と客席に降る雪が立体的に層になって見えて、息をのむほど綺麗だった。周りのお客さんもみんな「キレイ・・・」って溜め息ついてた。
臨場感という点では平場席が素晴らしいと思いますが、上階正面の席もかなりいいですよ。舞台の床部分の演出がしっかり見えるので、大川端の水面の美しさも、吉祥院の朱の布の鮮やかさも、地面に降り積もる雪も、堪能できました。
そして雪の中の七之助のこの世のモンじゃない美しさ…。白の振袖と赤の襦袢?が超絶似合う。で、その表情がもう…!号泣でございました。。。。
三人が重なって息絶えるラスト。
誰か和尚のことを抱き締めてあげて~~~~(>_<)!と思ったのは、私だけではないはず。
悲しいだけじゃない、最後の生のエネルギーが爆発した爽快なまでのカタルシス。ああ、歌舞伎だぁ。。。
一回照明が落ちて、もう一度つくと、舞台上には捕り手さん達がいて、彼らの中心に三人の姿はなく、ただ雪だけがあって――。そのまま、一回目のカテコ。
意外なほどカテコに違和感がなかった。というか、カテコがなかったらものすごい違和感。ということはやっぱり通常の歌舞伎とは違うということかな^^;
このカテコでは、三人はお芝居の表情のまま。三人並んで雪のなか背を向けて歩いていく姿、印象的でした。
2回目のカテコは、三人とも笑顔。
平場席はみんな、2階席もいっぱいスタオベ。もちろん私も^^
勘九郎が松也と何やら楽しそうに笑い合っていました(知り合いがいた?)。
この日は大向こうさんも複数いらっしゃって、よかった。
それと勘九郎が芝居中に「木挽町では松嶋屋のおじがお祭りをやってる」って仁左衛門さんの復帰を祝ってくれたのも嬉しかったな~。
勘三郎さんが生きておられたら、絶対に同じように祝ってくださったよね^^
というわけで、大・満・足!!!な初コクーン歌舞伎でした♪
一方で、あらためて、やっぱり通常の歌舞伎もいいものだなぁ、とも再確認(杮落しの大川端は私の永久保存版でございます)。
刺激的なコクーン歌舞伎と、おおらかな通常の歌舞伎と。どちらも大好きです。
さて、千穐楽までに歌舞伎座の夜に行かなければ!吉右衛門さ~ん!
幕が開く前から、舞台や客席からは市井の喧噪が
お芝居中も役者が客席を縦横無尽に歩いたり、客にちょっかいを出したり。こういうリアルな“芝居小屋”感は、勘三郎さんが作り上げたものなのだろうな。
江戸の人達が楽しんだ江戸の芝居小屋が、そのまま時代が変わって現代のものとして渋谷にあるようで、その特別なものじゃない当たり前感がすごく楽しかった。
幟、カッコイイ!
あ、忘れてた!亀蔵さんの研師も、とってもいい味出されてました~^^
ということを、忘れないでいたいと思うのです。
ネットとかブログとかスマホとか、まぁそういうもののことです。
自分で自分を縛っちゃ、あほらしいですからね。
あ、これは人に対してじゃなくて、自分への自戒でございます。
あったからどうということもなし。
なかったからどうということもなし。
便利に使えればそれでよし。
ついでに皆さんにも楽しんでいただけたらもっとよし。
私達の周りには、綺麗なものが本当に沢山ありますよね。
雨粒に揺れる花びら、水と陽射しで変わる色合い、雨の匂い、街の空気。
それはそのときにしか存在しない。
だから、それと向き合っているその時間を、その瞬間の生の感覚を、まずなによりも大切にしたいと思うのです。
どんなにいいカメラでどんなに綺麗な写真を撮っても、それは決してそのものではないから。
人間同士の関係も、きっと同じ。
せっかくこんなに綺麗な世界に生まれてきたのだもの、五感でいっぱいに味わわないともったいない。
私たちは、いつまでもずっとここにいられるわけではないのだから。
「わたしが一番すきなのは、ちびのミィです。怒るとなると真剣そのものですが、同時に、陽気でもあります。コンプレックスとは縁がなく、どんなシチュエーションでも自分なりに、たのしんでしまう。不運なできごとを耳にしたとしても、自分はちゃっかり気分よくすごしています」
(オーボ新聞 1957年6月11日)
「ムーミンの家族や仲間たちは仲がよいですが、ひとりでいること、つまりある種の自由をたいせつにしています。そうですね、具体的な登場人物に即して語るほうが、わかりやすいでしょう。スナフキンは放浪者で、すばらしい生きかたをしています。なによりもまず自由です。好きなときに出ていったり帰ってきたりします。かれはわたしの憧れの対象でもありますが、最近、わたしはちょっと疑っています。もしかすると、かれはひどく自己中心的な生きもので、しかもかなり甘やかされているのではないかと。ひとごみを離れてひとりでいるのは、ちっともむずかしいことではありませんから」
(フィンランド国営放送インタビュー 1991年)
ある種のひとびとにとっては特に、ひとごみの中にいることは、一人でいるよりもずっとむずかしいことだけれど。
ムーミン谷を出るのも自由、帰るのも自由。そんな風に思えるのは、ムーミン谷がそこにあるから。なければ、そんなことは思わない。
一人になりたいと感じるのも、一人を心地よく感じるのも、一人ではないから。本当に一人だったら、そんなことは感じない。
彼を一人にしてくれるムーミンたちがいるから、ムーミン谷はムーミン谷になる。
春になると必ず、スナフキンはムーミン谷に帰ってくる。
そこにはいつでも“彼ら”がいて、心地よく迎えてくれる。
そうあたり前に思っていたのも、彼の甘えだったのかもしれません。
そろそろ彼は、それに気づかねばならないのかもしれません。
ムーミン谷の十一月は、きっとそんな季節。
GWに、松屋銀座のムーミン展に行ってきました。ヘルシンキでも見る機会のなかったヤンソンの原画。
ペン画の素晴らしさは言わずもがな、透明感のある水彩も本当に綺麗でした。
どれもびっくりするほど小さくて、印刷されたものとは風合いが全然違う。
ヤンソンって絵が上手だったのだなぁ。小さな額に入れて壁に飾ったら、素敵だろうなぁ。
ムーミン谷の光と風と湿度と、ちょっと恐ろしいような暗闇と、寂しさの混じった静けさと、その全てを包み込むような温もりと。
やっぱりムーミン谷はいつだって、そしていつまでも、私の憧れ。
今月最初の観劇はもちろん歌舞伎座昼の部!
梅雨というには少々激しすぎる雨の中、行ってまいりました~
色とりどりの傘と歌舞伎座も、なかなか風情があっていいですネ。
※3階1列目中央
【春霞歌舞伎草紙(はるがすみかぶきぞうし)】
この舞踊、美しくて切なくて幻想的で、好き!
衣装もみんな素敵
時蔵さん(阿国)。黒地の着物&オレンジの帯&片袖脱ぎの真紅の襦袢が、色っぽくてお似合いでした~。菊ちゃんと上手で二人寄り添って座るところは、裾の形がとても綺麗で見惚れた。
菊之助(山三)も美しかった。伊達男には見えないけど笑、透明感があってクールないい男。菊ちゃんって力んだ演技のときよりも、こういうふとしたさりげない表情の演技の方がより感情が感じられて、好きです。すっと涙を拭う仕草が切なかった。昨年の江島生島を思い出しました(あのときとは立場が逆ですけどね)。
菊ちゃん&時蔵さんのカップル、大変ツボでございました。
山三が消えてしまった後の、時蔵さんの表情、すごく綺麗だったなぁ。泣きながら微笑んでいるような。愛する人にもう一度会えた嬉しさと、二度と会えない悲しみと。
というわけで今回は主役二人ばかり集中して見ていたため、背後の若手達は殆ど見ていなかったり^^;
しかしこれに限ったことじゃないけれど、この手の舞踊の“その他大勢”の表情にイマイチ覇気がないのは、もうお約束なのだろうか。。あ、米吉他何人かはよかったデス。
【実盛物語】
床本を読んでから行って、よかった^^;
小万ちゃん(菊之助)が運び込まれる辺りまではなんとなく気分がノらずボー…と観てしまったのだけど、それ以降はとても楽しめました。
正月の国立も相当だったけど、このお話のツッコミどころの多さといったら、笑。物は試しと腕を接着したら死体が息を吹き返すなんて!ぶっとんでますねー。この『源平布引滝』の作者って、三大狂言の作者なんだそうですね。そんな荒唐無稽すぎる展開に笑ってしまってもおかしくないはずなのに、なんかホロリときちゃいました。死者が蘇って再びいなくなるって、すごく切ないよねぇ…。一時期ブームになった『黄泉がえり』も、江戸時代に既に元ネタはあったのね。
育ての父ちゃんが井戸の底に向かって名前を呼ぶのも、興味深かったです。現代の私達から見ると、ちょっとぞくっとする感じ。wikiによると「黄泉とは、大和言葉の「ヨミ」に、漢語の「黄泉」の字を充てたものである。漢語で「黄泉」は「地下の泉」を意味し、それが転じて地下の死者の世界の意味となった。」とのこと。へぇ~。
左團次さんの瀬尾。
熱演だぁ~。主のために家族を殺す話が歌舞伎には多いけれど、瀬尾は孫を敵方の源氏の家来にしてもらうために自分が死ぬのですね。それはもちろん孫への愛情でもあるだろうけれど、私は死んだ娘への愛情をより強く感じました。
梅枝の葵御前。
妊婦だからといってお腹を膨らませるわけじゃないのですね。そういえば歌舞伎でお腹の大きな妊婦さんって、まだ観たことない気がする。梅枝はいつもの健気な姫系ではなく、この役柄らしい凛とした品があってよかったです。
菊五郎さんの実盛。
立派で大きな実盛でした。
私は菊五郎さんの笑顔が好きらしい。子供を相手にする菊五郎さんが好きらしい。お馬さんに乗る菊五郎さんが好きらしい。
綿繰り馬に乗る子役ちゃん(太郎吉)も可愛らしかった(*^_^*)
だからこそ葵御前の「げにその時にこの若が、恩を思ふて討たすまい」という言葉に縋りたくなっちゃうのだけれど、やっぱり数十年後にこの子は実盛の首を切るのですね・・・。史実でもそうだし、当人達もそう言ってるし。でも『対面』の場合と違って、実盛は確かに小万を殺したけれど、それは小万が守っていた源氏の白旗を平家に奪われないようにするためだったのになぁ。それは小万の願いでもあるわけで。そして葵御前が言うように、義仲の命を救ったのも実盛なのにぃー。その一連のことをこの聡明そうな子は理解していそうなのに、無邪気に「かか様の敵!」と刀を向ける姿にちょっぴり違和感。
爺ちゃんを殺したこともまったく気に掛けていないし。あなたのために死んだのだよ、爺ちゃんは・・。
けどま、大人たちがみんな満足そうだから、いっか
最後の花道の菊五郎さん、いいな。
なかなか動かないお馬さんに「はいっ。・・・はいっ」。ムダにいい声、笑。
花道をかける菊五郎さん、かっこよかった!
【大石最後の一日】
今回奮発してA席をとった理由のひとつが、この演目なのです。
私が初めて観た幸四郎さんの舞台がこれで(2009年)、そのときに、いいなぁと思ったのです。
しかしあれから悪夢のアマデウスやら他の歌舞伎やらを観てすっかり苦手な部類の役者さんとなってしまい、「あのとき良いと感じたのは気のせいだったのか?」とずっと気になっていたのです。なので今回幸四郎さんでこの演目がかかるとわかり、ぜひもう一度観てみようと思ったわけです。
結論は、
やっぱり良かった
仮名手本と元禄のどちらが作品として好きか?と問われれば私は仮名手本なのですが、この幸四郎さんはすごく好き。
新歌舞伎が幸四郎さんに合っているのか、理由はわかりませんが、私が苦手なこの方の“演技のクサさ”が全く気にならないのです。この作品の内蔵助がヒーロー的でなく、とても人間くさいからかもしれません。
謹慎部屋で内蔵助は、「初一念を忘れるな」と言います。
内蔵助の最後の仕事。それは浪士達が心を動揺することなく、最初の気持ちを忘れず、見苦しくなく最後を迎えるようにさせること。2年前に内匠頭が死んで御家取り潰しになり、仇討ちを誓い、でもそれぞれに迷いや躊躇いがあって、それを乗り越えてついに仇討ちが成って、今沙汰を待っていて。けれどなかなか下りることのない沙汰と、世間の様々な雑音は、浪士達がただ心静かに過ごすことを許さない。それらが彼らの心にさざ波を起こすことを、内蔵助は嫌った。
そんな中で、明らかに心にわだかまりを抱えていたのが磯貝だった。おみのが磯貝に会いたいと訪ねてきたとき、内蔵助は、彼女が磯貝と会うことは彼が平静に最期を迎える妨げになるのではないかと、一旦は断る。けれど磯貝の心のわだかまりが消えていないことが気になってもいた彼は、「偽りを誠に返してみせる」と言うおみのの言葉に、やはり磯貝と会わせることにする。
結果、恋人達の心は通い合いました。
しかし「偽りを誠に返す」という彼女の言葉の真の意味は、この後に判明します。
切腹の場に向かう内蔵助と磯貝を迎えたのは、胸に短刀を刺したおみのの姿でした。夫が心静かに最後を迎えられるようにと、自害したのです。彼女はこうすることで、自身の偽りも磯貝の偽りも、全て誠に返したのです。
おみのが嘘を誠に返したことで、磯貝だけでなく内蔵助もまた、彼の「初一念」を届けることができました。
最後の最後にそれを遂げさせたのが、一人の女性であったというのが、この作品のいいところですね。
「この内蔵助は最後の一瞬時のその時まで四十六人の足取りを見届けねばならぬ役目だ」と静かに言うところ、泣けたなぁ…。この人はこれまでもこうして統率者として、一人離れたところで一番辛い仕事を引き受けてきたのだなぁ。彼自身にもこの2年、皆と同じように迷いや躊躇いも沢山あったはずで…。そんな彼の、最後の役目。
一番最後に名を呼ばれ、花道を歩く表情、本当に本当に素晴らしかった。周りでも、何人もすすり泣いていました。
幸四郎さん、ありがとう!!高麗屋!!
そして、脇もことごとくよかったです。
隼人の内記。
よかったよ~。賢そうで、優しくて、暖かくて、若様の品もあって、浪士に憧れるキラキラな少年らしさがあって、育ちの良さからくる明るさがあって。
昨年末の国立の主税もそうだったけど、こういう役が合いますねぇ。
錦之介さんの磯貝も、優しげな美青年!でも討入りに参加しそうな正義感の強さも感じられて。内蔵助から「おみの殿という方を存じておろう」と聞かれて狼狽するところ、よかったなぁ。
孝太郎さんのおみのがまた、すごく切なくて……。必死の覚悟。表情を見ているだけで泣けた…。
表情だけで泣けたといえば、我當さんの十左衛門と彌十郎さんの伝右衛門!
お二人とも完璧!ブラボー!
武士の風格がありながら、浪士達に対する慈愛と暖かさが滲み出ていて。特に最後の花道の内蔵助を見送る彌十郎さんの表情といったら…(号泣)!!
またこの作品は一見台詞が多く理屈っぽいけれど、それだけじゃなく、「語らず」の効果もとてもいい。
照明と梅の花だけで、彼らの「最後の一日」が表されている。
第一場の、明るく穏やかな陽のあたった庭の白梅。第二場の、伝右衛門が浪士達の赦免の話をしている隣で、内蔵助がふっと視線を移す中庭の紅梅。内蔵助のどこか寂しげな、静かな表情。傾き始めた陽と、散る赤い花びら。
そして第三場でさらに陽が傾き、第四場ではすっかり沈む。
ところで泉岳寺に行かれたことのある方はご存知だと思いますが、浪士達の墓は「お預け」になった4つの家ごとに並べられています。そして墓石に刻まれた日付はすべて同じ、元禄16年2月4日(新暦3月20日)。当然といえば当然なのですが、実際に見ると独特な感覚を覚えます。ご興味のある方は、ぜひ一度行かれてみてください。東銀座から浅草線ですぐです。
この作品は、芥川の短編『或日の大石内蔵助』を三次元で観ているようで、それも嬉しい。
以下、小説のラストからの引用です。
それから何分かの後である。厠へ行くのにかこつけて、座をはずして来た大石内蔵助は、独り縁側の柱によりかかって、寒梅の老木が、古庭の苔と石との間に、的れきたる花をつけたのを眺めていた。日の色はもううすれ切って、植込みの竹のかげからは、早くも黄昏がひろがろうとするらしい。が、障子の中では、不相変(あいかわらず)面白そうな話声がつづいている。彼はそれを聞いている中に、自らな一味の哀情が、徐に彼をつつんで来るのを意識した。このかすかな梅の匂につれて、冴返る心の底へしみ透って来る寂しさは、この云いようのない寂しさは、一体どこから来るのであろう。――内蔵助は、青空に象嵌をしたような、堅く冷い花を仰ぎながら、いつまでもじっと彳(たたず)んでいた。
(芥川龍之介 『或日の大石内蔵助』)
【お祭り】
幕が開く前からいっぱいの拍手。
私に幸福感を与えてくれるナンバーワン役者、仁左衛門さん!
おかえりなさい
今回奮発して3階1列目をとった理由その2。それは仁左衛門さんのお顔をこの目で見つつ、絶対に拍手を送りたかったからでございます(オペラグラスを覗いてると拍手ができませんからね)。
浅葱幕が落ちた瞬間、「ああ、仁左さんが歌舞伎座の舞台の上にいる」と、幸福感でいっぱいになりました。
仁左衛門さんだけが持つ、この独特の華!
そしてもちろん。
「待っていたとはありがてえ!」
これ!!!この声!!!
色っぽくて明るくて優しいのに、男らしいの(>_<)!
掛け声&拍手を被せなかった大向うさん&観客の皆さま、GJでございました!
この舞踊を見るのは二度目で、昨年の三津五郎さんもとってもカッコよかったけれど、仁左衛門さんもすんごく素敵(当然)!!ほんのりほろ酔い機嫌の、めちゃ色っぽい鳶頭。
インタビューによりますと「演じようと計算するといやらしくなりますから、舞台に立つときは自分を粋な男と思い込んでいます。見終わったお客さまに『ああ、さっぱりした』という気持ちになって帰っていただければありがたいです」とのこと。
そんな思い込みなど御不用でございます!仁左さまは素でいい男ですから!
とはいえ粋な色男仁左さまも、千之助くんと踊ると、途端に好々爺の表情に。ニザさん、孫への愛情は隠しきれないのね・・・笑。
ああ、幸せ。ほんとうに幸せ。
歌舞伎座に帰ってきてくださってありがとうございます!!!
雨粒に濡れた、水も滴る大幹部様たち。よっ色男!
昭和通り沿いの紫陽花がキレイでした
梅雨の季節の楽しみですね。
※東京新聞インタビュー:「六月大歌舞伎」 70歳仁左衛門「お祭り」復帰
※松本幸四郎インタビュー(2006年):『元禄忠臣蔵』人間・大石内蔵助の真の魅力