千穐楽直前、一幕見で観てまいりました。
座りたかったので発売時間の20分くらい前に行きましたが、涼しかったので並ぶのは苦じゃなかったです。
【恐怖時代】
先月の鏡花につづき、谷崎潤一郎も好きな作家なので嬉しい^^
原作で想像していた舞台セットを実際に観られただけで、既に90%満足いたしました笑。お銀の方の寝室も、睡蓮の花咲くお庭も、殿さま狂乱の広間も、美しかった(LEDのような蛍や、蚊帳に見えない布切れなどビミョーな部分もありましたけど)。
配役は、ほぼ文句なしです。
お銀の方は確かに福助さんの方がしっくりくるだろうなぁとは思いましたが、扇雀さんもとても心を込めて演じられているのが伝わってきて、自然な演技でよかったです。24~5歳には見えなかったですけど^^;
彌十郎さんの靱負。悪だけど、主役二人ほど悪でない、その加減がピッタリ。
萬次郎さんの梅野。前半の悪~~~い怖~~~い雰囲気、とてもよかった。打って変わって、伊織之介との逢引場面の桃色着物の恋する乙女は随分と可愛らしく見えて、思わず微笑んでしまいました笑
芝のぶさんのお由良。お見事な死にっぷりでした。美しい血まみれの人形のようで、一番The 谷崎を感じた。
橋之助さんの殿さま。一見いい人っぽい風貌だから、恐怖も倍増。想像してたよりずっとよかった。
亀蔵さんの玄沢。悪くはなかったですが、嫌らしさ&イヤらしさが少々足りない気も?
七之助の伊織之介。顔色を変えず淡々と人を殺す冷たい少年のような美貌が、イメージにぴったり。梅野の首を掻き切る場面の、着物と頬に血を浴びた姿の美しいこと。。。あれ、どういう仕掛けなんだろう。短刀から血糊が出てるのかな。
で。
唯一の不満は、勘九郎の珍斎。
あれは一体ナニ・・・?
他の役者が同じ作品世界にいる中で、異世界の人間が一人だけ紛れ込んでいるみたいだった。
観客サービスもいいけれど、作品の統一感をぶっ壊してはダメでしょう。しかも脇役なのに。
演技も勘三郎さんにそっくりだったけど、それ以上に、観客サービスの仕方が本当にそっくりだった。勘九郎はこれからこういう方向に進んで行くつもりなのかなぁ。それを望んでいる人も多いのかもしれないけど(今回爆笑していたお客さん達とか)、うーん・・・・・・・。
この日のお客さん、勘九郎が登場する前は変な笑いは一切起きていなかったのですよ。なのに勘九郎が散々笑いをとった後は、なんでもかんでも笑うようになっちゃって・・・。蓮池の前でお銀の方と伊織之介が抱き合う場面で大爆笑、広間での殺戮場面でも大爆笑(この笑いはさすがに先細っていったけれど)。でもそういう作品だと客が勘違いしてもおかしくない演技を、勘九郎がし続けるのですよ。うーん・・・・・・・。
さて、ストーリー。
前半、ものすごく冗長ですね・・。原作を読んだときには気付かなかったけど。思うに谷崎は、これを書いた当初は、実際に上演することは考えていなかったのではないかしら。谷崎にとって戯曲は小説の一形式という位置づけだったともいうし。で、実際に上演してみたら意外と前半がダラダラしていた、とか?
しかしそれは原作の問題だから仕方ないのですけど、今回は演出が・・・・・思いきり原作の魅力をぶち壊しておられました・・・。少なくとも私はそう感じました。
この作品で谷崎が最も表現したかったのは、血みどろ演出部分だと私は思うのです。実際ご本人もト書き部分の重要性を説いていたそうですし。ちなみに原作のト書きがどれほどグロテスクかと申しますと、こんな感じ。
お由良ちゃんの死の描写:一刀の下に眉間を割られたらしく、熱に溶(とろ)けた飴のように顔の輪郭がことごとく破壊されて眼球と歯と舌だけがはっきり飛び出ている。
梅野の死の描写:梅野、一生懸命に叫びながら逃げようとする途端に、後ろから脳天の骨を横に殺(そ)がれる。髪の毛と頭蓋の生皮が剥ぎ落されて、真赤な、むごたらしい坊主頭になる。
この耽美なんて言葉では生ぬるい、肌がざわざわするような嫌悪感ギリギリのグロテスクさこそ、原作が最も表現したかったものではないのかなぁ。登場人物の心情云々なんて、たぶんオマケにすぎない。
けれど今回の演出は、そういう殺し描写が全体的にアッサリサッパリ。
まあ仕方なかったろう、とは思うのです。
おそらく谷崎は、倫理とかリアルとかストーリーとかとは切り離して、純粋に非日常的な殺しの描写を客に味わって欲しいと思ったのだろうと思う。古典歌舞伎の殺しの場面によくあるような。そういう感じを彼流に表現したのではないかな。
けれど最近はリアル世界でこの作品と変わらない猟奇的な異常殺人がしょっちゅう起きていて、私達はこの作品の描写を「非日常」と感じることはできないですよね。もしト書きどおりの演出を実際にやられたら、おそらく谷崎が意図していた以上に私達は生々しく悪趣味に感じてしまったはず。特に今回は朝イチの上演でしたし。
だからこのアッサリ演出も理解はできるのだけれども・・・。
照千代の死の追加についても同様。
最悪の変更です。
血みどろの殺戮の末の二人の身勝手な死があってこそこの作品の美は完成するのに、この演出では、お銀の方が息子を失った悲しみから死を選んだように見える。急にお銀の方がいい人になってしまう、健全で平凡な結末。この変更について、扇雀さんはブログで次のように書かれています。
「耽美主義と言われる谷崎ですから、美を追求する中でこの作品のように人の欲と死は外せなかったのでしょうか。お銀の方と伊織之介の関係は純粋だったのでしょうか。原作ではお銀の方が産んだ照千代は死にませんがお銀の方と伊織之介は死を選びます。その死に動機等はいらないのだと思います。2人の世界に陶酔するために死を選んだのでしょう。しかし見ているお客様に納得して頂ける物を提供するにはという疑問が湧いてきました。照千代を殺したのは逃げだったのかもしれません」
つまりご自身は原作の二人の死に納得したけれど、客は納得できないのではないかと思い変更した、と。
それが結果的に作品の本質をわかりにくくさせ、この上なく中途半端な出来にしてしまったわけです。
だから客のレベルに作品の方を合わせては駄目だと、私はあれほど・・・・。
結局、今の時代にこれを上演しようと思った心意気はアッパレだけれど、そうと決めたのならとことんやるべきだったし、それができないのなら最初から上演すべきでなかった。そう思います。
とはいえなんだかんだ言いながら、楽しんだことはとっても楽しんだのですけどね笑
【たぬき】
大佛次郎原作の新作歌舞伎。
三津五郎さ~~~~~ん泣泣泣
素晴らしかった。。。(>_<) お芝居を観た充足感をたっぷりいただきました。
一度死んだ人間が生き返るというお話なので、不謹慎かもだけど、これまでの一年の三津五郎さんとも重なっちゃって…
何がどうというストーリーではないけれど、なんか考えちゃったなぁ。
結局人って別人にはなれないものなのかなぁ、自分として生きるようにできてるのかなぁ、とか。後ろ向きな意味だけじゃなく。
あんなに自ら強く望んでなった別人としての人生だけど、やっぱり息子は可愛くて。だったら最初から別人になんかならなきゃよかったのにと言ってしまえば簡単だけど、人間ってそんなに白黒はっきり生きられない馬鹿な生き物だったりするわけで。
焼き場で生き返ったときに「妾と楽しく暮らしたい!」と思った金兵衛も、芝居小屋の「御殿」の子役に心動かされてしまう金兵衛もどちらも同じ人間で、そこに矛盾はないのだと思う。
そして今は事業にも成功し何不自由ない暮らしはしているけれど、きっと彼の心の奥は満たされていなかったのではないかしら。お染が金兵衛の顔を覗いて「似ているけど別人」だと、「あの人はもっと優しい顔をしていた」と言うところ、あれは相手がお染だからだけじゃなく、今の彼が本当には幸福じゃないからということもあるのではないかな。
決して楽しい生活が待っていないことがわかっている家に帰ろうと決心したのは、自分を「ちゃん」と呼んで彼を彼として認識してくれる、そんな息子のいる家が自分の居るべき場所なのだと、そう実感したからではないかしら。
「子供は騙せない」「狸は古巣に帰るしかない」と泣き笑いのように呟く金兵衛の顔は、諦めの中にも清々しさが感じられるもので。それまでは「金兵衛は生き返ったがためにお染に情夫がいることを知ってしまって、放蕩三昧の中で彼女が自分だけを愛していると思い込んだまま死んだ方が幸せだったのかもしれないなぁ」と思っていたのだけれど、最後の場面で、「やっぱり生き返って良かったのだなぁ」と思いました。
配役もとてもよかった。
扇雀さんの女房おせきも、彌十郎さんの宗右衛門も、安心の出来。獅童の三五郎もちゃんと間男っぽかったよ笑。
七之助のお染。昨年の納涼につづき、こういう蓮っ葉な役の七之助が大っっっ好き。
勘九郎の蝶作。これまた勘三郎さんに瓜二つだったけど、こちらは作品世界をぶっ壊すこともなく、いかにも太鼓持!な調子のよさがぴったりで、よかったと思います。「大和屋さんの所作事はちゃんと観ておけって親父の遺言だ」笑。七之助と兄妹役なのも楽しかった。
金兵衛の息子の梅吉は、3歳の七緒八くん。一ヶ月間舞台に立ち続けるだけでエラいわぁ。正直台詞が聴き取りづらかったり、登場した途端に客席のおば様方が「勘三郎が生きていたら一緒に舞台に立てたのにねぇ~」とか「3歳なのにえらいわねぇ~」とかザワついちゃって話の流れが途切れかかってしまったけれど、何より舞台上の三津五郎さんが七緒八くんと共演していることがとても嬉しそうに見えたので(※演技は完璧にされておりました)、よかったなぁと思いました(*^_^*)
あと、役の中村山左衛門さん。
すごく雰囲気のある役者さんで、誰?とチラシを見てもみっくんしか名前がない。
帰宅してから三津五郎さんのHPで知りました。ちょっと長いけど引用しちゃいます。
十年前の私の初演の時、このがいい役なものですから、会社の方からは幹部さんのある方でどうですか? と打診があったのですが、「いやこの役は初演の照蔵さんが示す通り、主役と対峙するが、叩き上げの名題さんというところに意味がある。私が頭を下げて挨拶をせねばならぬような幹部の先輩の方に出ていただいたのでは、大店の主人の金兵衛とずっとで暮らしてきた男との生活感の違いが鮮明でなくなってしまう恐れがあるから」とお断りし、中村源左衞門さんに演じていただきました。そしてその読み通り、源左衞門さんが素晴らしい演技をみせてくださったのです。
今回もまた性懲りもなく幹部さんでいかがでしょう?と打診がありましたがやはりお断りして、中村山左衛門さんに演じていただきます。独特の個性を持った方なのできっと良いになるのではないかと期待しております。
そんな経緯があったんですねぇ。三津五郎さんの読み、さすがです!素晴らしいでございました。
二演目しか観られませんでしたが、今年の納涼歌舞伎も楽しかった
もう8月も終わりですねぇ。
私的夏のメインイベントはまだこれからなんですが、もう秋だなぁな気分
今日なんて涼しい通り越して寒かったし。。。
皆さまもどうぞご自愛くださいませ
“恐怖”をキーワードに選んだ物語を白石加代子さんが朗読する「百物語」シリーズ。
22年前、白石さんが50歳のときに始まり、以来ライフワークとして続けられ、今回がそのファイナル公演だそうです(私が拝見するのは今回が初めて)。
ご存じのとおり百物語は100話目の怪談を語り終えたときに本物の怪が現れると言われていて、100話目は決して語ってはいけないというのが言い伝え。というわけで、このシリーズも99話目で終了されるそうです。
私の目当てはその99話目の『天守物語』だったのですが、予想に反して、98話目の『橋づくし』が素晴らしかった。
素敵な空間を体験させていただきました。
※3階席:3000円
橋づくし45分~休憩25分~天守物語65分
【第九十八話 三島由紀夫 橋づくし】
昭和通りにはまだ車の往来(ゆきき)が多い。しかし街がもう寝静まったので、オート三輪のけたたましい響きなどが、街の騒音とまじらない、遊離した、孤独な騒音というふうにきこえる。
月の下には雲が幾片か浮かんでおり、それが地平を包む雲の堆積に接している。月はあきらかである。車のゆききがしばらく途絶えると、四人の下駄の音が、月の硬い青ずんだ空のおもてへ、じかに弾けて響くように思われる。
小弓は先に立って歩きながら、自分の前には人通りのないひろい歩道だけのあることに満足している。誰にも頼らずに生きてきたことが小弓の矜りなのである。そしてお腹のいっぱいなことにも満足している。こうして歩いていると、何をその上、お金を欲しがったりしているのかわからない。小弓は自分の願望が、目の前の舗道の月かげの中へ柔らかく無意味に融け入ってしまうような気持がしている。硝子のかけらが、舗道の石のあいだに光っている。月の中では硝子だってこんなに光るので、日頃の願望も、この硝子のようなものではないかと思われて来る。
(三島由紀夫 『橋づくし』)
陰暦八月十五日の満月の夜に、七つの橋を渡って願掛けをする四人の女の物語。
昭和三十一年、作者が31歳のときの作品です。
ドビュッシーの「月の光」とともに客席上手から登場された白石さんは、涼しげな白地の着物と真っ赤な口紅。
帰宅してから知りましたが、現在72歳なのですね。お若い。
実際に拝見したのは初めてですが、綺麗な方だなぁと感じました。雰囲気がすっと一本通っていて、とても綺麗。
舞台にはお供えのお月見団子と薄。黒衣さん達が楽しげに御酒を酌み交わしています
やがて小弓が米井で夜食をいただく場面になると、上手の卓上に黒衣さんがお素麺を運んできて、それをずず~っと啜る白石さん^^
そしていよいよ四人が願掛けに出発します。
ドビュッシーの旋律、虫の音、時折通る車のエンジン音…、それらが東京の夜の静寂を実に効果的に表していて、舞台の空気がふっと変わる。
それまでのセットは静かに下げられ、舞台の上にはシンプルな数枚の板で表した橋(板の合わせ方で色々な形の橋に変わります)と、橋の名前がぽっと浮かんだ常夜灯のみ。
本当に昭和の、今よりずっと灯りも交通量も少ない夜の銀座がそこにあるようだった。
そして白石さんの語りを見て聞いているうちに、実際は一人で演じられているのに、そこに四人の女性がいるような錯覚を覚えました。
三島由紀夫はこの作品について、「私がかねがね短篇小説というものに描いてきた芸術上の理想を、なるたけ忠実になぞるように書いた作品で、冷淡で、オチがあって、そして細部に凝っていて、決して感動しないことを身上にしている」と言っています。
まさにそのとおりの作品で、原作を読んだときは面白味がわかるようなわからないような、どう消化していいのか正直少々困ってしまったのだけれど、今回、なんだか腑に落ちたといいますか、この作品がとても好きになってしまいました。
以前はこの作品にちょっと冷たいような印象を多くもっていたのですが、白石さんの明るくチャーミングな語りを通すと、この作品の軽みと可笑しみが自然と感じられて、けれど闇の深さと透明な美しさも依然としてそこにあって、それらが絶妙に融け合って、そういうところにこの作品の魅力はあるのかもしれないな、と。
何かを主張するわけではなく、ただ、ある秋の満月の夜の、東京の花街の、普通の四人の女達の、たわいもない(けれど本人達にとっては特別な)、その結末が気になってちょっぴりドキドキする、ほんの数時間の物語。
昭和の銀座にタイムスリップして彼女達の秘密の儀式を覗いているような、素敵な45分間でした。
なお、この『橋づくし』のエピグラフは、近松の浄瑠璃からとられています。以下。
………元はと問へば分別の
あのいたいけな貝殻に一杯もなき蜆橋、
短かき物はわれわれが此の世の住居秋の日よ。
――『天の網島』名ごりの橋づくし――
【第九十九話 泉鏡花 天守物語】
72歳とは思えない、大変な熱演。
ではあったのですが。。。
少々観ていて疲れてしまった、、、というのが正直な感想です・・・(すみません・・・)。
一人が代わる代わる数役を演じるのはやはりどうしても慌ただしく感じられ(なんとトータル17役だそうです)、登場人物に感情移入がしにくかった。私は観ていませんが、以前された『高野聖』などの方が登場人物も少なく、朗読劇には合っているのではないかしら。
また力を抜いて語った方がいいような箇所も力が入っていることが多く、そのせいか妖怪達に妖しさが少なく、みんなどこか市井っぽい(人間の図書はちょっとおっさんぽい^^;)。 桃六も、もっと人間や妖怪を超えた、泰然自若とした雰囲気なのではないかしら。
それらが、別世界を描いたこの物語とあまり合っていないように感じられました。
とはいえ、天守の舞台セットは素敵で、黒衣さんをうまく使って侍女や図書のように見せるなど、よく工夫されているなぁと感心しました。
そして全体を通して言えることは、やはり上手い!
平幹二郎さんの『ヴェニスの商人』や美輪明宏さんの『黒蜥蜴』のときも書きましたが、『橋づくし』にしろ『天守物語』にしろ、あれほど美的な言葉の数々で彩られた文章が白石さんの声を通すとすぅと意味が頭に入ってくる。自然に理解できる。これってすごいことですよ。なかなか出会えるようで出会えないです、こういう役者さん。
カーテンコールは1回。
黒衣さんのご紹介と、TV放映の紹介も兼ねた、すっきりとスマートなカテコでした。
舞台中央に正座し挨拶をされる白石さんを見ながら、改めて、素敵な女性だなぁと。
魅力的な女性を見た後にいつももらえる「こんな女性になりたい」パワーを、今回もいっぱいいただいた。
中島みゆきさんや美輪さまや玉さまの舞台を観た後に感じる、あの感覚と同じです。
って、最後のお二人は女性じゃなかった、笑
この日は旅公演の中日だったそうで、WOWOWの撮影が入っていました。
また今週土曜日23時からEテレで特集番組が放映されるそうなので、ご興味のある方はぜひ(*^_^*)
それにしても、今までこのシリーズの存在を知らなかった自分がつくづく悔やまれる。。。。。。。。。
※99本目のろうそくに達した「白石加代子の百物語」で演劇の醍醐味を(JAPAN TIMESより)
(泉鏡花 『海神別荘』)
海老蔵の公子、好きなのです。
アホの子な尊大さがピッタリ(褒めております)
歌舞伎座じゃなくて構わないから、若く美しいうちにもう一回やってくれないかしら。
美女は、玉さまはちょっぴり私のイメージと違っていたので、んー、菊ちゃんとか・・・?でもカップル的に合わなそうな気がとってもするので、澤瀉屋さんあたりのどなたかで是非にm(__)m