風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

ハンブルク・バレエ団 『ニジンスキー』 @東京文化会館(2月12日)

2018-02-13 02:31:02 | バレエ




最終日に行ってきました。
2016年来日公演のガラで抜粋を観て以来、死ぬまでに生で観たいと強く願っていたリアブコの『ニジンスキー』全幕。
想像を超えた素晴らしい作品でした。この作品を今回の来日公演に持ってきてくださって本当に本当にありがとう、ノイマイヤーさん。これで人生の心残りが一つ減りました。

以下、感想を(映像含めても2回しか観ていないので知識・理解不足や記憶違い、見当違いなことも書いてると思いますが…)。


まずはなにより。

リアブコは人類の宝  
※この言葉をダンサーに使ったのは過去にロパ様白鳥に対して一度だけでございます。

この上なく繊細なのにスケールの大きな表現力、しなやかな身体と動きの艶、なにより魂のレベルで強く訴えかけてくる彼の踊りが本当に本当に好き。どうしようもなく目が引き付けられてしまう。

『ニジンスキー』は来日公演に先だってNHKで放映された映像を観ていたのだけれど、生の美しさと迫力は映像とは別物でした(でもリアブコで映像が残ることは感涙)。スヴレッタ・ハウスのセットとライティングの美しさ、バレエリュスの鮮やかさ、第二幕の群舞の迫力、そして光の輪の強烈な存在感。

一幕の冒頭で、バルコニーにいるディアギレフの幻に子供が縋るように飛んで抱きつくところ、切なかった…。今日のリアブコは椅子に片足をついて伸びあがる軽やかさが背に羽根が見えるようで、もうあれだけで私には彼がニジンスキーにしか見えなくなってしまいましたよ…。

イヴァン・ウルバンは、ディアギレフの初演キャストなんですね。ウルバンってリアブコと相性がいいなぁと改めて感じました。二人が全力で踊っても、どちらも迫力負けしない。そして甘くないのにすごく官能的。同性愛の関係で、支配する側とされる側で、そしてニジンスキーのその才能を誰よりも理解していたディアギレフ。冷酷で残酷で、でもある意味ではニジンスキーを本気で愛していた人。ノイマイヤーの描く愛は痛い・・・。
今日の薔薇の精はヤコポ・ベルーシでしたが、中性的な色気があって、ディアギレフが誘惑されるようなあの振りに説得力があって、とてもよかったです。
そして遊戯の若者/レオニード・マシーン(リロイ・ブーン)への一目惚れ度。結局はあんたもこういう可愛い癒し系がお好みなのねー、あんたもただの男だったのねーとも(ニジンスキーも男だけど)。でもここのウルバン、めちゃくちゃ色っぽかった。
ラストでニジンスキーが乗ってきたソリに乗ってのご退場は何か意味があるのだろうか。あそこだけちょっと笑いそうになってしまうのだけれど(あと一幕冒頭のスポットライトが当たってのご登場もちょっと笑いそうになる)。このソリは先月歌舞伎で観たばかりのいざり車みたいだなぁと。女性が男性を乗せて引く演出の使い方も。
しかしニジンスキーとディアギレフの出会いって、どちらの人生にとっても不幸な、でもバレエ界にとっては幸福な、運命の出会いだよねぇ・・・。

エレーヌ・ブシェのロモラ、すごくよかった。聖人ではない、人間の身勝手さ、どうしようもなさのようなものが感じられて。だからこそ最後にニジンスキーを見捨てずにもう一度戻ってくる場面が一層強く胸を打ちました。あれは男女の愛情とは違うものだと思うから一層。
今日の舞台、ロモラだけでなく、全ての人物にこの「人間のどうしようもなさ」のようなものを感じた。人間の不完全さ、弱さ。悩んで、迷って、裏切って、傷つけて、傷ついて。
身勝手さではニジンスキーだって同じだと思うの。子供の頃も結婚した後も家族よりもバレエを選んでいるような場面もありますし、旅先での突然の結婚もディアギレフの感情に対してあまりに無頓着ですし。ロモラはダンサーとしてのニジンスキー(シャイな本人ではなくセクシャルな金の奴隷や牧神)を愛したかもしれないけれど(そんな自分に戸惑っている彼女もブシェは繊細に表現していた)、ニジンスキーも一人の女性としてのロモラを愛していたかというと疑問だと思う。彼はただ自分の心が安心できる場所が欲しかっただけではないのか、と。ディアギレフとの関係もそう。
でもディアギレフの身勝手さも、ロモラの身勝手さも、ニジンスキーの身勝手さも、それが悪いことだと責める気持ちにはならなかった。神様はそういう不完全なものとして私達人間を作ったのだと、そのどうしようもない世界で私達は生きるしかないのだと、そう感じさせられるものが今日の彼らにはあったから。
でも、そういう世界で生き続けるには、ニジンスキーの精神はあまりに繊細で、敏感で、純粋すぎた。
彼のように生まれてしまった人間には、それこそ「神との結婚」をするしか、この世界を生きる術は残っていなかっただろう。

ニジンスキーが私達とは全く別世界の天才ダンサーであり天才振付家でありながらこの舞台を私達が客観的に傍観することができないのは、ニジンスキーの壮絶な孤独感、疎外感、痛みが観客(の少なくとも一部の人達)にとって決して他人事ではないからだと思う。少年時代のノイマイヤーがニジンスキーに惹かれた理由もきっと同じなのではないか。ノイマイヤーはこの作品で「特殊な天才の孤独」を描きたかったわけではないと思う。彼にとって決して生きやすいとはいえない世界に生まれ落ち、その中で自分の居場所を必死に探し求めていたであろうニジンスキーの魂に、ノイマイヤーの魂の何かが共鳴したのではないかな。

リアブコが「ダンサーとしてのニジンスキー」とディアギレフ/ロモラと三人で踊る場面は、『椿姫』で死が近付いたマルグリットがマノンとデ・グリューと踊る場面を少し思い出しました。どれほど望んでも、そこに自分の居場所はない。

アッツォーニのタマラ・カルサーヴィナのスケールと圧倒的な存在感は、もう女神様のようで平伏したくなるレベル。舞台袖から駆けてくるだけで目がいってしまう。アッツォーニの甘くない厳しさが好きです。
リアブコの精神がニジンスキーのようにあっちの世界にいかずにこっちの世界で留まっていられるのは、この世界の女神と結婚したからに違いない。あんな魂を受け止められるのはアッツォーニだけ(断言)。
と、リアルと混同してしまいそうになるほどリアブコがニジンスキーの役そのものに見えてしまったわけです。
この二人は本当に奇跡の夫婦であるなあと、先日の『椿姫』に続いて、今日の舞台を観ながらしみじみと感じました。

ユングが精神科医(一幕冒頭のホテルで登場するのはこの精神科医の方ですね)とニジンスキーの父親役の二役をやっているのは、家族を捨てて若い女と家を出て行った父親の記憶と、ロモラの不倫がニジンスキーの頭の中で重なっているのかな。
ユングの精神科医、ロモラと不倫しながらもニジンスキーのことはちゃんと医者として面倒を見てあげている性格の悪くなさが感じられるというか、あまりヤな人間に見えないのがいいです。これで医者も悪人だったら救いがなさすぎるもの…。

妹ブロニスラヴァ役のパトリシア・フリッツァ。春祭の生贄の踊りがものすごい迫力でかっこよかった。
この作品って、どの役も(ダンサーとしてのニジンスキー役まで)すべてが重要だなぁと生で観て改めて強く感じました。兄役のレイズ・マルティネスも、母役のアンナ・ラウデールも、何もかもが私的には完璧に感じられた今日のキャストでした。
映像と同じく金の奴隷と牧神を踊ったマルク・フベーテもエロくてよかったわ~。

ロイド・リギンズのペトルーシュカの素晴らしさはいわずもがな。映像で観ていたときは気付かなかったけど、二幕でずっと下手に横たわっているんですね。本っ当に容赦なく痛い作品ですよね・・・。

ニジンスキーが何度も両手で抱くように作る輪(そしてそこを擦り抜けていく彼の愛する人達…)。精神を病んだ彼がいつも書いていたのも輪っかの絵だったそうで。それは彼が望んだ世界の安定の形、理想の形だったのかな。ハンブルクバレエ団のマークでもあるあの形。生で観て気付きましたが、大きい方の輪が二幕?で何度も不気味にゆっくりと上下するんですよね。小さい方の輪が家族や自分といった小さな世界で、大きい方の輪は広い意味での世界を表してるとか? 違うかな。 

※追記:ニジンスキーの輪は"perfection"を表してると1919年の自身の日記に書かれてあるそうです(こちらの記事より)

そしてノイマイヤーの音楽の使い方は相変わらず素晴らしいですね。シェヘラザードで踊るリアブコ、すごく軽やかで綺麗だった。
ショスタコ11番はボストン響で生で聴いたばかりだったので最初は1905年の血の日曜日事件の光景がはっきりと浮かんでしまってちょっと困りましたが、民衆達の血を吐くような心の叫びがニジンスキーの心の叫びと重なり、じわじわと総攻撃が迫ってくる不気味さと緊迫感がニジンスキーが周囲や戦争の世界により追いつめられていく過程と重なり、全て終わった後の疲れ果てた諦念も感じさせる悲しみの三楽章・・・で終わると思いきや、まだ「この世界」の物語は終わってはいないのだということをつきつけるような四楽章の鐘の音。

この作品、観る前はニジンスキーが最後に一人狂気の世界へ行ってしまう話なのだろうと思い込んでいたんです。もちろんそれで間違いではないのだけれど、見方によっては正反対の話なんですよね。ラスト、束の間の家族の温かな記憶を最後に、崩壊していくニジンスキーの精神世界。それに呼応するように次々と床に崩れ落ちてゆく兵士達とダンサー達(映像では兵士達しか映っていませんが、今日はダンサー達も倒れていたと思う)。それは彼の中の芸術や闘いが死んでゆく象徴であると同時に、この先の第二次大戦へと続く時代における多くの芸術と兵士達の死も表しているのかな、と。赤と黒の十字の布を体に巻き付け、空間を見つめるニジンスキーの瞳。響き渡る「警鐘」の鐘。
「ニジンスキーにとって狂気に向かっているのは彼ではなく世界の方だった」(ノイマイヤー@プログラム)。では私達にとっては…?狂っているのはニジンスキーなのか、私達なのか。
最後のリアブコのニジンスキーの澄みきった眼は、どんな光景を見ていたのだろう。

幕が下りても、すぐには拍手ができませんでした。が、皆さんも同じだったようで、幕が下りきるまで拍手が起きませんでしたね。クラシック演奏会でもなかなか起きないこの現象。あのリアブコを見てしまっては、とてもすぐに拍手なんてできないよね。リアブコは今月20日で40歳になるのだとか。いつかこの人がいなくなるバレエ界が私にとってどれほど色褪せたものになるだろうと、思わずにいられません。

本日は東京公演最終日なので、カーテンコールでは恒例のSee you againの電飾と金のキラキラ
リアブコからは両手で客席へ投げキッス
一生心に残るであろう舞台を見せていただきました。本当にありがとうございました、ノイマイヤーさん、ハンブルクバレエ団の皆さん!!!
次回の来日も楽しみにしています!
 

◆主な配役◆
ニジンスキー:アレクサンドル・リアブコ
ロモラ:エレーヌ・ブシェ
ブロニスラヴァ・ニジンスカ、妹:パトリシア・フリッツァ
スタニスラフ・ニジンスキー、兄:アレイズ・マルティネス
ディアギレフ:イヴァン・ウルバン
エレオノーラ・ベレダ、母:アンナ・ラウデール
トーマス・ニジンスキー、父:カーステン・ユング
タマラ・カルサーヴィナ:シルヴィア・アッツォーニ
レオニード・マシーン:リロイ・ブーン 
 
【ダンサーとして役を演じるニジンスキー】
 『謝肉祭』のアルルカン:ヤコポ・ベルーシ
 『ばらの精』:ヤコポ・ベルーシ
 『シェエラザード』の金の奴隷:マルク・フベーテ
 『遊戯』の若い男:リロイ・ブーン
 『牧神の午後』の牧神:マルク・フベーテ
 ペトルーシュカ:ロイド・リギンズ
 内なる世界でのニジンスキーの象徴、ニジンスキーの影:
アレイズ・マルティネス、コンスタンティン・ツェリコフ
 

◆楽曲(NHKより)◆
 「前奏曲 ハ短調 作品28 第20」
ショパン:作曲
オンドジェイ・ルッチェンコ

「ウィーンの謝肉祭の道化」
シューマン:作曲
オンドジェイ・ルッチェンコ

「交響組曲「シェエラザード」から」
リムスキー・コルサコフ:作曲
(バイオリン)レオン・シュピーラー、(管弦楽)ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、(指揮)ロリン・マゼール

「ビオラ・ソナタ 作品147から」
ショスタコーヴィチ:作曲
(ビオラ)タベア・ツィンマーマン、(ピアノ)ハルトムート・ヘル

「交響曲 第11番 ト短調 作品103「1905年」」
ショスタコーヴィチ:作曲
(管弦楽)ワシントン・ナショナル交響楽団、(指揮)ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ


◆上演時間◆
第1部  14:00~15:00
  【休憩 25分】
第2部  15:25~16:45


NIJINSKY AND DIAGHILEV:The Australian Balletの『ニジンスキー』についてのページ。


※NBSのページより。










 
ハンブルク・バレエ団「ニジンスキー」


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ハンブルク・バレエ団 『椿姫』 @東京文化会館(2月4日)

2018-02-09 01:01:25 | バレエ




ハンブルクバレエ団『椿姫』の最終日(コジョカルトルーシュ)に行ってきました。

2014年のパリオペ来日公演のオレリー・デュポン&エルヴェ・モローの椿姫は私にとって5本の指に入るバレエ体験の一つで、東京文化会館の舞台が一瞬で別世界になった奇跡は今もはっきりと覚えています。
その二人と比べるとコジョカル&トルーシュはゴージャス度という点では下がるため「一瞬で別世界」なあの感覚は味わえなかったのだけれど、今回の舞台ではそれが良かった。なぜなら今回の舞台、アッツォーニリアブコのマノン&デ・グリューのこの世ならざる存在感が素晴らしかったから。リアブコ達が神がかった表現力で表わした現実の存在ではない恋人達と、コジョカル&トルーシュのこちら側の世界の恋人達。それぞれの役を四人が見事に踊りきってくれたことでその対比が際立って、パリオペとは全く違うタイプの椿姫を堪能させてもらうことができたのでした。

もっとも、一幕は主役二人の地味さ(あくまでもオレリー達と比べると、ですよ~)に私がまだ慣れず、リアブコ&アッツォーニだけが別格に感じられてしまったのは事実です。紫のPDDも、小柄な体型と可憐な雰囲気のコジョカルはシャンゼリゼを歩くだけで男達の視線を集めるような高級娼婦には見えませんでしたし(華奢な感じは薄幸さが出ていてよかったですが)、二人の感情もぐわっとは迫って来ないなぁと思ったりしていたのだけれど。
二幕、三幕と物語が進んでいくに連れて、愛がはっきりと見えた・・・。

(マルグリットは)毎日つねに死を覚悟して過ごしているのです。・・・マルグリットの病気は本物で、絶望的で不治の、ひどく曲解される病です。そのため、アルマンが彼女をありのままに受け入れ、すべてをひっくるめてまるごと愛しているという考えにおよんだ最初のパ・ド・ドゥで、彼女は言葉を失うのです。そんなことそれまで誰一人として彼女に言ったことがなかったのです。パ・ド・ドゥが終わっても、彼女はまだアルマンを信じられませんでした。しかしストーリーが進むにつれて、彼を信頼するようになります。
(ジョン・ノイマイヤー。公演プログラムより)

白のPDDは、前回来日時に『ジョン・ノイマイヤーの世界』でやはりコジョカル&トルーシュで観たときに「コジョカルの白は切なさの色が濃いなぁ」と感じたのだけれど、今回観てもやっぱりそうでした。特に今回はスローテンポの寂しげな情感を湛えたピアノ演奏もその大きな理由だったと思う。二人だけの幸福の絶頂の時間というよりも、この先に待ち受けている悲劇のフラグが裏に立ちまくりのPDD。ノイマイヤーの指示なのか、コジョカル達の解釈なのかはわからないけれど、とても新鮮でした(というほど多くの椿姫経験はないけれど)。ここのコジョカルは緩くウェーブのかかった髪が可愛かったな。

そして三幕の黒のPDDの激しさ。強引なトルーシュがめちゃくちゃカッコよかった。ここのピアノ演奏は非常にドラマティックで、その音に刺激されて主役二人がどんどん高まっていったように見えました。そこにはっきりと見える愛に泣きそうになった。
黒のPDDの空気って露骨なほどの振り付けなのにいやらしさが全くなくて、この上なく純粋なんですよね。官能的なのに純粋。それが本当に素晴らしいと思う。パリオペの二人も、今回の二人もそうで。ノイマイヤーってすごい、と改めて感じました。

ここから夢にマノン達が現れて、舞踏会で札束渡して、それから次第に静かになってゆくフィナーレへのなだれ込みは、舞台上の四人から放たれる空気、感情に、息をとめて見入ってしまいました。
この日がロールデビュー2日目のトルーシュのアルマンの、若さゆえの勢いと情熱、そして未熟さ。
ボトルごとお酒ぐびぐびしている自暴自棄な姿(←なんか色っぽくてドキッとした)をバカバカ~(>_<)!と思いながらその先に続く展開を見守るしかできない客席のワタクシ…。
札束を渡されてショックで気を失ったマルグリットが運ばれていった後にトルーシュが見せた表情。バカバカバカ~~~!今そんな表情するくらいなら札束なんか渡すんじゃないわよ(>_<)!!!
と思うけど。
仕方がないんだよね…。だって彼はまだ若いのだもの…。自分をコントロールできなくて、愛する人を傷つけて、自分も傷ついて……。そんな若さがとてもよかったよ。

ヴァリエテ座の『マノン』から逃げるように部屋へと帰った後、マルグリットがマノン、デ・グリューと三人で踊る場面。個人的に黒のPDD、その後の場面と並ぶ今日の白眉でした。見ていて辛くて辛くて…。でも三人が作り出す世界の息をのむ素晴らしさは神々しくさえあって。
人生の最期にデ・グリューの愛に包まれ魂が救われたような表情を見せるマノン。デ・グリューはマノンだけを抱いて去っていく。マルグリットが伸ばした手をとってくれる人はいない。あんなに拒否していたマノンになりたいと願ってしまうマルグリット。こちらの世界の人間じゃないのにリアブコが優しげだから、そんな彼がマノンだけを抱いて去って、マルグリットが一人残されるところ、マルグリットが本当に可哀相で…。コジョカルのマルグリットって可憐なんだけど芯の強さも感じさせるから、そんな彼女の心が揺れるこの場面は見ていて胸が締め付けられました。
そしてここのリアブコとアッツォーニはほんっとーーーーーーーーーに神がかってた。。。この世のものじゃない感がしっかりあるのに人間としてのマノン&デ・グリューの深い深い感情が伝わってくるって、この人達の表現力ってどれだけ凄いの…!!!配役を知ったときにマノンとデ・グリューか~主役で見たかったな~とか思ってごめんなさい。ものすごいマノンとデ・グリューを拝ませていただきました。
物語後半でアッツォーニのマノンがマルグリットに見せるようになる表情も切なかったなぁ…。彼女の心を理解しているような表情。このマノンとデ・グリューはマルグリットとアルマンの心の鏡でもあるのかな。主役二人より年が上のダンサー二人が踊ったマノン達は、ノイマイヤーの真夏の夜の夢の妖精王達を少し思い出させました。異世界の、でも心のどこかでリンクしている存在。

コジョカルが時折みせる少女のような駆け方、原作のマルグリットの年齢(確か二十歳そこそこなんですよね)を思わせて切なかった。
そういえば紫のPDDのトルーシュは、自分の心の内をすべて曝け出してマルグリットへの愛を表現する爽快なほどの真っ直ぐなアプローチが、ガラで観たリアブコのアルマンを思い出させました。

ピアノとオケ。ブラボーでした。今回オケがシティフィルじゃなかったことがどれほど嬉しかったか…(ごめんなさい。でも本心です…)。オケが安定しているだけですごく安心して舞台に集中できました。これからもずっと東フィルにしてほしい…。そしてエルヴェがこの作品は音楽に身を任せていれば感情がおのずから引き出されると言っていた意味が、今回よくわかりました。音楽がその時々の人物の感情をあんなにもはっきりと表している。その点だけでもノイマイヤーの振付ってすごいと思う。
ピットでメインで弾いていたピアニストのミハル・ビアルクさん、華麗にドラマティックに情感豊かに盛り上げてくださってありがとうございました。

カーテンコールでは、今回もノイマイヤーさんがご登場。
リアブコが(珍しく?)満面の笑顔でしたね~。
まだこっちの世界に戻っていないような表情のコジョカルにトルーシュがキス
本当に、とてもいい舞台でした。ノイマイヤーさんもきっと満足してくださったのではないかな。

来週は『ニジンスキー』に行ってきます


◆主な配役◆
マルグリット・ゴーティエ:アリーナ・コジョカル(ゲスト・アーティスト)
アルマン・デュヴァル:アレクサンドル・トルーシュ
ムッシュー・デュヴァル(アルマンの父):カーステン・ユング
マノン・レスコー:シルヴィア・アッツォーニ
デ・グリュー:アレクサンドル・リアブコ
プリュダンス:菅井円加
ガストン・リュー:ヤコポ・ベルーシ
オランプ:フロレンシア・チネラート
公爵:ダリオ・フランコーニ
伯爵N:コンスタンティン・ツェリコフ
ナニーヌ(マルグリットの侍女):パトリシア・フリッツァ

演奏:東京フィルハーモニー交響楽団
指揮:マルクス・レーティネン
ピアノ:ミハル・ビアルク、オンドレイ・ルドチェンコ 

◆上演時間◆
第1幕  14:00 - 14:50
【休憩 20分】
第2幕  15:10 - 15:50
【休憩 20分】
第3幕  16:10 - 16:55







 椿姫の前にお隣の動物園でこんなの↓も見てきました笑 

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