風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

伝える言葉から伝えない言葉へ

2023-06-10 11:12:57 | その他音楽

涙活進行中。
夜会VOL.3 KAN(邯鄲)TAN』に続いて、「ジョークにしないか」を聴いてます。

先日の記事で「恋愛的な相手か、人間愛かで違う」と書いたけれど、恋愛で見返りを求めないことって物凄く難しいですよね。
たとえば母親の子供に対する愛だったり人類愛だったら、「相手が幸せならばそれだけでいい」という感情を持つことはそれほど難しくないというか、自然な感情のように思う。

でも恋愛の場合は、自分のことも愛してほしいとどうしても思ってしまうのが、人間の自然な感情でしょう。
でも人間同士の感情というのはそこがピッタリ合うわけではないから、『KAN(邯鄲)TAN』で描かれている世界が胸に刺さる。
そこがピッタリ合っているわけではない以上、自分の想いが常に成就するわけではない以上、欲しがっているだけでは人は一生不幸なまま。
だから『KAN(邯鄲)TAN』のような価値観の転換をすることで、私達の心は救われる。
それも逃げて楽になるよりも、同じ想いが返されることがなくて辛くても愛することを選ぶ方を、みゆきさんは(みゆきさんが描く女性は)選んでいる。逃げるよりもその方が、彼女の心は救われるのだと思う。
でもその価値観の転換は、決して容易なことではないですよね。恋愛である以上。

愛なんて軽いものだ 会えることに比べたなら
明日また会えるように ジョークにしないか
きりのない願いは ジョークにしてしまおう


これ、ものすごく辛いことですよね。
一会のアンコールでこの曲を聴いたときに私はブログに「この曲に諦めだけではない、前向きな強さ、しなやかさのようなものも感じることができた気がします」と書いたけれど、この「強さ」はものすごーーーーーく辛い想いの上に、弱さの上にあるものですよね。
この歌の女性は当然だけど今も「きりのない願い」を持ち続けていて、それは自分自身で消せるものではないから、どうしようもない。

切ない歌ですね、改めて。。

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それならば私は何も失わずに生きてゆけた

2023-06-08 00:52:37 | その他音楽

みゆきさんの「I love him」がとても聴きたくなって、それならいっそ夜会を観てしまおうと、日付が変わるこんな時間まで『夜会VOL.3 KAN(邯鄲)TAN』を観てしまった。

夜会の中のどの作品が自分に刺さるかは人によって違うと思うけれど、私は特に『VOL.3 KAN(邯鄲)TAN』や『VOL.8 問う女』がそうで、気軽な気持ちでは観られません(夜会で気軽に観られる作品って殆どないけども)。
刺さりすぎて、観られない。
でも涙活というか、敢えて観たいときもあって。今夜がそれでした。
開始10分の「タクシードライバー」で既に涙ボロボロ。一人暮らしなので誰に気兼ねなく、思いきり泣いたわ。

昔は、みゆきさんの歌に出会えさえすれば、その人は決して自殺するようなことにはならないだろうと本気で思っていた頃があったけれど。
今はそうではないということを知った。
悲しい人は悲しいし、辛いことは辛い。
みゆきさんの歌に出会えても、自ら死を選んでしまう人はいる。
それでも、私達はみゆきさんの歌にどれほど心が救われることか。力をもらえることか。

最後に歌われる「I love him」。
愛することと愛されることはイコールではない。いつもそこにはズレがある。
そしてみゆきさんは(みゆきさんが描く女性は)、たとえ傷ついても、たとえ愛してもらえることはなくても、"それでも"愛することを選ぶ。そういう人生の方を選ぶ。
愛なんて儚いものと空虚に思うのではなく、傷つくことを怖がり愛さないことを選ぶのではなく、あっという間に夢のように過ぎてしまう人生だからこそ、愛することを選ぶ。それは胸の奥にずっとあった本当の願いなのだ、と。
この歌の女性は決して男に都合のいい女になっているわけではなく、自分の意志でそういう生き方を選んでいるんですよね。ちゃんと自分の主導で自分の人生を生きている。
この頃から最新の『VOL.20 リトル・トーキョー』に至るまで、みゆきさんはぶれていないなぁ。
『VOL.3 KAN(邯鄲)TAN』は1991年11月13日~12月7日の公演で、みゆきさんは39歳だったんですね。
あるみゆきさんのファンの男性の方が、夜会の中で最も好きな作品がこの『VOL.3 KAN(邯鄲)TAN』だと仰っていて。
「欲しいものが手に入らなくても、不幸とは限らない」という価値観の大転換を示したところに感動したのだ、と。

その前向きさは決して容易なものではないし、勇気のいることだし、失うものもあるし、傷つくし、逃げてしまう方がきっとずっと楽だけれど。
それでも、愛する方の人生をみゆきさんは(みゆきさんが描く女性は)選ぶのだな。
返される愛は無くても。
まぁ大前提として、それほどまでに強く愛せる相手に出会えるということだけで、既に十分に幸福なことだと私などは思ってしまうけれども。これを恋愛的な相手ではなく人間愛にまで広げると、また別ですけれど。

ところでラストの扉の向こうの部屋ってテーブルの上にロウソクが立っていて何かの儀式の部屋のようにも見えるのだけど、みゆきさんの本によると人々が集う食卓のような、そういう感じの設定なんですよね、たしか(本はむかし図書館で一度借りただけで手元にないので自信ないけれど)。
温かな体温をもった人間達のいる場所に彼女は戻っていくのですよね。再び傷つくことも、裏切られることもきっとあるけれど、それでも。

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『死んだ男の残したものは』

2022-12-07 23:55:23 | その他音楽

 

本日のニュース。「防衛費増額の財源 一部は増税」、「空自の名称『航空宇宙自衛隊』へ」。
わたし、思うのですが。
8月15日の終戦記念日も大切だけれど、同じくらいかあるいはそれ以上に明日12月8日も戦争について考える日としてしっかり子供達に伝えていくべきではなかろうか、と。
リメンバーパールハーバーとか自虐史観とかそういうことではなく、なぜどのようにして日本は戦争に向かってしまったのかということを、冷静に知的に、それぞれが考えたり幅広く調べたりする日として。
戦争を経験してソ連で捕虜にもなった私の祖父は、亡くなる前に「最近の日本の空気は戦前と似ている」と言っていました。祖父が亡くなったのは14年前だけれど、今の日本の空気は当時とは比べものにならないくらい戦前のそれに近づいているのではないかと感じます。

『死んだ男の残したものは』は、作詞が谷川俊太郎さんで、作曲が武満徹さん。
谷川さん(当時34歳)は1965年(昭和40)、”ベトナムの平和を願う市民の会”のためにこの詞を作詞し、友人の武満(当時35歳)に作曲を依頼。できあがった曲を渡すときに武満は「メッセージソングのように気張って歌わず、『愛染かつら』のような気持ちで歌って欲しい」という手紙を添えたそうです。気張って歌ってほしくない、というのはきっと谷川さんも同じだったのではないかな。常々「僕の詩は感情を込めすぎずに淡々と朗読してほしい」と仰っているし。
この歌、改めて聴くと、すごく”谷川さん”だなあと感じる。死んでいく人が男→女→子どもとさり気なく一つ一つ増えて(残っている人が減って)いくところとか、残したものが終盤で「生きてる私 生きてるあなた」になる流れとか。「他には誰も(何も)残っていない」の逆説的な希望とか。
戦後は音楽の道に進み世界を舞台に活躍した武満ですが、戦争末期には「日本は敗けるそうだ」と語った級友を殴り飛ばした軍国少年だったそうです(wikipedia)。

石川セリさんは武満作曲の歌ばかりを集めたアルバムも出されていて、それはセリさんの声に惚れ込んだ武満からの希望だったそうです。このアルバムには筑紫哲也さんのNews23のエンディングで使用された『翼』という歌も収録されています(作詞作曲ともに武満)。
セリさんの『死んだ男の残したものは』は、この歌でよくある深く感情を込めた歌い方とは全く違いますね。私もこの歌は大仰に歌うよりも淡々と歌う方が、より言葉のもつ力が聴く者に届くように感じます。

谷川さんとのコンビのアルバムがいくつかある小室等さんは、この歌を今年9月の国葬反対集会で歌われていました。
またジブリ映画で谷川さん作詞の歌を歌った倍賞千恵子さんも、この歌をレパートリーにされています。

さて、と。
私は明日はシュターツカペレ・ベルリンの演奏会に行ってきます。ドイツと日本というとワールドカップでも盛り上がっていましたが、81年前の明日を思いながら、こんな風に彼らの演奏会を聴きにいくことができる日常は決して当たり前に守られているものではないのだと改めて感じます。この「守る」を”どう守る”べきなのか、私も考えたいと思う。答えは簡単には出ないけれど。


先ほど見つけたこれもいいな。高音きつそうだけど、それもいいというか。この歌は女性が歌う方がいい気がする。
しかしこの曲を一日で作った武満、天才だな。全く同じメロディで、歌詞によって絶望も希望も表してしまうとは。気負わないシンプルな歌詞とともに、言葉と音楽の力を感じます。谷川さんも武満も30代半ばでこんな歌を作っちゃうのだものなぁ。。。

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繰り返すあやまちの そのたびひとは ただ青い空の青さを知る

2020-12-28 22:27:52 | その他音楽




昨日年末のご挨拶をさせていただいたばかりですが、先ほど「『劇場版「鬼滅の刃」』がスタジオジブリの『千と千尋の神隠し』を抜いて日本歴代興行収入1位に!」というニュースを読んで、「あ、そう言えば、今年のうちに書いておきたい記事がもう一つあったのだった」ということを思い出したので、書かせてくださいまし。

今年の夏に中島みゆきさんの『リトル・トーキョー 劇場版』を観に行った際の感想はここで書きましたが、そのときに映画館で『千と千尋の神隠し』が再上映されていることを知り(コロナ禍の影響で他のジブリ作品も一斉に再上映してくれていましたね!)、その2日後に観に行ったのです。
私がジブリ作品の中で”スクリーンで観てみたかった作品1位”が『千と千尋~』で。DVDで観て大好きだった作品だけど映画館では観たことがなくて、スクリーンで観られることは絶対にないのだろうと諦めていたので、嬉しかった。
いやあ、凄かった。アニメというのは映画館で観るのとDVDで観るのとでは完全に別物だ、と改めて実感(あの海の色…!)。エンドクレジットのときには「宮崎監督~~~」と涙ポロポロでした(ほんとに泣いた)。半藤さんとの対談で話題に出ていた漱石記念館用の『草枕』の短編アニメーションも、ぜひとも作っていただきたかったなあ。宮崎監督もそんなに『草枕』がお好きなら作ってくださいよ!
――と、こんなことが書きたかったわけではなく。

そういうわけでみゆきさんの『リトル・トーキョー』の2日後に『千と千尋の神隠し』を観たのですが、そのときにふと、「ああ、そういえばこの組み合わせは滝本弁護士つながりだな」と思ったんです。なので、そのことについて書きたいなと。

オウム真理教事件で殺害された坂本弁護士のご友人で被害者や教団脱会者の支援を続けている滝本太郎弁護士のブログのタイトルは、『千と千尋~』のエンディング曲「いつも何度でも」からの一節なんです。先ほどエンディングを聴きながら涙が出たと書きましたが、私もこの曲が大好きで、聴くたびにいつも胸がいっぱいになってしまう。この曲の作詞は、覚和歌子さん。谷川俊太郎さんと対詩ライブをされている方です。

事件当時滝本氏は坂本弁護士に代わりオウム真理教被害者対策弁護団の中心人物として教団に対する訴訟や信者に対するカウンセリングを行っていて、その結果、ご自身も度々教団からサリン等による襲撃を受けていました。
2000年5月12日、松本智津夫被告の第157回公判で被害者の一人として陳述をした滝本氏は、松本被告にこう語りかけたそうです(なお滝本氏は「松本被告には死刑を、それ以外の被告には教団の根絶および類似事件の防止のために死刑回避を」という意見でした)。

あなたが生まれたことを恨んではいません。あなたのしたことを恨んでいます。
中島みゆきの「誕生」という歌をいつかどこかで聞いてください。
以上です。

(弁護人:ということは、一番最後の部分、生まれてくれてウエルカムということを伝えたいということですか。)
中島みゆきの「誕生」という歌の、その詞のとおりです。弁護人からもあげてくれると有り難いです。

そして2018年7月6日、松本死刑囚の死刑が執行されました。その日のブログにはこう書かれています。

人ひとりの命が失われてしまった、悲しいです。
本人には、「生まれてくれてウェルカム」と言いたい。
(生まれて来なければ良かったのにとは言わないよという私も気持ちです。)

そしてそれは「麻原を一部たりとも許したものでもありません。」と。

私は滝本弁護士の活動や意見についてここで何かを書くつもりはなく、書けるとも思っていません。オウム事件についても同様です。ただ、上記で滝本さんが仰りたかったことの意味は、わかる気がする、とだけ書いておきます。
そしてさらに思うのは、これはみゆきさんの曲に限りませんが、そういう音楽に、そういう本に、そういう人間に出会えてさえいれば、その人は事件を起こさずに済んだのではないか。あるいは自殺をせずに済んだのではないか。そんな風に感じることが沢山あります。それくらい一曲の音楽や一冊の本や一人の人間が人の心に及ぼす力は大きいと思うからです。逆に言えば、それくらい人間の人生というのは紙一重で危ういものなのだと思うからです。あのときあの曲に出会えていなかったら、あの本に出会えていなかったら、あの人に出会えていなかったら、今頃どうしていたかわからない、ということは誰にでもあるはずだと思います。この世界に絶対といえるものなんて、ないと私は思う。自分は絶対にそうはならないなんて、誰が言いきることができるだろう。

今回の記事のタイトル「繰り返すあやまちの そのたびひとは ただ青い空の青さを知る」は「いつも何度でも」からの一節です。
そして滝本氏のブログのタイトルも、同曲からの一節です。

生きている不思議 死んでいく不思議
花も風も街も みんなおなじ




※「人権かながら2012

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Who never feels lonely at all under this endless sky...?

2020-07-19 13:35:36 | その他音楽




こんにちは。
ミニトマトのぬか漬けが美味しいとネットで読んだので作ってみたら、それほど美味しくなくて悲しいcookieです。
そしてアムステルダム国立美術館のデジタルツアーを見ていたら『夜警』が巨大なガラスケースの中に入っていて「モナリザに続きお前もか!」とググったら、昨夏から修復中とのこと(ほっ…)。
その記事に「修復過程を一般公開するという前代未聞のプロジェクト!」と書かれてあって、「?」と。
なぜなら私は20年ほど前にミラノでダ・ヴィンチの『最後の晩餐』の修復過程を一般公開で見ているので。しかしググってみたら最近の記事やブログにはみな「『最後の晩餐』は長年の修復期間を経て1999年5月に公開が再開された。」と書かれてあってビックリ。いやいやいや、ワタシ、1999年2月に見ているし。祖母もその数年前にやはりミラノで見ているし。あれから20年しか過ぎていないのに、こうして歴史というのは案外簡単に塗り替えられてゆくものなのかもしれん、とそんなことを思ったのであった。
歴史の塗り替えといえば、8月末まで小学館が「まんが 日本の歴史」を全巻無料公開してくれているので、読んでいるのです。古代からずっと読んでくると、「歴史」というのは勝者が作ったものなのだな、と改めて感じる。与えられた情報を100%無条件に信じてはいけない、「真実」は常に一つであり別のところにある、ということを感じるのでした。そういう意味では「情報」のいい加減さというのは、古代からずっと続いているものなのだな、と。といって「情報」に価値がないわけでは絶対にないので、要は受け取る側の客観的&俯瞰的視点が大事、と改めて思うのでありました。

さて、このブログにはメインのホームページがありまして、今もそのトップページに置いているのが、この夜明けの東京の写真です。目白の椿山荘(当時のフォーシーズンズホテル)から撮ったもの。
そしてこのブログの副題「Who never feels lonely at all under this endless sky...?」はブログを始めた2006年からずっと使用しているもので、中島みゆきさんの『たかが愛』の一節の英訳です。
日本語の歌詞は、「ああ この果てない空の下で 独りでも寂しくない人がいるだろうか」
ブログ開設当時はCDの歌詞カードに記載されたままの英訳を載せていたのですが、副題にするには少々長かったので、途中で変えました(英文法的に正しいかどうかは自信なし)。
これは2番の歌詞で、1番の同じ部分の歌詞はこうです。
「ああ この果てない空の下で 何ひとつまちがわない人がいるだろうか」

私は、20代前半の頃にどん底の精神状態になったことがあって。
表向きは普通にしていたので、誰も気づいていなかったと思いますが。
わーーーー!という激しい感じではなくて、どちらかというと虚ろな精神状態でした。自分が静かに消えてしまいたい、というような。好きなことも楽しめなくて何もやる気が起きなかったので、今思えば軽い鬱状態だったのかもしれません。
ある日の夕方、自宅で不注意で怪我をしたんです。病院に行くほどではないけど、真っ赤な血がダラダラと垂れてくるような、それなりに深い怪我。そのときに私、全く痛みを感じなかったんです。自分でも驚きました。正確には、痛みはあるんです。でもそれはある種の刺激でしかなくて、「痛い」と全く感じない。むしろ、心地いいんです。赤い血の色もすごく綺麗で、「私の中にも赤い血が流れているんだなあ」って不思議な気がしました。気持ちがいいから治療しようという気が起きない。どころか、もっと傷を深くしたいという強い欲求にかられました。新たな傷もつけたくなりました。
でもハッとして、縋る気持ちで必死で手を伸ばしたのが、部屋にあったみゆきさんの『大銀幕』のCDでした。
その少し前に、店頭に並んでいたのを、たまたま見かけて買っていたんです。ちょうどリリースされた頃だったんだと思います。みゆきさんは好きなアーティストでしたしシングルのCDもいくつか持っていましたが、アルバムは聴いたことがありませんでした。
糸、命の別名、たかが愛、愛情物語、世情、with、私たちは春の中で、眠らないで、二隻の舟、瞬きもせず。
すべての曲を繰り返し、繰り返し、聴きました。
みゆきさんの歌は「人間というのは愚かなものである」と、愚かである私の存在をそのまま受けとめてくれました。
以前「命の別名」に救ってもらったと書いたことがありますが、同じくらいに「たかが愛」、「with」、「二隻の舟」、「瞬きもせず」といったこのアルバムに収録されている全ての曲に、私は救っていただいたんです。あのときこのCDに出会えていなかったら、今私はここにはいなかったろう、と思っています。自殺はしていないと思う。でも、ここにはいないと思う。

私は自殺は罪だとは思っていません。どころか、それは救いです。私のような人間には、死にたくなればいつでも死ねるという選択肢が残されていることは、どれほどこの世界を生きやすくしてくれていることだろう。
でも、私は自ら命を絶とうと思ったことは、少なくともこれまでの人生では一度もないのです。
「いま私の上に隕石が落ちてきて、死ねたらいいのに」と本気で願ったり「消えてしまいたい」と思ったことは何度もあるけれど、実行的に自らの命を絶とうと思ったことは一度もありません。
その理由は、おそらく全く一般的ではない、ちょっと変わった理由なんです。
私にとって今生きているこの世界は、自ら去るには美しすぎるんです。どんなに辛い状況にいても、透明な青い空、雨粒に揺れる新緑、白々とした月、柔らかな風、美しい動物達、そういったものを見て、感じていると、それらを二度と感じられなくなることが惜しいと感じてしまう。いつかこの肉体がなくなってそれらの一部になれるのも嬉しいことだけれど、遠からず必ずその日はやって来るのだから、もう少しここにいて、この肉体でこの空や風を感じていたい、とそんな風に感じるのです。たとえ人間や社会の中ではうまく生きることができなくても、この世界の美しさは私を数十年間ここに繋ぎとめるのに十分な理由となる美しさなんです。
まあ私がいなくなると悲しむ人がこの世界からいなくなって、私自身ももう十分だと感じるときが来たら自ら去るときが来るかもしれませんが、どんなに生きていてもあと数十年。それはそんなに長い時間ではないような気がする。
急ぐ必要はないのではないか、と今の私は感じています。
そして明日の今頃自分が何を思っているかは、私自身にもわかりません。自分にも自分のことはわからない。だから、もし健康な肉体を持てているのであれば、できれば命は残しておいた方がいいよ、と若い人達には伝えたいです。

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昔から雨が降ってくる

2015-11-20 01:09:57 | その他音楽

昔、僕はこの池のほとりの 1本の木だったかもしれない
遠い空へ手を伸ばし続けた やるせない木だったかもしれない
あの雨が降ってくる
僕は思い出す 僕の正体を
昔から降ってくる なつかしく降ってくる

昔、大きな恐竜も 昔、小さな恐竜も
同じ雨を見あげたろうか 同じ雨にうなだれたのだろうか
あの雨が降ってくる 
昔から降ってくる

(中島みゆき 『昔から雨が降ってくる』)

世の中はアルカディアDVDや組曲や一会の話題で賑わっておりますね^^
一会のセットリストには命の別名が入っているのだとか。聴きたかったなあ(チケットとれませんでした・・・)

命につく名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも 名もなき僕にも

20代前半にどん底の精神状態になったときがあって、自分の体が傷ついても全く痛みを感じないという状態を初めて経験しました。あのとき私を救ってくれたのが、この曲でした。みゆきさんは私の命の恩人なんです。

30代前半にやはりどん底の精神状態になったときに、眠れなくなってしまった私を眠らせてくれたのはビートルズのLET IT BEでした。

When I find miself in times of trouble
Mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom
Let it be

Mother Maryはポールが14歳のときに病気で亡くなった母メアリーを指しているそうですが、当時私は聖母マリアのことだと思っていました。ポールもメアリーもカトリックだそうなので、それもかけているのかもしれませんが。私はキリスト教徒ではありませんが、この中のマリアに不思議なほど救われました。自分の力ではどうにもならない状況で苦しんでいるとき、人知を超えた存在を思うことは、それがどんな形のものであれ、すごく大きな慰めになった。宗教というものが人に必要とされ続けてきた理由を本当の意味で理解したのはこのときでした。

さて、今回の記事のタイトルのこの曲。『昔から雨が降ってくる』。
以前も書きましたが、私は小説的な意味での輪廻転生というものは信じてはおりません(仏教的な意味ではなく、一般的な意味で使ってますので、そこはつっこまないでね)。前世の恋人に次の世で再び巡り逢って前世の記憶を思い出して、というようなあれです。そういう小説や映画は大好きだけれど、たぶんないだろうと思っている。“私”が“私”である時間は、おそらく今生きているこの数十年間だけ。
でも、もっと科学的な意味での(科学という言葉は正確ではないかもしれませんが)輪廻転生は信じています。というより事実としてあるはずだと思っています。

どういうものかというと、この歌詞のようなイメージなんです。みゆきさんの意図とは違うかもしれませんが。
私達の体も、植物も、風も、水も、この世界のあらゆるものは無数の小さな物質でできている。それは現在の科学では解明できていないレベルの、細胞よりも原子よりももっともっと小さな単位の何か。あるいは科学でまだ発見されていないような種類の何か。それらは人間の体の一部になったり、土になったり、植物になったり、再び別の人間の一部になったりしながら、それを繰り返しながら、この世界を巡っているのだと思うのです。細胞の死とともに全てがリセットされるのではなくこの宇宙に一定の法則(いわゆる大いなる意志と言われるようなもの)があるのも、それを裏付けているように思います。
だから私のこの体は、ずっとずっと昔、一頭の恐竜であったかもしれない。今はない一本の木だったかもしれない。世界のどこかで生まれて死んでいった一匹の魚だったかもしれない。そして空から降る雨にうたれた記憶も、私達が泣いて、笑って、一生を生きた分の記憶も、“その物質”は憶えているのではないかと思うのです。具体的に意識される形ではなくとも。そしてそういう意味では、この世界では別れてしまう恋人や友達や家族とも、いつか再び違った形で巡り逢えることもあるかもしれない、と。
そう信じたいのではなく、そのように考えるのが私にとって一番自然なのです。子供の頃からずっと体で感じてる感覚なのです。今でも、ふっと「正体を思い出す」ような感覚があるのです。実際に思い出せることはないのですけれど。子供の頃ステゴザウルスが大好きだったのは、おそらくステゴザウルスだったときがあったからではないかと思うのです。これは半分冗談ですけど(でも半分本気です)。

何が言いたいのかといいますと。
すごくいい曲ですよね、ということ笑。

ちなみに、ただいま人生3回目のどん底に近づきつつあったりしてます。さすがに3回目にもなると近づいてることが自分でわかります。てかサイクル短くなってるし。もしかしたらこれまでで最深になりそうな予感もあったりしてるのですけれど・・・。
沼の底に沈みそうになっている私を引き上げてくれているのは、今回はペラ様(ペライアですよ)のピアノです
私の幸運なところは、いつも救い上げてくれる音楽に出会えていることだと思います。ただただ、感謝。
何事もきっとなるようになる、よね・・・?

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「祈る」

2009-03-25 14:12:30 | その他音楽


祈りたい事がある 一つだけ
叶わない願いだと 知りながら
残された痛みさえ 愛おしい

誰に?どこに?神様 ねぇ いるの?
私の太陽は明日も昇りますか?
夜明けの音は 生きようと 確かに
目覚めの時を 待ってたはずよ

(KOKIA 「私の太陽」)




「祈る」という言葉が、好きです。



わかれゆく季節をかぞえながら
わかれゆく命をかぞえながら
祈りながら 嘆きながら とおに愛を知っている
忘れない言葉は誰でもひとつ
たとえサヨナラでも 愛してる意味

Remember 生まれたとき誰でも言われた筈
耳をすまして思い出して 最初に聞いた Welcome

(中島みゆき 「誕生」)



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ZARD 『揺れる想い』&『Today is another day』

2007-05-28 23:32:58 | その他音楽



こだわってた周囲を すべて捨てて
今 あなたに決めたの
こんな自分に合う人はもう
いないと半分あきらめてた
揺れる想い体じゅう感じて
このままずっとそばにいたい
青く澄んだあの空のような
君と歩き続けたい in your dream
(ZARD 『揺れる想い』)

ZARDは高校時代に好きで聴いていました。
坂井泉水さんの外見
や雰囲気は女性としてすごく憧れた。
私はヘアスタイルはいつもロングとショートを交互に繰り返してるのですが、ロングにしようかなぁと思うときは最近でも決まって坂井さんを思い浮かべていました(ちなみにショートのときに思い浮かべるのは石田ゆり子さん)。
昨夜私は「生まれる時と死ぬ時」という文章を更新しましたが、坂井さんはまさに沢山の人が今涙を流す、そんな人生を送ったんだなぁと思います。
坂井さん、素敵な歌を今日まで沢山ありがとうございました。
どうか安らかにお休みください。

きっと心が淋しいんだ
他人に期待しない あてにしない 信じたくない
悲しい現実をなげくより
今 何ができるかを考えよう
今日が変わる 
Today is another day
(『Today is another day』)


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谷山浩子 「よその子」

2007-05-23 00:51:21 | その他音楽

きみの夢は涙に歪む 淋しい影が世界になる
きみは幻影の焼け跡を見る 焼け焦げたきみの心を

きみはよその子 母に憧れ
きみはよその子 母を憎んだ
果てしない旅の始まりは
もう思い出せない記憶の彼方

「それでも僕は 全ての家の
 全ての人の幸せを
 祈れるくらいに強い心を
 強い心を 僕は持ちたい」

(谷山浩子「よその子」)


アルバム『宇宙の子供』より。
この一曲だけのためでも買う価値十分なのに、名曲揃いのすごいアルバム。

この曲の少年は、全ての人の幸せを祈れるような強い心を今は持てていないのだ。
それだけの苦痛と孤独を彼は経験してきた。
「それでも」それくらい強い心を自分は持ちたい、と言うのだ。

浩子さんの曲は、中島みゆきと同じで(ちなみに2人は親友)、本当の本当のどん底のときでも生きる希望をくれる。
しかも自分に苦痛を与えた人間に対してでさえ優しい気持ちになれてしまったりするのだからすごい。
こういう音楽は、きっと人によっては不要なものなのだろう。坂口安吾の小説と同じ。
でも、必要な人にとってはこれ以上なく必要な音楽なのだ。
こういう曲に出会えるから、生きるのをやめられないんだよなぁ。

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Garnet Crow 『君という光』

2007-03-04 22:55:59 | その他音楽

今日の話題はこの曲とはほとんど無関係なのですが。

時々、どうすれば私の心は安らぎを得られるんだろうと、どうしようもなく絶望的な気分で思うことがある。
息を吸って、吐く、ただそれだけのことが、時々とても難しいことのように思えるのです。
とても、疲れる。

太宰が言った「僕は、僕という草は、この世の空気と陽の中に、生きにくいんです。生きて行くのに、どこか一つ欠けているんです。足りないんです。いままで、生きて来たのも、これでも、精一ぱいだったのです。」という言葉が、私にはわかりすぎるくらいにわかってしまう。性質がわるいのは、これが鬱だとかいうような病だったり一時的なものでは決してないということだ。なぜなら子供の頃からそうだった。太宰だって、そうなんじゃないだろうか。一時的な病だったら「今まで生きてきたのも精一杯だったのです」という言葉は出ないのではないか。この世に生きにくい人間というものは、いる。そんな自分が私は好きじゃなかったから、何度も変わりたいと思った。そして表面上は変われた。
周りからはよく「どこへ行っても誰とでもうまくやっていけそう」って言われる。でもそれは本当の自分とはまったく違うものであることは、自分が一番よくわかってる。周りの人達のことは決して嫌いじゃない。自分のこともすごく嫌いなわけじゃない。世の中捨てたものじゃないことも、優しい人が沢山いることも、楽しいことが沢山あることも知ってる。それでも、時々どうしようもなく、生きにくいのだ。こんな時の自分は、あまり好きになれない。

たぶん、どこかにもうすこし心が楽になれる糸口があると思うのだ。たぶんそれは、自分の中にある。
それは何なのか、とても知りたいと思う。私は臆病なのだろうか?それとも何かのプライドが邪魔をしているのか?そういうものを捨ててしまえば私は楽になれるのだろうか?どうなんだろう。

でもこうも思えて仕方がない。これはこれまで生きてきた勘のようなものだけど、たぶん私の魂は死ぬまで孤独なんだろうな、ということだ。私のような人間はたぶん、結婚しても、子供ができても、これだけは変わらないだろうと殆ど確信のように思うのだ。

でもね。そうじゃないかもしれない。
私は世の中すべてを知ってるわけじゃない。
あるいはやはりそうなのかもしれない。ずっと孤独のままなのかもしれない。
でもたとえそうだとしても、その事実は変わらないのだとしても、死ぬつもりはやっぱり今のところはないのだ、私は。
だったら、どうせ生きてゆく以上は「より良く」生きたいと思う。より楽しく生きたいと思う。孤独という事実は変わらなくても、その孤独に寄り添ってくれる別の魂はみつけられなくても、たとえばその孤独を照らしてくれる光をもしかしたらみつけられるかもしれない。あるいは別の魂でも光でもない、私が想像していないような何かがこの世界にないとは誰にも言い切れない。死の安らぎは、いずれそう遠くない未来に必ず得られるのだから、急ぐ必要はない。
だから、どんなに難しくても、私は息を吸って、吐く。
完全な安らぎは得られなくても、より良く、より楽しく、より幸せに、生きるために。

やっぱり私は、太宰よりも坂口安吾の方に近いみたいです。

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