風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

東京春祭《仮面舞踏会》 @東京文化会館(3月30日)

2023-03-31 17:21:48 | クラシック音楽



2021年の『マクベス』に続き、、、

ムーティさまブラボ~~~~~~

あらためて、「ムーティのヴェルディ」の物凄さよ・・・・・。
ウィーンフィルとのメンデルスゾーンやシューベルトも凄くよかったけれど、やっぱりムーティのヴェルディは格別。

ムーティの音作り、冒頭からマクベスのときを思い出しました。
丁寧で、その時々の情景や登場人物たちの感情が音からはっきりと立ち上ってくる。
楽譜の中に意味のない音なんて一つもないのだと感じさせられる。
一幕でリッカルドの殺害が予言されたときのティンパニの暗い音色と、その後の軽やかさ(といっても不吉な予言なのでただ軽いわけではない)の対比とタイミングとか、絶品だった。
二幕の墓場で刺客に襲われそうになる場面の「Va!」を絶叫する三重唱の緊張感だけはなぜかイマヒトツだったけれど、あれは指揮者の意図としか思えなかったけれど何故だったのだろう。ムーティさま、煩いのお嫌い?

三幕の仮面舞踏会の招待状が届いたところの重唱場面で(この作品は重唱が楽しい。字幕さんGJ)、合言葉の「Morte(死)!」を言うところの密やかな緊張感と暗さの見事さと言ったら・・・。ホール中が”あの場の空気”に支配されていた。
全ての歌を朗々と歌い上げるのではなく、といってただ台詞のように言わせるのでもなく、ちゃんと心が入ってリアルに歌わせているのがとてもいい。物語上で囁くところは、ちゃんと囁くように感じさせる。それは歌手もオケも同じで、『マクベス』のときもそうだったので、ムーティの指示なのだと思う。

ラストの「恐ろしい夜!」のところも完璧でした。あの血の凍るような音!
ここってそれまでの感動的なしっとり展開からいきなり「notte d'orror!」のff合唱で終わるのが唐突に感じられてしまう部分だけれど(実際youtubeで予習したときはそう感じた)、ムーティの音作りだと火サスみたいな野暮ったさが皆無で、スッキリとした音なのに(だからこそ?)説得力抜群。ムーティがこの作品を「客観的な作品」と言っていた理由が良い意味でわかった気がする。
なんというか、物凄く上質で美しい文章で書かれた新聞記事をリアルタイムで読んでいるような。あるいは上質な文芸作品の場面と空気を肌でリアルに感じているような。そう、ムーティの音楽には常に品があるんですよね。リアルさと芸術的な品格のバランスが絶妙。ほんとムーティ、ブラボー。。。
あえて欠点をあげるなら音楽作りが厳格に過ぎているところかもしれないけれど、それは些細なこと(えらそうにスミマセン…。でも覚書なので書いておく)。

 ムーティによれば、ヴェルディは、たとえば「リゴレット」や「椿姫」においては内面から登場人物に力を入れて描写し、ときには自分自身を人物に投影してきたのに対し、「仮面舞踏会」においては、外から見て人物を作っていった。一つひとつのアリアにしても、絵のように、アーケードのように描いていきながら自らを反映していったのだという。
 他のオペラには見られないような軽やかで新鮮なキャラクターを登場させたり、クラリネットやヴィオラ、チェロによる暗く濃い音の色彩で作られたりする場面が多いのも特徴である。
 つまり、主観的ではなく客観的な筆致によって描かれ、そのクライマックスにおいて国家の指導者が暗殺される、壮麗で悲劇的なオペラが「仮面舞踏会」なのである。
JBpress「オペラはエンターテインメントではない」指揮者ムーティが語るヴェルディ

今回もやはり一番の主役は、ムーティの意図を正確に表現しきった春祭オケ
日本の、それも常設ではないオケでこれだけの演奏を聴けるのはなんて凄いことだろう。日本人のオケなのに、色っぽさもちゃんと出てるんですよね。優雅な音はとことん優雅なのも素晴らしい。二幕の「愛の二重奏」の演奏も、美しかった。
個々の奏者では、ティンパニ(清水 太さん@東響)とイングリッシュホルン(﨑本 絵里菜さん)とチェロ(中木 健二人さん)がとてもよかったなあ。特に三幕のアメーリアのアリアのチェロ、まるで人の声のようにしか聴こえなくて、なのにちゃんと品もあり、聴き惚れました。他にも、運命の判決を意味するトランペットも緊張感のあるいい音だったし、軽やかで清澄なハープも美しかった。
なにより今年も奏者達の「ムーティからしっかり学び取ろう」という情熱が強く伝わってきて、ムーティもオケも幸福そうで、それを聴いているこちらも幸福でした。

リッカルド役のアゼル・ザダ(テノール)。
総督(王)ぽさが足りないのはともかくとして、二幕までは驚くほど声が出ていなくて、どうしちゃったのだろう…?と。SNSでは「ムーティが朗々と馬鹿みたいに歌い上げるテノールが嫌いだから萎縮してああなってしまったのでは」とか色々噂されていたけれど、真相はわからず。
でも三幕の書斎の場面からはちゃんと声が出てきて(吹っ切れた?)、死んでいく場面も、囁くような、でもしっかり意思を感じさせる歌い方で、合唱の浄化されるような響きとともに感動しました。ここ、レミゼ(ミュージカル)のラストでヴァルジャンが死んでいく場面と似ていますね。

アメーリア役のジョイス・エル=コーリー(ソプラノ)。一幕では張り上げ系の声が気になったけれど、二幕の墓場の「あの草を摘み取って」と三幕の「最後の願いを」のアリア、アメーリアの心が切々と伝わってきました。このエル=コーリーとマトーチュキナとミッツィは、昨年のシカゴ響の公演でも同役を歌ったとのこと。

レナート役のセルバン・ヴァシレ(バリトン)。深みのある声質がこの役にピッタリで、安心して聴くことができました(リッカルドが弱かっただけに)。

ウルリカ役のユリア・マトーチュキナ(メゾ・ソプラノ)。不気味さは少し薄めだったけれど太めの声質がこの役にピッタリで、こちらも安心して聴くことができました。

オスカル役のダミアナ・ミッツィ(ソプラノ)。もう少しだけ軽やかな歌い方でも良かった気もしたけれど、透明感のある清澄な声がとってもよかった。個人的にこの役はこういう声で歌ってほしいので、嬉しかったです。妊娠されているようで、カテコで拍手を浴びながら嬉しそうにお腹ポンポンしてた

あと脇でやたら良い声の人がいる…!と思ったのが、シルヴァーノ役の大西宇宙(バリトン)さん。一幕はリッカルドが弱かったので、どちらが主役かわからなくなるほど

今年も圧倒的な体験(まさに”体験”!)をさせてくれたムーティのイタリア・オペラ・アカデミーin Tokyo。
ムーティ、いま81歳だそうですが、そのスラリとした指揮姿と漲る覇気はとてもその年齢には見えない(あの腕の雄弁さと美しさ!)。
来年の春もまた来てくれるかな。お待ちしております!

指揮:リッカルド・ムーティ
リッカルド(テノール):アゼル・ザダ
アメーリア(ソプラノ):ジョイス・エル=コーリー
レナート(バリトン):セルバン・ヴァシレ
ウルリカ(メゾ・ソプラノ):ユリア・マトーチュキナ
オスカル(ソプラノ):ダミアナ・ミッツィ
サムエル(バス・バリトン):山下浩司
トム(バス・バリトン):畠山 茂
シルヴァーノ(バリトン):大西宇宙
判事(テノール):志田雄二
アメーリアの召使い(テノール):塚田堂琉
管弦楽:東京春祭オーケストラ
合唱:東京オペラシンガーズ

東京春祭オーケストラ(管弦楽)
今年も主要オケの首席やコンマスだらけのなかなか錚々たる面々ですね。






























巨匠リッカルド・ムーティが語る「ヴェルディへの敬愛」(家庭画報。2023年

リッカルド・ムーティ氏に特別インタビュー!巨匠が語る「音楽の力」とは?(家庭画報。2019年)

「オペラはエンターテインメントではない」指揮者ムーティが語るヴェルディ(JBpress)

Muti’s legacy: respect composers, reject revisionists (AP, June 25, 2022)

He used the unpublished critical edition from the complete works of Verdi, a joint project of the University of Chicago Press and Casa Ricordi started in the 1970s and still decades from completion. General editor Francesco Izzo traveled from Britain to be in the audience,

Muti insists reading the score is not enough. One must understand the motivation and purpose of each note and jettison additions to scores resulting from traditional habits.

(中略)

Muti did not alter the libretto in which a white Judge sings a racist insult toward Ulrica, a Black fortune teller accused of witchcraft: “dell’immondo sangue de’ negri (she has Black blood).” Muti says Verdi meant the line to highlight the Judge’s intolerance.

“In many theaters in this country and abroad, for the story of politically correct they change the phrase,” he told the orchestra. “We should not change so that the next generations must know the abomination that has been done for centuries. If you don’t change, you don’t solve the problem.”

(中略)

“We cannot change the history, because if we want to change the history, we should change everything, starting from the Greeks, from the Phoenicians, from the Romans,” he said. “We have to keep the horrible things of the past, to tell the young people that it was wrong.”

Riccardo Muti interview: life, death, and the lack of seriousness (Gramilano, August 2021)

I regret the lack of seriousness today, the spirit with which Frederick II had the motto carved on the Capua town gate: Intrent securi qui quaerunt vivere puri (Let those who intend to live honestly enter safely) – this is the immigration and integration policy that is needed.

I don't even recognise my own profession. Conducting has often become a profession of convenience and young people often get into conducting without long and serious study. They tackle monumental works at the beginning of their career, relying on the effectiveness of gestures.

Toscanini said that the arms are the extension of the mind. Today, many conductors use the podium for excessive gesticulation, for show, trying to make an impression with an audience more interested in what they see than what they hear.

(中略)

I've just finished conducting Aida in concert at the Arena, and my regret is that I couldn't do Aida with Strehler, as we had planned. It would have been without elephants. Giorgio believed in an Aida where the ‘triumph' was only in the music, not in that pharaonic spectacle that has characterised productions of Aida the world over, to the point of becoming the very symbol of Aida and damaging the true essence of the opera, which is built on one of Verdi's most refined and delicate scores.

(中略)

I'm not afraid of death. As a boy we used to go to the cemetery in the evenings to watch the wills-o'-the-wisp. I met the last professional mourner, Giustina, who told me about the rewards of the dead, lying on the bed in the only room in the house, the door open to the street, with a photo of the soldier brother on the wall as well as the heroic uncle… It was a simple and amazing world, which I miss very much. That's why I belong to another era. Today the world goes so fast, it overwhelms everything, even these simple things, which have a deep humanity.

I don't fear the end in itself, though I would be sorry to leave my loved ones: my wife, my children Francesco, Chiara and Domenico, my grandchildren. And the animals: my dog Cooper, a Maltese, and in the countryside, we have doves, rabbits, chickens, roosters, and two Sardinian donkeys, Gaetano and Lampo, who are very intelligent. They get very attached; they look at you quizzically with their pink eyes…. and we use the words ‘dogs' and ‘donkeys' as if they were insults.

I joke that I will leave the instructions for the pieces of music to be heard in the church for my funeral, which will be all recordings conducted by me! Not because I think they are the best, but I want people to remember how I conducted Mozart, Schubert, Brahms. If it's not me conducting, I'll know immediately, and there's a strong chance the lid of the coffin will open…!

There's one thing I'm very serious about, though: I don't want applause at my funeral. I grew up in a world where there was a terrifying silence at funerals. Everyone was locked in their real or false grief. For the more affluent there was a band playing Rossini's Stabat Mater or the Molfettesi funeral marches, famous in Puglia. I remember hearing applause for the first time at the funerals of Totò and Anna Magnani, but it was in recognition of their ability to interpret the soul of Naples, Rome and Italy itself. When it's my turn, I'd like there to be absolute silence. If someone applauds, I swear I'll come back to haunt them at night, during the most intimate moments.

I don't know if I'll find myself in a better world, certainly not in the Elysian Fields, though I hope there is a lot of light. As long as there is not a metempsychosis as I have no desire to be reborn, much less as a spider or a mouse, but not even as a lion. One life is more than enough.

I had a Catholic education… though I don't believe in the blonde Jesus of the prayer cards. Inside us there is a cosmic energy that survives us because it is divine. I remember the death of my mother Gilda where I had the distinct sensation that her body became as heavy as marble, while a vital flow of energy was released. I feel that the universe is criss-crossed by sound rays that reach us, and that is the reason we have music. The sound rays that went through Mozart are infinite.

Riccardo Muti interview, part two: Pavarotti, communication, politics and music’s meaning (Gramilano, August 2021)

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ムーティが語る「ヴェルディへの敬愛」

2023-03-23 23:18:13 | クラシック音楽

ヴェルディの人生は、まさに苦悩の連続だったといえるでしょう。その自身の経験があったからこそ、彼は喜びや苦しみ、嘆きなど人間の感情を音楽によって表現することができたのだと思います。ヴェルディのオペラ作品には常に愛と希望というメッセージが込められています。

どんな悲劇でも、フィナーレでは必ず彼が天上からの救いを与えてくれているのです。もちろんこの天上というのはカトリックやその他の宗教的な意味ではありません。『リゴレット』のジルダ、『仮面舞踏会』のリッカルド、ほんの一例ですが、登場人物たちはこの世の苦しみから魂が解放されて、すべてを許し、許されて幕となります。

ヴェルディが亡くなったとき、当時の有名な詩人であり作家であったガブリエレ・ダンヌンツィオがいった言葉があります。“Pianse ed amò per tutti(すべての人々のために泣き、そして愛した)”です。

お互いに理解し合い、愛することは人々の心をつなげます。愛する気持ちが世界の平和につながっていくのですから、ヴェルディのメッセージは過去も現在もそして将来も、ずっと生き続けることでしょう。『シモン・ボッカネグラ』の劇中では、シモン・ボッカネグラが総督として人民の暴動を抑えたときにこう叫びます。「私は平和をと叫びながら進んでいく。愛をと叫びながら進んでいく」。まさに今日でも世界の指導者たちのために重要な言葉ですよね。

巨匠リッカルド・ムーティが語る「ヴェルディへの敬愛」@家庭画報。2023年

このインタビューだけでもう「ムーティ様」と呼びたくなってしまう。
来週の『仮面舞踏会』、楽しみ。

リッカルド・ムーティ氏に特別インタビュー!巨匠が語る「音楽の力」とは?(家庭画報。2019年)

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ホフマン物語 @新国立劇場(3月15日)

2023-03-20 12:54:56 | クラシック音楽



ホフマンの孤独な死が生み出す永遠の命
オペラ『ホフマン物語』は、ドイツ・ロマン主義の作家 E.T.A ホフマンの幻想的怪奇小説の3つの物語をモチーフに、ホフマン自身を主人公にした失恋物語。ホフマン独特の”現実と幻想の二重性”がそのままオペラの物語と渾然一体となった、珠玉の傑作。ホフマンをめぐる3人の女性、恋物語を破滅に導く悪魔的な男、芸術の女神ミューズ…。決定版を欠き謎に満ちたこのオペラは、様々な解釈を招いてきた。
“光の魔術師“の異名を持つアルローの演出は、漆黒の舞台空間に、オランピアの黄緑、アントニアのブルー
の照明、ジュリエッタの赤い衣裳に紫の照明と、蛍光色や照明を駆使して鮮やかな色彩を効果的に出現させ、ドラマの妖しい幻想性を浮き彫りに。物語には、死、芸術、性への欲求というアルローのキーワードを象徴する女性たちが次々と登場。ホフマンの破滅的な運命が“絶望”という名の黒い糸で紡がれていき、夢と現実の狭間をさまようホフマンは、恋をした女たちに見守られながら息を引き取る。
新国立劇場HP

このご仁はどうみても、自分の内面生活を外面生活とほとんど区別していないようなので、その両世界の境界線は見分けることができない。しかし、好意ある読者よ!きみにしてもこの境界がはっきり見分けられないからこそ、幻視者におそらく惹きよせられて、気がついたときには、思いもかけず見知らぬ魔法の国にいるのではないか?そしてそこの異様な姿の者たちが、こんどはきみの外面生活に踏みこんできて、まるで旧知の仲のようにきみと付き合おうとする。好意ある読者よ、どうか彼らをそのように旧知として迎えいれてくれるよう、心からお願いする。彼らの奇妙な振る舞いに心奪われているとき、いささか悪寒をおぼえることがあっても、きみが夢中になればなるほどそれが興奮をもたらしてくれるのだから、ぜひともその戦慄にすすんで耐えてほしい。
(光文社古典新訳文庫『大晦日の夜の冒険』大島かおり訳)


昨年秋から続いたクラシック音楽祭りは終わったはずなのに、なぜかオペラ祭りが始まってしまった。。
こうなることがわかっていたからオペラには近寄らないようにしていたのに、、、その快楽を知ってしまうと後戻りできない。なんて恐ろしい世界だ。このままでは老後破産まっしぐらだわよマジで。。。

さて、ホフマン物語。
ネットの感想は賛否両論のようですが、個人的にはめちゃくちゃ良かった
私がE.T.A.ホフマンが好きという理由も大きいと思うけれど、あの原作の世界をこんな風に調理してしまうって面白いなあ、いい音楽だなあ、と感動しました。
原作はそれぞれ『砂男』、『クレスペル顧問官』、『大晦日の夜の冒険』ですが、ストーリーは結構変えられてます。
海外勢はもちろん日本勢も皆さん芸達者で、東響の演奏も繊細で美しく、舞台美術も楽しくて、幸福な3時間でした。

【第Ⅰ幕(プロローグ)・Ⅱ幕(オランピア)】
(休憩30分)
【第Ⅲ幕(アントニア)】
(休憩30分)

【第Ⅳ幕(ジュリエッタ)・Ⅴ幕(エピローグ)】

まず、フィリップ・アルローの美術&照明が美しい&楽しい
蛍光塗料の手足が浮いている幕開けはワクワクするし、二幕の星々と物理学者は星の王子様ミュージアムのよう。三幕のテーブルはアリスのティーパーティーのようだし、四幕のヴェネツィアはカリブの海賊のよう
次第に夜になっていくヴェネチアの海も美しかったし、プロローグの酒場の壁時計がちゃんと時を刻んでいるのも芸が細かい。プロローグの冒頭では21時で、エピローグでは3時間がたって0時手前になっていました。

そしてオッフェンバックの音楽の魅力的なこと
youtubeで聴いたときはそれほどとは思わなかったのだけれど、生で聴くとすんごく楽しい&美しい。数日たった今も耳に残ってます。
マルコ・レトーニャ東響も、とてもよかった。予習で聴いたシャイー&ミラノスカラ座?の演奏は元気に盛り上げる系であれはあれで悪くなかったけど、今回の演奏の繊細な美しさは、作品の世界観により合っているように感じられました。舟歌がオケだけで演奏されるところ、その気だるげな澄んだ音色には時間の感覚が消えて、ヴェネツィアの水と風を感じるようだった。

ホフマン役のレオナルド・カパルボは、プロローグではまだノれていない感じがあって大丈夫…?と心配したけれど、幕が進むにつれてどんどん調子が上がり、最後は大満足。あまり詩人ぽくはなかったけども。二幕のあのヘンテコ眼鏡もよくお似合い。甘やかで、良い意味で重厚さのない声質がフランスオペラにピッタリ。時々声が裏返るところや熱い演技は、ラミンを思い出した

悪役4役(リンドルフ/コッペリウス/ミラクル博士/ダペルトゥット)のエギルス・シリンスも、美しい声と存在感で、安定感抜群でした。
このプロダクションでのこれらの役って、どこか呑気なユーモアを感じさせる役でもあるように思うので(だってコッペリウスのあの衣装…)、そういう感じもシリンスはよく出ていました。
そもそもこれらの役って決してただの悪役ではないよね。ホフマンの芸術家としての成長のために必要不可欠な存在というか。グリゴロさん版白鳥の湖のロットバルトを思い出しました。

日本勢も劣らず素晴らしかった。
オペラでの日本人って演技力が物足りないことが多いけれど、今回は皆さん芸達者!
だけでなく、歌も上手!
オランピア役の安井陽子さん、アントニア役の木下美穂子さん、ジュリエッタ役の大隅智佳子さん、3名とも大満足です。アントニアにはストーリーのせいもあって涙が出そうになってしまった。
個人的にいいなと思ったのは、ニクラウス/ミューズ役の小林由佳さん。いい声。。。この役ってすごく重要ですよね。
合唱ももちろん文句なしです。

最後の拳銃パンッの自殺展開は知らなかったので驚いた。
「今度は人間としてではなく、詩人として生まれ変わりなさい」とホフマンに言うミューズ。
このプロダクションは基本はエーザー版で、拳銃自殺部分はアルロー版オリジナルとのこと(確かにシャイー&ミラノスカラ座では、ホフマンはただ酔い潰れているだけ)。これは現実の死なのだろうか。だとしたら、「人は愛で大きくなり、涙でいっそう成長する」の合唱で幕が下りるのがいまいち意味不明になるような。だってせっかく成長しても死んじゃったらもう作品作れないし。なので個人的には比喩的な死(人としての死、芸術家としての再生)と捉えた方が納得できるのだけど。ホフマンに拳銃を手渡したのが医者に見えたけど、あれはどういう意味だったのだろう。※追記:医者のように見えた衣装を着たステッラの付き人のアンドレでした。
横たわったホフマンの傍らで「人は愛で大きくなり~」と一同が歌うとき、リンドルフとステッラも一緒に歌っているんですよね。ジュリエッタにしても、お前らが言うなとも思ってしまうが、全ての涙は芸術家の糧となる、ということなのでしょうね。

ホフマンが語る過去の失恋話も、どこまでが現実でどこまでが空想なのか。
「三人の女性はみんなステッラ」の言葉どおり、全てステッラという一人の女性から生まれたホフマンの空想物語のように思える。史実のホフマンが恋人ユーリア・マルクをそれぞれの作品に分裂させて登場させたように。
そういえばアントニアが死んでいくときに登場した彼女の母親の姿も、白い衣装のステッラだった。

ところで私は買っていませんが、今回のプログラムにはホフマンと鏡花の共通点についてのコラムがあるとのこと。
個人的には鏡花はどんなにぶっとび展開でも私の感覚にピッタリシンクロしている感じがあるけれど、ホフマンは「どういう頭の構造してるとこういう話が出来上がるの???」と感じる。
それは、ホフマンの速筆も関係ありそう↓

ホフマンの速筆は有名だった。着想が浮かぶと、先がどうなるか深く考えずに書きはじめ、推敲などしなかったと言われている。その点、作曲の場合との違いはたいへん興味ぶかい。オペラ『ウンディーネ』の待望の上演がいよいよきまったとき、彼は大審院と執筆の仕事に追われていることを理由に、総譜の清書をぎりぎりまで仕上げようとしなかった。彼にとっては音楽こそが至高の芸術であったから、いざとなると自作の完成度に不安を覚えたのかもしれない。だが小説ならば、均斉がとれていなかろうと構成に難があろうと、ためらうことなく創造力と情熱のおもむくままに筆を走らせることができたのではないか。そしてそのことが、かえって読者を惹きつけ彼の陶酔に引きこんでゆく力となってのではあるまいか。
(中略)
現実でのホフマン自身の失恋体験でも、ユーリアの母親は彼を批判して、あの人はあまりにも空想的で、音楽での犠牲に供していけないものなどないと信じていたから、自分が邪魔だてしなければ彼はユーリアの身を容赦なく滅ぼしただろう、と言っている。普通の人間からすればもっともな言い分ではある。ホフマンはたしかに現実の女性を見ないで自分の夢想を投影し、その天使の姿に永遠の憧憬をもやしたロマン派的芸術家ではあったが、同時にそのような自分を突き放して見ることのできるリアリストでもあったから、芸術と人生の葛藤をテーマにしたこれらの幻想的で美しくもあり奇怪でもある作品の登場人物たちは、二百年近い時空を超えていまも読者の共感をよびつづけているのだろう。
(光文社古典新訳文庫解説。大島かおり)

「リアリストであるホフマン」は、その作品を読むとよくわかる。
リアリストの視点を失わず、でも現実世界の中に空想世界があり、空想世界の中に現実世界があり、その境界が曖昧な感じ(両者があたりまえに存在している感じ)は、たしかに鏡花と似ているかもしれない


【指 揮】マルコ・レトーニャ
【演出・美術・照明】フィリップ・アルロー
【衣 裳】アンドレア・ウーマン
【振 付】上田 遙
【再演演出】澤田康子
【舞台監督】須藤清香

【ホフマン】レオナルド・カパルボ
【ニクラウス/ミューズ】小林由佳
【オランピア】安井陽子
【アントニア】木下美穂子
【ジュリエッタ】大隅智佳子

【リンドルフ/コッペリウス/ミラクル博士/ダペルトゥット】
エギルス・シリンス
【アンドレ/コシュニーユ/フランツ/ピティキナッチョ】
青地英幸
【ルーテル/クレスペル】伊藤貴之
【ヘルマン】安東玄人
【ナタナエル】村上敏明
【スパランツァーニ】晴 雅彦
【シュレーミル】須藤慎吾
【アントニアの母の声/ステッラ】谷口睦美

【合唱指揮】三澤洋史
【合 唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京交響楽団










新国立劇場オペラ「ホフマン物語」ダイジェスト映像 Les Contes d'Hoffmann - NNTT

特別映像企画!大野和士のオペラ玉手箱 with Singers「ホフマン物語」



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ミハイル・プレトニョフ ピアノリサイタル @東京オペラシティ(2月28日)

2023-03-02 01:27:35 | クラシック音楽




昨年秋から続いた怒涛のクラシック祭り&2月のピアニスト祭りも、これでラスト!
完走お疲れ自分~。さすがに少々疲れた

プレトニョフを聴くのは今回が初めてです。
聴こうと思ったきっかけは、「私好みのロシアぽい音色」で弾くピアニストは他にいないかしら?と探していたからで。
「私好みのロシアぽい音色」というのは完全なる主観だけれど、筆頭はヴィルサラーゼ。あとはレオンスカヤやアファナシエフ。ババヤンやキーシンも近いかな。番外でガヴリーロフも。
で、プレトニョフはどうだったか?というと。
以下、感想です。

【スクリャービン:24の前奏曲 Op.11】
最初の一音から、「舞台に魔法使いがいる・・・!」と感じました。
一音でピアノの周りだけでなく「ホール全体」の空気の色が一瞬で変わる。
それはロシア系ピアニストに共通する特徴ではあるけれど、プレトニョフの場合はその効果が凄まじい。
芯のしっかりした弱音もロシアのピアニストならではだけど、ポロポロしたとてつもなく美しい水の玉のような音、ふわりとした花のような音、低音の柔らかな暗みと深み、それら全ての完璧なコントロール、にもかかわらずの音楽の自然な流れ。どういうマジックなのだろう。
最後の弱音が空間に溶けるような消え方は、ただ美しいだけでなく、ちょっと怖いようなゾワゾワ、ゾクゾクする感じもする。
今日の前半の私、何なんだろうこの人、何なんだろうこの人、と感じっぱなしでした。

音色の多彩さも物凄くて。
今日のピアノはShigeru Kawaiでしたが、カワイ独特の柔らかで素朴な響きは残しつつ、これほど明快に多彩な音が出るとは。帰宅後に調べたところ、SK-EXという機種だそうで。ベーゼンドルファーもインペリアルと280VCで全く響きが異なるし、同じメーカーでもピアノの音って本当に様々ですね。

予習のときはその良さがわかるようなわからないような?だったスクリャービンのこの曲でしたが、プレトニョフマジックで「永遠に聴いていたい」と感じた時間でした。

(20分間の休憩)
廊下に出ると、「なんであんな音が出るんだろう…!」という感嘆の声が四方から。みんな同じように感じたんですね。

【ショパン:24の前奏曲 Op.28】
その音色の響きと美しさに驚かされたのが前半のスクリャービンなら、後半のショパンはプレトニョフの解釈(といっていいのか)の独特さに驚かされました。
こんな個性的な演奏をするピアニストだったとは知らなかった。。。。。
通常なら力を込めて弾くところを軽くポロポロと流したり、ものすごく自由。なのに不自然なコントロール感は一切なく、自然に音楽が流れていく。

では軽いショパンなのか?というと、決してそうとは言えず。打鍵も音の響きも一貫して柔らかで余裕を感じさせるのに、なぜか不思議な仄暗さがつきまとう。
また知的で客観的なショパンといえばそのとおりなのだけど、あの恐ろしいほどの響きのコントロールで弾かれるので、明晰なだけではない余韻が耳に残る。
若いピアニストにはおそらく真似できない(真似したらおそらく失敗する)演奏と思う。

ロシア系にしては珍しく短調の低音をガリガリと弾かないせいもあり(あくまで柔らか。でもちゃんと深く暗い音色)、長調→短調よりも短調→長調のときのふわりとしたり、可愛らしかったりする空気の変化がより印象的でした。

ただ、ショパンの心の深淵のようなものは感じられたけれど、ショパンの音楽の最大の魅力である「透明な哀しみ、切なさ」は、今夜の演奏からは私には感じられず。なので、好みのショパンかと聞かれるとそうとは言えない。でも嫌いとも言いきれない。うーん、やはり独特・・・。

【ショパン:前奏曲 嬰ハ短調 Op.45(アンコール)】
これは、先日ポゴレリッチの素晴らしい演奏を聴いたばかり。
ポゴレリッチの演奏には胸に迫る切なさがあったけれど、こちらは案の定そういう感じは薄い。二択なら、私はポゴさんの演奏の方が好きではあるけれど。
でも終盤で和音を流すように弾くとき(この動画の4:10~)の神秘的な響きなどはプレトニョフならではで、妙に惹きつけられてしまう演奏であったことも確かで。
上記動画のコメント欄で「Pletnev is absolutely a master, especially when it comes to these types of pieces, the melody is always free flowing and fresh, almost sounds like he’s improvising it on the spot. Also he is a master at making the music very dark and mysterious, so interesting to listen to.」と書いている人がいるけれど、まさにそのとおりの印象でした。

【ショパン:夜想曲 変ホ長調 Op.9-2(アンコール】
これがまた物凄く独特な弾き方で、この超有名曲がまるで知らない曲のよう。
基本速めで所々強めの音で弾いたり(もっと弱音も出せるはずなので意図的と思う)、かと思うと後半で永遠に続くようなトリルが出現したり。最後の軽い終わり方も独特。
ちょっとジャズっぽくお洒落にも聴こえる自由な演奏。
この人にしか弾けないop.9-2と思う。
私は以前聴いたアチュカロさんの「おやすみなさい」な音色の演奏の方が好きではあるけれど(今日の演奏では眠れない笑)、では嫌いかと言われるとそうとも言えず。やはり独特の余韻が耳に残っている。
帰宅してからyoutubeで検索したところ、今年のウィーンの演奏ではトリルの長さは普通ですね2021年のペトゥルッツェッリ劇場の演奏でも。今日が特別だったのか、実は今日も普通だったのだけど永遠に感じられたプレトニョフマジックだったのか。と思いSNSで今夜の感想を検索したところ、やはり通常よりかなり長いトリルだったとのこと。全体的にウィーンの演奏は今回の演奏に近いけれど(トリル以外)、2021年の演奏はよりオーソドックスな弾き方をしていますね。音も弱音で、終わらせ方もしっとりしている。その時々で弾き方を変えるピアニストなのかな。即興的に聴こえるというより、本当に即興的に弾いているのかもしれん。こちらの演奏がトリル以外は今日の演奏に最も近い気がする。

そんなプレトニョフですが。
もう少し無愛想な人かと思いきや、演奏後は万雷の拍手とスタオベに胸に片手をあてて時間をかけて応えていて、とても嬉しげ。
最後に拍手を浴びながら指を一本立てたので「もう一曲アンコール弾いてくれる?」と期待しかけたら、椅子をしまってお茶目にお開きとなりました。

今日の演奏を聴いた限りでは、私はヴィルサラーゼのピアノの方が人間的な温かみが感じられて好きだけど、ヴィルサラーゼはインタビューで「プレトニョフorソコロフ?」と二択で質問されて「プレトニョフ」と即答していました。
いずれにしても、また聴きたくなるような中毒性があるピアニストであったことは確か。
なんというか聴いていて「孤高の天才」という言葉が浮かびました。
9月の東フィルとのラフマニノフの協奏曲ツィクルスも伺います。
今年はやたらとラフマニノフが多いなと思っていたら、生誕150年の記念イヤーなんですね。

そういえばプレトニョフはウクライナ侵攻を批難していて2020年以降ほとんどロシアに帰っていないことから(スイス国籍も持っているそうで)、彼が創設し32年間続いたロシア・ナショナル管弦楽団との契約が打ち切りになったとのこと。今回のウクライナ侵攻が人々の人生に与えた影響は計り知れませんね…。もちろんその最たる犠牲者はウクライナの人達ですが。


この感想の感覚↑、とてもよくわかる

巨匠ミハイル・プレトニョフ復活 SK-EXとの出逢いをきっかけに (Shigeru Kawai)
一度ピアニスト引退を決意したプレトニョフが復帰しようと思ったのは、モスクワ音楽院に置かれたShigeru Kawaiのフルコンサートピアノ SK-EXとの出会いがきっかけだったとのこと。

調律師が語るミハイル・プレトニョフとの出会いとピアノの魅力(japan arts)




Chopin Prelude No.4, 5 Op 28 Mikhail Pletnev 쇼팽 전주곡 플레트네프

Chopin Prelude No.24 Op 28 Mikhail Pletnev
上記はどちらも、2022年5月19日のドバイでの演奏。
基本は今日と同じ弾き方だけど、今日の演奏ほど変態的ではないような
それにしても全く力を入れて弾いていないのにこの独特の仄暗さよ・・・。カワイのピアノ効果もあるのかも。


真央君の敬愛するピアニストがプレトニョフであることを最近知りました。
なるほど。わかる気がする。
真央君にはもう少しオーソドックス系で行ってほしい気もするけれど、あのホール全体を一瞬で変える響きと、あれほど自由なのに極めて自然に流れる音楽の流れはぜひとも習得していただきたい(←えらそう)。

真央君、先日「情熱大陸」に出演していましたね。
その中で、ピアノを弾きながら、真央君がこう言う場面があるんです。
「この音がここ(顔の斜め上あたりの空気を両手で包むようにして)で響きが合わないと駄目なの。ただ指と指が、手と手が同じ音、同じタイミングで出したから合ってるとかじゃないんです。これが、飛んでる音で混じり合わなきゃいけないの。それが延々と続くんです。ピアノ弾くって難しいんです、結構。ハハハハハ!」
この話、すっごくよくわかる…!!
そしてプレトニョフの音は、まさにそれが完璧に感じられたのでした。音色のコントロールだけではない、響きのコントロール。

Pianist portraits 藤田真央 Mao Fujita(La Nui)

・尊敬するピアニストもロシア人ですか?
そうですね、プレトニョフが大好きです。

・彼はチャイコフスキーコンクールの覇者ですね。
第6回で優勝しています。チャイコフスキーの「くるみ割り人形」を自ら編曲して優勝しましたが、その時より今の音の方が格段とすごいと思います。プレトニョフ自身、今までの録音を全部録り直したいと言っています。おもしろいですよね(笑)。

先日来日したときは、ベートーヴェンとモーツァルト、そしてリストのプログラムでした。コンクール中だったので聴けなくて残念でした。リストの選曲が変わっていて、面白かったです。プレトニョフの音楽の発想はほんと天才的と思います。他にはグールドも好きなんですけど。

・癖のある解釈をするピアニストが好みですか?
人がそうしないだろうな、という解釈を平然とするのが好きです。グールドは発想もすごいし技術もピカイチ。プレトニョフはなんといっても音がすごく綺麗。音が綺麗じゃないと私は受け入れられないんです。うるさいだけなのは嫌ですね。

※ピアニスト・藤田真央#12「ミハイル・プレトニョフ――ヴェルビエの夜、憧れのひとと邂逅する」(WEB別冊文藝春秋

 ある夜、ヴェルビエ音楽祭のプロデューサー、マーティン・エングストロームの誕生日を祝うプライベート・コンサートに招待されたわたしは、思わず居ずまいを正しました。そこにはわたしが敬愛するピアニスト、ミハイル・プレトニョフの姿があったのです。

 プレトニョフが歌曲を演奏することになり、そのときになんと、わたしが彼の譜めくりをすることに。ピアノを弾くプレトニョフの脇に控えて、楽譜をしっかりと目で追いながら、神経を集中させてページをめくるタイミングをはかる。自分のリサイタルよりも緊張して、くらくらしました。

 間近で聴くプレトニョフの演奏にすっかり夢見心地のわたしに、プレトニョフはラフマニノフの歌曲《ヴォカリーズ》の楽譜を見せ、自分の代わりにチェロ奏者のミッシャ・マイスキーと演奏するよう言いました。彼に勧められるがままにわたしはピアノの前に座り、ぶっつけ本番で演奏を始めました。いざやってみるとのびのびと弾くことができましたし、プレトニョフは何度も褒めてくださって、本当に嬉しかったですね。

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