風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

バイエルン放送交響楽団 @ミューザ川崎(11月26日)

2016-11-30 23:09:18 | クラシック音楽



「コンサートの最も大切な目的は、聴いてくれるお客様に天国にいるような2時間を体験させること。そのために演奏していることを絶対に忘れてはならない」
(マリス・ヤンソンス @インタビュー)


結局3日連続でヤンソンス×バイエルン放送響を聴いたのですが、本当にこの言葉のとおりの気持ちで演奏してくださっているのだなあということがその音楽からずっと伝わってきて、ずっと温かくて幸福で、、、そういう意味で、本当に天国にいるような3日間でした。

以下、ド素人の備忘録のためだけの感想です。


【ハイドン:交響曲第100番「軍隊」】
あ、この音・・・
フレーズが空気を伝わるうねり?膨らみ?ふわっと広がるというより、もう少し重くうねるような。これは、、、バレンボイム×SKB@サントリーで一瞬感じてとても感動したアレだ!それが今回は初っ端から何度も!アンサンブルの精度の見事さはもちろんですが、私はこの音のうねりの方により惹きつけられました。でもSKBと比べると、音はずっとこちらの楽団の方が明るく柔らかい(でも暗さも出せてしまうところがスゴイ)。
そして楽団全体がまるでヤンソンスの楽器のよう。タクトが魔法の杖みたい。でも全然支配的じゃなくて、息詰まる感じは皆無。今まで聴いたことのある中では、指揮者とオーケストラの間に感じる温かな親密さはこのコンビが断トツ!です。
そんな彼らによる「軍隊」。すんごくよかった・・・
品があって、明るくて、軽やかで。弾むような楽しさがある一方で、適度な厚みと重みとキレがあって。そして何より温かい。
そしてこの演奏の奥行の深さ、豊かさはなんだろう、と思わず考えてしまった。バレエでも歌舞伎でもそうですが、重く壮大でドラマティックな大作より、こういう一見軽やかでシンプルな小品の方が実はパフォーマンスとして難しいのではないかと思う時があります。技術ではどうにもならない何か、その文化圏の人には意識せず自然に身に付いている何か、そうでない人にはどうしても表現できない何かが必要とされる気がする。長年の歴史の上にある軽み、とでも言ったらいいでしょうか。
本当に楽しくて、第一楽章が終わったとき、まだあと三楽章聴けることがとても嬉しかった。

しかしミューザは本当にいいホールですねぇ。全ての音がこもることなく上方でふわっと混じり合う感覚が気持ちいい。上階席に座っていると、それが目の前で感じられる。ヤンソンスさんもミューザの音響がお好きなのだそうですね。今夜のプログラム2曲も「最愛のミューザで是非」と選ばれたのだとか(by チラシ)。


最終楽章で客席を練り歩いたパレードで使われた『WE  JAPAN』のドラム。ドラム、シンバル、トライアングルによるパレードの先頭の方が持っていた飾り物のような楽器は、“シェレンバウム”というのだそうです。R側からは、彼らが舞台袖で待機していたところも見えました^^

この「軍隊」を聴き終わった時点で、「帰宅したら最終日を買い足そう」と決めました(マーラーはもう買ってありました)。


【R.シュトラウス:アルプス交響曲】
実は演奏が始まってすぐに、ちょっと困惑したんです。私にはその音から「夜」を感じられず。。始まりの弱音がちょっと大きめに感じられたんですよね。
次第に盛り上がって、輝かしい日の出になって、登山が開始され。それでも、夜明けや、小川や、滝といった具体的な風景は私には思っていたほどには感じられなかったんです。
「夜」→「日の出」も太陽そのものの描写というより、そうですね、あえて言うなら、これから大好きな山登りだぜ!超楽しみだぜ!な少年のような高揚する気持ちの表れ、といった方が私にはしっくりきました。「日の出」から「登山」への移行にはっきりとしたトーンの違いがなかったのも、よりそういう印象をもった理由かもしれません。
なので哀歌も嵐で急いで下山するところもさほど深刻さや暗さは感じず、山のそういう部分も含めてきっとこの人(登山者)は登山が好きなのだろうな、とそんな風に感じた今夜の演奏でした。
この楽団の清潔感のある音は、この曲にとても合っているように感じられました。清々しいアルプスの風を感じられた。
ところで音楽というのは耳で聴くべきものであることは百も承知ではございますが、貧民席担当の私からあえて言わせてくださいまし。
登山者が頂上に登りきったときにヤンソンスが見せた全開の笑顔
あれを見た瞬間、私、思いっきり笑顔になっちゃいました。山を登っていた少年はアナタでしたか、と。
あと、どこだったか一度サッと勢いよく楽譜をめくった仕草がひどく楽しそうというか鮮やかで、見惚れちゃいました。綺麗な指揮姿。

今回Rサイドの席だったので、Lサイドに置かれたウィンドマシーンやサンダーマシーンのような変な楽器をじっくり見られたのも、すんごい楽しかったです。遠隔操作のオルガンさんも。
サンダーマシーンの雷の音は、あまりに上手くて本物みたいで、つい笑ってしまった。

そして、バンダ
美しかったぁ・・・・・・・・・・・・。本舞台の音もものすごく美しかったから、もうその掛け合いを聴く心地よさといったら・・・・・・・。バイエルンのFBで愛知でのリハーサル映像があがっていましたが、ヤンソンスさんは客席でのバンダの響き方をすごく入念にチェックされていましたね。だからこそのあの美しさなのだなぁ。バンダの演奏って初めて聴きましたが、めちゃくちゃ聴いていて楽しいんですね。帰宅してからご本人(福川さん)のツイッターで知りましたが、たった40秒の舞台裏での演奏のためだけに首席ホルンを始めとするN響のメンバーが参加協力されていたのだとか。なんという贅沢!ヤンソンスさん、ありがとう~。
バイエルンのホルン数人はバンダが終わった後に席に戻られていて、そういう様子を見るのもとても楽しかったです。
パイプオルガンも同様に、舞台のオケの音との奥行感がものすごく楽しかった。これは絶対生演奏で聴きたい曲だなぁ。

細かいことを言えば、今夜のアルペンの演奏については、もうちょっと抑えた音で聴きたいと感じる箇所があったり、もうちょっと全体で一つのストーリーを感じたく思ったり、個人的好みと少々違うところもあるにはあったのですが(あくまでド素人が感じたことを備忘録として書いてるだけなのでスルーしてくださいまし)、でもその濁りのない清々しく誠実で伸びやかな演奏からは、そういうの関係ない何か幸福なものをもらえたのです。
本当に久しぶりにオーケストラの演奏からこういうタイプの幸福感をもらえました。昨年秋のハイティンクさん以来。私は嬉しい!

今夜は、数名の方がフライング拍手。
そうはいっても最後の音を弾き終わって3秒くらいはしっかり間はあったのですが、指揮者がタクトを下ろしていない以上はまぁ、早いですよね。この曲は終わり方が終わり方だから特に(明日のマーラー9番もそうですけど)。楽器は弾き終わってても響きはまだ空間に残っているんですよ~。
ヤンソンスはそれでもタクトを下ろしませんでしたね。そして再び拍手が止んでしばらくしてから、下ろされました。その後は屈託のない笑顔でしたけど。
ただ、あの拍手は無神経な拍手というよりは感動した拍手のように聞こえたので、あまり責める気持ちにもなりませんでした。そしてこのとき以外は今夜の客席のマナーは完璧でした。

翌日はサントリーホールで『マーラー9番』を聴いてきました。感想は後日。

なおミューザの入りは7割くらいだったでしょうか。1階席前方の左右ブロックはほぼ空席。S席は30,000円ですもんね・・・。それでもサントリーよりは安いですが、普通は出せないよね・・・。台湾でのチケットは日本の半額近いんですよね。どうして日本だけがこんなに高いんだろう。インバウンドによる宿泊費の高騰とか為替とか色々理由はあるのだろうとは思いますが、本当にこのままでは日本から文化が消えますよ・・・。



"I was 3 or 4 years old and that is a pencil and a book. The whole thing was my fantasy. I even changed my shirt and trousers [depending on whether it was] a rehearsal, Sunday matinee or evening concert. I went every day to opera house, and that's how I got this idea. I did not only this, but I took two pieces of wood -- one was a violin and one was a bow -- and I pretended I was concertmaster. I would do it every day. This was my game. I did not play football or tennis."
(Pittsburgh Post-Gazette "Man of the hour, Jansons feted with a concert", February 15, 2003)

お父さんを真似て、鉛筆と本で指揮ごっこをする子供のヤンソンスさん(^-^)


※BRSOのフェイスブックより。今回のアジアツアーの日程と規模。



楽しい楽団(^-^)

※BRSO公式チャンネルより。名古屋でのバンダのリハーサル風景。


マエストロに愛される川崎シンフォニーホール
ミューザの素晴らしい点をあげましょう。(中略)3つめは言葉で説明するのは難しいのですが、「精神的なもの」とでもいいましょうか。例えるなら、ある部屋に入ったとき、もしくはある人と初めて出会ったとき、その瞬間とても温かな親近感を覚えたり、自分の気持ちに合う心地よさを感じることがありますよね。それをミューザに感じたのです。人間の内面のエネルギーの相性のよさ、とも言えるでしょう。演奏にも例えられると思います。上質の演奏とは別に、とても心を動かされる演奏、自分を別世界へ連れていってくれるような演奏というものがあります。単にいい演奏と心が動かされる演奏とは違うものです。同じことがホールにも言えて、ミューザは心が動かされるホールなのです。ミューザで演奏される音楽を聴くと、お客様は別世界へと誘われるような感動を味わえるでしょう。その感動は、もちろんステージ上にいる演奏家にも波及していきます。そんなミューザは、私にとって特別なホールなのです。ミューザで指揮する機会を与えていただけることは本当に嬉しく、いつも幸せに思っています。
(2012年11月 マリス・ヤンソンス)

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『通し狂言 仮名手本忠臣蔵 第二部』 @国立劇場(11月14日)

2016-11-24 20:32:28 | 歌舞伎



尾上菊五郎:
 国立劇場開場50周年記念『通し狂言 仮名手本忠臣蔵』の五・六段目で、早野勘平を勤めさせていただきます。何回やっても難しい役ですが、初心に返り、新しい気持ちで勤めたいと思います。
 義太夫狂言である『忠臣蔵』の中で、六段目は世話物に近く、リアルとまではいきませんが、人物の内面を表さないと芝居が繋がりません。世話物では出演俳優のチームワークが必要ですが、六段目も同様で、一つのチームで芝居をトントンと運ぶことが大切です。それは、稽古を十分に積んでやり込まないと、表現できません。そういう意味で言うと、“心理劇”の要素がありますね。
 私は、いつも考えるんですが、勘平は、もし姑のおかやが騒ぎ立てたら、おかやを殺してでも忠臣として討入りにお供したいと願うほど、追い詰められている役ではないかと感じています。
 五段目は、様式美できれいに見せなくてはいけません。その後、六段目で、千崎にお金を渡したので意気揚々とした気分で勘平が帰ってきて、悲劇が始まる。その展開を細かく見せることができればと考えております。
 『忠臣蔵』は、(塩冶)判官様が切腹するまでの雰囲気がとても重くて、楽屋の中もシーンとしています。他の芝居と違いますね。また、切腹の場では、客席からは見えない場所に(塩冶の)家来がずらっと並ばなければいけないとか、家来たちのすすり泣きの声が難しいとか、色々な教えが伝えられています。その点は、私たち演じる側にとっても面白く、深いものだと思います。

中村吉右衛門:
 50周年という記念の公演に出演させていただけますこと、誠に光栄です。私も吉右衛門を襲名して今年で50年ですので、国立劇場が50周年を迎えることを忘れずにいました。
 七段目の由良之助は本当に難しいお役です。初代吉右衛門は晩年、花道の力弥に会いに行く間に、小唄をうたっていたそうで、そういう余裕を持ちながら、色気も必要であり、それでいて武士の魂を失わないという難しい役でございます。実父(初代松本白鸚)の舞台などを思い出しながら勤めたいです。
 七段目は、正直申しまして、手掛かりといいますか、どこをとらえて良いのかが難しいお芝居です。由良之助は、一力茶屋で様々な人と対面しながら、ずっと遊んでいるように見せます。後半は平右衛門とおかるの兄妹の芝居になりますが、最後の最後は由良之助が本心を明かして舞台を締めなければいけません。その難しさのため、今まで何度勤めても「ああこれだ」というところまでは行き着いておりません。今回はなんとかそういうものを掴み、舞台で表現したいですね。
記者会見より)

歌舞伎座で『元禄忠臣蔵』を楽しんだ翌日は、国立劇場で『仮名手本忠臣蔵』を。The日本の年末(11月だけど)
10月の梅玉さんの判官もものすごく観たかったのだけど、仕事が忙しくどーーーしても予定を入れられず・・・
そんな自分へのご褒美で、今回は奮発して一階席にしちゃいました。歌舞伎座に続き、こちらも中日でした。
なお国立劇場はちょうどこの11月で50周年を迎えるのだそうです。

【道行旅路の花聟】
菊之助のおかるは、恋心のままに軽率な行動をとるタイプの女性にはどうにも見えず、、、うーん。。
錦之助さんは、女で人生変わっちゃうタイプにちゃんと見え、そんなナヨ男な雰囲気が勘平ぽかったです。でももう少し“武士”を感じさせる勘平の方が私は好きかな。
思えば私が今まで心底楽しめた落人って梅玉さん&時蔵さんだけなのよね・・・。あまり好きな踊りじゃないのかも。
亀三郎の伴内は、なかなか楽しく見られました。

【五段目、六段目】
最初の嵐の音で、「おお、これは私の好きな段であった」と思い出しました。あの始まり方、何度聴いてもワクワクします
菊五郎さんの勘平は、真ん前で見ても完璧な至芸でありました。決まり事を決まり事に感じさせない動きの自然さに感情が当たり前に伴っていて、最初から最後までその美しさにじっと見入ってしまった。なぜか勘平の透明感が前回よりも一層増していて、今回の勘平、見ているだけで胸が詰まる心地がしました。
最初に笠から顔を見せたときの若々しさと、そうであるがゆえの儚さ。前回もここの菊五郎さんを綺麗だなぁと感じたことを覚えていますが、今回は壮絶なほど。ここの菊五郎さん、本当に30前後の青年に見えるのよね。
そういえば一階席は五段目の火や火薬の匂いがちゃんと届くんですね。値段が高いだけあるわ。。。といっても歌舞伎座の半額ですが。
六段目の勘平に強く“武士”を感じたのは、前回と同様。
東蔵さんのおかやは台詞をちょっと間違えておられましたが(魁春さんが台詞を言えなくなっていた)、菊五郎さんの勘平との組み合わせはやっぱり好きです。そして前回よりパワーアップしておられた^^;けど、私は前回くらいの方が好きかも。
菊五郎さん&菊之助カップルの別れ場面は、菊五郎さん&時蔵さんのときにあった18禁な空気はやはり皆無でありました(うん、わかってた・・・)。
團蔵さんの源六、魁春さんのお才、今回もよかったです。松緑の定九郎も。

【七段目】
吉右衛門さんは少しお疲れ気味に見え、杮落しのときの若々しさ、お伽噺のようなゆったりとした華やかさが少々減っていたのは寂しく感じましたが(「水雑炊~」もさらりと流れ。その前の「獅子身中の虫」は変わらずお見事で大拍手でした)、一方で昼行燈のときも見え隠れする由良之助の厳しさのようなものが増してるように感じられ、一瞬の視線にドキリとすること幾度。あの四段目の吉右衛門さんの由良之助から繋がっている感じは今回の方が強く受け、四段目の最後に彼がひとり心の奥で決めたであろう覚悟がこの七段目に続いているのだな、とより強く感じました。
しかし改めて、仁左衛門さんの綱豊卿、菊五郎さんの勘平と同じく、吉右衛門さんの由良之助は本当に至芸ですねぇ・・・・・。あんなに自然に大袈裟でなく、一力茶屋での由良之助の微妙な心情が表されているのだものなぁ。さらに遊ぶご家老さまの色気と大きさまで。もう私には吉右衛門さんが由良之助本人にしか見えないです。はぁ・・・・・・・・。
そうそう、今回の見立てでの反応を見て、前回のときの吉右衛門さんはやっぱり素でウケてたのだなとわかりました笑。
平右衛門(又五郎さん。初役なんですね)&おかる(雀右衛門さん)は、まるっこい体型が本当の兄妹みたいで、掛け合いもテンポよく、とても楽しめました。又五郎さんは平右衛門の実直さのようなものがよく出ていて、ちょっとホロリとしてしまった。もっとも私は飄々とした梅玉さんの平右衛門も大好物なのですが。雀右衛門さんのおかるも前回より更に進化されていて、こちらにもホロリ。
三人侍の亀亀兄弟もよかったです。特に亀三郎
今回は全体的に杮落としのときと比べて、リアルな雰囲気を感じた七段目でした。でもどちらかといえば、私はゆったりとした雰囲気の七段目の方が好きかも。
3年前にやった『忠臣蔵形容画合』も、また観たいなぁ。役者まで最高に贅沢な本気のパロディでしたよね^^

【バックステージツアー】
今回のイープラスのチケットには、終演後のバックステージツアーなるものが付いていました。幕見以外で歌舞伎を観たのが久しぶりだったので少し疲れてしまい、一瞬帰ろうか迷ったのですが、参加してよかったです。ものすごーーーく楽しかった
舞台にちょっと上がらせてもらえるくらいかなと思っていたら、思いのほか盛り沢山で。
終演後のロビーに集合して客席に再入場すると、舞台の上はすっかり「終演後」。七段目の大道具は左右に片づけられ、小道具も所定のケースに納められて、広~い回り舞台が全部姿を現しています(直径は花道とほぼ同じ長さなのだそうです)。この完全に“現実”な光景だけで、もう感激。ほんの15分前までそこは完全なる仮名手本の世界だったのに。やっぱり舞台というのは多くの人の手によって作り上げられている“夢”なのだなあ、と。
使い捨てスリッパに履き替えて、早速花道の上を歩いて舞台へ。またもや感動。たった今まで勘平やおかるや由良之助が歩いていた道を今自分が歩いてるなんてー。一方で、七三あたりでは妙な緊張感も。花道にしても舞台にしても、そこに立つと下から見ている以上に客席がとっても近い。こんなに近くから劇場中の視線を一身に集めて演技するなんて、役者さんってすごいわぁ・・・。気分も相当いいだろうとは思いますが。
その後は、回り舞台に乗っかって360度回してくださったり(早・・・っ)、触れないことを条件に大道具の傍にも好きに行かせてもらえて(七段目の桃色の二重舞台や道行の桜や菜の花が目の前に・・・)。やっぱり演目が『仮名手本』だとバックステージツアーもテンション上がります
他にも、セリってあんなに細かく分かれているのだなぁとか、床が年季入ってるなぁとか。
舞台から上を見上げると、天井から所狭しと吊された数々の書割と無数のライト。以前読んだ本で羽左衛門さんが定九郎の死体のときの気分について「まともに天井を見ると吊り物がいっぱいあるでしょ。これが落ちてきたらどうしようと思うと怖いですよ。いつも頭の上には同じに物があるわけだけど見てないでしょ。死んでこうやって上見てると怖いもんです」と仰っていたけれど、これか!と納得。
舞台袖では、スタッフ用の壁の注意書きが楽しかったです(回り舞台で非常事態が起きた場合の対処法とか、「整理整頓」とか、「ここでの声は客席に聞こえます」とか)。天井からはなぜか道成寺の鐘もぶら下がっていた。黒御簾の中にも入れてもらえて、内側からは舞台や客席がハッキリ見えました
急な階段を下りて、今度は奈落とすっぽんを下から見学。これは剥きだしのエレベーターそのものですね(乗せてはもらえませんでした)。TVで見たことはあったけど、やっぱり自分がその場に立つと役者さんの裏での動きをリアルに想像できてワクワクしました。
最後は通路を通って鳥屋へ。この通路は花道の真下にあたり、楽屋から花道に出る役者さんが通る道なのだそうです(この通路沿いにすっぽんエレベーターがある)。赤い絨毯が引かれてはいるけど完全に舞台裏な雰囲気。
舞台から下の階に下りる階段と、そこから鳥屋に上がる階段があり得ないほど急だったんですが、高齢の役者さん達もあの階段を上り下りされているのだろうか・・・。鳥屋の階段の下にはお手洗いがあって、妙に納得してしまったり(絶対必要よね、と)。
鳥屋の壁に貼られた、花道を使う役者名と出の時間の書かれたタイムテーブルも、興味深かったです。
スタッフの方が「最後は花道に出る役者さんの気分をご体験ください」とチャリン♪と開けてくださった揚幕を抜けて、花道へ出て(ぱぁっと視界が開けて舞台と客席を見渡す眺めにも感涙)ツアー終了。ほんとーに楽しかった!また機会があったら参加したいです^^

Comments (2)
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『元禄忠臣蔵 御浜御殿綱豊卿』、『口上』 @歌舞伎座(11月13日、23日)

2016-11-15 22:26:05 | 歌舞伎



帰宅してから知りましたが、中日でした。
『御浜御殿』はあの能装束の仁左衛門さんのお写真を見かけるたびに、観てみたいなあとずっと思っていた演目なんです。
割とよくかかっているようですが、歌舞伎座で新開場後に仁左衛門さんがされるのは初めてですよね。
観ることができて本当に嬉しい。

さて、感想でございますが。

仁左さまが絶品すぎて辛い。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
いつかこの人のお芝居を観られなくなる日がくるのかと考えて、それだけで泣きそうになってしまった(ほんとに)。
仁左衛門さんのいない世界なら私もいなくていいや、とまで思ってしまった(ほんとに)。

なにもかもが絶品すぎて、どこがよかったとか挙げられないです。
姿も声も台詞回しも間も華やかさも色っぽさも気品も次期将軍の大物感も人を食った感も人間できてる感もイラつきも余裕のからかいも、すべてが絶品 座ってても立ってても歩いてても絶品 今回の仁左衛門さん、さよなら公演(映像を持ってます)のときよりも更に進化していたように見えました。

二幕の薄紫と鼠色が混ざったような着物の色は何と言うのでしょう?すっきりした品と薫るような華やかさが、仁左衛門さんにすごくお似合いだった。映像ではただの白色に見えて、この繊細で上品な色合いが出ていないのです(それともさよならのときは本当に白を着てたのかな)。日本の伝統色で見ると 「桜鼠」が近いかなぁ。もうちょい白かしら。 
そしてこの演目、ほぼ毎回仁左さんの高笑いで場面転換なのね。青果センセイ、ありがとー 特に助右衛門との応酬の最後、紫の羽織の右袖バッで笑って去る仁左さまがものすごく好きです。ええ、ものすごく
それと「元禄ももはや十五年」、何気ない台詞ですけど仁左衛門さんの台詞回しで言われると自分が元禄時代にいる錯覚を覚えました。

夜桜も、お似合いすぎて怖いくらい。
斬り掛かる助右衛門を躱すところで桜の木から花びらがはらはらと散るところ、美しかったなぁ・・・・・・。
染五郎と二人、一幅の絵のようでした。あの花びら効果は、どうやっているのでしょう?
そういえば上の写真は夜桜能で二人静をやったときの桜なのですが(造花じゃなく本モノ!)、そのときに後シテの梅若玄祥さんが橋がかりの桜にさっと掠めて花弁を散らしたのです(失敗ではなく意図的だと思います)。あの時だけの演出なのかもしれませんが、ぞくっとしました。桜が日本の花の代表のようになったのはそう昔の話ではないと聞いたことがありますが、やはり桜と古典芸能は合いますねぇ。
浅野家再興を自ら願い出たのは内蔵助の完全な過ち。京で遊ぶように見せかけ、その成り行きをただじっと見守り、待つ以外にないその孤独と寂しさを、同じように世を偽って生きる綱豊だからこそ理解できる、理解できてしまう、のですね。
ラスト、ゆったり&颯爽と(この二つが普通に両立している至芸・・・)桜の陰を上手へ歩む仁左さま。あの感じを表現できるボキャブラリーは私には到底ございませぬ。

そんなわけで例によって仁左さまばかりにロックオンして観てしまいましたが、他の役者さんについても。
染五郎の助右衛門。
必死さが伝わってきてなかなかよかった、と思う(ごめん、ほとんど上手しか見てなかった・・・)。台詞まわしや演技が幸四郎さんによく似ているなあと感じました。
ただ一つだけわからなかったのが、綱豊との掛け合いで染五郎が笑いをとっていたのは、あれで正解なのだろうか・・?それとも本人的には笑いをとるつもりはなかったとか・・?そこだけが今でも本気でわからない・・。

時蔵さんの江島さま。
きゃ~カッコイイ(>_<) 私、こういう凛とした役の時蔵さんが大好きなんです(一番好きな時蔵さんは『伽羅先代萩』の沖の井)。そういえば歌舞伎座にいつのまにか英語のチラシができていて、祐筆はprivate secretaryとありました。private secretaryな時蔵さん。きゃ~カッコイイ

梅枝のお喜世。
上手すぎるせいか舞台度胸がありすぎるせいか、最近ちょっと演技に若々しさが欠けるように感じることがあるのですけれど(時蔵さんの方が若く見えるときがある)、やっぱり安心して観られます。
そして左右に萬屋親子を従える仁左さま。ああ、なんて美味しい構図なの 

お喜世ちゃんをイジメる上臈浦尾は、竹三郎さん♪

左團次さんの白石。
仁左衛門さんとのバランスがよく、温かな師弟関係がとてもよかった。そして心は温かいけど、「好きにおやりなさい」と言いそうな先生笑。

今回の緞帳は『朝光富士』でした。晴れやかでいいねえ。
幕は芝翫さん襲名仕様のポップ系。

てか。
来月の京都の顔見世、ニザさまの『吉田屋』なんですね・・・・・・・・・・・(歌舞伎座のチラシで知った)。
そして『引窓』・・・・・・・・・・・・・・・。観たい、観たすぎる。

てか。
来年1月の松竹座、ニザさまの富樫なんですね・・・・・・・・・・・・・・・。
でも芝翫さんの弁慶は好みじゃなかったからな・・・。
でも新口村は観てみたいな・・・・・・。

てか。
来年のこんぴら、ニザさまなんですね・・・・・・・・・・・・・・・。

はぁ・・・・・・・(色んな理由によるため息・・・)

この翌日は国立劇場に行ってきました。感想は後ほど。
歌舞伎座では、山科の内蔵助に思いを馳せるニザさまの綱豊卿。国立劇場では、一力茶屋で遊ぶ吉右衛門さんの由良之助。
今月の東京はなんという贅沢さでございましょう。。
御浜御殿はもう一回行きたいな。できれば口上も。

※追記
23日に再び行ってきました。この日の夜の部は貸切でしたが、幕見は利用できたので。
ニザさまは中日に比べてちょっぴりサラサラモードだったような。新薄雪のときのデジャヴ・・。それでもあちこち絶品至芸で、やっぱりうっとりしちゃいました。
ニザさんの声での「敷居を越せぃ」と「助右ぇ」が大好きです。「俺」な綱豊卿も大好きです。
そしてラストの「わしの出じゃ」で晴れやかに上を見上げ、能舞台への向かうときの透明で高潔な空気・・・本当にここは表せる言葉がない・・・・
ちなみにこの日は11月23日なので「いいにざの日」のハッシュタグがツイッターに溢れかえっていました♪
染五郎は敷居を越すところが今回はよかったです(前回ここも笑いが起きてたけど、今回は起きていなかった)。

今回は口上も観てきました。
歌舞伎座で口上を観るのは初めてですが、普段絶対に同時に舞台に上がらない人達が同じ舞台にいるのを観るのは壮観ですねぇ・・・。眩しいわ・・・。皆さん、美しい&カッコいい・・・。そして(家の違いや実際の仲のいい悪いはあるだろうにせよ)歌舞伎界ってやっぱり子供の頃から互いを知っている一つの大きな家族のようなものなんだな、と温かく感じました。藤十郎さん、お元気そうでなによりです~ 児太郎くんの福助さんについての口上に、芝翫さん(幸ちゃん笑)と福助さんの熱い舞台を思い出しちゃいました・・・。彌十郎さん、「勘三郎さんも喜んでいると思います」。歌舞伎っていいなぁ。
そうそう、松嶋屋(ニザさん&秀太郎さん)だけ裃の色がグラデーションなんですね。お洒落♪

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内田光子 with マーラー・チェンバー・オーケストラ 協奏曲の夕べⅡ @サントリーホール(11月8日)

2016-11-10 18:59:18 | クラシック音楽

 「K.453(第17番ト長調)とK.503(第25番ハ長調)はクリーブランド管弦楽団とレコーディングしたばかりの曲目だったことに加えて、マーラー・チェンバー・オーケストラと共演した直近の作品でもあります。クリーブランドとはモーツァルトのピアノ協奏曲のレコーディングを何度か行っていますが、この2曲はぜひとも録音しておきたかった作品です。両作品には強い関連性があり、私は素晴らしいプログラムだと思います。K.503はモーツァルトのピアノ協奏曲の中では最も雄大な曲です。ベートーヴェンの〝皇帝〟に匹敵するスケール感を持つ、ということができるかもしれません。一方、K.453は大変軽やかで表面的には異なっていますが、実は第2楽章は心の底深くにおいてK.503とつながっていると思います」
(内田光子:毎日新聞「内田光子モーツァルト弾き振り 〝本質を捉えた解釈者〟が協奏曲に新たな光」


4日に続き、来日ツアー最終日のサントリーホールに行ってきました。

今回一連のモーツァルトのピアノ協奏曲(19番、20番、17番、25番)を生で聴いて、光子さんのモーツァルトの魅力がようやく理解できたような気がします。
例えばペライアの演奏からは音楽や作曲家の“想い”が伝わってくるように感じるけれど、光子さんの演奏からは“曲そのもの”の美しさが伝わってくるのだね。
明るいところは明るく、暗いところは暗く、深くあるところは深く、軽やかなところは軽やかで、可愛らしいところは可愛らしく、音の色彩の変化がとっても繊細で豊か。光子さんが精製に精製を重ねた末のその曲の最も純度の高い部分をそんな音色で「ほら」って見せてもらえると、まるで絵巻物を見ているように「曲そのもの」から立ち上る物語が見えてくる。聴いている私達にはまさにそれこそが作曲家が描こうとした絵であり、その解釈以外はあり得ないように感じられてくる。きっと作曲家が楽譜に書いたものを完璧に音にしたらこうなるのだろうと、これこそがその曲の本質であるように感じさせられる、そんな演奏。もちろんそれも一つの解釈、方法にすぎないことは承知しているけれど。
先日20番を聴いたときに光子さんの音から感じたものについて「風景」という言葉を私は使いましたが、それは今夜も同じで。その演奏から私が感じるものは「直接的な人間の感情」ではなく、「音色や音の流れが語る感情」(こちらのが客観的)で、それが時に直接的な感情以上にひどく魅力的に感じられたのでした。
一方で、そういう演奏であるがゆえに、聴く人によっては(私がそうであったように)一見醒めたような機械的な印象を与えてしまうのではないかしら。「ただの綺麗な完璧な演奏」、そんな風に受け取られかねないタイプの演奏だと思います。

そんな不純物が徹底的に排除された世界はモーツァルトにひどく合っていて、「モーツァルトの音楽そのもの」を聴いているような、そんな錯覚を覚えました。まぁ贅沢を言えば、演奏に隙がなさすぎるところが欠点とは言えるかもしれませんが。
モーツァルトの音楽って本当に美しいんですね。これまで私はその美しさを十分にはわかってはいなかったように思う。無垢な純粋さ、子供のような素直さ、そこに織り込まれる悲しみの感情も全てが美しくて。あまりの美しい世界に、このままここで死ねたら最高に幸せだろうな、と思ってしまった。英語に"perfect day"という言葉があるけれど、まさにそんな風に感じられた夜でした。

31日にはペライアのハンマークラヴィーアに「もう何もいらない」と感じ、1日にはあのウィーンフィルとの演奏以上にも感じられたツィメルマンのベト4を聴けて、そして4日と今夜は光子さんの天上のモーツァルト。こんな短期間でこんな幸福な思いをしてしまって、、、明日あたり私は事故ってサクっと逝ってしまうのではなかろうか。
そしてもちろんどのピアニストの演奏が正しいとか間違っているとかはなく、違いはそれぞれの個性で。技術だけでなくそういう「表現したい世界」をはっきりと持っている人達が、一流のアーティストと呼ばれる人達なのだなぁ、と改めて感じたのでした。

【モーツァルト: ピアノ協奏曲第17番 ト長調 K453】
本日の演奏について。感じたことはほとんど上に書いちゃった。
ピアノもオケも冒頭から全開でしたね。今日は私の体調がよかったのと、このオケの音に慣れたことも大きいかも。
細かいことを言えば今夜もたまに「?」という部分はありましたが(17番の一楽章の急に音量を下げるところで光子さんが「小さく…」と指示してたけど十分には下がりきっていなかったり、どこか忘れたけどピアノとオケの音が混乱してるように聴こえたり)、でもとてもいい17番でした。
演奏を終えて舞台袖に引っ込むときの光子さん、やったぜ!的な笑みをされていた

【バルトーク: 弦楽のためのディヴェルティメント Sz113】
4日の武満と同様に指揮なし、立奏。
きゃー、曲も演奏もめちゃくちゃかっこよかった
こちらも私は初めて聴く曲でしたが(クラシックに全く詳しくないもので)、有名な曲なのですね。隣の方が「俺、これ好きなんだよねー」と嬉しそうに仰っていました。
モーツァルトの合間にこういう曲を入れると、どちらの良さも引き立ちますね。本当に素敵。
このオケ、音や演奏自体がすごく私の好みというわけではないのだけれど、演奏が自由で伸び伸びとしていて、なにより本当に雰囲気がいい。P席への挨拶も、皆さんニコニコの笑顔でしてくれました^^

(休憩)

【モーツァルト: ピアノ協奏曲第25番 ハ長調 K503】
盛り上がって楽しかった!素晴らしかったですね~。あれから通勤時も25番のメロディが頭に浮かんじゃってます。
光子さん、とても楽しそうに演奏されていましたね。オケを含めた音楽としての「完成度」という面からだけ見ればもしかしたらCDでの演奏の方が上かもしれないけど、ライブでしか味わえない熱を伴った素晴らしい演奏会でした。光子さんが何かのインタビューで「録音よりも一度きりのライブの緊張感が好き」と仰っているのを読んだことがありますが、確かにライブお好きそうに演奏されますよね。

【モーツァルト:ピアノソナタ第10番ハ長調 K330 第2楽章(アンコール)】
ツアー最終日のアンコールは、やっぱりモーツァルト。
今夜も、会場に広がる光子さんのピアノの音をたっぷりと堪能した、幸せなひとときでした。そしてこの演奏の後の客席の方達の拍手待ち時間の完璧さときたら・・・。
オケがはけた後にもう一度出てきてくれた光子さん、やっぱりかっこよかった♪光子さんのこういう姿を見るのも、私にとって一つの楽しみになっています。ああいう知的でエレガントですっきりとした女性になりたい。

ペライアから始まり光子さんまで。最初は短期間にピアノの演奏会が集中しすぎで泣きたくなったスケジュールですが、短期間で聴いたことで見えてくるそれぞれの良さを思いっきり感じることができ、最高に贅沢で濃密な9日間でした。皆さん、本当にありがとう!!!


※コントラバス君もお疲れさまでした

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内田光子 with マーラー・チェンバー・オーケストラ 協奏曲の夕べⅠ @サントリーホール(11月4日)

2016-11-07 00:09:13 | クラシック音楽



ペライア(31日)、ツィメルマン(1日)、光子さんⅠ(4日)、光子さんⅡ(8日)――。
なんという贅沢なピアノ週間。しかも大好きなピアノ協奏曲尽くし。
しかし一方で仕事で無理をしていたせいか酷い風邪をひいてしまい、4日の体調は最悪。寒気と吐き気と・・・
無事サントリーホールまで辿り着けるかどうか・・・というレベルでございました。
でも今回はP席で光子さんの真正面の席だったので、そこに空席を作りたくないという思いもあり、頑張って行ってまいりました。
そんななのでだいぶ集中力を欠く鑑賞となってしまいましたが、逆に言えばこれほどの体調の中で感動した部分についてはよほどだったのだろうと思います。

【モーツァルト: ピアノ協奏曲第19番 ヘ長調 K459】
以前も書きましたが、光子さんのモーツァルトについては、CDでは私にはその魅力がよくわからず・・・。それならば生で聴いてみよう、と今回のチケットを取ったわけです。前回シューベルトとベートーヴェンを生で聴いたことで、光子さんのピアノの魅力の一端がわかったように感じられたから。
で、この19番を聴いてわかったかというと、、、ごめんなさい、まだわからなかった・・・。こういうのって一度掴めば何を聴いても反応できるようになるものだけど、まだこの時点では私の耳は掴めておりませんでした。体調が相当悪かったので、ちょっと気分もノれなかった・・・
あとオケが時々ちょっとバラついてるようにも感じられ。良くも悪くも奏者に近すぎるのがP席の欠点かも。
でもオケの人達、雰囲気がとてもよかったですね。コンマスさん(イタマール・ゾルマンさん)、笑顔が素敵!演奏会でのこういう雰囲気って大事だなぁとつくづく。

【武満徹: 弦楽のためのレクイエム】
初めて聴く曲でした。今年はこの作曲家の没後20年なのですね。
これは好きなタイプの曲。曲って言えるのか?という曲ですけど、こういう神経を研ぎ澄まして音に身を預けきるタイプの曲は好きです。
指揮者はいなくて、皆さん立って演奏。すべては呼吸で合わせます。
これ、譜面どおりに生真面目に演奏するだけでは、曲の表現したいところは表せない曲のような気がする。といって情熱的に弾いても駄目で。この夜の方達、その辺の加減もとてもよくて。もっと体調のいいときに聴きたかったなぁ。
ちなみにこの曲、P席よりもう少しだけ離れた場所から聴く方が、音から立ち上る気(き)のようなものを感じやすいように思う。

(休憩)※このとき倒れそうなほどふらっふらでした・・・。

【モーツァルト: ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K466】
以前シカゴ響のコンマスさんが光子さんのモーツァルトのピアノ協奏曲をIt’s like a small piece of very fine china that you examine from all angles. You see how the light reflects on certain things, the colors are very vivid.」と表現していました。でもこの“the light reflects on certain things, the colors are very vivid.”の部分について、CDではイマヒトツ私にはわからなかったのです。
ですが。
この20番の二楽章のピアノ・・・!
繊細な音の色彩とともに次々と変化していく風景。ワタクシ、このとき以降、体調の悪さを忘れていました。
美しかった。ひたすら美しかった。三楽章の短調も何もかもがとてつもなく美しくて、デモーニッシュな部分にもドロドロしたものは一切なく、でもこの美しさはモーツァルトの音楽の“核”となる部分なのだろうなと強い説得力とともに感じました。
そんな光子さんの何かが、オケに伝染したみたいだった。弾き振りがというよりは、ピアノの音そのものがオケを巻き込んでいっているような。ピアノの周りから何かが広がっていって舞台の空気が変わった、ように私には感じられた。決して支配的なやり方ではなく、ピアノがオケを変化させていた。オケの人達が「このピアノの美しさに合う演奏をしなければ」と自然と感じないではいられないであろう、そんな求心力のある演奏だった。すごかったわぁ・・・。
ところでバレンボイムのときにも感じましたが、弾き振りって指揮者がいるよりもピアニストは弾きやすそうですね。自分の思い通りの世界を作れるからかな。そしてモーツァルトの協奏曲は他の作曲家のそれに比べて弾き振りに合っているような気がする。オケとの距離感が近いというか。実際にモーツァルト自身も弾き振りをしていたのでしたっけ?

【バッハ:フランス組曲第5番よりサラバンド(アンコール)】
アンコールへの入り方、すっきりしていてカッコよかったぁ。拍手を引き延ばすことなく、すっと出てきて、さらりと着席。前回のリサイタルでも思ったけど、光子さんってこういう仕草がすごくスマートですよね。
そしてこのアンコール曲、すごく素敵だった。
優しくて、品があって、郷愁と温かみのようなものもあって。
光子さんってこんな音色でバッハを弾くんですね。
会場に静かに響く音色に、オーケストラも静かに耳を傾けていて。すごく贅沢な時間でした。
帰りの電車の中でこの音色が頭から離れなかった。
会場を出たところに掲示されていたアンコール曲の曲名がなぜか間違っていて(8日のアンコール曲を書いちゃったのかな。それとも光子さんがその場で曲目変更したのかしら)。男性が「これ間違ってるよー。あれはバッハのフランス組曲5番!」って写真を撮ってる人達に教えてあげていました。いいねぇ、こういうお客さん同士の交流

8日の協奏曲の夕べⅡも行きます。
今度は体調万全にして行かなきゃ。
※追記:11月8日の感想はこちら

ところで先程ググっていてたまたま見つけたんですが、来年3月に光子さんがパリでハイティンク×ロンドン響と共演するベートーヴェンのピアノ協奏曲、ブルックナーの9番とセットでチケット代が最高席€80、最安席は€10ですってよ。ワタクシは今回P席に13000円払いました。。。。。。。。。。。。。。。


インタビュー@ABC classic guide (転載)★
――今回の演目に込めた内田さんの想いをお聞かせください。

内田 作品番号は飛んでいますがピアノ協奏曲としては連続して書かれた作品で、この2曲にも関連性があります。K.459(第19番へ長調)は1784年の年末に完成しており、k.466(第20番ニ短調)は85年初めに作られています。作曲の時期が近かっただけではなく、実際に同じことが起こったりもします。事前に玉手箱を開けてしまうのは嫌なので具体的にどこかはあえて言いませんが、〝アレ?どこかで聴いたことがあるな?〟と気付かれる方もいるはずです。また、k.459の最終楽章のフガートは大変複雑怪奇に書かれています。これに強い興味を持ったのはベートーヴェンだったと思います。彼のピアノ協奏曲第3番ハ短調にもフガートが出てきますが、モーツァルトの方がより不規則に書かれています。一見、明るく楽しく、軽やかに動いているようですが、その裏側は複雑にひねくっている。これがモーツァルトのすごいところです。K.466は彼が書いたピアノ協奏曲の中で最もドラマティックな作品です。多くの人がこれとk.491ハ短調(第24番)の2つの短調の作品を最高峰と位置付けますが、私はこの2曲にk.503(第25番ハ長調)とk.482(第22番変ホ長調)を加えます。

――モーツァルトを弾くということはご自身の中でどんな意味があるのですか?

内田 もうじき死んでしまうというのだったら私はモーツァルトとシューベルト、ベートーヴェンだけを弾いて残すかもしれません。あとバッハも、ショパンもシューマンもちょっとだけ弾きたい。(笑) 2人だけ選べと言われたらモーツァルトとシューベルトを選ぶと思う…、いや、分かんないなあ、ベートーヴェンを弾きたいと思うかもしれませんね。(笑)
モーツァルトのピアノ協奏曲を大きなオーケストラと一緒に弾くのは難しいのです。今、一緒に弾きたいと思える指揮者はほんの数人しかいません。その点、マーラー・チェンバーとはとても気が合いますから、この人たちともっと弾いていきたいという強い気持ちを持っています。

――世界中の名門オーケストラから共演のオファーが寄せられている内田さんが、マーラー・チェンバーと特に共演を重ねたいとお考えになる理由をお聞かせください。

内田 私が作らんとしている音楽に対する反応がとても速い、ということがひとつの要素です。弾き振りしている際にハッと新しいアイディアを思いついた場合、誰かが以前のように弾いたら困るわけで、彼らにはそれはありません。指揮者がいないので、目で見るのではなくお互い耳で聴き合って即座に反応できる人たちなのです。そして音楽を作るということに対して根源的な部分での〝心〟を明確に持った集団でもあります。彼らがその〝心〟の中で一丸となって求めているものと私が作らんとしている音楽に、どこか共通性があるのだと思います。

――今回は弾き振りですが、指揮者がいる場合とソロに専念する時とでは演奏に臨むにあたっての違いはありますか?

内田 まずはやることが増えますが、何に留意するかというとどんな場合でも私は楽譜を理解し、そこから作曲家が何を考えたのかを読み取ることに変わりありません。弾き振りでは、私の采配で皆が弾いており、そこで何が起こるかというと、私が弾く音に皆が近づくわけです。今、私はごく少数の素晴らしい指揮者としか共演していません。彼らは偉大な音楽家であり、作品に対して自分なりの考えを持っており、それと私の考えを合わせるわけです。それが一致する場合があるから面白いのですが、その代わり違う部分も入ってくる。弾き振りでは違う部分がなくなり、私が全部弾いているのではないかという音を皆が出してくれます。

――最後に公演を楽しみにしているファンへのメッセージをお願いします。

内田 この世の中にモーツァルトのピアノ協奏曲ほど楽しいものはありません。オペラを観るようなつもりでお越しください。実際に扮装して歌ったりしないだけで、オペラと同じように物語があるのです。楽しく、面白く、物悲しく、そしてどんなに悲しくてもぱっと太陽が照る瞬間があるなど、さまざまな要素が満載です。ぜひ、お楽しみください。


※Marhler Chamber OrchestraのFBのコントラバスの呟きシリーズ、めちゃくちゃ可愛い
Do not kick of the quilt!!...you might catch a cold!! 」なんてコメントがついてる

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東京ニューシティ管弦楽団 第108回定期演奏会 @東京オペラシティ(11月1日)

2016-11-06 01:56:12 | クラシック音楽




<曲目変更のお知らせ>
当初予定されておりました、エウゲニウシュ・クナピクのピアノ・ソロ、混声合唱、オーケストラのための協奏曲「ソング・オファリングス(歌の捧げもの)」は、同曲の世界初演権を有するポーランド国立放送カトヴィツェ交響楽団の初演延期のため、予定された日本初演の実現が叶わなくなりました。出演予定であったクルスチャン・ツィメルマンは元来本公演を通じて東日本大震災復興支援を申し出ていたため、本人の支援実現への強い願いにより、演目をベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番に変更し、出演することに決定いたしました。今回の変更は演奏曲目に関わらず被災者支援を最優先するアーティスト側の意思を尊重いたしました。

確か今回は初めての協奏曲をやる予定と聞いていた気がするけど、チケット発売の時の曲目はなぜかベートーヴェンのピアノ協奏曲になっていて。そういう理由だったのだね。

ペライアの翌日にツィメルマン。東京は誘惑がいっぱい。。
ずっと頭を悩ませていたいや~な仕事を終えて、オペラシティで15分で蕎麦を食べて、20分前に会場に入ったら本日のプログラムとツィメルマンからの長~いメッセージが手元に・・・。開演までに読み終わるだろうか・・・(ギリギリ読めた)。
ツィメルマンも東京で3.11を経験していたんですね。
“誰かがアパートの暖房のスイッチを入れたからといって、そのせいで他の誰一人として被害を受ける者はいない、ということが確実になるまでは、何も「制御下」にはないのです。・・・私たちが冷暖房や照明のスイッチを入れる度に、電力の需要が生まれ、その結果として、政府に需要を満たすための何らかの方法をとらせているのです。私たちはこうした状況を変えていかねばなりません。そうすることが私たちの義務なのです。”
以前、ツィメルマンがアメリカ政府のポーランドでの東欧ミサイル防衛構想に抗議してアメリカで演奏をしないとしたことについて、私は「アメリカのファンに罪はない」とここに書いたけれど、今回このメッセージを読んで、彼の思考が少しわかってきたような気がします。
おそらく彼にとって、アメリカにいる彼のファンにも罪(或いは責任)は「ある」のだね。その大統領を選び、そういう政策を支持あるいは放置してきたのは国民なのだから。
そして今後の原発問題の動向次第では、彼が日本で演奏をしなくなる可能性も十分にあるのでしょう。そしてそのとき、日本にいる彼のファンにも「罪はある」のでしょう。声を上げ行動すれば止めることができた流れを、止めなかったという意味で。
彼の言うことは正しいのだと思います。
そしてこういうメッセージを読んだ後に、私達は彼の演奏を聴くわけです。そしてその演奏に感動するとき、彼の演奏に感動する権利が果たして自分にあるのだろうか?と考えないではいられなくなるわけです。

ところで(と、ここで話題を変えることにも心苦しさを感じてしまう^^;)、開演前にロビーでやっていた弦楽四重奏、楽しかったですね~。こういう手作り感のあるコンサートって素敵。


【ベルリオーズ:序曲「ローマの謝肉祭」 作品9
ツィメルマンの参加はベト4のみなので、こちらはオケのみ。(ところで交響曲じゃなくてもベト4ていうの?まぁいいか、ベトp4も微妙だし)
んー・・・上手い下手以前に、演奏や奏者の雰囲気に陽気さが皆無だったのはなぜなのだろう・・・。
もしかしたらこれはお祭りの曲ではないのだろうか?と帰宅した後に調べてしまったわ・・・(やっぱりお祭りの曲だった)。
この後のベト4大丈夫なのかな・・・と不安ばかりが募ってしまったベルリオーズでありました。 


【ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4 ト長調 作品58
前日のハンマークラヴィーアが「ああ、“ペライアのハンマークラヴィーア”だなあ」と感じたように、今夜も第一音から「ああ、“ツィメルマンのベト4”だなあ」と感じました。
ピアノって同じ曲でも弾く人によって本当に変わるんですね。こうして聴くようになるまでは知らなかったなぁ。面白いなぁ。
この曲は昨年ペライアで聴いているけれど、全く個性が違って。
ペライアの方は光と闇を感じたけれど、ツィメルマンの方は2楽章でさえも透き通った明るさがあって。この緩徐楽章のオケとの対話では、ツィメさんだけこの世にいないような美しさで(顔じゃなくて音がね)。オケとピアノが全く違う世界にいる感じががすごく良くて、ぞくぞくしました。それが3楽章では一転してオケと混じり合い戯れるその絢爛たる華麗さ。なんという軽やかさ、なんという自然体のカリスマ性。いやぁ、美しかった。。。。。いいものを聴かせていただきました。ピアノに限っていえば、あの素晴らしいバーンスタイン×ウィーンフィルとの演奏と比べても、生音効果もあって、今夜の演奏の方が好みだったくらいです。やっぱり年齢を重ねた弾き方の違いというものもあるのかな。

今回3階L側だったのですけど、開始早々から視界にはオケに体を思いっきり向けてめちゃめちゃ左右に動いているシルバーヘアとお背中が。ツィメさん、動く動く。前回のシューベルトの子供時代の曲を弾いていた時の3倍くらい動いていた。ご本人楽しそうだし、見ている方も楽しいけど、「うんうん、その調子だよ~君たち。緊張しないでいいからね~。僕は怖いピアニストなんかじゃないんだから」と生徒達を温かく見守っている先生みたいに見えてしまったのは気のせいかしら(^_^;) 私の席からは顔が見えなかったけど、絶対笑みを浮かべてたと思う。ノヴァックさんがいるのに、左手でいちいちキュー出すツィメさん。一度などわざわざコンマスさん?を振り返ってキュー出してましたよね、めっちゃ笑顔で。その仕草までが美しいんだから、まったくもって。。
普段ウィーンフィルやベルリンフィルと共演しているような人だけど、ご本人、楽しそうにリラックスして弾かれていましたね。この曲をこんなにぴょこぴょこ可愛く弾くピアニスト。と言って全く力を抜くことなく弾いてくれて。こういうツィメルマンもいいものだね。今夜行ってよかった 

そして相変わらずピアノが身体の一部か同志のよう(今回も自ピアノ?)。ツィメルマンのこれを見るの大好き。ピアノがピアノじゃなく見えるピアニストって、今まで見たことのある中ではこの人だけです。
そしてこんなに危なげなく弾き流しているようにさえ見える余裕さなのに(魔術師みたいだな~と思いながら指と鍵盤眺めてました)、ピアノに向き合う姿勢はちゃんと真摯なのだものなぁ。いいピアニストだなぁ。
今回も楽譜あり。これだけ躊躇なく弾けるのなら、いらないのでは(^_^;)

そうそう、ノヴァックさんは一楽章と二楽章の間を全く空けませんでしたね。んー、私はここは空けた方が好きだな。二、三楽章の間と違って、ここでは一楽章が大音量で終わるから、その音が消えないうちに二楽章が同じく大きめな音量で始まるのは、あまり美しくないように感じられました。
この二楽章が始まった瞬間、ツィメさん、ギョっと驚いてませんでした?その後すぐにピョコピョコしてたけど。リハも前日も演奏しているはずだけど、うっかり忘れてたのだろうか。

心配していたオケは、全く問題ありませんでした。これだけツィメルマンのピアノに安心して耳を傾けられたということが、その証拠だと思う。先程も書いたように、ピアノとの対話も問題なく。いい演奏でした。
指揮者のノヴァックさんもポーランド人なんですね。これまでもツィメルマンと一緒にツアーをされているのだとか。お二人の雰囲気から信頼関係がしっかりあるのがわかって、見ていて心地よかったです。

ここで休憩。
そして、ツィメさんのファンらしきお客様方が大量にお帰り。元々7割くらいの入りだったのが、6割か5割くらいに。
皆さん、露骨だなぁ。。。
私はオケの生演奏というものを聴くこと自体が好きなので、迷うことなく残りましたです。


【ムソルグスキー(ゴルチャコフ編曲):組曲「展覧会の絵」】
初めて聴く曲だけど、こういう色んな意味でロシアっぽい曲好き~。
展覧会の様子を音楽で表現しようとする発想自体にも吃驚だけど(元はピアノ曲なのね)、それに成功しているところに更に吃驚。元絵を見たことがないのに、まるで絵が見えてくるよう。ユーモアがあったり、不気味さがあったり、壮大さがあったり、くるくる変わる表情がすごく楽しかった。
演奏会で演奏されるのはラヴェル版が多く、このゴルチャコフ版は珍しいのだそうですね。ラヴェル版は聴いたことがないからどういうものかわからないけど、今回のこの版、私は大好きです。
演奏もメリハリが利いていて、全く飽きなかった。
世界の一流オケの音とは違うかもしれないけど、最後も限界までめいっぱい盛り上げてくれて、それでも気になるほどの崩壊もなく。
楽団の皆さんもノヴァックさんもブラボー めちゃくちゃ楽しかったです!!

こんな演奏会を日本で4000円で楽しめるなんて夢みたい。。。
とはいえ前回のリサイタルの後、Japan Artsの会長さんの本を読んだのです。会社立ち上げの頃の熱意やツィメルマンやリヒテルやゲルギエフとの馴れ初めなどが書かれてあって大変面白かったのですが、その中で日本のクラシック演奏会のチケット代の高さについて触れられていて、「もっと誰もが気軽に演奏会に来られるような国にするのが夢」というようなことが書かれてあったのです。でもそんなJapan Artsもやっぱり値上げし続けているんですよね。ボリショイバレエのザハロワの白鳥の湖なんて、2014年→2017年でS席22000円→26000円、D席7000円→11000円ですよ。為替の事情などもあるのかもしれないけれど、それにしても異常です。ツィメさんとのハグで感動して損した、とワタクシはやっぱり思ってしまいますよ、中藤さん。
そのうちクラシックもきっとS席5万円とかいうオペラみたいな値段になるのでしょう。そして平民は生で聴く機会が失われ、殆どの国民が文化的な教養を失い、心の豊かさとは無縁の国になる日も遠い未来ではないのだと思います。
だったらチケットを買わない!という不買運動をしたいくらいだけど、それもできない。なぜなら一流の芸術に触れていたいから。
ツィメさん、この現状に対して私達客はどう行動すべきなのでしょう。。

※ニューシティ管弦楽団のフルート奏者さん(立住若菜さん)の11月5日のブログより。ミャオと鳴くツィメさん リハーサルも含めて録音録画、ピアノの写真撮影もNGと、音楽事務所から厳しいお達しがあったそうです


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マレイ・ペライア ピアノリサイタル @サントリーホール(10月31日)

2016-11-03 22:37:02 | クラシック音楽



ぎりぎりまで仕事をし、駆け込みでサントリーホールに到着。翌日には10年に1度くらいの大事だけど気が滅入る仕事があり、一体私はこのリサイタルをちゃんと楽しめるのか、気分は全く落ち着かず。
でもペライアのリサイタルに行かないなんてありえない。

そんな私がなぜ2011年、2013年のリサイタルも2014年のアカデミー室内管との来日も行かなかったかといいますと、私はクラシックに全く馴染みがない人間だったので、あの2008年のロンドンで感動したピアニストが日本に来るような有名なピアニストだなんて知らなかったのです。しかし2013年のリサイタルの翌日にその感想が書かれたブログにたまたま出会い、この“ペライア”ってもしかしてあのPerahiaじゃないの?と。日本に来ていたなんて!と大後悔。ではなぜ2014年のアカデミー管に行かなかったかというと、あのCSOとの演奏が好きすぎて他のオケとの演奏を聴くのが躊躇われたからで。今思えば私のばかばかぁ~~~。だってペライアがもうあんな年齢だなんて思わなかったんだもん・・・
なので、もう二度と聞き逃すまいとロンドン響も行き、今回もどんな大事な仕事が控えていようと行ってまいったわけでございます。
といってもそのロンドン響だってたまたま友人が教えてくれたから行くことができたくらいで。この世界に疎い私は、未だに確実なコンサート情報の得方を知らない。。

【ハイドン: アンダンテと変奏曲 ヘ短調 Hob.XVII:6】
今回の席はP席で、鍵盤と指がよく見える席でした。ペライアでは初めて。
で、今夜のペライア、右の親指のあたりが強張ったように震えていて、「ちょ、ペラ様大丈夫なの?」と心配に。でも弾くとちゃんと弾けている。「ああ、私はやっぱりこの人の演奏が好きだなぁ」と感じながら、だからこそ「ペラ様ー、その指は大丈夫なんですかー!」「てかその指でハンマークラヴィーア弾けるんですかー!」とか色々ハラハラしながら、ハイドンを聴き終えてしまった

帰宅して調べたら、ペライアが怪我をしたのってやっぱり右の親指なんですね。数年前のインタビューでは殆ど曲がらないと言っていたけど、ということはいつもああいう感じなのかな?それならいいのですけど・・・。
※追記:更に調べたら、あの親指の震えはやはり怪我によるものだそうです。というわけで現在の彼のデフォルトみたい。それならもっとハイドン落ち着いて堪能するんだった~~~。すごく素敵なハイドンだったのに・・・。まぁでも、ああいう指で弾いているんだなということがわかったことも、よかったです。

【モーツァルト: ピアノ・ソナタ 第8番 イ短調 K310】
そんなわけで、演奏前にピアニストがよくやる胸のところで手を温める仕草にも勝手にハラハラ(ところで私はこの仕草がなぜか好き)。
でもモーツァルトの半ばからは音楽の方に強く引きこまれていました。
前回のベト4でペライアってベートーヴェンが似合うなぁと思ったのだけど、今夜改めて、ペライアが弾くとモーツァルトがベートーヴェンのように聴こえる。ピアノ協奏曲24番にも言えることだけど、この人はきっとそういうモーツァルトが合うのだなぁ。
今夜のモーツァルトも、特に第三楽章の短調の深みが素晴らしかった。でもこの人は小さな明るい音にも深みがあるのよね。この人のそういうところと、何気に激しくて男性的なところがベートーヴェンぽいと思う。好きだなぁ。
演奏はCDよりも今夜の方が感情がこもっていたように感じられました。

【ブラームス】
6つの小品より 第3番 バラード ト短調 Op.118-3
4つの小品より 第3番 間奏曲 ハ長調 Op. 119-3
4つの小品より 第2番 間奏曲 ホ短調 Op. 119-2
6つの小品より 第2番 間奏曲 イ長調 Op. 118-2
幻想曲集 第1番 奇想曲 Op.116-1 二短調
このブラームス、素晴らしかったですねぇ。。。。。。
この構成、最初に曲名だけ見たときはなんでこんなバラバラな選曲&曲順なんだろう?と思ったのだけど、実際に演奏を聴いてこの構成にした意味がすごくよくわかった。そして今気付きましたが、短調と長調が交互になっていたんですね。
これが今の彼が表現したい“ブラームス”なのだなぁ。
全体として一つのピアノソナタ、あるいは交響曲を聴くようだった。
静かな部分もそうでない部分も、高音も低音も、ああもうすべてが素晴らしかった。。。
それにしてもこの人の音はどうしてこんなに雄弁なんだろう。初めてこの人の演奏を聴いたとき、クラシックなんて何もわからなかったけど、「音楽の想い」が音の響きになってダイレクトに伝わってくるような感じがしたことを以前も書きましたが、今夜もそう感じました。他のピアニストだと奏者というフィルターを感じることが多いのだけれど、ペライアが本当に合っている曲を弾く時、フィルターを通さずに作曲家の、その音楽の心がダイレクト伝わってくるような錯覚を覚える。ピアニストが「音楽」そのものの中に沈み込んでいっているように感じる。
この構成をペライアの生演奏で聴けたのは、本当に楽しかったし幸せでした。また聴きたい。。。痛切に。。。でもおそらくもう二度と聴けないんだよね・・・

(休憩)

【ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第29番 変ロ長調「ハンマークラヴィア」Op.106】
youtubeで聴いていたのでペライアがどういう感じのハンマークラヴィーアを弾くかは大体わかっていたけれど、やっぱり生で聴くのは全く違いますねぇ。ピアノでもなんでも、やっぱり生だなぁ。
そしてやっぱりこの人はベートーヴェンがよく似合う。
この曲ってピアニストによって全然違う曲のように聴こえますが、ああ、これが”ペライアのハンマークラヴィーア”なのだな、とすごく感じました。
「人生」の全てがそこに詰まってるように感じられた。その重みも軽みも。長調の中にふっと短調が入り、短調の中にふっと長調が入り。今夜初めて、ああこの曲って人生みたいだな、と感じたんです。ただ美しいだけじゃない、でもやっぱり美しくて。心が揺さぶられてちょっと泣きそうになった。
それはベートーヴェンの人生なのか、このピアニストの人生なのか、或いは私達一人一人の人生なのか。
そして初めて、聴きながら「神」の存在のようなものを感じました。
でも完全に神だけではなくて、神と人の両方のような。ああ、そういえばペライアって敬虔なユダヤ教徒だったよね、と聴きながら思った(wikiquote)。
聴き終わった後、というか聴いている途中から、アンコールはなしだな、とすぐに思った。それほど渾身な演奏だったもの。弾き終わった後、ご本人もとても満足そうな笑顔でしたね。
ペライアって両手を上げて「皆さんありがとう!」みたいなパフォーマンスが全くないじゃないですか。でも控えめな笑顔でも、ああ、嬉しいのだな、とわかりますよね。といってもそれは今だからで、最初にプロムスで見たときはそのあまりの控えめさに、「え、あんな素晴らしい演奏をしたのにこの人はもしかして満足していないのだろうか・・・」と困惑したのをよく覚えています。隣にいたのがやっぱり控えめさではトップをゆくハイティンクだったから、二人並んでなおさら笑。

聴き終えた瞬間、もう何もいらないと、こんな演奏が聴けたんだからもう明日の仕事で失敗してクビになったって構わないと本気で思いました。でもこんな演奏を聴けたおかげで、実際はリラックスして頑張れました。ありがとうペライアさん
またそう遠くなく会えるかな。ぜひぜひまた来日してください!

しかし空席が多かったなぁ。7割くらいの入り?選曲も演奏も素晴らしいリサイタルだったのに。私の好みは日本の一般の好みとはやっぱり違うのだなぁ、とクラシックの演奏会に行くたびに思い知る。。

さて、この翌日はツィメルマンに行ってきました。感想は後日あげますねー。ちなみに明日は内田光子さんに行ってきます。
一週間のうちに、ペライア、ツィメルマン、光子さん。なんて幸せ。。。お金の心配は後でする。


全体を通して途切れることのない印象というのは、二つのゆっくりとした楽章に現れている非常に心痛む "孤独な様相" だと私は思うのです。ベートーヴェンはこの作品を書いた時、人生の希望を失っていました。それが曲想に示されています。このころ、彼は甥との問題、そのほかにも自身いくつかの問題に悩み、少なくとも1年ほどのあいだ作曲ができなかったほどです。彼はきっと、死ぬことを考えていたのでしょう。ゆっくりとした楽章を彼がどんなつもりで書いたのか。私は「遺書」のつもりだったろうと思います。まさに自分の気分を投影した・・・そしてそのゆっくりとした楽章の最後で、ふっと調性が変わります。長調に転じます。これは、希望を意味するのでは、と。
最終楽章の始まりでは、まさに曲に挑まなければなりません。ここまで要求の高い部分も、なかなかありません。大胆不敵な主題、そして、長い主題。調性は大きく変化しますし、半音階も多用しています。ハンマークラヴィアを書く以前のベートーヴェンはこんな書き方をしたことは一度もないのです。・・・これは、神との討論のつもりだったのではないでしょうか。光明への希求も、闇への沈潜も、この作品には両方があります。最後は肯定的に結ばれます・・・示された音符そのものには、曖昧さが残りますが。どちらの方向にも張っていない糸のような、大切な音符が残されています。それらは、平安をかき乱す作用をもちます。ひとつ、終盤で確実に揺さぶりをかけてくる音があるんです・・・前向きな方向を示しながらも、まだ、その導きは、完璧に仕上がってはいない・・・そういう音楽として、在るのです。
(マレイ・ペライア Japan Artsインタビューより)

このインタビューはリサイタルの翌日に読みました。
クラシック門外漢の私が演奏から感じた印象にとても近いことが書かれてあって驚きました。自分の表現したいものをこれほどピアノの音で表現させることのできるその表現力に、ピアニストというのは本当にすごい人達なのだなぁと改めて畏敬の念を感じずにいられない。

Backstage GOG 2015/16: Murray Perahia

すごい、ほんまもんの練習風景だ。ペライアほどのピアニストがこういう映像を普通に公開しちゃうところがすごいよねぇ。。
モーツァルトK310の3楽章とブラームスOp118-3。練習(だからリハーサルと言いなさい)なのに感動が蘇る・・・

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