風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

シャンシャン

2020-09-17 22:22:37 | 日々いろいろ



わかってはいたけど、やっぱり年内に中国に還ってしまうんだねえ。
成都への直行便はまだ出ていないようだから、上海あたりで乗り換えるのかな。上野から出たことのないシャンシャンには長旅になるねえ。。
観覧に行かないときでも、電車で上野駅を通るときはいつも「シャンシャン、今は何してるかなあ。ご飯食べてるかな。寝てるかな」って、動物園の方角がほんわりあったかい空気に包まれているように感じていました。これからは中国の方角にそれを感じるのかな。
サン・テグジュペリの『星の王子さま』に、こんな言葉があるのです

だれかが、なん百万もの星のどれかに咲いている、たった一輪の花がすきだったら、その人は、そのたくさんの星をながめるだけで、しあわせになれるんだ。そして〈ぼくのすきな花が、どこかにある〉と思っているんだ。

(中略)

「人間はみんな、ちがった目で星を見てるんだよ。旅行する人の目から見ると、星は案内者なんだ。ちっぽけな光りくらいにしか思っていない人もいる。学者の人たちのうちには、星をむずかしい問題にしている人もいる。ぼくのあった実業屋なんかは、金貨だと思ってた。だけど、あいての星は、みんな、なんにもいわずにだまっている。でも、きみにとっては、星が、ほかの人とはちがったものになるんだよ……」

「それ、どういうこと?」
「ぼくは、あの星の中の一つに住むんだ。その一つの星のなかで笑うんだ。だから、きみが夜、空をながめたら、星がみんな笑ってるように見えるだろう。すると、きみだけが、笑い上戸の星を見るわけさ」
そして、王子さまは、また笑いました。
「それに、きみは、いまにかなしくなくなったら――かなしいことなんか、いつまでもつづきゃしないけどね――ぼくと知りあいになってよかったと思うよ。きみは、どんなときにも、ぼくの友だちなんだから、ぼくといっしょになって笑いたくなるよ。そして、たまには、そう、こんなふうに、へやの窓をあけて、ああ、うれしい、と思うこともあるよ……。そしたら、きみの友だちたちは、きみが空を見あげながら笑ってるのを見て、びっくりするだろうね。そのときは、〈そうだよ、ぼくは星を見ると、いつも笑いたくなる〉っていうのさ。そしたら、友だちたちは、きみがきちがいになったんじゃないかって思うだろう。するとぼくは、きみにとんだいたずらをしたことになるんだね……」

こういう気持ちを私に教えてくれたのは、シャンシャンでした。
3年間私達にいっぱいの幸せをくれたシャンシャンが、どうかこの先もずっとずっと幸せに暮らしていきますように
12月まで、たくさん会いにいくね。

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河合隼雄 『未来への記憶 ―自伝への試み―』(2001年)

2020-09-11 17:12:34 | 




先日図書館で木村久夫氏の本を借りた際に同じ棚でたまたま見つけ、借りてみました。
河合さんといえば、谷川俊太郎さんから「みみをすます」の朗読者第一号の認定証を発行された方
谷川さんの話に出てくる河合さんの飄々としたキャラクターに好感を持っていたことと、先日ある本で読んだ河合さんの「日本の中空構造」についての話が面白かったため、この自伝も読んでみようと思ったのでした。

★「日本の中空構造」とは何かというと、河合さんは日本の神話から「日本は真ん中が空っぽなのではないか」という推論をたてました。例えばイザナギとイザナミはアマテラス・ツクヨミ・スサノオを生みますが、アマテラスとスサノオが神話の中で大きな役割を与えられているのに対し、その間のツクヨミは殆ど無為の存在であること。同じような中空構造が日本ではあちこちに認められ、それは決して悪い面ばかりではないが、何か問題が起きたときに責任の所在が曖昧になり社会システムとしては非常に脆弱であるという問題をはらんでいる、と。この国が抱える様々な問題を考える上で、日本がそういう構造をもった国であるということを意識しておくことは有用なのではないか、と仰っていて、面白い視点だなと思ったのでした。以上、余談。

この『未来への記憶』は河合さんが2001年に72歳のときに出版した自伝で、兵庫の篠山で生まれたときからスイスのユング研究所で資格を取得するまでの半生が綴られています。
私は心理学というものを信頼しきれていない部分があって、これまであまり興味を持ててこなかった分野なのだけれど、河合さんの本に触れて、心理学というのは正しい正しくないというよりも一つの手段として捉えるべきものなのかもしれないな、と思うようになったのでした。宗教と同じで、私達がより幸福に生きるための手段であると。なので、それが悪い方向に利用されるのなら問題だけれど、それが私達が良い方向に向かうきっかけとなるのなら、正しいかどうかは大した問題ではないのかもしれない、と。
以下、心理学の知識皆無な私の感想なので的外れなことを書いているかもしれませんが、ご容赦くださいませ。自分用の覚書です。

河合さんがロールシャッハテスト(インクのシミが「何に見えるか」という心理テスト)について師のクロッパーから学んだことの一つに、「これは自然科学ではない」というものがあります。
テストする人とされる人の関係がそこに入ってくるし、個々の人間の個性などということを考え始めると、簡単に概念化したり一般化したりすることはできない。とすると、ひとつひとつの現象をそのまま見て記述することが大切であり、法則があるとかないとかの前提をもたないようにするべきであると考えるのです。ともすれば何かを切り棄てることによって一般化したくなるとき、もっと根本的に個々の現象を詳細に見直してゆこうとするのです。」と。
私は心理学を自然科学的なものと捉えて違和感を覚えていたので、これは新鮮でした。この考え方は、以前ご紹介したフィッツジェラルドの『リッチ・ボーイ』の文章に通じるものがあるように思う。
また西洋では心理分析の学者の理論に机上の研究はあり得ず必ず臨床ありきなのだという点も、へえ、と。

そして面白かったのが、「シャドー(影)」の話。
シャドー(影)とはユングが提唱したアーキタイプ(元型)というもののうちの一つで、「自分の生きて来なかった半面」のこと。無意識の世界にいるもう一人の自分。
これは後に読んだ『魂にメスはいらない』の方により詳しく書かれてありましたが、人が人生である面を生きていくということは誰でも別のある面は生きていないということになる。その生きていない半面(シャドー)は「自分の苦手なタイプの同性」という形で夢に出てくることが多いそうで、それを苦手だからと拒否するのではなく、きちんと向き合い、そこからのメッセージを受け入れてみることが大切なのだと。そうして「今の私」に「もう一人の私」をうまく統合させることができたら、影は光に変わり、人は人間的により成長することができるとユングは考えたそうです。つまりこの統合がなされると、これまで苦手だったタイプのものも受け入れられるようになり、より広い心で前向きに生きられるようになる、ということだと思います。
この無意識の自分との対話を催眠術でもできないかというと、催眠術の被験者は目覚めたときに自分の言ったことを忘れてしまっているため、統合ができないそうです(統合がなされるためには、まず本人がシャドーを意識できていなければならない)。だから夢を記録する方法がいいのだと。
この辺りで私は「夢・・・夢ねえ・・・」と胡散臭い気持ちになってしまったのですが、これ、騙されたと思ってやってみるとなかなか面白いです。私は夢を滅多に見ないのですが、河合さんの本を読んでから何故かほぼ毎晩見るようになり、そこに出てくる人物がシャドーかどうかはわからないのだけど、自分の無意識の片割れかもしれないと思ってじっくり向き合ってみる、その意味を考えてみる、という作業自体は自分にとって有意義なことのように思う。
でもこの「苦手な人物を自分の片割れかもしれないと考えて避けずに向き合ってみる」というのは夢の中じゃなくても現実世界でもできる作業のように思うのだけど、どうなんだろう。まあ本当の意味での無意識の自分となると、やっぱり夢の中にしか出てこないのかもしれませんが。
シャドーに関しては、河合さんの師マイヤーやユングの友人だったロレンス・ヴァン・デル・ポストの書いた『ア・バー・オブ・シャドー(A Bar of Shadow)』(『影の獄にて』という題で思索社から翻訳版が出ています)という本があり、それが映画『戦場のメリークリスマス』の原作なのだそうです。坂本龍一の音楽とデヴィッド・ボウイとのキスシーンばかりが印象に残っていたあの映画にまさかユングの思想が散りばめられていたとは!浅薄で邪道な見方をしていた10代の自分を反省し、観直してみたいと思いますm(__)m。
シャドーについては、ノイマイヤーの『真夏の夜の夢』の王と女王が夢の中では妖精界の王と女王になるという設定に通じるものがあるように思いました。あとグリゴローヴィチ版の『白鳥の湖』の王子とロットバルトの関係もそういう風に読める気がする。意外と面白いな、心理学。

そしてとても驚いたのが、河合さんがユング研究所時代にニジンスキーの奥さんのロモーラの日本語教師をされていたということ
ニジンスキーが入院していた精神病院はスイスのクロイツリンゲンにあり、河合さんは実習のためにその病院をよく訪れていたとのことなので(ニジンスキー自身は河合さんがスイスに行く10年以上前に亡くなっています)、そこに繋がりがあっても不思議はないのですが。
ロモーラさんは七ヶ国語を話せたそうで、更に日本語も勉強したいと。なんかイメージしていた人と違う。意外だ。
彼女は河合さんに、ニジンスキーの話も色々していたそうです。そして、こんなことも。

ぼくがスイスから帰る直前の頃のことですが、いつものようにしゃべっているうちに、ふだんのパーッと華やかな雰囲気がすっかり変わって深刻な顔をして、「これはだれにも言っていないけど、あなただけに聞きたいことがある」と。どういうことかというと、ディアギレフと同性愛関係を保つことによってニジンスキーは踊り続けることができたんじゃないか。そこに自分が入り込んで結婚したために、ニジンスキーは分裂病になったんじゃないか、それをおまえはどう思うかと言うのです。それに対してぼくは、「人生のそういうことは、なになにしたのでどうなるというふうに原因とか結果で見るのはまちがっているのではないか。ニジンスキーという人の人生は同性愛を体験し、異性愛を体験し、ほんとに短い時間だけ世界の檜舞台にあらわれて、天才として一世を風靡した。しかしその後一般の人からいえば分裂病になってしまった。しかし、ニジンスキーにとっては非常に深い宗教の世界に入っていったということもできる。そういう軌跡全体がニジンスキーの人生というものであって、その何が原因だとか結果だとかいう考え方をしないほうがはるかによくわかるのではないか」と言ったのです。そうしたら夫人はものすごく喜んだ。「それを聞いて自分はほんとにホッとする。このことはずっと心のなかにあったことだ」と言っていましたね。ぼくはそういう話ができてほんとによかったと思います。(中略)実在の人物のことだから今まで黙っていたのですが、もう話をしてもいいんじゃないでしょうか。ぼくにとってもすごく大事な体験でした。

ロモーラさん、そうだったのか…。
河合さんは人の自殺についても原因と結果で捉えることがお好きではないそうで、私も似た考えです。

この本についての感想は以上ですが、この後に河合さんと谷川俊太郎さんの対談集『魂にメスはいらない』を読んだので、それについても後日ご紹介したいと思います。
冒頭に載せた写真は、京都の貴船神社。京大出身の河合さんつながりで。

で、心理学には興味がないとか言っているくせに、私はロンドン市内のフロイトが晩年を過ごした家を訪れているのである。古い家を見るのが好きなのです。
駅からも近く、素敵なお宅でした。以下、私が訪れたときの写真です。
フロイトはユングの師でしたが、けんか別れしました。

ロンドンのフロイト博物館 (Freud Museum) は、ロンドンの北部ハムステッドのマレスフィールド・ガーデン20番地にある。1938年、精神分析の創始者フロイトは、マリー・ボナパルトの支援により、故郷の町ウィーンからここに逃避してきた。ジークムント・フロイトは、ユダヤ系の出自のためナチスドイツによりオーストリアがドイツに併合されたためウィーンを捨てて、ロンドンに移り住むことを余儀なくされた。彼はロンドンでも最も知的な印象の強い地域であるハムステッドのマレスフィールド・ガーデン20番地の家に、翌年死去するまで居住した。フロイトは、この地に来てからも彼の研究を継続し、『モーゼと一神教』はここで完成したものである。女性の精神分析家の先駆けでもあったフロイトの娘アンナ・フロイトは、1982年亡くなるまでこの家に住んだ。彼女が亡くなって4年後、彼女の遺志によりこの家は、博物館として一般に公開されることになった。開館したのは、1986年である。
(wikipediaより)




右手のブループラークのついた建物が、マレスフィールド・ガーデン20番地のフロイトの家。


カーライル博物館や漱石博物館と同じく、ドアの前で勇気を要するタイプの博物館


内部は撮影不可だったので、博物館のホームページより。
この階段の踊り場が好きだった。こんなところでゆっくり本を読みたいなあ。


庭に面した1階のサンルームは、フロイトグッズのショップになっています。
私はフロイトの小さなフィギュアを買いました


それなりに説明書きも読んだりしていたので、博物館を出る頃はすっかり夜に。
空いていて、ゆっくり見学することができました。

Freud Museum London
博物館の公式ページ。オンラインショップまであるのだ。

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中村吉右衛門配信特別公演 『須磨浦』

2020-09-03 01:03:49 | 歌舞伎

中村吉右衛門配信特別公演『須磨浦』予告



歌舞伎座「九月大歌舞伎」に出演する中村吉右衛門が、このたび公演に先立ち、配信特別公演『須磨浦』に出演します。戦災、天災、コロナ禍など時の運命の流転により、無念に亡くなる命はいつの世も尽きません。その命を思い、決して忘れないために、『一谷嫩軍記』の熊谷次郎と一子小次郎の物語に重ね、吉右衛門が松貫四の筆名で『須磨浦』を書き下ろし、吉右衛門自ら、熊谷次郎直実を演じます。
(歌舞伎美人より)

数ある舞台芸術の中でも歌舞伎は特に生で観てこそと思っているので(あと能も)、コロナ禍とはいえ動画配信企画には今まで食指が動かなかったのだけれど。
これは・・・・・観ないわけにはいかない・・・・・。
30分弱で3500円。高い。
でも観ないわけにはいかない。
なぜなら熊谷は、知盛と同じくらいに好きな吉右衛門さんのお役なのだもの(今知りましたが、史実の熊谷って一時期知盛に仕えていたんですね。でもって『一谷嫩軍記』と『義経千本桜』は作者が同じなんですね)。歌舞伎座で観た2015年の『陣門・組打』は、好きすぎて舞台写真まで買ったほど。
それを今回の公演のために吉右衛門さんが自ら書き下ろされ、お一人で演じられる。
観なかったら一生後悔する。
というわけで観ました
観てよかった。。。。。
歌舞伎座の千穐楽を彷彿とさせる、凄まじい気迫の舞台でした。

無音のなか、平家物語の冒頭「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂には滅びぬ、 偏に風の前の塵に同じ」の文字が画面に映し出され、囃子方と竹本が橋掛かりから入場。
そして熊谷(吉右衛門さん)の登場。
今回の公演、『須磨浦』という演目名だったので『組打』の場面のみなのだろうなと想像していたら、なんと『堀川御所』から
文楽では観たことがあるけど、歌舞伎で『堀川御所』の場面を観られるのって珍しくないですか?
と調べてみたら、2012年に團十郎さんが国立劇場で上演されていたんですね(なんと98年ぶりの復活上演だったそうで…!)。
團十郎さんのときはどうだったかわからないけれど、今回は「一枝を伐らば一指を剪るべし…。枝一本を伐らば指一本を剪るべし…」(←配信中にメモってなかったので正確ではないです)、とわかりやすい台詞になっていた。考えてみたらこれ、必要よね。「いっしをきらば いっしをきるべし」の音だけで一枝と一指という漢字は観客は普通は思い浮かばないもの。義経(声は葵太夫さん)にも「そちが一子も蕾の花」的な台詞があって、やっぱりわかりやすかった。それでも前知識なしで今回のストーリーを理解できる人はまずいないと思うけれど(そんな演目を選ぶ吉右衛門さんが好き)
制札に書かれた義経の真意を汲み取って、退場する熊谷。制札は白い扇で表わされていました。

再び橋掛かりから黒いお馬さん(完全に前後が分かれ2名で担当)に乗ったていで登場し、『組打』の場面へ
舞台にいるのは吉右衛門さんお一人なのに、吉右衛門さんのお芝居から敦盛(小次郎)の姿が目に見える
背後の山から熊谷を罵る平山が、軍勢が目に見える。
なぜなら吉右衛門さんの目がまぎれもなくそれらを「見て」いるから。
あの時間、あの場所は観世能楽堂ではなく、須磨浦になっていた。須磨浦の風景が私の目にも見え、須磨浦の風が自宅のPCの前に座る私の肌に感じられた。こんなものを私達に体感させてしまう吉右衛門さん、なんという人だろう・・・。
そして小次郎の首を討ちとって、血を吐くような慟哭の「勝鬨」。。。。。
小次郎の首はやはり白い扇で表わされていて、若く清らかな美しさとそれゆえの悲しさが感じられ、いい演出だと思いました。このシンプルさは能のよさだよね。
玉織姫の部分は全てカット。なので熊谷の「いずれを見ても蕾の花。都の春より知らぬ身の今魂はあまざかる、鄙に下りてなき跡をとふ人もなき須磨の浦、なみ/\ならぬ人々の成り果つる身の痛はしや」の「いずれ」という単語に少々違和感を覚えつつも、この言葉が敦盛(小次郎)と玉織姫だけでなくこの戦で散った多くの若い命に対しても言っているように聞こえ、熊谷が感じている無常が冒頭の平家物語の言葉に繋がり(元々このエピソードは平家物語からですが)、この物語の普遍性がより強く感じられたような気がしたのでした。
ラストの橋掛かりを悄然と去る熊谷の姿。その姿が私達に伝えるものはこの上なく重い。
無観客上演のため(また能のお約束的にも)最後まで拍手がないのが深い余韻を残しました。

今回の公演は、歌舞伎と能のどちらの魅力も消されることなく非常にうまく溶け合った稀有な公演であったように感じられました。それは吉右衛門さんだからこそ可能だったのではないか、とも。
今までも何度か書いているけれど、私が吉右衛門さんのお芝居で最も魅かれるものの一つが、ぱぁ~っと劇場中に広がる圧倒的な気迫や大きさと同時に存在する、独特の澄んだ静けさ。この熊谷もそういう吉右衛門さんが見られるお役の一つです。

さて、今月の歌舞伎座は吉右衛門さんの『引窓』ですね。
見逃さないようにしなきゃ。

役者というものはお客様がいらっしゃって成り立つものです。私はやはり伝統歌舞伎を受け継ぐということが役目だと思っておりますので、伝統歌舞伎に基づいた作品を上演し、お客様に少しでもなにかを感じ、楽しんでいただけるようにという思いで、初代吉右衛門もとても大好きな「一谷嫩軍記」から芝居を拝借して書き下ろしいたしました。こじつけではありますが、災難、災害など歴史上繰り返してきたことを皆さん乗り越えて今の人類の幸せがあるのではないか、そのようなことを芝居に重ねてご覧いただけたらと思います。

今回、無観客での収録ということですが、“想定する”ことを役者は慣れておりますので、お客様がそこにいらっしゃる、ただ静かに見てくださる、そういう思いで演じたいと思います。

お客様もこういう時世ではございますが、歌舞伎という良さを忘れないで楽しんでいただけたらありがたいと思います。

(中村吉右衛門。ステージナタリー:中村吉右衛門による配信公演「須磨浦」伝統歌舞伎を元に“人類の幸せ”描く)

※追記:
『組打』の段の最後に「檀特山の憂き別れ、悉陀太子を送りたる、車匿童子が悲しみも、同じ思ひの片手綱、涙ながらに帰りけり。」という一節があります。ここでは熊谷と小次郎との別れの悲しみを出家する釈迦を見送る車匿童子の悲しみに例えているわけですが、この釈迦のエピソードがなぜ『一谷嫩軍記』や『平家物語』で死んだ人との離別の例えとして使われているのか?について、「死ぬこと」=「極楽浄土に生まれ変わること」という浄土思想の影響ではないか、というブログ記事を見つけました(こちら)。なるほど。この後熊谷は出家するのに、どうして車匿童子に例えられているのか不思議だったんですよね。あちらの世界へ行った小次郎と、まだそこへは行けずこれからもこちらの世界で苦しみとともに生きていく熊谷、という構図でしょうか。なるほどなあ。

追記(2021.1.06):
2020年12月30日のNHKラジオ深夜便より。
司会:3月の公演が無観客となってしまったことでインターネットを使った配信をされましたよね。
吉右衛門:配信というのはなんだか全然わからなくて、ただ無観客でやってくれないかという申し出がありましたのでお引き受けいたしました。無観客でやるということがどういう風に役者にインパクトを与えるかと思っておりましたけれども、私は父親八世松本幸四郎から「客受けを狙った芝居をするなと、それより役になりきれということを若いときから厳しく教えられておりまして、それがまた初代吉右衛門の教えでもあったんですけども、また初代と一緒にやってらした六世歌右衛門のおじ様も『私はお客様が一人になってもそのお客様のためにやるんだ』ということを生前色々聞かされておりましたので、客の入りとかお客様の反応とかいうものを気にするタイプの役者ではもともと私はなかったものですから、無観客であろうが、いっぱい入っていらっしゃろうが、僕にとってはあまり影響がなかったものですから、それより舞台に立つということが僕は一番この世に生まれた運命といいますか宿命と思っておりますので、とにかく舞台の上でお客様がいようがいまいが芝居をやらせていただけることが最上の喜びだと思って、やらせていただきました。
司会:そうすると実際に演じられているときは誰もいない観客席に観客の方を意識しながら演じられていたというような・・・
吉右衛門:いや、劇場という感覚より実際にそこにこの役はいるんだというような感覚に今まで先輩に指導していただいたおかげでなっておりますんで、全くそれは僕にとっては何の影響もなかったことです。
司会:9月の舞台まで半年以上の舞台を待っている期間というのはどのように過ごされていたんでしょうか。
吉右衛門:やることないんですよね。御殿のようなおうちに住んでいらっしゃる方もいらっしゃいますから、そういう方はお稽古場がおうちの中にありまして、そこでお芝居の稽古を一人でやっていれば随分違うんでしょうけれども、私のうちはマッチ箱でございまして、稽古するような場所がないんですね。一番広いところはベッドの上なんでございまして、しょうがないからベッドで横になりまして、脚本を、我々は書き抜きと言いますけれども、脚本を見ながらその台詞を再度覚え直したり訂正したり、それが孫にでも渡るときにわかりやすいようにしようと思ってそういうことをやっておりましたけれども、そのうちにそれも飽きまして、子供のときから好きな絵を描き初めまして。本当はもっと体を動かすべきなんでしょうけれども、最初のうちは散歩のようなことをやっておりましたけれども、そのうちそれも自粛になりまして、とにかくコロナにうつる、うつさないということを措置しなきゃいけないと私も思いまして、うちの中にじっとしておりました。
司会:やはり吉右衛門さんは播磨屋という屋台骨としていらっしゃるわけですから、そういう忸怩たる思いもおありになったのでしょうね。
吉右衛門:とにかく舞台に立ってお客様の心の中に入り込んで、拍手をいただいたりなんだかんだというものは別ですけれども、お客様と対になってお芝居をしてお客様の心の中に飛び込めることが僕は役者の使命だと思っておりますので、それができないということは何の価値もないということになってしまいますので、それが一番私としては忸怩たる思いをしておりました。
司会:8月から歌舞伎座が再開されまして。9月に久々に舞台に立たれたときはいかがでしたか。
吉右衛門:若くはないものですから、わ~帰ってきた!嬉しい!というそこまではなかったんですけれども、花道から舞台に出たときにソーシャルディスタンスでお客様はばらばらにはいらっしゃるんですけれども、それでも、ああ生きててよかったというそういう感じがいたした初めての舞台ですね。
司会:播磨屋!などの掛け声などもないなかでのお芝居でしたが。
吉右衛門:僕はそういう掛け声などをあまり気にしませんので、もちろん「変なところで声かけやがって!」とか気にされる方もいらっしゃいますが、僕はどこで掛けられようが別に気にしませんし、というか役にのめり込んでいてそういうものを考える余地がないんですね。余裕がない役者なんでございます。素人みたいな役者と思っていただければ有難いんですけど。
司会:それほど役に入り込まれている、集中されているということなんですね。
吉右衛門:いや、そうしないと僕集中できないんですよ。気が小さいものですから、ちょっとしたことではっと気が動いてしまうと困るもんですから、おかげさまで小さいときから父親や先輩に客席を気にするな、受けを狙った芝居をするなと厳しく言われてますんで、おかげさまでそっちの方になって僕はよかったなと。あんなつまらない役者はないとおっしゃる方もいらっしゃるとは思うんですけど、自分では初代吉右衛門の後を継げたかなと思っておりますけどもね。
司会:ご自分では、あらためて舞台に上がれる喜びのようなものを感じられたんですかね。
吉右衛門:難しいのは自分とその役をどういう割合で持っているかが難しいんで、あまり喜んでしまいますと自分が買ってしまう、役がいなくなってしまうというのがあるんで、それもあまり喜びはできませんでしたけれども、でも出た瞬間とか終わった後とかには初めての経験の喜びでございましたね。
司会:昨年の5月にお孫さんの丑之助さんが襲名をされまして共演となったわけですが。
吉右衛門:外孫ですけれども、自分の役者の血がそっちにも流れてるのかなあと思うといつも顔が綻んでしまうんですけれども。『近江源氏先陣館』という芝居があって子役がとても活躍するんですけども、それは僕もやって天覧になった芝居なんですけども、それを早くこっちが動ける間に丑之助君とやりたいなと、それが念願ですね。
司会:丑之助さんもまだ小学校にあがられたばかりのご年齢とは思えないくらいしっかりされてますよね。
吉右衛門:なんといいますか、割と今の子で人を食っていますよ。
司会:これから日々ご成長されていくのを見ているのが楽しみというようなお気持ちでしょうか。
吉右衛門:もちろん外ではありますけど、楽しみですね。楽しみというよりか、伝統歌舞伎というものをきちっと丑之助君に伝えるのが私の使命でもありますので、それができる状態に早く戻ってもらいたいなと念願しております。
司会:自粛の際には丑之助さんのために色々なされたことがあると伺いましたけども。
吉右衛門:まあ脚本を手直ししたり丑之助君兄弟の絵を描いたり、そういう風にしてじじいを忘れないようにしてもらおうかなと。




※追記(2021年2月)
脚本を書き終えるのにかかった時間は三十分くらい。まことにやっつけ仕事だとは思いますが、あの場合、そうでもしなければ作れなかったと思います。伝統歌舞伎はまだ命脈を保っていますよ、忘れないでくださいと、僕は孫の丑之助のためにも申し上げたかったのです。配信をご覧になった方々からは賛否両論ございましたでしょう。・・・なにはともあれ、僕は歌舞伎で大好きな熊谷を演じられただけで、あれ程生の喜びを感じたことはありませんでした。・・・全ての方々に感謝あるのみです。
小説丸『二代目中村吉右衛門 四方山日記」第十三回 「須磨浦」の動画配信

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