風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

『サロメ』 @新国立劇場

2012-06-16 17:01:11 | その他観劇、コンサートetc

先日、新国立劇場で上演中の宮本亜門氏演出による『サロメ』を観てきました。
私はこのオスカー・ワイルドの戯曲が大好きなのですが(以前ここでも書きました)、原作しか読んだことがなく、舞台で観るのはこれが初めてです。
この日は亜門さんとヨカナーン役の成河さんによる予想外に濃いアフタートークもあり、とても楽しい夜を過ごすことができました。

しかし舞台自体の感想はというと、、、非常に“惜しいなぁ・・・”と感じる舞台でした。
上から目線ですいません。でも、全体的にとても良かっただけに、ほんとうに惜しいと感じたのです。
何が惜しいって、、、多部未華子ちゃんのサロメです。
このサロメ、今までのサロメのイメージを払拭する“純粋無垢なサロメ”ということで、今回の演出で一番声高に宣伝している部分なのですよ。
アフタートークによりますと、オペラの影響から、“サロメ=妖艶で官能的”というイメージが世間ではすっかり定着しているのだそうです。
もっとも原作(福田さん訳)しか読んでいない私からすると、サロメという少女に妖艶で官能的なイメージをもったことはただの一度もなく、はじめから“純粋無垢”なイメージでした(原作からは妖艶なイメージは全く感じないです)。
なので、その新演出の見せどころには、私ははじめから特に目新しさは感じていませんでした。
言い換えれば今回の新演出、私と宮本亜門さんと平野啓一郎さん(翻訳)のサロメに対するイメージは、ぴったり合っていたはずなのですよ。

が、違いました。

なぜなら多部ちゃんのサロメ、たしかに“妖艶でないサロメ”ではありましたが、“それだけ”なのだもの。
わがままで、子供ゆえの計算高さと残酷性をもっている、その辺に沢山いる女子高生たちです。
彼女の「おと~さまぁ~」とわがままに甘ったるく話す話し方、渋谷の交差点に吐くほどいる頭がからっぽの女子高生のそれにしか聞こえませんでした。あれを“純粋無垢”とは言わない。
そもそも彼女からは、姫の“気品”が欠片も感じられないのです。どんなに堕落したなかにいようと、あくまで姫である以上、多少の“品”は滲み出ているべきでしょう(王妃役の麻実れいには、それを感じられました)。
本当に本当に「ふつうのイマドキの女の子」でした。
そうなってしまうとこの話、ものすごく安っぽいメロドラマにしかなりませんよ。
兄を殺してその妻を自分のものにした王が、その連れ子である年頃の娘に色ボケし、「領地の半分をやろう」とまで言い、彼女の言いなりになって預言者ヨカナーンを殺してしまう。
つまりサロメに振り回される王も、殺される預言者ヨカナーンも、ただの情けない男二人でしかなくなってしまうのです。
あれが多部ちゃんの演技力によるものなのか、亜門さんの指示によるものなのかはわかりませんが、もし亜門さんの演出なのだとしたら、やっぱり私の考えるサロメと彼の考えるサロメは全然違うものなのだな、と感じました。
まぁ一緒に行った友達2人は「よかった」と言っていたので、感想は人それぞれですが。

以上辛口レビューをしてしまいましたが、それ以外の部分はなかなか楽しめました。
現代的な家具や衣装も面白かったし、赤黒い血が流れてくる演出もとっても良かった。
ヨカナーン役の成河さんの声がちょっと安っぽかったけど(効果がかからない、素の声のとき)。
カーテンコールでの多部ちゃんのニッコリ笑顔もとても可愛かったです。おもわず「かわいい…」って呟いちゃった。

アフタートークのサロメの解釈や三島由紀夫についての話も、とても面白かった。亜門さん、トークがうまいねー。
ただサロメの解釈のときに成河さんが何度も「ちなみに原文ではこう書かれてあります」と“英文”を引用されていたのには、ひどく違和感を感じましたが・・・。
サロメの原文は仏語で、英語じゃないですよ。英語のものはサロメの英訳であって、そういう意味では和訳と同じで翻訳にすぎません。
細かくてすみませんが、気になったもので・・・。

翻訳者(平野啓一郎)×演出家(宮本亜門)から

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