風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

劇団民藝 『集金旅行』 @俳優座劇場(12月2日)

2021-12-09 14:26:26 | その他観劇、コンサートetc




2013年の初演いらい日本各地を巡演してきた傑作喜劇『集金旅行』が、いよいよ東京に舞い戻ってきます。「黒い雨」などで知られる井伏鱒二が1935年に発表した連作小説「集金旅行」を初めて舞台化。全国各地で190ステージを重ねて客席を笑いの渦に巻き込んできました。このたびのアンコール公演は、妖しげな色気をもつコマツランコ演じる樫山文枝と、自称「売れない小説家」ヤブセマスオ演じる西川明をはじめ、芸達者な俳優陣の練りに練った演技でお芝居の醍醐味を存分に味わっていただきます。また舞台は昭和初期、荻窪をふり出しに岩国、下関、福岡、太宰府、尾道、福山とまわって集金していきますので、猛特訓を重ねた古いお国ことばにも乞うご期待! 若き太宰治も登場して必見の好舞台です。
公式サイトより)


最近自分の比重がクラシック音楽に偏りすぎているように感じられ、無性に全く違うものを見てバランス修正をしたくなったので、行ってきました。劇団民藝の『集金旅行』。
いつも拝読している方のブログでこの公演のことが紹介されていて、面白そうだな~と。
俳優座劇場って初めて行きましたが、六本木駅の目の前なのに昭和な空気の漂う良い劇場ですね
1階席のみで、座席数300。後方からでも俳優さんの表情が余裕でわかる。劇場はやっぱりこれくらいの規模が一番いいな。

『集金旅行』は主演の樫山文枝さんが「おおらかで、人間を肯定している作品です」インタビューで仰っていたとおりの作品で、とても良かった。
井伏鱒二の原作は未読ですが(というか井伏鱒二自体が未読ですが)、今回の劇を見て、太宰治の『グッド・バイ』の空気と似ているなと感じました。内容も似ていますよね。恋愛関係にない男女がひょんなことから行動を共にするロードムービー的なコメディ。太宰の方は愛人達との縁切り旅、こちらは慰謝料&滞納家賃請求旅。
ワタシ、こういう空気の作品、好きなんです。神経質じゃなくて、のんびりしていて、情けなくて、逞しくて、でもどこか艶っぽさも感じさせる大人の小品。以前太宰の『グッド・バイ』が山崎まさよしさん主演でドラマ化されたことがあったけれど、あれもすごく好きだった。

荻窪のアパートとか、天沼に住む学生の太宰君とか、”売れない三流作家が住む中央線沿線”とか、志賀直哉や林芙美子の家のある尾道とか、この時代の文学好きのツボにはまる小ネタにも、ニヤニヤしちゃいました 小林多喜二の名前も出てましたね。

舞台セットも、素敵だった。
客席と舞台を歪な棒四本で枠のように隔てさせて、アパートの場面も、汽車の場面も、各地の旅館の場面も、葬儀の家の場面も、トタンの家の場面も、少ない装置と役者さんの演技だけで舞台上が別世界になる様を堪能しました。この役者の息遣いを肌で感じながら別世界を体験できるのは、小さな劇場ならではですよね。久しぶりに「演劇」がもつ本来の空気を感じることができた気がします。

役者さん達も、皆さん味があって素敵だった。
コマツランコ(七番さん←みんなアパートの部屋番号で呼び合っている)役の樫山文枝さんも、ヤブセマスオ(十番さん)役の西川明さんも、役にピッタリ。
五番さんの小杉勇二さんも楽しかったし、岩国の名士役の水谷貞雄さんも雰囲気がありながら軽みもあって素晴らしかったなあ。

最近心が疲れ気味だけど、おおらかで上質な大人なお芝居に、ひとときの癒しをいただくことができました。客席の空気もピリピリしていなくて、皆さん楽しそうで、コロナ禍になってからこういう雰囲気は久しぶりだったな。(言い換えると、狭い密空間で皆さんマスクはしつつも普通に笑い声をあげたり休憩時間に会話しているので、コロナ予防的には微妙なわけですが)。

劇団民藝、いい劇団だなあ。
でもネットで皆さんの感想を読んでいて知りましたが、この劇団が喜劇をするのは珍しいらしいですね。普段はシリアスな作品が多いとのこと。確かに次回の『レストラン「ドイツ亭」』も、アウシュヴィッツの話ですね。このアネッテ・ヘスの原作は今年出版されたばかりの小説で、こういう新作をどんどん舞台化している攻めの姿勢も素晴らしいなと思います。

また機会があったら観に行きたいな
普段は俳優座劇場ではなく、新宿の紀伊國屋サザンシアター(468人収容)で公演をされてるんですね。

十番さん(ヤブセマスオ・小説家) 西川 明
太宰 治(作家志望の学生)  塩田泰久 ※12/2(Wキャスト)
五番さん(富士荘の居住者・勤め人) 小杉勇二
七番さん(コマツランコ・職業不詳) 樫山文枝
香蘭堂(荻窪の地主・文具店) 今野鶏三
岩国の宿の女中 箕浦康子
杉山良平(岩国の金融業者) みやざこ夏穂
相原作之助(岩国の名士) 水谷貞雄
福岡の宿の女中 有安多佳子
ミノヤカンジ(下関の医者) 山本哲也
阿万築水(福岡の没落地主) 佐々木梅治
阿万克三の妻(築水の弟の妻) 河野しずか
紋付の男(広島・加茂村) 大野裕生
鶴屋幽蔵(加茂村の地主) 吉岡扶敏
津村家の番頭(広島・新市町) うちだ潤一郎





太宰が1936年11月~37年6月に下宿していた、天沼のアパート「碧雲荘」。
2012年に訪れたときの写真です。2017年に大分県由布院に移築され、跡地は高齢者福祉施設になりました。所有者の「更地にして土地を売りたい」という意思による結果だそうですが、明治村の漱石&鴎外の家もそうだけど、こういう家はその街にあってこそ意味があるのになあ…(もちろん壊されるよりは移築された方が100倍マシですが)。こういう点、数百年前の家々がその場所に普通に残っている&人々も残そうと努力しているロンドンが羨ましい…。
それでも荻窪とか三鷹とか阿佐ヶ谷とか中央線沿線は、まだかろうじて武蔵野の空気を残している良い街ですよね。阿佐ヶ谷にある谷川さんのお宅もとても素敵だし、三鷹にはジブリ美術館もあるし、もっと頻繁に行きたいエリアなのだけど、私の行動範囲からはあまりに不便で遠すぎる。私には京都や新大阪の方が体感的にずっと近いです。

【井伏鱒二、太宰治、小林多喜二…】東京、中央線沿線に住んだ作家たち
太宰治と荻窪 その1「太宰治が荻窪で過ごした下宿群 唯一残されたあの碧雲荘が売りに出た!〜特集・太宰治没後70年(前編)


©劇団民藝

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簑助さんが引退

2021-04-17 00:16:22 | その他観劇、コンサートetc

©国立文楽劇場(2005年)


人形遣いの吉田簑助さんが、今月の国立文楽劇場の公演を最後に引退されるそうです。

華やかで可憐で、胸が苦しくなるような魂の震えが伝わってくる簑助さんの人形が大好きでした。
舞台の上で簑助さんの人形だけが、他の人形とは違って見えました。人形遣いと人形が完全に一体となっていて、人形自身が魂をもって生きているようにしか見えない。「簑助さんが人形で、人形の方が本体なんじゃないかと錯覚させられる」と冗談半分に書かれている方がいたけれど、本当にそんな感じで、その舞台を観ていると、蓑助さんは人間としてよりも人形を通してご自身の人生を生きて来られた方なのではないか、と本気で感じたほどでした。その人形を前にすると、至芸という言葉も生温く感じられました。

私が簑助さんの舞台を観られたのは八重垣姫、小春、長吉、菊の前、おかる、桜丸、深雪、中将姫、雛鳥の9回だけでしたが、私の人生の中であの奇跡のような人形を観させていただいたことは大きな大きな宝物で、感謝しかありません。
81年間お疲れさまでした。そして、本当にありがとうございました。
写真は、私が初めて観た文楽の演目で、文楽というものの素晴らしさを衝撃とともに教えてくれた『本朝廿四孝~十種香の段』の八重垣姫です。

以下は、簑助さんのコメント全文。

 私、吉田簑助は、2021年4月公演をもちまして引退いたします。

 1940年、三代吉田文五郎師に入門し、人形遣いの道を歩みはじめて今年でまる81年。その間脳出血で倒れ、復帰してから22年、体調が思うにまかせないこともありましたが、曽根崎のお初も八重垣姫も静御前も再び遣うことが出来、人形遣いとして持てる力のすべてを出し尽くしました。

 今まで応援して下さったお客様、支え続けて下さった文楽協会、日本芸術文化振興会の方々、同じ舞台をつとめた太夫、三味線、人形部の方々、そして何より私の門弟たち、本当に感謝しています。お世話になりました。ありがとうございました。

 皆様、どうぞこれからも、人形浄瑠璃文楽を宜しくお願いいたします。

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嶋太夫さん

2020-08-26 21:17:37 | その他観劇、コンサートetc

嶋太夫さんが、20日にお亡くなりになったそうです。
私が初めて行った文楽で、「世の中にこんな世界があったとは」と大きな衝撃を受けた『本朝廿四孝~十種香の段』。
そのときの太夫が嶋太夫さんでした。八重垣姫を遣っていたのは簑助さん。
私が今も文楽を観続けているのは、あの舞台がずっと心に焼き付いているからです。
そして『帯屋』!至芸とはこういうものかと知った。
嶋太夫さんの温かく情感溢れる語りが大好きでした。

横浜能楽堂でご自身の生い立ちや文楽についてお話しされたときの少年のようなお顔も忘れられません。浄瑠璃が本当にお好きなんだなあとこちらまで笑顔になってしまった。立ち振る舞いもきっちりと美しくて、見ていてとても気持ちがよかったことを覚えています。

人が亡くなったときの常としてまだ実感が湧いていませんが、ご冥福を心よりお祈りいたします。

「弟子によく言うのは、何事にも『片寄りなさんな』ということです。恋愛もし、結婚もし、周りとのおつきあいも大切。ありきたりの人生の中に人間の情がある。情というのは人情だけではない。風が吹いても風情です。そういうものすべてが文楽の情の世界なんですよ」

豊竹嶋大夫インタビュー @KENSHO)



私が文楽の世界に出会った2014年2月国立劇場公演のチラシ。
写真は十種香の段の八重垣姫。

そういえば北野武監督の『Dolls』、冒頭で「封印切」の上演場面があって、その語りが嶋太夫さんなのだとか。
北野作品って実は一度も観たことがないのだけれど、観てみようかな。
"Dolls"というタイトルも文楽人形にかけていたりするのだろうか。
今思い出しましたが、玉男さんの襲名披露公演のときに北野監督からお花が届いていましたね。玉男さん(当時は玉女さん)も忠兵衛の人形遣いとして映画に出られているんですよね。

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『夜会VOL.20 リトル・ト―キョー』劇場版

2020-08-16 16:14:35 | その他観劇、コンサートetc




友人からチケットをいただいて、中島みゆきさんの『夜会VOL.20  リトル・ト―キョー』劇場版を観に行ってきました
17時からの回で、お客さんは5人くらいでした。
(ちなみにその2日後に『千と千尋の神隠し(再上映)』を観に行きましたが、そちらも客が12人くらいで、映画館つぶれちゃうんじゃないか…と心配になった。)
客席は客が少ないせいかコロナ対策の空調のせいか冷房がガンガンきいていて、上着を持って行ったので問題ありませんでしたが、おかげで自分が作中と同じ真冬の北海道のホテルにいるような感覚になれました(笑)
以下、感想を少しだけ。ネタバレありです。

夜会はいつも歌的にもストーリー的にも後半でぐわぁ~と波が押し寄せる展開が多いけれど、今回も例にたがわず。
第2幕の後半、「月虹」~「二隻の舟」~「放生」~「いつ帰ってくるの」~「放生」の流れが圧巻でした。特に全員で歌われる「二隻の舟」のエネルギーには言葉にならないもので胸がいっぱいになった・・・。ここは上に載せた劇場版の予告編でもメインに使われていますね。ここのみゆきさんと皆さんの歌唱と表情、素晴らしかった。そして改めて「二隻の舟」は名曲だ。

事前にあらすじを予習したときは海外にある日本人街のリトル・トーキョーとは関係のないお話なのかなと思っていたのだけれど、作中で歌われる「リトル・ト―キョー」の歌詞を聴いて、日本人街にも少し意味合いを重ねているのだな、と。
私は10代のときに初めて行った海外旅行先がロサンゼルスで、泊まったホテルのすぐ近くにあったリトル・トーキョーも散策しました。アメリカでの彼らの歴史をより深く知ったのは、その数年後にワシントンD.C.のアメリカ歴史博物館で日系人の歴史に関する展示を見たときでした(そういえば山崎豊子さんの『山河燃ゆ』、まだ読めていないなあ…)。
今回の夜会の「リトル・トーキョー」の歌詞を日本人街に重ねるなら、第一の故郷は日本の東京となる(夜会の中の話ではなく、あくまで日系人の話)。でもそこには帰れないから仮の場所を作る。ホンモノとは似ても似つかないものには違いないけれども、弱い者たちが身を寄せ合い、心を寄せ合い、今いる場所で生きていくために作りだした場所。一見儚いようで、でもたくましく強い、そこに生きる者達にとってはホンモノ以上にホンモノなこの世界での心の故郷。
そういう風に思うと、ホテル&パブ オークマの片隅に杏奴が作ったステージ「リトル・トーキョー」って、『橋の下のアルカディア』の橋の下のおうちのような存在ですね(帰ってくる人をそこで待つ者達の存在や、ささやかで温かな営み、ラストで家が崩壊してそこに住めなくなるのも、まっさらの場所から新たなステージへ再出発する点も同じ)。

先日『24時着00時発』を観返したときに「みゆきさんという人はカンパネルラではなく、なすべきことをなすために銀河鉄道からこの世界に戻るジョバンニなのだなと感じた」と書いたけれど、今回の『リトル・トーキョー』でも、やはりそう感じたのでした。
みゆきさんの使う「命」という言葉。命というのはこの世界に存するものでしょう。この世界に生きるあらゆる生き物にとって、「命」は一つきりであり、一度きり。そして「放生」とは命を死なせずに、閉じ込めずに、生きたままこの世界で解き放つ行為でしょう。彼らが幸せにこの世界で生きてゆけるように。それは幽霊として戻ってきた杏奴が、小雪やふうさんにした行為。また、杏奴との悲しい別れを乗り越て生きていかなければならない李珠やおいちゃん達にも向けられた想い。
でも、私達は当然ながら、いつか必ず死ぬ。命には必ず終わりがある。志半ばで倒れる人は多い。だからみゆきさんはこの「放生」という言葉に、本来にはないもう一つの意味も込めているのではないだろうか。ラストの「放生」のもう一つの意味、つまり「生からの解放」。私達は生まれ変わるために生きているわけではないし、生まれ変わるために死ぬわけでもないけれど、いつか必ず死すべき運命にあることは免れない(英語でいうmortal)。
でも命から解放された全ての魂にはゆくべき場所があるのだと、帰ることのできる故郷があるのだと。だから安心してこの世界で思いきり生きてきなさい、とみゆきさんは私達に歌ってくれているのではないだろうか。
それは「時代」から変わらず、繰り返しみゆきさんが歌ってきたもの。

ところで『リトル・ト―キョー』はネット上のレビューでは「かつてないほど”陽”の夜会」と多くの方が書かれているけれど、私はあまりそういう感じを受けなくて。一回だけしか観ておらず、”みゆき経験”が皆さんに比べて圧倒的に少ない私が感じたことなので全くアテにならない感覚ですが、見終わったとき、私は少しだけ「寂しい」ような感じを受けたのでした。これは、これまでの夜会では一度も感じたことがないものでした。決して暗い内容ではないし、それどころか救いがない中に救いを与えてくれる典型的なみゆきさんらしい作品なのだけれど、事前に想像していたより遥かにみゆきさんという人が「ストレート」に表現されているように感じられて、それは宮崎監督の『風立ちぬ』を観たときの感覚と似ていて。若い頃には作らなかった作品ではないかなと、今だから作った作品ではないかなと、どこか終わりに近い気配を感じさせる、そういう種類の気負わないストレートさ。そんな感覚を私は受けたのでした。だから最後に杏奴がキラキラとした光を残して空間に溶けて消えたときには、みゆきさんがこの世界でのなすべきことを終えて消えてしまったような錯覚を覚えて、泣きそうになってしまった。なのでその後のカーテンコールの元気な素のみゆきさんの姿にとてもほっとしたのでありました。

そうそう。「二隻の舟」の場面だったと思いますが、舞台中央で白いドレスのみゆきさんが座りながら歌う場面、客席側からどのように見えるかが考え尽くされていることがわかる完璧な美しさで、そういう常に客席からの視点を忘れない客観的な舞台作りに玉三郎さんや美輪さんを思い出しました。私はそういう舞台作りをできる人を尊敬してやまないのである。夜会は作品や歌唱に加えて、みゆきさんのそういう舞台に対する姿勢にもいつも感動してしまうのでした。

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みゆきさん、銀河鉄道の夜、24時着00時発

2020-08-04 17:54:13 | その他観劇、コンサートetc




2006年に行われた中島みゆきさんの夜会『24時着00時発』についての感想は当時こちらの記事で書きましたが、機会があって、とても久しぶりにDVDで鑑賞しました。
当時青山劇場で圧倒された空気が蘇って(DVDは大阪公演の収録ですが)息をのみつつ、あぁみゆきさんの声好き好き好きとキュンキュンなりつつ、あれから14年たって改めて色んなことを感じたりもしたので、覚書も兼ねて書かせてくださいませ。

ラストでジョバンニ姿のみゆきさんが『命のリレー』を歌う場面は私の最も好きな場面の一つですが、今回この作品を観て、改めてみゆきさんという人はジョバンニなのだな、と感じたのでした。
天上へ行くカンパネルラではなく、「どこまででも行ける」切符をもち、なすべきことをするためにこの世界へと戻るジョバンニ(もっともジョバンニは特別な選ばれた人というわけではなく、彼は銀河鉄道の旅を通じてそのことに気づいただけで、本当はその切符はこの地上に生きる私達皆が持っているものなのだと思う)。それは賢治自身でもある。

血の色は幾百
旗印の色は幾百 限りもなく

遥か辿る道は消えても 遥か名乗る窓は消えても
遥か夢の中 誰も消せるはずのない
空と風と波が指し示す天空の国
いつの日にか帰り着かん 遥かに

二幕。この『わが祖国は風の彼方』に続き、『帰れない者たちへ』→『月夜同舟』→『命のリレー』→『サーモン・ダンス』→『二隻の舟』→『無限・軌道』の流れが圧巻なのですが(当時の自分の感想を読んだら「周囲からすすり泣きが聴こえていた」と書いてありました)、夜会のテーマ曲でもある『二隻の舟』からは次の部分が歌われています。

風の中で 波の中で
たかが愛は 木の葉のように
わたしたちは 二隻の舟
ひとつひとつの そしてひとつの

おまえとわたしは 二隻の舟
同じ歌を歌いながらゆく 二隻の舟

ここの「わたし」とはみゆきさんで、そして「おまえ」とは私達のことなのではないだろうか。
私達、つまり”帰る場所をもたないたくさんの魂たち”へ、いつかきっと行ける遥か彼方のその場所に一緒に行こうと、(ご自分一人だけが行くのではなく)皆で一緒に行こうと。
そのためにみゆきさんは”ここ”にいて、歌を作り、歌ってくれているのではないだろうか。
そこには「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と言った賢治と同じように、「誰一人置いていかない」というみゆきさんの強い想いを私は感じます。

ここでアカリやサケ達が線路を切り替えるために転轍機を必死に探している場面は、『橋の下のアルカディア』で人見達が「緑の手紙」を探す場面に重なりました(ちなみに偶然でしょうが、小説の中のジョバンニの切符も「緑いろの紙」です)。『サーモン・ダンス』で「生まれ直せ」と力強く歌うみゆきさん。そう思うとあのアルカディアのラストも一種の輪廻転生と言えるのかもしれません。

生きて泳げ 涙は後ろへ流せ
向かい潮の彼方の国で 生まれ直せ

またこれは当時の感想にも書いたけれど、愛する人を救うために自分は他人であると宣言したアカリの行為は、ジョバンニや賢治の目指す生き方に重なります。そしてそういう生き方をすること(他人の幸福のために自らの想いや欲望を諦めること)は一見「自己犠牲」のように見えるけれど、実はそれは自らの幸福にも繋がっているのだと。それは魂の安らぎという意味からもそうですし、また輪廻転生という意味からもそうです。『24時着00時発』の最後の場面でアカリがプロのデザイナーとして幸福な人生を送っていることは、それを暗示しているのではないでしょうか。
それを静かに見送るアカリの「影」。少し寂しそうな、でも強い意志をもった眼差し。
これは「みゆきさん」その人なのだと思う。そして黒服を脱いで歌う再びの『サーモン・ダンス』(めっちゃ綺麗&カッコイイ)と、黒いマントの賢治から少年のジョバンニ姿に変わっての『命のリレー』(可愛い&圧巻&最高)。
そんなことを思い(私の勝手な妄想ですが^^;)、「みゆきさん」と改めて胸がいっぱいになってしまった、久しぶりの『夜会vol.14  24時着00時発』鑑賞でございました。
何百回でも書いちゃいますが、みゆきさんと同じ時代に生きることができた私は幸福です。

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Frankenstein | Free National Theatre Full Play

2020-04-29 00:44:31 | その他観劇、コンサートetc

Official Trailer | Frankenstein w Benedict Cumberbatch & Jonny Lee Miller | National Theatre at Home


ナショナルシアターライブの『フランケンシュタイン』が、英国時間?の4/30と5/1にyoutubeで各バージョンが無料ストリーミング配信されるとのこと
ジョニー・リー・ミラーが怪物でベネディクト・カンバーバッチが博士の方は昔映画館で観ていて、色々思ったことがあったはずなのだけど、それがなんだったのかが思い出せない やはりブログに書いておくことは大事ね・・・。

ナショナルシアターライブは以前は時々観に行っていたけど(ハムレットとかコリオレイナスとか)、叫ぶような台詞の言い方が苦手で最近は足を運んでいないのだけれど。
でもこの作品は、ラストの終わり方が好みだった記憶がある。あとベネディクト・カンバーバッチが怪物のバージョンの方も観てみたいなあと思っていたので、今回はそちらも観られて嬉しい 
一週間配信してくれるようなので、観るのを忘れないようにしないと。
というわけで自分用リマインダーとしてここに書いておきます。ブログって便利。

巣ごもり生活中に英語の勉強もしようと思っていたんだけどなあ。色々やることが多くて(主にネット配信を観ることだけど)、全然できていない。そしていつまでも上達しない。
ていうかこの無料配信、英語字幕あるのよね・・・?ないと結構キツイのだが。


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初春花形新派公演『日本橋』 @三越劇場(1月19日)

2019-02-17 02:50:26 | その他観劇、コンサートetc




だいぶ時間がたってしまいましたが、1月の舞台の感想を。※2列目中央
シネマ歌舞伎で玉三郎さん主演の舞台を観て以来、ぜひ生で観たいと思っていた『日本橋』。ようやく観られて嬉しかった。しかも日本橋で日本橋
生で観たいと思った理由の一つは、舞台のセットや設定の諸々がとても素敵だったから。それらはもちろん鏡花の原作(小説/戯曲)によるところが大きいのだけれど、地蔵尊の縁日とか、天秤棒をかついだ植木売りとか、桃の節句のあくる晩に栄螺と蛤を川に放す放生会とか、桜の枝を袖にのせた京人形とか、夜の生理学教室に祭られた雛人形とか。ああ大正…ああ鏡花…な世界にうっとりです。

「鏡花は、あの当時の作家全般から比べると絵空事を書いているようでいて、なにか人間の真相を知っていた人だ、という気がしてしようがない」

これは三島由紀夫の言葉ですが、鏡花の描く世界に「人間の真相」を感じる三島もまた、鏡花と同じくらいに純粋な部分をもった人だったのだろうなと思う。私達の生きる世界は決して美しいばかりではないけれど、少なくとも、こういう作品(三島は「天使的世界」という言葉を使っていますが)を生み出した鏡花という人がいたこと、その作品世界に惹かれる玉三郎さんのような人達がいること、そのこと自体に私は決して美しいばかりではないこの世界の美しさを垣間見せてもらえる気がするのです。

舞台は、高橋恵子さんの清葉が素晴らしかった
品、透明感、奥ゆかしさ、清らかに香る色気、芯の強さ。その姿も仕草も空気も清葉そのものに感じられて、彼女の存在だけで『日本橋』という物語が立ち上ってくるよう。

勝野洋さんの巡査も、生理学教室に雛を祭る葛木の行動を「自分の知らない別世界を見せてもらった」とお孝に語るところは、本当に感銘を受けているのだなあということが伝わってきて、ちょっとじぃんとしてしまった。いい場面だなあ、と。

春猿さん改め雪之丞さんのお孝は、決して悪くはなかったのだけれど、玉三郎さんと比べると意地を通す女の可愛らしさのようなものがあまり感じられず。。纏う空気が健全すぎるのかな。。鏡花の台詞や仕草を美しく感じさせるゆったりとした間のようなものがあまりなく、現代的に感じられてしまったのも残念でした。雪之丞さん、好きな女形さんなんですけどね。

緑郎さんの葛木も決して悪くはなかったのだけれど、どころか結構よかったのだけれど。お孝に対する優しさや愛おしさが感じられて。雪の橋をお孝と二人相合傘で歩いてくる場面なんて、二人の雰囲気が本当に素敵で、切なくて、泣きそうになった。のだけれど。『婦系図』のときと同じく鏡花の登場人物にしては演技が少々逞しすぎる(熱すぎる)ような気がするのよね・・・。今回の席は最前列だったのでめちゃくちゃ目の前で熱演を見せてくださって、何度も目が合う錯覚もさせてくださって、カテコも爽やかだったので、悪く書きたくはないのだけれど。。

最前列といえば、火事のシーンの前に下手の舞台裏で待機している役者さん達(火事で騒ぐ役の人達)がずっと普通の声で話をしているのが客席に聞こえてしまっていて、今の時代は役者もマナーをキチンとしないとダメでしょうよ、と思ってしまった。この緩さも新派の魅力というわけでもないでしょうに。

ところで、葛木がお孝に対して「葛木晋三の妻となろう者がなぜ熊の如き男を弄んだ」と吐き出す場面(小説になく戯曲にだけある場面)、葛木と出会う前からの関係を今更責めても仕方がないでしょうに、と以前は思ったのだけれど。
彼は伝吾を弄んだお孝を責めているというよりも、妻子も人としての誇りも何もかもを捨てて土下座をしてお孝から手を引いてくれと泣き縋る伝吾の姿に、呆然とし、やりきれない気持ちになってしまったのだろうな、と。お孝のために妻子を捨てた伝吾、伝吾を弄んだお孝、お孝と恋仲である自分。そんな浮世が嫌になり、かねてから考えていた姉を探す巡礼の旅に出ようと思った。お孝のことを嫌いになったから離れたいわけでない(葛木は伝吾に「私にきっぱりと『女と切れない』と言わせてくれ」と言っている)、でも共にいることはできなくなってしまったからこその、あの狂おしいまでの「口惜しい、残念だ」なのかな、と。この場面の緑郎さんは叫びすぎ&悶えすぎに感じられたのだけれど、おかげでそういう葛木の心情の流れが理解できたような気がするのでした。
とはいえお孝の元にあんな危険人物を残して自分だけ旅に出るってどうなのよ、とは思いますがね。葛木のような人間に「いやそこは心を強くもってお孝のために残ろうよ」というのも酷なのでしょう。葛木のそういう純粋すぎる弱い部分もお孝は愛したのでしょうし。

でも観終わって不思議と心に残るのは、葛木&お孝と同じくらいかそれ以上にお孝&清葉の関係であり生き様なのよね。結局この舞台は、誰が主人公という見方をしない方が面白いのかもしれない。
演出の齋藤雅文さんが会見で仰っていたように「笠原信八郎のような無骨な登場人物さえ、純粋な魂の持ち主です。そのような人たちが、日本橋の上で出会い、別れることにより、転落する人、成功する人、狂気に陥る人、殺人を犯してしまう人、それを背負って生きていく人もいる。人生のさまざまなバリエーションをみせています。」と。
そんな浮世の、人間のどうしようもなさ、やるせなさの全てを浄化するような清葉の笛の音。

また新派で鏡花ものがかかるときは観に行かせていただきます
玉さまもまた鏡花の演出をしてくださらないかなあ。玉さまの鏡花作品の演出がとても好きなんです。『外科室』のような短編映画ももっともっと観たい。

劇団新派の取材会レポート! 泉鏡花の悲恋物『日本橋』に喜多村緑郎、河合雪之丞、高橋惠子らが挑む
新派『日本橋』喜多村緑郎、河合雪之丞、高橋惠子に聞く悲恋の先に描く世界

三越劇場 初春花形新派公演 『日本橋』ダイジェスト公開




先日訪れた小石川植物園にて。
鏡花をはじめ多くの文豪にゆかりの場所
次は『外科室』と同じツツジの季節に来たいな。


園内にある旧東京医学校本館。
東京大学の前身である東京医学校の施設として明治9年に本郷キャンパス鉄門の正面に建てられ、明治44年に赤門わきに、さらに昭和44年に現在の地に移築されたそうです(国指定重要文化財)。
葛木もこういう建物で研究していたのでしょうか


ずっと我慢していたのに結局手に入れてしまった『日本橋』の初版復刻版。
雪岱の装幀が好きすぎて我慢できなかったの。。




表見返し(春・夏)


裏見返し(秋・冬)
上下の赤い帯は屏風絵のように見せる効果があるのですって
昔の本の装幀はほんっとうに素敵ですよね。もっと欲しくなってしまうけれど、この辺でガマンガマン。

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2月文楽公演 『鶊山姫捨松』『壇浦兜軍記』 @国立劇場(2月8日)

2019-02-10 04:13:03 | その他観劇、コンサートetc




ひさしぶりの文楽。第三部に行ってきました。

【鶊山姫捨松(ひばりやまひめすてのまつ)~中将姫雪責の段~】
幕が開くと、雪の庭に紅梅と白梅。空から降る雪。
私の好きな”雪のお芝居” 文楽の舞台って本当に綺麗。。。。。
同じかしらなのに性格が異なるのがちゃんとわかる桐の谷(一輔さん)と浮舟(紋臣さん)。

後半は舞台が変わって、雪の庭での中将姫の雪責め。
中将姫(簑助さん)が上手袖からよろよろのていで登場した途端に、舞台の空気が一変する。というより、中将姫の人形の周りだけ空気がはっきりと違う。人形が「生きている」。
毎度経験していることながら、登場の瞬間からこれだけのものを観させられてしまうと、改めて簑助さんという人形遣いの特別感を痛感しないではいらない。この「まるで生きているような」人形の動きを他の人形遣いさん達はしたくてもできないのか、敢えてしていないのか、それがいまだに本当にわからないのです。それくらい簑助さんの人形だけが全然違う(そういえばyoutubeで観た先代玉男さんの人形も、同じように「生きている」ようだったな)。

簑助さんの人形って、息遣い(その呼吸もただ規則的なんじゃないの…!)だけでなく、あらゆる動きが驚くほど自然なんですよね。「まるで人間みたい」というのともちょっと違って、「人形自身が魂をもって生きているよう(人形遣いの魂が人形に入っているよう)」に感じられる。何かにはっと反応する動きの表情とか、あまりに自然な感情が感じられて、いったいどういう風に遣うとこうなるのだろうと(しかも三人で!)。
これは簑助さんの人形を見ていていつも感じることなのだけれど、たとえば上演中に突然火災報知器などが鳴ったとして、その瞬間に簑助さんの人形だけは人形が反応するのだろうなと。他の人形達は反射的に人形遣いさんだけが反応するのではなかろうかと。実際にどうであるかは別にして、そういうような違いを感じさせるのです。人形遣いの心と人形の体が乖離していないから、人形遣いと人形が一体になっているから、人形のどんな動きも自然で、不自然な動きが一つもない。こういうものを前にすると至芸という言葉も生温く感じられてしまう。
加えていつも素晴らしいなと思うのは、ただリアルに演じているだけではなくて、型として魅せる華やかさがあること。
姫の健気さ、可愛らしさ、凛とした意思の強さ、清廉さ、透明感。のレベルが物凄いがゆえの神々しさ。
簑助さんの芸って本当に唯一無二だ。。
そして簑助さんご自身はいつも無表情なのだけれど、人形が可愛くて仕方がないのだろうなあという愛情も伝わってくる

靖太夫さん(前半)&千歳太夫さん(後半)、よかったように思います。玉也さんの父ちゃんも温かい感じが出ていてよかったな

【壇浦兜軍記(だんのうらかぶとぐんき)~阿古屋琴責の段~】
特設サイトのインタビューで勘十郎さんが「阿古屋」をー_ _と発音されていて、津駒太夫さんは_ーーと発音されていて(浄瑠璃の中の発音もこっちですね)、なんだか人形遣いさんと太夫さんの違いのようなものを感じて面白かったです。

中将姫の強い余韻が残るなか阿古屋は少々ぼんやり気味で観てしまったのだけれど、勘十郎さんの阿古屋は切なさはあまり感じられなかったけれど、凛とした空気はいいなあと思いました。
そもそも私はいまだこの演目に切な系の感動をもてたことがなく。。歌舞伎で玉さまの阿古屋も観ているのだけれど。やっぱり歌の言葉の意味をもう少ししっかり勉強しないとなのだろうなあ。。
そのせいもあり私にはどうも人形が楽器を弾いている姿というものは見ていてそれほど楽しいものではなく・・・(床と手の動きがリンクしているのは凄いと思ったが)、それよりは床近くの席から人間の実際の楽器の演奏を間近で見て&聴いている方が楽しく感じられてしまって、演奏中は殆ど床を観ていたという邪道な観客になっておりました。小劇場は歌舞伎座よりも音の響きが美しいですねえ
胡弓の演奏をあんなに間近で観た&聴いたのは初めてではなかったかしら。でも感動という意味では、中将姫で裏から流れてきた胡弓の使い方の方がしっとり泣いた。ということは、やっぱり私はまだ阿古屋という演目からそういう種類の感動を得られる域には達せていないということでしょう。

三曲を担当された寛太郎さんが琴などの楽器を弾いてるときも、伴奏で清介さん達の三味線が入ってきて、その合奏が楽しかったです。
そういえば三味線の寛治さん、昨年9月に亡くなられたのですよね。89歳とのことなので大往生ではあられますが、清治さんとはまた違うタイプの豊かな表情の音色の方だったなあ。太夫の声はもちろんだけれど、三味線弾きさんも亡くなられるともう同じ音色は聴けなくなってしまうのだな、と当たり前のことを今更ながら感じたのでありました。寛太郎さんは寛治さんのお孫さんなんですね。

そうそう、一年半文楽から離れているうちに、咲甫太夫さんが織太夫さんになられていた。今回は重忠をご担当。でもやっぱり私はちょっと苦手でした。。

幕間に小腹が空いたので劇場の売店で杏の砂糖がけを買ってみたのですけど、美味しかったです





特設サイトより。昨年11月の文楽劇場のお写真。




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文楽地方公演『曽根崎心中』 @神奈川県立青少年センター(10月8日)

2017-10-15 01:52:28 | その他観劇、コンサートetc



先週末に行ってきました。
文楽の曽根崎心中は3年前に同ホールで観ているので、二度目です。席は4列目中央、3400円也。やっぱり前方席はいいね~。

3年前は玉男さん(当時は玉女さん)の徳兵衛&和生さんのお初ちゃんのカップルで見て、二人の間の恋にきゅ~ん(>_<)❤と心臓を掴まれたワタシ。今回はそういう感じは薄かったのですが、また違った感じで、それはそれで興味深かったです。

勘十郎さんのお初ちゃんは、生玉社前では普通の若い女の子に見えて、それが天満屋でどんどんあちらの世界に近づいていって、天神森ではもう迷いなくあっちの世界を見ているように見えました。両親との別れは悲しくはあるけれど、死なないつもりは微塵もない。
いつも思うけれど、勘十郎さんの人形って、斜め上を見上げる角度(上のポスターのお初ちゃんの角度)のときに独特の澄んだ空気を纏うように感じます。今回も天満屋以降どんどんそういう空気を感じました。

清十郎さんの徳兵衛は、男らしさも垣間見えた玉男さんの徳兵衛と比べ、「騙されてもう生きていけない。死ぬしかない。え、初も一緒に死んでくれるの。嬉しいな。じゃあ一緒に死のう」という感じの徳兵衛に見えました笑。自分で精いっぱい気味で、お初ちゃんにちゃんと愛情はあるのだろうけど、彼女のことを考える余裕はないような。ナヨいというか、ちょい自分勝手気味に見えてしまった(そして天神森に来てようやくお初を死なすことに躊躇する)。玉男さんの徳兵衛はもしかしたら初のような子が恋人じゃなければこの人は死ぬことにはならなかったんじゃないかと感じたけれど、清十郎さんの徳兵衛は一人でも死んじゃいそう笑。ある意味リアルで、これはこれでアリかも。

床は全体にちょっと情感が薄く感じられたような、、、。津駒太夫さんの九平次@天満屋が楽しかったです。

3年前はこれに『道行初音旅』がついていたのでお得感は減りましたが、曽根崎だけでしっとり終わって帰るのもいいですね。

本編前の解説は希太夫さん。3年前もそうだったみたいなのだけど、あまり記憶がない 。希太夫さん、解説うまいな~。とてもわかりやすかったですし(「曽根崎は今の大阪駅から徒歩10分くらいの場所で~」とか)、お声も通って聴きやすかったです。そして伝統芸能の方って皆さんそうですが、仕草がすっきりと美しかった。見習わなければ、と思ってしまいました。そして今更ですが「とくべえ」のアクセントって_  ̄  ̄ _なのね。

開演前にロビーで文楽人形と一緒に写真を撮れるサービスがあったのですが、私はガラケーなので・・・・・。しかも人形は深雪ちゃんだったのに・・・・・
気を取り直して皆さんが撮影されている様子を近くで眺めていたのですが、お人形の動きが一瞬簑助さんのそれに見えて吃驚
スタッフの方に「あの人形遣いさんはどなたですか」と聞きたかったのだけど、皆さんお忙しそうで断念。帰宅後にネットで調べたところ、簑紫郎さんという方でした。私より一歳上で、簑助さんのお弟子さんとのこと。勘十郎さんも簑助さんのお弟子さんだけど動きにあまり似た感じは受けないのに、面白いなぁ。清十郎さんも簑助さんのお弟子さんですね。


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9月文楽公演 『生写朝顔話』 @国立劇場(9月5日)

2017-09-15 00:39:38 | その他観劇、コンサートetc




今月は夜の部(勘十郎さんのキチュネ)が圧倒的な人気のようですが、私は昼の部の方に行ってきました。しょううつしあさがおばなし。

今回なにより面白く感じられたのは、前・中・後と3人の人形遣いさんが遣った深雪(朝顔)ちゃん。
いやあ、3人とも全然違う笑。ほとんど別人28号。作品の一貫性という点ではどうかわかりませんが、私はなかなか楽しかったです。

深雪ちゃん No.1 一輔さん(宇治川蛍狩りの段、明石浦船別れの段) 
まだ苦労を知らない初心な、でも何気にしっかり肉食系で思い込み激しくて一直線な、文楽あるあるなお姫様。一輔さんの遣う若い女の子は好きです。
「明石浦~」は寛治さんの三味線の豊かな響きに聴き入った

深雪ちゃん No.2 簑助さん(浜松小屋の段) 
路頭に迷い、今やすっかりやつれきってしまった深雪ちゃん。泣きすぎて目も見えなくなってしまいました。
もう登場からお見事なまでのやつれっぷり。でも可憐なの。簑助さんの深雪ちゃんの健気さ、育ちのいい素直さ、一途さ、哀しみ、、、、ああもう好きすぎて言葉が浮かばない
そしていつもながら簑助さんが遣うと人形が物に見えない。人形遣いの体と一体に見えるというか、人形遣いの魂の一部が人形に入っているように見えて、目が離せなくなる。小屋の影から顔や体の一部が覗いてるだけでもその息遣いや想いが強く伝わってきて胸が苦しくなるって、どんだけすごいの。全然大袈裟な動きはしていないのに。初めて文楽を観て嵌ってしまった簑助さんのあの十種香の八重垣姫の後ろ姿を思い出しました。
深雪が崩れ落ちて簑助さんの袖に震えてもたれ掛かるように見える体勢になったとき、なんだか泣きそうになってしまった。簑助さんと人形の結びつきの強さのようなものが、簑助さんの人形に対する深い深い愛情のようなものが伝わってくるように感じられて。簑助さんにとって人形ってどういう存在なんだろう。


そんな儚さと切なさいっぱいな深雪ちゃんにほろりとしていたのに―――


深雪ちゃん No.3 清十郎さん(宿屋の段、大井川の段) 
阿曾次郎(玉男さん)逃げて~!今この子に捕まったらもう二度と逃れられないわよ~!と本気で思った深雪ちゃんNo.3。靖太夫さんの激しい語り(@大井川)と共に。
あんなに可愛らしい顔で全くの躊躇なく、目の前で死につつある爺さんの生き血を飲んじゃう深雪ちゃんNo.3(てか生き血って切腹までしなきゃダメなの)。そしてその姿に全く違和感を覚えさせない深雪ちゃんNo.3。
事前にストーリーを調べていたときにサイコスリラーだとか散々な言われようだった深雪ちゃんだけど、実際に最初から半通しで観たら想像以上であった。阿曾次郎が割とふつうっぽいだけに一層。でもそんな文楽が私は好き(オリジナルは歌舞伎だけど)。
これだけすれ違いで引っ張っておいて最後までそのままな幕切れにも吃驚だったけど(そんな文楽が好き)、たとえひしと抱き合うラストシーンを見られたとしても純粋に「お二人さん、おめでと~!」と思えたかどうか。阿曾次郎の未来を思うと。そんな深雪ちゃんNo.3、清十郎さんも楽しかったけど、簑助さんでもすんごく見てみたかった。2011年にやってらっしゃったのね…。

和生さんの乳母浅香もとてもよかったなあ。こういう品のあるしっかり者の役が本当にお似合い。深雪お嬢様を守るために人買を一人でぶっ殺しちゃうくらい強いの。自分も深手負って死んじゃうケドね…。簑助さんとのペアって珍しい光景のような気がしたけど、どうなんだろう。「浜松小屋」の浅香、切なかった。清治さんの三味線の音色とともに。
一方呂勢太夫さんの語りは少々さっぱりめに感じられたかな。個人的にはもうちょいコッテリの方が好みです。休憩時間になった途端に「こんなんじゃ全然泣けない!」と大声で話していたおば様がいらしたけど、そんなに言うほど悪くも感じなかったけどなぁ。人形と三味線が良すぎただけで。私は全体で今回一番感動したのは浜松小屋の段でした。

「笑い薬の段」の勘十郎さん(萩の祐仙)。おお、こういう笑いをとるお役も上手いんですね!やりすぎると下品になりそうなのに、そうならないところが素晴らしいわ。ぱこって茶釜に蓋をする仕草がイチイチ楽しい
咲太夫さんの飄々とした自然な語りも味があったのだけれど、笑い声にお元気がなかったのが心配です。。。だいぶ痩せられていたなぁ。。。

この作品、ずーっと夜や薄昏の場面で、舞台が明るくなるのは笑い薬の段&宿屋の段とラストだけなんですね。睡眠注意な作品(でも今回は暗い段の方が眠くならなかった)。そして宇治川、明石浦、大井川と、水辺の場面が多いのね。文楽の屋外の風景は好きなので楽しかったです。宇治川と明石浦の船はどちらも上手に置かれていて、浜松小屋も上手だったので、このお話は上手の席の方がお得なのかも。私は下手寄りの6列目でした。でも浜松小屋の深雪ちゃんの顔はよく見えました(上手に立って下手側に顔を向けるから)。

次回の文楽は、地方公演の曽根崎心中(勘十郎さんのお初ちゃん♪)の予定です。

そうそう、開演前に「本日は記録映像を撮っています」というアナウンスがあったのだけど、「映像を撮るのにどうして舞台に向かってマイクがないんだろう?」としばらく本気で考えてしまった 。私には文楽人形は話しているようにしか見えない。



国立劇場特設ページより。初日の深雪ちゃんNo.1


深雪ちゃんNo.2。「浜松小屋」が東京でかかるのは20年ぶりだそうです。


深雪ちゃんNo.3


※吉田簑助 「千秋楽ごとに、この役を遣えて幸せだったと感謝しています」



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