風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

織田作之助 『アド・バルーン』

2009-02-24 16:52:44 | 



しかし今ふと考えてみると、私が現在のような人間になったのは、環境や境遇のせいではなかったような気もして来る。私という人間はどんな環境や境遇の中に育っても、結局今の自分にしか成れなかったのではないでしょうか。

(織田作之助 『アド・バルーン』)


こういう言葉をたんたんと書くところが織田作の魅力ですよね。
「ふと」は織田作がよく使う言葉で、その主人公たちは、場の雰囲気や人間関係の中で、「ふと」何かを考え、「ふと」びっくりするほど重大な決断をしてしまったりする。
アド・バルーンのようにふわふわと心もとないその生活は、周りの様々な要因にもよるけれど、なによりそんな彼らの性格と無縁ではない。
無一文になって死ぬしかないような極限になっても、そこにじめじめとした悲愴感がないのも、同じ理由でしょう。

読み終わって印象に残るのは、人生の意味がどうとかいうよりもまず、なにはともあれ彼らが一日一日を生きているということ。
世間にもまれて、誰かを想ったり憎んだりしながら、希望を持ったり挫折したりしながら、お金を稼いだり失ったりしながら、大きな事件があろうとなかろうと、とにかく今日一日を生きているというその事実。
もしかしたら、何よりたしかで単純なその事実こそ、「人生とは何ぞや」という複雑な問いへの、ひとつの答えとなるのではないでしょうか。
織田作の作品が、無頼派の中で一番生活の匂いや温度が感じられるのは、やっぱり大阪の出身ということが関係あるのでしょうねー。

無頼派の作家達は、その呼称や自滅的な生き方のせいか、反世間的・破滅的な面が強調されすぎている気がするけれど、ある意味では、誰よりも「まっとうな」人たちだったのではないかと思う。
その作品の奥に見えるまっとうな優しさに、私はなにより惹かれるのです。

ハローワークへ行ったら1名の募集に100名以上の応募なんていう天文学的な現実にげんなりしつつ。
ごちゃごちゃ頭で考えて立ち止まっているよりは、まず手足を動かしてみる。
ふわふわふわふわ流れながらも今日を生きる生活の”味”を思い出させてくれる、織田作なのでした。

菜の花の写真は、前の職場の友達が送ってくれたもの(^_^)

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太宰治 『人間失格』

2009-02-17 03:14:26 | 

こんばんは^^
「会おうよ~。どうせ仕事してないんでしょー?」と失礼なことを言う友達に、「うん。一生したくないんだけどどうすればいいかなぁ?」と真剣にきいたcookieです。

今年は、太宰治の生誕100周年だそうで。
例の風邪でまともなご飯も食べられず、外出もできなかったこの一週間、ベッドの中で『人間失格』を再読。
戦後の売上累計部数1位の座を漱石の『こころ』と何十年も争っているという、太宰の代表作。
前に読んでるし、気軽によもう~と読み始めたのですが。
、、、うーん、やっぱりキツいですねぇ、これ。。
吐き気と胃痛が悪化しました(笑)

ですが数年ぶりに読んで前回とちがうものも沢山感じたので、自分用にメモしておきます。
以下、長いのでご興味のある方だけどうぞ~。


作品全体の構成は、小説家“私”による「はしがき」「あとがき」にはさまれる形で、ある男性“自分”による「第一の手記」「第二の手記」「第三の手記」が年代順にならびます。
「はしがき」で読者の“その男”に対する興味を十分に引きだし、はじまる「第一の手記」。
その一行目が、こちら。

恥の多い生涯を送って来ました。
自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。


しょっぱなから、もうおもいきり「ダザイ」です。
好き嫌いはともかく、この強烈な個性はやっぱりすごい。
こういう大仰さは、太宰嫌いにはナルシー全開に感じられて耐えられないのでしょうが、強烈なタイトルと同じく、太宰は冷静に狙って書いているとおもいます。
太宰の作品をあまり深刻に捉えないで、気楽に読むと面白いかもと私が感じたのもこういうところでした。
もっとも、言わんとしていることは偽らざる真実でしょうが。。

さて。
この作品の主人公葉蔵は「人間」がわかりません。
もちろん彼自身、生物学的にはまぎれもない人間だし、また「人間とは何か」などという問題は追究すれば誰にだってわからないものだけれど、葉蔵にとって自分と周りの人間の感覚はあまりに異なって感じられるので、その問題を考えないではいられない。
つまり、彼が「人間」について考えるとき、その視点は「自分」と「自分以外の他者」ということになる。
彼は(自分以外の)「人間」の本性がどうしても理解できず、その不気味さに怯え、おそれ、ときに嫌悪する。
「自分ひとりまったく異なっているような不安と恐怖」に苦しみつつ、「人間」になじみたいという希望も捨てられない。
そんな彼が、少年の頃に編みだした方法が、「道化」を演じることだった。

 それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした。おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合
いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサーヴィスでした。
……
自分には、あざむき合っていながら、清く明るく朗らかに生きている、或いは生き得る自信を持っているみたいな人間が難解なのです。人間は、ついに自分にその妙諦を教えてはくれませんでした。それさえわかったら、自分は、人間をこんなに恐怖し、また、必死のサーヴィスなどしなくて、すんだのでしょう。

葉蔵は、少年・青年期の太宰そのものといえます。

世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。……
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)

あるとき「世間とは個人じゃないか」と気づいた彼は、「世間」という幻影から解放され、いままでよりは世の中を恐れずに生きていけるようになります。
ですが、そのまま「世の中恐れるに足らず♪」というふうに、うまくいくはずがありません。
たとえ幻影からは解放されても、「人間」をおそれている彼にとって、そんな人間の集合体である「世間」がおそろしくないわけがないのです。

自分にとって、「世の中」は、やはり底知れず、おそろしいところでした。

世の中のみんな、多かれ少なかれそんなもんだ。
他人のことがわからないのも、自分を演じているのも、傷つくのが怖いのも、案外、みんなおなじ。
そんなことはもちろん太宰にだってわかっている。
だがその事実も、彼の本能的な人間への恐怖心を消してくれはしない。
キリスト教の神でさえ、彼にとっては救いではなく、恐るべきものになってしまう。

「お父ちゃん。お祈りをすると、神様が、何でも下さるって、ほんとう?」
 自分こそ、そのお祈りをしたいと思いました。
 ああ、われに冷き意志を与え給え。われに、「人間」の本質を知らしめ給え。人が人を押しのけても、罪ならずや。われに、怒りのマスクを与え給え。
「うん、そう。シゲちゃんには何でも下さるだろうけれども、お父ちゃんには、駄目かも知れない」
自分は神にさえ、おびえていました。神の愛は信ぜられず、神の罰だけを信じているのでした。信仰。それは、ただ神の笞(むち)を受けるために、うなだれて審判の台に向う事のような気がしているのでした。地獄は信ぜられても、天国の存在は、どうしても信ぜられなかったのです。
「どうして、ダメなの?」
「親の言いつけに、そむいたから」
「そう? お父ちゃんはとてもいいひとだって、みんな言うけどな」
 それは、だましているからだ、このアパートの人たち皆に、自分が好意を示されているのは、自分も知っている、しかし、自分は、どれほど皆を恐怖しているか、恐怖すればするほど好かれ、そうして、こちらは好かれると好かれるほど恐怖し、皆から離れて行かねばならぬ、この不幸な病癖を、シゲ子に説明して聞かせるのは、至難の事でした。……



太宰の死後、志賀直哉との対立について、尾崎一雄が「志賀直哉は志賀直哉、俺は俺、と何故腹を据えることが出来なかったのか・・・・・・」と語ったというけれど、太宰にはそれは無理だったろう。

太宰の作品を読んでいると、太宰の中で他人は、「自分にとってどういう人間か」という観点からしか存在していないように感じる。
この世界では、自分も世間の人間も、みんな同等の存在だ。自分が生きているのと同じように、みんな一人一人がそれぞれの人生を生きていて、その人生は自分以下でもなければ、自分以上でもない。
けれど、太宰はすべてが極端に自分中心で、他人の存在を客観的に見ようとしていない。というより、見ることができない、というべきか。
自分を傷つける人か、傷つけない人か、自分を評価してくれる人か、自分を捨てない人か――。
もしたった一度でも太宰が心の底から「自分の全てを捨てて誰かのために生きる」という感情を持てたなら、人間もこの世界もさほど怖いものではなくなったろうに、と思う。
けれどそういった他人への献身も、根本に自分に対する自信、「自分の存在が他人を幸福にしうる」という自信がなければなし得ない。
そんな自信は、もちろん太宰にはなかった。

不幸。この世には、さまざまの不幸な人が、いや、不幸な人ばかり、と言っても過言ではないでしょうが、しかし、その人たちの不幸は、所謂世間に対して堂々と抗議が出来、また「世間」もその人たちの抗議を容易に理解し同情します。しかし、自分の不幸は、すべて自分の罪悪からなので、誰にも抗議の仕様が無いし、また口ごもりながら一言でも抗議めいた事を言いかけると、ヒラメならずとも世間の人たち全部、よくもまあそんな口がきけたものだと呆れかえるに違いないし、自分はいったい俗にいう「わがままもの」なのか、またはその反対に、気が弱すぎるのか、自分でもわけがわからないけれども、とにかく罪悪のかたまりらしいので、どこまでも自(おのずか)らどんどん不幸になるばかりで、防ぎ止める具体策など無いのです。


太宰の人生は『人間失格』の葉蔵どころではない。
「恥の多い生涯」なんてことばではとても片付けられない。
だが、そんな傍から見て身勝手きわまる行動を繰り返す一方で、彼は相当なさびしがり屋だった。
2度目の妻石原美知子との結婚の際、井伏鱒二が書かせた誓約書に太宰はこう書いている。
「私は、私自身を家庭的な男と思つてゐます。よい意味でも、悪い意味でも、私は放浪に堪へられません。誇つてゐるのでは、ございませぬ。ただ、私の迂愚な、交際下手の性格が、宿命として、それを決定してゐるように思ひます。……」
“家庭的な男”とはよくもまあぬけぬけと…と思うけれど、放浪に堪えられないというのは本当でしょう。精神的な意味だけじゃなく、日常生活でも行き慣れている場所以外には決して行こうとしない人だったといいます。
彼の行いは多くの人を傷つけたけれど、彼自身もまた、傷ついていた。
度重なる恋愛・心中事件も、その経緯を見ていると、どれだけ相手や奥さんの気持ちを考えているのかと腹立たしくなるけれど、太宰は、大戦末期、知人に(悲愴に近い表情で)こんな風に言っていたそうだ。
「おれはね、かつて一度も、人を愛したことがないんだね。唯の一人も、愛していないんだ。もともと、おれには、愛する能力が欠けているんだね。そのことを考えて、恐怖の想いに撃たれて、寝られないことがあるんだ」……


プライドが高くて、自分の気持ちだけで精いっぱいで、人をこわがり、人を愛したくて、人間に対する最後の求愛の手を必死に伸ばす太宰。
弱さは免罪符にはならないし、苦しいのは彼だけじゃない。
それでも、その身勝手なふるまいに腹立たしくなりながらも、問いかけずにいられなくなるのだ。
『人間失格』の表現を借りれば、
神に問ふ。弱さは罪なりや・・・?と――。

太宰の伝記『桜桃とキリスト』の中で、著者の長部氏は言う。

 いま「自分探し」という言葉が流行っているけれども、自己の内部を探って行けば、いつか、どこかで、本当の自分が見つかる……などということはあり得ない。
 自分にとって望ましいアイデンティティーというのがあるとすれば、それは他者との関係との対応の仕方において、試行錯誤を繰り返しつつ、地道な努力を重ねて、こつこつと築き上げ、創り上げて行くしか、ほかに道がないものだからである。
 自他の関係が、おおむね一方通行に終わる『人間失格』は、読者をそのような思考と想像力に導いて行く契機に乏しい。……極論をいえば、ドラマを成立させるのに、きわめて重要な真の「他者」が、ここには存在しない。


そんな作者の苦悩が、愛憎入り混じって多くの人を惹きつける太宰文学の魅力のひとつなのは明らかだけれど、『お伽草子』のような優しいユーモアあふれる作品を読むと、そして座談会での「最近すこうしひとを書けるようになったのです」という太宰の嬉しげな言葉を思うと、どうにかならなかったのかなぁ・・・と、やっぱり思ってしまうのです。
乗り越えて、長生きした、そんな太宰の本当の「晩年」の作品というのも、やはりとても読んでみたかった気がします。 

最後に、『人間失格』から。
相手の気持ちを考えてる?と言いたくなる部分はかわらずだけど、太宰が愛する人へ向けた(太宰はちゃんと人を愛していたと思う)、精一杯の、やさしい祈りの言葉です。
太田治子さん(『斜陽』のモデル太田静子と太宰の間の娘)は、『人間失格』は彼女にとって「父なるものの姿をそっと指し示す作品」であると言っています。

(幸福なんだ、この人たちは。自分という馬鹿者が、この二人のあいだにはいって、いまに二人を滅茶苦茶にするのだ。つつましい幸福。いい親子。幸福を、ああ、もし神様が、自分のような者の祈りでも聞いてくれるなら、いちどだけ、生涯にいちどだけでいい、祈る)


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風邪。。。。。。

2009-02-10 14:01:22 | 日々いろいろ
昨日のブログの後記です。


鎌倉から帰った夜に悪寒を感じて、はや4日。。。
流行にもれず風邪をひいてしまったようで、4日間ベッドからはなれられません。。。
家の中をベッドからリビングまで歩くだけでも、ふらふら。。。
(PCはベッドのすぐ脇なので比較的楽)

熱はさがったのですけど、悪寒と吐き気があいかわらず。。。
ちょっとでも何か口に入れると吐きそうです。。。。。。。。(お食事中の方すみません)
食べ物の写真を見るだけでもダメです。。。
昨日ブログを更新したときは食べ物の写真を見られていたから、吐き気がひどくなってるということかしら。。。

胃にくる風邪。。。ノロか。。。?


就活のほうは、風邪をひく直前にようやっとリクナビでも見始めたんですが、そもそも私は就活の雰囲気がたいへん苦手で。。。(ということを思い出しました)
「あなたが我が社のために何ができるか、どんどんPRしてください!!」
みたいな成果主義的な空気がどうにも。。
ときには必要なことだとわかってはいるんですが。
できるだけ無理をしていない自然の私を採ってくれる会社があればありがたい、とおもっております。
入るときにあまり無理をすると、入ったあとも無理を続けなければならなくなりますからね。。
って、なんか婚活みたい。。(「婚活」っていう言葉、イギリスにいるときに初めて知りました。今だに何をすることなのかはっきりわからないのですが。。ツヴァイとかそういうこと。。。?)

ではでは。
みなさまも、くれぐれも風邪にはお気をつけて。
ご自愛くださいませ~。。

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