風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

『ふるあめりかに袖はぬらさじ』 @歌舞伎座(6月11、19日)

2022-06-24 03:27:22 | 歌舞伎

©松竹


人間はみんな、「本当だよ」と言いながら「嘘だ」とも言えちゃうんです。ただ人間はここに生きていて雨に濡れちゃうのね、と言っている中に、人間模様が煌めく入っているところが、この作品の凄さだと思います。…
ふるあめりかに袖がぬれてない人って、いつどこにいるのかしらね。

(坂東玉三郎 『週刊文春WOMAN vol.14』)

玉三郎さんのお役の中で5本の指に入るくらい好きな『ふるあめりか~』のお園!
シネマ歌舞伎でしか観たことがなかったので、今回観ることができて本当に嬉しい(もちろん仁左衛門さんとの『与話情浮名横櫛』が中止になったのは残念だけれど…)。歌舞伎座で上演されるのは、2007年以来だそうです。
11日と19日の2回行きました。
それぞれ演じ方が違っていたけれど、どちらも本当に感動してしまった。。。。。

生で観て実感できたことの一つは、照明効果の美しさ。
一切の照明が落とされた暗闇の中で、お芝居は始まる。
舞台上に見えるのは、窓の隙間から漏れる微かな光のみ。そこは岩亀楼の遊女亀遊(雪之丞さん)が病に伏している行燈部屋で、女中や下男達が次々と出入りするけれど、すぐに出て行ってしまう。そこに芸者のお園(玉三郎さん)が登場して窓をさっと開けると、ぱぁっと一瞬で太陽の光が差し込んで部屋が昼間の明るさに変わる。
「ここから見ると港は本当にいい眺めですよ。海っていうのはいいわねえ、私は大好きだ」と晴れ晴れとした声で亀遊に話しかけるお園。
外国の船々が停泊する幕末の横浜の港の風景が見えるようで、大好きな場面です。
廓が次第に夜へと移り変わっていく様も、とても美しかった。
あと、最終幕の雨(本水使用でしたよね?)の効果も素晴らしかったなあ。あの本降りの雨音が、終盤の物語と重なって胸に迫る…。

今回観て改めて、本当によく出来た作品だなあと感じました。
私達が生きるこの世界は、今も昔も虚構だらけ。
それぞれが身勝手に虚構を作り上げ、虚構を利用し、利用され、何が嘘で何が本当か誰にもわからなくなってしまうような空騒ぎの中で、人々は生きている。
それは攘夷志士達も、岩亀楼の主人も、藤吉も、そしてお園も同じ。
話の舞台である廓という場所自体が、虚構の世界そのものといえる。
この作品の独特さは、そんな虚構を否定しないところ。肯定も否定もしない。
虚実入り混じったこの世界の中で、降る雨にびしょ濡れになりながら生きているのがこの世界の殆どの人達で。そういう人々の人間模様を、この作品はただ描いている。
お園もまた虚構の世界にどっぷり漬かっていながら、同時に、その中で本当に大切なものは何か、変わらないものは何なのかをちゃんと見抜いている女性。淋しくって、悲しくって、心細くって、ひとりで死んでしまった遊女亀遊。その真実を心にしっかりと秘めながら、お園は明日もお座敷に出て「横浜は、ここ岩亀楼」と虚構をうたい、生きていくのでしょう。玉さま曰く、お園は「世の怒涛にどんなに踏みにじられても起きあがり、たとえ戦車のキャタピラに轢かれても、それでも立直っていく女だろうと感じます」とのこと(中公文庫)。

 そして、嘘と本当がないまぜになっているお園の本音が、最後に浮き彫りになって見えてくるのです。終幕では、時が過ぎて、開国も攘夷も意味が無くなっているのです。攘夷党の動きさえも、世の中の流れからすれば、大きな空騒ぎにすぎなかったということなのでしょう。かつて亀遊を「攘夷女郎」とまつりあげた当の攘夷派の連中によって、皮肉にも亀遊の伝説は暴かれてしまいます。
 国を左右するような人たちの生き方でさえ、廓の空騒ぎと変わらないじゃないか――と、ひとりお園は悲嘆にくれます。芸者で、飲んべえで、空騒ぎの人生そのものを送ってきたお園ですが、実はこのような真実を見つめていたのです。落ちぶれてはいるけれども、彼女は本当の心を持っていて真実を見抜くことができた、ということなのでしょう。この真実は、人間の本音とも言い換えられると思います。彼女は決して迫り来る将来を見据えたりは出来なかったでしょう。しかし、今、目の前に繰り広げられている光景の中で、しっかりと真実を受け止めているのです。戯曲の中で、お園が真実を見抜く目を持っていたということは、有吉佐和子先生ご自身の、真実を見抜く目の鋭さを伝えているように思えてなりません。
(坂東玉三郎 中公文庫『ふるあめりか~』特別寄稿)

配役について。
玉三郎さんのお園は、もう鉄板。
大大大好き。あの台詞回しと作り上げる空気の見事さと言ったら!
そしてラスト、攘夷志士達が去って、部屋に一人残ったお園。ここの玉さまは圧巻の一言。秘めていた胸の内を全て吐き出し、
「それにしても、よく降る雨だねえ。」
この静かな余韻が残る幕切れも、素晴らしいよね。。。。。
ああ、玉さま

今回は新派からの出演が多数だったせいか、物語がリアルに迫って感じられて、とてもよかった。
イルウス(桂佑輔さん)も小山(田口守さん)も、みんな上手い~。
雪之丞さんの亀遊は、最初に見た11日は「17歳の役にしては貫禄ありすぎ?」と感じたけれど、二回目に観た19日にはちゃんと可愛らしく儚げに見えて、藤吉(福之助)とお似合いのカップルでした。
緑郎さんの岡田も、11日には声が掠れていて心配したけど、19日には声にも張りが出ていて、存在感のある演技を見せてくださいました。この役、合ってる。格好いい♪
雪之丞さん&緑郎さんを再び歌舞伎座で見られて、嬉しかったな でも下記の対談を読むと、澤瀉屋→新派への移籍には色々な事情があったようだな…とも感じた。

雪之丞 新派に移籍した私たちが歌舞伎座に出ることは死ぬまでないと思っておりました。いま一番にあるのは、嬉しさと有り難いという気持ちです。若旦那(玉三郎さん)はさらっとおっしゃるけど、誰かに「うん」と言わせるっていうことの大変さがなかったはずがありません。

緑郎 私たちはそれを忘れちゃいけないですよね。

雪之丞 しかも今回は本当にほとんどの新派の俳優さん、女優さんを呼んでいただいてるんです。

玉三郎 私は澤瀉屋さんの具合が悪くなった後、この二人がどうやって生きていくのかしらと、とても気がかりだったんです。新派に移籍したのも私は客観的に見てきたので、二人のためにも歌舞伎、新派という枠を外していけたらと思うんです。

緑郎 昔、若旦那が「役者は地獄を見なきゃダメだよ」という言葉をくださいました。新派に移籍をして二年ぐらい経ってからですかね、ある日、ふっとその言葉が出てきて。やはり、僕と雪之丞ではまだまだ思っているものができないので。

玉三郎 わかります。

緑郎 そういうものが毎日毎日枷になって苦しくて、でもこれ乗り越えないとな、これがたぶん若旦那が仰った地獄、僕にとっての地獄なのかな、というのは常に考えていました。

(『週刊文春WOMAN vol.14』)

そしてそして、鴈治郎さんの岩亀楼主人
商売人の強かさと人間的な温かみのバランスが、素晴らしかった。嘘をつくのもただ金儲けだけが理由なのではなく(それがメインだが)、お客様が喜んでくださることをするのが商売だというような気持ちも感じられるところが良かったな。
玉三郎さんとの掛け合いは絶品!
鴈治郎さんの今までのお役の中で一番好きかも(と言われて鴈治郎さんが嬉しいかどうかはわからないが…)。

大好きなお芝居をこんな素晴らしい配役で観ることができて、本当に幸せでした
玉三郎さんは今回、この作品と『日本橋』のどちらを上演するかで迷われたとのこと。玉さまの『日本橋』…!
「雛の節句のあくる晩、春で、朧で、御縁日、同じ栄螺と蛤を放して、巡査の帳面に、名を並べて、女房と名告つて、一所に詣る西海岸の、お地蔵様が縁結び。……これで出来なきゃ、日本は暗夜だわ」
これを言う玉さまを生で観たい&聞きたい…!玉さま、どうかどうか近いうちに『日本橋』の方もお願いします…!!!歌舞伎でも新派でも、どちらへでも馳せ参じます!

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作品全体の印象について―――
 日本の根本的なところが、本当にある意味シニカルに描かれていて、日本の伝説というものは、ほとんどこういう風に出来上がったのではないかと思ってしまいます(笑)。本当に、近代の名作です。

 男達はみんな外に出て行くけれど、女達は廓から出ることが出来ず、外から来るものをどうやって受け入れていくか葛藤します。お園が水平線を眺めて想いをめぐらすのも、外に行けない女の物語だということなんです。

 喜劇なのか悲劇なのか、わからないところで、あれだけ楽しませながら、人間の深層心理を深く描いていきます。そして、最後にお園が女性としての本心を言う・・・不条理劇のようでありながら、非常に心情に訴える、とても素晴らしい作品です。

みどころ―――
 男達は、開国するか鎖国するか、命がけで議論していたのに、結局時が過ぎればどちらでも良くなってしまう。でも、どちらでも良くなってしまう事を女の方が先に知っているんですよね。それでも女は、どんなに苦しくても本音と建前をきちんとわきまえて、廓で商売をしていきます。

 それから、女からみた男の身勝手さが、否定するのではなく手の届かないものとして描かれています。勤皇・佐幕がばかばかしいと一面的に言うのではなくて、お園は、「あの人たちだって大変なのよ」と言って否定しません。岩亀楼の主人もいるし、お客もいる。お客の気持ちもわかるけど、主人の気持ちもわかる。その中庸をとった中でやっているんですね。

 攘夷党の連中が「あのころの華やかな攘夷党の時代終わった」と言います。政治的な建前で流れていく世の中は、その時代時代で終わっていく。しかし、建前ではない本音というのは変わらない・・・それでいて、有吉先生の独特な作風として、本音は変わらないから建前を否定するとも言わずに、建前は建前でやりましょうって(笑)。

 攘夷党の連中が、お園を納得させて帰っていくところなんて、あれも建前ですよね。あの辺りが巧みに人間模様として描かれていて、それを暗い話にしないところが、やはり有吉先生が劇作家として素晴らしいところだと思います。

印象的な場面―――
 岩亀楼のような水商売の場所では、昼間は、夜の支度をしています。そして、外が暮れてくると、中に明かりがついて、夜の世界に変わっていきます。とくに、三幕では、その移り変わりの雰囲気を上手く出して、お客様がそこに居ながら廓に入っていったように感じていただければと思っています。

 外の海の風景を大事にして、日が沈んで暮れなずんでいくと、お客さんがお酒を飲みに騒ぎながら入ってくる・・・このような雰囲気もなかなか舞台では出すことができないので、とても意識しました。

 このお芝居は、初めの行燈部屋を除いて、ほとんどこの一場です。その中でシュチュエーションが変わって物語が進んでいくというのは、やはり有吉先生の筆の素晴らしいところだと思います。

歌舞伎美人 玉三郎 シネマ歌舞伎『ふるあめりかに袖はぬらさじ』を語る


©松竹

©松竹

©松竹

©松竹

©松竹








観劇前にイグジットメルサの成田新川で鰻丼。お手頃価格で美味でした

ところで、上で引用させていただいた『週刊文春WOMAN vol.14』には、アニメ『平家物語』で脚本を担当された吉田玲子さんと菊之助の対談も掲載されているのです。とても充実した内容だったので、ご興味のある方はぜひ。


※坂東玉三郎公式ページ 今月のコメント
※坂東玉三郎が語る『ふるあめりかに袖はぬらさじ』有吉佐和子が込めた人間愛~歌舞伎座『六月大歌舞伎』インタビュー(SPICE
※坂東玉三郎×喜多村緑郎×河合雪之丞が幕末の遊郭を描く 『ふるあめりかに袖はぬらさじ』6月歌舞伎座取材会レポート(SPICE
※「ふるあめりかに袖はぬらさじ」坂東玉三郎、新派との合同公演に笑顔「いつでも一緒にできれば」(ステージナタリー
※「役者は地獄を見なきゃダメだよ」坂東玉三郎の言葉を喜多村緑郎、河合雪之丞がいま噛みしめる理由(文春オンライン
※操を守り自害した「攘夷女郎」は実在したか?「ふるあめりかに袖はぬらさじ」に隠された真相(warakuweb
※横浜公園水琴窟の謎から浮世絵で港崎遊郭の歴史を紐解く(はまレポ.com

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竹三郎さん

2022-06-21 23:50:34 | 歌舞伎

坂東竹三郎さんが、17日に亡くなられたそうです。
私が歌舞伎を本格的に観始めた2013年の夏、大阪の文楽劇場まで傘寿記念の自主公演『坂東竹三郎の会』を観に行って。そこで演じられた『東海道四谷怪談』のお岩さん。お岩さんは菊之助と玉三郎さんでも観ているけれど、竹三郎さんのお岩さんが一番情が感じられて好きだった。
幕が閉まった後のご挨拶で涙を流しながら「生きていてよかった」と、「東京も大阪もありません」と仰っていた竹三郎さん。
同時にインタビューでは「上方歌舞伎の火を消すまいとやってきた」とも仰っていました。
どちらも心からの言葉だったのだろうと思う。

 昭和24(1949)年5月四代目尾上菊次郎の弟子となり、大阪・中座『盛綱陣屋』の腰元で尾上笹太郎を名のり初舞台。昭和34(1959)年9月三代目坂東薪車と改名し名題昇進。昭和42(1967)年3月菊次郎の名前養子となり、朝日座『吉野川』の久我之助ほかで五代目坂東竹三郎を襲名。昭和53(1978)年上方舞の東山村流の二世家元となり、山村太鶴を名のる。
 関西に居を構える数少ない俳優の一人。『すし屋』のお米や『引窓』のお幸、『忠臣蔵六段目』のおかやなど、情愛深い母親役や『封印切』のおえん、『吉田屋』のおきさをはじめとする上方の花車方、さらにはスーパー歌舞伎II(セカンド)『ワンピース』(女医ベラドンナ)などの新作歌舞伎の舞台でも存在感を発揮した。

 自主公演「坂東竹三郎の会」では復活狂言にも取り組み、また、平成9(1997)年に開塾した「松竹・上方歌舞伎塾」の講師をつとめるなど、上方歌舞伎の振興と、後進の育成に注力した。
歌舞伎美人

思えば私が「上方歌舞伎」というものを意識したのは、あのときが最初だった気がする。
一昨年に藤十郎さん、昨年は秀太郎さん、そして今年竹三郎さんが亡くなられて、なんだか西の方を照らしていた歌舞伎の火が一気に消えてしまったような、そんな感覚がしてしまっています。

私、上方歌舞伎の空気って好きなんですよね。
自分が関東で生まれ育ったので、憧れもあるのかもしれないけど。
竹三郎さんは「関西に居を構える数少ない俳優のひとり」だったとのこと。秀太郎さんもそうだった。
関西に居を構える歌舞伎役者さんって、もう殆どいないのではなかろうか。西の成駒屋(成駒家)の壱太郎達も、松嶋屋の千之助君も、みんな東京生まれ。
その結果変わるのは、言葉だけじゃなく、それ以上に、役者が纏う空気なのではないのかな。
関西では歌舞伎の興行自体が殆ど行われないし、行われてもチケットの売れ行きは良くなくて(これは歌舞伎に限らず文楽やクラシック音楽など文化芸術全般における関西の傾向だけど)、それなら興行の多い東京に住む方が便利だし、仕方がないことなのかもしれないけれど…。でも、このまま上方の空気をもつ役者さんがいなくなっていってしまうのは、残念でならない。壱太郎は上方歌舞伎を本気で大切に思っているのなら、関西に住めばいいのになあ。関西で生まれ育っていないのだからなおさら、その空気の中に身を置くことには大きな意味があると思うの。、、、と思ったら、鴈治郎さんと壱太郎は関西にも家がある?という話も。それが本当なら、上方歌舞伎の未来のためにとても良いことだと思う。
藤十郎さん、秀太郎さん、竹三郎さん達が大切に大切に守ってこられた上方歌舞伎の火。このまま消えることなく継承されていってほしいと願ってやみません。

竹三郎さんのご冥福をお祈りします。
数々の心に残るお芝居を、本当にありがとうございました。
猿之助も仁左衛門さんも、寂しいだろうな…。

※竹三郎さんのご子息の岡崎泰正氏のブログより。泰正氏が観たという2013年の3回目の舞台は、私が観たのと同じもの(2日目の昼公演)。まさに書かれてあるとおりの見事な舞台でした。
訃報 父、坂東竹三郎が生きたミナミ

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シャルル・デュトワ指揮 新日本フィル 創立50周年特別演奏会 @東京芸術劇場(6月9日)

2022-06-13 11:47:37 | クラシック音楽




「音の魔術師」の異名をもつデュトワの指揮。一度聴いてみたいなあと思っているうちに#metooセクハラ問題で世界中のオケから締め出されてしまい。そんな元旦那にアルゲリッチが救いの手を差し伸べたという噂は耳に届いていたものの、日本では二度と聴けないのかしら?と思っていたら、大阪フィルが呼んでくれて。でも東京には来ないのかしら?(N響が無理なのはわかるが)と思っていたら、ようやく来てくれることになって。しかも大好きな『ラ・ヴァルス』!というわけで、行ってきました。

【フォーレ:組曲「ペレアスとメリザンド」】
【ラヴェル:ピアノ協奏曲ト長調】
【武満徹:雨の樹 素描(ピアノ・アンコール)】
(20分間の休憩)

【ドビュッシー:交響詩「海」】
【ラヴェル:管弦楽のための舞踏詩「ラ・ヴァルス」】

新日本フィルを聴くのは今回が初めて。私にとっては「新日本フィル=ジブリの音楽を演奏しているオケ」なので楽しみにしていたのですが。

うーん・・・・・・・

今年のムーティ&春祭オケのモーツァルトのとき、ブログに「たとえば柔らかな音の箇所も、『ムーティが柔らかな音を出すように指示していて、奏者はきちんと忠実に従っているのだな』ということが透けて見えてしまうような演奏」と書いたけれど、今日のデュトワ&新日本フィルにはその何倍もそういう感覚を感じてしまった・・・。もはや「指揮者に忠実に従っている」というより「指揮者の要求する音を出そうと必死に頑張っている(けど出しきれてはいない)のが透けて見えてしまうような演奏」というか・・・。
素人がエラそうに申し訳ない。でも今回払ったチケット代、2年前のサロネン&フィルハーモニアの来日公演と殆ど同じ席で殆ど同じ値段なのよ(結構な出費であった)。。。なのにこの差は一体・・・とどうしても感じずにはいられなかったんです。。。

休憩後の『海』ではそれはだいぶ改善され、自然な「音楽」が流れ始めました。
でも「いい感じだなあ」と音楽に入り込めそうになると、唐突に吃驚するような平坦な音が聴こえてきて現実に引き戻されてしまう、の繰り返し。特に管楽器(木管金管ともに)・・・。

でも最後の『ラ・ヴァルス』だけは、それがありませんでした。
正確にはこの曲でもオケの余裕のなさ(頑張ってる感、指示通りの音を出そうとしてる感)は皆無とはいえなかったし、もっと上手なオケなら更に上をゆく別世界を見せてもらえたのではと全く思わなかったといえば嘘になるけれど、それでも素晴らしかったとしか言いようのないラ・ヴァルスだった。心から感動しました。
おそらくデュトワとオケはリハーサルの殆どを後半の2曲、特に『ラ・ヴァルス』に使ったのでは…?
軽やかで優しく、美しく官能的で、物憂げで退廃的で、かつ明確に惰性を拒む刺激的で爆発的な音色。
第一次大戦を挟んでこの曲を完成させたラヴェルは、優雅なウィンナワルツの調べの裏で愛憎渦巻き享楽的でもあったウィーン宮廷に対して、すべてをひっくるめて愛情を感じていたのではなかろうか。その瞬間瞬間を生きていた人々と、そこに蠢くエネルギー。それは今日にも普遍的なもので。最後には全てが崩壊するような破滅的なラストを迎えても、だからこそ一層印象に残る人間達の生の煌めき。生の火花を目いっぱいに散らせて消える花火を見た後のような、そんな後味が残る音楽。今日のデュトワ&新日本フィルの演奏からは、そんなものを感じました。なんか泣きそうになってしまった。
ポゴレリッチのときにも、この曲にそういうものを感じたんですよね。悲劇だけではない、何ものか。
考えてみたら、ラヴェルはこの曲をあのバレエ・リュスのために書いたのだった(結局ディアギレフから却下されたけど)。この曲からそういう感覚を覚えるのは当然のことなのかも。そういえばデュトワの師のアンセルメって、バレエ・リュスの音楽監督だったんですね。
一番のお目当てだった『ラ・ヴァルス』をこんな胸に響く演奏で聴かせてくれて、本当に感動したし、大満足です。

ところで、これが「いわゆるデュトワの音」なのだろうなというものは、最初の『ペレアスとメリザンド』からちゃんと感じました。独特の色彩的に華麗な響き。濃厚でコテコテな極彩色ではなく、透明感のある色合い。オケが出す色彩的な音って作ろうと思って作れるものなのだな、というのも今日の演奏でよくわかった。終演後の帰り道で「最高の職人芸を聴かせてくれたね~!」という興奮気味の男性達の会話が聞こえてきたけれど、幸か不幸か一流オケではなかったためにそういうデュトワの「職人芸」をよりはっきりと感じることができたのだろうと思う。
今回twitterやブログを拝見していると、このオケ、以前はちゃんとした演奏ができるオケだったけれど、その後下向きになってしまったようで。そんな風になってしまったのには、何か理由があるのかな。

前半のラヴェルの協奏曲のピアノは、北村朋幹さん。
私は今回初めて名前を知ったピアニストでしたが、知的で軽やかだけど密度の濃い演奏、とてもよかったです。こんなピアノを聴けるとは思っていなかったので(今日の目的はラヴァルスだったので)、得した気分でした。特に休憩前のオケの音には全く満足できていなかったので、彼の演奏に救われた。ただ2楽章前半のピアノ独奏は、もう少し色合いを感じさせる音の方が個人的には好みかも。
アンコールの武満も、素晴らしかったです。武満は北村さんの音色に合っている気がする。

デュトワ夫妻は、5日のサントリーホールのアルゲリッチ&クレーメルの演奏会にいらしていたとのこと(twitter情報)。
アルゲリッチの『子供と魔法』には当然ながらデュトワとのエピソードも沢山出てきて、興味深く読みました。アルゲリッチに子供を堕胎させたり、かと思うとせっせと彼女を演奏会場まで車で送り迎えしてあげたり、彼女の気の進まない協奏曲(チャイコフスキー1番)を強引に弾かせたり、離婚後でも彼女のNYでの肺癌の手術費用を貸してあげたり(為替の到着が遅れたため)。この入院関連のエピソードでは、手術後の病室にバレンボイム&メータが深紅の巨大な花束を抱えて入ってきたり、アリシア・デ・ラローチャ等が見舞いに訪れたことなども書かれてありました。


ステージ上でのデュトワ、背中がすっと伸びていて、動きも颯爽としていて、とても85歳とは思えない!

Ivo Pogorelich plays Ravel La Valse - live 2018

通常12分程度で演奏される『ラ・ヴァルス』を20分かけて演奏するポゴレリッチ。これはウィーンでの演奏ですが、東京でも同じでした。パリでの演奏はこちら。やはり20分超え。
賛否がハッキリ分かれる演奏ですが、私はとても好きな演奏。こんな演奏なのにワルツの優雅さをちゃんと感じられるのもいい(ええ、私には感じられるんです…)。私は彼の弾くラヴェルが何故かとても好きで、『夜のガスパール』もアルゲリッチよりポゴレリッチの演奏の方が好きなんです。
ポゴさんがデュトワ&フィラデルフィア管と東京でショパンのピアノ協奏曲を演奏したときに、あまりにマイペースなピアノにデュトワ&オケがキレたという話を読んだことがあるけれど、どちらもアルゲリッチと仲がいいのに、彼ら同士は気が合わないのでしょうかね(というかデュトワ&オケが一方的にキレていたらしいが)


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アルゲリッチ&クレーメル @サントリーホール(6月6日)

2022-06-11 01:16:40 | クラシック音楽



というわけでオペラシティの協奏曲&マイスキーとのデュオすみだホールのフレンズに続いて、サントリーホールのクレーメルとのデュオに行ってきました。アルゲリッチ祭りのラスト

【ロボダ:レクイエム(果てしない苦難にあるウクライナに捧げる) *クレーメル
まずはクレーメルによるソロ2曲。
このロボダの曲は、2014年のウクライナ紛争の際に犠牲者に捧げられた作品。クレーメルはこの曲を今年1月にウィーンで弾き、さらに侵攻後の3月にも同地で採り上げたそうです。残念ながら、今もなおこのレクイエムは現在進行形のものとなってしまっています。

クレーメルのヴァイオリンは、初めて生で聴きました。「美しい音にはこだわらない」ことで有名な人で(それがマイスキーとは対照的で、アファナシエフは「自分はどちらかというとマイスキーのタイプ」と言っていた)、今まで録音で聴いても良さがわかるようなわからないような…?だったのだけど、今回生で聴いてわかった気がする。人間の芯にあるもの、あるいは音楽の芯にあるものが全くオブラートに包まれずにそのまま剥き出しに音になって表れているような、そんな音。
といっても感情的に朗々と歌ったりガーガー弾きまくっているわけでは全くなく、むしろその逆で。演奏は淡々と言っていいほどなのに、なぜか作品の核の部分を感じさせるというか。それがこの人の凄いところのように思う。

ところで、今日彼がロボダを静かに静かに弾き終えたとき(というより最後の一音をまだ弾き終えてもいないとき)、客席の大馬鹿野郎一名が盛大に拍手。もちろんそれに追従した人はいなかったけど、今彼がこの曲を弾いた意味はタイトルを見ればわかるはずだし、例えプログラムを読んでいなかったとしても、あの演奏を聴いて大拍手をしようと感じるあんたの耳と心はどうなってるの!?って感じだわよ。
クレーメルは全く顔色を変えないでヴァイオリンを下ろさず、しばらくしてから下ろしました。そこで数名が拍手をしかかったけれど、すぐに次のシルヴェストロフが開始。

【シルヴェストロフ:セレナード *クレーメル
今年3月に「ロシアの音楽について考えてみる」という記事をブログで書いたけれど、その中に出てきてたウクライナの作曲家、シルヴェストロフ。3月にキーウを脱出し、今はベルリンにいらっしゃるそうです。
この曲でもやはりクレーメルの演奏は独特で、単なる美しさとは違う、はっきりとした意思を感じさせる。こんな個性的なヴァイオリニストだったとはなぁ。味があって私は好きです。

【ヴァインベルク:ヴァイオリン・ソナタ第5番 Op. 53 *クレーメル、アルゲリッチ
ここでようやく、アルゲリッチ登場。彼女は極度の緊張屋さんだそうなので(フレイレと同じですね)、最初の数曲をクレーメルにソロで弾いてもらうことで彼女は心の準備ができるのかな、と。
今夜も彼女が登場すると客席から爆発的な拍手。クレーメルの時との違いに、彼に対してちょっと申し訳ない気持ちになってしまう。まあアルゲリッチの共演者はみんな慣れっこなのだろうけど。
ヴァインベルクも、壮絶な人生を辿った作曲家。ポーランド生まれのユダヤ人で、1939年のナチスドイツのポーランド侵攻の際に妹と脱出しようとし、途中で靴が足に合わず別の靴を取りに戻った妹とはぐれてしまい、単身ベラルーシに逃れて難民生活をした末にショスタコーヴィチの助力でモスクワへ。両親と妹は、ポーランドの強制収容所で死亡。モスクワでも反ユダヤ主義の標的となり、義父はKGBに暗殺され、やがて本人もジダーノフ批判で逮捕。あわや処刑かというときにスターリンが死亡し、九死に一生を得たそうです。

この曲のアルゲリッチとクレーメルの演奏、物凄かった。。。。。。呆然。。。。。。二人とも全く力んでいないのにこれほど雄弁な演奏があるだろうか。あの世界と空気といったら。
ていうかアルゲリッチ、化物
先日の彼女の演奏の感想のときに「生命力」と書いたけれど、本当に全ての音符が生きていて、死んでる音が一つもない。音が生き物みたいにピアノから次々生まれでてホールに広がっていくのが目に見えるよう。音が客席に沁みわたっていくのが目に見えるのはポゴレリッチのときにも経験しているけれど、彼女のそれはまた違う。アルゲリッチが音楽そのもの、音楽を生み出す母みたいだ。
そして、四楽章のピアノのスケール感といったら。。。
四楽章のアルゲリッチがソロで弾くところでは、クレーメルは彼女の手元を微動だにせずじっと見つめていました。互いに尊敬し合っている二人なんだろうなあと感じた
この曲、4楽章の最初のあたりのピアノのメロディと空気に既視感があると思ったら、バーンスタインの『不安の時代』に似てるのだった。バーンスタインもユダヤの人ですね。

【シューマン:『子供の情景』より「見知らぬ国」 *アルゲリッチ】 
【J.S.バッハ:イギリス組曲第3番 ガヴォット *アルゲリッチ
【D.スカルラッティ:ソナタ ニ短調 K. 141 *アルゲリッチ
皆さん待望のアルゲリッチのソロ。
事前発表では「ソロ曲:未定」となっていたので、何を弾くかも何曲弾くかも予想できず。結果、前日の5日と同じ3曲を演奏してくれました(前日に何を弾いたかはtwitter情報で知っていた)。
シューマンの温かな音色。バッハの中間部のペダルを踏んでの?弱音部分は、別世界みたいな音がしていた。そしてスカルラッティのカッコよさ!聴かせますねえ♪ どれも彼女のアンコールの定番曲のようですが、聴けてよかったです。
フレイレは「マルタと僕の音楽は全く違うのに、僕たちは気が合うんだ」と言っていたけれど、私もそう思ってきたけれど、先月からアルゲリッチのピアノを続けて聴いてきて、一見さらさらと早めに弾くところとか、なのに芳醇なところとか、低音や強音の響きとか、全く力みがないのにゾクゾクするクレッシェンドとか、夢見るような幻想的な音色とか、ちょっとジャズっぽいところとか、二人の演奏の特徴って結構重なるところが多いように思う。でも演奏のタイプ的にアルゲリッチはリヒテルっぽい、フレイレはギレリスっぽい(自分用覚書)。

(休憩20分)

【ショスタコーヴィチ:ピアノ三重奏曲第2番 ホ短調 Op. 67 *クレーメル、アルゲリッチ、ディルヴァナウスカイテ
前にも思ったけど、ショスタコーヴィチの曲ってマーラーによく似ていますよね。調べてみたら、彼はマーラーを敬愛していたんですね。
このショスタコーヴィチも、前半のヴァインベルクに劣らず素晴らしかった。。。。。。。。
ていうかクレーメルの音、ヤバいな…。ゾクゾクする。アルゲリッチも、クレーメルと演奏するときは全く自分を抑えていなくて、聴いていて最高に気持ちがいい。
二人とも実にスリリング。全く先が読めない、今まさに目の前で新しく音楽が生まれている瞬間に立ち会っているような、そんな感覚。そして人間の俗も闇も諧謔味も民俗的な濃厚さも気高さも厳しさも色っぽさも軽やかさも繊細さも美しさも全て備えているなんて、、、、人間にこんな演奏が可能なのだろうか。
一番最後の音を弾く時には、アルゲリッチはニッコリ笑顔。そのままクレーメルをふり返っていました。呼吸ができないようなド迫力なのに、友情の温かさも感じさせる演奏だった。こんな演奏を聴けるなんて、本当にprivileged以外の何ものでもないなあ。

ディルヴァナウスカイテはクレーメルとしばしば一緒に演奏しているチェリストですが、この曲では、彼らの音の存在感に均衡するまでには至れていない感じではありました。というかクレーメルとアルゲリッチの個性と存在感が異常なのよね…

【ベートーヴェン:ピアノ、ヴァイオリンとチェロのための三重協奏曲 第2楽章(アンコール) *クレーメル、アルゲリッチ、ディルヴァナウスカイテ
【ロボダ:タンゴ「カルメン」(アンコール) *クレーメル、アルゲリッチ、ディルヴァナウスカイテ
【シューベルト:君はわが憩い(ピアノ三重奏版)(アンコール) *クレーメル、アルゲリッチ、ディルヴァナウスカイテ
前日の5日はアルゲリッチの誕生日だったのでクレーメルとディルヴァナウスカイテが一風変わったアレンジのハッピーバースデーを演奏したそうです。その代わりというわけでもないのでしょうが、本日のアンコール一曲目は前日には演奏しなかったベートーヴェンを演奏してくれました。
このベートーヴェンが言葉にならない素晴らしさだった。。。。。。。
なんて優しい世界だろう。まるで一面に広がる花畑のよう。彼ら3人の上に「平和」という言葉が見えるようでした。
今回の演奏会は、選曲からわかるようにはっきりと明確な主張を持った演奏会で。
目を逸らしてはならない世界や人間の苦難を「魂の音」のような演奏で聴いて。
そして、この優しく温かなベートーヴェン・・・・・。もうさあ・・・・・・・・・(号泣)
ここではディルヴァナウスカイテのチェロの穏やかな音色も、とてもよかった。三人の平和への祈りを感じた気がしました。

二曲目は軽やかに艶やかに『カルメン』。これもロボダなんですね(ビゼーの『カルメン』の編曲ということでいいのかな)。こういう曲の演奏も見事!カッコイイ&楽しい!
そして最後は、しっとりと優しく美しく切ないシューベルトの『君はわが憩い』。。。。。。

なんか、音楽ってすごいな・・・・・・・・・・。
今日の演奏会、美しいを超えた音楽の力を感じました。

アンコールの合間に舞台袖の様子が私の席から見えていたんですが、クレーメルはディルヴァナウスカイテを笑顔でハグ。舞台の上でも二人の女性達に対して謙虚にレディファーストを徹底していて、アンコールのときも絶対にアルゲリッチより先に出ていこうとしていなくて。なんだかクレーメルのファンにもなってしまった。

最後は、先日と同じくアルゲリッチが二人を促して、前後左右の全方向にしっかりお辞儀。
いい演奏会だったなあ。
時間差退場の待ち時間のとき、隣の人「良かったですねえ!」って😊
アルゲリッチは5日で81歳になったそうで。
来年もぜひお元気で来日してほしいです。


Valentin Silvestrov: Ukrainian composer takes a stand against totalitarianism and violence

キーウ脱出後のシルヴェストロフの動画(英語字幕表示可)。『セレナード』を弾くクレーメルも少し見られます(1:39~)。
プーチンをテロリストとして国際指名手配すべきであると痛烈に批判する一方、ロシア文化の一律ボイコットには反対だそうです。「独自の特徴を持つロシアの文化も、ウクライナの文化も、共にヨーロッパの文化なのです。いま、人々はロシアの全てを軽蔑する風潮になっています。ですが音楽や絵画のように、世界を圧倒してきた偉大なロシア文化は存在するのです。そしてソビエト連邦や帝政ロシアでのそれらの人々の運命を見れば、彼らがしばしば反権力の側にあったことがわかるはずです」と。

Violin Sonata No. 5 in G Minor, Op. 53: IV. Allegro - Andante - Allegretto - Andante (Live)

アルゲリッチ&クレーメルによるヴァインベルクの4楽章

Schubert: Du bist die Ruh, Op. 59/3, D. 776

アルゲリッチのピアノの演奏のものが見つからなかったけれど、こちらはマイスキーのチェロによる『君はわが憩い』(ピアノ二重奏版)。
アルゲリッチ、クレーメル、マイスキーは今年1月の欧州での演奏会でも、ショスタコーヴィチ2番の後にこの曲をアンコールで演奏したそうです。
そしてマイスキーがソビエト時代に当局に逮捕され強制労働収容所で18か月間過ごしていたことを、最近知りました…。クレーメルもマイスキーもラトビア出身なんですね。


イッサーリスからアルゲリッチへのバースデーコメント。アルゲリッチのことを「人としては、確かにカリスマ的ではあるけれど、静かで、どちらかといえばシャイ。ピアノにおいては、その爆発的な情熱と無尽蔵とも思える音色のパレットで私たちを興奮させてくれる、音楽の火山です」と。イッサーリスはシフの誕生日のときにも温かなコメントをしてくれてましたよね

Gidon Kremer: Portrait of one of the world’s most esteemed violinists

クレーメルって、こんな穏やかな話し方をする人だったんですね。知らなかった。
彼の父親はユダヤ人で、ラトヴィアのリガのゲットーで妻と1歳半の娘を含んだ35人の親類を亡くしたそうです。その後クレーメルの母親になる人と出会い、クレーメルが生まれたのだと。「父が生き残らなければ、自分はここにいなかった。だから自分の人生は父の第二の人生であると思っている」と。
クレーメルって自伝とか色々な本が出版されてるんですね。ちゃんと翻訳もされている。機会があったら読んでみたい。先日読んだアルゲリッチの『子供と魔法』もとても面白かったもの(アルゲリッチ大絶賛のファンブックみたいな本ではあるけれど、フレイレとのエピソードについても沢山書かれてあって嬉しかった)。

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アルゲリッチ&フレンズ @すみだトリフォニーホール(6月3日)

2022-06-08 11:01:33 | クラシック音楽




先月のオペラシティに続いて、すみだホールにアルゲリッチを聴きに行ってきました。

【フランク:ヴァイオリン・ソナタ イ長調(辻 彩奈&アルゲリッチ)】
予習で聴いた別の奏者達の音源では完全にヴァイオリンが主役でピアノが伴奏になっていたのだけれど、今日はさすがアルゲリッチ 予測のつかないスリリングで雄弁な演奏を聴かせてくれました。同じ曲なのにこんなにピアノが存在感をもった演奏になり得るのか、と吃驚。4楽章コーダの突然の急加速にはちょっと驚いた。
今日の公演に行きたいと思ったのは、辻 彩奈さんのヴァイオリンにも興味があったから。高い集中力で渾身の演奏をしてくださって素晴らしいヴァイオリニストだなと心から感じたのだけれど、先日の東京音大アカデミーの場合と同じく、アルゲリッチの自由自在な音と一緒に聴いてしまうとやはりまだ若い(硬い)演奏に聴こえてしまう感はありました。
アルゲリッチがヴァイオリンを食おうとガンガン押し出しているわけでは全くなく、むしろその逆なくらいなのだけど、彼女の共演者が彼女の音と同じくらいの存在感を示すのはとても難しいことなのだろうな、と。でも今回アルゲリッチとこの曲を演奏できたことは、辻さんにとってすごく良い経験になったのだろうと思う。
それにしてもこのフランクの曲、初めて聴いたけどめちゃくちゃカッコイイですね!世の中まだまだ知らない曲があるのだなあ。

(20分間の休憩)

【トーク】
2020年に亡くなった友人イヴリー・ギトリスの思い出についてアルゲリッチが語るコーナー(+酒井さん、通訳さん)。今日の演奏会には「イヴリー・ギトリスへのオマージュ」という副題がついていて、彼にちなんだ曲が選ばれています。
とはいえこのコーナー、思いのほか長く時間がとられていて吃驚
事前準備がなかったのか結構なグダグダ進行で、最初のうちは「こんなにトークに時間をとるならその分演奏をしておくれ。私は話ではなく音楽を聴きにきたのだよ」と思ったのだけど、答えるのが難しい質問に困りながらも一生懸命考えて、いい加減じゃなくちゃんと回答しようとしているアルゲリッチの姿に、知ってはいたけど誠実な人なのだなあと改めて感じて、こういう彼女の姿を生で見られるのは実はとても貴重な機会なのかもしれない、と感じたのでした。結果的に準備万端のトークよりよかったかも。
以下、覚書です。順不同。

・イヴリーはどんな人?
 ⇒彼は私にとって親しい友人であり、そして人生のガイドでした。彼は人生を愛し、人々を愛していました。彼の本名はイツァークで、それは笑い声という意味です。ハハハッという笑い声です。それはユダヤ人の名前だったため、(1933年に11歳で)パリ音楽院に入学が決まりパリに移住したときに、身を守るため「イヴリー」と改名しました。イヴリーはパリ郊外の街の名前です。
・彼を建物に喩えると?
 ⇒(だいぶ長い間考えこんでから)私はピサの斜塔だけれど(客席から笑い)、、、彼を建物に喩えることはできません。彼は海に向かって一人立っている人というイメージです。
・コンサートホールに喩えると?
 ⇒彼の出身地であるイスラエルのハイファのホールでしょうか。あそこには海もありますから。でも、、、やはり違います。いま思い浮かんだのは、ナポリのオペラハウスです。
・絵画に喩えると?

 ⇒ピカソの『ゲルニカ』が浮かびました。あれはひどい絵ですが。でも、、、やはりマティスの青です。(←青の〇〇?聞き取れず)
・色に喩えると?
 ⇒虹色。・・・こういう質問は難しい。彼を箱に入れて考えることはできません。
・調性に喩えると?
 ⇒・・・シベリウスの協奏曲を思い浮かべましたが、あれは何調ですか?ロ短調? ※正解はニ短調
・彼が亡くなったときに見た夢について
 ⇒彼とはよく電話をしていて、亡くなる数日前にも電話をしました。彼は「君と話している暇はないんだ。神と話していて忙しいから」と言っていました。
彼が亡くなったとき、不思議な夢を見ました。見たことのない植物があって、花や実がなっているのですが、その実は茶色で長くヴァイオリンの形に似ていました。専門家を呼んで見てもらうと、それは人が笑っているところにしか現れない植物だということでした。その後その植物はどこかへ飛んでいってしまいましたが、再び戻ってきました。
・今日弾くソロ曲について
 ⇒ショパンの『パガニーニの思い出』を弾きます(客席から拍手)。シェイクスピアは「音楽があるのは〇〇だ」(←聞きとれず)と言いました。たぶん。(「I think!」と言いながら退場)

※帰宅してシェイクスピアの音楽に関する言葉をググったところ、「音楽が何のために存在するかさえご存知ないらしい。勉強や日々の仕事が終わった後、疲れた人の心を慰め元気づけるために音楽はあるのではないか?」というのがありました。アルゲリッチはこれを言っていたのかな。アルゲリッチらしい言葉だと思う。
そしてギトリスの演奏、一度生で聴いてみたかったな…。

【パガニーニ:カプリース op.1から 第24番(辻 彩奈・ソロ)】
辻さんの音って、きちんと弾いていながらも、ちゃんと情熱的な音がするところがとてもいい。

【ルトスワフスキ:パガニーニの主題による変奏曲(アルゲリッチ&酒井 茜)】
スリリングで楽しかった!

【ショパン:パガニーニの想い出(アルゲリッチ)】
これは当初プログラムに入っていた曲で、その後「アルゲリッチのソロ演奏はなくなりました」と追加発表され、当日に上記のとおり本人の「演奏します」宣言で演奏されることになったのでした。
素晴らしかった。。。。。。。。
子供のような軽やかさと純粋さ、泣きたくなるような温かさと美しさ。。。。。
アルゲリッチの音って、太めの音で豊かに"歌っている"ところはロシアのピアニストに似ている。でも力加減や低音の響きは違って、リズムも違う。無理やり言うなら、ロシア+ウィーン+南米+ジャズという感じがする。フレイレのショパンにもそういうところがあったな。先日に続いて彼女のショパンを聴けて、嬉しかったです。
なおアルゲリッチは前曲で弾いていたスタインウェイではなく酒井さんが弾いていたカワイをそのまま弾いたけれど、いやあ、素朴でいい音。。。ちなみに私の家のピアノもカワイでした(当時は華やかな音のヤマハが羨ましかった)。

【クライスラー:愛の悲しみ(辻 彩奈&アルゲリッチ)】
この曲って、こんな優しい曲だったんですね。。。これも泣きそうになっちゃったな。。。。。
アルゲリッチはもちろん、辻さんのヴァイオリンも素晴らしかったです。
終演後しばらくこのメロディが耳から離れませんでした。

【クライスラー(ラフマニノフ編):愛の悲しみ(酒井 茜・ソロ)】
ラフマニノフが編曲するとこんな風になるのか…!面白い!

【シュピルマン:マズルカ ヘ短調(酒井 茜・ソロ)】

シュピルマンは『戦場のピアニスト』のモデルとなったピアニストですが、作曲活動もしていたんですね。今回初めて聴きましたが、ショパンの音楽によく似ている。これは1942年にワルシャワゲットーのカフェで働いていたときに作曲された作品で、当時ナチスはショパンをナショナリズムを刺激する音楽であるとして演奏を禁止していました(そういえばワルシャワのショパン像もナチスにより破壊されたんでしたね)。この曲が非常にショパン風なのは、そんなナチスに対するシュピルマンのせめてもの抵抗だったのではないかとのこと。この曲が作曲された年の後半、彼の家族は強制収容所に運ばれ、全員が命を落としました。一人ゲットーに残された彼の物語は、映画で描かれているとおりです。ギトリスは終戦直後に初めての西側のユダヤ人としてポーランドを訪れ、その際にシュピルマンと会っていて、「素晴らしいピアニストだし、素敵な人だったな」と言っていたそうです(プログラムより)。
濃厚すぎない酒井さんの演奏からは、この曲が弾かれたかもしれないカフェの空気を感じられる気がしました(といっても”ゲットーのカフェ”であることは忘れてはなりませんが…)。

【シマノフスキ:マズルカ op.50から第10番(酒井 茜・ソロ)】
やはりポーランドの作曲家であるシマノフスキは以前ツィメルマンやヤンセンで聴いたことがあって、どちらもすごく濃厚な演奏だったのだけれど、今日の演奏はもう少し軽やかな感じで、これはこれで新鮮でした。

【プロコフィエフ:「三つのオレンジへの恋」より行進曲(辻彩奈、酒井茜)*アンコール】
【モーツァルト:4手のピアノ・ソナタ K.381 第3楽章(アルゲリッチ、酒井茜)*アンコール】
後半少々重い選曲だったので、最後の明るいモーツァルトで笑顔で帰ることができました。
カーテンコールは、アルゲリッチが他の二人を促して左右に移動して、客席に深々とお辞儀。今日の会場はP席はなかったけど、舞台後方も振り返って確認していた。キャンセル魔で有名な人だけど、気遣いの人なのだなあ。舞台袖が見える席に座っていた方のtwitter情報によると、演奏を終えた辻さんや酒井さんを舞台袖で拍手で迎えていたそうです
酒井さんや辻さんと一緒にいるアルゲリッチは、なんだかとっても楽しそう 女子会みたい
NHKのカメラが入っていたので、いつか放送されるかも。

7日のサントリーホールのクレーメルとのデュオにも行ったので、後ほど感想をあげますね(素晴らしかったです…!)。


終演後。魔界の塔のようなスカイツリー笑


女子会

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