風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

ポーランド3日目① ~クラクフ~

2018-07-25 01:37:38 | 旅・散歩


クラクフは本日も快晴
昼前にはワルシャワへ発たなきゃなので、朝食を早めにとって、お散歩に
まずは昨日とは違う道を通って旧市街へ。
朝早い街は人が少なくて気持ちい~


準備中のストール


ここを抜ければ市場広場。神父さん?が歩いていました。


まだ人の少ない広場。
でも本日の目的はここではなく、


グロツカ通りを南へ。


こんな脇道を横目にテクテクテクテク


十二聖人が並ぶ聖ペテロ聖パウロ教会を左手に見たりしながら


テクテクテクテク


右手にヴァヴェル城を眺め


さらにしばらく南下して、左に曲がると、


その一帯は、カジミエシュ地区。旧ユダヤ人街です。
上の写真は、この地区の中心にある新広場。この辺りには蚤の市が出たり、ザピエカンカ(30cmくらいある細長いピザトースト的なもの)を売る店があったりするのだが~、朝早いのでどこも開いていません。
もっともホテルで朝食をたらふく食べてきてお腹はいっぱいなので、付近の店のおじさん達が開店の準備をしていたり、観光客の殆どいないこういう雰囲気もいいものです。


地区内にいくつもあるシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)を眺めたりしながら、目的もなく街をお散歩
この辺りは映画『シンドラーのリスト』のゲットーの場面の撮影が行われたところでもあります(ただし実際にゲットーがあった場所は、ここから更に南へ下ってヴィスワ川を越えたところにあるポドグージェ地区)。
このカジミエシュ地区には今は殆どユダヤ人は住んでいないとのことですが、私が訪れたときは擦れ違うこともありました。なぜわかったかというと、ロンドンでもよく見かけたあのユダヤ教徒の正装をしていたから。


あてもなくテクテクテクテク


日本人にとっては珍しいユダヤ教徒のお墓を眺めたりしながら


あてもなくテクテク・・・


で。

ココハ・・・イッタイ・・・ドコ・・・・・・



完全に道に迷ったワタクシ 
とりあえずトラムのあるStarowiślna通りまでは出たはいいけれど、一体自分が街のどの辺りにいるのかまったく見当がつかない(地球の歩き方のカジミエシュ地区の地図おおざっぱすぎ;;)。人もあまり歩いてないし・・・。 以前ヘルシンキで広域地図の外まで歩いてしまった経験のある私は、早めに軌道修正しないとマズイことはわかっている。しかも2時間後にはワルシャワ行きの列車に乗らなければならないのである
えっと、とりあえずあと見ておきたいものは、ヴィスワ川くらいか。川へ行ければ、今いる位置もわかるはず。 

そこの白髪のおじさまぁ~~~!ヘルプミ~~~~! 

私「あの、川はこの道のどちらの方向ですか?」
おじさま「▲#〇%▽&? ◎*%△
私「(ポーランド語全然わかんない;;)あの・・・川は・・・」
おじさま「えーと、んーと、とりあえず僕が今来た方向がold townだよ」(old townは英語で言ってくれた)
私「ありがとうございます!」

ということは、こっちが川の方角のはずだけど、川や橋らしきものはここからは見えない・・・。今の私には道に迷っている時間はないの~。おじさん、ごめん!疑ってるわけじゃないけれど、確認のためにもう一人!

そこでタバコ吸って休憩してる観光バスの運転手の兄ちゃん~~~!ヘルプミ~~~!

私「あの、川はこの道のどちらの方向ですか?」
兄ちゃん(流暢な英語)「川・・・?」
ここでようやく自分の質問がわかりにくいことに気付くワタクシ。考えてみたら川って線のように流れてるんだから、右も左もないんじゃね・・・?
兄ちゃん「君が行きたい場所はどこなの?」
私「えーと・・・(とりあえず私が今いる場所を地球の歩き方の地図で教えてもらいたいけど、この地図は小さすぎる)」
兄ちゃん「シンドラーの工場?」
私「そう!シンドラーの工場!(工場の場所を教えてもらえれば今いる場所がわかる)」
兄ちゃん「それはね、この道をまっすぐ行って、橋を渡って、すぐ左に曲がればいいんだよ。もっと景色のいい道も知ってるけど、その行き方が一番わかりやすいから」
私「ふむふむ」
兄ちゃん「でもあの映画に興味があるなら、絶対にゲットーにも行くべきだよ。ガード下をくぐればすぐだから。ユダヤ人達は今いるここから家財道具を持って橋を渡って移住させられたんだ」
私「ああ、その橋はドキュメンタリーフィルムで観たことがある」
兄ちゃん「そうその橋だよ。ゲットーには絶対に行くべきだ」
私「了解。ありがとう

シンドラーの工場を見学する時間は全くないけれど(映画もだいぶ昔に一度観たきりだし)、とりあえず川の向こう岸までは行ってみよう


ポフスタンツフ・シロンスキフ橋(Most Powstańców Śląskich)から見たヴィスワ川。
はぁ・・・ようやく自分の位置を把握できたよぉ。ありがとう、おじいさん、兄ちゃん
ところでこの川沿いの妙に歴史を感じさせる黒ずんだ石壁は、当時からのものかしら。とりあえずパチリ

橋を渡ると、そこはポドグージェ地区。その右手一帯は第二次大戦中にナチスドイツによりユダヤ人ゲットーが作られた場所です。
お、あの先に見えるのは旅行前にネットで見た広場ではないかしら。


ゲットー英雄広場。
ゲットーのユダヤ人達はこの広場に集められ、列車で強制収容所へと移送されました。この椅子のオブジェクトは、ユダヤ人の子供達がカジミエシュ地区からゲットーに移住させられた際に学校で使用していた椅子を運んできたことに由来するもの。


椅子を運ぶ子供達の姿は、当時の記録フィルムにも映っています。


広場の一角にあるこの建物は、イーグル薬局(現クラクフ歴史博物館分館)。
この場所で薬局を営業していたポーランド人の薬剤師タデウシュ・パンキェヴィチは、この地区がゲットーとなった後も、強制移住させられたユダヤ人達のために営業を続け、彼らへの援助を惜しみませんでした。強制収容所へ移送されるユダヤ人達に無料で薬を提供したり、密かに匿ったりしたそうです(ポーランド政府観光局のサイトより)。


1941年から1943年まで、ここにゲットーがあった。


この地区には他にゲットーの壁跡や教会などがありますが、私はここでタイムアウト。列車に乗り遅れたら大変ですからね。
さあ、旧市街へ戻りましょう。


川沿いを東にテクテク歩いて行くと、やがてこんな橋が見えてきます。
Most Marszałka Józefa Piłsudskiego(1933年築)。クラクフ市内のヴィスワ川にかかる橋のうち、建築当時の姿を残す最古の橋です。
第二次大戦末期に撤退するドイツ軍により爆破されポドグージェ地区側の一部が損壊しましたが、1948年に修復され再び架けられました。


カジミエシュ地区側から見た橋。


記録フィルムより。家財道具とともにゲットーへ移住させられるユダヤ人達。


1945年1月18日の写真。ドイツ軍により爆破された橋が写っています。手前にいるのはソ連兵でしょうか。
川沿いの石壁は、やはり現在と同じもののようです。
ポドグージェ地区にはゲットー当時の建物は殆ど残っていないとブログなどで読んでいたので、こんな風に当時の風景が何気なく残っていたのはすこし意外でした。


教会も石壁も橋も川も変わらずここにあって。
ほんの70数年前にここで起きていたことが信じられないほど平和で穏やかな風景。
そう、まだほんの70数年前の出来事なんですよね。この場所にゲットーがあったのも、強制収容所で大量虐殺が行われたのも、広島や長崎に原爆が落とされたのも。


再びカジミエシュ地区を北上して、地元の布屋さんでメイドインポーランドのクロスを買ったり、土産物屋でショパンのトートバッグを買ったりしながら、旧市街へ戻ります


旧市街は観光客がいっぱい。


さくさくホテルへ戻って(聖マリア教会の中に入れなかったのはちょっと残念)、さくさくチェックアウトして~


再びショッピングセンター内で迷いに迷って~


無事ホームに到着。
早め早め行動の重要性を噛みしめる。まあ私が方向音痴すぎるだけなんですが。


11:51発のEIP。今回は正しい便名が表示されてた^^;


バイバイ、クラクフ!また来る日まで(来ることはあるかな?)


帰りは二等車。
座席は綺麗でまったく問題ないのだが、機内持ち込みサイズのスーツケースを載せられる高さの棚が車両の半分にしかない
ということにさえ気付かず、荷物が入らない・・・どうしたらいいのぉ~~~と泣きそうになって通路で呆然としていたら、数列前の席に座っていたポーランド人のおばちゃんが「あなた!こっちよ!こっちに載せなさい!」とポーランド語で叫んでくれた。おばちゃんが女神様に見えたよぉ~~~~。ありがとぉ~おばちゃん 私、これからは英語の通じなそうな来日観光客にも臆せず日本語で声をかけて助けてあげることにする!!


昨日買ったオブヴァジャネックを車内で食べたけど、パサパサしていて特に美味しいものではないなぁ。コーヒーと一緒に食べたかったのに、二等車はコーヒーやジュースじゃなくてミネラルウォーターが配られるだけなのね(ガス入りかノンガスかは選べた)。写真のお茶は成田空港で買ってからずっと開けていなかったもの。
なんだか眠くなってきたけど・・・、眠るわけにはいかないのである。ワルシャワ中央駅は終点じゃないので、寝過ごしたら大変だもの。

つづく。


Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポーランド2日目② ~オシフィエンチム~

2018-07-10 01:24:29 | 旅・散歩

アウシュヴィッツ=ビルケナウ博物館のあるオシフィエンチムまでは約1時間半のバス旅。バス代は、片道14zł(約390円)。ライコニック社の大型バスは座席も広く快適で、ポーランドの物価はほんっと安い
バス停で親しくなった日本人の方と楽しく話しながらだったので、あっという間に着いてしまいました。

見学は、事前にメールで予約してあったアウシュヴィッツ唯一の公認日本人ガイドである中谷さんにご案内いただきました。ガイド料は一人60zł(約1800円)。この日の参加者は20人くらいだったでしょうか。

※博物館の公式日本語パンフレットはこちら


ガイドツアーの集合場所でもあったエントランス。
地下にトイレ(2zł)があり、軽食や関連書籍などもここで購入できます。


強制収容所内の写真撮影は、「ここで起きた歴史を人々に伝える」という目的に限り、一部の場所を除き認められています。ただしここは墓場でもあるとの考えから、非常識な撮影(自撮りなど)はご遠慮ください、とのこと。

各見学場所の詳細はネットの海に溢れかえっていますので、私は自分が感じたことを少しだけ。
まず旅行前に読んだいくつかのブログでこの施設の観光客の多さについて触れられていましたが、実際に行ってみると、人数制限がなされた各国語ツアーがそれぞれ纏まってコースを周るため、テーマパークのようにどこもかしこも人だらけという状態では全くありません。それでも「せっかく行くなら当時の空気をよりリアルに感じたい。そのためにはできるだけ人の少ない季節、時間帯に行きたい」と思う人もいるかもしれません。私自身、普通の観光地であれば人が少ないに越したことはありませんし、正直行く前はそういう気持ちもなきにしもあらずでした。
ですが実際にこの場所を訪れてみると、不思議とそういう気持ちは全く起こらなかったんです。

中谷さんもシリアの問題などについて仰っていましたが、私達の世界では紛争や悲劇が今なお続いていて、日本でも問題は山積みで、そのような世界においてこの博物館が担う役割は何か、私達がこの博物館を訪れる理由は何か。それを考えるとき、「過去にここに収容されていた人達の心情をリアルに想像し、涙を流すこと」はそれほど重要なことだとは思えない、というよりもそこで終わってはいけないのだという気持ちの方をより強く感じたのです。
そういう意味ではむしろ、あれから長い年月がたち、こういう明るい空の下で多くの人がこの場所を訪れているこの状況はいいことであるように感じられました。
大切なのはここを訪れて涙を流すことではなく、過去にここで起きた事実について同じ空気を吸いながら学び、なぜそのようなことが起きてしまったのか、悲劇を繰り返さないためには何が大切なのか、依然として様々な問題を抱えているこの世界で自分にできることは何か、見学者それぞれが自分の頭で考えるきっかけとなることが今の時代におけるこの博物館の存在意義ではないか、と私には感じられました。
それは、綺麗に整備されている広島の原爆公園や知覧の特攻平和記念館を訪れたときの感覚と似ています。きっと起こった事実があまりに重く凄惨で、「可哀想だ」と泣くだけで終わりにさせてはくれないのです。そういう何かがこれらの場所にはあるように思います。

中谷さんが仰っていたことをもう一つ。「海外の人達と話をしているときに自分が日本の近現代史について十分な知識がないと感じたとしても、そのことに引け目を感じる必要はないんです。なぜなら私達は学校で教えてもらっていないのだから」と。そして、杉原千畝さん、緒方貞子さんといった世界の舞台で立派に活躍をされてきた(されている)日本人の方達の名前をあげておられました。

そしてここを訪れるときに忘れてはならないことをもう一つ。当時日本はドイツの同盟国であったということ。



中と外を隔てる二重の有刺鉄線。当時は高圧電流が流されていました。




















朝礼のときにマキシミリアノ・コルベ神父が立っていたとされる場所には、コルベ神父の囚人番号の書かれたプレートがあります。その向かい側には、集団絞首台があります。コルベ神父はこのとき47歳。自分だったらどうだろう、と考えないではいられません。コルベ神父達が入れられた餓死牢も見学しました(光の少ない地下のため写真撮影は禁止)。その近くには立ち牢や窒息牢もありました。
ところでコルベ神父がポーランド人のカトリック司祭であることからも明らかなように、ナチスドイツがこれらのいわゆる絶滅収容所で絶滅させしようとしていた対象はユダヤ人だけでなく、ロマ・シンティ(ジプシー)、政治犯、ソ連兵捕虜、同性愛者、聖職者、身体障害者、精神障害者などがいて、その出身国は多岐にわたっています。


「”死の壁”での銃殺刑を言い渡された男達は、ここで衣服を剥がされた。またここで処刑が行われることもあった」(説明書きより)。
同様の目的のための女性用の部屋も、すぐ近くにありました。


銃殺刑が行われた、”死の壁”(これはガス室や焼却炉や鞄と同じく復元であると何かで読んだ記憶があります)。
上に高く掲げられている青と白の旗は、囚人服を表わしたもの。壁左下に赤と白のミニ薔薇と一緒に手向けられているのは、ドイツとポーランドの国旗です。中谷さんが「ああ、ドイツとポーランドの国旗が一緒に置かれていますね」と仰って、気がつきました。
今回のツアーでは、私達のグループの前にユダヤ人のグループ(イスラエルの人達?)が見学している状態になるときがあり、中谷さんは「こういう状態で見学ができるのは皆さんにとっていいことなんです」と。「ユダヤ人といっても、髪も目の色も様々であることがよくおわかりいただけるでしょう」と。「ユダヤ教を信仰する人、そういう人を親に持つ人がユダヤ人なのであり、ユダヤ人種というものはそもそも存在しないんです。なのに基準を設けて存在しないものを存在するとしたのが、ヒトラーでした」と。
またあるときは、ドイツ人の団体が前にいたこともありました。「彼らがどういう心境でここにいるのか、想像してみてください」と中谷さんは仰っていました。こういう状況でコースをまわることができるのも、ツアー見学のよさだと思います。
ただ、他のグループが近くに多くいるときは説明を受けるイヤホンの音が途切れたり混線したりしてよく聴こえないことが多くあったので、あれは改善されるといいですね。










ガス室のすぐ隣の部屋が焼却炉になっていました。


次は、バスで移動して、アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウへ。


ビルケナウ入口の監視塔。
有名な鉄道の引き込み線が、中央を貫いています。


入口を入ってすぐに3本に分かれている線路は、より多くの収容者を効率的に処理するためだとか。


突き当りの林のあたりが、線路の終点。クレマトリウム(ガス室兼焼却炉)があった場所です。そこまで歩きます。


監視塔とクレマトリウムの真ん中あたりに、ユダヤ人の移送に使用された貨車が展示されていました。もとは家畜移送用のもので、窓などはありません(祖父がシベリアへ抑留された際に満州から乗せられた貨車も、おそらくこういう貨車だったのでしょう)。
この場所でSSの医師による「選別」が次々と行われ、一説では75%がこの場でガス室送りとなったそうです。主に老人、女性、子供など、労働力とみなされなかった人達です。








林の中に残るクレマトリウムの残骸。収容所解放前夜にドイツ軍により破壊されたためこのような形になっていますが、地下室や煙突の面影などは見てとれます。収容棟やガス室を作らされたのも、殺戮や遺体処理の作業に携わされたのも、収容者達だったそうです。その理由は「ドイツ人に苦痛を感じさせないため」とのこと。






写真左は、木造の収容棟跡。現在は煉瓦の煙突のみが残っています。
アンネ・フランクが収容されていたのもこのあたり。




一つの段を何人もで使用したそうです。




トイレ。用を足す時間まで決められていたとのこと。






収容所の内と外






第一収容所に戻ってツアーが解散し、再びバスに1時間半乗りクラクフに戻ると、20時を過ぎていました。


アウシュヴィッツでお知り合いになった女性と、一日お疲れさまの乾杯
ポーランドのビール、美味しい(銘柄は地球の歩き方にも載っていたものだけど、いま手元にない)
ジュレック、ディルが効いていてすんごい美味
キノコソースのロールキャベツは、ボリュームたっぷりで絶品
ピエロギは、まあふつうでした(ピエロギ自体がああいうものなのかも)。
これにマッシュルームスープも頼んで、一人60ズロチ(約1800円)。安いわ~。
ああ、食事の美味しい国って素敵
もっともこちらはミシュランのお店だったそうで、特に美味しいお店だったのかも。

一緒に食事をさせていただいた女性は60代の方で、ポーランドを27日かけて一人旅されているそうで、お話が楽しくて、時間が過ぎるのがあっという間でした。と、そこに同じくアウシュヴィッツでご一緒だったご夫婦もお店に入って来られ、こちらはポーランドとブルガリアとギリシャを一か月かけてまわられているそうです。世界ではこうして沢山の日本人が旅しているんだねえ。


時刻も22時を過ぎたので、お互いの連絡先を交換して、お開きに。


ホテルへの帰り道にあった騎馬像。青と白の旗は、クラクフの旗。


泊まったホテルとトラム


ホテル脇の道。
さすがにこの時間になると人も少ないですね(ていうか誰もいない)。
駅前広場では若者達がスケボー的なものをしていました。


このホテルは廊下も可愛らしいのです

いっぱい歩いて疲れたけど、充実した一日でした。
日本を発ってからすごく沢山のことがあった気がするけど、まだ2日。日本にいると変わりなく過ごしてしまう時間も、過ごし方によってこんなに違うんですね。
明日はワルシャワへ帰らなきゃなので、荷物をまとめて、シャワーを浴びて、お休みなさい

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポーランド2日目① ~クラクフ~ 

2018-07-05 20:04:33 | 旅・散歩


本日も快晴
今日は、朝からクラクフへ移動します。
5時半に起きるつもりが、目覚ましの設定を間違えて4時半に起きてしまう 長い一日になりそう・・・。
フロントにて。
私:モーニン
兄ちゃん:モーニン(笑顔がないけど怒ってるわけでもなさそうな無表情)
私:チェックアウトプリーズ(カードキーをデスクの上に置く)
兄ちゃん:(カードキーには目もくれず無言で手元のPCをカチャカチャ)
私:・・・・・・。
兄ちゃん:(延々カチャカチャ。カードキーはデスクの上に置かれたまま)
私:(あまりの長い時間に痺れを切らし)ルーム309だけど。
兄ちゃん:ちょっと待って、朝はコンピュータの立ち上がりが遅いんだ(微かな笑顔らしき口元)
私:ああ、そう(それならそう言えばいいのに^^;)
兄ちゃん:(カチャカチャカチャカチャ)日本円で払う?
私:(再びの長い時間に意識が飛びかけていて)はい。・・・じゃなかった、ポーランドズロチで!
兄ちゃん:(返事なく、無言で手元のPCをカチャカチャ)
私:(ちゃんと間違いなくやってくれてるのかしら・・・と不安になったが、その後金額の確認やら何やら問題なく手続きは済み)駅へはこっちに行けばいいの?
兄ちゃん:そう、そっちで大丈夫!(いきなりの満面の笑顔)
私:ありがとう。(ポーランド人ってわかりにくい



昨日迷いに迷ったワルシャワ中央駅も、地上から行けばすんなり。
さて私がPKP(ポーランド鉄道)のサイトから予約した列車は、6:45発のEIP1301便でした。
プラットフォームは何番かしら~とDeparturesの電光掲示板を確認すると、そこには「6:45 EIP1300 Kraków Główny」の文字が。
海外個人旅行は確認しすぎてしすぎることはなし。 InformationへGo~ 

私:(ネット予約のチケットを見せて)私が予約したのはEIP1301便で、あそこの掲示板にはEIP1300とあるんだけど。
若い兄ちゃん: ああ、その数字はdon’t care! (←便名を気にするなと!?) 
私:じゃあ、プラットフォームは3番でいいのね?
若い兄ちゃん:(無言で手元のファイルをパラパラ)
私:・・・・・。(これは私のプラットフォームを調べてくれてるのかしら・・・。それとも、もうこの会話は終わりにされてるのかしら・・・)
若い兄ちゃん:(だいぶたってから)そう、プラットフォームは3番
私:(調べてくれてたのね)ありがとう。

こんなやりとりが、ポーランド旅行中はしょっちゅうでした。無表情だから怒ってるのかと思うと、全然怒っていなかったり。黙ってるから何もしてくれていないのかと思うと、実はちゃんとしてくれてたり。慣れるまで少し時間がかかったけど、なんか独特で面白かったです。もちろん無表情で本当に不機嫌なパターンもあり(舌打ちされたりする)。海外一人旅はメンタル的にタフになれます。


列車は、定刻より10分ほど遅れて到着。
車内では、ショパンのノクターンがお出迎え。
さあ、クラクフへ向けてしゅっぱ~つ
行きの列車は、奮発して一等席です

が、ここでまたもやハプニング。

私が席に座っていると、同年代のポーランド人?女性が「ここはあなたの席?」と。
お互いのチケットを確認すると、レファレンスナンバーと購入日(彼女の方が前)以外は全く同じ。彼女曰く、友人に買ってもらったチケットとのこと。それから二人で車内を歩いて、車掌室へ(車掌って英語で"conductor"なんですねー)。
私達と同年代の男性の車掌さんは二枚のチケットをスキャンで確認し、無表情で「君(=私)のはOK。君(=彼女)のはダメ」と。彼女は「なぜこんなことが起きてるのか?」と抗議。それからは私の理解不能な言語(たぶんポーランド語)で早口の強い口調で話し始める二人。ハラハラしながら聞いていると、突然二人とも笑顔になったりして、本当にこの国の人達の反応ってわかりにくい。そんな二人のやり取りをぼー・・・と突っ立って見ていたら、ふと車掌さんが英語で「君は席に戻っていいよ。君のチケットは何も問題ないから」と。女性も「あなたのチケットは正しいチケットだから、席に戻って大丈夫よ」と。
でもすぐに二人の会話が終了したので、彼女と一緒に元の号車に戻りながら「一体何が原因だったの?」と聞くと、「原因はまだわからないけど、彼らが解決しているから大丈夫」と。

そしてさっきの席に戻ると・・・、知らない男性が座っているではないですか 彼女も私も苦笑するしかない。

「あの、そこは私の席なんですが」と英語で話しかけると、後方の席の奥様にイラついたように「そんなこと言われたって俺の席には他の人が座ってるんだから!」と日本語で仰る。おお、日本人の方ですか。事情を聞いてみると、このご夫婦も別の座席でダブルブッキングにあったみたい(そして私の席が空いていたから座っていた)。「それぞれのチケットを車掌さんに確認してもらうといいですよ。私も今そうしました」と教えてさしあげたが、確認にいくご様子はなく、怒り心頭で「こんなインチキチケットは初めてだ!!」と奥さまに怒鳴っていらっしゃる。ここで怒っていても仕方がないでしょうに
というわけで、ようやく私は本来の座席へ。旅って色々あるねえ。。。


窓の外の景色はずっとこんな感じの緑の平野。
樹木の種類は日本と似ています。


軽食のメニュー。
行きの列車を一等席にした理由は、出発が朝早くホテルで朝食を食べられなかったから。一等席ではジュースとコーヒーとエナジードリンクと軽食がサーブされるんです。二等席は飲み物が一回だけ。値段は、今回のような直前購入の最も割高なレートで一等席が229zł(約7,300円)、二等席が135zł(約4,300円)。そして一等の片側は、隣に人がいない快適な一人席。ワルシャワークラクフ間の乗車時間は2時間20分。さて、この差額を高いとみるか安いとみるか。


まずはコーヒーが運ばれて~(ちゃんと陶器のカップよ


そして、軽食~
3種類のメニューから私が選択したのは、"Mini-Brioches with Chicken and Sun-dried Tomatoes"。
なにこれ、ちっさ!軽食ってこれだけと正直思ったが、味はとっても美味しかったので満足。
でもポーランドの物価を考えると、やっぱりこの差額は高いかなー。食堂車もあるし、駅でサンドイッチを買って乗ってもいいわけだし。
で、帰りに二等車(全く問題なし)に乗って出た私の結論は、ポーランドへしょっちゅう行くわけじゃないのなら、鉄道の旅が好きな人(←私)は一度は一等に乗るべし 食事や飲み物が列車の中で陶器の器でサーブされる体験ができるのは今時貴重ですし、「世界の車窓から」みたいで旅情が刺激されます。あと早割が適用される場合は絶対にお得だと思う。

そうそう、食事の前に検札がきたんです。
前方から一席一席検札しながら歩いてくるのは、さっきの車掌さん。
私のところにくると、私の顔をチラリと見て、
「ダブルブッキングだったね」
とイタズラっぽくニヤリ。
このノリ、海外だな~~と思わず笑ってしまいました。日本ならダブルブッキング騒動を謝ってくれるのが殆どだと思うんです。たとえ鉄道会社に非がなくとも。
そしてさっきは私に一度も笑顔を見せなかったのに、このニヤリ。ポーランドだわ~。
まあ嫌いじゃないです、こういうの笑。


クラクフのホテルは今回の旅の中で一番安いところだったのだけれど、かなり良かった
建物は1884年築。この街の歴史を思うと感慨深いものがあります。
スタッフも感じがよく、聞かなくても旧市街への行き方を説明してくれたり、朝9時に着いたのに私の部屋を先に掃除して(10分待てる?と確認され)チェックインさせてくれました。




ツインの部屋は広くて清潔だし、


扉を開けると、プライベートの中庭まで付いてるし
ヨーロピアンな雰囲気たっぷりで、中央駅の目の前で、旧市街へもすぐで、朝食付きで295zł(約9,000円)。高くないと思う~。フロントのポワロみたいなおじさんも親切で楽しかった

さてアウシュヴィッツへのバス(12:30発)まではまだ3時間くらいあるので、早速旧市街へ~。ではなく、まずはバスターミナルの場所の確認へ。


右のクラシカルな建物は旧クラクフ中央駅で、正面のモダンな建物が現在のクラクフ中央駅、兼ショッピングセンター。
地球の歩き方によると、MDAバスターミナルはこの裏手にあるはず。


ショッピングセンターに入って、、、さて、、、。
のマークの標識は見つけたけど、これに従っていいのだろうか。長距離バスじゃなくローカルバスの案内だったりしないだろうか。
警備員の女性(上の写真の女性)に「バスターミナルにはどう行けばいいか」と質問すると、
「標識のマークを見ればわかるでしょ」
みたいなことをポーランド語で言われる。無表情で(しかし今思うと、実は怒っていなかったのかもしれない)。
でもありがとう、その答えで十分♪
マークに従って歩いて行くと、、、


と、遠い・・・・・・・・・・・・・・。
ほんっとポーランドってワンブロックがめちゃくちゃ長い
本当にこの道で合っているのかと不安になリ始めた頃、ようやく出口へ。
あった~~~~~バスターミナル!


エントランスの壁。
昔のこの辺りの写真でしょうか。




時刻表で乗り場を確認すると、、、オシフィエンチム(Oświęcim)行きのバスの表示が3種類に分かれてるんだけど、、、何が違うのぉ~~~
圧倒的に多い乗り場はG7のようだけど、この中に12:30発は一つしかなくて、それはG4ってあるから、G4でいいのか?
でも「ちょっとの時刻の違いはdon't care!」なんてこともあるかも・・・(ワルシャワのトラウマ)。
InformationへGo~

私:(ネット購入したポーランド語おんりーのチケットを見せて)このバスの乗り場はG4で合ってますか?
若いお姉ちゃん:(無表情でPCでカタカタ確認してから)ええ合ってるわ、G4よ!

確認完了~~~~
あとは出発時間まで心置きなく観光しましょう


ワルシャワのバルバカンは先述のとおり第二次大戦後の復元ですが、こちらは15世紀からのオリジナル。
ここをぬけると旧市街です。


フロリアンスカ門


お土産のボレスワヴィエツ陶器を買ったりしながら、中央広場へ




中央広場。観光客がいっぱい笑。
クラクフは17世紀にワルシャワに遷都するまでポーランドの首都だった街で、ワルシャワとは異なり第二次大戦の戦火を免れたため、中世からの街並みがそのまま残されています。クラクフ歴史地区は、世界遺産第一号の12件のうちの一つ。


広場の中心にある、織物会館。
建築は素敵だけどTheお土産なものばかりで、買いたいものは何もなし


写真奥のグロツカ通りをまっすぐ進むと、やがてヴァヴェル城が右手に見え、更に進むとカジミエシュ地区(ユダヤ人街)となり、更に進んでヴィスワ川を渡るとポドグージェ地区(かつてユダヤ人ゲットーが作られた地区)に出ます。今日のところはバスの時間があるので、この地点で折り返し。


街のあちこちで売られているクラクフ名物「オブヴァジャネック」の屋台。柔らかい方のプレッツェルのような食感&味のパン。水分が少なく、モッチリではなくパサパサ系です。私も記念に一つ買い、翌日の列車の中で食べました。

ちょうどいい時間になったので、一旦ホテルに戻ってお土産を置き、バスターミナルへ向かいましょう。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポーランド1日目 ~ワルシャワ~

2018-07-03 02:46:27 | 旅・散歩



というわけで旅行記を。
6月上旬にポーランドとアムステルダムに行ってきました。

今回の旅の一番の目的は、アムステルダムでハイティンク×コンセルトヘボウ管弦楽団によるマーラー9番を聴くこと
なので、まず購入したのはコンサートのチケットでした。コンセルトヘボウのチケットはキャンセルは不可だけど、1年以内なら他のコンサートに振り替えが可能なんです。だから最悪今回行けなかったとしても、一年以内に行けば無駄にはならなかったので。
仕事とハイティンクの状況がぎりぎりまで読めなかったため、ホテルはキャンセル可なものにし、航空券を購入したのは出発2週間前を切っていました。
その時点でKLMのアムステルダム直行便よりもポーランド航空のワルシャワ経由便の方が値段が安かったため、それならば前から興味のあったポーランドにも行ってしまおうと殆ど衝動買い。
でもそれからが大変だった。ポーランドに関しては下調べゼロだったので、「ワルシャワへ行くなら、クラクフへも行きたい。クラクフへ行くなら、オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)へも行きたい。でも鉄道やバスのチケットはどう買うのか?」状態。サイトによってはポーランド語しかないし(今回の旅行はgoogle翻訳様様でございました)。日中は仕事をしているので、調べられる時間は夜しかない。てかポーランドのガイドブックって地球の歩き方くらいしか売ってないし。ポーランドってこんなに情報が少ない国だったの と航空券を買ってから慌てる始末。


そんなこんなで前夜までバタバタしつつも、なんとか準備を済ませ、しゅっぱ~つ
成田10:15発→ワルシャワ14:25着。飛行時間11時間10分。
機内でも引き続きポーランドの情報収集をしていたため、11時間はあっという間でした。


巷で酷評されていたLOTの機内食は、全然問題なかった。特別美味しくもなかったけども。今回2万円を足すとプレミアムエコノミーを選択できたのですが、演奏会代にお金を使っちゃったので節約
そして今更ながらBoeing787の電子カーテンにおおっ!と感動する田舎者のワタクシ。一方で、ボッロボロに破れた前シートの背のネット。機体はドリームライナー、内装は旧共産圏な、昭和生まれの私にはちょっと懐かしい空気も感じるLOTでした。

予定より40分ほど早く、ワルシャワに到着。
入国審査は空いていて、質問はゼロ。
それから中央駅へ行くまでは順調だったものの、中央駅の地下街で散々迷い(地上に出れば全く迷わないことを後から知る)、親切なポーランドの人達に助けられ、なんとかホテルへ。疲れた
ポーランド語のみしか話せない高齢の人達と英語のみしか話せない私と、なぜか通じる会話。“Dziękuję(ジェンクェン)”は今回唯一私が話したポーランド語で、「ありがとう」の意味。発音は、飛行機で隣の席だったポーランド人の女性に教えてもらいました。旅行中、何度この言葉を使ったか。みんな笑顔で返してくれました 他に旅行中に覚えたポーランド語は、Bilet(切符)、Lotnisko(空港)、Peron(プラットフォーム)、Tor(トラック)、Wagon(号車)、Kantor(両替)、Kartą(カード。発音はカルトン)、Tak(イエス)・・・くらいかしら・・・。
ポーランドってサービス業の人達にはThe旧共産圏な対応の人も少なからずいて凹まされることもあったけど(もちろん優しい人も沢山いた)、道端で出会った人達はみんなとっても温かで親切だったなあ

以下は、ワルシャワの街。



第二次大戦後にスターリンから贈られた、ワルシャワ市民にとっては全く嬉しくなかったという(当然)、Theソ連様式な文化科学宮殿。
写真だと分からないかもしれませんが、すんごく大きいんです。私が泊まったホテルはこの隣でしたが、ワンブロックが長くて長くて・・・・・・・・・ の割に意外と遠くからは見えないので、道に迷ったときのランドマークとしても使えないとゆう・・・


ショパンコンクールの会場としても使われるワルシャワ・フィルハーモニー


ショパンの心臓が納められている聖十字架教会(心臓は写真左の柱の中)


ワルシャワ大学正門


大学構内にある、ショパンが学んだワルシャワ高等学校(カジミェジョフスキ宮殿)。
13歳のときに4年生に編入したそうです。


その向かいにある、ショパン一家が住んでいたポレクトルスキ館(カジミェジョフスキ宮殿別館)


実は横長。


学生だったショパンが日曜ミサのオルガニストをつとめたヴィジトキ教会。
そして、そのミサで独唱していた初恋の相手コンスタンツィアに会っていた場所。


ショパンが8歳のときに初めてピアノ演奏会を開いたラジヴィウ宮殿(現在の大統領官邸)


私が行ったときは警察や軍の人達がいて物々しい雰囲気でした。


大統領官邸に隣接する芝生に立つ、アダム・ミツキエヴィッチ像。
ポーランドの国民的ロマン派詩人/政治活動家で、ショパンの一連のバラードは彼の詩から着想を得たと伝えられているそうです。
この季節のポーランドはどこへ行っても薔薇が満開でした。


From Poland With Love」という街中のopen-air exhibision。
"The exhibition FROM POLAND WITH LOVE tells the moving story of Poles’ gratitude for the help of the United States in regaining Poland’s independence in 1918. The exhibition FROM POLAND WITH LOVE consists of four large-scale installations at Krakowskie Przedmiescie and an electronic presentation, containing a complete Declaration of Admiration and Friendship for the United States at the Historical Meeting House."とのこと。




王宮広場へ


聖アンナ教会の塔の上。
ちなみにここ、テレビドラマ『白い巨塔』で唐沢さんと黒木さんがロケをした場所だったりします(第11話)




眼下に見えているのは、ヴィスワ川。
ポーランドを南北に縦断し、やがてバルト海へと注ぐ大河です。






洗礼者ヨハネ大聖堂




旧市街広場へ


この旧市街広場の建物も、先ほどの王宮広場の建物も、実は全て第二次世界大戦後に建てられたもの。
ワルシャワの街はナチス・ドイツ軍により徹底的に破壊し尽くされたからです。
戦後、ポーランドの人々は「レンガのひび割れひとつに至るまで」忠実に復元し、元の街並みを取り戻しました。
そんな人々の不屈の熱意が高く評価され、ワルシャワ歴史地区は世界遺産に登録されています。

第二次世界大戦の後、廃墟と化した旧市街は社会主義に基づくソビエト流の町に作り替える計画によって消滅の危機にさらされたが、「意図と目的をもって破壊された街並みは意図と目的をもって復興させなければならない」という信念と「失われたものの復興は未来への責任である」という理念の下、再びポーランド人自身によって厳密に再建された。もともとの建物に使用された煉瓦はできるだけ再利用された。破片はふるいにかけられ、再利用できる要素はもともとあった場所に再度挿入された。
(wikipediaより)








バルバカン














ポーランド科学アカデミーとコペルニクスの像


ショパン博物館


ショパン博物館の正面右手の通りにある、ショパン音楽大学の壁。ショパンの楽譜が描かれています。
なんだかショパン関係の場所ばかり回ってるように見えるかもしれませんが、ワルシャワという街はふつうに歩いているだけで右も左もショパンゆかりの場所ばかりなのです。ポーランド航空でも、高速鉄道でもショパンの音楽で迎えられますし、空港名もワルシャワ・ショパン国際空港

 

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする