風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

世界はみんなきみのもの ~『なやむ前のどんぶり君』 & 『ムーミン谷の彗星』

2012-07-30 21:28:43 | 



 自身とこの世のすべての間にあるものは「関係」でしかない。所有の概念は人類史と同じだけの年月をもって普遍化されてきた支配者たちの知恵であり、引きずられてきたひとつの疾病であり、人間であるが故の単純錯覚である。…
 人生は所有できない。
 その代わり、あらゆる関係を通じて君が生きて楽しむ時間である。
 世界は所有できない。
 しかし、関係を通じて、意識した大きさだけ君とつながるものである。

(明川哲也 『なやむ前のどんぶり君』)


 みんなは、身を乗り出して、ながめました。せまい谷間に、数知れぬほどたくさんの赤い石が、ほの暗い光の中にかがやいています。黒い宇宙にちらばった、いくつもの彗星のように……。
 「あれがみな、きみのものなの」
 と、スニフは、小声でいいました。
 スナフキンは、平気な顔で、
 「ぼくが、ここに住んでるうちはね。自分で、きれいだと思うものは、なんでもぼくのものさ。その気になれば、世界じゅうでもな」

(トーベ・ヤンソン 『ムーミン谷の彗星』)

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井上靖 『天平の甍』

2012-07-17 01:25:41 | 



人間の行為の意義、無意義を分つものは、人間の意志を超えている。人間の歴史も、結局人間行為の無数の捨石の上に築かれている。みすみす無駄かも知れない、と知りながらも為さないではいられないのが、人間の真実だろう。


彼等一人々々の青年時代の理想は挫折しても、それぞれ自分の運命を貫いて、一筋に生きた姿が見事に辿られている。…鑑真という大きな姿を史上に齎らすために、それぞれの過程的な役割を果して、悠久の歴史の流れに消え去ったのが彼等である。この場合、氏の筆致は、歴史を書くような冷静さで、遠景に小さく、蟻のような彼等の姿を捕える。何かの爪跡を残して、すべては流れ去るといった感慨が、あとに残るのである。

(井上靖 『天平の甍』 解説より)


奈良西の京にある唐招提寺は、私の大好きなお寺のひとつです。
この寺を創建したのが、皆さん歴史の教科書でご存じの鑑真和上。
鑑真が幾多の困難を乗り越え日本に辿り着いたエピソードも、ご存じのとおり。
そしてこのエピソードを小説化したものが、『天平の甍』です。

この作家の作品を読んだのは今回が初めてで、非常に短い小説であるにもかかわらず、出てくる単語の難しさに挫折しそうになること幾度、、。
けれど。
一体なんだろう、読み終えたあと胸いっぱいに満たされる、この清々しい感動は。
山本健吉氏による解説に、それをぴたりと言い当てている言葉があったので、上に引用させていただきました。
読み始める前は「私を滅し、その人生を公に捧げた遣唐使達の物語なのだろう」と、漠然と想像していたのだけれど。
この作品に出てくる一人一人にもやはり「私」があり、それぞれに理想があり、迷いがあり、血の滲むような努力があり、挫折があり、一筋の光でさえも消されてしまう非情な運命があり、そしてそのすべては歴史という大きな流れの中の一砂にすぎない。
読み終わって特に私の心に残ったのは、数十年という人生の殆どを異国の地で経典の写しに費やし、遂にそれを日本へ持ち帰るというとき、その経典とともに海へと沈んだ僧、業行。
家庭を持つでもなく、旅をするでもなく、異国の小さな一室でいつか日本へもたらす経典のために人生を費やし、そのすべてが海の藻屑となってしまった彼の人生は、はたして無意味だったのか?
結果論から見ると、そうだとしかいいようがない。
けれど、人間の歴史とは、そういった無数の捨て石の上に築かれているのだ。
結果として、普照と鑑真は、日本へ渡った。
そして、業行の経典は海に沈んだ。
だが彼等は、そうなることを予め知っていて行動したわけではない。
海に沈むのは普照と鑑真であってもなんの不思議もなかったし、あるいは全員海に沈んでいたかも知れないのだ(当時その可能性は十分にあった)。
それでも、「無駄かも知れない」と知りながらも、彼等は行動する。
それぞれの理想を追い、それぞれの人生を生きる。
その結果論としてひとつの歴史が作られるのであって、その歴史から零れ落ちたところには、無数の人生と理想と努力があった。
それは、今も昔も変わらない。
私達も、歴史の一砂にすぎない。
ただひたすらに、自分の信じるところを生きるしかないのだ。
そして結果的に後世に何の名も残せなかったとしても、何の貢献もできなかったとしても、歴史から零れ落ちたそれらの人生にもまた“意義”はあるのだと、私は思う。
決して感情的な意味からではなく、現実的な、人間の歴史という意味からである。
この世界は、後世に意義あることを為した者によってのみ作られるのではない。
無数の人間の血と汗と涙と笑みの砂の上に、私達はある。

先日唐招提寺を訪れた際に、「天平香」というお香を購入しました。
鑑真の故郷であり遣唐使達も訪れた中国揚州の花「瓊花(けいか)」の香りのお香で、甘く、けれど涼やかな、清々しい香りをしています。
「自分の人生」「自分の幸福」「自分の…」。
どうしてもそんな発想に偏りがちな昨今の私達だけれど。
夏の夜、天平の香りに包まれて、遥か千三百年前、日本の仏教の確立という理想を胸に海を渡った若き僧たちに思いを馳せてみるのもよいのではないでしょうか?

※写真:唐招提寺金堂(奈良時代)

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