風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

春ですね

2024-03-22 12:35:03 | 日々いろいろ

春ですねえ。

みゆきさんのコンサートのチケットが全くとれる気配がない。。。ので、夜会のDVDを見直したり、アルバムを聴き直したりしながら、タラタラと過ごしてます。
いっそまだ知らない曲もある初期のアルバムから全制覇しようかしら。

職場でも十数年お世話になった同僚が定年退職していったり、私も異動の話が出ていたり、プライベートでも色々思うことがあったり、必要以上に気持ちだけが忙しなくなりがちな今日この頃。
その同僚は最初の2年をとっても非常識で理不尽な指示を出すドイツ人上司について、その後の7年はやはりとっても大変な日本人上司について、その後の定年までの数年は天国のような環境でのんびり仕事ができた、というヒト。
送別会で「よく辞めなかったよねぇ。どっちの上司もいつまでという期限がわかっていたわけじゃないのに」と言ったら、「すごく大変だったけど、いつまでも続くわけじゃないだろうと思ってたから。いつかは終わるだろうと」と。
どうにもならないような八方塞がりのトラブルについても、「でも結局なんとかなるものだから。なんとかなるのよ、実際」と飄々と言ってました。
「私はあまり先のことは考えないの。そのときそのときで。どうにかなるだろうと。みんな前もって心配してえらいな~と思うけど」と。
私は先回りして心配してしまうタイプなので、上司からも「真面目ですよねぇ。心配しすぎです。相手は大人なんだから、適当にやればいいんです」とよく言われる。
プライベートの友人も「とりあえずやってみて、その後のことはそのときに考えればいい」のだと言う。
そして、たとえばトライしてみて拒否されると、私は「どうして拒否されたのだろう。私に何か理由があったのでは」と考えてしまうけれど、友人曰く「そういうことは考えるだけ無駄。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。他人の気持ちなんてわからない。それに人はこちらが思ってるほどこちらのことなど気にしていないものだ」と。

たしかにそのとおりかもしれない、と最近思う。
答えの出ないことは考えても仕方がないのに、考えなくていいことまで考えて、自分で自分の悩みを増やして不幸せにしてしまっている気がする。そして周りにも迷惑をかけてしまっている気がする。準備をしておくことは大切だけど、私はそのクセがつきすぎているのかもしれない。

なんてことを、それでもまだ少し忙しない気分のなか、つらつらと思う春の一日。

あともう一つ思うのは、本当に大切なものを見失わないようにしなければ、ということ。
目の前の仕事の色々で心がいっぱいいっぱいになって余裕をなくしてしまうことがあるけれど、よく考えるとしょせんはただの仕事。失敗しても殺されるわけじゃなし。もちろんやりがいを持ってやってはいるけれど、私にとって人生の中でもっと大切な存在や時間は他にある。そっちを犠牲にしてしまっては元も子もない。宇宙的視点とまではいわなくても、少し俯瞰した視点、空を飛ぶ鳥くらいの目線で地上の自分を見る習慣は忘れないようにしないと、と改めて思う。大切な人達との人生の時間は有限なのだから。

私たちは春のなかで 失くさないものまで失くしかけている
(『私たちは春のなかで』)

愛だけを残せ 名さえも残さず 生命の証に 愛だけを残せ
(『愛だけを残せ』)

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東京都交響楽団 「マーラー10番」 @東京芸術劇場(2月23日)

2024-03-19 17:18:16 | クラシック音楽



【マーラー:交響曲第10番 嬰へ長調(デリック・クック補筆版)】
マーラー10番を聴くのは初めて。
「補筆版」ってどうなのだろうという気持ちがあってあまり食指が動かなかったのだけれど、”インバル都響のマーラー”は都響名物のように言われているので一度聴いてみたくて。
そして予習でyoutubeで数年前の同コンビの演奏を聴いてみたら、、、なんて良い曲。聴かず嫌いはいかんですね。

今日の演奏は、マーラー特有の諧謔味や可愛らしい音やしっとりとした美しさとかはあまり感じられなかったけれど、それを補って余りある重く濃く暗く、そして開放感のある音。高音の突き抜け感。改めてインバルは都響に良い音を出させますねぇ。。。
特にヴィオラとチェロの美しさが印象的でした。
全体的には速めで推進力があって、もう少しゆっくりひたらせて〜と感じることもあったのに、最後の長い長い一音の深みと静けさにやられた。。。。
あの終楽章、それまでの楽章で描かれたマーラーの葛藤や苦悩やアルマへの様々な感情(全てひっくるめての愛情)を最後に彼が音楽の世界の中で静かに美しく昇華させたような、そんな感覚を覚えながら聴いていました。

カテコのインバルも、とても満足そうだった
この日はヴィオラの店村さんの最後の日で、終演後に花束とご趣味の釣り竿が送られていました。今日のヴィオラの音、本当に素晴らしかった。真ん前の席(今日も最前列笑)で堪能させていただきました。

インバルの次回の来日は、6月の都響1000回公演のブルックナー9番とのこと。
お元気で来日してください!今回のご様子だと全く心配はいらなそうですけれど

※参考:グスタフ・マーラー(1860~1911)交響曲第10番 補筆5楽章版(千葉フィル)


インバルが語るマーラー10番(クック版) Inbal on Mahler's 10th-Cooke Version

【マーラーが遺した最後の言葉 最もマーラーらしく 最上の「クック版」】

 作曲家が遺した未完の作品が、常に完成されるべきものとは限りません。けれどもマーラーの交響曲第10番には、大いにその価値があります。なぜならそれはマーラーが書いた交響曲という自叙伝の続きであり、彼の人生と願望、世界観についての長編小説の続きだからです。
 マーラーは何回も「別れ」(Abschied)を告げています。《大地の歌》では「永遠に、永遠に」と。第9交響曲で彼は人生に別れを告げ、死を受け入れます。そして第10番は、まるで死後の世界で書かれたような、非常に不思議な強い印象を受けます。死後に彼が復活し、人生や死について回想しているかのような。
 楽譜には、彼の妻に宛てたたくさんの書き込みがあり、妻への愛を表しています。2人の生活は大きな問題を抱えていたのですが、マーラーは音楽の中で愛が完全に成就するようにしたのです。最終楽章は、彼が人生に求め、得られなかったすべてのものへの熱望で、心が張り裂けるようです。
 完成されていたら、これは非常に偉大な交響曲だったでしょう。肝心なのは、彼がすべての小節を書き、全曲を通して欠落はなかったということです。作品の半分はオーケストレーションまで完成し、残りも四段譜に各声部が書かれていましたが、いくつかの箇所はハーモニーを完成させる必要がありました。
 シェーンベルクやベルクなどの作曲家は交響曲を完成させる勇気がありませんでした。デリック・クックだけがまるでマーラーが乗り移ったかのように取り組み、何年もかかって演奏可能な状態にまで仕上げました。
 私がロンドンのBBC交響楽団で演奏した際、クックがリハーサルに立ち会い、いくつかの箇所で代替のオーケストレーションを話し合いましたが、彼はその後改訂版(第3稿第1版)を出版しました。彼の死後、助手が小さな修正を加えた新しい版(第3稿第2版)も出ましたが、私はいくつか同意できない変更点は前の版に戻しています。それが最も満足できる、マーラーの精神に忠実なものだと思うからです。
 クックの作業は、すべてマーラーのスケッチに基づいています。その後、他の研究者などによる別の完成版も作られましたが、私はクック版が最もマーラーらしく、信頼できる、最上のヴァージョンだと考えています。
 この演奏をお聴きいただくことは非常に重要なことで、これによって彼の全交響曲シリーズが完結するのです。ちょうどマーラー最後の言葉のように。
(エリアフ・インバル)

曲目解説(都響)『月刊都響』2014年7・8月号の原稿を改訂)








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ファビオ・ビオンディ バッハ無伴奏全曲 @神奈川県立音楽堂(2月17日)

2024-03-19 16:55:20 | クラシック音楽



≪第1部≫ 14:00開演
 ソナタ 第1番
 パルティータ 第1番
 ソナタ 第2番
 ソナタ 第3番 ハ長調 BWV1005 3. ラルゴ(アンコール)
 ソナタ 第1番 ト短調 BWV1001 4. プレスト(アンコール)
 
≪第2部≫ 18:00開演
 パルティータ 第2番
**休憩**
 ソナタ 第3番
 パルティータ 第3番
 ソナタ 第2番 イ短調 BWV1003 3. アンダンテ(アンコール)
 ソナタ 第1番 ト短調 BWV1001 1. アダージョ(アンコール)
 ソナタ 第1番 ト短調 BWV1001 4. プレスト(アンコール)


一か月以内に感想を書こうと思っていたのに、それも守れなくなってしまった。短くサラッと書けばいいだけなのにね。。

疲れた心がバッハの無伴奏を求めていたので、直前に一日券を半額で譲っていただいて行ってきました。地元なので気楽。
ビオンディを聴くのは初めて。
事前にyoutubeで聴いた彼の無伴奏はあまり好みとはいえなかったのだけれど、生で聴くと、人間らしい体温をもった演奏が心地よく感じられました。

これまで聴いたバッハの無伴奏はファウストとカヴァコスで、どちらも大曲シャコンヌを最後に持つパルティータ2番をプログラムの最後に持ってきていたのだけれど、今回はソナタとパルティータが交互に1→2→3番と演奏されました。

当初の予定では第一部のパルティータ1番とソナタ2番の間に休憩が入るはずだったのだけれど、、、普通にソナタ2番が始まった笑。
でもこれで正解!ソナタ1番→パルティータ1番と順に良くなっていって、やはりビオンディのようなタイプはパルティータの方が合ってるのかな?と思いかけたところで、ソナタ2番の冒頭から飛躍的に音が変わったから
私の大好きなソナタ2番のアンダンテ、彼の録音よりも今日の演奏の方が自然な軽やかさと優しさと深みが感じられて良かった。

休憩がなくなったので第一部が1時間で終わっちゃったので、第二部開始の18時まで桜木町駅のスープストックで時間を潰し、再び第二部へ。
先ほども書いたけれど、パルティータ2番が第二部の最初(全曲演奏会の真ん中)に演奏されたのが新鮮でした。
この曲順だと、短調→短調→短調→短調→長調→長調となるんですよね
ビオンディのシャコンヌの演奏を聴きながら、「人生に対する熱量が足りない自分」というものを改めて思ってしまいました。
最近気になってるんですよね。前から思ってはいたけれど、最近特にそれが気になる。もう少し自分の人生に対して熱量を持つべきなのでは、と。
谷川さんが似たようなことを数年前の対談会で仰っていたなぁ。コロナ前だったので90歳直前くらいのご年齢の頃だったか。


【盛会のうちに全曲演奏終了しました!】

ファビオ・ビオンディ バッハ「無伴奏」全曲
2/17 第1部+第2部 終了しました!
第1部では予定していた休憩がなくなってしまうというハプニングもありましたが、多くのお客様の熱い拍手とブラボーのお声をいただき、無事、全曲演奏を終えることができました。
各公演後のサイン会では長い列ができ、たくさんのお客様がひとりひとりビオンディ氏とあたたかい交流をされていました。
終演後、ビオンディ氏は改めて、J.S.バッハ「無伴奏ソナタとパルティータ」一挙演奏という取り組みに真剣に参加し、支えてくださったお客様の知性と素晴らしさへの感動を口にしていました。
第2部のアンコール最後の曲では「このホールに捧げる。輝かしい未来があるように」とのコメントがありました。
お客様も含めてこの日集ってくださったすべての人へのメッセージだと思います。
ご来場くださったすべての皆様に心より感謝申し上げます。

<おまけ:終演後のマエストロ・ビオンディ語録より>
…リピートと装飾については、今回のツアーでは毎回変えていました。
だから演奏時間はCDとは違っていたと思います。
大阪・いずみホールとも違っていたはずです。
お客様が入った生演奏で、全てのリピートを弾くのは現実的とはいえません。
装飾についても、アンコールで弾いた曲の装飾が、本編と違うことに、お客様は気づかれたと思います。
そうです。私は即興演奏しているのです。
バッハの装飾には、フレンチスタイル、イタリアンスタイル、そしてジャーマンスタイル等色々なものがある。
それらを組み合わせて弾いているのです。
即興的にどのスタイルをどこで採用するかの判断をできる様になるのはとても大変です。
それにはとてもとても長い練習しかありません。
そして何より大事なのは、どこまで許されるのか、という「限界」の感覚です。
どんなに即興的でも、音楽はあくまでバッハの音楽を逸脱してはいけないのです。

特設サイト@神奈川県立音楽堂)

ファビオ・ビオンディ メッセージ

Sonata No. 2 in A Minor, BWV 1003: No. 3, Andante

Partita No. 2 in D Minor, BWV 1004: No. 5, Ciaccona

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東京都交響楽団 第994回定期演奏会Bシリーズ @サントリーホール(2月16日)

2024-03-08 21:05:39 | クラシック音楽




インバル&都響を聴くのは2019年以来、4年半ぶり。そんなに聴いていなかったのか・・・。
当時インバルの音作りがなんとなくワンパターンのように感じられてきてしまい、しばらくこのコンビの演奏会からは遠ざかっていたのだけれど。
久しぶりに聴くと、上記のような面は今もなきにしもあらずだけれど、やっぱり良いですねぇインバル&都響の音
このコンビからしか聴けない音が確かにある。

【ショスタコーヴィチ:交響曲第9番 変ホ長調 op.70】
5番11番に続いて、3回目のインバルのショスタコ。
相変わらず暗く厳しく深みのある音がちゃんと出てくれているインバルのショスタコ!
最近お気に入りの井上さんのショスタコと比べると、ショスタコらしい諧謔みは少なめだけれど、これはこれでとてもいい。これもとっても「ショスタコの音」。
インバルはオケの音を限界まで出し切ってくれるのも変わらずで、聴いていて気持ちがいい。なのに崩壊しない。
都響も良くも悪くも完璧過ぎる感もなくはないけれど、やっぱりすごく上手い。
そして、、、インバル元気!
今回最前列でインバルの真後ろで聴いていたのだけれど、変わらず鼻歌歌って、第一楽章では足でタンダンと力強くリズムまでとってた。
今日で88歳になられるんですよね・・・。すごいバイタリティだ・・・。

(20分間の休憩)

【バーンスタイン:交響曲第3番《カディッシュ》(日本語字幕付き)】
語り/ジェイ・レディモア
ソプラノ/冨平安希子
合唱/新国立劇場合唱団
児童合唱/東京少年少女合唱隊

バーンスタインの交響曲を聴くのは、ラトル&ツィメルマン&ロンドン響の『第2番 不安の時代』に続いて2回目。
今日最前列でその音に全身で浴びながら、バーンスタインの心に包まれているような、あるいはバーンスタインの頭の中に入っているような、そんな感覚を覚えました。
インバルや都響がどうよりも「バーンスタイン」を感じた。
LSOとバーンスタインを演奏しながらラトルがツィメルマンに「彼(レニー)がここにいた気がする」と何度も言っていたそうだけど、バーンスタインの曲にはそういうところがあるように思う。特にこの3番には。
今日の演奏にバーンスタイン特有の弾むような軽やかさが出ていたかは微妙だけど、その音の響きと色から”バーンスタインの心”はいっぱいに感じることができました。
目覚め、夜明け、宇宙、そしてこの世界。
それらとバーンスタインの個人的な心の葛藤を真っすぐに強く感じることできたのは、今日の歌詞と語りが当初予定されていたピサール版ではなく、バーンスタインによるオリジナル版だったからだと思う。私はこのオリジナル版、とてもいいと思う。

語りのジェイ・レディモアさん。私は彼女の真ん前の席だったのでPAを通してではなく直接音でその声を聴くことができました。
「Be the great name of Man!」このパワフルな空気、日本人には出せないものだろうな、と。日本人が悪いのではなく、歴史的、文化的に出せない空気のように思う。
神への疑い。人間と神の新たな約束。私(人間)がかけた新たな虹。インバルによるとこの曲の人と神との関係はバーンスタイン独自の感覚で、通常のユダヤ教の考えではないとのこと(バーンスタインはユダヤの考えだと言っているけれど)。
バーンスタインは「人間」を信じることができた人だったのだなと改めて感じた。人間の良心を。

合唱団は、静かな男声の迫力が特に印象に残ったな。あと、子供達の声。

演奏後は、今日88歳の誕生日を迎えるインバルに花束が贈られました
ハッピーバースデー、マエストロ

インバル スペシャルインタビュー 全4回(2015年12月)
バーンスタイン作品におけるユダヤ性とジャズ



Jaye Ladymore Performs Bernstein's "Kaddish" | Leonard Bernstein's Kaddish Symphony | GP on PBS

バーンスタイン:交響曲第3番《カディッシュ》(1963)

 『ウエスト・サイド・ストーリー』などミュージカルの作曲家として知られるレナード・バーンスタイン(1918〜90)は、シリアスなクラシック作品も多く残しており、また20世紀後半を代表する指揮者でもあった。彼はボストン交響楽団の創立75周年(1956年)を記念するため、同交響楽団とクーセヴィツキー音楽財団から新曲の委嘱を受けた。しかし1950年代半ばのバーンスタインには映画や舞台、コンサート作品など、他にも作曲プロジェクトがあり、1958年からはニューヨーク・フィルの音楽監督に就任するなど多忙を極めていた。彼が委嘱作品にとりかかったのは1961年頃で、オーケストラ、混声合唱、児童合唱、語り手、独唱ソプラノによる交響曲《カディッシュ》は、1963年に完成した。完成間際にはジョン・F・ケネディ大統領(1917〜63)が暗殺される事件(11月22日)が起こり、バーンスタインはこの曲を「ジョン・F・ケネディの思い出に」献呈することにした。
 曲名の《カディッシュ》は、 ユダヤ教の伝統的な日々の祈りで、死に言及しているわけではないが、葬儀において墓前で引用される主要な祈りでもある。また、神への讃歌であると同時に平和への祈りでもある。この平和と救いを願うアラム語・ヘブライ語の讃歌は、交響曲の中で歌われる。またバーンスタインが作った英語による語りもある。その内容は、現代における信仰の危機、深刻な社会問題についてで、作品が東西冷戦期に書かれたことを彷彿とさせる。ときおり聞かれる神に対する鮮烈な不信や怒りが神への冒瀆ではないかという意見も評論家からは出されたが、バーンスタインはこれらをユダヤ教の伝統にあるものと認識していた。
 曲は3つの楽章からなり、第1・第2楽章は2つに、第3楽章は3つの部分に分かれるが、全曲は続けて演奏される。

 第1楽章は、序奏となる〈祈り〉と、主部にあたる〈カディッシュ1〉という構成。まずは合唱によるハミングを背景に〈祈り〉が始まる。フルートとハープによる謎めいた動機は弦楽器に受け継がれ、盛り上がる。この間に管楽器による突き刺さるような響きが挿入される。
 〈カディッシュ1〉に入り、合唱が歌い始めると、オーケストラが12音音列を使った不協和な動機を爆発させ、8分の7拍子と4分の3拍子が入り交じる変拍子の速いテンポの部分となる。合唱は手拍子も交え、エネルギッシュに進む。最後は「アーメン」を叫んで第1楽章が終わる。
 第2楽章の前半〈ディン・トラー〉は「裁きの場」。打楽器合奏が主導し、合唱のハミングを背景に語り手は、人間が起こした災いに満ちた世界における神の沈黙に対し、信仰の揺らぎを語る。やがて金管群による無調のファンファーレが始まり、心をかきむしる不協和な楽想が続く。曲は「アーメン」の合唱とともに高揚し、裁きが下されたかのような決然としたクライマックスに到達。最後は、8つのパートに分かれた合唱が各々のテンポで歌うカデンツァにより、瞑想的に「ディン・トラー」を閉じる。
 楽章の後半、8分の5拍子の〈カディッシュ2〉は、優しいオーケストラの伴奏に乗せたソプラノ独唱。三部形式で、神を讃美するソプラノの歌に、女声合唱は「アーメン」などで応えていく。中間部は16分の5拍子で盛り上がりを見せる。
 第3楽章は3部構成。〈スケルツォ〉はクラリネットとピッコロによる4分の3拍子の軽妙な動機で始まる。しかし無調のためか嘲笑的で皮相的だ。しかし語りが平和の虹とともに信仰を取り戻したことに触れると、変ト長調による希望の見える旋律が弦楽器を中心に麗しく奏される。この旋律は児童合唱によって導かれる〈カディッシュ3〉へとつながり、展開していく。
 〈フィナーレ〉は夢から現実への目覚めで、不協和な全奏によって始まる。弦楽による重々しい雰囲気が醸しだされ、静かになると、〈スケルツォ〉の後半で聴かれた希望の見える旋律とともに、神と人間との間に結ばれた契約に由来する生命の喜びや両者の共生が語られる。終結部は変拍子を使った賑やかな〈フーガ〉で、独唱ソプラノも加えた全ての合唱がオーケストラと華々しく共演する。最後に短く第1楽章冒頭の動機が回帰し、熱狂のうちに曲を閉じる。
谷口昭弘 @都響ホームページ

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NHK交響楽団 第2006回 定期公演 Bプロ @NHKホール(2月15日)

2024-03-02 15:10:11 | クラシック音楽



指揮 : パブロ・エラス=カサド
ヴァイオリン : アウグスティン・ハーデリヒ
ソプラノ : 吉田珠代

エラス・カサドが贈る祖国スペインにちなんだプログラム

「Bプログラム」では、パブロ・エラス・カサドが、祖国スペインにちなんだ音楽を取り上げる。ラヴェル《スペイン狂詩曲》は、20世紀初頭のフランスで花開いた異国趣味の産物。「ファ・ミ・レ・ド#」と下降する、熱帯夜のようにけだるい音階に導かれて、マラゲーニャやハバネラといった舞曲がスペイン風の情緒を醸し出す。とはいえ、これは緻密に計算された人工美、まぎれもなくラヴェル固有の世界でもある。

この曲を絶賛したというファリャ。その代表作《三角帽子》では、より開放的にフラメンコのリズムが躍動する。《スペイン狂詩曲》の〈祭り〉同様、《三角帽子》の終曲は、“ホタ”と呼ばれる民族舞踊で盛り上がるが、それまで温存されていたトロンボーンとテューバがここで初めて演奏に加わり、爆発的なクライマックスを築く手法は、ラヴェルの書き方にも似て極めて効果的だ。

エラス・カサドは2019年に《三角帽子》を録音したが、一時入手が困難になるくらい、このCDは評判を呼んだ。彼の持ち味である歯切れのよさと色彩感に、パワフルなN響の音圧が加われば、“鬼に金棒”の名演が生まれるかもしれない。

《ヴァイオリン協奏曲第2番》は、ツアーの道中にあったプロコフィエフが、スペインを含むヨーロッパ各地で書き継いで完成させ、初演はマドリードで行われた。

瞑想的な第1楽章に続くのは、ソリストのアウグスティン・ハーデリヒが「ヴァイオリン音楽史上、最も偉大なメロディ」で、「いつまでも終わってほしくない」と、惜しみない愛を注ぐ第2楽章。さらにはハバネラ風のリズムにカスタネットも加わり、目くるめく熱狂で終わる第3楽章。スペインのエッセンスに染まる一夜が満喫できるだろう。

NHK交響楽団ホームページ


友人からのお誘いで行ってきました。
ラヴェル、プロコフィエフ、ファリャ、と名前を並べるだけでもワクワクするバレエ・リュスの作曲家尽くしのプログラム。
とっても楽しかった

【ラヴェル/スペイン狂詩曲】
良い曲ですね~。
でも、隣の席の男性の鼻息?が大きくて、しばらく音楽に集中できず。。
4曲目「祭り」の頃にようやく集中できるようになり、最後は思いきり楽しむことができました。
エラス=カサドはオケの音色の美しさを保ちながらも限界まで鳴らしてくれて、綺麗な色がステージいっぱいに広がるのが見えた

【プロコフィエフ/ヴァイオリン協奏曲 第2番 ト短調 作品63】
なにより、ハーデリヒの音・・・!
音の周りに爽やかな風が吹いているよう。良い意味での清潔感というのか。一音目から驚きました。
この風の感覚が常にそよいでいるから、端正な演奏だけど四角四面に感じない。
二楽章、美しかった。。。三楽章もすごく楽しかったです。
色々なヴァイオリニストでこの曲を予習したけど(カヴァコスとかヤンセンとか)、この人の演奏、好きだなあ。
昨年のクーシストにしても、N響は良いヴァイオリニストを呼びますね。
私の知らない素晴らしい演奏家が世界には沢山いるのだなぁ。こういう演奏家に出会えるのが定期の良いところですよね。って、いただいたチケットだけど笑

(20分間の休憩)

【ファリャ/バレエ音楽「三角帽子」(全曲)】
いやぁ、良い演奏だった。。。楽しかった。。。
ファリャは、アチュカロさんのピアノリサイタルで聴いて以来、お気に入りの作曲家。
今日の演奏、アチュカロさんでアンダルシア幻想曲を聴いたときの感覚を思い出しました。
あのときに見えた、夜の帳の後ろでチラチラと蠢く多彩な原色の色。
今夜も夜の空気の中のカラフルな原色の色がはっきりと見えました。
ラストやりすぎなくらい大音量だったけど(楽しくてニコニコ笑顔で聴いてしまった。あれくらいやってくれていいよ!)、良い意味で音に透明感があって団子にならない。綺麗な色がまっすぐに見える。これは前半のラヴェルにもプロコにも共通していたので、エラス=カサドの音作りの特徴なのだろうな。
民俗色の強い演奏が好みの人にはもしかしたら物足りない演奏だったかもしれないけれど、私はアチュカロさんと今夜のエラス=カサドの演奏を聴いて、こういう演奏が実は最もファリャらしいのかもしれないと感じました。バレエ・リュスの音楽だもの

Falla - The Three-Cornered Hat - Proms 2013

この8:00~のスペイン風の情熱的な音楽、しばらく耳から離れなくて困った笑

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NHK交響楽団 第2004回定期公演Aプロ @NHKホール(2月4日)

2024-03-02 14:34:59 | クラシック音楽




信じる道を命がけで突き進む井上の“最後のN響定期”

[Aプログラム]は井上道義のライフワークであるショスタコーヴィチ。《交響曲第13番「バビ・ヤール」》は、第2次世界大戦中のウクライナで起きた、ナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺がテーマである。生存者によるドキュメンタリー小説が出版されているが、銃殺される直前、死体が折り重なる谷底に自ら飛び込んで難を逃れたという、生々しい体験談が記されている。今日の世界を見れば、残念なことに、これを歴史の1ページとして片づけることはできそうにない。

「想像を絶する現実を前にすると、ショスタコーヴィチの音楽すら空しく感じる。これを演奏する意味があるのか」と、井上は自問自答を繰り返してきた。だが、常に音楽する意味を問い続ける姿勢こそが、指揮者・井上の本質なのだと思う。

前半には、短い舞曲を演奏する。ヨハン・シュトラウス2世の《ポルカ「クラップフェンの森で」》の原題は、「パヴロフスクの森で」。ウィーン音楽のイメージがあるが、もともとはロシア皇帝の離宮を囲む、貴族の別荘地を描いている。鳥のさえずる平和な光景は、革命により一変した。

続くショスタコーヴィチ《舞台管弦楽のための組曲》は、同じ舞曲と言っても、まるで異なる様相を呈する。最も有名な「第2ワルツ」は当初、ソ連のプロパガンダ映画『第一軍用列車』で使われた。音楽はここで、革命をたたえるアイテムの一つに変貌している。

2024年限りでの引退を表明した井上道義。これは彼が指揮する最後のN響定期である。初共演から46年。途中に長いブランクはあったが、2008年からは毎年のように共演を重ねている。マエストロの破天荒な言動が、周囲との軋轢を生むことも少なくなかったはずだが、信じる道を命がけで突き進む彼の音楽が、時としてどれほど魅力的に響いたか。唯一無二の機会を逃してはなるまい。

NHK交響楽団ホームページ

・・・一曲目にカッコーのワルツは選んだのには訳がありますがそれはそれ。僕も愛したクライバーのより自然な演奏ができたはず。
面倒な名前の付いたドミトリーの別の面を見せてくれる4曲も3階席までチャーミングにねじくれたワルツとポルカを届けられたと信じてます。

2日目の2月4日の演奏はさらに確信に満ちたものになってくれた。ショスタコのうらぶれた哀愁のワルツは場末感が深まり、ポルカでさえもどこか空虚感が聞こえたと思う。
13番はこの日も録音ができたのでこの最高の、物語コンサートのような作品をいつか録音などで聞いていただけると思う。

井上さんのブログ


最近、演奏会の感想を書く気力なのか熱意なのかが落ちている。。
それなら書かなければいいのだけど、このブログは自分用覚書として思いのほか有用なのでやめられず。。とりあえず一ヶ月以内のアップだけは頑張ろう。
プライベートで色々あり演奏会がストレスになっていたり、でもそれを超える大きなものを生の音楽からもらえていたり、なこの頃です。

【ヨハン・シュトラウスII世/ポルカ「クラップフェンの森で」作品336】
初めて聴いたけれど、美しく楽しい曲ですね!井上さんはこういう軽やかな曲もとてもいい。最後のカッコー♪で奏者さんが「吹いてるのは私じゃないですよ~」なパフォーマンスのときに楽器の一部?を落としてしまうハプニングがあって和やかな笑いが起きたけれど、それも含め素敵な演奏でした

【ショスタコーヴィチ/舞台管弦楽のための組曲第1番-「行進曲」「リリック・ワルツ」「小さなポルカ」「ワルツ第2番」】
井上さんってロシアで生活されてたことがあるのかな?と聴きながら感じてました。それくらい”ロシア”の音がしていた(私はロシア行ったことないけど)。
ご自身がブログでも書かれている”うらぶれた哀愁”のようなもの。曲自体もそうだけど、井上さんの音からそれが感じられて、ああ、ロシアだ・・・としみじみと感じながら聴いておりました。
後半のバビ・ヤール目当てでとったチケットだったけれど、前半でこんな演奏が聴けるとは嬉しい驚き。
そして改めて井上さんにはショスタコーヴィチの音楽がよく似合う。

(20分間の休憩)

【ショスタコーヴィチ/交響曲第13番変ロ短調作品113「バビ・ヤール」】
バス:アレクセイ・ティホミーロフ
男声合唱:オルフェイ・ドレンガル男声合唱団

字幕なしでもある程度ついていけるくらいには歌詞を頭にいれていったけれど、それでも所々迷子になってしまったので、やはり字幕は欲しかったなぁ・・・。井上さんのブログによると井上さんは字幕を希望したようだけれど、N響側が「音楽に集中したいお客さんもいるから」と主張したようで(実際、この後の大フィルでは字幕ありだったそうです)。
それはともかく、演奏は素晴らしかった。
これは井上さんの特徴でもあるように思うけれど、リアルなドキュメンタリーのようなバビ・ヤールというよりは、情熱的でありながら音楽的な美しさも兼ね備えたバビ・ヤール、という風に感じられました(ティホミーロフの独唱もオルフェイ・ドレンガル男声合唱団の合唱も)。そしてそれゆえの凄みといいますか、しばらく後を引いて消えない、そんな演奏だった。
この曲、個人的には第二楽章の「ユーモア」がとても好き。音の軽やかさに包まれた毒。
そして、第五楽章「出世」。ストーリーのようなこの曲を第一楽章からずっと聴いてきて、最後の最後の弦の響きのとてつもない美しさにやられました。。。あれはコンマスの郷古さんかな。
この曲って予習のときは独裁国家の恐怖のようなイメージが強かったけれど、今日の演奏を聴いて、最後の最後の言葉にできないほどのあの美しい弦の響きを聴いて(これはもちろん井上さんの指示によるものと思う)、まだ僅かに、でも確かに残っている人間という生き物に対する希望、信頼、救いをショスタコーヴィチが見せてくれているように感じられました。
こんな曲だったのか・・・、と。
それを今の世界情勢の中で聴く重み・・・。
忘れられない演奏となりました。

井上道義に聞く―2024年2月「最後のN響定期出演」でショスタコーヴィチを指揮

2024年末指揮者引退に向けてカウントダウン進行中(SPICE)

 



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