風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

高畑勲展 日本のアニメーションに遺したもの @東京国立近代美術館

2019-10-04 14:11:55 | 美術展、文学展etc




子どもの心を解放し、生き生きとさせるような本格的なアニメシリーズを作るためには、どうしなきゃいけないのかということを一生懸命考えた。

・・・

描いていない部分があるとか、ラフのタッチのままだとか。
そしてそれが、とりもなおさず、見る人の心に記憶を探ろう、想像しようという気持ちを呼び覚ますんだと思います。
「かぐや姫の物語」での線の途切れ・肥痩、塗り残しがたつきなどは、そのために役立ったのではないでしょうか。

(高畑 勲)


少し前になりますが、東京国立近代美術館で開催中の高畑勲展に行ってきました。
宮崎さんが監督をし高畑さんがプロデューサーをされた『風の谷のナウシカ』が公開されたのが1984年、私が8歳のとき。スタジオジブリ設立が翌1985年。でも「ジブリのアニメ」と呼ばれるもっと前から、世界名作劇場の『アルプスの少女ハイジ』などの形で、高畑さんや宮崎さんの作品は意識されることなく子供だった私の生活の中に自然に溶け込んでいたのでした。

宮崎さんの作品と比べると現実世界や人生の厳しさをリアルに容赦なく突きつける高畑さんの作品は、私には時に苦しく感じられてしまう(アニメの中でくらいもう少し夢を見させてくれてもいいではないかと思ってしまう)こともあるのだけれど。
今回の展覧会、とてもとてもよかった。
展示が丁寧で誠実で知的で、高畑作品に対するいっぱいの敬愛が伝わってきて、会場をまわりながら高畑さんがその作品を通して描こうとしたもの、日本の未来と子供達に遺したかったもの、遺してくれたものが熱く胸に届いて、最後の『かぐや姫の物語』のコーナーを観終わったときにはなんだか涙が出そうになってしまった。ただでさえ『かぐや姫の物語』は映画館でボロ泣きした作品ですし。

東大仏文科卒(ということも今回知った)の高畑さんがジャック・プレヴェールの熱烈なファンで詩集の翻訳もしていたことを知り、へえ、と思いました。なぜなら『かぐや姫の物語』を観ながら私の頭に浮かんでいたイメージが、まさにジャック・プレヴェールのこの詩だったからです。高畑さんの翻訳ではありませんが。

天にましますわれらの父よ
天にとどまりたまえ
われらは地上にのこります
地上はときどきうつくしい
(抜粋)

アニメーション映画『木を植えた男』のフレデリック・バック氏との交流についての展示も、温かくてよかったな。
妥協が全くない高畑さんの製作方法は、現場の人達にとっては想像を絶するご苦労もあったろうと思うけれど(漏れ聞く話だけでも壮絶ですし…)、それでも、なんだかとても清々しく美しく感じられて。
せっかくこの世界に生まれてきたのだからしっかり生き尽くさなきゃもったいないでしょう、と高畑さんから言われているようで。
この展覧会に来てよかったな、と心から感じたのでした。
アニメーションは一人の力で作るものではなく大勢の力で作り上げられるものなのだということも、今回の展示で改めてわかりました。

『火垂るの墓』のコーナーの壁には、清太と節子が戯れる蛍の光が戦闘機から落とされる焼夷弾の炎と重なっている絵が投影されていて(映画公開時のポスターよりもはっきりとB29の姿が見えました)、それがとても美しく、だから一層恐ろしく、幸せそうな兄妹の姿が悲しかった。
丘の上のベンチで清太が眠る節子を膝に眼下の現代の神戸の街並みを見つめているラストシーン。あれは「私達が平和を享受して生きているこの世界は彼らが生きた時代から繋がっている世界なのだということを忘れてはならない」というような意味なのだろうと今までぼんやりと解釈していたのです。清太の表情がどこか虚ろなことが気にはなりつつ。現代の世界に彼らの霊がいるということは、それまでの長い時間二人の霊はどうしていたのだ?・・・・と思いながらも、なんとなくその辺を曖昧なままにして今までこの映画を見ていたのだけれど。
遅ればせながら、今回真実を知った私でありました・・・。
高畑監督はやはり高畑監督で、宮崎監督ではなかった。どこまでも甘くない。そしてそれが高畑さんという人の、世界や観客に対する誠実さなのだと思う。
そういう意味で、この作品は『かぐや姫の物語』と似ているのですよね。

かぐや姫は最後に良い面も悪い面も含めた地上の美しさに気づくけれど、もうそのときにはこの世界を去らねばならなくて。
「生きるために生まれてきたのに」と泣きながら地球を去るかぐや姫と、それ以上成長せずに閉じられた世界の中で繰り返し同じ時を生きるしかない清太達。死は何かの解決には決してならないし、何ものにも繋がらないという高畑監督の冷徹な視点は、どちらの作品にも共通している。
これは”死”というものについて高畑さんが考えているところのものを、そのままに描いているのだと思う。そして監督が最も描きたかったものはもちろん、そのような”死”に相対するものとしての”生”の素晴らしさでしょう。
高畑監督は彼らのような人生を描きながら逆説的に、汚いものも綺麗なものもあるこの地上を「それでもこの世界は美しく、生きるに値する世界である」と言っているのだと思う。
このメッセージは、宮崎監督の作品にも共通するもの。
でも、宮崎監督は主人公達や観客に対してもう少し甘い笑。そして私は宮崎監督のそういう甘さが好きだ。下記のドキュメンタリーの中で『風立ちぬ』の完成試写を観た高畑監督が「出会いからなにから全部あり得ないというかな、こうあってほしいという風な、パラソルが飛ぶところから始まる…そういうのがいっぱい出てくる。それがものすごくリアルというわけでもなく、本当らしく見せようと思ったらもう一押ししなきゃいけないんじゃないかというところがサラサラといっちゃう。それが悪いと思ってないんです全然。まあ(宮崎監督の)理想なんでしょうね色々と。死ぬことも含めて理想でしょ」(『「かぐや姫の物語」は、こうして生まれた。』)と仰っているけれど、私もそのとおりだと思う。あれは宮崎監督の夢がいっぱいに描かれた作品。そしてそういう作品から元気をもらえることでこの現実世界を生きることができる私のような人間もいるのです。
でもご自身の『かぐや姫の物語』を”優しくない映画”と仰る高畑監督も、この地上を志半ばで去らねばならなかった命への救いをのこしてくださっているではないですか。映画の最後に「いのちの記憶」を流してくださったことで。あれ以上の優しさがあるだろうか。
かつて月から舞い降りた小さな命が、翁と媼に大きな大きな幸せを与え。人と出会い、自然と触れ合い、成長し、愛を感じ、喜びを感じ、怒りを感じ、悔い、涙を流し。たくさんの出来事、たくさんの想い。それらの記憶はこの地上を去るときがきても、決して消えない。必ず憶えてる。そしていつか必ずまた会える、懐かしい場所で――。
ちなみに私がもっている生命や世界のイメージはこのようなものなので、「いのちの記憶」もそのようなイメージで聴いています。

高畑勲監督は追い求めた、アニメの向こうにある「現実」を。82年の生涯を振り返る

「かぐや姫の物語」。高畑勲監督が答えていた「姫の犯した罪と罰」とは

悲惨日誌(スタジオポノック)
『かぐや姫の物語』のプロデューサー西村義明さんによる2013年4月15日~9月1日の製作日誌(全121回)。まあ、、、凄まじいの一言ですよね。「お世話になっております」の社交辞令を許さず「あなたをお世話した記憶がないんですが」と返す高畑さん。こういう人、私は大好き。ではあるが実際に自分が言われたら確実に凹んで萎縮しちゃいますね



宮崎監督と高畑監督のお二人、いい関係だなあ。どちらも70オーバーなのに少年みたい 鈴木プロデューサーが加わった3人の会話は、ずっと聞いていたい。久石さんの謙虚さもとても素敵です。
前編はこちら

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ミュシャ展 @国立新美術館

2017-06-03 02:41:22 | 美術展、文学展etc




国立劇場の文楽が15時半に終わったので、その足で乃木坂へ行ってミュシャ展を見てきました。16時に着いて、18時の閉館まで2時間。最初こそ大混雑でしたが(それでも入場待ち時間は10分程度。週末に行った知人は1時間だったそうです)、最後の30分は人のまばらな会場でゆっくり楽しむことができました。
最後に出口付近からもう一度振り返って、人の殆どいない会場(最初の二部屋)を遠くから見渡したスラヴ叙事詩の美しさが印象的でした。近くで見るのもいいけれど、この連作は思いっきり引きで複数の絵を同時に見るのもとてもいい。広い空間の国立新美術館だからこそ可能な見方で、こういう楽しみ方はおそらくプラハでもできないのではないかな。そのためにも、これから行かれる方はぜひ人がまばらになる閉館間際まで会場に残るべし。グッズを買う時間がなくなる?グッズよりホンモノを目に焼き付けましょ!

私の『スラヴ叙事詩』との出会いは、2004年のプラハでした。といっても、実物ではありません。プラハのミュシャ・ミュージアムでこのシリーズの最初の絵『原故郷のスラヴ民族』のポスターだったかリーフレットだったかを見かけて、実物を見たい!と思ったのです。今思うとそのときはミュシャ・ミュージアムではなくモラフスキー・クルムロフ城に所蔵されていたんですね。この絵がこんなに大きいということも、今回知りました(下調べしていなかったので、会場で吃驚。一番大きな絵で6×8メートルとのこと)。
それがまさか13年後に東京で、それも全20作を見られる日が来ようとは。昨年このニュースを知ったときは、本当に驚きました。
しかしよくこんな絵を日本に貸し出してくれたなぁ、国立新美術館はどんな交渉をしたのかしらと思っていたら、やっぱり色々複雑な背景事情があったようで。
Alfons Mucha’s Slav Epic set for legal tug of war between Prague and painter’s descendants (21 March 2016)
Ministry of Culture called on to stop Slav Epic tour of Asia (7 July 2016)
Alphonse Mucha's grandson sues Prague to stop Asian tour of Slav Epic (14 November 2016)
Alphonse Mucha’s Slav Epic goes on display in Japan (8 March 2017)

つまりミュシャは1928年に「プラハで永続的な展示場所を提供することを条件に」この連作を市に寄贈したのに、市はそういう場所を今日まで用意していない。ならば寄贈は無効でありこの絵の所有権もプラハ市には完全にはないはずだ、というのが孫のJohn Mucha氏の言い分。そんな中、プラハ市はこの絵をアジアツアー(日本1都市、中国4(!)都市、韓国、米国等)に貸し出すことを勝手に契約してきたからさぁ大変。
記事によると、John氏が主に心配しているのは中国での展示とのことで、日本は作品を適切に扱ってくれるだろうと信じている、と。半ば諦めつつのようですが、日本での展示には納得されているようです。私がこうして東京で見られるのも、John氏がとりあえず安心できるのも、過去に美術展の関係者の方々が築いてきてくださった信頼のおかげなのだね。
上記記事では「東京での来場者は25万人は見込める」とあるけれど、本日時点で既に60万人突破だそうです。主催者もビックリでしょうね。Johnさ~ん、あなたのお祖父さまの絵をこんなに沢山の日本人が見に来て、そして感動していますよ~~~。

さて、ミュシャ展。
会場に入って最初の絵が、こちらでした。


「原故郷のスラヴ民族」。プラハで一目惚れした絵です。いきなりこの絵に出迎えられるとは
実物はポスターやネットで見るより遥かに美しかったです。色が鮮やかなのに厚塗り感がなくて、ふんわりした光と空気の透明感があって。
説明板を見て納得。画材は「テンペラ+油彩」とのこと。卵テンペラ。ボッティチェリが使っていたあの絵の具。そう、ボッティチェリの絵を見たときに感じた透明感と同じなのでした。

そんな私の耳に流れてきたのは、スメタナの『わが祖国』(from イヤホンガイド)。13年前にプラハで聴きたかったけど、聴けなかった曲。ワタクシ、10月のチェコフィルの来日公演のチケットを持っているのですが、節約のために手放そうかどうか迷っていたんです。でも…こんなシチュエーションで聴いてしまっては、もう手放せる気がしない… ミュシャがこの連作を描こうと思ったきっかけも、アメリカでボストン交響楽団の『わが祖国』の演奏を聴いたことだったそうです。

今回は三部屋あるスラヴ叙事詩の展示室のうち一部屋で写真撮影がOKでした。日本では珍しいですよね。絵葉書の印刷より写真の方が比較的実物に近く撮れるので、こういうのは嬉しい
以下、私の撮影より。


「イヴァンチツェの兄弟団学校」(部分)1914


「イヴァンチツェの兄弟団学校」(部分)1914


「聖アトス山」(部分)1926年
蝋燭の光はこの写真よりずっと美しかったです。。


「スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオラムジナ会の誓い」 1926年(未完成)


「スラヴ民族の賛歌」(部分)1926年




このときはまだ人が多いですが、最後は一部屋に数人程度の中で見ることができました。


こんなに大きな絵をどうやって運んできたのかと疑問だったのですが、ロ…ロールしてたんですね…
絵への影響は大丈夫なのかしら…と思ったら、やっぱり否定的な専門家の意見も多いようです。。

※追記(2017.6.20)
Mucha's paintings seen by 661,901 people in Tokyo (7 June 2017)
東京から直接中国へ行くことは中止になり、とりあえず一旦プラハに戻ることになったようです。そして絵にダメージがないか専門家が精査した上で今後の方針を決めていくとのこと。


【オマケ】
ロビーでは、日本におけるチェコ文化年(2017年は両国が国交回復して60年)を記念して、人形劇の展示がありました。
人形劇も旅行中に観ることができなかったものの一つですが、街ではマリオネットをあちこちで売っていたのを覚えています。ちょっと不気味で雰囲気あるのよね








またいつかチェコに行く日はあるのかなぁ。
2004年に「東欧の国はこれからどんどん変わっていってしまうから、旧共産圏の空気を残す街を見たかったら今のうちに行っておいた方がいい」と言われて行ったのだけれど(チェコはこの年にEUに加盟しました)、あれから変わっているのだろうか。


2004年に行ったときの旧市街広場。


共和国広場。
民主化で変わるものがあるとすれば、建物よりむしろ人と街の空気でしょうね。

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生誕150年 正岡子規展 ――病牀六尺の宇宙 @神奈川近代文学館

2017-05-18 23:09:59 | 美術展、文学展etc




病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、それでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限つて居れど、それさへ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪にさはる事、たまには何となく嬉しくてために病苦を忘るるやうな事がないでもない。年が年中、しかも六年の間世間も知らずに寐て居た病人の感じは先づこんなものですと前置きして・・・

(正岡子規「病牀六尺」冒頭)
 
  二〇世紀がはじまった一九〇一年(明治三四)は、子規の最晩年のはじまりだった。新年早々、新聞「日本」で「墨汁一滴」の連載がはじまる。この「墨汁一滴」と翌年、亡くなる間際まで連載した「病牀六尺」、それに美しい絵入りの自筆日記「仰臥漫録」を加えて「子規の三大随筆」と呼ぶ。・・・
  わずか六尺の病床が最晩年の子規に許された空間だった。しかし湖の上を鳥や雲や月が通り過ぎるように、子規の病床と脳裏をさまざまなものが去来する。その印象の一つ一つを子規は言葉で描いてゆく。

  「病牀六尺、これが我世界である」と「病牀六尺」の冒頭に書いたのは、決して悲観ではなく子規らしい挑戦である。この狭い病床だからこそ、世界のすべてが映し出せると不敵に宣言しているのだ。それは「子規の宇宙」と呼ぶにふさわしいものだった。
(長谷川櫂 ~本展図録より~)

今年は正岡子規の生誕150年
神奈川近代文学館で開催中の正岡子規展に行ってきました。
いつもながらここの展覧会の充実度は素晴らしいの一言。ブログには書きませんでしたが、漱石の没後100年を記念した昨年の漱石展も素晴らしかったです。
以下、今回特に印象に残ったものをいくつか。

・1896年(明治29)3月17日の子規から虚子に宛てた書簡。この日の夕方、子規は医師から歩行困難なほどになっていた腰痛の原因がリウマチではなく脊椎カリエスによるものであることを告げられました(その元である肺結核は1888年(明治21)に既に発病していました)。
「僂麻質斯(リウマチス)にあらぬことは僕もほぼ仮定し居たり。今更驚くべきわけもなし。たとひ地裂け山摧(くだ)くとも驚かぬ覚悟を極(き)めたり。今更風声鶴唳に驚くべきわけもなし。然れども余は驚きたり。驚きたりとて心臓の鼓動を感ずるまでに驚きたるにはあらず。医師に対していうべき言葉の五秒間遅れたるなり。五秒間の後は平気に復(かえ)りぬ。医師の帰りたる後十分ばかり何もせずただ枕に就きぬ。その間何を考えしか一向に記憶せず。

・1897年(明治30)2月17日の子規から漱石に宛てた書簡。以前鎌倉文学館でも見たもの。
「僕の身はとうから捨てたからだだ。今日迄生きたのでも不思議に思ふてゐる位だ。併し生きてゝ見れバ少しも死にたくハない、死にくたハないけれど到底だめだと思ヘバ鬼の目に涙の出ることもある、・・・」

・夏目漱石「吾輩は猫である(十一)」原稿

・座机
1899年(明治32)、根岸の指物師に作らせたもの。子規の左脚は曲がったまま伸びなくなっていたため、立て膝を入れる部分が切り抜かれています。以前子規庵で見たものは複製だったので、実物はやはり感慨深かったです。そういえば昨年の漱石展でも漱石山房で漱石が使用していた机の実物が展示されていたのですが、あちらは14年ぶりの展示とのことでした。いくら保存の為とはいえ出し惜しみしすぎだわ。。。

・千枚通し、硯箱、水差し、病室にかけられていた曼荼羅、ステレオスコープ、黒眼鏡、一本足の蛙の置物etc
「墨汁一滴」や「病牀六尺」に登場する、子規の病床を囲んでいた物たち。

・子規の病室のふすまを屏風に仕立てたもの

・1900年(明治33)4月に自ら陶土で作った自作像
おお、似てる!さすが写生の子規。

・渡辺南岳画「四季草花図巻」(南岳草花画巻)
「病牀六尺(百三、百四)」に登場する、子規が「渡辺さんのお嬢さん」と呼んで惚れ込んだ絵。一旦は断られたものの、子規没後に返却することを条件に門人たちが借り受け、子規には快く譲渡されたと告げられました。
死の直前にあっても子規のユーモアを垣間見られるこの話が私はとても好きなので、今回その実物の絵を見ることができて嬉しかったです。

・漱石「渡英日記」1901年1月22日の記述
「ほとゝぎす届く 子規尚生きてあり」
漱石は虚子から送られてくる手紙やホトトギスをロンドンで受け取って開く度に、そこに子規の死の報せが書かれてはいまいかと緊張していたのではないかな・・・。

・漱石「子規の画」原稿
「子規は人間として、また文学者として、最も「拙」の欠乏した男であった。永年彼と交際をしたどの月にも、どの日にも、余はいまだかつて彼の拙を笑い得るの機会を捉え得た試がない。また彼の拙に惚れ込んだ瞬間の場合さえもたなかった。彼の歿後ほとんど十年になろうとする今日、彼のわざわざ余のために描いた一輪の東菊の中に、確にこの一拙字を認める事のできたのは、その結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論なく、余にとっては多大の興味がある。ただ画がいかにも淋しい。でき得るならば、子規にこの拙な所をもう少し雄大に発揮させて、淋しさの償としたかった。」
漱石って自分ではそう思っていないかもしれないけれど、とても温かい心を持った人ですよね。

・漱石が掛け軸に仕立てた、子規の東菊の絵と最後の手紙。
これまで漱石展で何度も見ていますが、何度見ても、これを書いたときの子規の気持ちと、死後に掛け軸に仕立てたときの漱石の気持ちを思って、胸が苦しくなります。

・「仰臥漫録」2冊
原本は2冊に分かれているんですね。一冊目からは、1901年(明治34)9月13日の朝顔の絵のページが、二冊目からは同年10月27日の「明日ハ余ノ誕生日にアタル」のページが、それぞれ見開きで展示されていました。子規の誕生日は旧暦の9月17日。家族はいつも旧暦で祝っていて、この明治34年も旧暦で祝いましたが、翌35年は旧暦のその日(新暦の10月18日)まで子規の身体はもたないであろうと、新暦の9月17日にお祝いをしました。そして2日後の9月19日に子規は亡くなりました。34歳でした。

・「病牀六尺(九十九)」原稿

・1902年(明治35年)9月18日、死の前日に書かれた絶筆3句
「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」
「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」
「をととひのへちまの水も取らざりき」
原本は国立国会図書館の所蔵で、今回は4/28~5/11の間のみ原本が展示され、他の期間は複製の展示でした。私はこの原本が見たかったので、GWに行きました。この日の子規の様子をその場にいた弟子の碧梧桐が詳しく記録していて、その内容はこちら様のブログに詳しいです(管理人さん、勝手なご紹介すみません・・・)。
死の直前とは思えないほどしっかりした第一句の筆、佛の一字の存在感、そして斜めに書かれた第三句の最後の力を振り絞ったような筆が印象的でした・・・。

先月松山の子規記念館で見た下村為山/高浜虚子の「子規逝くや十七日の月明に」の掛け軸が虚子記念文学館から出品されていました(原本)。ということは、子規記念館で見たあれは複製だったのかしら

図録(千円也)は今回もセンスいい
真っ赤な裏表紙には子規自ら書いたあの有名な墓誌銘が一面に印刷されています。真っ赤な色はどうしても子規の肺病を連想してしまうので生々しすぎる気がしないでもないですが、それも彼を構成する大切な要素であり、病と闘い死を思いながらも最後まで世界の美しさを見つめ続け、人生に明るさを見出し、俳句に対する情熱を失わなかった子規の血の色、情熱の色にも見えるのでした。
私が初めて子規に興味を持ったのは、20代前半に読んだ司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』ででした。あれから20年。いつのまにか子規が亡くなった年齢をとっくに超えてしまったなぁ。。
子規の生誕150年を祝って、ブログの背景を糸瓜にしてみました。初夏らしく爽やかでお気に入りです

ただいま横浜では「ガーデンネックレス横浜2017」を開催中。近代文学館のある港の見える丘公園も、関内の日本大通りもそれは見事に花々が咲き誇っています。今週末はお天気もよさそうですし、お散歩がてら行かれてみてはいかがでしょうか?

地にあるもののすべてを美しいと感じたい気分は、いつでも、伸びあがって待ちうけるようにして用意されていた。かれが、子規の詩歌についての鋭敏な鑑賞者であったのは、子規の俳句も短歌も、地上の美しさというものの本質を、路傍に小石でも置いたようなさりげなさでひきだしてくれるためであったといえる。
(司馬遼太郎  『ひとびとの跫音(下)』より)



根岸の子規庵

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亡びるね

2016-04-23 22:20:03 | 美術展、文学展etc

神奈川近代文学館の『100年目に出会う 夏目漱石』展に行ってきました。
毎度ながらここの特別展は充実してるわぁ(o˘◡˘o)

出口のところにガチャガチャがありまして、中身は漱石の言葉が書かれた缶バッジ。



「恋は罪悪ですよ」とか、「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」とか、「人間を押すのです」withの絵とか色々あるのですが、ワタクシ的イチオシは

びるね」

です。
広田先生 @三四郎

まぁ、やらなかったですけど笑

5月22日まで。
展示替えがあるので、芥川の『葬儀記』の原稿オリジナルの展示は4月26日までですよ。
感想は後日改めて~。

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日伊国交樹立150周年記念 ボッティチェリ展 @東京都美術館(4月1日)

2016-04-11 21:50:36 | 美術展、文学展etc



今回も会期終了ギリギリに滑り込み。
理由は、むか~~~~しフィレンツェで見たこの画家の『春』も『ヴィーナスの誕生』もあまり好みではなかったため、迷っていたのです。でも先にこの展覧会に行った友人達が全員大絶賛で。これはやはり行っておくべきなのではあるまいか・・・?と。

いやぁ、行ってよかった。。。心が洗われました。いつもは買わない図録まで買ってしまった。
しかし図録の写真もネットの画像も、実物の繊細で透き通った美しさには程遠いのだよなぁ。。。



サンドロ・ボッティチェリ 『ラーマ家の東方三博士の礼拝』 1475-76年頃 
この絵は、思っていたよりずっと色が鮮やかで、人物が生き生きとしていました(公式ページの画像ではくすんだ雰囲気に見えていたので)。
一番右で一人だけカメラ目線をしている男性が、ボッティチェリ本人。


フィリッピーノ・リッピ 『幼児キリストを礼拝する聖母』 1478年頃
フィリッピーノ・リッピはボッティチェリの師であるフィリッポ・リッピの息子。
フィリッピ―ノはボッティチェリの弟子でしたが、後にボッティチェリと並ぶ人気を博すようになり、よきライバルに。
透明な空気感が素晴らしかったです。


サンドロ・ボッティチェリ 『書斎の聖アウグスティヌス』 1480年頃
ヤマザキマリさんのお気に入りの絵だそうです(この表情↑が笑)。


フィリッピーノ・リッピ 『聖母子、洗礼者聖ヨハネと天使たち』 1481-82年頃
美少年ズなヨハネと天使たち


サンドロ・ボッティチェリ 『聖母子(書物の聖母)』 1482-83年頃
この絵の静けさと透き通った空気感、そして「線描の詩人」と言われたボッティチェリの緻密な描写の見事さは、ほんっとーーーに実物でないと伝わらない;;
聖母の服の鮮やかな青は、当時とても高価だったラピスラズリ。実物は画像のようなコッテリぶ厚い青ではなく、より透明感のある上品な色合いでした。


ボッティチェリと工房 『聖母子、洗礼者聖ヨハネ、大天使ミカエルと大天使ガブリエル』 1485年頃
こちらも美少年ズなヨハネと天使たち。聖母子の薔薇色の頬も美しかった(o˘◡˘o)


ボッティチェリと工房 『聖母子と4人の天使(バラの聖母)』 1490年代
聖母の背後でじゃれ合う美少年ズにご注目ください。


サンドロ・ボッティチェリ 『アペレスの誹謗(ラ・カルンニア)』 1494-96年頃
公式ツイッターより転載。特に好みの絵ではないのですが、この説明はそれぞれの役割がとてもわかりやすいのに図録に載っていなかったので、ここに残しておきます。
「誹謗」の美しさがコワイ・・・。他人事っぽく見える「真実」も・・・。


サンドロ・ボッティチェリ 『聖母子と洗礼者聖ヨハネ』 1500-05年頃
1510年に亡くなったボッティチェリの最晩年の作品。
キリストの降架を思わせる構図。会場の最後にフィリッピーノ・リッピの『洗礼者聖ヨハネとマグダラのマリア』(1497年頃)と並んで飾られていました。

金曜夜にもかかわらず、会場はとっても混んでいました ダヴィンチ展とボッティチェリ展が混んでいて、ラファエロ展とミケランジェロ展が空いていたのは、そのまま彼らの日本での人気度の反映なのだろうか。。
でも20時の閉館直前にもう一度最初の部屋に戻ってみると、さすがに殆ど人がいなくて。今度はゆっくりと『ラーマ家の東方三博士~』と向き合うことができました。その作品と自分だけになったような、こういう静けさと贅沢さがとても好き。
いや、正確には「『ラーマ家~』と私とロレンツォさんだけになったような」ですが・・・。
『ラーマ家~』を見ている私を斜め後ろから見ていたロレンツォ氏↓。ものすごい存在感を放っていらっしゃいました


ピエトロ・トッリジャーノ帰属《ロレンツォ・イル・マニーフィコの胸像》 1515-20年
「パッツィ家の陰謀」(1478年)で暗殺されかけるも一命をとりとめた直後に作られた蝋製等身大肖像に基づくものだそうです(でもコレは絶対に等身大よりデカイ)。
他に、「パッツィ家の陰謀」のメダル(1478年)というものも展示されていました。暗殺された弟ジュリアーノを記憶に留めるためにロレンツォが注文したもので、事件の様子が描かれています。



JNNさん、その絵、『アペレスの誹謗』とちゃうで・・・

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『レオナルド・ダ・ヴィンチ ─ 天才の挑戦』展 @江戸東京博物館(3月26日)

2016-03-28 17:53:32 | 美術展、文学展etc




例によって、会期終了ギリギリに行くワタクシ。
ダヴィンチ以外の作品も多く展示されていましたが、自分用記録として、主にダヴィンチによる作品をここに残しておきますね。
以前にも書きましたが、私は画家の体温を身近に感じられる素描というものが大好きでして。今回も沢山展示されていて、幸せでした

レオナルドは、時間の経過とともに移り行く美の姿を、長くとどめることができるものこそが絵画であると考え、人間や自然の観察を行い、何千枚もの素描に描き留めました。「素描は極めて卓越しているのでそれは自然の作品を研究するだけではなく、自然が生み出す以上の無数のものを研究する。」(『絵画の書』133)と述べています。(公式HPより)

レオナルドは「絵画は、詩や音楽や彫刻に勝る最上のもの」と考えました。ミケランジェロと対照的です(そして二人は犬猿の仲であった)。

レオナルドは『絵画論』のなかで、彫刻は肉体労働であり、土にまみれて不潔だと書き、その反対に絵画は頭脳労働で清潔、優雅な作業だと述べている。対するミケランジェロは、絵画は浮彫りに近ければ近いほど良く、しかし浮彫りは絵画的になればなるほど悪くなる、と述べている。(池上英洋 『ルネサンス 天才の素顔』より)


レオナルド・ダ・ヴィンチ 《羊飼いの礼拝のための研究》 1478-1480年
紙、金属尖筆、ペンと褐色インク
7.4×9.8cm、ヴェネツィア、アカデミア美術館素描版画室


レオナルド・ダ・ヴィンチ 《ユダの手の研究》 1495年頃
赤い地塗りをした紙、赤チョーク、鉛白によるハイライト
20.8×16.1cm、ヴェネツィア、アカデミア美術館素描版画室
『最後の晩餐』のユダの右手。あのもととなった素描かと思うと・・・(興奮)
またイタリア行きたいなぁ。。
しかしこういう絵は美大生などが見るとさらに楽しめるのでしょうね~。


レオナルド・ダ・ヴィンチと弟子 《手の研究》 1495年頃
赤い地塗りをした紙、赤チョーク、白チョーク
20.8x16.1cm、ヴェネツィア、アカデミア美術館素描版画室
上が弟子で、下がレオナルド・・・?


レオナルド・ダ・ヴィンチ 《子どもの脚の研究》 1502‒1503年
赤い地塗りをした紙、赤チョーク
13.5×10cm、ヴェネツィア、アカデミア美術館素描版画室
可愛い・・・


レオナルド・ダ・ヴィンチ 《子どもの研究》 1502‒1503年
赤い地塗りをした紙、赤チョーク、鉛白による
28.5×19.8cm、ヴェネツィア、アカデミア美術館素描版画室
「聖アンナと聖母子」のイエスの習作。


レオナルド・ダ・ヴィンチ 《花の研究》 1504年頃
紙、銀の尖筆、ペンと褐色インク
18.3×20.1cm、ヴェネツィア、アカデミア美術館素描版画室


レオナルド・ダ・ヴィンチ 《受胎告知の天使のための左手と腕の研究》 1505年頃
紙、金属尖筆、赤チョーク、白チョーク
22.3×16.2cm、ヴェネツィア、アカデミア美術館素描版画室
この絵の完成形である「受胎告知」は今はないそうです。
「洗礼者ヨハネ」の左手の習作ともいえる作品。




レオナルド・ダ・ヴィンチ 『鳥の飛翔に関する手稿』第10紙葉裏と第11紙葉表 1505年
紙、ペンと褐色インク、赤チョーク、21.3×15.4cm、トリノ王立図書館
人間の飛行の実現のため鳥の飛翔を観察したレオナルドの直筆研究ノート。左利きのレオナルドは、すべて「鏡文字」で書いています(※買い物メモを除く)。左頁には赤チョークで男性の顔のデッサンが。レオナルドは思いつきでどこにでもデッサンしたのだそうな。当時は紙が貴重だったのもその理由?
しかしこの手稿が、ノートの形でそのまま目の前に展示されているという事実が夢のようです。500年の時を超えてそこに50代のレオナルド本人がいるようでたまりません。
Theメインというように展示されている糸巻きの聖母と違い、こちらはめっちゃサラリと展示されていました。しかし横にはしっかりガードマンが。見ている人も少なく、目の前で見放題でした。


レオナルド・ダ・ヴィンチ 《糸巻きの聖母》 1501年頃
油彩・板、48.3×36.8cm、バクルー・リビング・ヘリテージ・トラスト
遠く将来を見つめているようなイエスの眼差し、そんなイエスを見つめるどこか寂しげなマリアの眼差しが、しっとりと美しいです

「糸巻きの聖母」という主題は、1501年に修道士ピエトロ・ダ・ノヴェッラーラがマントヴァ侯妃イザベッラ・デステに宛てた手紙の中で、レオナルドがフランス国王ルイ12世の外交官フロリモン・ロベルテのために取り組んでいた作品として言及されています。その手紙にある作品の描写と本作の構図が完全には一致しないため、研究者の中で議論が続いています。しかしながら、現在の研究では、背景は後世に加筆されたが、構図の中心である聖母子および前景の岩の描写は、レオナルド本人の手になるという意見が多数になっています。…前景の岩は、レオナルドにしかなしえない高度な技術で描かれています。時間の経過とともに変化する地質学の研究成果が表現されており、科学者、自然の観察者としてのレオナルドを思い起こさせます。また、遠近法を応用した歪み像のような聖母の顔、幼子イエスの、斜めの軸を中心に回転しているかのような体の描写に卓越したものを感じます。
(公式HPより)


素人の私などは、真作でも贋作でも美しければいいように思ってしまいますけども。
赤外線調査によるとマリアの左奥の岩の辺りには、聖ヨセフが赤ん坊用の歩行器を作っている様子が描かれていたそうです。完成版では塗りつぶされています。


レオナルド派(スペイン人フェルナンド周辺?) 糸巻きの聖母(スティーヴンソン・バルンの聖母) 1501-1525年
スコットランド・ナショナル・ギャラリー
作者が当時レオナルドのフィレンツェの工房で見た準備素描をもとに描いたと推定される作品(これも今回展示されていました)。左奥に歩行器が見られます。


しかし今回の展示を見て、レオナルド・ダ・ヴィンチという人は本当に「天才」というか多才」という言葉がピッタリな人だったのだなぁ、と改めて思いました。
何にでも「なんでだろう?」と疑問を持ち、するとその先を追究しないではいられないようで、その思考方法もイチイチちゃんと現実的(その良い例が鳥の飛翔の手稿)。宮殿や橋の設計をしたと思ったら、機械仕掛けのライオンを作ったり、それらが同時進行だったりするのですから(しかし自分の中で納得すると?製作途中で投げ出してしまう^^;)、私のような怠け者は年表に書かれた出来事の多彩さを眺めているだけでクラクラです(@@)。その67年の人生の中身の濃いこと。

「立派に費やされた1日が快い眠りを与えてくれるように、立派に費やされた人生は快い死を与えてくれる。」 (レオナルド・ダ・ヴィンチ)

レオナルドには遠く遠く遠く及ばなくとも、自分なりにそういう一生を生きたいものであるなぁ。(と、願望形で書いてる時点で・・・)


レオナルド・ダ・ヴィンチ『鳥の飛翔に関する手稿』 江戸東京博物館「レオナルド・ダ・ヴィンチ ─ 天才の挑戦」


レオナルド・ダ・ヴィンチ《糸巻きの聖母》 江戸東京博物館「レオナルド・ダ・ヴィンチ ─ 天才の挑戦」

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英国の夢 ラファエル前派展 @Bunkamuraザミュージアム

2016-03-06 05:41:54 | 美術展、文学展etc



金曜日の夜に行ってきました。
2013年7月の「夏目漱石の美術世界展」(東京藝大美術館)、2014年3月の「ラファエル前派展」(六本木ヒルズ)に続き、私にとって日本で3回目のラファエル前派
絵画の世界では比較的マイナーな部類だと思うのに、こんなに頻繁に企画展を開いてくれるなんて・・・幸せ
今回はリヴァプール国立美術館より計65点が来日。

ミレイの『オフィーリア』やロセッティの『ベアタ・ベアトリクス』が来日していた六本木ヒルズの展示に比べると、今回は大きな目玉となる絵は少なめ?とも思いましたが、テートブリテンには今後も行く機会はあるかもしれないけど、リヴァプールにはおそらく行くことはないと思うので、私にとって稀少性はこちらの方が上かも。

厳密な意味での「ラファエル前派(ラファエル前派兄弟団Pre-Raphaelite Brotherhood)」としての活動は1848年の結成から1853年にミレイがアカデミーの准会員になりグループが崩壊する辺りまでの僅か数年で、それ以降のウォーターハウスなどの画家は「ラファエル前派の影響を受けた画家」、あるいは「ラファエル前派第二世代、第三世代」と呼ぶのが正しい、ということを今回知りました。
今は存じませんが数年前のテートではウォーターハウスの『シャロット』(←ボートの)の真下にミレイの『オフィーリア』が展示されていたりしたので、その辺の違いをあまり意識したことがなかったのです(六本木ヒルズで説明されてたかもしれないけど^^;)。まぁ後年のミレイ作品よりウォーターハウスの方がよほどラファエル前派らしい絵とも思われるので、この二つを並べるのは自然だと思います。そもそも何をもって「ラファエル前派らしい」というか、という疑問もありますが・・・。「自然に忠実(写実性)」、「中世回帰」、「聖書や文学に題材をとった物語性」、「場合によって象徴主義」という感じの理解でいいのだろうか。で、どの部分を強調するかは画家に委ねられていた(そしてそれが分裂の原因にもなった)、という感じ・・・?うーん、ラファエル前派の特徴ってやっぱりわかりにくい・・・。いずれにしても「アカデミーには反対!」というところでは兄弟団の意見は一致していた、という感じでしょうか。
そして兄弟団を結成したとき、ミレイは19歳、ロセッティは20歳、ハントは21歳だったのですねー。若い 時期としては、印象派より25年くらい前。

【Ⅰ.ヴィクトリア朝のロマン主義者たち】
 
ジョン・エヴァレット・ミレイ 『いにしえの夢―浅瀬を渡るイサンブラス卿 A Dream of the Past: Sir Isumbras at the Ford』 1856-57年
ミレイは人物はもちろんですが、『オフィーリア』でも見られるとおり、植物がもっっっのすごく美しいと思うのです。左下の枯草も、少年が背負っている枝も、生で目を凝らして見ても、すんごい上手。ミレイは写生の鬼だったそうです。まるで本物みたいなんだけど、写真みたいというのとも少し違う、絵画ならではの美しさ。
とはいえこの絵も発表当初は「馬が騎士に比して大きすぎる」等の理由で批評家から猛烈な批判を受け、幾度も修正を重ねたのだとか(確かにそれらしき跡が見えます)。
批判者の一人は、美術評論家のジョン・ラスキン。ラファエル前派のよき理解者だった方。彼にはエフィーという奥さんがいましたが、彼女はミレイと恋に落ちてしまい、1854年に婚姻無効の訴訟を起こし離婚、翌55年にミレイと再婚しています。だから批判したわけでもないでしょうが、ラファエル前派周辺の人間関係って若さのままにドロンドロン・・・ ロセッティの愛人ジェイン・バーデン(前回来日していた『プロセルピナ』のモデル)の夫は、ウィリアム・モリスですしね(^_^;)
ラスキンは後にホイッスラーの『黒と金のノクターン』(1877年)も痛烈批判し、名誉棄損で訴えられたりしています。

さて、こういう企画展は、額縁の鑑賞もお楽しみの一つですよね。

 ©finefil
ステキ 精巧で美しい葡萄の実で縁どられています
右の小さな額は、同じ絵を紙にグワッシュで描いたもの(1863年)。ミレイはオリジナルと明確に区別させるために、少女の服の色などを変えています。これがまた上手でねぇ。。。

  
ジョン・エヴァレット・ミレイ 『春 林檎の花咲く頃』 1859年
「描かれているのは妻やその妹たちなど身近な人々で、各人物の将来が顔や物腰に象徴的に暗示されています。全体の雰囲気は希望と期待に彩られ、それは瑞々しい春の開花と芽吹きによって示されていますが、画面右側の大鎌の刃は、はかない存在の不吉な象徴となっています。」(公式サイト)とのこと。
これまた左右に置かれた籠の中の草花や、青い服の少女の髪に飾られた黄色の花、林檎の花々が、それはそれはそれは自然で美しいのですー
しかしただ平和に美しい風景というだけでは終わってくれないのが、ラファエル前派。彼女達がどういう運命を辿ったのかは不明ですが、みんながみんなウッキウキ♪という表情ではありません。そして右端の大鎌。この鎌さえなければ、このポストカードは飛ぶように売れたでしょうに


ジョン・エヴァレット・ミレイ 『ブラック・ブランズウィッカーズの兵士 The Black Brunswicker』 1859年
女性の服や壁紙の質感がもうねぇ。。。スンゴイのよ。。。どんなに目を凝らしても、ただの絵具から作りだされたとは信じがたい。
この絵は、ナポレオン戦争に向かうプロイセンの兵士とその恋人の別れを描いているそうです。しかしなぜか左上には、敵であるはずのナポレオンさんの額が・・・。発表当時から色々憶測を呼んだようですが、結局理由はわからないみたい(誰もミレイに聞かなかったのー?)。女性のモデルは、作家チャールズ・ディケンズの娘さん。ディケンズはこの10年ほど前にミレイの『両親の家のキリスト』を猛烈批判していますが、もう和解していたのかな?この絵、実際にはモデル同士は会っておらず、それぞれが木の人型相手にポーズをとったのだとか。


ジョン・エヴァレット・ミレイ 『森の中のロザリンド』 1867-68年頃
こちらはとても小っちゃな絵。全体の色合いがシックで素敵。


ジョン・エヴァレット・ミレイ 『良い決心』 1877年
写真では全くわかりませんが、生で見ると上下の服の質感の違いがスンゴイのです。
あまり細かいところに目をやる見方はしたくないけれど、見ないではいられない。


ジョン・エヴァレット・ミレイ 『巣』 1887年に最初の出品
こちらも生で見ると少女の柔らかな透けた服と、母親の黄色の服の質感が、モノスゴイのです。
少女の表情は、自然に対する畏敬の念の顕れとのこと。

ミレイは他に、『ソルウェーの殉教者 The Martyr of the Solway(1871年頃)が展示されていました。


アーサー・ヒューズ 『聖杯を探すガラハッド卿』 1870年に最初の出品
ミレイにスペースをとりすぎてしまった。サクサクいきましょう。
こちらは、イングランド北部の風景なのだそうです。写真だとわかりにくいですが、石の橋の下に川が流れています。
この感じ、昔行ったハワースの荒野の風景↓に少し似てると思いました。


ピンクの花はヒース。のどかに写っていますが、実はものすごい大荒れの天気の中で撮ってます。だからカメラの調子もおかしい(^_^;)


ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ 『シビラ・パルミフェラ』 1965-70年 カラーチョーク・紙
手にしているのはヤシの葉(パルミ=パーム)。左上の薔薇は愛、目隠しのキューピッドは「恋は盲目」の暗示。右上のケシの花とその下の髑髏は、死の暗示。蝶々は魂の象徴。
モデルは、アレクサ・ワイルディング。ロセッティのモデルの中で唯一男女の関係になかったといわれる女性。ほんっとロセッティって・・・(ーー;)


ダニエル・マクリース Daniel Maclise 『祈りの後のマデライン』 1868年に最初の出品

【Ⅱ.古代世界を描いた画家たち】

ローレンス・アルマ=タデマ 『お気に入りの詩人』 1888年
ラファエル前派って色のドギツイ鮮やかな絵が多いので、途中でこういう色合いを見るとほっとする 隠れた意味のない(よね?)ところも。
しかしこの大理石の質感の見事さよ。。。


フレデリック・レイトン 『書見台での学習』 1877年
このピンクのサテンの質感・・・!少女らしい細っこい身体も愛らしいです。
ロンドンのホーランドパークには、レイトンの家がLeighton House Museumとして残っているのだそうです。行ってみたいなあ。


エドワード・ジョン・ポインター 『テラスにて』 1889年に最初の出品
これも一息つける系

【Ⅲ.戸外の情景】

ウィリアム・ヘンリー・ハント 『卵のあるツグミの巣とプリムラの籠』 1952-60年頃 水彩、グワッシュ・紙
ハントは、ミレイ、ロセッティとともにラファエル前派を創設した主要人物の一人(忘れないで~)。
この絵は屋外ではなく、これらのものを室内に持ち込んで書かれたのですって
ラファエル前派のモットーの一つだった「自然に忠実に」に忠実に、自然を観察した作品。


ジェイムズ・ハミルトン・ヘイ 『流れ星 The Falling Star』 1909年
星の瞬く漆黒の空、一面の雪、シンと寝静まった家々。そんななか、遠くに見える一軒の家から漏れる灯りの暖かさ

【Ⅳ.19世紀後半の象徴主義者たち】

ジョージ・フレデリック・ワッツ 『十字架下のマグダラのマリア』 1866-84年
イエスは午前9時に十字架にかけられ、12時頃には全地が闇に覆われ、15時頃に息を引き取り、夕方に十字架から降ろされたと言われています。
マリアの後ろの柱は、イエスが磔になった柱。彼女の視線の先にはそういうイエスの姿があるのです。この絵の前に立つと、背景の暗い空と暗い丘の色合いに、「ああ、きっとこういう感じだったのだろうなぁ」と感じました。

ワッツは他に、テートに完成品がある『希望 Hope』のためのスケッチなども展示されていて、興味深かったです。


エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ 『フラジオレットを吹く天使』 1878年 水彩、グワッシュ、金彩・紙
100年以上前の絵ですが、昨日描かれたイラストですと言われても信じちゃいますよね~。少年のような中性的な雰囲気が素敵。
バーン=ジョーンズは他に、水彩の大作『スポンサ・デ・リバノ(レバノンの花嫁)』などが展示されていました。

©spice
ジョン・ロダム・スペンサー・スタナップ『楽園追放』について解説する宮澤政男上席学芸員
この額の豪華さ~~~。


ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス 『エコーとナルキッソス』 1903年
黄色の水仙は死の象徴。こういう感じの場所も、イギリスにはよくありますね。


オックスフォードのルイス・キャロルのお散歩道。似てません?


ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス 『魔法をかけられた庭 The Enchanted Garden』 1916-17年
ウォーターハウスの未完の遺作。今回この絵が来ていることを知らなかったので、会場で見つけたときは嬉しかったです(*^_^*)
今回の展覧会のポスターになっている絵は同画家の『デカメロン』(1916年)で、10人が10日間をかけて100の物語を語るという場面ですが、こちらの絵の題材はその物語からの一つ。

©spice
会場のソファの布は、ウィリアム・モリスのいちご泥棒
日本の美術館もついにこういう部分にまで拘るようになってくれたんですねぇ
左のアルバート・ジョゼフ・ムーアの『夏の夜』(1890年)も、黄色の布の質感と全体の上品な色合いがスバラシかったです。私もお仲間に入って夏の夜をのんびりまったり過ごしたい~ この4人がみんな同じ女性だと思うと、ちょっと不気味な気もしましたが(^_^;)

ラファエル前派展は渋谷Bunkamuraザミュージアムにて、3月6日まで。

決められた遣り方に従うのではなく、自分の眼で見た通りに描こうというのが、彼らの主張であり、信念であった。…ラファエル前派の画家たちは、単に自然を正確に再現することだけに満足していたのではない。彼らは、眼に見える自然の世界の奥に、眼に見えない魂の神秘、情熱の世界、さらには自然を超えた聖なるものの存在をも見ていた。精緻な自然の再現は、その眼に見えない世界に到達するための手段に他ならない。この点では彼らは、ロマン主義から象徴主義にいたる19世紀のもうひとつの重要な流れとも密接に結びついている。
ローランス・デ・カール 『ラファエル前派 ヴィクトリア時代の幻視者たち』)

象徴主義は、19世紀後半の重要な芸術の流れのひとつである。科学と機械万能の時代の実利的なブルジョワ精神、芸術の卑俗化を嫌悪した文学者や芸術家は、人間存在とその運命に関する深い苦悩、精神性への欲求から、内的な思考や精神の状態、夢の世界などを表現しようとした。それゆえに象徴主義は、主題や表現手段の上できわめて多様な形をとった国際的な潮流となった。
イギリスに現れたラファエル前派は、最初の象徴主義の運動のひとつにかぞえられる。1848年にダンテ・ガブリエル・ロセッティ、ジョン・エヴァレット・ミレー、ホルマン・ハントらが結成した「ラファエル前派兄弟団」は、ラファエロ以降の西洋絵画を退廃とみなし、それ以前のイタリアやフランドルの芸術のもつ誠実で精神的な在り方こそ理想的な姿としてそれへの回帰を主張した。こうした考え方は19世紀初頭のナザレ派やルンゲ、ブレイクなどに先例をもつ。彼らは聖書や中世の歴史、シェークスピアやダンテなど文学に主題を得ながら、それを初期ルネサンスの画家に倣った入念な細部描写、因習にとらわれない構成で描いて、神秘と象徴の世界を作り出した。

(太田泰人 『カラー版 西洋美術史』。前掲書より引用)


Pre-Raphaelites

なんのミステリーやねん。面白いけど笑。19世紀イギリスは私の永遠の憧れ!

The Founders of The Pre-Raphaelite Brotherhood


John William Waterhouse & Dante Gabriel Rossetti

ほぼウォーターハウスなのに途中でロセッティが一つ混ざってる妙な動画ですが、美しい・・・。

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柳田國男展講演会 京極夏彦「柳田國男の視点」 @神奈川近代文学館(11月7日)

2015-11-08 00:08:01 | 美術展、文学展etc



最近毎月のように出没している近代文学館。先日うっかり谷川俊太郎さんの講演会チケットを捨ててしまった近代文学館。
今回の講演会は、作家の京極夏彦さんでした。
これまでも何度かここに書いていますが、私は京極氏の作品が昔からとっっっても好きでして(最近は追えてないケド)。でもご本人にお会いしたことはなかったので、今日は朝からドキドキ。
それに京極さんのイベントって個性的な方達が多いと聞いたことがあったので、そういう意味でもドキドキ。
しかし実際に行ってみると全然怖い方などおらず、いつも文学館でお見かけしてるような品のいい和やかな方達ばかりでした^^
しかし千円って柳田國男展のチケットも含んだ料金かと勘違いしてたわ(だから招待券を持ってたのに家に置いてきちゃったよ)・・・ 谷川俊太郎さんのときは確かセットだったのに。ちょっと高いよね。。。

さて、初めてお会いする京極さん。
上の写真ではめちゃ顰め面をされておりますが、実際は笑顔の多いユーモアいっぱいの大層楽しい方でございました(*^_^*) トーク、上手いなーーー(時間配分も神業レベル)。1時間15分、たっぷり堪能させてくださいました。
以下、自分用の覚書。
講演中はメモらない人間なので、記憶違いがあったらお許しを~。。。
ちなみに「京極さんは幽霊とお化けと妖怪という言葉を使い分けてるのか否か」という長年の疑問が晴れて、個人的にスッキリ 同じもの、だそうです。


・小説を書く場合、一人称、二人称、三人称の三つの視点がある。一人称はその人物が知りえない情報は書かないので、ミステリーなどでは使いやすい。二人称はあまり使われない。三人称も、書きやすさ&読みやすさの点から主人公が知らないことは書かないようにすることが多く、一人称視点とさほど変わらない。
この他に神の視点(作者視点)というものがあるが、これは非常に使うのが難しい。作者は登場人物の知らないことを当然知っていて、知らなくても作り出すことができるから、この手法でミステリーなどを書くと「お前犯人わかってんだろ!早く言えよ!」と読者に思わせてしまう。神視点の場合は時系列で書くとよいが、そうしない場合もあって、時代小説などに多い。池波正太郎先生は脚本の手法で小説を書いた人。ト書きを使う。また司馬遼太郎先生は、新聞記事に会話文を入れた人。「土方は〇〇へ向かった。筆者は以前この道を通ったことがあるが~」とズルいやり方(笑)だが、難しい方法でもある。

・死者の霊魂という概念がない文化圏では、幽霊の話をしても理解されない。それだけでも明らかなように、幽霊というものは存在しない。日本は死者の魂があるという文化だから「幽霊を見た」と言うと「そうだね、見たね」「それはコナキジジイだね」となったりする。それが一概に悪いわけではない。お墓参りとかなら問題ない。しかし祟りが怖いから壺を買うとか家を建て替えるとかなってくると宜しくない。

・現代で言うような幽霊が出てきたのは、実はつい最近、昭和40年代くらい。昔はそんなものはなかった。
「でも幽霊画とか残っているじゃない」と思うかもしれないが、あれは殆どは芝居の幽霊を描いているにすぎない。写生で書かれた幽霊画なんてない。円山応挙の幽霊なども暗くて足元が見えにくかったから足がなくなっただけで、大した発明ではない。体が透けてる絵は芝居でできなかったことをやろうとしただけ。

・室町時代の猿楽師である世阿弥は、夢幻能を大成させた。wikipediaでは能は「超自然的なものを題材とした高尚な歌舞劇」などと書かれてあるが、そもそも能に超自然的なものなど登場しない。現代の感覚でシテ視点で観ようとするから、見誤る。能のシテは神、無機物、死者、狂女などであるが、それらに共通するのは「コミュニケーションをとれない存在」ということ。神は語りかけても答えないし、岩(@殺生石)も、死者も同じ。狂女もやはり普通の会話をすることはできない。しかし客はワキを通して彼らの物語を見ることができる。ワキがいなければ客は石をずっと観ているだけになり、面白くもなんともない。能はシテ視点ではなくワキ視点で観るべきものである。

世阿弥は息子の元雅が作った『隅田川』に対して何故舞台に子供の幽霊を登場させたかと怒った。子供の幽霊は狂女にしか見えないはずで、客に見えているのはおかしいと。この論争からわかるのは、「幽霊は個人が見るものである」という認識が世阿弥の時代の常識としてあったということ。
このように個人にしか見えないはずのものが、やがて江戸時代になると、芝居などで客も見るようになってくる。四ツ谷怪談の幽霊も伊右衛門にしか見えていないものなのに、客も見ている。

明治に入り尾崎紅葉らによる言文一致運動が起こる。講談が流行り、講談本が作られ、まるでそこにいるように読者も幽霊を体験するようになる。池波正太郎の手法がそれ。
自然主義が流行する。
江戸の読み物は作者が途中で変わったり、仇討ち物として書き始められたものが人気がないから途中で恋愛物に変わったり、突然化け物が出てきて話が収束したりしていた。それはそれで個人的には好きだが、自然主義では事実をありのままに書く。これに傾倒したのが松岡國男(のちの柳田國男)。その友達が田山花袋。しかし國男は次第に日本の自然主義文学や私小説に抵抗を感じ始める。朝私が何を食ってどう感じたとかそういう田舎の親父のブログのようなものなど読みたくはない、と。そして文学を捨て、官僚になる。

ある時國男は佐々木喜善から遠野の民間伝承を聞き、大きな衝撃を受ける。まじか!?と。なぜならそこでは、個人にしか見えないはずの幽霊を複数の者が同じように見ていたから。
國男は実際にそういう事実があったのか否かではなく、そういうことを皆が信じるような文化に興味を持った。そして自ら遠野に行き聞き取った膨大な資料をカードで分け、今でいうデータベース化した。

・『遠野物語』では、「私」の視点は徹底的に排除されている。近代人である「私」は幽霊を認めるわけにはいかないから。その代り序文ではその反動か「私」がいっぱい主張している。
彼はこの時とっくに文学を捨てていた。しかし幸か不幸か彼には文才があった。これは彼が書いていない『拾遺』と比べると一目瞭然。そこでは、まるで幽霊がいるかのようであった。彼は意図していなかったろうが、後の時代の実話怪談は遠野物語の完全なパクリ。

・『遠野物語』の「平地人を戦慄せしめる」という言葉は「幽霊こえ~!」と思わせるという意味ではない。私達の国にはこんな面白い文化があるんですよと知って、かつての自分と同じようにまじか!と吃驚して、自分の国についてもっと知って学んでほしいということ。この柳田が感じたまじか!という驚きはとても大事だと思う。
幽霊は文化装置。柳田は冷徹な人。誤解している人がいるが遠野物語に幽霊など書かれていない。
たとえば祖霊という概念は柳田が作ったが、それは現代のTVから出てくる幽霊とは全く違うもの。きちんと奉れば守ってくれるという存在。
柳田に興味があるなら少なくともそこをわかって読んでほしいと思う。
また遠野物語が民俗学の発端と言うのも間違い。これを書いた当時柳田に民俗学という意識はなかった。

・最近は皆さん幽霊がお好きなようで、よく「うちの地方は幽霊が多いんです」「心霊スポットが多いんです」というような話を嬉しげになさる方がいるが、そんなものは嘘です。たまたまその地方のインフォーマントが幽霊を嫌いで、書き残されなかっただけ。実際、幽霊の話は大体どの地方も同じくらいある。

・雪女も磯女も産女も同じもの。妖怪は因数分解していくと一つか二つしかなくなる。それが土地や文化によって変わってくるだけ。雛祭りも川に流したり様々。だからオシラサマを研究すると一概に言っても、その大本が何であったかを探っていくか、その上澄みの部分を研究するかの二種類ある。楽しいのは、圧倒的に後者の方。
柳田がどちらを目指したかはわからないが、後世の私達がすべきことは彼と同じことをするのではなく、せっかく科学的な手段に恵まれているのだから、資料をデータベース化し、そこから何が導き出されるかなど、その先に目を向けてもらいたい。

・全ての伝承には由来があるが、あとから由来が作られることもあるから注意が必要。オシラサマに纏わる馬娘婚姻など。由来を探っていくのもいいが、答えに辿り付けるかどうかは分からないし、その答えが正しいかどうかもわからない。

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追悼 山崎豊子展 ~不屈の取材、情熱の作家人生~ @横浜高島屋ギャラリー

2015-11-01 20:21:58 | 美術展、文学展etc


『大地の子』の取材で上海宝山製鉄所にて(文芸春秋)

人類の不幸は戦争から始まるのだ。ああ平和、これこそ今、全人類の希求するものだ。白煙のもうもうと立ち上る焼きただれたこの姿、私の胸から一生忘れられない焼き印だ。地下鉄の改札口にべったり坐ってうずくまる人々は、昨日までは豪華な生活をしていた船場商人ばかりなのだ。まことに人の運命のはかなさをまざまざと知る。
(昭和20年3月14日の日記。21歳)

山崎豊子さんの作品は、小説は『大地の子』を、ドラマは『大地の子』、『白い巨塔』、『華麗なる一族』、『不毛地帯』を観たことがあるくらいでしたが、今日の資料や映像を見て、他の作品も読んでみようかナと感じました
『山河燃ゆ』(松本幸四郎)、『沈まぬ太陽』(渡辺謙)、『運命の人』(本木雅弘)などの映像作品も観てみたいな。

以下、展示についての覚書。

・生まれ育った大阪船場の老舗昆布屋の模型など

・年表
ええと私の年齢(39歳)のときは・・・と・・・『白い巨塔』の連載開始とのこと。わが身に照らして、はぁ・・・と溜息

・遺品の中から出てきた、昭和20年1月~3月(20~21歳)の日記
恋人の出征や3月13日の大阪大空襲時の様子が克明に記されていました。日記というよりも小説に近く、若さを感じさせる文章。恋愛に対しても情熱的な女性だったのですね。

『花のれん』で直木賞を受賞したときの、作家井上靖(毎日新聞社時代の元上司)からの手紙
「橋は焼かれたのだからもう仕方がない。あせらないで、自分のペースで頑張ってください。数は少なくとも力作を期待します」

・膨大な数の取材ノートと録音テープ
取材で訪れた国:17ヶ国
取材国が一番多かった作品:『不毛地帯』の8ヶ国
一番多くの人に取材した作品:『大地の子』の500名
一番長期間取材した作品:『大地の子』の中国3年、日本1年
取材した人の数:5300名
名刺の数:4000枚
取材ノート:980冊
録音テープ:5500本

『二つの祖国』(『山河燃ゆ』の原作)執筆資料
東京裁判の英語記録など。
昔ワシントンDCの歴史博物館で見た、壮絶な日本人収容所の展示を思い出しました。
映像も流れてたけど、幸四郎さん若い~。いい男!

『大地の子』執筆資料
進行表は横長の紙に「主人公」、「養父」、「実父」の三段に分け時代を追って書かれてあり、改めてこれはこの三人の物語なのだなぁと。
実父の欄の欄外には、再婚した妻との間に中国語通訳になる娘がいる、という実際に採用されなかった設定メモも書かれてあり、興味深かったです。
また、主人公の1985年11月46歳の箇所には「第一期工事完工。完工式後、父子、長江下り、「私は大地の子」」と書かれてありました。陸一心の「私は大地の子です」という台詞は、実際に山崎さんが長江下りをした船の上で雲が晴れて太陽が射したときに浮かんだ台詞だそうで、「決まった!」と呟かれたのだとか。
胡耀邦総書記と面会した際の中国でのスケジュール(予定びっしり)や、その様子を報道した中国の新聞記事も展示されてありました。

・山崎豊子文化財団の関連資料
『大地の子』の印税全額(三億円)で設立した、日本に帰国した中国残留孤児の子供の学資を援助する財団。
「私を支えたのは『大地の子』の恩人である故・胡総書記の「教育こそは国の礎である」という言葉でした。未来への礎に一助をなすことが、戦争という過去を知る世代のせめてもの務めだと思います」(インタビュー記事より)

・市川雷蔵、中村玉緒、新潮社の編集者斎藤十一からの手紙。斎藤氏からの手紙には「沈まぬ太陽がある限り新潮社は安泰です」と書かれてあり、まるで山崎豊子のドラマみたいだな~と。

『沈まぬ太陽』執筆資料
ボーイング社を取材した際のパス(ANAの名前がありました。やはりJALの協力はなかったのね…)。
映画への出演を切望する渡辺謙からの手紙。「沈まぬ太陽の恩地は一番やりたい役」とのこと。

『白い巨塔』執筆資料
医療過誤の裁判資料や、早期胃がんに関する資料など。
小説としては完結し評価も得ていた『白い巨塔』でしたが、その結末に対して医療過誤の遺族から「医師だけでなく、作家には責任はないのか」という強い批判を受け、山崎さん自身もその社会的責任を感じ、続編の執筆に踏み切ったそうです。

・志摩観光ホテルでの写真やレストランのメニュー
山崎さんのお気に入りのホテルで、正月はいつもこのホテルで過ごされていたそうで、そこで見かけた光景から『華麗なる一族』の構想を得たのだとか。

この他『ぼんち』『女系家族』『女の勲章』『不毛地帯』『運命の人』『約束の海』などの執筆資料や原稿、お気に入りのCD(ベートーヴェンがお好きで、ベルリンフィルのカラヤンの第九など)、書斎の再現、愛犬との写真、洋服や帽子やバッグ(お洒落な方だったそうです)などが多数展示されていました。

関東は本日で終了ですが、これから京都、大阪と巡回していきますので、ご興味のある方はぜひ(^_^)

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うらめしや~、冥土のみやげ展 @東京藝大美術館

2015-09-06 00:00:21 | 美術展、文学展etc



藝大祭をやっていたせいか、この絵↑が2週間オンリー公開のせいか、吐きそうな混雑であった。。。
みんな幽霊が好きなのね

「全生庵・三遊亭圓朝のコレクションを中心に」という今回の企画展。
圓朝さんというとアレですね、先々月の歌舞伎座で猿之助(シネマ歌舞伎では三津五郎さん)が演じていた方ですね。
今回湯呑煙管も展示されていたのですが、おかげでそれらを使っている圓朝さんの姿をリアルに想像することができました。
『牡丹灯籠』の速記本の前では年配のご婦人方が「ほら、この間のタマちゃんの!」。玉ちゃんて・・・可愛い・・・。
明治期の歌舞伎座の『怪異談牡丹灯籠』の番付も展示されていて、午前11時開演って今と同じだったんだなーと。尾上菊之助による新三郎が評判の公演だったそうです。

以下、雑感。


上村松園1875-1949 「焔」 (東京国立博物館蔵)
すごい人だかりだった^^; 
この女性は源氏物語の六条御息所で、松園が謡曲「葵上」に想を得て描いたものだそうです。生霊となっても品を失っていないところは、能の印象と同じでした。


月岡芳年1839-1892 「月百姿 源氏夕顔巻」 (太田記念美術館蔵)
同じく源氏物語より。恨みや怨念はなく、儚い雰囲気の夕顔の幽霊。でも夕顔って六条御息所の霊に殺されはするけど、自身は幽霊にはならないのではなかったっけ?と思ったら、能で「夕顔」「半蔀」という曲があるのですね。いつか観てみたいです。


鰭崎英朋1880-1968 「蚊帳の前の幽霊」
画像だとわかりにくいですが、実物は行灯の灯りが本当の灯りのように見えて、とっても美しかったです。
蚊帳はやっぱり幽霊の必須アイテムなのね。はっきり形が見えないところが、夜の闇の濃かった昔の人々には不気味に感じられたのかな。子供の頃はうちにもあって、私は部屋の中にもうひとつ部屋ができたみたいで、楽しくて大好きでした。母親は幽霊が出そうで嫌だって言ってましたけど。
行灯や燈籠も、やっぱり今の時代のLEDとは風情という点では天と地ですよね。
そういえば先日読んだ塩田による中勘助の談話で、日常の中の薄ぼんやりとした闇と光の美しさを教えてくれたのがハーン(小泉八雲)だったというようなことが書かれてありました。明治末期の日本は異国の人からそういうことを教えられなければならないほど既に闇が消えかかっていたのかもしれませんね。谷崎潤一郎にしてもこの時代の一部の人達の、驚くべき速さで失われゆく日本の文化や伝統美に対する愛惜の念は想像にかたくありません。なにせつい最近まで江戸、という時代ですものね。でもそういう感覚は今の時代も同じかな。玉三郎さんなどもよくこぼされていますね。


菊池容斎1788-1878 「蚊帳の前に座る幽霊」 (全生庵蔵)
こちらも幽霊と蚊帳。どんな想いを此の世に残しているのか、どこか寂しそうな幽霊。行灯の光は蛍のようにも見えました。


歌川芳延1838-1890 「海坊主」 (全生庵蔵)
こちらは幽霊というより妖怪。静かな満月と穏やかな水面が不気味で素敵でした。


月岡芳年 「豪傑奇術競」
上の夕顔と同じ画家ですが、こちらは幽霊でもお化けでもなく、“豪傑とそれぞれが妖術で使っている動物”の各コンビの絵。色彩が派手で躍動感があって、アニメみたいでカッコよかった!絵葉書があったら欲しかったな。


歌川国芳1798-1861 「源義経都を打立西國へ相渉らんとせし折から大物の沖にて難風に逢給ひしに平家の亡霊あらはれて判官主従に恨みをなす」
謡曲「船弁慶」に題をとった絵ですが、私は船弁慶を観たことがないので、義経千本桜の大物浦を思い出しながら見ました。平家の亡霊の描き方がクールだわ~。


歌川国芳 「五十三駅岡崎」
昨年の大浮世絵展で観た国芳の「日本駄右エ門猫之古事」と同じ題材ですね。てかほとんど同じ笑。
にゃんこの影が浮かび上がる行灯に、手拭いで頬かむりして踊るにゃんこ達。これ、元ネタは歌舞伎の『梅初春五十三駅』なのだそうで。調べたら2007年正月に国立劇場で菊五郎さん達が復活上演してたんですね。うわ~観たかった!しかしこういうくだらなそうな大らかな狂言って菊五郎さんがいなくなったら誰が演じられるんだろう。海老蔵あたり、やってくれないかなあ。松緑でもいいけど。
やはり同じ題材の「五十三対岡部」も展示されていました。


葛飾北斎1760-1849 「さらやしき 百物語」 (東京国立博物館)
「まったく皿一枚割ったくらいで殺されちゃあたまんないわよね~。ふぅ~」て声が聞こえてきそうなお菊さん 首が皿になってます。

この他筆者不肖の多くの絵、四谷怪談や牡丹燈篭の錦絵、赤子を抱いた姑獲鳥の絵、池田輝方の「積恋雪関扉」の絵(菊ちゃんの観たかった;;)などなど、美しく哀しく楽しい、充実した展覧会でした。
そうそう、会場内で四谷怪談の講談のビデオ(by一龍斎貞水さん)を流していて、岩の幽霊に追い詰められた伊右衛門が「首が飛んでも動いて見せるわ」と言って切腹して幕だったのですけど、講談の四谷怪談ってこういう終わり方なのかしら。歌舞伎とは違うんですね。それとも音声が聞き取りにくかったので聞き違えたかな。基本言葉だけなので寺町の描写がよりリアルに想像できて、面白かったです。

最後に、展覧会HPよりこちらをご紹介して、本日はこれぎり~


中島光村 「月に柳図」 (全生庵蔵)

 世に幽霊の正体見たり枯れ尾花、という。これは主に「幽霊なんかいない」という局面で引き合いに出される言葉なのだけれど、はたしてそうなのだろうか。
 実は枯れ尾花こそが幽霊なのだ。
 中島光村は花鳥風月をよく描く人であったらしい。この絵にも幽霊は描かれていない。幽霊画の多くが芝居の幽霊を模したようなものであるのに対し、この絵の題名は「月に柳図」、これは風景画なのである。しかし朧月(おぼろづき)と叢雲(むらくも)、そして枝垂れ柳の組み合わせに、見る者は怪しい横顔を見出(みいだ)してしまう。
 これは自然物を幽霊に「見立て」たのではない。これが幽霊の本質なのだ。人は、何もないところに何かを見てしまうものなのだ。それをどう解釈するかは見る者次第なのである。
 この図が描かれたのは明治の後年であるが、まだそうしたものに対する江戸の「粋」が残っていたのだろう。
(京極夏彦)

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