風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

『考える人 2016年夏号』谷川俊太郎3

2019-08-22 00:54:25 | 

俺は歩いているがそれがどうしたと言うのだ
歩いているならどう歩いているか言葉にせよと
お前は内心そう思っているのか
俺は黙ってただ歩くのが好みなのに

の持ちものはコトバだけ
だからコトバにはケチケチするのだ
持ち重りするのは身に余る
風景並みに無口なコトバが道連れだ

どこへ行くのか気になるのか
あの世に決まっているだろう
別に用事はないんだが

歩いていればグーグルマップなど見なくても
自然にそこに落ち着くはずだ
お喋りしながらお前もおいで


書き下ろし『歩いているだけ』より。
一部引用するつもりが思わず全部載せてしまった。。


――現代詩に制約を感じたことはありませんか。

谷川:いや、制約はないですよ。どんなことでも自由に書けます。月々連作で長く書くことも可能だし。
僕にとって、詩は自己表現ではないってことです、簡単に言うと。だから、自己表現がしたいなら詩じゃ不満だから小説に行こうとなったと思うんだけど、僕にはこれはぜひ言いたいなんてこと、ないんですよ。

たしかに少なくとも谷川さんの詩には”自己表現”という言葉は似合わないですよね。外に向かって自己の内面を表現しているようには感じられないから。谷川さんはきっと、ただ自分や他人や世界の姿を書いているのだと思う。自分が書きたいように。それに最も適しているのが、谷川さんにとっては詩という形式なのでしょう。

では散文と詩の違いってなんだろう、と考えるのだけど。
それは文章の”純度”の違いではなかろうか、と。
純度というと語弊があるかもしれないけど、他に合う言葉が見つからないので。
これはもちろん純粋という意味ではないけれど、それでも詩のそういうところが佐野さんには「アクを掬いとった人生の上澄み」に感じられたのだろうと思うし、それはある意味では正しいのだと思う。
一方で、その純度こそが詩の命なのではないかしら。私はそういう詩というものが好きだ。

――などとえらそうに書いている私ですが、谷川さんの詩は読んだことがあるものより読んだことのないものの方が遥かに多いのですよ実は。詩集もその時々の気分で適当に開いて読むという読み方ですし。そもそも谷川さんの作品数は2016年時点で詩だけで「三千くらい」なのだそうで(一日一作読んでも8年…!)、最近は紙媒体だけじゃなくネットや色んなところでも活動されているから、とても追いつけないです。まあ本気で追いつこうと思えば追いつけるのですけど、やらないだけでもある。私にとって詩は散文と違って慌ただしく読むものではないですし。

本当のことってみんなにわかるはずなんですよ。最終的には。本当のことは偽善よりも絶対強いですよ。どんなにきつい言葉であっても――というふうに僕は思ってますけどね。

(谷川俊太郎 『考える人 2016年夏号』より)

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『考える人 2016年夏号』谷川俊太郎2

2019-08-21 00:00:14 | 

――それでも佐野さんは、おおむね不機嫌だったようです。佐野さんは何に一番、怒っていたのでしょう。

谷川:それがわかれば、苦労しませんよ。僕にかんしては、立ち向かわなかったということでしょう。僕は反省しちゃうほうだから。あと、どういうときが幸せ?と聞かれて、「ニュートラルな状態」と答えたら、信じられないと驚かれたし。
彼女、そうとう人工的に喧嘩にもちこんでましたね。なぜかといえば、喧嘩のあとに仲直りがしたいから――というふうに、僕はとっていましたね。ケンカのあとは上機嫌で、やさしくなるわけ。
僕は全然、相手がいなくても、ひとりで成り立っちゃうから。そういうちがい、大きいよね。わたしがいても淋しいんでしょう、あんたは、と言われたことがある。自分がいなかったら淋しいと思いたいけど、それと関係なく淋しい人だと思ったんじゃないの。

(谷川俊太郎インタビュー『考える人 2016年夏号』より)

佐野洋子さんは、谷川さんの三人目の奥様。
「あなたには世間が欠けてる」と谷川さんに仰ったというのも、佐野さんでしたよね。言い得て妙というか、鋭い表現だなと思う。佐野さんは谷川さんを愛しているからこそ谷川さんのデタッチメントな部分が我慢できなくて(それはそうだろうと思う。特に佐野さんのようなタイプの女性には)、結局お二人が離婚をしたのはそのギャップ(谷川さんが言う”そういうちがい”)が最後まで埋まらなかったからなのだろうか。ちなみに昨年9月の朝日新聞のインタビューで、谷川さんはこんな風に仰っていますが。

健康で仕事ができていることは感謝の一言です。ただ、神様のイメージがぼくにはない。祈ることもしませんね。そもそも自分を超えた存在に対して要求しちゃいけないと思っている。むしろ自分を生かしてくれているエネルギー、ビッグバンの頃に存在したエネルギーに感謝しているんです。自分は恵まれていると。20代の頃にこういう風に思えていたら、全然離婚なんかしないで済んだのにね。

20代の頃というと最初の奥様の岸田衿子さんだけれど、本当に今現在の谷川さんだったら結婚というものが上手くいくのだろうか。少なくともご本人はそう思っていらっしゃるのだろうか。私はちょっと疑っている。

ところで以前うちの近所の文学館で佐野洋子展があって、谷川さんがトークに来られたのですよ。私はそのチケットを買ってあったのに、誤って捨ててしまって 以来、谷川さんにお目にかかる機会はいまだにないのでありました。まあ本気でお会いしようと思えば機会はいくらでもあるのですが。

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『考える人 2016年夏号』谷川俊太郎1

2019-08-20 20:56:55 | 

「その出会いがなかったら今私は生きていなかったかもしれない」という存在は誰にでもあると思うけれど、私の場合は、同時代の人をあげるなら龍村仁監督、谷川俊太郎さん、中島みゆきさんの3人。同時代でない人も加えるなら+漱石、でしょうか。
皆、10代の頃に出会いました。

先日図書館で『考える人 2016年夏号』を借りたのです。
谷川さんの特集が載っていることを知ったので。
そもそもこういう雑誌が新潮社から出ていたこと自体を今回初めて知ったのですが、これ、いい雑誌ですねえ。考える人っていうタイトルもよい。残念ながら2017年で休刊になっていて、今はwebマガジンとして存続しているようです。

谷川さんの特集は北軽井沢の別荘の写真も多く掲載されていてとてもいいインタビューなので、ご興味のある方はぜひ図書館かバックナンバーで全文をお読みください
ここでは抜粋を。

谷川:…加藤周一さんが『日本文化における時間と空間』で、「今=ここ」が日本人の感性の中心にあるという言い方をされている。僕も本当に歴史が苦手で、痛いことも全然覚えてないし、未来にそんなに心配がないのね。くよくよしない。自分の「いま、ここ」に百パーセント満足して、エネルギーを集中するみたいな。

――その過去と未来のなさが、洗いたての印象を呼ぶのでしょうね。人は、できれば忘れたい。でも、忘れられない。だから羨望する。……多くの人から薄情と言われたかもしれませんが。

谷川:あ、それは自分でそうだと思ってますよ。人もそうとう傷つけた。でも、「薄情」でなく漱石のいう「非人情」だと。イギリスの詩人キーツは「デタッチメント」と表現しています。関心を持たないできたということでしょうね。(中略)他人とは浅い付き合いだから、相手を肯定できるんです。唯一の例外が結婚。あそこまで深く付き合うと、やっぱり自分の欠点がボロボロ出てくるという感じですね。

漱石は非人情の世界に憧れ、ときにそこで心を休めながら、基本は人情の世界で生きた人ですよね。一方谷川さんは非人情の世界に身をおきながら人情の世界に憧れそこへ降りてこようとした人、だろうか(私の勝手なイメージ)。これって小説家と詩人の違いでもあるような感じがして興味深い。
似ていて違うようでやっぱり似ているような。人間の世界というものに対して臆病なところのある人達なのかな、とも。
そして非人情の視点を知っている人だけがもつ独特の視野の広さは、龍村監督やみゆきさんにも共通しているもののように思う。非人情やデタッチメントという言葉は昨年9月の朝日新聞のインタビュー記事では「人間と距離を置く」と括弧書きされていたけれど、「人間を含めた世界を俯瞰で眺める」という説明の方がわかりやすいのではないかしら(この「人間」には自分自身も含まれている)。
そういえば谷川さんはバッハやヘンデル、そしてグールドのピアノもお好きなんですって モーツァルトについての詩も書かれていますよね。

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今日は74回目の終戦記念日

2019-08-15 23:05:17 | 日々いろいろ



学生時代に「戦争とは外交の失敗である」という定義に初めて出会ったとき、とても驚いたんです。
リアルタイムで知る戦争が湾岸戦争などであった私は、戦争とは外交の一手段なのであろうと思い込んでいたからです。

戦争とは手段などでは決してなく、考え得るすべての外交の失敗を意味する。
この考え方を私は支持します。

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フェリ、ボッレ&フレンズ Aプロ @文京シビックホール(8月1日)

2019-08-03 15:24:33 | バレエ



Aプロ3日間のうちの2日目に行ってきました。

― 第1部 ―

「カラヴァッジオ」
振付:マウロ・ビゴンゼッティ
音楽:ブルーノ・モレッティ(クラウディオ・モンテヴェルディより)
メリッサ・ハミルトン
ロベルト・ボッレ

カラヴァッジオの絵画って決して綺麗なだけのものではないけれど、この作品はそんな彼の中の純粋な綺麗な部分を見ているような、そんな感じがしました。音楽もそういう風でしたし。彼が最後まで手元に置いていたという『法悦のマグダラのマリア』を思い出したりして(あれもただ美しいだけの絵ではないよね)、彼はどういう気持ちだったのかな、とかそんなことをとりとめもなく思ったりしながら、イタリア絵画から抜けでてきたような美しさの舞台上の二人を観ておりました。人間の身体って本当に美しいねえ。
ハミルトンってその肉体からもっと体操選手ぽい踊りをする人なのかなと勝手に想像していたのだけど、決してそれだけではなく、ボッレとのコンビがとてもよかったです。ひとつの完璧な美の世界だなあ、と。

「フォーリング・フォー・ジ・アート・オブ・フライング」
振付:ナタリア・ホレチナ
音楽:ヨハン・セバスティアン・バッハ
シルヴィア・アッツォーニ
アレクサンドル・リアブコ

初めて彼らを観た『シルヴィア』のときと同じく、作品の内容はわからないのに(今回はプログラムを買っていないのです)、感動してしまう二人の踊り。
リアブコがアッツォーニを腕に抱く一瞬のタイミングとかに(腕の出しかたの速度とか角度とか)、不意打ちのように心臓がぎゅっと掴まれて、それが心と瞼の裏から離れなくなる。絶対に冷静に計算されてやっている動きのはずだけれど、彼自身の心や魂から出た動きにしか見えないあの感じは、数いるダンサーの中でもリアブコに特に強く感じるもの。仮にぼーっと観ていたとしても、はッとさせられて魅了されてしまう。
そしてアッツォーニ。あの小さな身体の全身から発せられる強烈な表現力!ミューズの清らかさ!リアブコにとって彼女は”光”なのだろうな、なんて感じながら観ていました。
視界に入っていなくても互いが見えているような鉄壁のパートナーシップは、今更言うまでもなく。
本当に、奇跡の夫婦ですよねえ。こちらもひとつの完璧な美の形だなあと思いました。

『カラヴァッジオ』とこの作品を続けて観て、ベジャールの『ライト』を思い出していました。一人の人間と、その”光”。

「ボレロ」
振付:ローラン・プティ
音楽:モーリス・ラヴェル
上野水香
マルセロ・ゴメス

水香さんの踊りを見るのは二度目なのだけど(一度目はベジャールの第九)、ファンの方ごめんなさい、やっぱり私は彼女の踊りが苦手なのだと再確認してしまった…。リアブコと逆で、魂から出ている動きに見えないと言うか…。プティってフランス的なお洒落さが特徴らしいので(そして水香さんがお気に入りのダンサーだったそうなので)それでいいのかも?とも一瞬考えたのだけど、いやいや軽いお洒落さと魂からの動きは両立するよね、とルグリ&ゲランの『こうもり』を思い出したり。また水香さんの表情や動きが"相手を挑発しながら可愛らしく誘っている"ようにしか見えなくて…。この作品の女性ダンサーはあまり甘さや女くささを感じさせないで躍る方がいいように思うのだがなぁ。
とはいえ、ゴメスもこの作品に合っているかというと???。敢えていうなら、小悪魔風な水香さん&可愛らしさいっぱいのゴメさんのキッチュな二人、みたいに観るといいのかもしれないが、それも変化球すぎるような 
踊り手を選ぶ作品なのだなあ。もっともSNSの評判は絶賛の声が多いので、私にはピンとこなかったというだけなのですが。

― 第2部 ―

「アミ」
振付:マルセロ・ゴメス
音楽:フレデリック・ショパン
マルセロ・ゴメス
アレクサンドル・リアブコ

こういう振付をするなんてゴメスは本当に純粋で可愛い人なんだなあ(知ってたよ!)
ノイマイヤーが『明日に架ける橋』なら、こっちはショパンじゃなく大塚愛の『さくらんぼ』とかはどうだろう(あれは恋愛ソングって?いいと思う!)。だれかこのジャパニーズポップスをゴメさんに教えてあげてください。
カテコではリアブコからゴメスへ投げキッス めっちゃ嬉しそうなゴメたん めっちゃ嬉しそうな客席笑

「クオリア」
振付:ウェイン・マクレガー
音楽:スキャナー
メリッサ・ハミルトン
ロベルト・ボッレ

クラシック音楽の演奏でも時々あるけど、心を感じさせすぎない人間くささを出しすぎない良さってあるよね、とこの二人の踊りを見ていて思うのであった。
いい意味での軽さと明るさ。スタイリッシュで美しかった!
二人のパートナーシップはここでも完璧でした。

「アルルの女」
振付:ローラン・プティ
音楽:ジョルジュ・ビゼー
シルヴィア・アッツォーニ
アレクサンドル・リアブコ

SNSでリアブコのフレデリに彼の『ニジンスキー』を思い出したという感想が多いけれど、それは狂気の踊りだからというだけでなく、彼から”アルルの女”への生々しい恋情があまり感じられないからではなかろうか、と。
彼の目が見ているのは"アルルの女”という生身の女の姿ではなく、既にこの世のものではない何物かに感じられた。生身の人間への恋情によってではなく、自分の閉じられた世界の中で狂っていっているように見えた。そういう意味でニジンスキーの”神との結婚”を思い出させた。
でも”狂気”とは本来そういうものかもしれない、とも思ったり。生身の人間をその人として認識できているうちは狂ってはいないのかもしれない。
そういえば熊哲の『カルメン』のドン・ホセも、最後は相手がどういう人格の女性であるかはもう彼にとっては関係がないのだなと感じたものだった。
世のストーカー達もそうよね(なんて思ってしまうと無邪気に感動しにくくなるが

一方、同じくそこにいない相手への想いに狂う踊りでも歌舞伎の『保名』は違うのよね(生ではニザさまのしかみたことがないけども)。その踊りからあの小袖を着ていたであろう女性の姿が見える。何が違うのかなと考えると、保名は相手の女性とちゃんと純粋な恋人同士だったのよね。一方カルメンやアルルの女はファム・ファタルで、想いは男の一方通行。

このフレデリがヴィヴェットにはどうしようもできない場所にいる存在に捕われているように見えたもう一つの理由は、リアブコとアッツォーニが相変わらず物凄いパートナーシップなので、もし相手がこの世の存在ならアッツォーニが負けるわけがないでしょう、と感じてしまったからでもありました。

それにしてもリアブコのしなやかで美しい踊りよ。。。。ラストのマネージュ?の既に彼の心がこの世にないことがわかる、あちらの世界に行ってしまっているとしか見えない速さ、軽さ。こんなに魅せる踊りが他にあるだろうか。ああ、大好きだ、リアブコの踊り。
そしてアッツォーニの恐ろしいほどの表現力!!!彼女のヴィヴェットの健気なこと、美しいこと、崇高なこと。これまで何度彼女の踊りに平れ伏したくなったことか。リアブコを見ていたくてもアッツォーニからも目が放せなくなってしまうのも、毎度のこと。
本当に、奇跡の夫婦であるなあ。。。。。。尊い。。。。。。
カテコのリアブコの仕草にはいつもアッツォーニへの深い敬愛が感じられて、この姿にも毎度感動してしまう。

― 第 3 部 ―
「マルグリットとアルマン」(全幕)
振付:フレデリック・アシュトン
音楽:フランツ・リスト
マルグリット:アレッサンドラ・フェリ
アルマン:ロベルト・ボッレ
アルマンの父:マルセロ・ゴメス
公爵:アレクサンドル・リアブコ   他

フェリのマルグリットが切ないなあ……
静かな芯の強さと、アルマンへの純粋な愛情と、ふと一人見せる弱さと…。
『椿姫』といったらショパンでしょと思っていたけれど、リストもいいねえ。彼女のマルグリットが静かなメロディーのところとすごく合っていて、これからこの曲を聴くとフェリを思い出しそうだ。

そしてそして、ゴメスのアルマンパパが優しそうでダンディーでめっちゃ素敵
ノイマイヤー版でもパパとの場面が大好きだけど、アシュトン版のこの場面もいい~。
ゴメスパパ大人だしカッコイイし(足腰の弱った演技してたけど隠しきれない素敵さ)、マルグリットはパパと一緒になればきっと幸せになれるよ、と心の底から思ってしまった。二人の間の空気の濃密なこと!

でもやっぱり彼女はアルマンのことを愛しているのだなあ、とパパが帰った後にアルマンが来たときのフェリを見て思うのであった。
何も知らずにソファで無邪気に寝てしまうアルマン。この無邪気さがいいわ~。ボッレのアルマン、正直マルグリットに対する執着の強さはあまり感じられなかったが(爽やか君なアルマン)、44歳でこの屈託のない青年ぽさは素晴らしい!年下のゴメスと全く違和感なく父息子に見える奇跡!!(ちなみにフェリは56歳…!)
アルマンには辛い本心を隠して微笑み、彼から見えないところでふっと笑みが消えるマルグリット。フェリがマルグリットにしか見えない

舞踏会で札束渡されてからの、再びの病床場面。ダンディーなの来た!と思ったらアルマンパパagainではないですか。
アシュトン版はパパが最後に付き添っているのか!しかも息子を呼んであげる?のか!
youtubeでいくつか観たラストシーンのPDDは「ちょ、アルマン、瀕死のマルグリットをそんなにぶんぶん振り回したら死期を早めちゃうでしょうが!」と感じたのだけど、今日の二人にはそれは感じなかったな。フェリのマルグリットは本当に死にそうで、でも二人のPDDには最後にもう一度アルマンに会えたマルグリットの深い喜びと愛情の方を強く感じたから。死はもうあまりにも近くに来てしまっているから、だから二人でいる今この瞬間が彼らにとって何よりも大事なんだとフェリを見ていて感じられたから…。

ピアノは、今回SNSで袋叩きにあっているフレデリック・ヴァイセ=クニッターさん。パリオペの来日の椿姫を弾いた方ですね。他には、私は行っていないけれどWBF2018もこの方だったそうです。今回の強音部分の盛り上がりや速い部分には満足したとは全く言えないけれど、弱音部分の甘く静かな美しさは私はとてもよかったと思いました。そもそもこのリストのロ短調ソナタを私が実演で聴いたことがあるのは色んな意味で滅茶苦茶なポゴレリッチの演奏だけで、そのポゴさんの演奏が好きだったりする私は「ポゴさんの伴奏だったらどんな感じになったのかなあ」と観ながら想像してみたのですよ。速攻で「無理だわ、あの演奏じゃダンサーは踊れないわ」と思いましたです。なので今日の演奏にそこまでの不満は私はないです。そんなことよりフェリが素晴らしかったという印象の方がずっと強い。
ちなみに公爵はリアブコでした(細かい演技してくれてた!)。豪華配役 冒頭の病床のマルグリット役(フェリはすぐ後に赤いドレス&アップの髪型で出てくるのでこの場面は代役が踊っている)は、東京バレエ団の沖香菜子さんだそうです。

全員でのカーテンコール。ゴメス&リアブコは『マルグリットとアルマン』の老けメイク&衣裳のまま『アミ』の振付で踊りながら登場(アミの振付だったことはツイで知った)。可愛すぎる親父達 素晴らしいダンサーばかりが並ぶ綺羅星のような(最後にみんなでクルっと回るように?キメたところの美しさ!)、でもこういう公演ならではのとても温かなカーテンコールでした ボッレ、フェリ、ゴメス、リアブコ、アッツォーニ、ハミルトン、水香さん、幸せな真夏の夜をありがとう。

Bプロのリアブコ&ボッレのOpus100にも心惹かれるけれど、以前に観たリアブコ&イヴァン・ウルヴァンのハンブルクコンビでのそれに大満足させてもらっているので、今回はこれで終わりとします。最近のワタクシのモットーは「足るを知る」なのである。


追記:「衣裳・セットは英国ロイヤル・バレエ団からお借りしています。」とのこと by NBS twitter。へ~。

♦上演時間♦

第1部 19:00 - 19:45
休憩     15分
第2部 20:00 - 20:35
休憩     20分
第3部 20:55 - 21:30

※エンタ・ステージ:ロベルト・ボッレ「『フェリ、ボッレ&フレンズ』は本当に特別な公演」
※Alexandre Magazine:Issue 006 マルセロ・ゴメス&上野水香 独占潜入 『ボレロ』ができるまで
※Alexandre Magazine:Issue 007  アレクサンドル・リアブコ&シルビア・アッツォーニ 至高の芸術家の終わりなき旅
※Alexandre Magazine:アレクサンドル・リアブコが語る、バレエと表現の関係とは。
※SPICE:“バレエ界のレジェンド”アレッサンドラ・フェリ&ロベルト・ボッレにインタビュー~『フェリ、ボッレ&フレンズ』まもなく開幕
※CLASSICA JAPAN:「フェリ ボッレ&フレンズ~レジェンドたちの奇跡の夏~」に出演するダンサーたちのリハーサルにお邪魔しました
※バレエチャンネル:「フェリ,ボッレ&フレンズ」リハーサルレポート vol.1 インタビュー:アッツォーニ&リアブコ
※バレエチャンネル:「フェリ,ボッレ&フレンズ」リハーサルレポート vol.2 インタビュー:上野水香
※バレエチャンネル:「フェリ,ボッレ&フレンズ」リハーサルレポート vol.3 インタビュー:マルセロ・ゴメス


おまけ
公演前に上野に寄り、シャンシャンに会ってきました。
猛暑のため10分待ち程度で、15時~16時の1時間で5回観覧できました。
相変わらず大きなぬいぐるみが動いてるようにしか見えない可愛らしさ


シャンシャン


シャンシャン


シャンシャン


シャンシャン


リーリー


シンシン


文京シビックセンターの展望台(無料!)より。
夕食は同フロアーにあるスカイレストラン椿山荘にて。かつカレーが美味でございました
窓からの眺めもいいし、+300円のドリンクバーにココアがあるのもポイント高し

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