風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

脂のった塩漬けニシン オランダの夏は「ハーリング」

2021-04-29 21:27:08 | 旅・散歩










皆さま覚えていらっしゃいますでしょうか。
私が数年前のアムステルダム旅行でどえらい感動した、ニシンの塩漬け。
行ったのは6月上旬で漁解禁日にわずかに届かず新ニシンは食せなかったけれど、それでも人生で初めて食べる種類の味になんじゃこりゃあと衝撃を受けたニシンの塩漬け。
それまで私の中でニシンといえば昆布巻きとか、菜の花漬けとか、蕎麦にのってる身欠き鰊の甘露煮とか、ヘルシンキで出会った甘酸っぱい酢漬けでございました。嫌いではないけれど、独特のクセがあり、特に好きとも言えなかったこの魚
それがアムステルダムで塩漬けに出会ってから忘れられない味となり、これを食べるためにまたオランダに行こうかと本気で思ったほど
正確には私が感動したのは、ニシンの塩漬けそのものよりも、ニシンの塩漬けパン
屋台で売っているオニオンとピクルスとニシンの塩味だけのシンプルなサンドイッチ。これ以上足しても引いてもいけない完璧なバランスのあのサンドイッチ。

しかしこの「ニシンの塩漬け」、帰国してからあちこち探してみるも、どこにも売っていない。酢漬けならコストコやイケアで売っているけれど、あのパンは酢漬けではダメなの。絶対に塩漬けじゃないと。
なんとかもう一度食べられないものかのぅ・・・・
と思いながら数ヶ月がたったある日。

いつものように鎌倉を散歩していた私が立ち寄ったのは、鶴岡八幡宮の真ん前というThe観光地にある『山安』さん。小田原に本店がある干物屋さんです。それまでも何度か干物を買ったことがあったので、その日も何か買って帰ろうとふと冷凍ケースに目をやると、



こ、これは・・・!!!!
こんな地元で出会えるなんて
しかもお値段432円(税込)。アムステルダムで€3.50で食べたことを思うと、全然高くない。
もちろんお買い上げ~。



しかし問題はお味である。
本当にアレと同じ味なのだろうか・・・。
ドキドキしながら、ニシンをホットドック用のパン🌭に挟み、玉葱の微塵切りとピクルスをたっぷりのせて、いただきま~~~~す。

!!!!!
アムステルダムで食べたのとまったく同じ味

この再現度の高さにはビックリしました。
ポイントは、ニシンの尾近くの大きな骨だけは摘まんで取ること(小骨は食べられます)。玉葱の微塵切りとピクルスはたっっっぷり。他の野菜を足したり、塩胡椒したりしてはいけません。バターやオリーブオイルも不要。
そしてパンはこれで↓↓↓



高価なパンなど不要です。これで十分。ていうかこれでなきゃダメ。
食パンなど色々試しましたが、これが一番美味しかったです。バターの風味がニシンの塩気(といってもしょっぱくはなくほぼ刺身)と絶妙に合う。

ご興味をもたれた方は、鎌倉や小田原に行かれた際に是非
県外の方はコロナが落ち着いた頃か、オンラインショップもあるようです。

脂のった塩漬けニシン オランダの夏は「ハーリング」(日経トラベル旅グルメ)

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東京春祭《マクベス》 @東京文化会館(4月21日)

2021-04-24 22:59:44 | クラシック音楽



世界は知らないもので、そして美しいもので溢れている。
5年ぶりのムーティさんを聴きに、上野の森へ行ってきました

19日の公演を聴いた方達が「これほどの『マクベス』には二度と出会えないだろう」とか「今まで国内外で数多く聴いたムーティの中でベスト」とか「超弩級の名演」とか書かれていて。いつものクラオタさん達の大仰な表現だろうとは言い切れないものを感じたので聴いてみたくなり、でもどうせチケットは完売か高い席しか残っていないのでしょうと半ば諦めつつ春祭のサイトを覗いたら、手頃な値段の良席が山ほど残っているではないですか
いわゆる”ムーティのヴェルディ”がこんな惨状だなんてコロナ禍の影響はこれほどなのか・・・と呆然としつつ、開演数時間前にポチ。
ムーティのイタリアオペラは一度聴いてみたいとずっと思っていたので、ちょうどいい機会となったのでした。

ムーティのオペラもヴェルディのマクベスも初めて聴くので他と比べることはできないけれど(そもそもオペラ自体が二度目)。

いやあ。。。。。
予想を遥かに遥かに超えて物凄かった。。。。。
こんなの聴いてしまったら、もうムーティさまと呼ぶしかない。。。。。

この作品はシェイクスピアの『マクベス』をヴェルディがオペラにしたものですが、聴きながら、今月の歌舞伎座の『桜姫東文章』のようだなあと感じました(『桜姫~』の感想は後日upします)。
歌舞伎とシェイクスピアは似ていると常々思っていたけれど、南北は特に似ているのかも。と思いググってみたら、坪内逍遥が南北を「日本のシェイクスピア」と譬えていた
人間の業とか殺しの残酷さとか堕ちていく悲哀とかそういう人間達の世界の裏面を、重みと軽みの絶妙なバランスを保ちながら、描いている内容にも関わらず品と格調を失わずに表現しきる凄み。最後には、どんな荒唐無稽な展開も説得力を持たせてしまう。そしてそのすべてを虚構という衣で包む視点。
とはいえどんなに素晴らしい作品も、それを形にできる人達があってこそ。
今月の歌舞伎座にはそれがある。そして今月の東京文化会館にも。
それを音楽で表現したヴェルディも素晴らしければ、それを形にして見せてくれた指揮者もオケも歌手陣も素晴らしい。

まずは何よりオケ!
始まってすぐに「なんて雄弁な音だろう」と驚きました。日本のオケからこんな表情豊かな音が出るなんて。「若手演奏家」とあったから音大生とかなのかなと思っていたら、帰宅してから知りましたが、N響やら読響やら都響やらのプロの方達ばかりなのであった。
技術的な上手さだけならもっと上をいくオケはあるだろうけれど、今回はその音の表情の豊かさと多彩さが半端ない。聴こえてくる全ての音に意味があって、それらが自然に一つの世界を築いている。
これまで聴いた本当に良い演奏というのはみんなそうで、そしてそういう演奏に出会える機会というのは決して多くはないのです。
今回は、やはりムーティの力なのだろうな。
スコットランドのハイランド地方の荒涼とした草の上に吹く風が肌に感じられるよう。魔女達が目の前にいるよう。城の中で蠢く人間達の陰謀や心の内がはっきりと伝わってくる。
人殺しの決意や人生の悲哀といったネガティブな感情が長調の軽やかな音で表現されると、凄みが増しますね。素晴らしいなあ、ヴェルディ。
情熱的だけど、知的で。美しいのに、楽しい!
力業じゃないんですよね、良いパフォーマンスって。全てが無理なく自然。
今回ノーカットで演奏されたという3幕のバレエ音楽も本当に素晴らしくて、10分近くあったそうですが、聴いていて楽しくて仕方がありませんでした。

しかし今回のような演奏を聴くと、やはりムーティとシカゴ響は音楽的な相性はあまりよくなかったのでは、と思ってしまう。。
今回は歌うようなフレーズも軽快なフレーズもめちゃくちや良かったし。
あるいはムーティはやはりお国ものがずば抜けて得意なのだろうか。

マクベスのミケレッティは表情豊かな声で、シェイクスピアの台詞が聴こえてくるようでした(話しているようという意味ではなく、声の表情的な意味です)。弱音の臆病そうな不安げな感じもとてもよかった。
マクベス夫人のバルトリも、最初の一声(歌に入る前の手紙の朗読)から『マクベス』の世界に引き込んでくれました。二幕の夜を歌う歌では、夜の空気を肌で感じた。
バンコのザネッラートもだけど、今回の舞台を観ていて、歌唱の上手下手以前に、その人が歌いだすとその世界に一瞬で引き込まれる感じになるか否かに海外勢と日本勢の大きな違いがあるように感じられました。ミュージカルでも同じことをよく感じます。
そんな中で侍女の北原瑠美さん、出番は少ないけれどよかったな。彼女が歌うマクベス夫人の夢遊病の前の場面、そのときの城の空気が感じられてぞくぞくしました。北原さんのtwitterによると、ここはムーティがこだわっているシーンの一つだそうで、ムーティ曰く「このシーンの如何によって夢遊病のアリアが生かされもするし台無しにもする」とのこと。うんうん、すごくよくわかります。
今回は「演奏会形式(字幕付)」で、私は4階正面席だったので皆さんの顔の表情が見えていたわけではないのです(主役お二人を数回オペラグラスで覗いたらしっかり演技をされていて、一階席を取ればよかったかなと少し後悔したけれど)。でも「オケの音の表情」と「ソリストの声の表情」を耳いっぱいに感じることができて、舞台の上に目に見えない世界が目に見えるように広がっていくのは演奏会形式の良さだなと感じたのでした。

合唱の皆さんも素晴らしかったです。やはりその声から世界が見えました。
女声合唱の凄みのある透明感で歌われるブラックでユーモアある魔女達の歌も楽しくて、引き込まれました。彼女達の歌い方にはシェイクスピアであることの軽みが足りないという感想を見かけたけれど、それも確かに理解できるけれど、今回はそのギャップにぞくぞくしました。
4幕冒頭とラストの祖国スコットランドを歌う合唱。マクベスの破滅から壮大な音と声の美しさにひたすら圧倒されるフィナーレで終わる流れは、単純な勝利の喝采やマクベスへの皮肉だけではない何かが心に残って、でも晴れやかな気分で劇場を後にできて、いいよね。

で、最後にムーティさま。
若いなあ!
現在79歳というと、アルゲリッチと同い年なんですね
背筋がすらっと伸びてて、動きも軽やか。シカゴ響のときほどではないにしろ相変わらず跳ねているし、スッと伸ばす手の動きも美しい。その腕の雄弁なこと、オケから引き出す音の鮮やかなこと。良い演奏ではいつも感じるように、指揮者が魔法使いのように見えました。
退場時のciao♪なお手手も変わらず。
来年の春祭は『仮面舞踏会』での来日とのこと。でもその前に今秋にウィーンフィルとの来日がありますね。聴けたらいいな。

カーテンコールは客席総立ち。私ももちろんスタオベ。
こんなに空席があることが本当にもったいないと感じてしまった。
この素晴らしい演奏を一人でも多くの人に生で聴かせてあげたかった。それは今月の歌舞伎座の桜姫にも感じたこと。
コロナのバカヤロー!!と心底思いました。
その後、三度目の緊急事態宣言の発表が。
政府のバカヤロー!!
全員マスクして前向いて座席間隔あけて黙って舞台を見ているだけの劇場を終日閉鎖して、マスクとって食べながら喋るひとたちで溢れてる飲食店は夜8時まで営業OKってどういう理屈よ8時を境にウィルスの感染力が強まるわけでもあるまいし。そもそも大事なのは時間や場所ではなく、一人一人の生活の中での注意と意識でしょう。その意識さえ徹底させられれば劇場も飲食店も美術館も百貨店も終日開けていても本来問題ないはずなのに、政府が率先してオリンピックをやるとか言ってるから国民の意識も緩むんでしょーが。
東京文化会館は緊急事態宣言により25日から来月11日まで休館とのこと。ムーティさまの悪運の強さよ


これは観客にとっても同じですよね。
少なくとも私にとっては、音が風景や人の心となって目の前に実体をもって立ちのぼって、感触や匂いも伝わってくるように感じるのは生演奏でだけ。その音が手で触れられるようなのは生演奏でだけ。機械を通しては感じられません。
数日たった今でも夜寝る前や朝目覚めたときにふと、あのとき見えたスコットランドの風景や空気を感じてしまっています。


バンダも素晴らしかったです!良い音だなと思わず舞台上で探して、ああバンダなのだと気づいたのであった。客席から聴く良いバンダってワクワクしますよね。


読んでるだけの私も萌


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イタリア・オペラ・アカデミー in 東京 vol.2
リッカルド・ムーティ指揮《マクベス》(演奏会形式/字幕付)

マクベス(バリトン):ルカ・ミケレッティ
バンコ(バス):リッカルド・ザネッラート
マクベス夫人(ソプラノ):アナスタシア・バルトリ
マクダフ(テノール):芹澤佳通
マルコム(テノール):城 宏憲
侍女(ソプラノ):北原瑠美
医者:畠山 茂
召使い:氷見健一郎
刺客:氷見健一郎
伝令:片山将司
第一の亡霊:片山将司
第二の亡霊:金杉瞳子
第三の亡霊:吉田愼知子

管弦楽:東京春祭オーケストラ
合唱:イタリア・オペラ・アカデミー合唱団
合唱指揮:キハラ良尚

ヴェルディ:歌劇《マクベス》(全4幕)
[上演時間:約3時間(休憩1回含む)]












 前回2019年の「イタリア・オペラ・アカデミー in 東京」の《リゴレット》のあと、「次はさらにいい歌手を呼ぶから」と予告して帰って行きました。ムーティがアカデミーに若手歌手を起用するのは、もちろん「育成」といテーマに沿っているのですが、大物歌手は10日も2週間もある長いアカデミーに付き合ってくれないし、出演料も高くなるからという現実的な理由でもあります。今回の《マクベス》では、バンコ役のリッカルド・ザネッラート(バス)は早くから決まっていたのですが、マエストロも深く信頼する彼については、アカデミーの終盤に合流してくれればいいという目算があったようです。 
 その年の夏、鈴木幸一実行委員長らがラヴェンナ・フェスティヴァルを訪れた際、「そろそろ決めてほしいのだけれど」と切り出すと、その年のアカデミーの《フィガロの結婚》の伯爵役を歌っていたルカの名前を挙げて、「彼はいいぞ。絶対にスターになる」と太鼓判。そのひとことでマクベス役が決まりました。
 一方のマクベス夫人役は少し難航しました。私たちからも何人かの候補を挙げて打診したのですが、マエストロのお眼鏡にかなう歌手はいません。夏も過ぎようとしていた頃、「見つけた!」という声が挙がりました。ラヴェンナ・フェスティヴァル総裁でもあるムーティ夫人クリスティーナからです。
 クリスティーナ夫人のプロダクションのオーディションを受けに来た歌手の一人がアナスタシアでした。ムーティ自身も彼女の声を確認して、「まだ粗削りなところもあるがいける」と確信を持ったようです。
東京ハルサイ事務局

へ~
あの海外勢の3人は日本側が決めたのではなく、ムーティが連れてきたのか。

 この日の作品解説は、アカデミーのエッセンスを伝える、いわばムーティの所信表明演説です。現代において、ヴェルディがいかに誤って解釈され、聴衆もそれを歓迎してしまっているか。象徴的な例として挙げられたのは、歌手たちがこれみよがしに、ときにはヴェルディの書いた音を変えてまで高音をのばす習慣です。
「まるでショーの要素のひとつになってしまった。『ゴーーール!』と、サッカーにたとえているテノールまでいる。あるいは背中の曲がったリゴレットが、高音をのばすために、そこだけ背中をピンとして歌ったり」
 と嘆きます。一流の演劇人でもあるヴェルディがそんなグロテスクな行為を許すはずがなく、それを聴衆がもてはやすのは、それが誤った「イタリア」を思い起こさせるからなのだと皮肉っぽいユーモアを交えて。
 「太陽! 海! モッツァレッラ! トマト!…。それが多くの皆さんの考えるイタリア。でもイタリアにはダンテもラファエロもミケランジェロもいる。それが本当のイタリアなのです」
 そうした間違ったイタリア・オペラの伝統を忘れて、今こそヴェルディを本当に理解するときなのだと、熱を込めて語ってくれました。
 ・・・
 ムーティは、《マクベス》ではとくに声の使い方が大事だと説きます。音楽的にではなく演劇的に、俳優のように、と。その最たる例はマクベス夫人の登場のアリアの前にある、手紙を読むシーンでしょう。音符のない、台詞だけの表現が難しい箇所です。
「けっして大声で読んではいけません」
 オーケストラが繊細なピアニシモで弾いているのに、突然朗々と響き渡る声でやって台無しにする歌手がいるのだそう(ムーティは、名盤として知られるフィオレンツァ・コッソットとの録音のとき、ここを彼女と念入りに練習したエピソードを話してくれました)。
 谷原さんのマクベス夫人。
「それだとちょっと甘すぎるかな」
 など、ニュアンスを細かく指摘するムーティのアドヴァイスで、繰り返すたびに、表現が見事に変化していきました。
東京ハルサイ事務局


外国人出演者の入国──コロナ禍の来日実現まで(東京ハルサイ事務局)
※リッカルド・ムーティ「イタリア・オペラ・アカデミー in 東京」vol.2 《マクベス》開催レポート Part1part2part3part4part5part6

オペラ対訳プロジェクト『マクベス』
いつもお世話になっておりますm(__)m


オマケ
春祭公式HPにこんなページがありました。
上野界隈は文学好きにとっても楽しい街ですよね

・・・・「楽堂の入口を這入ると、霞に酔うた人のようにぽうっとした」と、夏目漱石の『野分』にも描かれている旧東京音楽学校奏楽堂は、明治23(1890)年に完成した日本最古のコンサートホールです。

 漱石の弟子である寺田寅彦は『夏目漱石先生の追憶』のなかで、「上野の音楽学校で毎月開かれる明治音楽会の演奏会へ時々先生といっしょに出かけた」と記していますが、昭和4(1929)年に日比谷公会堂ができるまで、日本ではクラシック音楽の生演奏をまともに聴ける機会は、東京音楽学校奏楽堂での演奏会くらいでした。
 寅彦は、ここで漱石と演奏会を聴いたときのエピソードを次のように綴っています。
「ある時の曲目中にかえるの鳴き声やらシャンペンを抜く音の交じった表題楽的なものがあった。それがよほどおかしかったと見えて、帰り道に精養軒前をぶらぶら歩きながら、先生が、そのグウグウというかえるの声のまねをしては実に腹の奥からおかしそうに笑うのであった」・・・

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簑助さんが引退

2021-04-17 00:16:22 | その他観劇、コンサートetc

©国立文楽劇場(2005年)


人形遣いの吉田簑助さんが、今月の国立文楽劇場の公演を最後に引退されるそうです。

華やかで可憐で、胸が苦しくなるような魂の震えが伝わってくる簑助さんの人形が大好きでした。
舞台の上で簑助さんの人形だけが、他の人形とは違って見えました。人形遣いと人形が完全に一体となっていて、人形自身が魂をもって生きているようにしか見えない。「簑助さんが人形で、人形の方が本体なんじゃないかと錯覚させられる」と冗談半分に書かれている方がいたけれど、本当にそんな感じで、その舞台を観ていると、蓑助さんは人間としてよりも人形を通してご自身の人生を生きて来られた方なのではないか、と本気で感じたほどでした。その人形を前にすると、至芸という言葉も生温く感じられました。

私が簑助さんの舞台を観られたのは八重垣姫、小春、長吉、菊の前、おかる、桜丸、深雪、中将姫、雛鳥の9回だけでしたが、私の人生の中であの奇跡のような人形を観させていただいたことは大きな大きな宝物で、感謝しかありません。
81年間お疲れさまでした。そして、本当にありがとうございました。
写真は、私が初めて観た文楽の演目で、文楽というものの素晴らしさを衝撃とともに教えてくれた『本朝廿四孝~十種香の段』の八重垣姫です。

以下は、簑助さんのコメント全文。

 私、吉田簑助は、2021年4月公演をもちまして引退いたします。

 1940年、三代吉田文五郎師に入門し、人形遣いの道を歩みはじめて今年でまる81年。その間脳出血で倒れ、復帰してから22年、体調が思うにまかせないこともありましたが、曽根崎のお初も八重垣姫も静御前も再び遣うことが出来、人形遣いとして持てる力のすべてを出し尽くしました。

 今まで応援して下さったお客様、支え続けて下さった文楽協会、日本芸術文化振興会の方々、同じ舞台をつとめた太夫、三味線、人形部の方々、そして何より私の門弟たち、本当に感謝しています。お世話になりました。ありがとうございました。

 皆様、どうぞこれからも、人形浄瑠璃文楽を宜しくお願いいたします。

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三月大歌舞伎 @歌舞伎座(3月18日)

2021-04-07 20:09:12 | 歌舞伎




遅くなりましたが、先月の歌舞伎座の感想を。
第二部、第三部に行ってきました。

【熊谷陣屋】
仁左衛門さんの熊谷を見るのは、今回が初めて。
登場したときに「えっニザさん?」となった
なんというか、想像以上に”熊谷”で。
前月の神田祭のような演目も超お似合いなのに、こういう時代物もしっかり演じてしまう仁左衛門さん。知ってはいたけれど、見事なものだなあ。
仁左衛門さんの熊谷は「仁左衛門さんらしい熊谷」で、物語りの部分は須磨浦の情景が目の前に鮮明に浮かぶようでした。また、首を息子のものとしてはっきりと愛情をもって扱っていて、相模に渡す前だったかな、首を腕に抱いて、そっと撫でていたのが印象的だった。。。ただ、熊谷が出家をするのは息子を殺してしまったからだけではなく、若い命がこんな風に散ってしまう世の中に対してのより大きな想いがあったからだと思うのだけれど、そういう感じは必然的に薄くなってしまっているように感じられました。
また吉右衛門さんの熊谷と比べると現世において熊谷が持ってきたであろう執着や屈託のようなものも薄めに見えるので、その上でこそ一層強まるように思われる最後の無常感、花道の胸が苦しくなるような感じも薄めに感じられたのでした。
ただこれは、脇の相模(孝太郎さん)や藤の方(門之助さん)や義経(錦之助さん)が私的にあまりしっくりこなかったせいもあるかも。
そういえば軍次が彦三郎かと思ったら、配役表を見たら亀蔵でした。兄弟だから当然だけれど、似ている。。。

仁左衛門さんの熊谷陣屋は、亡くなった友人が博多まで見に行きたいと言っていた演目でした。調べたら2016年のことでした。もっと早く歌舞伎座でやってくれていたらな。。。ただ友人は仁左衛門さんの熊谷は仁左衛門さんの襲名披露のときに観ていて(1998年)、そのときに買ったテレフォンカードを大切に”宝箱”にしまっていたのだった。宝箱から出して持ってきて、私に見せてくれたことがありました。私が仁左衛門さんの吉田屋が好きだと言ったら、昔の筋書きを持ってきてくれたりもして、、、懐かしいな。。。

【雪暮夜入谷畦道】
これはもう配役的にも安定のお芝居。大好き。
特に前半の雪の蕎麦屋と夜の通りの場面の空気が、本当に好きだなあ。
この演目を観ると蕎麦(江戸風の醤油味の濃いやつ)を食べたくなるのは経験済みなので、ちゃんと家に蕎麦を買っておきました
直次郎(菊五郎さん)と丈賀(東蔵さん)は本当に食べてるんだよねー。

【楼門五三桐】
これは当日の観劇後のメモを元に書いているので、後日に吉右衛門さんが倒れられたから書くわけではないことをまず断っておきます。
この演目を観るのは二度目のはずで(ブログに記録がないので、前回いつ誰で見たのか全く記憶にない。もしかしたらそのときも吉右衛門さんだったのかも)、得意な演目ではなかったので全く期待していなかったのです。
そしたら。
吉右衛門さん(五右衛門)の朗々とした「絶景かな」で本当に絶景が見えた。。。。。。。。。
舞台も客席も歌舞伎座の建物も超えて広がる桜桜桜の絶景。
なんていうおおらかさ、大きさ、気持ちのよさだろう。
どうして私はこの演目を苦手だなんて思っていたのだろう、と過去の自分が不思議になった。
吉右衛門さんの表情に、吉右衛門さんの目にはその絶景が見えているんだなと感じました(実際に舞台上には桜吹雪が舞っていたのだけれど、そういう意味じゃなくて)。
大きいなあ。。。
歌舞伎っていいなあ。。。
今月の吉右衛門さんについては「舞台にいてくれるだけで」みたいな感想を聞いていたけれど、私にはいつもと同じに、というよりも調子がいいときと同じくらいお元気そうに見えて、安心したんです。
ただ脚がひどく細く見えたのが心配だったくらいで…。

幸四郎(久吉)も、舞台映えして綺麗だったなあ
新旧鬼平だ!と嬉しくなった
撮影前からあまり評判の宜しくない新鬼平ですが(吉右衛門さんの鬼平は完璧だったものね)、私は案外悪くないのではないかと想像しているのですけど、どうでしょうね。やっぱりダメだろうか。

後半はやはり三階席からは五右衛門の首から上は全く見えませんでした(うん、知ってた)。

吉右衛門さんのご快復を、心よりお祈りしています。本当に、心から。。。。。
80歳の弁慶、楽しみにしていますよ!!!

【隅田川】
『伊勢物語』第九段「東下り」に、都を捨てて隅田川までやって来た男たちが、川面に浮かぶ鳥の名を船頭に尋ね、「あれは都鳥」と聞いて都を思い出し、涙する話があります。能『隅田川』では、都の貴族吉田家の若君・梅若丸(うめわかまる)が行方不明となり、わが子を探す母は錯乱状態ではるばる隅田川までやって来ます。そして渡し舟の船頭から、人買いに連れられて来た少年がこの河原で死んだと聞き、その少年こそわが子と知るという物語です。この能が、「梅若伝説」を題材にしたものか、能が元で梅若伝説が出来たのかは不明ですが、いまも東京都墨田区の木母寺(もくぼじ)に梅若塚があり、3月15日(旧暦、現在は新暦の4月15日)を梅若忌として、法要が行われています。
能の『隅田川』では母の名はありませんが、能『班女(はんじょ)』が貴族の吉田少将を熱愛する班女を主人公にしたことから、梅若丸の母も「班女」と呼ぶようになり、梅若丸も吉田の少将の子とされるようになります。
歌舞伎や人形浄瑠璃(文楽)でも、隅田川を舞台に幼い梅若殺しを取り入れた作品が多く作られます。
(歌舞伎用語辞典「隅田川の世界」)

この演目も、4月の南北の『桜姫東文章』も、”隅田川物”なんですね。
この舞踊を観るのは初めてで、以前youtubeで部分的に見て印象に残っていた『雙生隅田川』とは別物であることを当日舞台を観て知った
『保名』のようないわゆる狂乱物だけど、玉三郎さんの演技にははっきりした気狂いさはなく、精神的には正常な女性が子を悲嘆に暮れて探し求めている姿のように見えました。これが”玉三郎さんの班女の前”なのだろうな、と感じました。
玉三郎さんだけでなく鴈治郎さん(舟長)も現代的な空気なので、胸にぐわ~~~っと迫りくるような哀れさは薄めで、45分間の上演時間が長く感じられたけれど、最後に班女の前がそれは子供ではなく柳であると気づく場面は辛かったな…。夢から醒めるって一番辛いことだ。
激しくはない、静かであるがゆえの悲しみの空気が胸に残った『隅田川』でした。
でもやっぱり45分は少し長く感じたな

この四つの演目はみんな今の季節のお芝居で、やっぱり歌舞伎は季節に合った演目が一番だな、と改めて感じました。








仕事帰りの夕方に訪れた、友人のお墓のあるお寺で咲いていた桜です。満開でした。
吉右衛門さんが心肺停止らしいと母親からのメールで知ったとき、お墓の前にいたんです。
友人とお地蔵様に「どうか吉右衛門さんをお守りください」とお願いしました。
そして帰宅して、心肺停止は第一報で、その後に救急搬送と発表が変わっていることを知りました。ひとまずはほっとしました。友人とお地蔵様に御礼を言いに行かなきゃ。

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