風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

『極付 幡随長兵衛』『逆櫓』 @歌舞伎座(9月13日)

2017-09-25 20:37:29 | 歌舞伎

 


最近歌舞伎に限らず舞台の感想を書くのが億劫になりつつあるワタクシですが、備忘録備忘録。。
今月の歌舞伎座は秀山祭。中日に行ってきました。
先月からガラリと変わって、ガッツリ歌舞伎。歌舞伎座ってほんと色んな楽しみのあるテーマパークのよう。


【極付 幡随長兵衛】
なにはさておき、

吉右衛門さんの長兵衛のカッコよさ

すんごい男前!!親分の貫録は当然申し分なしだし!!色気もあるし!!大人の男の余裕と覚悟ありまくりだし(その自然さといったら!)!!優しいパパ&夫だし!!男だろーが女だろーがこれに惚れない人間なんていない!!鬼平親分~~~~(え?)
はぁ・・・ワタクシ的理想のパーフェクト長兵衛が見られて大大大満足です。ポスター(左)↑もステキすぎてサイズをこれ以上小さくできなかったですよ。

そんなもんのすごい男前吉右衛門親分に懐きまくってる町奴の子分たちがチーム播磨屋揃い(歌六さん@唐犬、又五郎さん@出尻、歌昇種之助)なのだから、その光景の楽しさといったら。特に頼れる筆頭子分な歌六さんが、渋くてかっこよかった。こういう好々爺とはちょっと違う凄みのある役の歌六さん、大好き。

対するは、旗本奴組(染五郎@水野、錦之助さん@近藤)。染五郎の水野は吉右衛門さんと対峙すると完全に貫録不足なのは仕方のないこと。でも私、染五郎の親分役って結構似合ってると思うのだけどな(少数派意見であろうことは承知)。今回は旗本側のせいもあり、お芝居の中で違和感は感じませんでした。ほぼ吉右衛門さんばかり見ていたせいもあるかもだけど^^;

「公平訪問諍」の劇中劇は、何度見ても楽しい。芝居を邪魔されてワチャワチャしてる舞台上の公平達、可愛いし。児太郎くん@頼義と米吉くん@柏の前の小芝居もニヤニヤしちゃいました。又五郎さんは公平と出尻の二役をされていて大活躍。もっともこの場面は広く整然とした歌舞伎座よりも平成中村座のような雑味のある小屋の方が面白味と臨場感を感じられるなあとも思いました。

そして魁春さん(お時)。家を守る妻的な役が本当にお似合い。なにより吉右衛門さんと魁春さんの夫婦の素敵さ!このお二人の組み合わせは、ものすごく好き。九段目の由良之助とお石は忘れられない。でもあまり組んでくださらないのよね・・・。
 

【ひらかな盛衰記 逆櫓】
この日の吉右衛門さんは、昼も夜も大熱演でありました(中日のせい?)。お声も出ていて、最近またお元気なようで一安心。
終盤は、知盛を思い出させる碇を使った立ち回り。ググってみたら、あちらの方が逆櫓のこの場面を取り入れているそうで。ひらかな盛衰記の初演が1739年で、義経千本桜は1747年。へ~~~。
立ち回りはさすがにお歳が感じられた吉右衛門さんでしたが(追記:肩を痛められていたそうです)、それ以外はとっても魅力的で立派な樋口だったなあ。この世代の役者さん達がいなくなったら、一体誰からこういう見応え聞き応えをもらえるのだろう、とどうしても考えてしまう。。

樋口の奥さんで権四郎(歌六さん。素晴らしかった!)の娘のおよしは、東蔵さん。いつもは吉右衛門さんのお母さんだったり歌六さんの奥さんだったりなお役の多い東蔵さんなので配役を見たときは不思議な感じがしたのだけれど、ちゃんと権四郎の娘に見えたので驚きました。
雀右衛門さん(お筆)も、安心の出来。
それと遠見の子役ちゃんがちょっとイヤミなくらい(笑)上手かったけれど、劇団の子でしょうか。

 ※ようこそ歌舞伎へ:中村歌六


初日の舞台より@歌舞伎美人


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生きるということ

2017-09-16 19:18:27 | 



余は今迄禅宗の所謂悟りといふ事を誤解していた。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。
(正岡子規 『病牀六尺』 明治35年6月2日)

淡々と書いているけれど、ものすごく凄絶な言葉だと思います。
典型的な明治人である子規は最後まで宗教に頼ることはなかったけれど、こういう言葉が自然に内から出てくるまでに子規の病状は進んでいた。
人は皆、死ぬまでは生きなければならない。義務だからではなく、他に選択肢はないという意味で。
どんなに痛くても、苦しくても、辛くても、孤独でも(子規は最期まで人に囲まれていたけれどね)。
9月19日は子規の命日です。

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9月文楽公演 『生写朝顔話』 @国立劇場(9月5日)

2017-09-15 00:39:38 | その他観劇、コンサートetc




今月は夜の部(勘十郎さんのキチュネ)が圧倒的な人気のようですが、私は昼の部の方に行ってきました。しょううつしあさがおばなし。

今回なにより面白く感じられたのは、前・中・後と3人の人形遣いさんが遣った深雪(朝顔)ちゃん。
いやあ、3人とも全然違う笑。ほとんど別人28号。作品の一貫性という点ではどうかわかりませんが、私はなかなか楽しかったです。

深雪ちゃん No.1 一輔さん(宇治川蛍狩りの段、明石浦船別れの段) 
まだ苦労を知らない初心な、でも何気にしっかり肉食系で思い込み激しくて一直線な、文楽あるあるなお姫様。一輔さんの遣う若い女の子は好きです。
「明石浦~」は寛治さんの三味線の豊かな響きに聴き入った

深雪ちゃん No.2 簑助さん(浜松小屋の段) 
路頭に迷い、今やすっかりやつれきってしまった深雪ちゃん。泣きすぎて目も見えなくなってしまいました。
もう登場からお見事なまでのやつれっぷり。でも可憐なの。簑助さんの深雪ちゃんの健気さ、育ちのいい素直さ、一途さ、哀しみ、、、、ああもう好きすぎて言葉が浮かばない
そしていつもながら簑助さんが遣うと人形が物に見えない。人形遣いの体と一体に見えるというか、人形遣いの魂の一部が人形に入っているように見えて、目が離せなくなる。小屋の影から顔や体の一部が覗いてるだけでもその息遣いや想いが強く伝わってきて胸が苦しくなるって、どんだけすごいの。全然大袈裟な動きはしていないのに。初めて文楽を観て嵌ってしまった簑助さんのあの十種香の八重垣姫の後ろ姿を思い出しました。
深雪が崩れ落ちて簑助さんの袖に震えてもたれ掛かるように見える体勢になったとき、なんだか泣きそうになってしまった。簑助さんと人形の結びつきの強さのようなものが、簑助さんの人形に対する深い深い愛情のようなものが伝わってくるように感じられて。簑助さんにとって人形ってどういう存在なんだろう。


そんな儚さと切なさいっぱいな深雪ちゃんにほろりとしていたのに―――


深雪ちゃん No.3 清十郎さん(宿屋の段、大井川の段) 
阿曾次郎(玉男さん)逃げて~!今この子に捕まったらもう二度と逃れられないわよ~!と本気で思った深雪ちゃんNo.3。靖太夫さんの激しい語り(@大井川)と共に。
あんなに可愛らしい顔で全くの躊躇なく、目の前で死につつある爺さんの生き血を飲んじゃう深雪ちゃんNo.3(てか生き血って切腹までしなきゃダメなの)。そしてその姿に全く違和感を覚えさせない深雪ちゃんNo.3。
事前にストーリーを調べていたときにサイコスリラーだとか散々な言われようだった深雪ちゃんだけど、実際に最初から半通しで観たら想像以上であった。阿曾次郎が割とふつうっぽいだけに一層。でもそんな文楽が私は好き(オリジナルは歌舞伎だけど)。
これだけすれ違いで引っ張っておいて最後までそのままな幕切れにも吃驚だったけど(そんな文楽が好き)、たとえひしと抱き合うラストシーンを見られたとしても純粋に「お二人さん、おめでと~!」と思えたかどうか。阿曾次郎の未来を思うと。そんな深雪ちゃんNo.3、清十郎さんも楽しかったけど、簑助さんでもすんごく見てみたかった。2011年にやってらっしゃったのね…。

和生さんの乳母浅香もとてもよかったなあ。こういう品のあるしっかり者の役が本当にお似合い。深雪お嬢様を守るために人買を一人でぶっ殺しちゃうくらい強いの。自分も深手負って死んじゃうケドね…。簑助さんとのペアって珍しい光景のような気がしたけど、どうなんだろう。「浜松小屋」の浅香、切なかった。清治さんの三味線の音色とともに。
一方呂勢太夫さんの語りは少々さっぱりめに感じられたかな。個人的にはもうちょいコッテリの方が好みです。休憩時間になった途端に「こんなんじゃ全然泣けない!」と大声で話していたおば様がいらしたけど、そんなに言うほど悪くも感じなかったけどなぁ。人形と三味線が良すぎただけで。私は全体で今回一番感動したのは浜松小屋の段でした。

「笑い薬の段」の勘十郎さん(萩の祐仙)。おお、こういう笑いをとるお役も上手いんですね!やりすぎると下品になりそうなのに、そうならないところが素晴らしいわ。ぱこって茶釜に蓋をする仕草がイチイチ楽しい
咲太夫さんの飄々とした自然な語りも味があったのだけれど、笑い声にお元気がなかったのが心配です。。。だいぶ痩せられていたなぁ。。。

この作品、ずーっと夜や薄昏の場面で、舞台が明るくなるのは笑い薬の段&宿屋の段とラストだけなんですね。睡眠注意な作品(でも今回は暗い段の方が眠くならなかった)。そして宇治川、明石浦、大井川と、水辺の場面が多いのね。文楽の屋外の風景は好きなので楽しかったです。宇治川と明石浦の船はどちらも上手に置かれていて、浜松小屋も上手だったので、このお話は上手の席の方がお得なのかも。私は下手寄りの6列目でした。でも浜松小屋の深雪ちゃんの顔はよく見えました(上手に立って下手側に顔を向けるから)。

次回の文楽は、地方公演の曽根崎心中(勘十郎さんのお初ちゃん♪)の予定です。

そうそう、開演前に「本日は記録映像を撮っています」というアナウンスがあったのだけど、「映像を撮るのにどうして舞台に向かってマイクがないんだろう?」としばらく本気で考えてしまった 。私には文楽人形は話しているようにしか見えない。



国立劇場特設ページより。初日の深雪ちゃんNo.1


深雪ちゃんNo.2。「浜松小屋」が東京でかかるのは20年ぶりだそうです。


深雪ちゃんNo.3


※吉田簑助 「千秋楽ごとに、この役を遣えて幸せだったと感謝しています」



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『九月十四日の朝』

2017-09-14 20:09:10 | 



今朝起きて見ると、足の動かぬ事は前日と同しであるが、昨夜に限って殆ど間断なく熟睡を得たためであるか、精神は非常に安穏であった。
顔はすこし南向きになったままちっとも動かれぬ姿勢になって居るのであるが、そのままにガラス障子の外を静かに眺めた。時は六時を過ぎた位であるが、ぼんやりと曇った空は少しの風もない甚だ静かな景色である。

窓の前に一間半の高さにかけた竹の棚には葭簀(よしず)が三枚ばかり載せてあって、その東側から登りかけて居る糸瓜は十本ほどのやつが皆瘠せてしもうて、まだ棚の上までは得取りつかずに居る。花も二、三輪しか咲いていない。
正面には女郎花が一番高く咲いて、鶏頭はそれよりも少し低く五、六本散らばって居る。秋海棠はなお衰えずにその梢を見せて居る。

余は病気になって以来今朝ほど安らかな頭を持て静かにこの庭を眺めた事はない。
嗽(うが)いをする。虚子と話をする。南向うの家には尋常二年生位な声で本の復習を始めたようである。
やがて納豆売が来た。余の家の南側は小路にはなって居るが、もと加賀の別邸内であるのでこの小路も行きどまりであるところから、豆腐売りでさえこの裏路へ来る事は極て少ないのである。それでたまたま珍らしい飲食商人が這入って来ると、余は奨励のためにそれを買うてやりたくなる。今朝は珍らしく納豆売りが来たので、邸内の人はあちらからもこちらからも納豆を買うて居る声が聞える。余もそれを食いたいというのではないが少し買わせた。

虚子と共に須磨に居た朝の事などを話しながら外を眺めて居ると、たまに露でも落ちたかと思うように、糸瓜の葉が一枚だけひらひらと動く。その度に秋の涼しさは膚(はだ)に浸み込むように思うて何ともいえぬよい心持であった。
何だか苦痛極ってしばらく病気を感じないようなのも不思議に思われたので、文章に書いて見たくなって余は口で綴る、虚子に頼んでそれを記してもろうた。


(正岡子規 『九月十四日の朝』 より)

ふとカレンダーを見たら9月14日だったので、再掲。
34歳で亡くなった子規が、死の5日前に書いた文章です。
もうすぐ子規の命日と誕生日。今年は子規の生誕150年です。

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続 『野田版 桜の森の満開の下』

2017-09-03 18:48:41 | 歌舞伎




 魂の孤独を知れる者は幸福なるかな。そんなことがバイブルにでも書いてあったかな。書いてあったかも知れぬ。けれども、魂の孤独などは知らない方が幸福だと僕は思う。女房のカツレツを満足して食べ、安眠して、死んでしまう方が倖せだ。僕はこの夏新潟へ帰り、たくさんの愛すべき姪達と友達になって、僕の小説を読ましてくれとせがまれた時には、ほんとに困った。すくなくとも、僕は人の役に多少でも立ちたいために、小説を書いている。けれども、それは、心に病ある人の催眠薬としてだけだ。心に病なき人にとっては、ただ毒薬であるにすぎない。僕は僕の姪たちが、僕の処方の催眠薬をかりなくとも満足に安眠できるような、平凡な、小さな幸福を希っているのだ。
(坂口安吾 『青春論』)



先月『野田版 桜の森の満開の下』を観て以来、青空を見るとプッチーニの『私のお父さん』が聴こえてきちゃうのです。
正直「ちょっとズルいよなあ、この音楽の使い方」と全く思わないわけではなかったのだけれど笑、それ以上に、この音楽があったからこそ安吾の「ふるさと」のあの風景をあの歌舞伎座の舞台の上に見ることができたのだとも思うのです。

絶対の孤独はあらゆる人間のふるさとである。

この青空はもちろん、夜長姫の空です。
このふるさとを日常の中で感じることができるだけで、私のような人間にはこの世界がちょっぴり生きやすくなるのです。だから野田さんには心から感謝。
もっとも安吾自身も言っているように、それは皆にとって必要なものなどでは決してなく、こんなものを必要としないで生きられるなら、その方がずっとずっと人は幸福なのだと思う。安吾の良さなんて、わからないならわからない方が幸せなんです。上から目線で言っているのではなく、心の底からそう思う。
でも必要な人には必要なのです、ただ人生をより良く生きるために。


文学は未来の為にのみ、あるものだ。より良く生きることの為にのみ、あるものだ。
(坂口安吾 『未来のために』)


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