風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

古川 薫 『わが風雲の詩』

2007-08-07 02:27:56 | 

売刀買山住 (刀を売り山を買うて住む)
閑臥独恰恰 (閑臥して独り恰恰たり)
多病雖辞客 (多病客を辞すると雖も)
寸心豈負時 (寸心豈時に背かんや)
作書昼更拙 (書を作せば昼更に拙)
深句句成遅 (句を探せば句成ること遅し)
恨我少年日 (恨むらくは我少年の日)
学兵不学詩 (兵を学んで詩を学ばざりしを)


(古川 薫 『わが風雲の詩』)

高杉晋作が主人公の本。
なかなか良かったです。
たまに、?と感じるところもあったけれど。。。
たとえば、やたらに「これは晋作の死の○年前のことであった」とか「晋作にはあと○年の月日しか残されていなかった」という文章があるのは、あまり私の好みではありません。後からみればそうだったというだけで、本人はそうと知って行動しているわけじゃないのだから、こういう文章にはあまり意味がないように感じるのです。1~2回程度なら嫌いじゃないけど、この本はちょっと多すぎかな・・・。

高杉晋作がその短い生涯で膨大な数の詩歌を詠んだことは有名ですが、それでも晋作というと、伊藤博文が彼の顕彰碑に書いたように「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」というイメージがやはり強い。
けれどこの本の晋作は詩人に憧れている繊細な若者である。奇兵隊創設や功山寺決起と派手に行動しながらも、「離れ牛」である彼はいつもどこか孤独で、そこに詩人晋作の姿が重なってみえた。

上記は彼が死の直前に病床で詠んだ詩だが、あれほど軍事面で鮮やかな活躍をした人が「恨むらくは我少年の日 兵を学んで詩を学ばざりしを」と言っているところがとても興味深い。
そして「面白き こともなき世を 面白く」というあの有名な辞世もまた、一層味わい深く感じられてくるのでした。

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吉田松陰 『留魂録』

2007-08-06 00:57:03 | 



 今日 私が死を目前にして、平安な心境でいるのは、春夏秋冬の四季の循環ということを考えたからである。
 つまり農事を見ると、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈りとり、冬にそれを貯蔵する。秋・冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ちあふれるのだ。この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるということを聞いたことがない。
 私は三十歳で生を終わろうとしている。いまだ一つも成し遂げることがなく、このまま死ぬのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、実をつけなかったことに似ているから惜しむべきかもしれない。だが、私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えたときなのである。
 なぜなら、人の寿命には定まりがない。農事が必ず四季をめぐっていとなまれるようなものではないのだ。十歳にして死ぬ者には、その十歳の中におのずから四季がある。二十歳にはおのずから二十歳の四季が、三十歳にはおのずから三十歳の四季が、五十、百歳にもおもずからの四季がある。
 十歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。百歳をもって長いというのは、霊椿を蝉にしようとするようなことで、いずれも天寿に達することにはならない。
 私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。それが単なるモミガラなのか、成熟した粟の実であるのかは私の知るところではない。
 もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐み、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになろう。同志よ、このことをよく考えてほしい。

(吉田松陰 『留魂録』)


『留魂録』は、死罪判決を覚悟した吉田松陰が門下生に宛てて書いた遺書である。
彼は安政6年(1859)10月25日獄中でその執筆にとりかかり、26日夕刻に書き終えた。
そして翌27日、評定所にて斬首を言い渡され、即日処刑された。

他言無用とされたこの遺書は無事門下生らの手にわたり、彼らはひそかに回覧し、書き写し、幕府に対する敵意を燃え上がらせたのである。

この『留魂録』の長さはわずか五千字にすぎないが、その重みといったら。。。
特に上で引用した部分は時代を超える名文だと思う。
また実物写真を見て感心するのは、ほとんど書き損じがみられないこと。
いくら覚悟ができているとはいえ処刑直前の精神状態で一気にこれだけのものを書き上げてしまう文章力と精神力に、身が引き締まる思いがする。
私が同じ立場だったら絶対に動揺して書き損じだらけになると思う。。

上記現代語訳は古川薫氏の『吉田松陰 留魂録』より。
この本もとてもおすすめです。
松陰の書いた原文は私のホームページに載せてあります。 

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『いのち』

2007-08-05 00:01:52 | 日々いろいろ


『いのち』とは心臓や寿命のことではなく、私達が持っていて、自分のために使える時間のことである。
そして自分の持っている時間を、自分のためだけではなく人のためにどれだけ使えるかが、自分のいのちを充実させることになる。


日野原重明さんのことば。
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気になるコトバ

2007-08-01 00:17:36 | 日々いろいろ
「男が○○だとちょっと引くよねー」
「○○な女って引くよなー」
「○○君みたいな人って、引くよね…」

10年ほど前には殆ど聞かなかった、この『引く』という言葉。
いつの間にやら世の中に浸透し、みんなやたらと使っていますが。
この言葉にどうにも不快なものを感じるのは私だけなんでしょうか??

いやな言葉だよなあ、と私はずーっと気になっているのですよ。
私自身が面と向かって言われたことはありません。
でも、友達が「○○な男って引くよねー(笑)」と言うのを聞いてるだけでも、私はそんな友達に対してそれこそ「引いて」しまうのです。ああ、あなたもこの言葉を抵抗なく使うんだね、、、と。

私は、この言葉が人に対して使われるとき、いつもそこに意地悪な響きを感じないではいられないのです。
イジメにともなう愉悦みたいな響きを。
もし私に対してこの言葉が使われるのを聞いてしまったら(「○○ちゃんみたいな人ってちょっと引くよねー」という感じに)、どんな言葉よりも、死にたくなるほど傷つくと思う。
だから私は絶対にこの言葉を使わないようにしている。

私が神経質なだけなのかなぁ。
いや、ちがうだろう。
たぶんこの言葉を何気なく使ってる人たちも、自分が言われたらすごく傷つくのだと思う。
でも他人に対しては気にせず使っている。
つまり、他人の痛みに対して無神経な、想像力が足りない人間が多すぎるのではないかと思うのだ。

こんなえらそうなことを言ってる私も、きっと自分の気づかないところで、何気ない一言で誰かを傷つけているのだろう。
でも「自分がされて嫌なことは他人にはしない」心構えだけは、できるだけ意識して生活していたいと思うのです。

以上、ついに今日母親までもがこの言葉を使うのを聞きヤルセナイ気分になったCookieでした。。。
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