風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

アンドロイドに魂は宿るか? ~漱石アンドロイド~

2021-12-30 18:09:49 | 

漱石アンドロイド モノローグ『Variable Reality ―虚構は可変現実』



2021年もあと2日。
ハイティンクやフレイレや吉右衛門さんが確かに生きていた2021年がもうすぐ終わり、彼らのいない新しい年が始まるというのは不思議で、どうしようもなく寂しい気持ちです。

先日友人と「年末だし蕎麦を食べに行こう!」という話になり、どうせなら行ったことのない店にと「芥川龍之介が食べたと言われる蕎麦屋」を目指して田端まで行ったのですが、改修中のためクローズ。結局いつもの上野の藪蕎麦と相成りました。でも相変わらず美味しくて満足
せっかく田端まで行ったので、駅前の文士村記念館にも伺いました。入館料無料ですが、生前の芥川の珍しい映像や芥川邸の30分の1スケールのジオラマが見られたりと、思いのほか楽しむことができました。
自殺の翌朝、妻の文夫人は、芥川の安らぎさえある死に顔に「お父さん、よかったですね」と声をかけたそうです。過去2年間の夫の苦しみを傍らで見続けてきた彼女は、自然にその言葉が口から出たそうです。
自殺の直前に書かれた久米正雄宛とされる『或旧友へ送る手記』の中で、芥川はこんな風に書いています。
僕の今住んでゐるのは氷のやうに透み渡つた、病的な神経の世界である。・・・若(も)しみづから甘んじて永久の眠りにはひることが出来れば、我々自身の為に幸福でないまでも平和であるには違ひない。
芥川にとっては、死ぬよりも生きていることの方が辛かったのでしょう。でも35歳は若いな…。

田端から駒込方面に少し歩くと、子規の墓のある大龍寺があります。今回ここにも行く予定だったのだけど、蕎麦屋閉店の衝撃と空腹で頭の中はランチのことでいっぱいで、すっかり忘れて田端に戻ってきてしまいました。どうせならロンドンから帰国後に漱石が訪れた1月27日付近に行ってみようかな。

前置きが長くなりましたが、文士村記念館で友人と話しているときに、漱石アンドロイドの話題が出たんです。2016年末に完成してから一度実物を見てみたいと思いながら、なかなか機会のない漱石アンドロイド。
久しぶりにyoutubeで検索してみたところ、二松学舎大学のチャンネルに「漱石アンドロイド演劇」なるものがupされていました。それが、冒頭に載せた動画です。2019年の「アンドロイドに魂は宿るか?」というテーマで開催されたシンポジウムで上演された『Variable Reality ―虚構は可変現実』という演劇作品で、登場人物は漱石アンドロイド、脚本は『夢十夜』や『三四郎』などの漱石作品の言葉が織り交ぜられた佐藤大氏によるオリジナルです(作中の「砂漠の亀」云々等は映画『ブレードランナー』へのオマージュとのこと)。
観終わってまず感じたのは、「演劇としてよく出来てるなあ!」ということでした。
何より、出演者が虚構と現実の淡いに存在するアンドロイドであることを活かした脚本がいい。人間の俳優には演じることができない作品になっている。そしてアンドロイドの表情が、私が想像する漱石のイメージに非常に近くて、まるで本人がそこにいるようでドキリとする。もちろん表情や動きはぎこちなく、人間のそれとは全く違います。でも私はそうであるが故に、この演劇に感心し、感動しました。能や文楽と似ているものを感じたからです。能面はずっと表情が変わらないのに、時に人間の顔以上の表情を見せることがある。文楽人形も同様で、人間が演じるよりも遥かに深く豊かな感情がそこに見えるときがある。このアンドロイドも、最後にスイッチが切れるとただの人形にすぎなくなるのに(この効果も文楽と同じですね)、独白場面では魂が吹き込まれたように見え、人間のようで人間ではないその表情に、強く"漱石アンドロイドの感情"を感じてしまいました。アンドロイドが持つ可能性というのは、私が思っている以上に大きいのかもしれない。ちなみに文楽人形の感情表現はロボット工学でも注目されているそうです。
脚本を書かれた佐藤氏は、「アニメーションの世界も実は表情が乏しいので、その点はアンドロイド演劇はアニメーションに似ていると感じました」と仰っています。

しかし次に思ったのは、もしアンドロイドがこれ以上に、つまり人間と区別がつかないほどにリアルになったら、私はどう感じるだろう?ということでした。
最近のアンドロイドやAIの進化を見ていると、それはそう遠くない未来の話のような気がする。そんな心配を本気でしなければならない時代が来たということ自体、昭和生まれの私には隔世の感があるけれど。

今の漱石アンドロイドは明らかに人形であるとわかるから、何かを喋っても私達はそれを人形のものとして受け止めるし、人形であるが故の魅力を感じる余裕もある。でもこれが人間と区別がつかないほどリアルになったら?あまつさえ高度な人工知能を持つようになったら?
私達は”彼”を人間と錯覚するようになるのではないか?
頭では人形だとわかっていても、そう錯覚するのは避けられないのではないか?
でも、漱石アンドロイドは間違っても漱石そのものではない。
そうなると、夏目漱石という人間の権利はどうなるのか?
と思っていたら、既に二松学舎大が2018年のシンポジウムでその問題を取り上げていました。テーマは「誰が漱石をアンドロイドとして蘇らせる権利をもつのか?」

漱石アンドロイドをはじめとして、人々が偉人として記憶している人を復元したロボットをここでは「偉人アンドロイド」と呼びます。多くの人は、はじめは偉人アンドロイドに違和感を感じるかもしれません。しかし、その動きに注視し、言論に耳を傾けるうちに、確かにそこに存在する偉人アンドロイドにやがては生命感を感じたり、場合によっては私達が知っている故人の偉業や実績を重ね合わせるのです。
提起された問題とは、蘇らせる権利だけではありません。
アンドロイドの制作者はそこに存在するアンドロイドに何を語らせてもいいのだろうか?
故人のダークな一面やプライバシーで覆われていた趣向などをアンドロイドで表現することで暴いてもいいのだろうか?
全くの創作、パロディとして、あたかも偉人がそれをしているかのように演じさせてもいいものだろうか?
と、次々に生まれてきます。(中略)
それらはすべて、そっくりなアンドロイドとして夏目漱石という故人を蘇らせようという試みがあったからこそ生まれた気づきでした。

ロボスタ 2019年2月

ここで交わされた議論の内容は上記リンクに詳しく、また『アンドロイド基本原則 誰が漱石を甦らせる権利をもつのか?』という書籍にもなっています(私は未読)。
漱石アンドロイドやマツコロイドやERICAの開発者でありアンドロイド研究の世界的権威である大阪大学教授の石黒浩さんの意見は、以下のようなものです。

石黒氏は「偉人とは一個人としての存在ではなく、社会で共有されるポジティブな側面の人格を示すもの」であり、人々の想像で作り上げられる側面も持っているとして、人の生きる支えや目的になったり、時として歴史の象徴になるものであると主張します。その意味では偉人アンドロイドは動いて”話す銅像”であり、「人間はアンドロイドになることでより進化し、尊い存在になる」と提起しました。
更に「例えば、社会的な人格を崩さない限り、誰のアンドロイドでも自由に作って良いというのはどうか。人間は個人的側面と社会的側面を持っていて、それを分離して社会的側面だけをアンドロイド化したものは、それはもう故人ではない。優れた社会的な人格をアンドロイドとして育てていけば、そのうち人権を持つようになり、優れたアンドロイドだけの世界が作られる」
ロボスタ 2019年2月

(役者としてのアンドロイドについて)アンドロイドが意思を持って“演技”をするわけがありません。しかし「指示された通りに動く」という能力は人間にも勝ります。完璧にコントロールできるロボットは、完璧な「役者」にはなれるんですよ。優れたディレクションによって人間の役者の演技が開花するようにね。(中略)また、本物の人間ではない、「アンドロイドならではの利点」もあります。それは、アンドロイドなら“良い面”だけを再現できること。夏目漱石にだって人間として褒められない一面はありましたが、これなら素晴らしい部分だけを再現して後世に伝えることができます。アンドロイドは銅像よりもさらに深く、その人の功績を伝える装置になるでしょうね。
エンジニアtype 2020年8月

・・・・・・。
はっきり言おう。
このヒト、何言っちゃってるの???
そもそも「良い面」って、「素晴らしい部分」って何よ。何をもって「優れた社会的な人格」と定義するのよ。
褒められる部分も褒められない部分も全てひっくるめて漱石という人間は構成されているのであって、それら全てをひっくるめて私達は彼を愛しているのですよ。イライラしてDV気味で鬱になって、でも繊細でユーモアもあって、死に惹かれながらもそれ以上に生に惹かれ、胃痛と闘いながら生きたのが漱石という人間でしょう?その中の”良い面”だけを再現することに何の意味があるのよ?教育的にも全くメリットを感じられないわよ。

これに関しては漱石の孫の房之介さんの下記意見に、私は賛成です。

一方で夏目房之介氏は、アンドロイドが動く銅像として偉人を理想化したり、いわば神格化することに異論を唱えました。それは「多義性」を損なうことになる、という意見です。房之介氏はパロディとしての存在を容認し、むしろパロディとしての利用を尊重する考えです。パロディやフィクション創作であることを明示すれば、偉人アンドロイドのイメージに反することでも演じさせることを許容すべき、世の中はやっぱり面白い方がいい、という旨の意見でした。
ロボスタ 2019年2月

漱石を理想化した人格にして蘇らせることは、「ただの夏目なにがしで暮らしたい」と言っていた漱石が最も嫌がるであろうことであり、漱石が残した文学にも反することになると思う。
そもそも実在する人物か否かに関わらず、”良い面”だけを持つアンドロイドなんて私は作るべきではないと思うけどな。
では将来的にアンドロイドが知能を持つようになって犯罪をすることになっても構わないのか?となると、もうターミネーターの映画の世界ですね。そういう世界が現実のものになりつつあるなんて、本当に隔世の感を禁じ得ない。。。

というようなことを私のような巷の一介の人間が年の瀬に考えたりするのだから、そういう問題提起が生まれただけでも、漱石アンドロイドが作られたことには意味があったのではないかな、と思う。
天国の漱石は下界に生まれた自身のアンドロイドをどう思って見ているだろう。悪趣味だと顔を顰めているか、面白がってニヤニヤしているか。


漱石アンドロイド演劇『手紙』(青年団+二松学舎大学+大阪大学)

2018年のシンポジウムで上演された、漱石アンドロイド演劇の第一弾『手紙』。
ロンドンにいる漱石と東京にいる子規の最後の日々の手紙での交流を描いた演劇作品です。
子規が漱石に向かって話している言葉は、手紙だけでなく『墨汁一滴』などからの引用も織り交ぜられています。
それにしてもこの演劇、よくできている。。。。。もうすぐ死んでいく子規は人間らしく生き生きとしていて(実際にも人間が演じていて)、漱石はアンドロイドのように覇気がない(演じているのもアンドロイド)。布団から出ることさえできずに迫りくる死と闘いながら最期まで明るさを失わず『墨汁一滴』、『仰臥漫録 』、『病牀六尺』などを精力的に書き続けた子規と、体は健康でも精神は病み出口のない迷路の中で燻り続けていたこの時期の漱石。これから帰国して作家としての人生が始まっていく時期であることを思うと(そしてその時には子規はもういない…)、そこに色々な意味を見ることができて心動かされる。改めて、演劇の世界でこれほどアンドロイドの活用可能性が大きいとは、目から鱗です。
でも、これも作品を作っているのが人間だからこそではないかな。石黒教授が言うように「人間はアンドロイドになることでより進化し、尊い存在になる」とは、私は全く思わない。そもそもこの演劇に感動したのも、平田オリザ氏の脚本・演出と子規役の井上みなみさんの演技の力が最も大きい。子規の最後の手紙の場面(18:10~)の井上さんの演技には、胸が苦しくなって涙が出た。
でも、漱石アンドロイドも本当に良い表情をしているよね。。。。もしかしたらいつか私は監督アンドロイド、脚本アンドロイド、演出アンドロイド、出演者全てアンドロイドで上演される演劇に感動してしまう日が来るのだろうか。「人間よりよっぽど上手い」とか言いながら。今までの私は「絶対にそんなことはない」と言い切れたけれど、この演劇を見て、100%ないとは言い切れなくなっている自分が怖い。演劇の選択肢が増えるのはいいこと♪なんて楽観的にはとても思えない。アンドロイドのいる未来が本気で空恐ろしくなる。

ただ一つだけ確かなことは、「アンドロイドは失敗しない」ということ。「緊張してつい失敗してしまった」とか「勢いに乗りすぎてトチってしまった」とかいうことはない。あったとしてもプログラムされたものか、バグでしょう。私は演劇を見る時に、そういう人間の危うさも含めて感動するんです。そういう危うさが見えない裏側にあることに人間の愛おしさを感じるんです。絶対に間違わない、絶対に失敗しない、絶対にその日の気分や客席の影響を受けない、絶対に動揺しない、裏に一片の危うさもないアンドロイドの演技や演奏に心の底から感動することは、やはりこの先もないのではないのかなと思う。・・・・・おそらく。

今年の更新はこれで最後です。
今年も当ブログにお越しくださった皆さま、コメントをくださった皆さま(PC表示のweb拍手から拍手を下さったりコメントを下さっている方もありがとうございます!web拍手なのでご返事できていませんが、嬉しく拝見しています)、ありがとうございました。来年もマイペースに更新できたらいいなと思っていますので、時々覗いてやってくださいませ。
よいお年を


※夏目漱石アンドロイド演劇「手紙」を初上演!平田オリザ氏の作・演出、二松学舎大学で(ロボスタ 2018年8月

※「アンドロイドに魂は宿るか?」漱石アンドロイド演劇の第二弾モノローグ公開 脚本は攻殻機動隊やエウレカの佐藤氏 テーマは「虚構と現実」(ロボスタ 2019年11月

※演劇で使われている漱石アンドロイドの音声は、シナリオを読み上げて録音したものではなく、合成音声なのだそうです。房之介さんの声を大量に録音し、音素・音声解析を行い、電子的にコンピュータで作りだした声で、「一度、作りだしたら任意の言葉をしゃべらせることができる反面、セリフの棒読みになったり、不自然な機械的な抑揚になってしまいがち」とのこと。いやいや、既にかなり自然ですよ。もちろん人間と同じではないけれど、こういう話し方をする人間もいるし。改良が重なっていけば、どんどん自然になっていくんでしょうね。すごい時代になったものだ・・・。

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ゲルハルト・オピッツ ピアノリサイタル @神奈川県立音楽堂(12月24日)

2021-12-29 01:18:53 | クラシック音楽




初オピッツさんです。
先日ネット配信されたノット&東響とのブラームスのピアノ協奏曲第二番の演奏がとても良かったので(私は一、二楽章が好きでした。ノットさんの解釈なのか、最終楽章は突き抜け感が足りなく感じられた…)、生音をリサイタルで聴いてみたいなと思っていたところ、良席を半額以下で譲っていただけることになり感謝
神奈川県立音楽堂は昨年のヴィルサラーゼのリサイタル以来2度目でしたが、このホールの素朴な音響はやっぱり好きだな。1,054席というサイズも心地よい

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 
第8番 ハ短調 op.13「悲愴」
第14番 嬰ハ短調 op.27-2「月光」
私事ですが、少し前に仕事関係で気が滅入ることがあり、自分の中にドロドロした嫌な感情が生まれてしまっていて、会社に対してよりも自己嫌悪でうんざりしていた心理状態で出かけたのが、今回の演奏会でした。
そして、ベートーヴェンの音楽にはそんな人間のドロドロした感情をも受け入れてくれる懐の深さがあることを知りました。ドロドロが浄化されて、こんな自分でも生きていていいのかもしれないと感じることができた。そんな風に私の心の闇を払ってくれた「悲愴」だけれど、これはベートーヴェンが難聴を自覚し始めた時期に作曲された曲なんですよね。彼はどんな心境でこの美しい曲を作曲したのだろう。
そして映画『地球交響曲第九番』の中で「悲愴」の二楽章を例にコバケンさんが仰っていたことも、今日の4曲のベートーヴェンを聴きながら改めて感じたな。さりげない音も、ただの音じゃない。そこに深い意味、深い感情を感じる。
それはもちろん第一にはベートーヴェンの音楽の力だけれど、それを感じることができたのはオピッツさんの演奏の力もあるのだと思う。
といってもこの「悲愴」と「月光」では、息をとめて聴き入ってしまうとか、その世界に入り込んでしまうとか、そういう感じではなく、「嫌いじゃない演奏だなあ」と思いながら聴いていました。それは決して軽い意味からではなく、オピッツさんの朴訥とした演奏は何気ないようでとても貴重に感じられるというか、今どき滅多に聴けないようなレベルの飾らなさで(でもその音色は深みがあり温かい)、だからこそベートーヴェンの音楽の力もストレートに感じさせてもらえて、いい演奏だな、好きな種類の演奏だな、と感じていました。ものすごく好きな演奏で興奮する!という感じとは違うけれど、良い意味でそれもオピッツさんというピアニストの個性に感じられる。

(休憩)

第17番 ニ短調 op.31-2「テンペスト」
これは、あまり好みな演奏ではなく(スミマセン)。以前サントリーホールで聴いたピリスの演奏がとても好きだったので、どうしてもそれと比べてしまい。最後の音も、さりげなく遠ざかって消えていくようなピリスのような弾き方が私はとても好きなので、音を長く残すオピッツさんの弾き方は、、、うーむ、、、。
今回予習で聴いたバレンボイムの演奏も、良かったな。バレンさんも最後の音を伸ばさずに終えてくれている。

第23番 ヘ短調 op.57「熱情」
この「熱情」の演奏は、今夜のプログラムの中で別格で素晴らしかったです。最初から最後まで強く惹きつけられて、聴き入ってしまった。まるで20年くらい若いオピッツさんが目の前に降りてきて弾いているようで、音に羽が生えているようだった。この曲でも決して自己主張が強いわけではなかったのだけれど、この演奏でだけ垣間見えた魔性のようなものも、このピアニストの個性の一面なのだろうなと感じました。圧巻の演奏でした。ブラボー!
演奏後の客席の反応もこの曲のときが格段に熱かったです。

ブラームス:間奏曲op.118-2(アンコール)
そんなわけで大喜びの客席は拍手で何度もオピッツさんを呼び戻すけれど、オピッツさん、どうやらアンコールは予定していなかったようで、少々困り顔になりながら再びピアノへ。
そして演奏されたのは、まさかのブラームス。先日他の会場(別プログラム)のアンコールで弾いていたop.118-2です。
この曲の演奏を生で聴くのは、ペライア、フレイレ、シフに続いて4回目。
今日のオピッツさんの演奏はオピッツさんらしい実直な演奏で、フレイレのそれと違い、あちらの世界はそれほど近くにはなくて。それはシフも同じで。
こうして色々なピアニストでこの曲を聴いていると、フレイレの弾き方が決して一般的なわけではなかったことに気付く。フレイレはどうしてあれほどあちらの世界を感じさせる音でこの曲を弾いていたのだろう…、とオピッツさんの演奏を聴きながら、そして帰りの電車の中でも考えてしまった。あの日フレイレがこの曲をアンコールで弾いてくれたときに見えた、柔らかな光に包まれた花々が風にそよぐ草原。あの風景は今もはっきりと思い出すことができる。フレイレは今、あの場所にいるのだろうか…。

そんなわけで、オピッツさんの真っ直ぐなベートーヴェンに心のドロドロを浄化していただき、熱情に興奮し、最後に思いがけず聴くことになったブラームスのop.118-2にフレイレを想う、そんなクリスマスイブの夜でございました…。


Brahms: 6 Piano Pieces, Op. 118 - 2. Intermezzo in A

引き続き、フレイレの追悼をさせてください。アルバム『BRAHMS』より、op.118-2。

András Schiff - Sonata No.23 in F minor, Op.57 "Appassionata" - Beethoven Lecture-Recitals

今回初めてシフのこのレクチャーシリーズをちゃんと聞いたのですが(「テンペスト」と「熱情」)、面白いですね!すごく勉強になるし、シフのユーモアセンスも楽しくて、45分間があっという間。シフのゆったり英語も、リスニング的に疲れずに聞けて有り難い(8分音符ってイギリス英語でquaverっていうのか)。
シフは「熱情」について、「”熱情”というよりも、”悲劇(tragic)”ソナタと呼ばれるべき作品です。ギリシャ悲劇のような曲だからです。最後はカタストロフィで終わります。そこにカタルシスはありません」と。
シフとオピッツさんは同い年なんですね。

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クリスチャン・ツィメルマン ピアノリサイタル @サントリーホール(12月13日)

2021-12-15 20:21:27 | クラシック音楽




コロナ禍を挟んで2年ちょっとぶりのツィメルマン。舞台袖から出てきて、歩きながらP席にもニッコリ。
お久しぶりです~~~~
お元気そうで何よりです~~~~
もうお元気ならそれだけでいいと感じてしまう。今年は悲しいことが多すぎた。。。。。
今月は外国人の入国が禁止されているけれど、ツィメさんは先月には入国していたので、日本ツアーも無事行われました。本当によかった。本日のサントリーホールはその千秋楽。

【J. S. バッハ:パルティータ第1番 変ロ長調 BWV 825】
ツィメルマンのバッハを聴くのは初めて。
プログラムが発表されたときはツィメさんとバッハ…?と想像ができなかったのだけど。
いやあ、極上だねえ。。。。。
ツィメさんのあの音。
清澄で高潔な綺麗な空気。
なんか、ツィメルマンって裏表なく生きている人なんだろうな、とそんなことを感じる。
音も、弾いている姿も、ついでにお顔も(笑)、綺麗な人だなあ。
この曲はyoutubeで28歳の頃のツィメさんの演奏を聴くことができるけれど、コレンテの弾き方が今日の演奏と少し違う?私は今日の弾き方の方が好きでした。
サラバンドのこの上もない美しさ・・・。メヌエットの可愛らしさ・・・。
ツィメさんの音、最近まろやかになった気がする。個人的印象だと2018年のロンドン響との『不安の時代』までは以前の透徹な音だったけど、2019年のリサイタルと室内楽の2回の演奏会以降は今のような感じになったように感じる。あの時はブラームスメインだからかなと思ったのだけど、路線変更したのかな
今日のバッハの音色は2019年のそれよりも研ぎ澄まされていて、まろやかで清澄で、親密で、そして色っぽくて美しかった。
素晴らしい1番でした。6曲全部よかった。ちょっと泣きそうになってしまった。

【J. S. バッハ:パルティータ第2番 ハ短調 BWV 826】
と思ったら、2番も極上だった。。。。。
今日のツィメさん、絶好調ですね。完璧すぎて怖いくらい。弾いている時もいつものようにリラックスされてはいるけれど、集中力が違う気がする。こういうツィメさんの姿を見るの、なんか初めてな気がするな。
2番でも、サラバンドの言葉にならない美しさ・・・。
ロンドーは、バッハぽくない華やかな弾き方で、すごく独特な響きに聴こえました。
カプリッチョの盛り上がりはもう、なんて言えばいいの?あの美しさ。やはり言葉にできない。最高of最高。
極上だなあ・・・と何度も思いながら聴いていました。
ツィメさんの音の前向きさに、私の心は救われる。感謝だな・・・。
弾き終えた後は、とても満足そうな笑顔で前後左右にお辞儀。

(20分間の休憩)

【ブラームス:3つの間奏曲 Op. 117】
2019年に聴いた一連のブラームスは弾き流すような弾き方が私の好みではなかったのだけれど、今夜はとても丁寧に演奏してくれました。
ツィメさんの音はスケールが大きなところが魅力だよね。そしてロマンティック。
どれもよかったけど、私は特に3番が好きでした。3番の最後の沈潜する音色と演奏後の静けさは、2019年のアンコールで弾いてくれたエドワード・バラードの空気を思い出しました。素晴らしかった。

【ショパン:ピアノ・ソナタ第3番 ロ短調 Op. 58】
今回の他の都市や8日のサントリーホール公演のレビューでは「第一楽章と第二楽章が雑だった」というのを見かけたけれど、今日の演奏は一楽章も二楽章も強い集中力をもって弾いてくれました。完璧。
一楽章も二楽章も、私には耳慣れないかっこいい弾き方をしていたな。所々のリズムというかアクセント?がすごく素敵で、聞き惚れてしまった。「ツィメルマンのショパン」の演奏って、「シフのバッハ」の演奏から感じるのと同じものを感じる。魂の演奏的な。
ただ一楽章が始まった途端、フレイレの演奏を反射的に思い出してしまい、胸が苦しくなり、しばらくの間ざわざわと落ち着かない気持ちになりました。フレイレが亡くなってから私は彼の演奏、特にショパンの演奏を胸の痛みなしには聴けなくなっているのだけれど、この曲は今回の予習で沢山聞いていたので、こんな風になるなんて予想外でした。生音にはやはり特別な何かがあるのだろうか。
ツィメルマンのこの曲の演奏はフレイレの演奏とは全く違っていて、だからこそ、「ピアニストが自分の弾きたい曲を自分の弾きたいように弾くことができる」というのは幸せなことなんだなと、当たり前のことではないんだなと、それを突然奪われた最後の2年のフレイレを思いながら聴いていました。そしてピアニストのそういう演奏を聴くことができる状況にいる私達も幸せなことなのだ、と。
ツィメさんの演奏はおそらく遠くなく再び聴くことができるだろうけれど、それは決して確実な未来ではないのだと(ツィメさんがお元気でも私に何か起こるかもしれないし)、そんな風に思いながら一音一音を大切に聴かせていただきました。
しかしツィメルマン、本当に美しく弾くなあ。そして相変わらずピアノに対して優しい。ピアノはこの人の大切な相棒なんだな、といつも感じる。フレイレも、ピアノやピアノ曲を当たり前のように擬人化して語るピアニストだったな…。

二楽章を弾き終えた後のツィメさん、一回大きく咳払いをしたら止まらなくなってしまったようで、「ちょっと失礼」とジェスチャーをして、小走りで舞台袖へ。扉越しにも聞こえる咳き込む音。苦しそう… 他の公演でも咳き込んでいたそうなので、お風邪でしょうか。
そう時間がたたずにそ~っと戻られて、客席へシーっと唇に指をあてる可愛いジェスチャー。楽章間なので拍手はしないけど、客席からこぼれる微笑
三楽章も集中力は途切れることはなく。特に終盤の弱音がとても綺麗だったな。あの空気・・・。そして静かに静かに三楽章を終え、終楽章が始まるまでは随分長く時間をとっていましたね。
四楽章は一転して破綻を恐れず怒涛の勢いで弾ききった感じで、繊細なニュアンスを聴かせるという弾き方ではなかったけれど、ツィメさんのショパンのソナタ3番として、これはこれでいいのではないでしょうか。と書くと醒めた感想に聴こえるかもしれないけど、全く醒めていないです。なんだか独特な空気を感じる四楽章だった。破綻を恐れずと書いたけれど、丁寧じゃなかったという意味ではなくて(ちゃんとコントロールはされていた)、「熱い」というのとも少し異なるもので。「静かに熱い」ショパンでした。twitterでどなたかが「ツィメルマンのショパンには切実さがある」と仰っていたけど、言い得て妙だなと。今日の四楽章の演奏にはまさにそういう感じを受けました。ツィメさんのショパンにはやはり強い説得力がある。
こういうツィメさんらしい(私はらしいと感じた)ショパンをこんな風に聴けることは幸せなことだ、と心から感じました。
弾き終わった瞬間の大喝采の拍手のなか、ツィメさんはしばらく動けないように座ったままで。完全燃焼で弾ききった、という感じに見えました。
それから立ち上がって、客席に深く長くお辞儀をされておられた。前回のオーバーアクション気味なハイテンションなツィメさんは姿をひそめ(いつものように投げキッスは2回されていたけど)、しみじみと嬉しそうに、満足そうなお顔をされていました。
繰り返しになりますが、今日の演奏、バッハからショパンまで、2019年の来日時に感じた弾き流すような感じがなく、ミスタッチも殆どなく、全ての音を心を込めて丁寧に弾いてくれていました。心境か体調の変化でもあったのか。なんか、不思議な感じに胸に迫った演奏会だったな。
舞台には”演奏者の記録用”というマイクとカメラ。今回の日本ツアーの全ての演奏会で置かれていたようです。カメラは客席のものを加えると少なくとも2台はあった。個人の記録用にしては随分徹底しているような(まあ完璧主義のツィメさんなので不思議はないけど)。音源、私達にもリリースしてほしいなあ。

アンコールはなし。前回(2019年)も前々回(2016年)も私が聴いた日はアンコールがあったので、必ずしも「アンコールをしないピアニスト」というわけではないと思うけれど、基本はしない人だと聞いています。
何度も拍手で戻されるツィメルマン。他の都市では黒マスクをして「アンコールはしないよ~」アピールをしていたそうだけれど、今夜はマスクはせずに何度もステージに戻り、何回目かに舞台袖に行ったら随分と長い時間戻られない。
なかなか出てこないな、と思ったら、なんとサンタさんの赤い上着と帽子と口髭(ドンキで売ってそうなアレ)姿でご登場 といっても舞台中央までは行かず、下手の方でちょっと恥ずかし気で、大喜びの客席に挨拶してすぐに舞台袖に引っ込んでしまいました(笑)。ジャパンアーツの人達に着せられたんだろうか
ツィメさんはこのまま日本で年越しでしょうか。以前ジャパンアーツの忘年会?に参加されてる写真を見たことがある。正月は普通にコタツ入って、日本酒飲んで、お節料理食べてそうだ
ツィメさん、一足早い最高に素敵なクリスマスプレゼントを本当に有難うございました。お体をお大事に&良いお年を!!!

クリスチャン・ツィメルマン、英国の所属事務所とトラブル
今年も”闘うピアニスト”だったツィメさん。日本でゆっくり一年の疲れを癒してくだされ
そして少しでも長くツィメルマンがご自分の好きな曲を好きなように演奏し続けることができますように。。。

※twitter情報。反田さんと愛実ちゃんと真央君が客席にいらしていたそうです。この方達は前にシフの演奏会でも一緒になった気がするな。ツィメさんも客席にいた協奏曲のときだったか、リサイタルのときだったか。客席のツィメさんといえば、ポリーニのときもツィメさんと吉右衛門さんが客席におられたなあ。吉右衛門さん、ポリーニの大ファンだったんですよね…。ツィメルマンはポリーニの弾くドビュッシーが好きだと以前インタビューで言っていた、とのネット情報。その日のメインプロもドビュッシーでした。







亡くなった友人はいつも溜池山王からサントリーホールに行っていて、私はいつも六本木一丁目からで、「溜池山王からの道ってお店が全くなくて味気ないんだよねえ…。六本木一丁目はどう?」と聞かれたので、「六本木一丁目は沢山お店があって楽しいよ~」と教えてあげたことがありました。
今日初めて溜池山王から行ってみたのですが、あの地下通路、想像以上に何もなくて驚いた 地上に出るとすぐにANAインターコンチネンタルホテルがあって素敵だけど、演奏会は前後の時間も重要なのでやはり今後も六本木一丁目を使おうと思いました。


Nelson Freire - Live 2017 | Brahms: Intermezzo op.117 no.2 in B flat minor

例え隠し撮りのものでなくてもツィメさんのyoutube動画を載せる勇気は皆無なので(今日も「撮影禁止」のプラカードを持ったスタッフ達が客席を練り歩いていた)、フレイレの追悼をさせてください。フレイレは普通に「youtubeで観られるよ~」と仰っていた方なので。もちろん隠し撮りのことじゃなくて、ドキュメンタリー映像のことですが。
上の動画は、私の大好きなフレイレのブラームス。op.117-2。2017年の来日で弾いてくれたop.118-2も、最後の来日で弾いてくれたop.119も、忘れられません…。

Nelson Freire - Chopin Sonata Op.58 No.3

2017年の来日でも弾いてくれた、ショパンのソナタ3番。大好きな演奏です。もうあの音の風景を二度と見ることはできないんだな…。
ブラームスもそうだけど、この演奏も、フレイレの音は過去の幸福だった頃を思い出しているような、そういう種類の美しさを感じます。ノイマイヤーの『椿姫』ではこの三楽章がアルマンが亡くなったマルグリットとの幸福だった時を回想する場面で使われていますが、フレイレの演奏にも同じものを感じる。フレイレはドキュメンタリーで子供時代のことを「自分の人生で最も幸福だったとき」と言っていたけれど、ご両親を20代前半で事故で亡くしてることも思うと、本当にそう感じていたのだろうと想像します。
フレイレはショパンについて「私は、ショパンはけっして声高に叫ぶ音楽ではないと思う。最近の若いピアニストは鍵盤をガンガン力任せに叩き、猛スピードで突っ走るような演奏をするけど、私はそのような演奏はしたくない。ショパンの楽譜をじっくり読み、時代を考慮し、ショパンの意図したことに心を配りたいと思う」と仰っていた(伊熊よし子さんのブログより)。

ところでフレイレは2019年4月のインタビューでトリフォノフのショパンを褒めていましたが、先日twitterで2010年のショパンコンクールのスコア表を見かけたけれど、確かにアルゲリッチとフレイレは突出してトリフォノフに高得点をつけていました。優勝したアヴデーエワにも低得点ではなかったけれど(アヴデーエワに対してはフレイレよりはアルゲリッチの方が高い点をつけていた)。
2015年のCDジャーナルのインタビューでは、こんな風に仰っていました。伊熊さんのブログで書かれてあることとちょっと異なるけれど、フレイレが言いたいことはわかる気がします。
「私は2010年にショパン国際ピアノ・コンクールの審査員をしましたが、いつも審査員をするときはオープンかつ自然な気持ちで臨みます。”ショパンはこうあるべき”という考えは持ちません。ショパンは自分のアイディアで弾いていいのです。もう時効だと思うのでいってしまいますが、2010年のコンクールでは、私もマルタ・アルゲリッチもダニール・トリフォノフを第1位にしたのです。でも、結果は第3位でした。彼はその後、ルービンシュタインとチャイコフスキーの両コンクールで優勝しましたから、マルタと私の考えは正しかったことになりますね」
こちらは2010年のショパンコンクールのトリフォノフのthird stageの演奏です。こちらはfinalの演奏。確かにフレイレが好きそうな演奏だと思う。
トリフォノフが優勝した2011年のチャイコフスキー国際コンクールでも、フレイレはjuryを務めていたんですよね。
また2019年のチャイコフスキー国際コンクールでもjuryを務めていたことは、ゲルギエフのフレイレへの追悼メッセージで初めて知りました(基本コンクールの話題に興味がないもので…)。動画の説明欄には"He was twice a member of the jury of the Tchaikovsky Competition, in 2011 and in 2019, on both occasions being invited by maestro Valery Gergiev."と。
サンクトペテルブルクでゲルギエフが開いてくれたフレイレの追悼コンサートのソリストが真央君とカントロフで、どういう人選?と不思議だったのだけど、これで納得。ゲルギエフ曰く「ネルソンはコンクールで審査員を務めていたから、彼らのこともよく知っていた」と。チャイコフスキーコンクールの採点表は私は見たことはないけれど、おそらくフレイレは真央君とカントロフの演奏を気に入っていたのではないかな。親友であるフレイレが低得点をつけたピアニストをゲルギエフが追悼コンサートで演奏させることはないように思うので。
ツィメルマンの演奏会の感想なのに、フレイレのことばかりですみません。まだ気持ちの整理ができていないんです。その音楽からあんなに沢山の感動と励ましをくれた人が、どうしてあんな悲しい最期を迎えねばならないのだろう、と…。考えても仕方のないことなのだけれど…。

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劇団民藝 『集金旅行』 @俳優座劇場(12月2日)

2021-12-09 14:26:26 | その他観劇、コンサートetc




2013年の初演いらい日本各地を巡演してきた傑作喜劇『集金旅行』が、いよいよ東京に舞い戻ってきます。「黒い雨」などで知られる井伏鱒二が1935年に発表した連作小説「集金旅行」を初めて舞台化。全国各地で190ステージを重ねて客席を笑いの渦に巻き込んできました。このたびのアンコール公演は、妖しげな色気をもつコマツランコ演じる樫山文枝と、自称「売れない小説家」ヤブセマスオ演じる西川明をはじめ、芸達者な俳優陣の練りに練った演技でお芝居の醍醐味を存分に味わっていただきます。また舞台は昭和初期、荻窪をふり出しに岩国、下関、福岡、太宰府、尾道、福山とまわって集金していきますので、猛特訓を重ねた古いお国ことばにも乞うご期待! 若き太宰治も登場して必見の好舞台です。
公式サイトより)


最近自分の比重がクラシック音楽に偏りすぎているように感じられ、無性に全く違うものを見てバランス修正をしたくなったので、行ってきました。劇団民藝の『集金旅行』。
いつも拝読している方のブログでこの公演のことが紹介されていて、面白そうだな~と。
俳優座劇場って初めて行きましたが、六本木駅の目の前なのに昭和な空気の漂う良い劇場ですね
1階席のみで、座席数300。後方からでも俳優さんの表情が余裕でわかる。劇場はやっぱりこれくらいの規模が一番いいな。

『集金旅行』は主演の樫山文枝さんが「おおらかで、人間を肯定している作品です」インタビューで仰っていたとおりの作品で、とても良かった。
井伏鱒二の原作は未読ですが(というか井伏鱒二自体が未読ですが)、今回の劇を見て、太宰治の『グッド・バイ』の空気と似ているなと感じました。内容も似ていますよね。恋愛関係にない男女がひょんなことから行動を共にするロードムービー的なコメディ。太宰の方は愛人達との縁切り旅、こちらは慰謝料&滞納家賃請求旅。
ワタシ、こういう空気の作品、好きなんです。神経質じゃなくて、のんびりしていて、情けなくて、逞しくて、でもどこか艶っぽさも感じさせる大人の小品。以前太宰の『グッド・バイ』が山崎まさよしさん主演でドラマ化されたことがあったけれど、あれもすごく好きだった。

荻窪のアパートとか、天沼に住む学生の太宰君とか、”売れない三流作家が住む中央線沿線”とか、志賀直哉や林芙美子の家のある尾道とか、この時代の文学好きのツボにはまる小ネタにも、ニヤニヤしちゃいました 小林多喜二の名前も出てましたね。

舞台セットも、素敵だった。
客席と舞台を歪な棒四本で枠のように隔てさせて、アパートの場面も、汽車の場面も、各地の旅館の場面も、葬儀の家の場面も、トタンの家の場面も、少ない装置と役者さんの演技だけで舞台上が別世界になる様を堪能しました。この役者の息遣いを肌で感じながら別世界を体験できるのは、小さな劇場ならではですよね。久しぶりに「演劇」がもつ本来の空気を感じることができた気がします。

役者さん達も、皆さん味があって素敵だった。
コマツランコ(七番さん←みんなアパートの部屋番号で呼び合っている)役の樫山文枝さんも、ヤブセマスオ(十番さん)役の西川明さんも、役にピッタリ。
五番さんの小杉勇二さんも楽しかったし、岩国の名士役の水谷貞雄さんも雰囲気がありながら軽みもあって素晴らしかったなあ。

最近心が疲れ気味だけど、おおらかで上質な大人なお芝居に、ひとときの癒しをいただくことができました。客席の空気もピリピリしていなくて、皆さん楽しそうで、コロナ禍になってからこういう雰囲気は久しぶりだったな。(言い換えると、狭い密空間で皆さんマスクはしつつも普通に笑い声をあげたり休憩時間に会話しているので、コロナ予防的には微妙なわけですが)。

劇団民藝、いい劇団だなあ。
でもネットで皆さんの感想を読んでいて知りましたが、この劇団が喜劇をするのは珍しいらしいですね。普段はシリアスな作品が多いとのこと。確かに次回の『レストラン「ドイツ亭」』も、アウシュヴィッツの話ですね。このアネッテ・ヘスの原作は今年出版されたばかりの小説で、こういう新作をどんどん舞台化している攻めの姿勢も素晴らしいなと思います。

また機会があったら観に行きたいな
普段は俳優座劇場ではなく、新宿の紀伊國屋サザンシアター(468人収容)で公演をされてるんですね。

十番さん(ヤブセマスオ・小説家) 西川 明
太宰 治(作家志望の学生)  塩田泰久 ※12/2(Wキャスト)
五番さん(富士荘の居住者・勤め人) 小杉勇二
七番さん(コマツランコ・職業不詳) 樫山文枝
香蘭堂(荻窪の地主・文具店) 今野鶏三
岩国の宿の女中 箕浦康子
杉山良平(岩国の金融業者) みやざこ夏穂
相原作之助(岩国の名士) 水谷貞雄
福岡の宿の女中 有安多佳子
ミノヤカンジ(下関の医者) 山本哲也
阿万築水(福岡の没落地主) 佐々木梅治
阿万克三の妻(築水の弟の妻) 河野しずか
紋付の男(広島・加茂村) 大野裕生
鶴屋幽蔵(加茂村の地主) 吉岡扶敏
津村家の番頭(広島・新市町) うちだ潤一郎





太宰が1936年11月~37年6月に下宿していた、天沼のアパート「碧雲荘」。
2012年に訪れたときの写真です。2017年に大分県由布院に移築され、跡地は高齢者福祉施設になりました。所有者の「更地にして土地を売りたい」という意思による結果だそうですが、明治村の漱石&鴎外の家もそうだけど、こういう家はその街にあってこそ意味があるのになあ…(もちろん壊されるよりは移築された方が100倍マシですが)。こういう点、数百年前の家々がその場所に普通に残っている&人々も残そうと努力しているロンドンが羨ましい…。
それでも荻窪とか三鷹とか阿佐ヶ谷とか中央線沿線は、まだかろうじて武蔵野の空気を残している良い街ですよね。阿佐ヶ谷にある谷川さんのお宅もとても素敵だし、三鷹にはジブリ美術館もあるし、もっと頻繁に行きたいエリアなのだけど、私の行動範囲からはあまりに不便で遠すぎる。私には京都や新大阪の方が体感的にずっと近いです。

【井伏鱒二、太宰治、小林多喜二…】東京、中央線沿線に住んだ作家たち
太宰治と荻窪 その1「太宰治が荻窪で過ごした下宿群 唯一残されたあの碧雲荘が売りに出た!〜特集・太宰治没後70年(前編)


©劇団民藝

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中村吉右衛門さん

2021-12-01 23:53:44 | 歌舞伎

吉右衛門さんが、28日に亡くなられたそうです。
たったひと月半の間にハイティンク、フレイレ、吉右衛門さんと大好きな人達が立て続けに旅立ってしまって、呆然としています。また一つ、この世界の色が薄らいでしまった。
母親がメールで「歌舞伎役者ってみんな、静かに終わっていくね」と言っていたけど、本当にそう…。
吉右衛門さんが3月末に倒れられてから亡くなるまで意識が戻ることがなかったということ、今日の記事で初めて知りました。今年7月の歌舞伎座で配役がなされていたので(結果的に錦之助さんが代役をされましたが)、意識は戻られているのだろうと思っていました…。

最後にお芝居を拝見したのは、倒れられる10日前の『楼門五三桐』。吉右衛門さんは昨年秋頃から体調が万全ではないと伺っていて、この月の舞台も吉右衛門さんのご体調を心配する声が多く聞かれていました。けれど私が拝見した日の吉右衛門さんはとてもお元気そうに見え、山門の上の吉右衛門さんが「絶景かな 絶景かな」と仰った瞬間に、舞台も客席も歌舞伎座の建物も超えてどこまでも広がる満開の桜の絶景が見えたんです。あの劇場の空間が果てのない青空と桜色に染まっていて、眩暈がするようだった。あらためて吉右衛門さんという役者の大きさを思い知った舞台でした。

その前に拝見したのは、昨年11月の国立劇場の『俊寛』。千穐楽の日でした。あの日の吉右衛門さんの俊寛は、生も死も超えた場所におられました。「俊寛のさまざまな心情の変化を経て、浄化の域にまで到達できれば役者冥利に尽きる」と仰っていたけれど、あの幕切れの空気はまさに「浄化」という言葉でしか表現できないもので、忘れがたい凄絶な静けさに満ちた舞台でした。

昨年9月には、歌舞伎座の『引窓』とともに、観世能楽堂で撮影された『須磨浦』の映像配信がありました。「伝統歌舞伎はまだ命脈を保っていますよ、忘れないでくださいと、僕は孫の丑之助のためにも申し上げたかったのです。配信をご覧になった方々からは賛否両論ございましたでしょう。・・・なにはともあれ、僕は歌舞伎で大好きな熊谷を演じられただけで、あれ程生の喜びを感じたことはありませんでした。」と後日仰っていた。
この『一谷嫩軍記』の熊谷、『義経千本桜』の知盛、『仮名手本忠臣蔵』の由良之助、『大老』の井伊直弼など吉右衛門さんの多くの当たり役で見られた、劇場中に広がる圧倒的な気迫や大きさと同時に存在する、独特の澄んだ静けさ、透明感、孤独感。それは私が吉右衛門さんという役者に最も惹かれた部分でもありました。賑やかなご家族もおられて、お芝居だけでなく語学や絵画や台本を書く才能にも恵まれていて、なのにどうして吉右衛門さんはいつもそういう空気を感じさせるのだろうと不思議に思っていたのだけれど、あるとき吉右衛門さんの自伝を拝読し、その理由がなんとなくわかったように感じました。4歳で祖父である初代吉右衛門のもとに養子に出された出来事が吉右衛門さんの心に残したものの重さは、私などが簡単に想像できるものではないのだと思う。でもその出来事が吉右衛門さんという役者を作り上げたのも事実で。役者というのはやはり特殊な職業だな、と感じるのでした。私が「役者」という言葉を聞いて一番に思い浮かぶのは、いつも吉右衛門さんの姿でした。

一方で、『石切梶原』の梶原のような明るいお役の吉右衛門さんも、大好きだったな。『松浦の太鼓』の松浦公も、とても可愛らしかった。
歌舞伎座新開場のときの『盛綱陣屋』の和田兵衛も、大きくて素晴らしかった。仁左衛門さんとの共演、もっともっと観たかったな・・・。ベストコンビだと私は思っていたのだけれど・・・。

いま数えてみたら、このブログに感想を残しているだけでも、吉右衛門さんのお芝居を45回拝見していました。これが多いのか少ないのかはわからないけれど、思い返すと、吉右衛門さんのお芝居と同じくらいに、舞台の上に見えた吉右衛門さんの周りの空気が目に浮かびます。歌舞伎役者さんは一人一人、舞台の上で違う色を纏っておられる…。

吉右衛門さんの舞台は、どれほど多くの私の知らなかった人間の心の風景を見せてくださったことでしょう。どれほど私の人生を豊かなものにしてくださったことでしょう。どれほど日々の辛いことを忘れさせてくださったことでしょう。
これほど沢山のものをいただいていながら、私から吉右衛門さんに返せたものは何かあっただろうか…。

今夜はきっと、吉右衛門さんに思いを馳せる人達が日本中に沢山いらっしゃることと思います。私もその一人です。
ご冥福をお祈りいたします。

※白鸚さんのコメントより
「幼い頃、波野の家に養子となり、祖父の芸を一生かけて成し遂げました。病院での別れの顔は、安らかでとてもいい顔でした。播磨屋の祖父そっくりでした」と。
このご兄弟の間にも様々な出来事や想いがあったはずですが、白鸚さんのこのコメント、きっと何より吉右衛門さんが嬉しい言葉ではないかなと思います。吉右衛門さんは祖父初代吉右衛門さんと実父初代白鸚さんのことを”「成し遂げた」という言葉を送りたい人”と仰っていました。そして彼らのようになることが自身の目標なのだと(『本の窓 2021年5月号』)。この連載の文章は2月に執筆されたもののようで、そして3月に吉右衛門さんは倒れられました。白鸚さんがこの連載を読まれていたかどうかはわかりませんが、おそらく読まれていたのではないでしょうか。お兄さんから弟への愛情を感じたコメントでした。

※『月刊 本の窓
バックナンバーから、吉右衛門さんがコロナ禍の自粛期間中に描かれていた絵と連載を読むことができます。『俊寛』や『須磨浦』についても語られていますので、ぜひ。吉右衛門さんの美しい日本語の言葉遣いも、ユーモアも、大好きでした。
コロナ禍に描かれていた絵は、お孫さんに残したいからとも仰っていましたね。
この連載以外でも吉右衛門さんの昨年のインタビューを読み返すと、将来の夢が沢山語られていました。ヨーロッパで『俊寛』をやりたい、夫婦で海外旅行がしたい、80歳で弁慶をやりたい、そして孫の丑之助君の小四郎で盛綱を勤めたいと…。

中村吉右衛門より近況ご挨拶【歌舞伎ましょう】

昨年6月の動画です。吉右衛門さん、品があって素敵だなあ。
BGMのドヴォルザークの『新世界』、吉右衛門さんがクラシック音楽をお好きだったことを思い出して、泣けてくる…。他の【歌舞伎ましょう】の動画ではこの音楽は使われていないんですね。吉右衛門さんの選曲だったのかな…。

※「偉大な祖父に追いつきたくて 悩み苦しみ、歩いてきた」(機関誌ヘルシーライフ 2015.8)

※『文芸春秋2020年10月号』より。
自宅では、本を読んだり、台本を直したり、芝居の動きを考えたりしていました。
本は鏑木清方先生の「紫陽花舎(あじさいのや)随筆」を枕元に置いてちょこちょこっと読み返しています。木挽町辺りの描写は、私も新橋演舞場の下を築地川が流れている頃を知っていますから、「ああ、そうだったよね」と思い出にふけることができますし、また、文章が素晴らしいんです。江戸時代の言い方や、お祭りのことなど、いろいろ芝居の役に立つこともあります。先生のお住まいがあった明石町界隈が、かつて外国人の居留地だったことはご本で初めて知りました。低い白塗りの柵があって、芝生があって、おうちの中も見えるくらい開放的な外国人のお宅があの辺にあったと想像すると、素敵だったんだろうな、風の通りもよかったんだろうな、と思います。
吉右衛門さんは、海外の街に行くと何より美術館を訪ねるのがお好きだと仰っていましたよね。音楽も絵もお好きだった吉右衛門さん。
鏑木清方もお好きだったんですね。この週末は吉右衛門さんを偲んで鎌倉の鏑木清方美術館に行ってこようかな…。

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