風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

アガサ・クリスティー 『春にして君を離れ』(中村妙子 訳)

2023-09-06 00:17:55 | 




※ネタバレあり

アガサ・クリスティーが大好きで100冊以上読んでいる友人に「春にして君を離れを読んだよ~」と報告したら、「いきなりそれ(笑)!?名前は知ってるけど読んだことない」との返信が。
そんな特異な作品なのか。たしかにミステリーではないけども
でも少しずつ真実が露になってくる過程はまるでミステリーのようで、「最後はどうなるんだろう??」とページをめくる手が止まらず一気に読んでしまいました。
さすがはミステリーの女王

クンデラの『存在の耐えられない軽さ』に続いてこの作品を読んで、アガサ・クリスティーの良い意味での女性作家らしさ、冷徹さのようなものを感じました。
そして、『存在の~』に続いて、私の心に引っかき傷を残す本だった。。。

私にとってこの本の何が恐ろしいって、アガサの人間心理に対する洞察力はもちろんのこと、何より最後の展開が恐ろしい。
砂漠の中で迷ったジョーンが、生きるか死ぬかの異常な状況の中で、今まで目を背けていた、認めたくない自身の姿と向き合い、心から反省し、ロンドンに戻ったら生まれ変わって新たな生活を生きようと決意する――というところまでは、まぁよくあると言えばよくある展開。
でも、それほどの状況に追い込まれることでようやく出会うことができた本当の自分、神が出会わせてくれたと言ってもいい本当の自分、そんなとてつもないチャンスを手にできた彼女が、ロンドンに戻り、(見せかけの)平安な日常に戻った途端に、全てをなかったことにして、再び昔の自分に戻ってしまう。彼女は、新たな人生を歩むという困難な道ではなく、またしても安易で楽な道を選んでしまう。つまり、これまでの自分を変えない道。見たくない現実から目を背け、それらを存在しないものとする道。自己正当化、自己満足の道。それこそが砂漠の中で彼女が最も反省した生き方だったはずなのに、またしても彼女は勇気を出して変わることをせず、怠惰で楽な生き方を選んでしまう。
喉元過ぎれば・・・。
人の一生は短い。
おそらく二度とないこんな大きなチャンスを手にしても変わることができなかった彼女は、もうこの先変われることはない…。

あれほどの衝撃をもって辿り着いた真実なのに、再び日常に戻ったくらいで人は忘れてしまうものだろうか。
・・・おそらく答えはイエスだ。その方がずっと楽だから。
結局人は、どれほど強く心の中で「変わろう」と決意しても、それだけで変われるほど強い生き物ではないのかもしれない。言い訳なんていくらでも作れる。とにかく行動に移さなければ、行動を変えなければ、人は変わることはできないのだろう。
ジョーンが帰りの鉄道の中で出会った侯爵夫人サーシャ(※ウィーンへ成功例の少ない大きな手術を受けに行く途中だという)は、そのことをよくわかっていた。人間という生き物の弱さと甘さを。
だからジョーンの告白と決意を聞いたときに、重々しい口調で「神の聖者たちにはそれができたのでしょうけれどね」と言ったのだ。

人間が自分を変えることは、それほどに難しい。特にある程度の年齢になって、その人の根本に関わる部分を変えることは、どれほどの勇気と行動力が必要なのだろう。どれほどの素直さが必要なのだろう。
でも私は、それができた人を知っている。
その人は、ちょうど今の私くらいの年齢のときに、それをした。そして本当に変わった。変わらなければ、その人にとって最も大事なものを失う、壊れる、という状況ではあったけれど。
当時20代だった私はそのことの凄さに気づいてはいなかったけれど、当時もそのことを尊敬したものだった。
最も変わらなそうな人だったのに、本当に変わった。
だから私は、人は聖者ではないけれど、変わることができるということを知っている。

私も、、、変われるだろうか。
過去の自分は変えられないけれど、未来の自分は変えられるだろうか。

こんな恐ろしい小説、私だったら書けない。とても書くことなんかできない。
ずっとそう思いながら読み進めて、最後は更なる恐ろしさで。
怖くて厳しくて、でもこの本は私達に救いをくれる。他の方法では決してもらえない形の救いを。
アガサ・クリスティー。なんて作家だろう。


p61
途中かわされるであろう会話を、ジョーンはあらかじめ想像していた。彼が愛を打ち明けたら、自分はしとやかにやさしく、お気持はありがたいがと、少し――ほんの少し残念そうに拒むのだ。心を打つような言葉も、いくつか胸にたたんで用意しておいた。マイケルが後で思い出して、そっと胸に秘めるような、奥ゆかしい余韻をもつ言葉を。・・・マイケル・キャラウェイは歌でも歌おうというつもりか、しきりに突拍子もない大声を張りあげていた。森のはずれからクレイミンスター・マーケット・ウォルピングの広い道路に出る直前にキャラウェイは足を止め、冷ややかな目で彼女を眺めてつくづくといった。
「あなたって人は、手ごめにでもされればいっそためになるんじゃないかと思いますがね」
そして怒りと驚愕でものもいえずに立ちつくしている彼女を尻目にかけて、快活な口調で付け加えたのだった。
「ぼくがその役を買って出て――あなたがそれで少しは変わるかどうか、見とどけたいものだがなあ」
こう云い捨てるなり、歌の方は諦めたらしく、愉快げに口笛を吹き鳴らしながら広い道をすたすたと歩きだした。

p137
しかし会見が終りに近づくに及んで、ギルビー先生はピチカートで語りはじめるのであった。
「これは、とくにあなたにいっておきたいことなのです。安易な考えかたをしてはなりませんよ、ジョーン。手っとり早いから、苦痛を回避できるからといって、物事に皮相的な判断を加えるのは間違っています。人生は真剣に生きるためにあるので、いい加減なごまかしでお茶を濁してはいけないのです。なかんずく、自己満足に陥ってはなりません。・・・こんなことをいうのは、ここだけの話だけれど、あなたには少々自己満足の気味があるからです。そうは思いませんか?自分のことばかり考えずに、ほかの人のこともお考えなさい。そして責任をとることを恐れてはいけません。・・・人生はね、ジョーン、不断の進歩の過程です。死んだ自己を踏み台にして、より高いものへと進んで行くのです。痛みや苦しみが回避できないときもあるでしょう。そうした悩みは、すべての人が早晩経験するものなのですから。主イエス・キリストすら、人の世の苦しみに曝されたもうたのですよ。主がゲッセマネの苦しみを味わいたもうたように、あなたもやがて痛みを知るでしょう――あなたがそれを知らずに終わるなら、それはあなたが真理の道からはずれたことを意味するのですよ。疑いに沈むとき、苦難に会ったときに、どうか、わたしのこの言葉を思い出してください」

p155
何をそう興奮することがあるのかしら、こうジョーンがいうとロドニーは答えた、何もありゃしない、ただ、何か事をする前にすべてを綿密に計算し、けっして冒険をしない、慎重きわまる世間というものにつくづく嫌気がさしただけだと。

p163
一度ジョーンは、彼にこういったことがある。「弁護士というお仕事がら、あなたは人間関係のいざこざにはいい加減にうんざりしていらっしゃるはずだと思いますのに」
ロドニーはしみじみいった。
「そう思うだろうがね。ところがそうでもないんだな。田舎の弁護士ってやつは、人間関係の破れ目を、医者を除けば誰よりもよく知っているんじゃないかなあ。それだからかえって、人間一般に深い同情をもつようになるとも思える。いかにも脆い、不安や疑惑や欲心に取りつかれやすい――そうかと思うと、びっくりするほど高潔で勇敢なところを見せる人間という矛盾にね。これがまあ、唯一の埋め合わせだろうな――より広い共感をもつようになるということが」

p177
「君にはエイヴラルがわかっていないんだよ。あの子は分別よりも心情で行動する人間だ。誰かを好きになれば、心の奥深い所で恋をする。だからその傷は永久に残るだろうね」

p271
春にして君を離れ……
そうだわ、何年も前の……あの春……わたしたちが愛しあったあの春から、長い長い時が流れすぎた……
わたしは一つのところにじっとしていた――ブランチのいう通りだわ……聖アン女学院卒業の女学生、わたしは今もそのままだ。安易な生活を送り、面倒なことは考えようとせず、自分自身に満足しきり、苦痛を恐れ、避けてきた……
勇気がなかったのだ……
ああ、何ができよう、今となってわたしに何ができよう?
ジョーンは思った、ロドニーのところに行くのだ。行って、そして、いうのだ。「赦して下さい……わたしが悪かったのです……」と。そして、へりくだっていうのだ、「赦してください。知らなかったのです。本当に」と。

p282
「人と話をするって楽しいものですわ。そうお思いになりません?あたくしはどんな人にでも興味がありますの。それに人間の寿命って限られておりますしね。いろいろな考えや経験を交換しあう必要があると思いますの。人類愛っていうものがどうも欠けている、この地上にはって、あたくし、よく申しますの。あたくしの友だちはいいます。”だってサーシャ、どうしても愛することのできない人たちだっているわ。たとえばトルコ人とか、アルメニア人や――レヴァント人は”って。でもあたくしはいいますのよ、いいえ、あたくしは人間ならみんな大好きって」

p284
「あたくしがふっと頭に浮かんだこと――たとえば何か悲しいことがおありになるとか、ご主人があなたを裏切ったことはないのかとか、あなたご自身、ほかの男の方と関係をおもちになったことはとか、あなたにとって一生で一番美しい経験はどういうものだったか、神さまの愛を実感していらっしゃるか――といったようなことをお訊ねしたら、どうでしょう?あなたはきっと侮辱をお感じになって、ご自分の殻に閉じこもっておしまいになりますわ。でも今申し上げた質問の方が、本当はずっと面白うございますのに」

p330(解説 栗本薫)
この二人は結局似たもの同士であるのだ。・・・ロドニーは、「優しさ」と名付けられたその彼自身の現実逃避によって彼の一生を失ったのだ。そのことを彼はまた、ちゃんと背負ってゆかないわけにはゆかないだろう。彼はいつでも牧場を経営することもジョーンに身勝手であることをやめるよう、さもなければ彼女と暮らすのをやめるよう、選択できたのだ。
むろんそれは結果論だ。だからこそこの小説は限りなく恐しく、そして哀しい。ジョーンの一生はもうさだまってしまった。最後のチャンスをジョーンは自ら長い友達である怠惰と怯懦に破れて手放した。そしてロドニーもまた。かれらはいずれそれなりの平安に到達するかもしれない。そして、このような人生にも終わりがくるだろう。神は同じように平安な死を与えるだろう。
私はそのように生きたくない、と思う。——このようなことを考えさせた小説は他に読んだことがなかった。

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ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(西永良成 訳)

2023-09-03 16:24:55 | 




※ネタバレあり

映画の方はむか~し(20代の頃)一度だけ観たことがあって、でもストーリーはラスト以外は覚えてなくて。
あのラスト、人間の人生の幕が予期せぬ一瞬に無情にストンとおろされる感じが、すごくリアルで。
なんとなくフランス映画のように記憶していたけど、今調べたら、アメリカ映画だった。言語も英語。

当時映画を観たときに、「存在の耐えられない軽さ」というのは、人生や人の命の儚さのことを言っているのだろうな、となんとなく思ったのを覚えている。
でも先日クンデラが亡くなったニュースを知って原作を読んでみようと思い立ち(今このきっかけで読まないと一生読まない気がした)、読んでみたら、「存在の耐えられない軽さ」とはそんな意味では全くなかったのだった。
プラハの春以降のチェコの状況が思いのほか深くストーリーに関わっていることも知ったけれど、それはストーリーの再重要部分ではない。

一生の時々の中で私達は何らかの人生の選択をしなければならなくて、それが正しいか否かは誰にもわからない。なぜなら人生は一回きりしか経験できないから。

小説の冒頭で作者は、ニーチェの「人生は永遠に繰り返される、だから一つ一つの選択はとてつもなく重くなる」という永劫回帰の思想を紹介する。続いてパルメデスの「軽いものはポジティブであり、重いものはネガティブである」という思想を紹介し、果たして本当にそうなのであろうか?という疑問を提起する。
そして読者は4人の男女が繰り広げる人生の物語を作者とともに眺めながら、この疑問について考えてみることになる。

この疑問に対してクンデラは明確な結論を出しているわけではないけれど、それでも、人生の目的が「個人として幸福であること」であるとするなら、作者は「重さ」の方に、トマーシュとテレザの生き方の方に共感を覚えている、という風に感じられる。
池澤夏樹さんは本に付帯されたコラムの中で「ぼくはサビナが好きだ」と書かれていて、それは私も同感だし、私は明らかにサビナのようなタイプだけれど、それでも池澤さんが「作者は格別の愛を彼女に注いでいるし、そういう我儘な生きかたが彼女を不幸にしないように配慮している。明らかな贔屓」と書いているようには、私は感じられなかった。
「個人としての幸福」を人生の最期に感じているのは、サビナではなく、もちろんフランツでもなく、トマーシュとテレザであるように作者は書いている。
社会的義務から切り離された自由を含め、彼らは結局は自らそれを選択しているし、偶然の積み重ねの上にあるたった一度きりの綿毛のような「軽い」人生の中で、愛する人の人生の「重さ」を引き受けることによって得られる、それでしか得られない幸福を感じている。何より、彼らは相手を心から愛している(たとえトマーシュが肉体的に幾多の浮気をしたとしても、テレザへの感情が愛でなければ何だというのだ?)。相手の人生を責任とともに引き受けたことで相手への愛情が増している一面もあるかもしれないけれど、それでも根本には最初から最後まで、唯一の相手への愛情がある。その点で、サビナがフランツに対して持っていた愛情とは少し種類が異なるように私は感じるのだけど、どうなのだろう。
それともトマーシュとテレザの間の愛情も、「偶然」の結果にすぎないのか。もし偶然違う相手と出会っていたら、その相手と恋に落ちたのだろうか。それならテレザはともかくトマーシュはとっくに別の誰かと本気の恋に落ちていてもいいはずでは?と思ってしまう。やはり相手がテレザだったから、という理由は大きいと思うのだけどな(彼がテレザに感じた「同情」は、他の女性には感じていなかったものだ)。たとえその出会いは偶然の結果だったとしても。その「偶然」にしても全てが真の偶然ではなく、テレザは自身の望む運命を作り出すために、「偶然」という状況を敢えて作り出してさえいる(ホテルの6という部屋番号と自身の退勤時間の6時を敢えてかけたり、その時に流れていたベートーヴェンの音楽に意味を与えたり)。

結局我々の人生は一度きりしかなく、未来は誰にもわからないのだから、「いまここ」に生きている自身が全てで、そのような自分が、制限された選択肢の中でそれでも懸命に考えて自分にとってベストと思う選択をする以外になく、良し悪しの結果は(自分の力の及ばないところで)後からついてくるものにすぎない。その結果が丁と出ようと半と出ようと、人はそれを受け入れるだけ。その場所でまた次の選択をしながら、その結果を受け入れながら、生きていくだけ。

とまあ色々書いたけれど、正直とてもわかりにくい小説で、ちゃんと理解できているとは全く言えないのだけど。
私は最近すこし本の読み方が変わってきていて。
本当に自分にとって読む価値さえなかった本というのは確かに存在するから、それは別として。
「好き」「嫌い」「面白い」「面白くない」だけではなく、中には「決して全面的に共感するわけではないけれど、妙に心に引っかき傷のようなものを残す本」というのがあって。
その引っかき傷は、私の中に何らかの理由があるからで。
その本を読むことで自分の中のそういう部分に気付かせてもらえること、向き合うきっかけをもらえること、というのは実はとても貴重なことなのでは、と最近思うようになった。
ただ日常を生きているだけではなかなか向き合えないこと、そのきっかけも勇気も余裕も持てないこと。
そういうものを、本はサラッと見せてくれたりする。
突然向き合わせられるから、ドキッとするし、決して快適な感情だけではないけれど。
そのまま流してしまわずにその引っかき傷に向き合ってみることは、実は一冊の本と出会う意味として、とても価値あることではないか、と思うようになった。
この本も、そんな本の一つ。

しかし本との出会いというのは面白いもので、人との出会いと似ているな、と思う。
この本だって出会おうと思って出会ったわけではなく、クンデラの死のニュースから気まぐれに読んでみようかなと思っただけで、「偶然」に過ぎない。
でも、そこから新しい自分と新しい世界が広がっていく。
出会いを生かすも殺すも自分次第であるところも、似ている。

※追記:
映画の方も再び見てみました。主役三人、ピッタリですね!そして音楽がとても美しい。ソ連の衛星国であるチェコの場面は、映像で観るとより現実味をもって感じられました…。


p8
 もし永遠の回帰がこのうえなく重い荷物であるなら、それを背景として、私たちの人生はそっくり素晴らしい軽さを帯びて立ちあらわれてくるかもしれない。
 だが、本当に重さは恐ろしく、軽さは美しいのだろうか?
 このうえなく重い荷物は私たちを圧倒し、屈服させて、地面に押しつける。だが、あらゆる世紀の恋愛詩では、女性は男性の身体という重荷を受けいれたいと欲するのだ。だから、このうえなく重い荷物はまた、このうえなく強烈な生の成就のイメージにもなる。荷物が重ければ重いほど、それだけ私たちの人生は大地に近くなり、ますます現実に、そして真実になるのである。
 逆に、重荷がすっかりなくなってしまうと、人間は空気よりも軽くなり、飛び立って大地から、地上の存在から遠ざかり、もうなかば現実のものではなくなって、その動きは自由であればあるほど無意味になってしまう。
 では、なにを選ぶべきなのか? 重さか、それとも軽さか?

p12
 彼はさんざん自責の念に駆られていたのだが、やがてついに、自分がなにをしたいのかわからないというのは、とどのつまりごく正常なことではないかと思うようになった。
 人間はなにを望むべきかをけっして知りえない。というのも、人間にはただひとつの人生しかないので、その人生を以前の様々な人生と比較することも、以降の様々な人生のなかで修正することもできないのだから。
 おれはテレザと一緒に暮らしたほうがいいのか、それともずっとひとりでいたほうがいいのか?
 どんな決心が最良なのかを確かめるどんな手立てもない。というのも、いかなる比較もないのだから。すべてはただちに、準備もなく初めて経験される。まるで、役者が一度もリハーサルをせずに舞台に登場するみたいにだ。だが、人生の最初のリハーサルがすでに人生そのものだとしたら、そもそもこの人生にどんな価値があるというのか?だからこそ人生は素描に似ているのだ。いや、「素描」でさえ正しい言葉だとは言えない。というのも、素描がつねになにかの端緒、絵画の下絵であるのに反して、おれたちの人生という素描はなんの端緒でもなく、絵画のない下絵なのだから。

p117
 ボヘミアを離れて一、二年したロシア侵攻の周年日に、彼女はたまたまパリにいた。その日、抗議デモがあったので、彼女も参加せざるを得なかった。若いフランス人たちが拳を振りあげ、ソビエト帝国に反対する合い言葉をわめいていた。その合い言葉は気に入ったが、しかし彼女は自分がその他人たちと一緒になって叫ぶことができないのを知って驚いた。彼女はほんの数分しか行列にとどまることができなかった。
 彼女はその経験をフランスの友人たちに話した。彼らはびっくりして、「じゃあ、きみは自分の国の占領に反対して闘いたくはないのかい?」彼女は友人たちに言いたかった、共産主義、ファシズム、あらゆる占領や侵攻にはもっと根本的で普遍的な悪が隠されている、その悪のイメージ、それこそまさしく腕を振りあげ、声をそろえて同じ音節を叫びながら行進するイメージなのだと。しかし、そんなことを彼らに説明できないのはわかっていた。

p142
 人生のドラマはつねに重さのメタファーで言い表される。ひとは、私たちの肩に重荷がのしかかってきたなどと言い、その重荷を運び、それに耐えたり耐えられなかったりする。それと闘い、勝ったり負けたりする。しかし、いったいサビナになにが起こったというのだろうか?なにも起こってはいない。彼女が別れたかったからひとりの男と別れた。そのあと、男は追ってきたのか?復讐しようとしたのか?そうではない。彼女のドラマは重さではなく、軽さのドラマだった。彼女に襲いかかったのは重荷ではなく、存在の耐えられない軽さだった。・・・彼女はもう一度ふたりのことを考えた。ふたりはときどき隣町に行き、その夜はホテルにとどまった。彼女は手紙のその一節にはっとした。それはふたりが幸せだったことを証している。彼女にはトマーシュがまるで自分の絵の一枚のように見えた。前景には素朴な画家の手で描かれた、偽の舞台装置のようなドン・ファン。その舞台装置の裂け目から、トリスタンがちらっと見えてくる。彼はトリスタンとして死んだので、ドン・ファンとしてではなかったのだ。サビナの両親は同じ週に死んでいた。トマーシュとテレザは同じ瞬間だった。彼女はふと、フランツと一緒になりたくなった。
 彼女が墓地の散歩の話をしたとき、彼は嫌悪感をおぼえ、墓地を骸骨と砕石のゴミ捨て場に比べた。あの日に、ふたりのあいだに不理解の深淵が開いたのだった。彼女はきょうモンパルナスの墓地にきて、彼の言いたかったことをやっと理解した。彼女は自分に我慢がなかったことを後悔する。もっと長いあいだ一緒にいたら、もしかするとわたしたちは少しずつ、相手が口にする言葉を理解しはじめていたのかもしれない。まるで内気な恋人同士みたいに、ふたりの語彙がゆっくりと恥ずかしそうに近づき、ふたりの音楽がたがいの音楽のなかに溶けはじめていたかもしれない。でも、いまとなってはもう遅すぎる。
 そう、もう遅すぎるのであり、自分がパリにはとどまらず、もっと遠く、さらに遠くに行くことになるのをサビナは知っている。なぜなら、もし彼女がここで死んだら、石のしたに埋葬されることになるだろうから。そして休息というものを知らない女性にとって、走っている途中で永久に立ちどまってしまうというのは、なんとも耐え難い考えだったから。

p224
 私が思うに、トマーシュはもうかなりまえから、あの攻撃的で、荘厳で、厳粛な「Es muss sein!」に心の奥底で苛立ち、パルメデニスの精神に従って、重いものを軽いものに変えてやりたいという、深い欲望を胸に秘めていたのである。彼が最初の妻と息子にふたたび会うのを拒否するには、たった一瞬だけで充分だったのであり、父と母が彼と絶縁したのを知って安堵したことを思い出そう。これははたして、彼に重い義務、ひとつの「Es muss sein!」としてのしかかってくるものを押しかえした、あの唐突な、あまり理性的でない所作と別のものだろうか?・・・
 外科医であること、それは事物の表面を開いて、内部に隠されているものを見ることである。おそらくそんな欲望こそがまさしく、トマーシュに「Es Muss sein!」の彼方になにがあるのか見てみたい、言い換えれば、人間がこれまでみずからの任務だと見なしてきたものを脱ぎ捨てたときに、人生のなにが残るのか見てみたいという気にさせたのである。・・・
 彼は自分ではどんな重要性も認めていない仕事をしているのだが、じつはそれこそが素晴らしいことだったのである。彼は(それまではずっと、憐れみを感じていたのに)、なんら内的な「Es muss sein!」にみちびかれず、戦場を離れると仕事のことをすっかり忘れてしまえる職業に従事する人びとの幸福を理解した。・・・いまや彼は、ショーウィンドーを洗う長竿を手にプラハを駆けめぐり、自分が十歳も若返ったと感じていることに気づいて驚いている。

p254
 義務?おれの息子がおれに自分の義務を思いださせようとするのか?それは、ひとがおれに言える最悪のことではないのか!彼の目にふたたび、鳥を腕に抱きしめているテレザのイメージが現れる。前夜警官がバーにきて、あたしはいじめられた、と彼女が言っていたのを思い出す。彼女の手がふたたび震えだしている。彼女はすっかり老けてしまっている。もうなにも彼には大切に思えなくなった。彼女だけが大切なのだ。六つの偶然から生まれた彼女、部長の坐骨神経痛から生まれた華である彼女、あらゆる「Es muss sein!こうでなければならない!」の反対側にある彼女、彼が真に執着する唯一のものである彼女だけが。
 なんでまた、署名すべきかどうかで思い煩うのか?おれのあらゆる決定には唯一の基準しかない。それは、テレザに害をあたえかねない行動はいっさいしないことだ。おれは政治犯を救うことはできない。しかし、テレザを幸福にすることはできる。いや、それでさえ、おれにはできないだろう。だが、もしおれが嘆願書に署名をしたら、警官どもがもっと頻繁に彼女をいじめにやってきて、彼女の手がもっと激しく震えることになるのはほとんど確実なのだ。
 彼は言った。「大統領に嘆願書を送るよりも、生き埋めにされた鳥を救い出してやるほうが、ずっと大切なんです」・・・彼には自分の行動が正しいという確信はまったくなかったが、それでも自分が望むように行動しているという確信はあった。

p256
 力なく中庭を見つめ、なかなか決心に辿り着けないこと。愛の昂揚のときに、自分自身の腹から執拗な腹鳴が聞こえてくること。ひとを裏切り、そしてじつに美しい裏切りの途中で立ちどまれないこと。<大行進>の行列のなかで拳を振りあげること。警察によって隠されたマイクのまえで自分のユーモアを誇示すること。私はそのような状況をすべて知っていたし、みずから経験もしていた。とはいえ、そのいずれの状況からも、私の履歴書にあるような私自身という登場人物が生まれたわけではない。私の登場人物たちは現実化しなかった私自身の可能性なのだ。だからこそ私は彼ら全員が好きなのだし、と同時に彼らは私を怯えさせもするのだ。彼らはいずれも、私自身がただ迂回するだけであった境界線を越えたのであり、その越えられた境界線(それを越えると私の自我が終わってしまう境界線)こそ、私を惹きつけるのである。そしてその向こう側で、小説が問う謎がはじまるのである。小説は作者の告白ではなく、世界がそうなったところの罠のなかで、人間の生がいかなるものになるのかという探索なのである。

p257
 では、どうすべきだったのか?署名すべきだったのか、すべきでなかったのか?
 この問いを次のような言い方で表現してもいい。叫んで、そのことでみずからの終焉をはやめるほうがいいのか?それとも、黙っていて、そのことでもっと緩やかな最期を買ったほうがいいのか?
 だがそもそも、このような疑問に答えがあるのだろうか?
 そしてふたたび、彼の心に私たちがすでに知っている考えが浮かんだ。人生はただ一度しかない。だから私たちはどの決心が正しくて、どの決心が間違っているのかを知ることは決してできない。
 なぜなら、どんな状況であっても、私たちはただ一度しか決心できないのだから。私たちには様々な決心を比較できるような二度目、三度目、四度目の人生はあたえられていないのだから。・・・

 歴史もまた個人の人生とまったく同じように軽く、耐えられないほど軽く、綿毛のように、舞い上がる埃のように、明日にも消え去ってしまうもののように軽いのだ。
 トマーシュはもう一度ある種のなつかしさを、ほとんど愛情さえもいだきながら、猫背の長身の編集者のことを考えた。あの男は、あたかも自分のすることが永遠の回帰のなかで数えきれない回数繰り返されるとでもいうように行動し、自分の行為を一度たりとも疑っていないのは確実だ。自分が正しいことを確信して、そこに偏狭な精神の徴しではなく、美徳の印しを見ている。彼はおれとは別の歴史、素描ではない(もしくは素描であるという意識がない)歴史のなかで生きているのだ。・・・
 宇宙には、ひとが二度目に生まれる惑星があると仮定しよう。それと同時に、ひとは地球上で過ごした人生、この世で獲得した経験のすべてを完璧に思いだせるものとする。
 それから、各人がすでに生きたふたつの人生の経験とともに、三度目に誕生する別の惑星があるかもしれない。
 それからさらに、人類がそのつど成熟の段階を一段(一人生)ずつ上昇しながら生まれ変わることになる、その他の別の惑星がいくつもあるかもしれない。
 それが永遠の回帰についてトマーシュがいだいている考えだ。
 もちろん、地球(第一の惑星、未経験の惑星)にいる私たちは、別の惑星にいる人間になにが起こるのかについては、きわめて漠然とした考えしかいだけない。人間はもっと賢明になるのか?成熟はやっと人間の手の届くものになるのか?人間は繰り返しによって成熟にいたることができるのか?
 悲観主義や楽観主義という概念が意味をもつのは、ただこのようなユートピアの展望においてのみである。楽観主義者とっは、五番目の惑星では人間の歴史がずっと血腥いものではなくなると思い描く者のことだ。悲観主義とは、そうは信じない者のことだ。

p338
「カレーニンはあたしたちのためにだけ、こうやっているんだわ」とテレザが言った。「きっと外に出たくなかったのよ。ここにきたのは、ただあたしたちを喜ばせるためだけだったんだわ」
 彼女が口にしたのは悲しいことだったが、ともかく彼らは、そうと気づかないままに幸せだった。彼らが幸せなのは、悲しみにもかかわらず、ではなく、悲しみのおかげだった。彼らはたがいに手を取り合い、ふたりとも眼前に同じイメージ、ふたりの十年間の人生を体現している、脚を引きずっている犬を見ていた。

p363
「もしチューリヒに残っていたら、いまごろあなたは患者さんたちの手術をしていたでしょう」
「そして、きみは写真を撮っていただろう」
「そんな比較はできないわ」とテレザが言った。「あなたにとって、仕事はこの世でいちばん大切なものだった。でも、あたしのほうはなんだってできるんだし、あんなものどうだってよかったのよ。あたしはなにも失わなかった。すべてを失ったのはあなただわ」
「テレザ」とトマーシュは言った。「ぼくがここで幸福だってことに、きみは気づかなかったのかい?」
「テレザ、使命なんてくだらないものだよ。ぼくには使命なんてものはない。だれにだって使命なんかないんだ。そして、自分が自由で、使命なんかないと気づくのは、とてつもなく心が安らぐことなんだよ」
 声の調子からして、彼の誠実さを疑うのは不可能だった。彼女にはふたたび、今日の午後の光景が浮かんできた。彼がトラックの修理をしていて、彼女にはそんな彼が年寄りじみて見える。あたしは自分が到達したいと願っていたところに到達したのだ。あたしはいつも、彼に年取ってもらいたいと願っていたんだから。彼女はもう一度、自分の子供部屋のなかで顔に押しつけた野兎のことを考えた。
 野兎に姿を変えるというのは、どういう意味なんだろうか?それは自分の力を忘れるという意味だ。それ以降、たがいに相手以上の力をもたないという意味なんだ。
 ふたりはピアノとヴァイオリンの音に合わせて、ちょうどダンスの身振りをしながら、行ったり来たりしている。テレザは彼の肩に頭をのせている。ちょうど霞を横切ってふたりを運んでいた飛行機のなかみたいに。いま彼女はあのときと同じような不思議な幸福を、同じような不思議な悲しみを感じている。この悲しみは、あたしたちが最後の停泊地にいることを意味しているんだ。この幸福は、あたしたちが一緒だということを意味しているんだ。悲しいは形式で、幸福が内容なんだ。悲しみの空間を幸福が充たすんだ。


The Unbearable Lightness of Being HD 4k restoration trailer Juliette Binoche Daniel Day-Lewis

記憶の中ではもう少しキワドイ場面が多かった気がしていたけど、そうでもなかった。
ジュリエット・ビノシュもすごく魅力的だけど、サビナ役の女優さん(レナ・オリン)、綺麗だなぁ。スウェーデン人なんですね。低い声も素敵。

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詩人・谷川俊太郎が語る、PEANUTSの「明るいさみしさ」とは

2023-06-15 21:25:31 | 

シュルツ氏の魅力と詩を書く自身を投影して、次のようにも話した。

「僕、詩を書く人間だから、物語に弱いんですよ。物語は作れない。その点、俳句のように“何も言わない”で読んだ人に考えさせるみたいな、アンダーステートメントのようなものが、シュルツさんにはあると思うの」

その中で気が付いた、PEANUTS作品の本質は「明るいさみしさ」だった。

「明るいさみしさっていうのは、割と人間の本質として誰でも持っているんじゃないかなと思うんです」

「シュルツさんも、コミックを描きながら、どこかに孤独感とか、さみしさとか、なにか不足な感じとか、そういうものを持っている。だから、深い世界が出るんだなって」

谷川さんに「寂しさがあると、深い世界に行けるんですか」と聞くと、大きくうなずいて、こう言った。

「もちろん、そうですよ。違う?」

さらに「寂しいと悲しくなってしまうのかなって思うんです」と聞くと、少し考え、また頷いて話した。

「悲しくなるのが、深い世界に行く道だもん。よく、四六時中はしゃいでいる人っているけど、疲れちゃうでしょう。それは、自分とか、他人とかの深いところに触らないように、はしゃいでいるのかもしれない。そんな感じがします」

スヌーピーたちの日常には、誰かと誰かがつながりを持つときの深い心情のやり取りや、変わらないでいてくれる安心感が漂っている。

「PEANUTSは、時代によって変わる部分っていうのは割と少ないけど、確かにある。だけど、ほとんどがアメリカとか日本とか、他の国とかを問わず、地球上の人間全体の、普遍的な在り方みたいなものが基本にあるから、いつまで経っても古くならない」とゆっくり目線をあげた。

Huffpost:スヌーピーと育ったすべての大人たちへ。詩人・谷川俊太郎が語る、PEANUTSの「明るいさみしさ」とは


人間明日は何があるかわからないので職場のPCの中身を整理していたら、ブックマークにこの2019年の記事が入っていたのでご紹介。

人が誰でも持っている(かもしれない)本質的なさみしさというのは、一体どうして、どこから来るのだろう。
「さみしさ」という言葉を持たなければ、私達はその感情をもう少し違ったものとして感じられたろうか。
あるいはその言葉を持てたことで、私達の心は少しは救われているのだろうか。

「どこかに孤独感とか、さみしさとか、なにか不足な感じとか、そういうものを持っている。だから、深い世界が出る」。
さみしさなんて持たないに越したことはない感情だけれど、これは谷川さんが仰るとおりかもしれない。
少なくとも私が心動かされる芸術作品の根底には、孤独感や寂しさが見え隠れしていることが多い。

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谷川さんにとっての死と魂

2023-04-22 13:28:12 | 

死んだ後には、魂のような何かが残ると思っています。

「あ いるんだ」という詩を最近、書きました。亡くなった友人が、ふっと戻ってくる、現実感みたいなものを書いた詩です。

〈パソコンの中から/死んだ友人の/元気な声が聞こえてきた/あ いるんだ〉
〈見えなくても/聴こえなくても/触れなくても/すぐそばに〉
(詩から引用)

それは、記憶や思い出よりも深いもののように思います。

だから、死は、瞬間的なものではなく、ずっと、生きることの中に後を引いているものじゃないかと思いますね。生から死へは、フェードイン、フェードアウトでつながっているという感じです。

生きるということを考えたら、必ずどこかで死とリンクしている。はしゃぎきっちゃって、死のことを全然考えない楽しみ方も当然あると思うけども。言葉で「生きる」って言った以上は、どっかに死というバランスウェートがないとリアルにならないと思うんですよね。

・・・

20代のころから、死はたびたび自分の詩に登場しています。

若いころは、秋になって落ち葉が土に還っていくというように、ただ抽象的に考えていたんだけど、最近は、ちょっと肉体的になってきましたね。

死よりも老いの方がずっとリアルなんですよ。脚が弱くて歩くのが苦痛になったとか、自分の体がだんだん衰えて昔とは違うようになってきて、気になります。

両親、寺山修司や武満徹ら友人たちも、みんな亡くなりました。親しい人を失った直後は悲しいことを感じる余裕がありません。

でも、何カ月も、あるいは1年以上たった後でふっと、悲しくなることがあります。それが何なのかよくわからないんですけど。

父と母に関しては、あの2人が自分の中に入ってしまっているように感じます。なんせ赤ん坊のときから付き合ってくれているわけですから。

たとえば、年を取った父が、この自宅の部屋で寝転がってベートーベンを聞いていたのを思い出すんですが、自分も同じようなことをしていますね。

それは悲しいというのとは、全然違いますね。むしろ快いっていうのかな、しょうがねぇなみたいな。

「死体は「脱ぎ捨てた洋服」、その後に残る深いもの 谷川俊太郎が向き合ってきた生と死」GLOBE+


谷川さん、お元気にされてるかなぁとググってみたら、最近のこんな記事が出てきました。
「死よりも老いの方がずっとリアル」というのは、40代の私でも本当にそのとおりだなぁと思う(といっても90代の谷川さんとは全く比べものにならないと思いますが…)。
私達は死がどういうものかを誰も自身の体で体験したことがないし、体験した本人の話を聞くこともできないから、リアルに感じることもリアルに想像することもできない。「その直前」までのことは見聞きすることはできても。

私にとって比較的リアルに感じる話は、漱石自身が書いている修善寺の大患のときのエピソードなのだけれど(30分間の完全な意識消失状態を「いかにも急劇でかつ没交渉」と表現している)、それが書かれてあるのは『硝子戸の中』だっけか?と青空文庫の『硝子戸~』で「死」と検索してみたら、50個の検索結果が出た。漱石はこの随筆の中でそんなに「死」という言葉を書いていたのだなぁ。。
しかしそのエピソードは見つからなかったので、ググってみたら、『思い出す事など』の方でした。再び青空文庫で『思い出す~』の中の「死」という文字を検索してみたら、87個もヒットした。

一部だけど久しぶりに読んでみたら、「病」や「死」という現象を客観的に観察するような文章と、そこから筆者の心情が浮かび上がってくる感覚が、漱石の親友でもあった子規の晩年のそれとよく似ているなと感じました。
晩年といっても子規の享年は34なので漱石よりずっと若く亡くなっていて、若い子規にとってそれだけ死が「自身のもの」として存在していたのだなと思うと切なくなります。
でも漱石の享年も49なんですよね。今の私とほとんど変わらない。

子規の『死後』という随筆、とても子規らしい、いい文章なのです。
青空文庫で読めるので、ご興味のある方はぜひ。
またゆっくり色々読み直したいな。
でもなんだか毎日忙しくて・・・。
そんな風に過ごしているうちに、きっとあっという間に「その日」は来てしまうのかもしれないなぁ。まぁそれも幸せかもしれないけれど。
そういえば友人と文京区の文学巡りをしようと以前話していて、まだ行けていないな。。
いま友人は闘病中でそれどころではないのだけれど、少しよくなったら、一緒に行けたらいいな。

ところで谷川さんは「こういうふうに埋葬してほしいっていうのは一切ありません。息子や娘が適当にやってくれるだろうと思っています。散骨だろうが鳥葬だろうが土葬だろうが、何でもご自由にという感じです。土に還るという自然なほうが、地球上の生きものとしてはふさわしいんじゃないかと思います。でも、骨壺に入ってお墓に入るのも、人がお参りにきてくれたりして、それはそれでいいだろうなと思いますけどね。」と仰っていて、どうとでもしてくれていいというのは私も同じだけれど、私の場合は谷川さんと違い子供も姪甥もいないので、最後の墓じまいと自分の始末は自分でしなければならないのよね。
世界は繋がっていると思っているので親と同じ墓に入れなくても構わないし、無縁仏でもなんでもいいのですけど、できるだけ人にかける迷惑は少なくして死んでいきたい。ただそれだけなのだけど、簡単じゃないんですよね。。。
家族の墓はあるし、その分の合祀はお願いできるけれど、最後になった一人の分は引受人がいないとお墓に連れて行ってもらえないそうで。
お金を出せば行政書士とかに頼めるのかもだけど、そこまでするのもなぁとも思うし。。。
うーむ。。。
国はそういう部分をもっとしっかり考えて欲しいものだわ。
これから先の日本は独居老人大国になるのだから。
「決して贅沢はできなくても、将来の大きな不安を抱えずに最低限安心な老後を過ごして死んでいける」というただそれだけで、老いも若きも(そう、高齢者だけでなく若い人達も)国民の幸福度は大きく上がると思う。そのためなら税金だってもっともっと出してもいいくらいよ。
でも税金の使われ方が全くもって心もとないから、そんな政府には出したくないだけで。
どう考えたって意味のない現金のバラマキばかりやってるし。
職場でも我らが血税がどれほどムダな使われ方をされてるかを日々見てしまっているから(もちろんちゃんとした使われ方もされているけれど)、腹が立って仕方がない




あいかわらず「みどり税」を惜しげもなく使っている我が市。。。
まぁでもこの税金の使われ方はマシな方です。
老いも若きも貧富の差もなく、市民全員に還元されていますから。



でも雑草もこんなに綺麗



このヒョロロンとした植物は何という花だろうか?とgoogleレンズで検索してみたら、「ヘラオオバコ」というらしい。

ヨーロッパ原産の帰化植物で、世界中に広く分布する。日本には江戸時代末期に侵入したものとされ、その後広く日本全土に分布を広げた。
畑地、道端、果樹園、河川敷、牧草地、荒地などに耐乾性があるため広く生育する。
北アメリカをはじめ世界中に分布を広げ、コスモポリタン雑草となっている。
環境省指定の要注意外来生物類型2に指定されている。
(wikipedia)

へ~。
道端の雑草の写真から一瞬でこんな情報までわかるなんて、インターネットってすごいなぁ・・・
コスモポリタン雑草って言葉、なんか可愛い

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「タイパ」の真逆

2023-02-27 14:06:36 | 




「タイパ」という言葉が若い人達の間で流行っているそうで。
私はというと、「タイパ」の真逆のものにいつも魅かれているように思う。
一見意味のないもの、役に立たないもの、無駄に思えるものに魅かれてしまう。
私の好きな星野道夫さんの言葉を、改めてご紹介します。
正解はないけれど、こういう世界や時間の感じ方もあるんだよと、今の若い人達にも知ってもらえたらと思う。





人間の世界とは関わりのない、それ自身の存在のための自然。
アラスカのもつその意味のない広がりにずっと魅かれてきた。
(「旅をする木」)


結果が、最初の思惑通りにならなくても、そこで過ごした時間は確実に存在する。
そして最後に意味をもつのは、結果ではなく、過ごしてしまった、かけがえのないその時間である。

頬を撫でる極北の風の感触、夏のツンドラの甘い匂い、白夜の淡い光、見過ごしそうな小さなワスレナグサのたたずまい……ふと立ち止まり、少し気持ちを込めて、五感の記憶の中にそんな風景を残してゆきたい。
何も生み出すことのない、ただ流れてゆく時を、大切にしたい。
あわただしい、人間の日々の営みと並行して、もうひとつの時間が流れていることを、いつも心のどこかで感じていたい。
(「旅をする木」)

僕が感動したのはきっとオオカミではなく、それをとりまく空間の広がりだった。
今なおオオカミが生き続けてゆくための、その背後にある、目に見えない広がりだ。
だからこそ風景は、たった一頭のオオカミやクマで、ひとつの完成された世界をみせてくる。
(「風のような物語」)

今の世の中は、急いで旅をしようと思えば、わずか一日でさえ世界一周が出来る時代です。世界は狭くなったと人は言います。しかしアラスカを旅しながら感じることは、やはり世界は広いというあたりまえの思いです。さまざまな人々が、同じ時代を、そしてかけがえのない同じ一生を、多様な価値観の中で生きています。少しでも立ち止まることができれば、アラスカであれ日本であれ、きっとそこに見えてくる風景は同じなのでしょう。
(「イニュニック [生命] ― アラスカの原野を旅する ―」)

Life is what happens to you while you are making other plans.(人生とは、何かを計画している時に起きてしまう別の出来事)
(「イニュニック [生命] ― アラスカの原野を旅する ―」より。星野さんの友人のブッシュパイロット、シリア・ハンターの言葉)


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佐野洋子 『神も仏もありませぬ』(2003年刊)

2022-05-08 13:07:12 | 




というわけで、佐野洋子さんのエッセイを初めて読んでみました。佐野さんが60代前半のときのもの。
谷川さんを通して私が感じていた佐野さんの印象は、「洞察力に優れていて歯に衣着せぬ物言いをするけれど、実はとても繊細で可愛らしい人」というものだったけれど、このエッセイから感じた佐野さんも想像以上の可愛らしさだった。
もちろんご子息の広瀬さんが「一緒にいるのは3日が限界」と仰っていたのはそうであろうなぁと物凄く想像できるけれど(婦人公論2020年11月)、子供のような純粋さや全力投球さが魅力的な人だな、と。
また谷川さんが夫婦だった頃に「(実は)佐野洋子は完全な鬱気質」と仰っていたのも(『国文学』1995年11月号)、そうであろうなぁと想像できる。

この本は佐野さんが一時期住居兼仕事場としていた北軽井沢での生活を中心に綴った短編エッセイ集で、”衿子さん”と”フルヤさん”からいただいた手作り蜂蜜を大切に大切に愛する《それは、それはね》の佐野さんなんて、本当に可愛い。ちなみにこのお二人は、谷川さんの最初の奥様である岸田衿子さんと植物画家の古矢一穂さんのこと。佐野さんが谷川さんと離婚した後に北軽井沢の谷川さんの別荘の隣に自身の家を建てて住んでいたことは知っていたけれど、ご近所の衿子さんとも親しくお付き合いをしていたんですね。谷川さんによると、衿子さんもかなり自由奔放な方だったようです(そう仰る谷川さんも、相当自由奔放な人だと私は思うけれど)。衿子さんは、佐野さんの半年後に亡くなられています。

真っ暗闇のなか一人で手作り温泉に四苦八苦しながら入浴に行くエピソードも、とても可愛い。そんな佐野さんにお友達は「あんた、普通じゃないよ」とバッサリ言う。そして「あんたの人生とまったく同じじゃない。やたら突っこんで傷だらけになってさあ」と。そうなんだよね。佐野さんの行動って、どこかそういう切ない健気さみたいなものを感じさせられることが多い。先ほどの蜂蜜のエピソードもそう。

古道具屋の「ニコニコ堂」の息子さんの”ユウ君”は、長嶋有さんのこと。ということは、読後にネットで知りました(長嶋有さんを存じていなかった…)。

この本の最初の話は、佐野さんの88歳の痴呆のお母さんの話。佐野さんのさりげない文章が、沁みた…。この本だけ読んでいるとそうとはわからないけれど、佐野さんとお母さんの関係は若い頃は決して良好とは言い難いものだったようで。それについては『シズコさん』という本に詳しいようなので、ただいま図書館で予約中。

 いつか四十二歳と答えられて、ショックを受けたが、大笑いしたものだ。意地悪く私は云った。「そうか、私、母さんより年寄りになったんだ」。あの時はまだ私の名前を時たま口にしていた。私が子である事が時々はわかっていた。あの時母は明らかに混乱した。あの時から私は母に年齢を確認させる事をやめた。私がどこかの「奥様」であろうと、「そちらさま」であろうと、この人の中で私はどこかで動かぬ子として存在していると感じる。四歳。今日私は笑わず、しわくちゃの四歳を見て「ふーん」と思う。そういう事なんだよなあ、四歳。

(中略)

 そして、六十三歳になった。半端な老人である。呆けた八十八歳はまぎれもなく立派な老人である。立派な老人になった時、もう年齢など超越して、「四歳ぐらいかしら」とのたまうのだ。私はそれが正しいと思う。私の中の四歳は死んでいない。雪が降ると嬉しい時、私は自分が四歳だか九歳だか六十三だか関知していない。
 呆けたら本人は楽だなどと云う人が居るが、嘘だ。呆然としている四歳の八十八歳はよるべない孤児と同じなのだ。年がわからなくても、子がわからなくても、季節がわからなくても、わからないからこそ呆然として実存そのものの不安におびえつづけているのだ。
 不安と恐怖だけが私に正確に伝わる。この不安と恐怖をなだめるのは二十四時間、母親が赤ん坊を抱き続けるように、誰かが抱きつづけるほか手だてがないだろうと思う。自分の赤ん坊は二十四時間抱き続けられるが、八十八の母を二十四時間抱き続けることは私は出来ない。

(『神も仏もありませぬ』《これはペテンか?》)

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1990年に谷川俊太郎と結婚した。1996年に離婚。1998年から2003年にかけては北軽井沢に転居。

2003年に紫綬褒章受章。2004年、エッセイ集『神も仏もありませぬ』で小林秀雄賞を受賞。2004年には乳がんの摘出手術を受けたが、骨に転移。エッセイ集『役にたたない日々』(2006年刊行)の中で、がんで余命2年であることを告白。2006年、母シズ死去(享年93)。2008年、長年にわたる絵本作家としての創作活動により第31回巖谷小波文芸賞受賞。

2010年11月5日午前9時54分、乳がんのため東京都内の病院で死去した。72歳没。最後のエッセイ集のタイトルは『死ぬ気まんまん』であった。
(wikipedia)
--------------------

没後10年『100万回生きたねこ』佐野洋子を息子が語る「最後までわがままで、意地っ張りだった母」(婦人公論.jp)
谷川俊太郎、妻とは「けっこうイチャイチャ」も 意外な日常のエピソード(AERA.dot)
佐野洋子プロフィール(公式ページ)

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谷川俊太郎 『幸せについて』(2018年刊)

2022-04-20 20:26:46 | 




幸せなんてコトバ(ほんとは)要らない

本当に、そのとおりだと思うな。
幸せなんて言葉がなくても人は幸せを感じられるけれど、幸せなんて言葉があるがゆえに不幸な気持ちになってしまうということはある。
幸せという感覚は本来その人の内部にしか存在しない、他者と比べることなど不可能な極めて主観的なもののはずなのに、「幸せ」という言葉が存在するために、それが皆に共通する何かであるように錯覚し、他者のそれと自分のそれを比べようとしてしまう。幸せを量る共通の基準なんて、ありはしないのに。
世の中に溢れかえる「幸せ」というコトバ。
それが実はとてもいい加減なコトバで、そのコトバ自体には意味や価値はなく、それに振り回される必要など全くないのだということを、当たり前のことのようで、意外と私達は忘れているような気がする。
谷川さんは本書のあとがきで言う。

 本当の幸せというのは、そういうふうに、なんだか訳がわからないけれども自分の中から湧き出てくるものだというふうにぼくは考えています。それは人間の感情というより、イノチというものの持つエネルギーかもしれません。
 そういった「自分の中から湧き出てくる幸せ的なもの」というのは、毎日の暮らしの中である秩序を守って生活していると、本来はイノチの自然として、湧いてくるものなのではないでしょうか。(中略)ぼくもよく幸せなんてただの言葉にすぎないと思うことがあります。もし幸せというコトバがなかったら、ヒトは不幸せになることもなかったかもしれない。

「幸せ」なんてコトバに意味はないと思いつつ、あえて「幸せ」について言葉で探ってみようと思ったという谷川さん。
あるページでは、こう書く。

幸せはささやかでいい、ささやかがいい、不幸はいつだってささやかじゃすまないんだから。

ちょっと言葉遊びのようだけど、これ、わかるなあぁぁ。。。。。

・・・たしかに幸、不幸を問わずに生きられる人、生きられる世の中は悪くないと思う。でもそれを〈ぬるま湯〉の幸せと呼ぶ人もいたな。

不幸を避け続けてそれなりに幸せな人、幸福を追求するあまり不幸になってしまう人、どっちが幸せなんだろう。

この「ぬるま湯の幸せ」って、なんとなく谷川さんに対して佐野さんが仰りそうな言葉だな。
佐野さんから「どういうときが幸せ?」と聞かれて「ニュートラルな状態」と答えたら、「信じられない」と驚かれたと以前インタビューで仰っていたし(『考える人2016年夏号』)。
なんて書きながら、実は私、佐野さんについては谷川さんを通してしか知らず、その著作を殆ど読んだことがないんです。『100万回生きたねこ』を子供の頃に読んだきり。
佐野さんが幸せについて書いた『神も仏もありませぬ』、今度読んでみよう

鍵をあける幸せがあれば、鍵をかける幸せもある。訳ありの部屋のドアの話ととってもいいし、自分のココロの話ととってもいいよ。

私は鍵をかける幸せはもう十分に味わったし、これからも味わうことができると思うので、鍵をあける幸せを死ぬまでに少しずつでも増やしていけたらいいなと思っています。無理はしすぎずに。
最後に、1990年の谷川さんの詩集『魂のいちばんおいしいところ』から「やわらかいいのち」(抜粋)を。

・・・
どこへ帰ろうというのか
帰るところがあるのかあなたには
あなたはあなたの体にとらえられ
あなたはあなたの心に閉じこめられ
どこへいこうとも
あなたはあなたに帰るしかない

だがあなたの中に
あなたの知らないあなたがいる
あなたの中で海がとどろく
あなたの中で木々が芽ぶく
あなたの中で人々が笑いさざめく
あなたの中で星が爆発する
あなたこそ
あなたの宇宙
あなたのふるさと

あなたは愛される
愛されることから逃れられない
たとえあなたがすべての人を憎むとしても
たとえあなたが人生を憎むとしても
自分自身を憎むとしても
あなたは降りしきる雨に愛される
微風にゆれる野花に
えたいの知れぬ恐ろしい夢に
柱のかげのあなたの知らない誰かに愛される
なぜならあなたはひとつのいのち
どんなに否定しようと思っても
生きようともがきつづけるひとつのいのち
すべての硬く冷たいものの中で
なおにじみなおあふれなお流れやまぬ
やわらかいいのちだからだ

(谷川俊太郎『やわらかいいのち』より)

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『あさきゆめみし』と源氏物語と仏教と

2022-02-13 01:59:50 | 


©大和和紀/講談社



先ほどヤフーで見つけたこちらの記事↓

「あさきゆめみし」雑誌黄金時代だから描けた光源氏の〝罪〟
「あさきゆめみし」に隠された…同業者も気づかなかったトリック

へ~~~~~と思うことがいっぱいで、とても良い記事でした。
受験生必読の書と名高いこの漫画ですが、私はなぜか社会人になってから読んだんです。
傑作ですよね。原作を超えてる!とも、いやあの原作があってこそ!とも思う。
私が初めて原作を全編読んだのは瀬戸内寂聴さん訳で、読みやすくはあったものの少々好みと違う表現もあったので、次に谷崎潤一郎訳を買ったのだけど、そのまま本棚の積読に

大和和紀さんというと私は『はいからさんが通る』のイメージが強いのだけど、素敵な漫画をいっぱい書いていらっしゃいますよね。
そして上記のトークを読んで、大和さんの漫画家としての素晴らしさを改めて感じました。

たられば:大和源氏(「あさきゆめみし」)では、女性がより自立的に描かれていて、そして自立しているからこそより悩みが深い、なるほど。
おかざき:女性にも感情はある、大和先生の中では普通のこととして描いているのかもしれませんけど。それが光源氏の行いをちょっとマイルドにしているのかもしれません。

なるほどなあ。
原作も少女漫画的なキラキラした雰囲気が後半になるにつれて仏教的な儚さを感じさせるようになるけれど、『あさきゆめみし』は「光源氏ってめっちゃ腹立つ男だけど、この人はこの人で色々な想いや哀しみを背負って生きてきたのだよな」という感覚をより強く感じるように思う。それは原作よりも光源氏の感情が細やかに描写されているからというよりも、彼を愛した女性達の自立した感情が細やかに描かれていることで彼の罪の印象が緩和され、その結果、原作にはない「あさきゆめみし」という言葉がより素直に私達の心に響くのかもしれない。

この「あさきゆめみし」という言葉は”いろは歌”の一節ですが、漫画では光源氏が亡くなって第一部が終了する場面で登場します。そこでの表記は「あさき夢みし」。
いろは歌の解釈としては「浅き夢見し」だと「儚い(浅はかな)夢を見ていた」という意味になるけれど、言語学的に正しいのは「浅き夢見じ」で、その場合は「浅はかな夢を見ることはすまい」という意味になるそうです。しかしこれに対しても、いやいや言語学的にも「浅き夢見し」で問題はないとする意見もあるそうで(言語学出版社フォーラム)。言葉も千年経つと、同じ日本人でもその真の意味が誰にも分からなくなってしまうものなんですね。
※追記:「浅き夢見じ」を無常偈に繋げて解釈すると「(暗闇を抜けて安らかな悟りの世界に至った今は)もう浅はかな夢を見ることはない」という意味になるそうです。漫画はこの解釈が近いようにも思うけれど、その場合は「あさき夢みじ」と否定形である必要があるのよね

私が源氏物語を楽しむ理由の一つは、自然描写。その美しさに興奮してしまう。そんな私にピッタリっぽい本を見つけました。
「平安の気象予報士 紫式部-『源氏物語』に隠された天気の科学」
今度図書館で借りてみよう。こうしてまた谷崎源氏が遠のいてゆく

あと源氏物語といえば、京都の宇治にある「源氏物語ミュージアム」はおすすめですよ 滋賀の石山寺も


★★★オマケ★★★
冒頭でご紹介したトークシリーズで、おかざき真里さんと高野山の飛鷹全法和尚が行ったトークセッションの中の「慈悲」についてのお話が興味深かったので、その一部を最後にご紹介。

おかざき:受け手はどういう気持ち、心持ちでいるべきというか……。私がなんとなく考えていたのは、「幸せとセットにしないことが大事かな」ということです。

たられば:慈悲を受けるときに?

おかざき:慈悲を受けるときに。「その慈悲を受けたら、自分が幸せになれる」と思わないようにしようということです。

たられば:おぉー。

おかざき:なんだか、「慈悲を受けられたら宝くじに当たる」という問題じゃないんだという話です。

たられば:すげぇ。話のギアが上がった(笑)。なるほど。

おかざき:それで医療で言えば病気が治る、病気が治らないという過程を教えてもらうことは、「治ったら幸せになる」とか、「治ったら金持ちになる」とか、「治ったらモテモテになる」という幸せとは切り離すべきなんじゃないかなと、最近ちょっと考えています。

たられば:わかりやすい。

おかざき:そういう「一般の人間は、こういうふうにすると慈悲を受けやすくなるよ」というものって、ありますかね?

たられば:すごい剛速球が来た感じですけど、飛鷹和尚、いかがですか? 

おかざき:変な方向ですけど(笑)。

飛鷹全法氏(以下、飛鷹):そうですね、なんだか……(笑)。きちんとお答えができるかわからないですけど、その「慈悲」というのは、仏教においても非常に大事な言葉ですね。「悲」とは、もともとインドの言葉で「カルナー」と言って、他者の苦しみに対する共感を意味するのですが、それに「大」という字をつけて「大悲」(たいひ)と言う言い方をします。

弘法大師が密教の修行に進むきっかけになったと言われている、『大日経』というお経の中に、「三句の法門」という密教の修行者の一番の原点である3つの言葉があるんですね。「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟(くきょう)とす」という言葉です。

まず最初に、私たちの命が私たちの個体性を超えたものだという気づきがある。我々は自分の1つの身体を持っていて、生命を維持するためにご飯を食べて、けがをしたら自分の個体が治るように、まずは生物学的な「自分の身を守る」ということを第一義的に考える仕組みになっています。

だけど、自分のこの命が、個体を超えて先祖から代々つながれて、またこの次につながっていく、といった命そのものの大きな根源性に気づいて、その命から自分を超えた他者に対して、気持ちを向け直していく。そこにまず「菩提心」というものが宿るわけです。

そこから、命においてつながっている他者に「大悲」という「絶対的な共感」を持つことにつながる。この「大悲」の「大」というのは、「比較や相対ではない」というニュアンスです。

「慈悲が成立しない」とか、「こういう慈悲があればこういう効能があるだろう」というものはある種の相対的な関係性にあるわけですけれど、私たちが「仏」と呼ぶ存在の、本当の慈悲的なものは、相対的なものを超えて絶対性を帯びているわけですね。

「慈悲が成立するか成立しないか」ということは、もはや関係がない。ただひたすら自分および、自分を包摂するすべての生きとし生けるものに対する共感を「大悲」というふうに観念するわけです。その「大悲」をもとに、自分自身を磨いて修行を成就するための努力をしていくということで、「方便を究竟とす」ということになります。

これはある種の宗教性の目覚めから、自分を超えた命への気づき、さらに他者性への共感、そして自らが道に入っていくという、大きな普遍的なプロセスを描き出している3つの言葉なんじゃないかなと思うんですね。ですから、我々だけが受け手じゃないんですね。

たられば:あー、なるほど。

飛鷹:実は我々も与える存在であるし……。これは弘法大師も言っていますけど、すべての生きとし生けるものが、自分の「四恩」なんです。

「四恩」というのは、自分を支えたり生かす存在のことを言いますけれども、そういった存在があればこそ自分は生かされている。だから自分は、そういった人たちのために供養もするし、尽力もするというかたちになっています。

ですから、仏の慈悲は絶対的なものなんだけど、その仏も我々、すなわち「衆生」(注:人間をはじめ生命のあるすべてのもの)がいるから、そういった施しをするという、1つの大きなダイナミズムの中に関係性があると思うんですね。

だからおそらく、私やヤンデル先生が送り手で、おかざき先生が受け手という構図だけではなくて、実はそこには非常に大きなダイナミズムがあるのだと思います。ちょっと話が長くなりますけど、先ほどおかざき先生がおっしゃった田中雅博先生のシンポジウムは「臨床宗教」がテーマだったんですね。

つまり「宗教者がいかに臨床の現場に入っていくのか」ということが大きなテーマだったわけなんですけど、そこで宗教者がやることはもはや説法ではなくて、「相手の人生の物語をいかに聞くか」という「傾聴」することが大事なんです。

そうすると、もはや我々が何かを与えるのではなく、我々自身がその人の生きた物語を与えられているとも言えるわけです。ですから、そうやって与えて与えられるという1つの大きな円環的な関係の中に、おそらく「慈悲」というものの1つの運動があるんじゃないかと思います。

おかざき:なるほど。

飛鷹:だから「慈悲」というのは、ベクトルがAからBに行くというように、起点と終点があるものではなくて、ある種の止まらない1つの運動体と考えたらいいんじゃないかなと思いますね。つまり、命そのものの動きに「慈悲」という1つの形容詞がついていると考えたらいいのかなと思います。

お互いが与え合う関係の中に「慈悲」がある 医療と和尚と命の話

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砂漠の狐と紅の豚 1

2022-02-04 02:09:14 | 

Namibia: Live stream in the Namib Desert


ナミビアのナミブ砂漠にある人工池のライブカメラ。遅ればせながら最近知ったのですけど、これ、楽しいですね
野生動物好きにはたまらん。
何を隠そう(別に隠してないが)、私は子供の頃から野生動物の番組を見るのが大好きで、アラスカに行ったのも第一の目的は星野さん、第二の目的はデナリ国立公園でオオカミを見ることだったのだ。アフリカのサバンナや砂漠は長年行きたいと思いつつ、いまだに行けていない。
FAQによると、この人工池はthe Gondwana Namib Parkというthe Namib Naukluft Parkに隣接する私有地の中にあるそうで、ここから8kmのところにはThe Namib Desert Lodgeというロッジがあり、宿泊客は電動自転車でこの辺りを散策できるそうな。うーむ、野生動物と人間の距離があまり近くなりすぎるのはお互いの為に良くないと思うがなあ…。共存とは親密になることではなく、それぞれの世界を尊重して生きることでしょうに。

さて。
今日の昼頃(ナミビアは夜明け前)に覗いてみると、一匹のイヌのような動物が水を飲みに来ている
近くに仲間の姿はありません。
こちら↓が、そのスクショ。現地時間の午前4時過ぎ。



調べたところ、耳の形や毛の色合いからBlack backed jackal(セグロジャッカル)のようです。
アラスカで見たオオカミや他の動物達もそうだったけど、野生動物って動物園の動物とは動きや空気が違いますよね。生き生きしているけど、常に神経を周囲に張り巡らしているような。美しいんだよねえ。

しばらくすると、夜が明けてきました。

美しいねえ、砂漠の夜明け。。。。。

14時頃(現地時間)には、ダチョウのファミリー↓がいました。
水浴びをしているのがお母さん、手前の色の濃いのがお父さん、右手のちっこい三羽が子供達です。子供達、ずっとお父さんの後をくっついて歩いていて、可愛かった



そのちょっと後に来たオリックス↓。
このライブカメラで一番よく見る動物です。



19時頃、再び姿を見せたセグロジャッカル↓。
主に夜行性で昼間は巣穴で休むそうなので、これからが彼らの時間ですね。




夜中に砂漠の中を一匹で歩いているジャッカルを見ながら、サン=テグジュペリを思い出していました。
『星の王子さま』のキツネよりも、『人間の大地』のフェネックの方を(まあキツネのモデルがフェネックなんですが)。
フェネックは、北アフリカのサハラ砂漠などに生息するイヌ科の動物で、世界最小のキツネの仲間。
サン=テグジュペリはキャップジュビーで飛行場長をしていた時にこのフェネックを育てていたことを家族への手紙に書いていますが、『人間の大地』の中ではリビア砂漠に不時着をしたときの描写にこの動物が登場します。水も食糧もなく、夜明けの砂漠を人影を求めて彷徨うサン=テグジュペリ。そこで彼は、一匹のフェネックの足跡に出会います。

 ここにあるのは生命のサインだ。それが僕には心地よい。喉の渇きもしばし忘れる。(中略)僕はフェネックの足跡を辿って、結局、巣穴に戻ってくる。おそらく巣穴の中ではフェネックが僕の足音に怯えながら、じっと聞き耳を立てているだろう。僕はフェネックに話しかける。「僕のかわいいキツネさん、僕はもうだめだよ。だけど、妙なものだな。もうだめだっていうのに、君のご機嫌が気になるんだからな」
 僕はそこに立ちどまって、夢想に耽る。どうやら人間というのはどんな状況にでも順応してしまうものらしい。三十年後に死ぬかもしれないという考えは、そう考える人の今この瞬間の喜びを損ないはしない。そして、三十年後だろうが、三日後だろうが……つまるところ、遠近法の問題だ。
 ただ、そう言い切ってしまえるためには、いくつかの面影を忘れ去らなければならないが……。
(光文社古典新訳文庫『人間の大地』「VII 砂漠の中心で」より)

彼は自分自身のためではなく、その”面影”のために生きるのを諦めてはならないのだと感じます。

 もちろん、僕は一つの明白な事実をすでに知っていた。この世に耐えられないことなど何一つない、という明白な事実を。明日も、明後日も、僕はやはり耐えられないことなど何一つないのだと身をもって知ることになるだろう。拷問の苦しみにしても、僕は本気でそれが耐え難いものだとは思っていない。(中略)それでもなおこの世に耐えられないことがあるとすれば、それはこれだ。僕は僕を待っている人の目を思い出す。すると、そのたびに焼きつくような痛みを感じる。突然立ち上がって、走り出したくなる。あそこで誰かが助けを求めている!
(同上)


砂漠が美しいのはなぜか。それは、どこかに井戸を隠しているから——。

 一見したところ砂漠は沈黙と空虚以外の何物でもないが、それは砂漠が行きずりの男に体を許したりはしないからだ。何の変哲もないフランスの村でも、生きずりの男に体を許したりはしない。僕らがその村のために残りの世界のすべてを放棄し、村の伝統と習慣に帰依しない限り、そして村の敵を僕ら自身の敵としない限り、なぜその村がある人々にとって心の祖国たり得ているのかは謎に留まる。あるいはこう言った方がいいだろうか。僕らのすぐそばに、自らの僧房に閉じこもり、僕らの知らないルールに従って生きている男がいるとしたら、その男は本当はチベットの僻地、どんな飛行機でも辿りつけない遠隔の地をさすらっているのだ、と。男の部屋を訪ねたところで何になろう。部屋はからっぽだ。というのも、人間の王国は心の中にあるからだ。人間の王国としての砂漠を構成するのは砂でもトゥアレグ人でもムーア人でもない。たとえそのムーア人が銃を持っているとしても、だ。
 とはいえ、今では僕らも渇きを知っている。今なら、かつて目にしたあの井戸が、じつは広大な空間に光を投げかけているのだということもよく分かる。姿の見えない一人の女性の存在が、家全体に愛の魔法をかけるようなものだ。井戸の放つ光も、愛の力も、どちらもはるかかなたにまで及ぶのだ。
(同上「VI 砂漠にて」より)

紅の豚まで話がいく前に長くなってしまったので、続きは次回に。
ところで、東京の井の頭自然文化園ではフェネックを見られるのだそうです。わ〜見たい!
って、コロナで閉園中か・・・

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日本より頭の中のほうが広い

2022-02-01 23:04:34 | 

「お互いは哀れだなあ」と言い出した。「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、――あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」と言ってまたにやにや笑っている。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。
「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、
「滅びるね」と言った。――熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。悪くすると国賊取り扱いにされる。三四郎は頭の中のどこのすみにもこういう思想を入れる余裕はないような空気のうちで生長した。だからことによると自分の年の若いのに乗じて、ひとを愚弄するのではなかろうかとも考えた。男は例のごとく、にやにや笑っている。そのくせ言葉つきはどこまでもおちついている。どうも見当がつかないから、相手になるのをやめて黙ってしまった。すると男が、こう言った。
「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言った。「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」
 この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯であったと悟った。

(夏目漱石『三四郎』より)

ああ…、『三四郎』好き!
広田先生好き!特にこの冒頭の汽車の場面が好き!
上記は読みやすい新仮名遣いで載せたけれど、旧仮名遣いの「亡びるね」が断然好き。
ちなみに辻仁成さんが最近パリで飼い始めたワンちゃんの名前は、三四郎。仁成さんも『三四郎』がお好きなんですって

さて、相変わらずストレイ・シープな私ですが、最近再び英語の勉強を始めてみたのです。最近コロナ禍であまり使ってないですけど、今の会社にいる限りはどうせずっと必要だし。
とりあえずリスニングの訓練を、とyoutubeでこの映画↓を見てみたのです(本当は現代ドラマとかの方がいいのでしょうが、好きなものじゃないと楽しくないし)。

SHERLOCK HOLMES MOVIES | THE HOUND OF THE BASKERVILLES (1939) | classic movies | Basil Rathbone


私の中でホームズというとジェレミー・ブレットのシリーズやBBCのラジオドラマシリーズなんですけど、このベイジル・ラスボーン&ナイジェル・ブルースもいいねえ
私が生まれるより40年近くも前の作品とはとても思えない。1939年というと、第二次世界大戦の開戦の年でしょう。その年にアメリカはこういう映画を作っていたのだものなあ。その後の太平洋戦争中もこのシリーズはずっと途切れずに作り続けられていたというのだから(日本が贅沢は敵だ!とか一億玉砕!とか叫んでいた頃に)、日本は戦争に負けるわけだわよ。
そしてコナン・ドイルが亡くなったのが1930年なので、そのわずか9年後の映画ということになる。
漱石がロンドン留学をしていたときに、ホームズもベーカーストリートにいたんですよね。もちろんフィクションの世界の話ですけど。しかし漱石はドイルやホームズについては完全スルーなのであった…

『バスカヴィル家の犬』の舞台はダートムーア。私、イギリスのムーアの景色が大好きでねえ。。。在英中にヨークシャームーアには行けたけれど、ダートムーアには行けなかったのが心残りです。ああいう北の荒涼とした風景が好きなんです。アイルランドもスコットランドも好き。だからスイスよりアラスカ派。いま日本で最も行ってみたいのは道東。真冬の釧路湿原とか摩周湖とか行きたい

しかし、少し英語から離れていただけで恐ろしいほど単語を忘れている自分に驚く・・・。かつて普通に使っていた単語も忘れるなんて・・・。英語の単語って忘れるものなんですね・・・。日本語の単語はどんなに長く使わなくても忘れないのに・・・。
うちの上司、昔は米国で働いていて英語も毎日苦もなさそうに話してるんですけど、外国人と食事に行くときにいつも自分一人じゃなく誰かを連れて行こうとするので一度理由を聞いたら、「食べながらずっと英語を話しているのは疲れるから」と。この上司でもそうなのか。ネイティブと同じ感覚で話せるようになるには10年向こうに住むことが必要と聞いたことがあるけど、本当にそうなんでしょうね。。。私には一生無理だ。でもまあ、頑張ります。。。

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