風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

サイゼリヤ

2020-10-24 02:02:52 | 日々いろいろ

皆さん、こんばんは。
突然ですが、今回の話題はサイゼリヤです。
うちのすぐ近くにあるのです。
夕飯を作るのがメンドクサクなったときに時々行くのです。
また私は読書が趣味ですけど、家にいると本ってなかなか読む気にならないんですよね。みんなそう言いますよね。何故でしょうね。
そんなときに便利なのが、サイゼリヤ。カフェでもいいけど、ここなら食事もとれて、2~3時間いてもイヤな顔をされなくて、今の時代感覚でコスパ最強レベルだと思うの。
というわけで応援の意味も込めて、ワタクシ的おすすめメニューをご紹介させておくれ。
SNSに腐るほど溢れてる情報と変わらないが、書きたいので書かせておくれ。
(ちなみにここのハンバーグやチキンやパスタは、わたくし的にはでございます。。。)


ほぼ毎回頼む、グラスワイン(白)


ミニフィセルにサラミ&ルッコラを挟んで、オリーブオイル&シチリア産岩塩に付けて食べると、うま~い


SNSで「ロシアの味」と評されていたので頼んでみました。
ロシアの味かどうかは行ったことがないのでわからねど、とっても好みな味のマッシュルームスープ


わたくし、羊肉が大好物なのです
ニュージーランドでは旅先の全ての街でラムを食べ、お土産もNZ航空の機内販売の冷凍ラムだったほどです。
なので普段もスーパーでラム肉を買って自分で料理しますし、サイゼリヤのラムが特別美味しいわけではないのだけれど。
付属のこの「やみつきスパイス」が、、、うま~い
これだけ容器で売ってほしい。 ※2021.1追記:スパイスだけテイクアウト販売してくれていました(300円)!


やはりSNSで「醤油に豆腐半丁が浮いている衝撃!」とそのサイズ感が表現されていたので、頼んでみました。
うん、本当に豆腐半丁だった(笑)
味もよき

以上6品が、ワタクシが昨夜食べたメニューでございます(ええ、昨夜も行ったんです)。
1,450円也(税込)。サイゼの割には結構いってしまったな。でも色々食べられてかなりお腹いっぱいになって、本も一冊読了できたので、満足満足





白ワイン+エスカルゴ+マルゲリータピザの組み合わせも、よく頼みます。
お腹があまり好いていないときは、ピザの代わりにセットプチフォッカ。









以上4品も、個人的にここのメニューの中で結構いける方だと思っている。







この3品は、まだ頼んだことがないけど頼みたいメニューです。ついいつも同じものばかり頼んでしまいがちなのよね 次回食べよう

以上、突然の一人サイゼリヤ談義でした。
週末前の真夜中に何をやってるんだか。
そうそう。私はできるだけ空いている時間に行って空いている席を選び、アルコール消毒も途中で何度もしながら食事をしています。皆さんももし行かれる場合はお気をつけを~!

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『引窓』『口上』『鷺娘』 @歌舞伎座(9月25日)

2020-10-19 19:14:01 | 歌舞伎




先月、歌舞伎座の九月大歌舞伎に行ってきました。
一年ぶりの歌舞伎鑑賞で、一年ぶりの歌舞伎座です。
歌舞伎を本格的に観始めて以来、こんなに間が空いたのは初めて。
とはいってもたかが1年ぶりにすぎないのに、この歳になると記憶力がポヤポヤで、「えーと、歌舞伎座ってどうやって行くんだったっけ?そうそう日比谷線だった」と危なっかしく電車に乗り。
ポケーと電車に揺られて、停まった駅のホームにふと目をやると――




・・・・・・・・。


こんな駅・・・あったっけ・・・
わたくし・・・コロナ禍の間にいつも通っていた駅まで忘れちゃった・・・?
とさすがに自分が恐ろしくなり帰宅後に検索してみたら(わたくしスマホではないので)、今年6月にできたばかりの新駅だった。
ほっ。。。

そんなこんなで辿り着いたコロナ後の歌舞伎座。
入口で検温があったり、1階売店以外の店が全部閉まっていたり、座席のソーシャルディスタンスとか決して以前と同じではないけれど。
客席に座って舞台を見下ろすと、「日常が戻ってきたんだなあ」と何とも言えないほっとした気持ちになれたのでした。
二度と歌舞伎座は開かないんじゃないかと心配になったときもあったことを思えば、こうして劇場が開いて、舞台でお芝居が行われて、客席に観客がいるというだけで、嬉しいです

【双蝶々曲輪日記 引窓】
吉右衛門は「三月大歌舞伎」の「新薄雪物語」に出演予定だったが、コロナ禍で全公演が中止になった。三月に同演目を無観客で収録して以来、五カ月余ぶりの舞台となる。
 「家で絵を描いたり、本を読んだりしていました」と自粛期間中の生活を振り返り、「役者は舞台の上でお客さまの支援のもとに生きている商売だということを考えていました」と心の内を明かす。「花火師がいくらいてもだめ。舞台で花火を打ち上げ、それを見ていただくお客さまがいてこそ舞台は輝く。『吉右衛門です』と言って絵を描いていてもだめなんです。舞台に上がらないと生きていることにならない」とも話し、「九月は挑戦。初舞台のような気持ちで臨みたい」と気持ちを新たにする。
東京新聞

この『引窓』という演目を私は今回初めて観たのだけれど、なんて美しいお芝居だろう。。。。。。
舞台は、秋の十五夜の前日の夕方。明日は仲秋の名月のお祭りの放生会が行われます。
二階の肘掛け窓に飾られた、薄と竜胆と小菊
家族が氏神様に頭を下げて感謝をする場面には、こうして無事劇場を開けることができたことへの感謝と重なって感じられました。

罪を犯し、捕まる前に一目会いたいと母(東蔵さん)を訪ねてきた、”実の息子”の濡髪(吉右衛門さん)。
濡髪を捕まえる役目を仰せつかっていたのは、”義理の息子”の十次兵衛(菊之助)。
血の滲む努力で貯めてきた自分の永代供養のお金を「未来は奈落に沈んでも、今の想いには替えられない」と十次兵衛に差し出し、濡髪の人相書きを自分に売ってほしいと懇願する母。当時の人々にとって来世での救いがいかに大事だったかを想像すると、それを犠牲にしても息子を救おうとする母親の愛情に涙。。。
そんな母(十次兵衛にとっても血は繋がらないけど母!)の想いを受けとめて、出世後の大事な大事な初仕事を諦め、人相書きを渡して逃走経路まで教えてあげる十次兵衛。
そんな十次兵衛に、自分は彼に捕まろうと決める濡髪。
そこに九つ(午前0時)の鐘が鳴る。引窓から差し込む月明かり。十次兵衛が濡髪を捕まえる役目を負っているのは、夜の間だけ。
「あれは九つではなく、明け六つ(午前6時)の鐘だ」と、「夜が明けて今日は放生会だから、放生をするのが決まりごと。勝手にどこへでも行け」と濡髪を逃がす十次兵衛。なんてなんて優しくて粋なの~~~!!!しかも菊ちゃん、廓遊びをしちゃう男にもちゃんと見える!雀右衛門さん(お早)も、元遊女にちゃんと見える!

血が繋がっていてもいなくても、美しく清々しく優しい人達ばかりのお芝居。
心が洗われました。
やっぱり歌舞伎はいい。。。。。。

17:25に『引窓』が終了すると、コロナ対策のため客もスタッフも役者も総入れ替えとなります。なので私のように続いて『口上』も観る客は、19:15までの1時間50分、外でぶらぶらしなければならないのである。私は売店でお土産を買ったり夕食を食べたりして時間を潰しました。

【口上、鷺娘】
再び入場して客席に行くと、舞台には「朝光富士」の緞帳がかけられていました。
こういう晴れやかなお目出度さ、歌舞伎の良さだよねえ。
そして緞帳が上がり、玉三郎さんがお一人だけ舞台に登場されて、『口上』。
ああ玉さま!お久しぶりでございます~~~~
懐かしい玉さまのお声に再びの、「日常が帰ってきたんだなあ」。
黒地に雪が降っているお着物がとっても素敵
ご自身の幼少の頃からの歌舞伎座への想いと今の世界を絡めたお話でホロリとさせつつ、しっかり笑いもとる玉さま(さすが)
今回口上で舞台に映し出された”バックステージツアー”は、「舞台は夢を見せる場所で、その裏側を見せるなんて無粋」という意見が出るのもよくわかるけれど、「今日まで役者としてこの場所で過ごしてこられたことを本当に幸せに感じている。それを客席の皆さまに少しでもお裾分けしたい」と仰っていたのは、玉三郎さんの心からのお気持ちなのではないかな、と感じました。玉三郎さんは歌舞伎の家のご出身ではないから、一層そういう思いがお強いのではないか、と。
続いて、『鷺娘』。
旧歌舞伎座でのさよなら公演の映像と織り交ぜながら、玉三郎さんご自身も一部を踊ってくださいました。
玉三郎さんは既にこの舞踊は踊り納めておられて、今回の口上でも「それをこうして再び踊らせていただくのはお恥ずかしいことではありますが」と仰っていたけれど、私は決して生で観ることは叶わないのだろうと諦めきっていた玉様の『鷺娘』を今回その一部でも観ることができて、本当に嬉しかったです。
個人的には舞踊としては『娘道成寺』の方が好きなのだけど、私は雪の演目が大好物なので、雪が降りしきる歌舞伎座の舞台にはうっとりでした。いつか生の長唄付きで通しで観てみたいな。誰かやってくれないだろうか。
最後は玉さまの舞台のお約束、複数回のカーテンコール(一回目は息絶えた姿のままでのカテコ)。
私は歌舞伎にカテコは絶対不要派なので正直なところ気持ち的に冷めてしまうのだけれど(歌舞伎はカテコがないから粋なのだ!)、最後のカテコで舞台中央に座った玉さまが両手で雪をかき集めるようにしてお辞儀をした姿がとても可愛らしくて、ちょっとキュンとしてしまったのでありました。

外に出ると、ライトアップされた夜の歌舞伎座。
鷺娘の絵看板の写真を撮る人達。
本日3回目の「日常が戻ってきたんだなあ」を実感。
「九月大歌舞伎」の懸垂幕がかかった歌舞伎座の建物がとても縁起よく見えて、色々なことを全部吹き飛ばしてくれそうで、見ているだけで上向きな気分にさせてもらえました。


©松竹
『引窓』の吉右衛門さんと菊之助。

©松竹
『口上』の玉三郎さん。
私は以前国立劇場のバックステージツアーに参加したことがあるので舞台裏の種明かしにはそれほどの新鮮味はなかったのだけれど(でも玉さまの滝夜叉姫を久しぶりに見られたのは嬉しかった♪)、この場面↑には「おおっ」となりました。客席からも「わぁ…っ」って声が漏れていましたね。歌舞伎座の客席から観る歌舞伎座の客席。不思議な感じがして、圧巻&楽しかったです。
そして玉三郎さんはこんな風に広い舞台の上にたったお一人でおられる姿が似合うな、と改めて感じました。お一人で歌舞伎座という大劇場の空間を支配してしまうオーラもそうだけど、孤高という言葉が似合う。ちょっと『天守物語』の富姫を思い出しました。でもニザさま達とワチャワチャしている玉さまも大好物ですけど

©松竹
歌舞伎座のコロナ対策はこんな感じ。
赤い布(お洒落)がかけられた席は非売で、前後左右が空席になっていました。


★オマケ★
歌舞伎の小道具も手掛けている藤浪小道具さんが、オンライン販売サイト「フジナミヤ」を開設されました。


これは・・・仮名手本忠臣蔵の五~六段目のあの財布
「例)中にお金を入れて、手を突っ込み、仮名手本忠臣蔵の定九郎ごっこをする。絵の具で血染め風にして、勘平気分を味わう。」だって

©藤浪小道具
こちらも同じく仮名手本の五段目から、イノシシのコースター!400円とお値段も手頃で可愛い
観劇の前後に木挽町広場で気軽に買えたら嬉しいなあ。

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オランダのパンダとかゴッホとか

2020-10-18 14:57:55 | 日々いろいろ



オランダのパンダ達、5月に赤ちゃんが生まれてたんだね
ママは上野のリーリーの妹なのだそうです。
一昨年にアムステルダムに行ったときに泊まった宿にアウエハンツ動物園のパンフレットがあって、宿のお兄ちゃんに「この国にもパンダがいるんだねー」と言ったら、「そうなんだよ、去年やってきてね。でも所有権は中国にあるからオランダのものではないんだよ」と笑っていたのを思い出しました。
アムステルダムでは演奏会以外に予定がなかったので近くだったら行ってもいいかなと思ったんだけど、兄ちゃん曰く「中央駅から鉄道で1時間半くらいかな?行きたかったら行き方を調べてあげるよ」とのことだったけど、断念。既にポーランドで歩きすぎて足が棒のようになっていたから、道に迷ったりしながら(←私の旅のデフォルト)動物園まで辿り着いて見学する気力と体力がなかった
でもこの映像を観ると、噂のパンダ御殿、やっぱりすごいねえ。見てみたかったな。パンダ達は中国から来るときはKLMに乗ってやってきたんだね
考えてみたら私、海外の動物園って行ったことがないんじゃないかしら。野生動物のいる国立公園はあるけども。
オランダのパンダ舎、良い環境だなあ。上野と大違いだわ。
赤ちゃんの名前はゴッホから一文字をとったんだね

ゴッホといえば先日シャンシャン観覧のついでに国立西洋美術館で開催されているロンドンナショナルギャラリー展に行ってきたのですが、その日のチケットは完売だったのにものすごく空いていて(事前予約制にしてソーシャルディスタンスをとりまくっていた)、どの絵も目の前で見放題で感動しました。まあロンドンではこれが普通なのだが。
今回来日しているゴッホのひまわりは、ゴッホがアルルでゴーギャンの寝室を飾るにふさわしいと自ら認めてサインを施した一枚。ゴッホやフェルメールを日本でこんなに空き空きで見られる機会は滅多にないですよ。The イギリスなターナー作品もありますし、東京会場は今日で終了ですが大阪会場はこれからなので、美術にご興味のある方はぜひ
会場に入ってすぐのカルロ・クリヴェッリの『聖エミディウスを伴う受胎告知』(1486年)もとても鮮やかで美しかったです。


ロンドン・ナショナル・ギャラリー展  全61点作品紹介 ムービー


ロンドン・ナショナル・ギャラリー展:オンライン・ガイドツアー




アムステルダムの宿にあった動物園のパンフレット。
しかし欧州の感染状況は第二波で大変なことになっていますね。オランダは14日から、ベルギーは明日から、全飲食店の営業停止だそうです。会合も4人までに制限されているそうなので、当然コンセルトヘボウも活動停止しているのでしょう。こんな時代がこようとは、2年前にミュージアムプレインのベンチにポケーと座っていたときには想像もしなかったなあ。今思えばハイティンクの引退は本当にギリギリセーフだったんですね。
日本もこれから本格的な冬に突入しますし、油断できませんね。

スーパーも映画館もある、認知症患者だけが暮らす「街」―「普通に暮らしている感覚」を提供するオランダの試み
今日のヤフーニュースに載っていた記事です。欧州の福祉におけるこういう姿勢、いつも素敵だなと思う。日本や韓国などアジアからも視察が来ているとのことなので、日本でもこういう試みが実現するといいですね。

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世界は知らないことであふれてる 2

2020-10-17 12:46:14 | ミュージカル

Les Misérables (2012) - Epilogue Scene (10/10) | Movieclips



私がレミゼの"To love another person is to see the face of God.の部分で感動するのは、一般的には決して幸福とはいえない人生を歩んだファンテーヌやエポニーヌやバルジャンが、最後にこの言葉を言うところにあるのですが(映画版ではエポニーヌの代わりにミリエル司教になっていますね)。
なんとなく気になってこの言葉を検索してみたら、映画版でバルジャンを演じたヒュー・ジャックマン(関係ないけど私はヒューが好き)のこんなインタビュー↓が出てきたのです。

I was struck in this iteration of Les Miz by how religious a story it is.

I like to think of it in modern-day sense — of course Hugo talks about Valjean undergoing not just a transformation but a transfiguration. He transforms in such a complete way that it’s religious in nature, not just emotional or physical. I think in some ways Hugo was attacking the church at that point, for being so exclusive. For Hugo, the line was “To love another person is to see the face of God” — that religion needed to be less about rules and sermons and more about practical love and the example of Jesus Christ. That’s the last line in the musical. I think it really annoyed the church! It was quite an attack.

Is Valjean someone we should learn from?                                           

Yes, and for me, it’s the same example I got from my father. It’s a great honor to play someone like Jean Valjean, but it’s a daily reminder of how far you have to go as a person. It’s a really weird thing, playing Valjean and in between breaks going to your luxurious trailer just off set, like, Where the hell is my Evian? [Laughs.]

Tom Hooper said that it’s always difficult to play the good guy. How do you introduce complications to a character like that?

The trap with Valjean is that he can become kind of boring and saintlike after the first 10 minutes. He has a pretty massive transformation early on, going from being wrongfully imprisoned but still a kind of animal-like, voracious figure, and stealing from the man who gives him clemency and feeling the shame of that. The easy thing would be to play the saintlike figure throughout. That’s kind of dull. One thing that Hugo writes about at incredible length in the second half is Valjean’s relationship with [his adopted daughter] Cosette, and how complicated it is. Here’s this man at 51 who experiences love for the first time in his life — an avalanche of feeling and all the complications that come with that. As we all know, as human beings, once you know happiness, you’re terrified of losing it.

Hugh Jackman: Les Miz’s Leading Man Talks to TIME(2012)


「"To love another person is to see the face of God.”の言葉は、実践的な愛やイエスの模範よりも規則や説教に重きを置きすぎて排他的になっていたカトリック教会に対する、ユゴーの痛烈な批判だったのだと思う。」と。
へえ、面白いな~
日本人で無宗教の私は「キリスト教」とすぐに一括りにしてしまう悪い癖があるのだけれど、レミゼに限らず、こういう作品であちらの人達のインタビューを読むとさらに突っ込んだ解釈をしていますよね。キリスト教徒にとってもそうでない人にとっても、それだけキリスト教が日常に溶け込んでいるからなのでしょうね。
世界は知らないことだらけ。だから面白いのかもね。

ヒューは8歳から男手一つで自分を育ててくれた父親をバルジャンと重ねていて、「So church was a big part of our lives, though I don’t think I ever really heard my father talk about God or religion necessarily. He was just one of those quietly religious people who believed actions spoke louder than words.」と。

そしてバルジャンは聖者のように演じてしまうと退屈な役になってしまうのだ、と。「One thing that Hugo writes about at incredible length in the second half is Valjean’s relationship with Cosette, and how complicated it is. Here’s this man at 51 who experiences love for the first time in his life — an avalanche of feeling and all the complications that come with that. As we all know, as human beings, once you know happiness, you’re terrified of losing it.」と。私もそのとおりだと思う。弱いところもある人間らしいバルジャンだから、私達も自分に重ね合わせて感動することができるのだと思います。

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世界は知らないことであふれてる

2020-10-17 00:02:58 | ミュージカル



Do you hear the people sing?
Singing a song of angry men?
It is the music of a people
Who will not be slaves again

When the beating of your heart
Echoes the beating of the drums
There is a life about to start
When tomorrow comes...

ミュージカル『レ・ミゼラブル』の英語版の作詞者であるHerbert Kretzmerさんが、10月14日に亡くなられたそうです。
実は私、このニュースで初めてレミゼの初演が1980年のパリで、1985年のロンドンプロダクションはその大幅な改訂版だったということを知ったのでありました。
大ビックリ
世界は知らないことだらけ。
ラミンが時々仏語で歌っているのも、きっとオリジナルバージョンを歌っていたのだね。

といってもこの作品がここまで世界中で愛されるようになったのはロンドンプロダクションを製作したCameron Mackintoshの手腕はもちろん、Kretzmerさんの書いた英語版の歌詞の素晴らしさによるところも大きかったろうと思います。
Kretzmerさんはインタビューで、「その作業はただ仏語を英語に翻訳すればいいというものではありませんでした」と。「言葉というのは一つの文化の中で共鳴するものであって、他の文化でも同じようにいくわけではありません。だから私はユゴーの小説から読み、自分の言葉でその物語を語り直したのです」と仰っています。
日本語版は歌えない私でも、英語版の”Do you hear the people sing?”は風呂場での定番ソングです(ええめっちゃ一人で歌ってますが何か?)。韻が素晴らしくてゾクゾクするんですよね。なのにわざとらしくなくて。
ミュージカル中盤の革命の場面で歌われるのも好きですが、エピローグで歌われるこの曲もとても好き。
今はもう死んでいる学生達の遠くから聴こえてくる微かな歌声が次第に力強さを増して、そこにバルジャン達が加わって。一人一人は弱い存在である彼らが一つの大きな力となってその歌声が高らかに響き渡るラストの素晴らしさといったら。
今ではすっかり代表的なプロテストソングとなり、香港デモなどでも繰り返し歌われています。
この曲がプロテストソングとなることが良いことなのかどうかはわかりませんが、自由を求めて巨大な権力と闘っている人達を世界中で勇気づけていることは確かでしょう。私も何度勇気をもらえたことか。

Herbert Kretzmerさんのご冥福をお祈りいたします(無神論者とのことですが…)。

Les Misérables " Epilogue . Finale

私の好きなエピローグの場面。和訳あり(ちょっと微妙な訳だが…)。
1995年にロンドンのロイヤルアルバートホールで行われた10周年記念コンサートより。
この10周年の出演者、みんないいよね。コルムさんもレアも素晴らしい。
何度も書いちゃいますが、バルジャンやファンテーヌやエポニーヌのような一般的には決して幸福とはいえない人生を送った人達が最後に「To love another person is to see the face of God.(誰かを愛することは神に出会うこと)」と歌うところに、涙。。。 
これはキリスト教世界の物語で、私はKretzmerさんと同じく無宗教だけれど、愛は宗教を超える。。。

Les Misérables (2012) - I Dreamed A Dream Scene (1/10) | Movieclips

2012年の映画版より。"I dreamed a dream"。
決して好きな映画ではないけれど、これは好きな場面の一つです。アン・ハサウェイがアカデミー助演女優賞をとったのは、このシーンが理由だろうと思っている(ご本人はこの映画での演技に納得がいっていないそうですが)。
wikipediaによるとアンは「カトリック教で育ったため修道女になりたかったが15歳の時に兄がゲイだということを知り、兄の性的指向を認めない宗教には属せないと感じその道を諦める。それをきっかけに彼女を含めた家族全員がカトリック教会から離脱した。」とのこと。


Herbert Kretzmer, Lyricist for ‘Les Misérables,’ Dies at 95(The New York Times)
Herbert Kretzmer: Les Misérables lyricist dies aged 95(BBC news)
How we made Les Misérables(The Guardian, 2013)

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河合隼雄 『泣き虫ハァちゃん』(2007年)

2020-10-15 19:57:44 | 




私が本当に疲れて 
生きることに疲れきって

空からも木からも人からも 
眼を逸らすとき

あなたが来てくれる 
いつもと同じ何食わぬ顔で

駄洒落をポケットに隠して・・・

(本書巻末に寄せられた詩、谷川俊太郎「来てくれる~河合隼雄さんに~」より抜粋)


河合さんが亡くなるまで連載されていた、最後の本です。
未完であることがとても残念で「続きが読みたかった!」と強く感じてしまう、でも未完であることも含めて人生の大切なことを教えてくれるような。河合さんという人の瑞々しさと温かさがいっぱいに詰まった、かつては子供で今は大人になった人達みんなの”たからもの”のような本。

以前も書いたように私が河合さんの本を読もうと思ったきっかけは谷川俊太郎さんからで、河合隼雄財団の記事によると、谷川さんは河合さんの「数少ない、親しい友人」だったのだそうです。
谷川さんはともかく(失礼!)、河合さんはお友達が多そうなイメージがあったのでちょっと意外だったのだけれど、でも前にも書きましたが、このお二人はよく似ているように感じます。
性格的な飾らなさもそうだけど、根本のところに感じる静けさというのかな。そういうところがよく似ているように思う。
それはユングの言う自己という部分かもしれないし、魂と言われる部分かもしれません。
そういう二人がこの世界で出会えたというのは素晴らしいことだな、と感じました。

この本には心理学の難しい話や専門用語は一切でてきません。
ご自身の幼少期の体験をもとに書かれた大人の童話のような本で、岡田知子さんによる優しい挿絵もこの本にとてもよく合っています。
でも多くの童話がそうであるように、簡単な言葉の中に、人間や人生の大切なものを見つけられるような、そんな本です。
心理学に興味がない方にも、多くの方におすすめしたい本。

しかしこの本が刊行されたのが2007年で、最近までその存在も知らなくて、私がまだ巡り合えていないこういう素敵な本が、世界にはまだまだいっぱい埋もれているのだろうなあ。自分の人生のうちでそのうちのいくつと私は出会えるのだろう、とそんなことを思ってしまった。これまで読んだ私の好みの本を入力すると超高性能AIが私の好きそうな本を見つけ出してリストアップしてくれたりしないかしら、とか、先日身体を動かすことの重要性に気づいたばかりなのにすぐそんなことを考えてしまう怠惰な私でありました。時々アマゾンが「あなたにオススメ!」とか薦めてくる本は、なんか違うのよね…。やっぱり図書館に足を運ぶしかないか。

河合さんは沢山の本を書かれているようなので、またの機会に他の本も読んでみたいと思います


・・・話は河合隼雄との出会いから始まった。
谷川さん、いちばんはじめがいつだったのか、詳しくは忘れてしまったらしい。
けれど、アメリカで勉強して、スイスで勉強して、エライ資格をもった人がくるんだ、ということで
緊張していたら、「村人」のような人がきた、と思ったそうだ。
これは「とうてい街の人ではない」と。

それにしたって、親しみやすさは谷川さんも同じだ。
谷川俊太郎といえば、知らない人はいないのではないか、
谷川俊太郎の詩に触れたことのない人などいないのではないか
というほどの偉大な詩人であるのにもかかわらず、
きっとこの人は誰に対してもフラットなんだろうと思わせる。
谷川さんは河合隼雄を「無私」と評したが、それは、谷川さんだってきっと同じなのだ。

インタビューの中で、谷川さんと河合隼雄が、どこがどうとは言えないけれど、
同じ部分が大きいと、何度もそんな話になった。

(中略)

谷川さんが詩について語ったことばが印象的だった。
詩は、道ばたに生えている雑草のようであればいい
花が咲いたらきれいだと思うでしょう、
そこに美しいことばが存在しているな、
詩は、そういうものであればよいのだ、と。

谷川さんは「詩」、河合隼雄は「物語」の人だ。
しかし、ことばの、にんげんの、こころの美しさを
ただそっと見つめ、その美しさを愛でることに誰よりも長けている二人なのだ、とそう思わされた。

(河合隼雄財団『詩の朗読とインタビュー「谷川俊太郎さんに聞くー河合隼雄との思い出」』より。2015年)



最後のページのこの絵に、ご家族や河合さんと交友のあった方達の全ての想いが込められているように感じられました。

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河合隼雄×谷川俊太郎 『魂にメスはいらない ―ユング心理学講義―』(1979年3月刊行)

2020-10-14 22:18:00 | 




河合:ぼくの理解している範囲で言うと、結局、治療の基本の筋になるのは、自分自身で困っているような行動をとる原因が自分の内面のどういうところにあるかを自分で了解することだというふうに感じるんです。……ところが、なかなかそう事は簡単ではないんですね。
外傷体験を思いだして「それだ」と言っても、治らぬ人がいるわけです。そうすると、これはもっと考えにゃならん。そこで精神分析ということが出てきて、その人の無意識的な内容をいろんな形で取りだしてきて、それを何とか理論づけていったわけですね。その理論づけの仕方をフロイトはフロイト流に、ユングはユング流に、アドラーはアドラー流にやった。……ここからはユングというよりぼくの考え方になりますけど、ぼくはこう思うんです。
たとえばいま正常に生きている人は、そんな自分のことを深く意識してないわけでしょう。……内面に生じる変化を意識しはじめた人のほうがつまづくわけでしょう。
そういう意識した人としない人について、価値的な判断は一切できませんね。問題を起こした方が病的である、病的であるからおかしいという価値判断を下すのは、絶対ぼくは反対なんです。
…ぼくの考えでもっと根本的に言えば、治るのはその人が治るわけでしょう。つまりその人が自分の人生を歩むわけだから、要するにぼくは何もできないわけですよ。ただし非常に不思議なことに、ぼくという人間が横にいるということはすごいことなんです。治るということは誰しも苦しい歩みを続けるのだから、そこに付き添う人があることは測り知れない大きい意味を持つのです。

・・・・・

河合:われわれの仕事というのは結局、患者に対して何もしないということなんです。相談されても「はあ」とか「ふーん」とか言うだけで、その人が自己治癒していくさまを感激して見ているんだから。このごろは何かしてくれる人が多くなりすぎたもので、何もしない人のところに、金を払って時間を決めてわざわざ行くようになったわけです。

谷川:……ぼくは河合さんと患者さんが話すということは、広い意味での人生相談だと理解しているんです。それが新聞の人生相談なんかと決定的に違うのは、活字なんかをとおしてじゃなくて一対一で肉声をとおして何度も話し合うということと、簡単にこうしろとかああしろとか絶対に言わないということの二点だろうと思うんです。

河合:ああしろこうしろなんて言えないんです。それはわれわれには自明のことですから、何も言わないということに対してすごく安定感を持っているんです。普通の人は不安で、つい何か言いたくなってくるんですが、ぼくらは本当に平気で「ああ、そうですか」「はあ」とだけ言って、最後に「また来週」となるわけです(笑)。これができるようになるにはやっぱり相当鍛えられないとね。

・・・・・

河合:ユングが一番大事にした元型というのは、先ほどから言っている「自己」ですね。元型にはシャドーとかいろいろあるけれども、そういうものを全部統合して、意識も無意識も含めた全体の中心にあるものを”真の自己”と呼んでいいんじゃないかと言うわけです。おもしろいのは、ユングのそういう考えの根本には、東洋的な思想があったんです。
ユングは、経験的に”真の自己”の存在を感じていて、そのことをずいぶん考えていたんだけれども、西洋にはそういう思想の伝統がありませんから、ずっと黙っていたんです。ところが中国の本なんかを読んでみた結果、こういう考え方は世界的なものだと確信を持つようになって、自己ということを言いだす。

谷川:ユングが言う自己というのは、一つの肉体を持った人間の中で閉ざされたものであると同時に、すべての人間と共通の土壌を持つ開かれたものでもあるわけですか。

河合:そうです。そこに非常なパラドックスがあるんです。ユングの言う自己というのはあいまいでわからないから、もっと具体的に説明してくれと生徒に質問されて、ユングは「皆さんは私の自己です」と言ったそうです。つまり、自分が自分の真の自己につながろうとするということは、皆さんとつながらないとできないことであると。

谷川:禅問答すれすれのところまでいくわけですね。

河合:そうですね。だからそういう点が、ユングに対する好ききらいの分かれるところでしょうね。その点フロイトの方が論理的にわかりやすいです。考えてみたら、あれほどむずかしい無意識の世界の解釈を、きちんと概念で構築してわれわれに見せてくれるというのはすごいものですね。ところがユングのほうは、無意識の世界というのはもともと矛盾していると思っているわけだから、平気で矛盾したことを言って暗喩の世界の中を堂々めぐりしながら、何かをつかむという方法をとる。たとえば彼は、自己なら自己そのものというのは理解することはできない、ただその周りを回るだけだというような言い方をするんです。

・・・・・

河合:感情の中にはいま言われたように相反したものがある。それが全体として統合されていくことをエモーショナル・インテグレーションと言うんですが、これができている人は非常に強いし安定感があるんです。
ところが、エモーショナル・インテグレーションが行われようとする過程で、失敗することが多い。なぜかというと、みんなネガティブな感情を抑えようとしすぎるんです。……そういう感情が抑圧されてたまってくるんです。その抑圧されたものが洗練されない形でダーッと出てくると、非常な破壊力を持つわけです。
ぼくはそういうネガティブな感情も、あるものはあるものとして率直に受け入れる方が、全体としてのインテグレーションが上手くいくんじゃないかと思っているんです。だからネガティブなものもポジティブなものも同時に働かせながら、どう全体として統合するかが問題なんじゃないでしょうか。

・・・・・

谷川:ぼくは詩を書きはじめた頃に、詩を書く一番もとになる心的なエネルギーは何か、と漠然と考えたことがあるんです。そのころ思ったのは、それはいわゆる感情というものではないんじゃないかということなんです。いわゆる感情というのは、ある意味では非常に卑俗なものですよね。……それよりもっと奥のほうの、ぼくはそのころ仮に「感動」と呼んだんだけど、感動みたいなものによってであると。
つまり感動というのは、表面的な感情とか心理的なものは当然含んでもいるんだけれども、もっと深いものであるというふうに考えていたんです。その、ぼくが仮に「感動」と呼んでいたものは、感情よりもっと深い意識下のものまで含みこんだ、容易に言語化できないものであるというふうに考えてもいいんでしょうか。

河合:そうです。そういう深いものを表現できれば、その表現は意識下にあるものをくみあげ得ている。しかし表層的な、スッと消え去るようなものだけ表わしてもあまり意味を持たない。

・・・・・

河合:……箱庭の話のときに、あまり破壊がひどいと止めるときがあると言いましたが、それは止めないと危ないからなんです。それは、やはり一種の愛情と思います。ただおっしゃるとおり、愛情の定義は非常にむずかしい。それともう一つ、「愛」という言葉を使うとすべてが終わってしまうんですね。ぼくは「出会い」とか「愛」とか「やさしさ」とか「実存」とか、そういう言葉をファイナル・ワードだと言っているんですが、ファイナル・ワードはなるべく使わないでおきたい。そういう言葉を使うと、心理学者としては負けじゃないかという気さえするんです。

谷川:そういうところも文学と似たところがありますね。…特に、文学などには関係のない若い女性なんかが「やっぱりやさしさが一番大事だと思います」とか……。しかし、そんな言葉を使ったら何も言えないんじゃないかと思うんです。

・・・・・

谷川:日本人には、こしらえものはだめだという傾向があるんですね。構造のあるものを書こうとするとこしらえものになるという必然性があるのならば、逆にこしらえものだということにきちんと腰を据えなければ結局アブハチ取らずになるんじゃないかという気がしますね。

河合:こしらえものというのはおもしろいんですよ。自然科学というのは、いわばこしらえものの学問でしょう。新幹線なんてこしらえものの第一級品でしょうね。だから、こしらえものはだめだと思うところからそもそも問題にすべきじゃないか。
ただ、偽物のこしらえものと本物のこしらえものというのは、どこで区別するんでしょうね。

谷川:本物のこしらえものというのは、どんな人間の現実感覚にも合致するものであるということが、まず言えるだろうと思うんです。つまり、こしらえものだから現実感覚を基礎にしないのかというと、それはむしろ逆で、普通の人間感覚が基礎になるから、こしらえものができてくるんだろうと思うんです。
だから、その作品をとおして作者のつかんできた現実が読者にも見えてくるようなこしらえものでなければ、本当のこしらえものとは言えない。その現実感覚も時代とともに変容しているでしょう。つまり、たとえば肉食をしなかった江戸時代と現代とでは、現実感覚の違いというのはあるはずですよね。だからその変容の度合いに従って構造的なものも成立するとぼくは思っているところがあるんです。
宮沢賢治の童話なんていうのは、そこのところが実にみごとだという気がするんです。
あれは本当のこしらえものなんだけど、現実そのものと言ってもいいぐらい現実に密着しているところがあるんです。下手な私小説よりはるかに当時の東北の現実をつかんでいますね。同時に、あれは日本の童話にしては珍しくストラクチュアのある童話ですが、ストラクチュアを持たせるために賢治は「イーハトーヴ」とか「ジョバンニ」というふうな、西洋だか何だかわからないような名前を使わなければならなかった。こういう工夫が必要なのは、現代でもおそらく同じなんだろうなと思うんです。
ただねえ、ああいうことができるのは賢治のような天才だけだという居直りもこちらにはあるんですけどね(笑)。

・・・・・

河合:ユングの自伝に出てくる話ですけれども、お母さんが亡くなったときユングは遠いところへ行っていて電報で死を聞いて引き返すわけです。そして汽車の中でものすごく悲しくなっていると、結婚式のにぎわいのダンスの音楽とか、そういう楽しげな音が心の底から聴こえてくるんです。この話が示しているように、結局死というのは結婚なんですね。
「トーデス・ホーホツァイト(死の結婚)」という言葉がありますけれども、死というのはこの世から離れてあちらへ結合に行くわけだから、言うならばこの世界の根底との最後の結合であり得るわけです。だから、死というものには非常に残忍で悲しい面と、非常にめでたい面とが共存しているとユングは言うんです。そういう感が方は、やはり大事なんじゃないでしょうか。

谷川:その考え方は世界的にあると思うんです。ニューオリンズでは葬送のときにジャズ・バンドがにぎやかに行進するということも、もしかしたらそれの一つのあらわれかもしれない。われわれ日本人の死生観の中にも、死というものが一種安心に通じているという感覚がどこかにあるような気がします。
たとえば墓参りするときも、ただ縁起が悪いとかいうんじゃなくて、どこか安心したいという感じがあって墓参りに行くということが、ぼくなんかの経験でははっきりあるんです。だから、そういう面から死というものをもういっぺん考えるべきじゃないか。死ぬということが単に生命がそこで断ち切られるだけのことだったら、これはもうどうしようもないんですけれども、やっぱりそういうふうなものだけだとは考えられないところがある。

河合:ですから、本当にこの世を豊かに生きようと思うならば、そういう目をとおして老いること、死ぬことを考えねばならないと思いますね。

谷川:この間、ぼくの知り合いで亡くなったジャズの女性歌手から転居通知が来たんです。その引っ越し先が富士霊園というところでして、実は急に思いたって引っ越しをしたと書いてある。そして、もう人を教えるのもめんどうくさくなったし、こちらは空気もきれいでとてもいいところだから、旦那にも来いと言ったんだけれども、旦那はまだいろいろ仕事があるから家のほうに残っている、電話は当分引けないけれども、よかったら遊びにおいでくださいと。要するにお葬式のお礼状ですよね。
ぼくはそれを読んでとても快かったというか、大したものだと思ったんです。そういう感じ方は不謹慎なんじゃなくて、人間がどこかで本能的に求めている感じ方なんじゃないかなという気がした。当人が前もって文面を遺しておいたのか、あるいは後に残った人たちが、あの人にはこういうのがふさわしいと思ってつくったのか、よくわからないけれど……。
それからもう一つ、昔の田舎の村には必ず頭のおかしい人がいて子供たちにとって楽しいトリックスター的な存在であった。それは、どこにでも共通にありましたね。

河合:そういう人たちは、神や仏の言葉も伝える役目も果たしていたわけですね。いまでもそういう人たちを含むことのできる共同体があればいいですよ。昔のように。しかし、村落共同体にしても、いまはそういう人を許容できないあり方に変わってしまった。たとえば、半分恍惚のお年寄りがフラフラ歩いていても、村全体が「ああ、あそこのおじいさんが歩いてるわ」というふうにへだてなく見ている村だったら歩けますよ。ところがいまは、外へ出てフラフラ歩いていたら自動車に轢かれてしまうから、家に置いておくよりしようがないですね。
ぼくが前から主張しているのは、こういう社会的なあり方をぼくらが選んだからには、そういう人たちに対する予算を非常に大きく取るべきだと思うんです。現在の社会は、そういう人たちを排除することによって繁栄しようとしているわけでしょう。排除するんじゃなくて、どういうふうに含んでいくかということに、もっともっと金を遣うべきだと思うんです。
まあしかし、すべての人をきちんと入れこむ社会をつくるというのもなかなかむずかしい。さっきのアフリカの話じゃないですけれども、年寄りがうまくいっているところは子供を殺していますしね。昔の大家族だったらお嫁さんが泣いていたでしょう。このごろお嫁さんが泣かなくなったぶん年寄りが泣いている。とにかく、誰か泣いている人が存在することによって社会が成立しているのは、やっぱりおかしいわけです。

谷川:結局、みんなが平等に少しずつ泣くというのが本当は一番いいんですね。

河合:そういうことなんですよ。みんなが泣きみんなが怒りみんなが笑い、というふうにならないとだめなんだけど、どうしても偏るんですね。だからこそ、なおみんなが努力しなければ、よりよい地点に社会がたどり着くことはできないんじゃないでしょうか。


引用部分が多すぎて怒られちゃうかな これでも泣く泣くだいぶカットしたんですが(神話の時代の詩人と前衛芸術についての話や、「時」と「解き」の話なども、とても面白かった)。。。
ご興味のある方は、ぜひ本書で全文を読んでくださいましm(__)m。
未来への記憶』に続いて私が読んだ、河合隼雄さんの本第二弾。
41年前、私が2歳のときに刊行された河合さんと谷川俊太郎さんの対談集です。
形式としては河合さんが谷川さんにユング心理学について講義をするというものですが、対談と呼ぶ方がふさわしい内容。そうなっているのは、谷川さんにもユングに関する前知識がおそらくあった上で踏み込んだ質問をされているという理由もありますが、なにより形式としては講師である河合さんがとても謙虚で、子供のような真っ新さを感じさせるからです。それは谷川さんについても同様で、そういう自然体な瑞々しさがこのお二人はよく似ていらっしゃる
また谷川さんの対談でいつも感じることですが、この本でも、私が「これを知りたい!」と感じることを谷川さんは実に適格に相手に質問してくださるので、読んでいてスッキリします。
このとき、河合さんは50歳、谷川さんは47歳。
41年前の対談ですが、上の引用部分を読んでいただいてもわかると思いますが、全く古さを感じさせない、そのまま今の時代にも通じる内容の本です。

ユングが言う”自己”(ユングは”自己”と”自我”を分けて考えています)について谷川さんが「一つの肉体を持った人間の中で閉ざされたものであると同時に、すべての人間と共通の土壌を持つ開かれたもの」という表現をされていますが、(私は心理学には全く無知ですが)これはユングが提唱した集合的無意識のことかな。
こういう感覚は私も子供の頃から感じているもので、中島みゆきさんの音楽や、谷川さんの詩にも通じるものがあるように思います(私が以前書いた記事はこちら→「昔から雨が降ってくる」、「対談と詩と音楽の夕べ「みみをすます」2」)。
そういえば河合さんは谷川さんの「みみをすます」の詩がとてもお好きで朗読者第一号になった方でした。河合さんはこの詩にユングに通じるものを感じたのかもしれません。あるいは河合さんご自身が生来こういう感覚を持っていらっしゃる方だから、ユングに惹かれたのかも。

しかしつくづく、こんな素敵な本が普通に置いてある図書館というところは、宝箱のような場所だなあ。
図書館の棚で偶然見つけていなかったら、河合さんの本を読むことは一生なかったかもしれない。最近は自分の興味のある本をオンラインで指定して図書館にはただ受け取りに行くだけというのが基本になってしまっていて、なかなか図書館の棚をゆっくりと眺めることはないのだけれど、そうしていると今回のような偶然の出会いは絶対に起こらないんですよね。自分の身体を使って世界を広げていくことの大切さも思い出させてもらえた、今回の河合さんの本との出会いなのでした。
そんなわけでもう一冊河合さんの本を読んだので、後日ご紹介させていただきますね
また「夢の解釈」についてもあれから色々感じたところがあったので、そのうち書ければいいなと思います。

そうそう、本書の題名『魂にメスはいらない』は、人間の自己治癒力についてのお話からだと思いますが、素敵な題名ですよね

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Happy Birthday 自分!

2020-10-07 21:15:26 | 日々いろいろ




44歳になりました。
私はいつもこの日はどういうブログを書いていたのだったっけ?と去年のブログを見てみたら、別に何もアップしていなかった笑。

なんというか、あっっっっという間だよね44年って。。。
私に子供とかがいたら違うのかもしれないけど、私の実感としては本当にあっっっっという間。
今日も今日とて日本は人身事故があちこちで発生。
なんかちょっとわかるよねえ、その気持ち・・・。
と、仕事で嫌なこともあり凹みまくっていたら、ピンポーンと玄関チャイムの音が。

ン?今日は何も届く予定なんてないぞ、と思っていたら。
友人がバースデープレゼントを送ってくれました
お菓子の詰め合わせと、手作りのマスクと、金木犀の香りのバスセット(後ろのみゆきさんカレンダーは別の友人からいただいたもの。写真に一緒に撮りたかったので)。
嬉しい。。。。。。。。。
毎日自ら命を絶ってしまう人達も、こういう一本のチャイムと温かな贈り物があるだけでその命を繋ぎとめることができたのではないか、と思う。
私も、誰かのそういう存在になれたらいいな、とそんなことを思いました。





この写真は、先日家族で行った某所より。
ていうか地元なんですけど、GoToキャンペーンというやつを使ってみました。
河相我聞さんが息子さんから「僕と一緒に旅行するならどこに行きたい?」と質問され、「どこでもいい」と。「旅行はどこに行くかより誰と行くかだから」とさらっと答えていて、なんか、そういうのいいな、と思いました。
私はまだどこに行くかも重要なんですけど笑、でもそういう気持ち、だいぶわかるようになりました。
44年かけて、私も少しずつ人間らしくなれてきているのかもしれない。それが私にとって良いことなのかどうかはわからないけど、嫌な気分ではありません。





でも一人で過ごすこういう朝の静けさも、私にとってはまだ大切なんです。
両方大切。
それでいいのではないか、と思う。どちらかを選ばなければならないとか、どちらの方が価値があるとか、決める必要はないのではないか、と。自然に湧き出る感情の流れに任せていればいいのではないかな、と。

そんなことを思った44回目の、この場合は45回目か、誕生日でした。
いやまだ3時間残ってる!
友人からもらった入浴剤のお風呂に入って、みゆきさんのDVDを見よう
そうそう、私は毎年この季節に咲く金木犀の花がとても好きなのですが、今日友人と叔母から「cookieさん、金木犀の花が好きだって言ってたよね」と言われ、そんなに私はあちこちで言っていたのか、と自分で驚きました。そしてそんな些細なことを覚えてくれている存在がいるということは、有難く嬉しいものだな、と感じました。

Comments (2)
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imperfect world ~ドラマ『未成年』~

2020-10-05 15:45:08 | テレビ

青春の輝き かあいがもん



先日ヤフーニュースで河相我聞さんのブログを知って、我聞さん懐かしいな~と読み始めたら意外な文才に思わず全部読んでしまった(我聞さんのブログはamebloとはてなブログの2つあります)。
その中にこんな記事がありまして、我聞さんはご自身が出演されたドラマ『未成年』の主題歌だった「青春の輝き」が大好きなのだそうで、それをカバーするためだけになんとピアノとボイストレーニングと英会話のレッスンまでしてしまったそうです
ドラマ『未成年』。
1995年、私が大学一年生のときのドラマで、我聞さんを始め主役の役者さん達も私と同年代でした。
懐かしいというより、今でも時々現在進行形で思い出す、私にとって特別なドラマです。このブログでも以前ご紹介しました。
主題歌は「I Need To Be In Love(青春の輝き)」、「Top of the World」、「Desperado」など全てカーペンターズの曲。
ていうか「この曲を歌いたい」という気持ちだけでピアノや英会話までやってしまう我聞さん、ナイス。
わたくし、こういう人、好きです。
ご本人曰くこのカバーはまだ発展途上とのことで、確かにちょっとぎこちない感じはあるけど、我聞さんの声、優しくて透明感があっていいね。最後の笑顔もよい (我聞さんはリクエストで「青春の影」カバー「香水」カバーも歌われていて、とても素敵なので皆さん是非聴いてください。「香水」はどうしてこの曲がそんなに人気があるのか全くわからないわたくしですが、我聞さんのカバーはよい。しかしかっこいいお父さんだなあ。)

こちら↓は、ドラマの主題歌でもあった本家カーペンターズの「I Need To Be In Love」。

Carpenters - I Need To Be In Love


この曲は生前カレンが最も気に入っていた曲だそうです。
切ない曲ですよね。前向きにもとれる歌詞ではあるけれど、カレンの人生を思うと、繰り返される「I know(わかっているの)」がすごく切なく響く。
imperfectなのが人間の世界。
そういう世界に生れ落ちてしまったimperfectな生き物である私達は、この場所で精一杯に生きていく以外にない。愛を求めながら・・・。

そしてコロナ禍の中、ドラマの主役だったいしだ壱成さんがyoutubeにこんな動画↓をあげてくださいました。
「再現か…」と正直、見る前は不安半分だったのですが(私にとって特別すぎるドラマなので)、、、

【神回】未成年のあの名場面を再現しました【いしだ壱成】


壱成さ~ん
懐かしいというより、今の壱成さんが今のご自分の言葉として言っているように聞こえて、沁みる。。。。。
ご自身も朗読後に「思い出すし、なんかこう、回る感じがします」と仰っているけれど、本当にそんな感じがする。
人も人生も、まわっているんだなあ。
そして生きていれば、25年が過ぎて、こういう動画に巡り合えることもあるのだなあ。
壱成さん、これまで色々なことがあったけど、いま、とてもいい表情をされていますね。

ところで最終回のあの屋上シーン、裏話で仰っていましたが、なんと本番ではなくカメラテスト(本番前のカメラの位置や音声を確認するためのテスト)でOKが出たのだそうです。なので脚本の1ページ分くらいがとんでいるんですって。ていうかカメラテストなのにあんな演技をしていた壱成さんに吃驚です。俳優さんってすごい・・・。

ドラマ 未成年 ただそいつらはそうなりたかっただけ


ドラマの別の1シーン。
これも大好きなシーンです。
このドラマの壱成さん、ほんと素晴らしいよね。天性の演技というか、無双だと思う。
野島脚本もこの頃は無双だったし、改めて奇跡のようなドラマだったなあ。
でも”今の壱成さん”の演技も、いつか見られたらいいな。
頑張っては禁句なのかもしれないけど、頑張ってほしいなと心から思ってしまう。応援しています。

私の生活している沿線では毎日人身事故が起きています。
私自身がややもすれば死に惹かれてしまう人間なので強いことは何も言えないけれど、みんな、ずっとなんて考えなくていいから、とりあえず目の前の一日を踏ん張って生きよう。嫌なことは全部投げ出していいから、どんなこともなるようになるから心配しすぎないで、とりあえず、今日は生きていよう。どんなに自分を嫌いになりそうでも、一緒に頑張ろう。

【未成年】当時の撮影秘話【いしだ壱成】
【共演者との想い出】未成年より香取慎吾くん【いしだ壱成】
【歌姫あゆ】共演者との思い出【いしだ壱成】
【初コラボ】中年になった今!ジュンペイと未成年を語り尽くす【北原雅樹】 
【北原雅樹】未成年の裏話を喋り尽くす【いしだ壱成】

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